2006年02月26日

イデア界と現象界の関係:不連続的差異と特異性

ヌース理論を提唱されている半田氏からのコメントがヒントとなって、不連続的差異論におけるイデア界と現象界との関係を明確・明瞭化する必要があると感じた。
 不連続的差異論は、ドゥルーズの差異理論におけるニーチェ(とキルケゴール)の特異性・単独性singularityの差異概念をベースにしているイデア論である。そして、私の直観では、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界に存するのである。これをどのように説明できるのだろうか。これは、デカルト哲学によって説明できるのではないだろうか。周知のコギト・エルゴ・スムであるが、これは、ドゥルーズが説くようにコギトとスムの間に亀裂・分裂、即ち差異を見るべきだろう。そして、この差異ないし矛盾・分裂におけるスム(存在)が個の特異性・単独性の基盤であると思われるのである。(ところで、近代主義の「狂気」とは、現象界の自我、即ち近代的自我におけるスム=特異性・単独性が捩れにあるのではないだろうか。)つまり、デカルト哲学のコギト/スムの差異が、現象界の個ないし自我において、特異性・単独性を内在させていると考えることができるのである。だから、イデア界に特異性・単独性が存するだけでなく、現象界にも存するという命題が証明されるのである。(デカルト哲学の問題は先にも触れたが、メディア界が排斥されたことである。このために、デカルトは、近代的合理主義の始祖ともなったのである。そして、排斥されたメディア界は、スピノザが掬い上げて、いわゆる心身並行論を打ち立てて、ポストモダンやポスト構造主義の先駆となったと考えられるのである。)
 さらに、この特異性(・単独性)=スムの問題について検討したい。先に私は、特異性は、不連続的差異そのものというよりは、不連続的差異の共立態総体ではないかと述べた。図式記号で言えば、dd1、dd2、dd3、・・・ddn(ddとはdiscrete or discontinuous differenceの略で、不連続的差異を意味する)というような個々の不連続的差異ではなくて、dd1/dd2/dd3/・・・/ddnではないかということである。つまり、イデア界総体である。なぜ、個々の不連続的差異ではなくて、イデア界総体が特異性となるのかと言うと、イデア/メディア境界(メディア界のイデア面ないしイデア界のメディア面)においては、不連続的差異は、個々としてというよりは、総体として存していると考えられるからである。
 ということで、特異性とはイデア界のことであるということとなった。だから、イデア界が現象界の個・自我において、内在し、いわば、半田氏が指摘するように顕在化しているのである。問題は、この内在しているイデア界が、個・自我において、どのように把握されるのかということである。イデア界は換言すれば、コスモスである。そして、特異性とはミクロコスモスである。だから、特異性・存在(スム)において、ミクロコスモスとマクロコスモスとの連結が生じているのである。この点では、神秘家は正しい。宮沢賢治は正しい。そして、D.H.ロレンスのコスモス論も正しい(キリスト教の崩壊である)。しかしながら、イデア界はデュナミス、「バッテリー」であるから、当然、エネルゲイア・メディア・エネルギー化するのである。イデア・メディア的エネルギー(簡単に、イデア・エネルギーと呼ぼう)となるのである(思うに、東方キリスト教で、神のエネルゲイアと呼ぶものがこれに当たるのではないだろうか)。このイデア・エネルギーが問題なのである。イデア界がデュナミス・特異性として存するときは、現象界の自我・個は、差異共立主義である。即ち、他者を特異性として見て、差異共立志向をもつのである。つまり、他者をも自己と同等のイデア界的存在として見るのである。(問題は、それは、理念・理論的態度であるが、実際は、他者は、多種多様であり、愚人、悪人、狂人でいっぱいである。だから、それに対しては、戦闘的ないし矯正的になるのが正しいのである。差異共立性とは、イデア界的特異性的差異共立性と見るのが正しいだろう。)
 しかし、イデア界がデュナミスではなくて、エネルゲイア・エネルギーとなったときは、そのようにはならないのである。つまり、差異共立主義から、自己絶対主義、自己尊大・傲慢化、権力・暴力化になるのである。思うに、アナキストのシュティルナーの唯一者は、そのようなもののように思える。そう、政治的にはファシズム化であろう。(D.H.ロレンスも、一時、そのように傾いた時期があったし、ニーチェも晩年において、「力への意志」でそのようになったと思うのである。)つまり、《力》の問題がここにはあるのである。
 では、何故、イデア界=特異性は、メディア・エネルギー化すると、権力化するのか。それは、必然なのか。つまり、本来、差異共立性であるイデア界はメディア界化すると、反動化して、自己権力化するという事態は、必然なのかという問題である。思うに、実際、メディア界においては、イデア界=特異性とメディア・エネルギーの反動性との両義性が生起していると思われるのである。つまり、両者のゆらぎが、メディア界に発生していると思うのである。即ち、dd1/dd2/・・・/dd3とdd1〜dd2〜・・・〜ddとの揺らぎである。そして、後者は、現象界のdd1−dd2−・・・ddnの同一性と連続するのである。
 ここで、2回の1/4回転の捩れを考慮すべきである。イデア界において、1/4回転から、メディア界が発生するが、それは、境界においては、イデア界とメディア界が併存している。しかし、2回目の1/4回転において、メディア界から現象界が発生するとき、その捩れにおいて、イデア界=特異性がまったく暗在・潜在・排斥・隠蔽化されると言えるだろう。つまり、現象界化において、イデア界は完全に隠蔽されるのである。現象界化において、直前のメディア界が隠蔽化されるだけでなくて、本源のイデア界が完全に隠蔽される(忘却される)事態が生起するのである。二重の隠蔽構造があるのである。しかし、1/4回転は、固定したものではなくて、さらなる回転、回転の持続が考えられるから、隠蔽は絶対的なものではありえないのである。つまり、現象界においても、なんらかの揺らぎが発生するのである。それは、メディア界と現象界との境界の揺らぎであろうし、さらには、イデア界とメディア界との境界の揺らぎであろう。二重の揺らぎの発生が考えられるのである。(芸術家や宗教家、哲学者や数学者は、この揺らぎが出発点であろうし、庶民の習俗・祭礼もここを無意識の基盤としているだろう。これは、コスモスの分節と関係しているのだろう。参考:二十四節気)
 以上の考察から、本論に戻ると、メディア・エネルギー化とは、必然的に反動化するのかという問いであるが、それへの答えは、否である。メディア界において、イデア界=特異性とメディア界=エネルギーとの極性が発生しているからである。そして、イデア界=特異性が正当に作動するならば、エネルギーは、反動化せずに、積極・能動的なものとなる。スピノザが述べた能動的観念による身体の活動的エネルギーとは、この積極・能動的エネルギーと関係しよう。ここで、図式的に整理しよう。

1.イデア界=特異性⇔2.メディア界=エネルギー⇔3.現象界=自我同一性(利己主義)

メディア界という中間態において、イデア界への志向と現象界への志向の極性・両義性があり、後者が主導的になると、メディア・エネルギーが反動化するのであり、前者が主導的になると、積極・能動化すると考えられるのである。ここで、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論と「アイロニカルな没入」論を想起するのは、適切であろう。つまり、ポストモダンがプレモダンに、リバタリアニズムが原理主義にアイロニカルに転化する事態のことであるが、それは、このメディア・エネルギーの反動化として理解することができるだろう。即ち、ポストモダンは、メディア界、《メディア》のエネルギーの発動・開放であるが、それが、現象界的志向が主導的だと反動化するということである。つまり、日本の場合は、戦後の似非アメリカ的近代主義によって、唯物主義/拝金主義という現象界的志向が主導的であるから、《メディア》の開放であるポストモダンは反動化するのである。小泉「改革」がそうである。そして、ライブドアもそうである。(ホリエモンの場合は、事情が少し複雑である。私見では、彼は、特異性をもっていたのである。しかし、それが、やはり、現象界的主導性のために、大反動化したのである。特異性があるゆえに、彼の反動は、超反動性と言えるように思うのである。一種精神分裂病的状態に彼は陥ったと思うのである。彼の言動から判断するとそのように思えるのである。つまり、特異性は、イデア界であるから、理想性をもつ。それが、ホリエモンの反逆的理想主義となったといえよう。即ち、老害の日本社会主義への反逆として、みんなが情報を共有してつながる社会への理想主義をもった。しかし、彼は、バブル以降の現象界的志向・拝金主義に染まっていたのである。だから、《メディア》の開放、メディア・エネルギーが大反動化・超反動化して、利己主義的に底無しに暗黒化したのだと思うのである。)
 以上の考察から、《力》の問題が明晰になったであろう。簡単・簡潔に言えば、《メディア》がイデア的志向性をもつのか、現象的志向性をもつのかが、《力》の様相を決定するということである。 前者ならば差異共立的志向性をもち、後者ならば反動・権力的利己主義的志向性をもつということである。これまで、何度も述べてきたように、現代資本主義、ポストモダン資本主義、差異資本主義は、イデア界的志向性をもつべきなのである。つまり、差異共立共創主義化すべきなのである。これで、ポスト資本主義となるのではないだろうか。(この点について、別に論考したい。)この点で一言付加すれば、資本主義は、利益追求を一つの本質意義であるから、現象界性を否定することは当然できない。問題は、ポストモダン資本主義は、イデア界的志向性を明確化しつつ、現象界的志向性を保持しなくてはならないということである。
 さて、最後に、不連続的差異と特異性の問題を考察したい。結局、両者はつながりがあるものの別の概念であるということになったであろう。多数・無数の不連続的差異の共立態としてのイデア界が特異性となるのである。もっとも、イデア界即特異性ではなく、イデア/メディア境界におけるイデア界が特異性であるということである。そして、この反動化は、きわめて危険であり、いわば、「超越神」化、即ち、専制・独裁化するだろう。全体主義やファシズムの危険があるのである。
 さて、これまで、不連続的差異としての《個》ということを言ってきたが、それは、ここでの検討から、不正確であったと言えるのではないだろうか。この問題は以前に解決したつもりではあったので、もう一度考察しよう。特異性とは、不連続的差異の共立態であるイデア界であることとなった。では、不連続的差異の共立態と不連続的差異とはどう関係しているのかということが問題となる。《個》において、イデア/メディア境界において、特異性が生起している。それは、積極・能動的な様相において、多数・無数の不連続的差異の共立態の発出である。すると、《個》において、その共立態の志向性ないしデュナミス・可能態が発出していると言えるだろう。つまり、共立態のイデア・エネルギーがそこに発出・発動していると見ることができる。このイデア・エネルギーは、不連続的差異の共立態をヴィジョンとしてもつ静かな精緻微細な知的志向性をもつイデア・エネルギーである。正に、イデア界のエネルギーである。だから、ここには、不連続的差異性の直観があると言っていいだろう。この直観が、現象界において、他者に適用されると言えるだろう。つまり、イデア界を現象界に重ねるのである。イデア界の不連続的差異という理念点を、現象界へ重ねるということである。これで、イデア界と現象界が一つの平面となるのである。しかし、この適用は合理論的なのだろうか。つまり、イデア界の不連続的差異を現象界の個に適用する根拠は何かということである。視点を換えて、個とは何かと問おう。個体とは何か。根本から考えると、イデア界において、1/4回転で、ゼロ化が発生する。このとき発生するメディア界は、ゼロ化の連結を帯び、不連続的差異が共鳴して連結するのである。つまり、不連続的差異は連続的差異へと変換・変形するのである。このとき、入れ子的な構造が生起すると考えられるのである。この入れ子構造は、フラクタル構造で呼べるだろう。つまり、メディア界において、不連続的差異がゼロ化して、入れ子・フラクタル構造を形成すると考えられるのである。この構造が、いわば、メディア構造が個体の原型であろう。そして、これが、さらに1/4回転して、現象的個体として発現・現出すると言えよう。だから、《個》とは、個体とは、本来、イデア界を内在しているのである。イデア界のゼロ化的変形としての《個》であると言えるのである。そう考えると、ここで提起した問題、即ち、不連続的差異を現象界の個体に適用する合理論的根拠は何であるのかという問題は、悪い問いではないかと思われてくるのである。そうではなくて、不連続的差異の共立態としてのイデア・エネルギーが特異性としてあり、それは、他者をも基本的に特異性として見るということではないか。つまり、特異性として、《個》が存するのであるから、当然、他者をも特異性の《個》として見るということではないか。すると、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界にも存するという私の直観は、不連続的差異の現象界への適用に拠るのではなくて、内在する特異性自体による特異性の共立性への志向性に拠ると言わなくてはならないだろう。特異性の民主主義的志向なのである。特異性の共民志向である。結局、不連続的差異の共立態であるイデア界のイデア・エネルギーである特異性が、他者を特異性として志向するという出来事が現象界に発生するということである。簡単に言えば、イデア界の可能態として、個体・他者を見るという志向性が根源的合理論的志向があるということである。つまり、他者とは、潜在したイデア界なのである。
 長くなったが、もう一点、不連続的差異と特異性について述べると、個々の不連続的差異というイデアは、それ自体で、特異性と言えるだろう。だから、不連続的差異の共立態としての特異性とは区別されなくてはならない。不連続的差異としての特異性を、とりあえず、ミクロ特異性と呼び、不連続的差異の共立態としての特異性を、マクロ特異性と呼んでおこう。即ち、ミクロ特異性の共立態としてマクロ特異性があり、これが、《個》となるのである。そして、伝統的には、《個》とは、ミクロコスモスである。ならば、《個》=ミクロコスモスとは、ミクロ特異性の共立態であるマクロ特異性を超越論的に内在していることになる。そして、イデア界の発現である、地球を含めた現象界である大宇宙マクロコスモスとは、《個》=ミクロコスモスに内在するマクロ特異性であるイデア界において、《個》=ミクロコスモスと一致すると言えるだろう。即ち、《個》=ミクロコスモスと大宇宙マクロコスモスとは、イデア界という共通の根源的基盤において、一致するということである。即ち、イデア界という根源界において、神秘学のミクロコスモス=マクロコスモスという概念は、正しいと言えるのである。
 そこからの問題は、マクロコスモスとしての現象界を、イデア界の倒錯した現象界である人間界に、イデア界的共立性をもたらすこと、現象・人間界をイデア界的に変容することではないだろうか。
 思うに、何故、イデア界が初めからイデア界的な現象界を創造しなかったかと言えば、それは、イデア界のもつ「歴史」性によるのだろう。それを進化と呼んでいいのだろうか。進展ないし高転ではないだろうか。イデア界の回転が螺旋的回帰・永遠回帰運動を生むのだろう。螺旋的進展化が、螺旋的イデア界史が、あるのではないだろうか。そう、《個》ミクロコスモスの、イデア的マクロコスモス化が、人間現象の目的なのだろう。《個》ミクロコスモスとして、共立して、マクロコスモスをイデア界的な共立態へと変容させることが、人間・人類のエンテレイケイア(終局態)なのだろう。
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2006年02月21日

神道論:太陽乙女神アマテラスと天皇の関係:不連続的差異論の視点から

イデア界=太陽乙女神アマテラスとしよう。そして、それが、1/4回転して、イザナミ/イザナギの雌雄的ペアの神々が生まれる。イシス/オシリスの神話と同じである。だから、天皇はイザナギであり、オシリスに当たる。イシス/オシリスの神話から見ると、イシスは殺害されたオシリスのばらばらの断片を集めて、復活させるのである。死から生への原理、復活・不死鳥の原理である。このイシスは、実は、イデア界に当たるのではないだろうか。生成消滅がメディア界の原理であって、復活の原理ではない。イシス/オシリス神話というものは、やはり、イデア界とメディア界を混同しているように思う。だから、先に述べたように、ハトホルをイデア界の女神とすべきように思うのである。だから、ハトホル/オシリスの神話である。
 では、極性のイシス/オシリス神話とは、何を意味するのか。また、このメディア界の神話と天皇はどう関係するのか。今、ふと思ったのであるが、太陽乙女神アマテラスとイザナミ/イザナギの双対神話とは、異質なものではないか、あるいは、別の時代や社会のものではないかとといういことである。沖縄の母権的な宗教が、太陽乙女神アマテラス宗教を伝えているのではないだろうか。ヤポネシア宗教である(ここで、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を想起する。)。しかし、男性神が出てくる、イザナミ/イザナギは別の宗教体系ではないのか。ヒミコ(日巫女、日見娘、日巳娘)は、太陽乙女神アマテラスに仕える巫女ではないのか。ならば、アマテラスの巫女としてのヒミコ(日巫女)である。これは、女性・母性・乙女(処女)の宗教的権威を想定させるのである。ここには、男性神は存しないと思う。純粋母権・乙女権的宗教である。
 そうならば、天皇とは何かということになる。おそらく、本来、アマテラスの《力》が付着するのは、巫女、女性祭司である。だから、前天皇とは女性であるはずである。では、どうして、巫女に相当するものが、女性から天皇に変わったのであろうか。日巫女から日御子(ひのみこ)への変化の問題である。これは複雑微妙な問題である。やはり、問題はイザナミ/イザナギ(イシス/オシリス)神話の意味にあると思う。これが、仲介となり、一種父権的な天皇制が生まれたと思うのである。【これは、また、『源氏物語』にも関係する問題である(光源氏が日御子に相当するだろう)。】(p.s. 後述したが、ここでの私の見解は間違っているので訂正する。父権的天皇制は、平安時代には生じていない。父権的天皇制の発想は、江戸時代の国学にあると考えられる。)
 今想像しているのは、ジョセフ・キャンベルの神話学である。そこでは、神話を4種類に分類している。

1)純粋母権・乙女神神話
2)イシス/オシリス型雌雄神話(夫に孕まされた女神から世界が生まれる)
3)父権神話(男神によって、女神の身体から世界が創られる)
4)純粋父権神話(男神単独で世界を創造する)

日本神話は、1と2の結合したものである。ただ、スサノオの八岐大蛇殺戮に3の要素がいくぶん、うかがえるようだが。問題は、2の神話の意味である。狩猟採集文化は、1であろう。農耕文化であるが、それが2ではないだろうか。思うに、前古代日本は、《縄文》文化(東アジア照葉樹林文化と言うべきか)において、1の宗教・神話をもっていただろうし、また、農耕文化性もあるから、2の要素もあったのであろう。すると、1と2の混淆した文化が、前古代日本文化ではなかったか。そして、そこへ、父権的文化が入ってくる。これが、天皇宗教文化をもたらしたのであろう。
 問題は、1と2は、母権神話であるが、日本国が、父権的な国になったことである。もっとも、天皇制は父権制なのであるのかという問題がある。天皇制は母権的だと思うのである。日本国が父権的になったのは、明治においてではないのか。封建制は確かに男女ヒエラルキーがあると思うが、しかし、そこには、母権的宗教が生きていたのではないか。排仏毀釈・神仏分離令は、この母権的宗教を解体して、父権的国家形成の基礎・基盤となったのではないか。すると、やはり、国学の問題がここにある。平田篤胤は、キリスト教の影響を受けて、神道を一神教化したと言うことである。思うに、これによって、神道が父権化したのではないだろうか。そして、これがイデオロギーとなり、明治維新があるのではないか。本居宣長が胡散臭い。大和心と漢心と分離するのがイデオロギーである。もともと、母権的宗教を核として、大陸の文化を吸収したのであるから、純粋な漢心はないはずである。これは、本居宣長のフィクションであると思う。この二項対立的発想は近代的であり、父権的である。やはり、国学に父権化の起源の一つがあるのではないだろうか。国学自体が「漢心」であろう。これは、母権的宗教の衰退があるのであろう。つまり、イデア/メディア的精神の衰退であり、メディア/現象的精神(父権的精神)の強化を意味するのだろう。これが、国学の意味ではないだろうか。この母権的精神の衰退と父権的精神の勃興が、江戸時代に生起して、明治維新の原動力となったのであろう。そして、明治天皇制は、父権制である。根源の母権的精神の衰退があるのである。ここで、折口が日本人は宗教性を久しく失っていると述べていたことを想起するのである。
 思うに、明治維新前後は、古い母権的精神と新しい父権的精神の混淆状態であったように思われるのである。その「カオスモス」、メディア的エネルギーが、明治維新のエネルギーとなったのであろう。そして、極端化して、太平洋戦争となり、敗戦し、米国文明化した。しかし、問題は、古い母権的エネルギーを喪失して、父権的精神を残していることである。これが、現代、靖国問題となっているのだろう。結局、飛躍するが、日本の自立・復活は、母権的エネルギーを再生することである。これは、神道復活であろう。イデア論としての神道・多神教の復活であろう。そう、平明に言えば、日本の女性が、太陽乙女神アマテラスの根源的力を取り戻すことが重要である。新アマテラス、新ヒミコとしての女性の復活である。それは、また、新天皇制ということだろう。新太陽乙女神アマテラス/新天皇をもつ新天皇制である。
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2006年02月11日

西洋文明の終焉と新地球・ガイア文明の創造へ向けて:不連続的差異論という文理統一理論の創造

藤原正彦氏は、『国家の品格』(新潮選書)で、論理と情緒を対立させているが、私見では、知魂ないし知心魂ないし知心魂身体があり、心を中心に、知性の極と魂性の極がある。日常生活的には、知性ないし知心性を基軸にしている。つまり、知的合理性である。しかしながら、人間存在の基層・基盤・根源としては、魂性ないし心魂性があるのである。ビジネスは、知性ないし知心性をベースにするだろう。しかし、個としては、魂性ないし心魂性をベースにしないといけない。さらに、社会即ち、民主主義や「自由主義」(私としては、両者は、差異主義で括れる)の基盤は、心魂性の理念(イデア)化にあると思う。つまり、《メディア》の《イデア》化である。 
 とまれ、最初の問題に戻ると、藤原氏の言う「論理」とは、知性・知心性であり、「情緒」とは、魂性・心魂性、さらには、それの理念化・イデア化である。そして、「心」の両極的相補性として、それらを捉えることができるだろう。つまり、《メディア》としての「心」の両極相補性として包摂できるだろう。
 ところで、より根本的に考えてみると、「ダークエネルギー」である《メディア》が「心」の根源である。ここにおいては、《光》と《闇》が相補している。知性と魂性の相補性とは、本来、ここから発現しているだろう。しかし、知魂性と身体との関係はどうなるのだろうか。この問題は複雑である。基本から考えよう。E=mc^2(Eはエネルギー、mは質量、cは光速である)。《光》は、+と−の解をもつ。いわば、《メディア》解をもつ。しかし、現象化とは、+の発現である。+の《光》の発現としての現象界である。そして、+である現象界は、+−の《メディア》を1/4回転した領域である超越論界としてのメディア界に排斥・隠蔽しているのである。だから、知性は、+《光》であり、魂性は−《光》と言えるだろう。では、《質量》である身体はどうなのだろうか。これは+の解しかない。これをどう考えるべきか。作業仮説として、《質量》とは、ゼロ度連結・連続化における不連続的差異のいわば《濃度》ないし《密度》ではないか。ならば、エネルギーとは、差異の《濃度》(《密度》)とゼロ度化した《境界》の《力》(デュナミス)の二乗の積である。即ち、

エネルギー=差異濃度(密度)・ゼロ度境界力^2

である。
 ここで、先の心身の問題に返ると、《心》においては、相補性があるが、《身体》においては、それはないことになる。しかしながら、心身の相補性があると当然考えられるから、問題は単純ではない。簡単に言うと、波動と粒子の相補性とは、心と身体の相補性と換言できるのである。問題は、知性と魂性との相補性の意味である。ここでも直観で言おう。魂性とは実は、心身性である。心性と身体性との結節領域である。ヨガのチャクラに当たる領域である。だから、知性と魂性の相補性という考えは、不正確である。知性と身体との相補性があると言うべきである。そして、魂性は相補性の領域であるということである。また、《心》であるが、それは、魂性と知性との中間領域であるということになるだろう。

《身体》/《魂性》/【⇔《心》⇔/】《知性》

となろう。ここで、スピノザの心身平行論を考えると、その「心」は単に《知性》だけではなくて、《魂性》と《知性》との中間態である《心》であると考えられよう。
 では、+−の《光》とは何か。また、《光》とは何かである。単純に考えると、+《光》は知性である。では、−《光》とは何か。もはや、《魂》ではない。当然、《身体》でもない。それは、反世界の知性ではないか。そう、思うに、ダークマターの世界を形成しているのはないか。反現象界の知性である。ダークマター現象界の知性である。D.H.ロレンスが言った「暗い神」dark Godとは、この−《光》に相当するように思う。あるいは、《メディア》であるダークエネルギーであろう。
 ところで、そう考えると、心身相補性は2つの意味をもつのではないだろうか。+《光》の知性だけではなく、−《光》の知性があるから、二重構成となるだろう。つまり、2つの《魂》が存在するということだろう。つまり、2つの《知性》があり、2つの《魂》があるということだろう。この二重構成の知性・魂性をもつ《メディア》があると言えよう。ここで、私は《夢》の世界を想起するのである。あるいは、ファンタジーや想像力である。あるいは、ニーチェのディオニュソスのことである。そう、ルイス・キャロルの世界を想起するのがいいだろう。『鏡の国』の世界と反世界の二重構造を考えてみるといいだろう。あるいは、《ナンセンス》である。裏返しの世界、正反対・逆の世界がある。反転の世界がある。これと−《光》の世界が関係すると直感されるのである。−《光》とは、x軸で言えば、原点より左側の領域であるから、ルイス・キャロルの反世界は正に、それに相当すると考えていいだろう。メディア界であるy軸を鏡とすれば、y軸=鏡を通過して、−《光》・反世界に達することとなる。だから、−《光》は超越論的次元の彼岸にあり、+《光》の現象界からは完全に不可視、無、非存在である。おそらく、これがダークマターと関係するだろう。つまり、−《光》の反現象界がダークマターの世界であると考えられよう。
 ならば、問題は、+《光》・現象界と−《光》・反現象界は、対称的であるのに、どうして、現代宇宙論の分析にあるように、圧倒的にダークマターの方が通常の物質よりも多量なのかという問題がある。直感では、それは、《メディア》を介しているからだと思う。つまり、ダークエネルギーと考えられる《メディア》を介して、ダークマターを計算しているからではないだろうか。+《光》・現象界は、《メディア》界からの1/4回転で発生するのである。しかしながら、《メディア》界全体が、現象界として顕現・発現・顕在・明在化しているのではない。未だ、未発の《メディア》が存しているのである。ここから見ると、現象界に対して、《メディア》界は、エネルギーとしては、一種デュナミス(「バッテリー」)のようなものを内蔵・内包しているのである。現象界を創造する以上のエネルギーが蓄えられているのである。だから、当然、−《光》も現象界の+《光》よりも多大・過大に存するのであり、−《光》・反現象界であるダークマターは、現象界の《物質》よりもはるかに多量に存すると考えられるのである。しかしながら、ダークマターの考えは、仮定に過ぎないだろう。虚像である。ダークエネルギーである《メディア》の《レンズ》を介して、ダークマターという虚像を作っているに過ぎないだろう。ダークマターはシミュラクルである。それは、幻像である。ただ、ダークエネルギーである《メディア》が超越論的に存在していると考えなくてはならないだろう。
 さて、更に考えると、現象界を顕現させるよりはるかに過剰なエネルギー(=ダークエネルギー:作業仮説)をもつ《メディア》界とは何だろうか。私は、そこに、デュナミスという言葉を使用した。そう、これは、《イデア》界である。つまり、《メディア》界にある《イデア》界とは、《イデア》/《メディア》境界を意味すると考えられよう。未発のエネルギーとは、この境界エネルギーと見ていいだろう。思うに、結局、まだ、創造は終了していないのである。創造過程にあるのである。というか、永遠にイデア界の回転があると考えられるから、創造の永劫回帰があるということだろう。未発のエネルギーが永劫に発生するのである。そう、螺旋的に回帰する宇宙創造があるのだろう。ならば、ビッグバンとは一回ではないだろう。複数回あるはずである。ここで、マヤやアステカの神話やインドの神話が意味をもつのである。複数の世界・宇宙創造神話である。
 とまれ、より根本的に言うならば、どうして、イデア界が存在するのかということになるだろう。数学的構造をもつ理念界であるイデア界がどうして存在するのかである。なぜ、完全無ではなくて、差異が存するのか。「初めにロゴスありき、ロゴスは神とともにありき。そして、ロゴスは神であった。」プラトンは、善のイデアと言った。《イデア》界は善のイデアである。そう、思うに、《イデア》界は超光の《超電導》の元界である。《志向性》、《間主観性》の元界である。不連続的差異が無限速度の《志向性》=《間主観性》をもって共立・調和する大元界・大根源界と考えられる。《超光》の世界、《阿弥陀如来》=無量光の世界である。超叡智の世界である。ここでは、知即存在である。知即存在の《理念》の世界である。そう、初めに、叡智ありき、ソフィアありき。それは、数学的叡智である。数智である。マテーシス・ソフィアである。華厳宇宙に近い。そう、円周率・πの世界だろう。πソフィア、π叡智である。原時空間の数学的叡智が、初めにありきである。思惟/延長、時間/空間を包摂した数学的理念叡智であるイデア・ソフィアが初めにあるのだろう。この元叡智が、本来の《神》である。グノーシス主義で説く至高神である。そして、この至高神を、ユダヤ/キリスト教の『神』は、乗っ取ったのである。ユダヤ/キリスト教の超越神とは、本当は邪神・魔神である。それが、本当の《神》・至高神の王座・王位を簒奪したのである。グノーシス神話はその点では正確であると言えよう。創造神・デミウルゴス=ヤハウェとは、邪悪な神、悪魔なのである。ゾロアスター教で言えば、悪魔のアフリマンがユダヤ/キリスト教の『神』である。ユダヤ/キリスト教こそ、悪魔崇拝である。邪教である。【ここで、イスラム教について簡単に言及すると、それは、基本的には、イデア界の《神》を把握しているのである。ユダヤ/キリスト教とは、異質である。ヤハウェ崇拝ではない。ヤハウェとアッラーは別の神である。ヤハウェは悪魔である。アッラーは、本来、叡智神である。強く言えば、不連続的差異論の《神》である。ただ、人格神化しているだけである。】
 最後に、何故、数学的叡智が根源にあるのかという問に答えるならば、存在とは智であるからである。無知は存在しないのである。無知は無力、無能、無である。つまり、叡知即存在なのである。無知即不存在である。だから、何故、数学的叡知が根源にあるのかという問は悪い問なのである。初めに知即存在である数学的叡智があるということである。これが、思惟・知性を生み、また延長・存在を生むのである。存在より、数学的叡智の方が先んじているのである。叡智の後に、存在や知が発生するのである。「初めにロゴスありき、ロゴスは神とともにありき。そしてロゴスは神であった。」ロゴスは数学的叡智ということである。あるいは、数学・理念的叡智ということである。ピュタゴラス/プラトンは正鵠を射ていたのである。ユダヤ/キリスト教によって、世界は、退化したのである。
 一つ付け加えると、数学的イデア論(ピュタゴラス/プラトン哲学)の問題点は、《イデア》界と《メディア》界の分離が不明確であったことである。これによって、イデア論の皮相な理解が生まれたのである。不連続的差異論が、両者を明確に分化したのであり、これによってピュタゴラス/プラトン哲学は、完成したのである。これは、ポスト西洋文明、新ガイア文明の誕生を意味するだろう。ユダヤ/キリスト教は乗り越えられたのである。

参照: 2006年2月11日発行
『from 911/USAレポート』第237回
    「風刺画事件と静かなアメリカ」

http://ryumurakami.jmm.co.jp/recent.html
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2006年02月09日

不連続的差異論の《メディア》について

ODA ウォッチャーズ氏の《メディア》に関する理論化によって、不連続的差異論の新たな地平が開けたと考えられる。即ち、《メディア》が、文理統一の領域となったのである。例えば、文科系の「心」を、《メディア》と考えればいいし、同時に、理科系の量子も《メディア》と考えればいいのである。つまり、《メディア》が一方では、「心」になり、他方、量子となるのである。「物質」とは《メディア》の現象なのである。また、ここで、スピノザの心身平行論が、《メディア》論であることが判明するのである。思惟・「心」も《メディア》であり、延長・「身体」も《メディア》であり、両者、《メディア》を介して、平行していると言える。
 ここで、《メディア》の語源を見るのも意義深いだろう。mediumとは、霊媒、即ち、「霊」を媒介する存在である。結局、「霊」も《メディア》であると言えるだろう。なんらかの《メディア》が、霊媒に、伝導していると考えればいいのだろう。そう、連続的差異である多種多様な《メディア》が、シャーマニズムの正体ではないだろうか。アニミズムもこれで説明がつくだろう。多神教もこれで説明がつくだろう。
 因みに、一神教は、《メディア》が、同一性化するときに発生するものだろう。思うに、《メディア》の極性において、+極が強化された時が、一神教ではないだろうか。つまり、一神教とは、現象界の形成と関係しているのである。メディア界が1/4回転で捩れて、現象化するのである。この現象化において、メディア界が超越神となるのではないだろうか。旧約聖書において、ヤハウェが、偶像崇拝や自然宗教を禁ずるのは、この1/4回転による捩れを考えれば、当然ではないだろうか。何故ならば、それらは、《メディア》であるからである。現象化が《メディア》ないしメディア界を排斥・隠蔽するのであることと、超越神が、偶像崇拝や自然崇拝を排斥・隠蔽するのは同じことであると考えられる。そして、有名な「光あれ」は、正に、メディア界の1/4回転による《メディア》である「光」の+化であろう。このプラスの「光」・+「光」は、「背後」にマイナスの「光」・−「光」を排斥・隠蔽しているのである。「背後」とは、内在的超越性・超越論性の領域であるメディア界である。ならば、超越神とは、暗い神ではないだろうか。否、違うだろう。それは、「光あれ」と言語行為・発話した超越神は、やはり、「光」の神である。《メディア》の+の極性の「神」である。そして、その神は背後にいわば暗い神を排斥・隠蔽しているのである。D.H.ロレンスが説いた暗い神dark Godが、これであろう。つまり、−《メディア》、−「光」の「神」である。メディア界において、光の神と闇の神が相補性を成しているのであるが、前者が後者を排斥・隠蔽という二項対立の二元論が、一神教に生じているのである。これは、正に、揺らぎのない神である。超越的善悪二元論である。これは、きわめて危険な神である。殺戮的神である。暴力・戦争・権力の神である。父権制の神である。結局、現象化・一神教が、近代主義へと展開したのである。主客分離二元論とは、現象化・一神教化の帰結である。だから、ポスト近代主義とは、ポスト一神教、ポスト西洋文明となるのである。
 ポスト近代主義とは、《メディア》を解放したのである。当然、「神」・超越神の死である。問題は、《メディア》の解放の意味である。+と−、存在と非存在の両極的「存在」としての《メディア》があばかれたのである。いわゆる、ポスト構造主義、即ち、デリダの脱構築主義やドゥルーズ&ガタリのリゾーム論は、《メディア》論なのである。これらは何を意味するのか。これは、物理学者ボームの述べた暗在系や内蔵秩序論や、マイケル・ポランニーの暗黙知の次元に関係すると考えられる。ODA ウォッチャーズ氏が明らかにしたように、現象界のx軸と直交するy軸としてのメディア界の「存在」の発見である。そして、これは、現代宇宙論のダークエネルギーの領域と考えられるのである。また、ダークマターとは、マイナスの《メディア》、負の《メディア》として、捉えられるのかもしれないが、しかしながら、量の過大さから見ると、ダークエネルギー総体においてダークマターを見た方がいいのかもしれない。
 まとめると、《メディア》の発見とは、文理統一論的な内在的超越性、超越論性の暗在領域の発見であるということである。そして、ポスト一神教であり、新多神教を意味するだろう。新母権制・新ガイア・コスモスの時代を意味するだろう。
 とまれ、ここで、《イデア》のことを考えなくては、不十分である。《メディア》の発見とは、逆に、《メディア》による権力が発生したということである。《メディア》は《力》である。《エネルギー》である。《メディア》は、「心」である。人の心を乗っ取るのである。あるいは、《メディア》は反動化すると言ってもいい。《メディア》は危険である。極めて危険である。思うに、指輪物語の「指輪」は、《メディア》を指しているのではないだろうか。あるいは、聖杯伝説の「聖杯」も《メディア》を指しているのではないだろうか。あるいは、秘教・神秘学における「知識・グノーシス」も《メディア》であろう。あるいは、オカルト主義も《メディア》であろう(占いや西洋占星術は、《メディア》によって説明できるだろう。つまり、連続的差異の等分割法則が、それらになったと考えられるのである。《メディア》的合理性があると考えられるのである)。これらは、悪用されると大変ことになるので、本来、秘密にされてきたのである。「黒魔術」である。《メディア》の解放であるポスト近代主義・ポストモダンには、恐ろしい危険性があると言えよう。いわば、悪魔化するのである。近代主義も悪魔化であったが、ポストモダンの悪魔化は、人心の支配という点にある。洗脳・マインドコントロールである。ここで、オウム真理教、創価学会、パフォーマンス屋の小泉首相、ITメディアのホリエモン、等を想起していいだろう。これらは、ポストモダン現象なのである。ポストモダンの反動化現象なのである。ここにあるのは、《メディア》の現象化・反動化である(参照:大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論)。《メディア》が現象化するときに、捩れて、自我同一化するのである。つまり、個人は超越神になってしまうのである。麻原彰晃、池田大作、小泉首相、ホリエモン、他は超越神化したのである。いわば、現人神になったのである。救世主、イエス・キリストになったのである。あるいは、《メディア》が憑依したとも言えるのではないだろうか。(思うに、暴力団とは、やはり、《メディア》の現象化・反動化によるのではないだろうか。その暴力団のヒエラルキーを見ても、それが、宗教集団と似ていることがわかるだろう。一神教化があるのである。)
 ということで、《メディア》に対する《イデア》化が必要なのである。それは、不連続化である。《メディア》が現象化するときに発する一神教化・反動化をそれを回避することができるのである。つまり、《イデア》化とは、反現象化であり、理念化である。これによって、《メディア》は、不連続的差異的多元化されるのである。つまり、「多神教」化されるのである。新多神教化である。現象化という超越神・一神教化を「免疫」して、《イデア》化という不連続的差異的多元化・「多神教」化をするのである。個人は不連続的差異的個・特異性の個となり、新しい民主主義の地平が開けているのである。
 日本・ヤポネシア民族・文化・社会であるが、それは、衰退、衰弱したとは言え、多神教の心性を残存させている。そう、多神教的心性とは何か。それは、《メディア》を現象化させない心性である。日本人の場合、《メディア》が「心」となっているだろう。これはいわば、正に伝統的な、無意識的な心性であろう。この「心」の日本・ヤポネシア文化は、それを、理論・言語化していないのである。意識・認識・知性化していないのである。推測するに、古代日本、あるいは、前古代日本には、なんらかの《イデア》の文化があったのである。それが、時代とともに忘失されていったのである。しかし、いったん存在した《イデア》の文化は、日本人のいわば血や生活世界となったのだろう。そして、それの象徴が「心」であろう。これは、知的に科学的合理性にも向うし、魂的に宗教性にも向うのである。《イデア》的《メディア》である「心」は、知魂性をもっているのである。
 しかし、この伝統文化が、脱亜入欧、戦後アメリカ文化化で、ほとんど喪失されるに至ったのが現代・現在である。ポストモダン革命によって、いわば、《メディア》の禁制が解かれたのである。《メディア》の現象化・反動化ではなく、《イデア》化として、日本・ヤポネシア多神教の復活が意味をもってくるのである。思えば、不連続的差異論が日本で誕生したのは、このようなことと関係するだろう。即ち、日本・ヤポネシア的多神教=《イデア》的《メディア》文化・社会が、無意識のうちに、日本人の心性に存在しているのであり、それが、ポストモダン革命によって、開花したのである。

参照1:ODA ウォッチャーズ氏による《メディア》の哲学・数式化:

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=117221

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=117790

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=118255

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=119655

http://blog.kaisetsu.org/?eid=314624


参照2:大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論

http://blog.kaisetsu.org/?eid=291995

http://d.hatena.ne.jp/kaisetsu/20060113
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2006年01月25日

自由主義と不連続的差異論:能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新へ向けて

私が、差異というとき、これは、個の自由ということとほぼ同じことである。そう、不連続的差異論は、一種自由主義である。しかし、通常の自由主義あるいは新自由主義とは決定的に異なる点をもつ。それは、差異の共存・共立・共生をも志向するからである。個の自由が同時に、個と個との共存であることを志向するのである。ここが、決定的に異なる点だと思う。
 イギリスそしてアメリカの自由主義は、簡単に言えば、近代的自我主義であり、個人主義だと思う。では、不連続的差異論から見たら、それは、どのように分析できるだろうか。これは、意外に難しい問題である。自我とは何かという問題があるからである。 
 まず、近代的自我であり個人主義的である自我が近代西欧に誕生する。これは、二重である。近代主義的であり、個人主義的である。しかし、デカルト的な合理的な主体というよりは、特異性をもった自我であると思う。つまり、不連続的差異論から見ると、自由主義の自我とは、不連続的差異性を帯びていると思われるのである。問題は、この不連続的差異の性質である。これは、先に二つのポストモダン(言わば、暗黒ポストモダンと光明ポストモダン)に述べたことと関連がある。即ち、反感的か肯定的かの違いが関係すると考えられるのである。二つの不連続的差異が存するということである。反動・憎悪・利己主義的不連続的差異と能動・歓喜・共生的不連続的差異である。ここまで、言うと、自由主義の自我がどちらであるか、ほぼ明瞭である。これは、前者でしかありえない。ニーチェ的に言えば、ルサンチマン的不連続的差異である。(おそらく、ホリエモン氏や小泉氏や竹中氏がこれである。)これは、極めて、破壊的な個人主義である。アナキストのシュティルナーの唯一者とは、ほぼこれに近いのではないだろうか。
 ということで、自由主義と不連続的差異論の「自由主義」の違いがこれで判明したと言えよう。前者は、イデア界から発しているものの、反動となった、いわば、凶暴な個人主義である。それに対して、後者は、イデア界に能動的に回帰した、差異共生共創的な個人主義である。前者は戦争主義であり、後者は平和主義である。一元論と多元論、一神教と多神教の違いとも言えよう。憎悪的であるか、歓喜的であるか。父権的あるか、母権的であるか。天上的であるか、大地的であるか、等々である。
 日本人は、戦後、USAの半植民地となり、アメリカ化した。それは、自我が反動・憎悪・利己主義を帯びたということである。本来、多神教の日本文化(ヤポネシア文化と言おう)は、差異共存主義の文化である。しかし、自覚乏しく、欧米化されて、自己を喪失しているのである。今、日本の政治・経済は大きく揺らいでいる。カオス状態である。結局、新自由主義的ポストモダン路線は、問題が多いのがわかる。これは、強暴な路線であり、他者を排斥するものであり、社会は荒廃する。確かに、新自由主義の小さな政府という理念は、「社会主義」的資本主義に対する処方箋の意味があることは否定できない。しかし、これは、いわば、副作用が大き過ぎるのである。社会をずたずたにするだろう。勝者と敗者の二極化が徹底するだろう。当然である。そして、今や、ライブドアや耐震強度偽装等で、そのダークさが誰の目にも明らかになったのである。
 今年は、戦後日本社会の一番の転換点となるだろう。アメリカの中国重視・多極化の政策という新たな黒船が来航しているからである。平成維新の可能性があるのである。ここで、ヤポネシア本来の文化の復活と、不連続的差異論が説く能動・歓喜・共生的ポストモダンの創造が、蓋然的になってきているのである。ポスト新自由主義としての能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新のエネルゲイアが、ふつふつと滾ってきていると思うのである。
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2006年01月03日

日本新多神教へ向けて:日本の部族主義の思考構造について:いかに部族的盲目思考から脱するのか

脱亜入欧で、様々な欧米の思想を取り入れてきた日本ではあるが、一つ取り入れていないものがある。それは、個の思想である。近代主義を取り入れたが、デカルトの個の思想は取り入れていない。欧米の強さは、エゴイズムと同時に、この個の思想にあると私は考えている。後者が、前者の行き過ぎに対して、批判的機能を果たすのである。
 しかし、日本の場合、部族主義があるために、個の思想が排除されるのである。部族主義は、二元論であり、部族への同一性か、部族による他者差別かである。もっとも、日本のよさは、この部族主義をもたない、ほのぼのとして「庶民」の個が生きていることだろう。これは、日本多神教の末裔であろう。この点については、後で述べるとして、今や日本の未来にとっての害悪となっている部族主義を批判的検討しないといけない。
 日本の部族主義とは、一言で言えば、父権主義的部族主義である。これに西欧の近代主義が重なっているのである。つまり、近代主義的父権的部族主義、これが、日本社会の諸権力を構成しているのである。問題は、上述したように、ここでは、欧米文化の根底にある個の思想が欠落していることである。これが、いわば、日本の「権力」の致命的欠陥である。そのために、事象を分析的に知解できないし、また、個の思想のもつ内省・省察・自己考察性が欠落するのである。これは、はっきり言えば、愚である。盲点である。ここで、想像をたくましくすれば、日本が、太平洋戦争という大愚行を犯した精神的要因はここにあると思うし、バブルを生み出したのもこれであろうし、また、今問題の耐震強度偽装の問題にも、これがあると思われるのである。
 この近代的父権的部族思考から脱却しないと、日本は没落・滅亡するだろう。ここで、この思考の欠点を詳述しよう。実は、近代主義批判で、ほぼ済んでいるのであるが、ここで、確認しよう。
 近代主義思考とは、叡知の裏返しのような知である。ここでは、知覚は主に外界に向けられているのであり、自己内界は排斥されるのである。外界知覚が、意識の基盤となるのである。また、言語もそれへ向けられる。問題は、この主客二元論は、主観性に対して盲目で、客観性志向である点である。そして、主観性とは、自然的態度では、否定的なものである。つまり、受動的な感情・欲望によって作動しているのであり、簡単に言えば、反感によって作動しているのである。スピノザの『エチカ』から言えば、「悲しみ」の感情から発しているのである。この反感は、反動となるのであり、これによって、近代主義が形成されるのである。反感・反動的主客二元論である。D.H.ロレンスは、知性の基底には、憎悪があると言ったのは、この意味である。もっとも、知性は近代的知性である。
 結局、近代主義は、主観の反感・反動性に盲目であるのである。自己暴力性に盲目であるのである。他者に対して、攻撃的になるのである。そして、この自己盲目性が、いわば、狂気である。無知である。無明である。近代主義は、このように極めて欠陥のある思考である。
 ということで、この近代主義と父権的部族主義が結びついているのが、日本の権力・支配層である。 極めて危険であることがおわかりになるであろう。ここでは、父権的部族に属さないものを差別し、暴力的に排除する体制があるのである。これは、また、天皇制をイデオロギーとして、日本国家ナショナリズムを形成しているのである。(そして、これが、靖国神社と関係するのである。)
 この近代的父権部族主義は、欧米の個の思想を欠いている、一種全体主義である。これが、日本国民に、とりわけ、子供に破壊的な影響を与えるのである。学校問題、ニート・引きこもり・精神問題、幼児殺害等々の、社会問題の元凶はここにあると見ていいだろう。この日本の権力・支配の近代父権部族主義から脱しない限り、日本は、沈没するだろう。結局、日本の個の思想を肯定していかなくてはならないのである。
 日本の個の思想は、実は、日本多神教に本来潜んでいると思われるのである。森羅万象を肯定する日本多神教は、個的であり、同時に、多元的であると考えられるのである。つまり、日本的個の思想は、他者との共存・共生性を本来もっているのである。これは、日本文化・社会の本当の美点であると思われるのである。おそらく、イギリスにおけるケルト文化、北アメリカにおけるインディアン・「ネイティブ・アメリカン」の文化、イタリアにおけるエトルリア文化、ラテンアメリカにおけるインディオの文化、等に相当するものではないだろうか。日本の先住民文化が、日本多神教・庶民文化の基底・原基ではないのか。「縄文」(東アジア照葉樹林帯)・アイヌ・沖縄等々の文化につながる日本の根源・基層的文化が、無意識裡に、庶民層に、底流しているのではないのか。日本多神教文化が、近代父権部族主義の日本権力とは、異質なものとして存していると見なくてはならないだろう。(『古事記」の大国主は、日本的個の思想を体現している人物のように思える。)
 結局、これからの日本の針路とリンクして、日本人の個の思想を展開するには、この根源的な日本多神教(おそらく、東アジア、アジア、ユーラシア、アフリカ、オセアニア、南北アメリカの土着的多神教、そして、グローバルな多神教に通ずるだろう)を復活させなくてならないと考えられる。この日本多神教は、日本の大地・風土に根差したものであり、同時に、普遍的なものと考えられるのである。不連続的差異論的に言えば、特異性としての日本多神教である。そして、これが、普遍・叡知界であるイデア界に通じているのである。

Let Japanese polytheism resurrect! 
Let new Japanese polytheism be your singular thought!
Let Japanese fundamental culture awaken in your minds!
Awake, awake, Japan!
Tremendous danger threatens us.
The sun is fresh and new everyday.
Wake up to the dawn of New Japan!
posted by ソフィオロジスト at 11:18| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月01日

ケルト的なものとイデア界:イデア・ロゴス・ヴィジョン

ケルト的なものとイデア界:イデア・ロゴス・ヴィジョン

私見では、イギリス文学とは、濃厚にケルト的要素が強い。(また、アメリカ文学にも、ケルト的要素がかなりあると思っている。また、ヨーロッパ文学にも、かなりあるのではと思える。)煩雑なので、固有名は出さない。
 さて、イギリス文学は、また、確かに、経験論的ではあるが、それ以外に、イデアリスムの要素があると思っている。イデア界から発想している面がある。この点では、ドイツ的と言ってもいいのだろう。しかし、ドイツ文学とは異なり、イデアリスムが、レッシングやシラー等のように発現することはない。経験主義とイデアリスムが混淆しているのである。
 ここで、ケルト的要素とイデアリスムの要素を突き合わせてみると、両者は通じているのではないかと思えるのである。ケルト的要素とは、超越論的自然主義のようなものである。妖精や魔術が出現するが、それは、自然と関係するが、自然を内在的に超越している。だから、超越論的自然主義である。そして、これが、イデアリスムと通じているということである。考えてみれば、イデア界とは超越論的自然である。気をつけるべきは、超越的自然ではないのである。超越神的ではないのである。現象学的である。結局、ケルト的超越論的自然主義とイデアリスムの超越論的自然性は同一ではないかと思われるのである。つまり、ケルトもイデアリスムも、超越論的自然主義ということである。
 そして、これに経験論を加えると、超越論的自然主義的経験論となる。これが、イギリス文学のエッセンスと言えるだろう。
 さて、さらに、私見では、イギリス文学は他の文学と異なる点は、視覚と関係していることである。これは意外におもえるかもしれないが、事実である。フランス文学よりもはるかに視覚性に関係しているのである。詩人であり、版画家であるウィリアム・ブレイク、デザイナーであり、美術・建築の評論のある作家ジョン・ラスキン、ファンタジー作家であるウィリアム・モリス、美術に詳しかった、また、晩年絵を描き始めたD.H.ロレンス等々いるのであり、また、ディケンズの『クリスマス・キャロル』は、鮮明な映像を読み手に喚起するのである。(私はイギリスの文学者は、文学・言葉で、描画していたのではと思うのである。20世紀以前のイギリスの画家よりも、文学者の方が、ある意味で、絵画的だったと思えるくらいである。)この視覚性に関してだが、これは、ヴィジョン・心像と言っていいだろう。
 さて、さらに、西洋文学の表現の特徴であるアレゴリー性を考えると、それは、簡単に言えば、抽象的なものを視覚化することである。そして、イギリス文学には、このアレゴリー性がかなりある。結局、ヴィジョン性とアレゴリー性がイギリス文学の特性と言えるだろう。
 では、先にあげた超越論的自然主義的経験論とこのヴィジョン・アレゴリー性との関係をどう見るのかと言うと、これは、イデアとヴィジョンが通じていると考えることで説明ができると私は考えている。イデアとは、観念ではあるが、本来、ヴィジョンである。この心像的ヴィジョンのイデアがあり、無意識のうちに、それを根拠にして、作家は創作しているのではないかと思われるのである。また、語源的には、イデアideaとヴィジョンvideoは同一である。そう、ここにロゴスを加えてもいいだろう。即ち、イデア・ロゴス・ヴィジョンである。
 ということで、イギリス文学のケルト性、イデアリスム性、視覚性を、結びつけることができた。結局、超越論的自然主義・イデアリスム・ヴィジョン的経験論的文学ということになろう。
posted by ソフィオロジスト at 18:29| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

iPodのデザイナーはイギリス人であった。確かに、ユニークでシャレている。IT革命である。

iPodのデザイナーはイギリス人であった。確かに、ユニークでシャレている。IT革命である。

iPodのデザイナー、アイブ氏は、イギリス人であった。iPod以外のmac pcもデザインしているのである。デザインが確かに一風変わっているし、シンプルでシャレている。私は、デザインが気に入って、ボンダイブルーのiMacを購入したのである。また、それ以降、ずっとマックの製品を購入している。そうすると、このアイブ氏のデザインに私は魅かれ、共感したということになる。アイブ氏は、ロンドン生まれということであるが、Iveは、コーンウォールのセント・アイブズ市St Ivesを想起する。何か、ケルトの血が流れているのではないだろうか。ケルト文化とは、自然指向である。また、曲線指向である。やはり、ケルト的なのではないだろうか。
 St Iveは、St Ivoともいい、フランスのブルターニュ出身である。ブルターニュとは、大陸ケルトの地である。すると、Iveという名前は、やはり、ケルトに関係する。アイブ氏には、ケルトの血が流れていると思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%BA
http://en.wikipedia.org/wiki/Celt
 因みに、イギリス文化ですぐれたものは、たいがいケルト的である。ビートルズもケルトの血である。
http://saintspreserved.com/Ivo.html#history
http://www.stthomasirondequoit.com/SaintsAlive/id762.htm
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP%3Aofficial&q=St+Ivo&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

p.s. 
ケルト文様は、黄金比(らせん文様を含めて)や不連続的差異論の三層論(三つ巴文様)やと関係するのではないだろうか。
http//www.eigotown.com/culture/special/backnumber01/special_2001031200_p4.shtml_
http://en.wikipedia.org/wiki/Book_of_Kells
http://www.golden-bough.com/celt.html
http://quwa.hp.infoseek.co.jp/page0311.htm
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/12/post_48d7.html
http://www.slipware.jp/slip.htm
http://www.chitanet.or.jp/users/10010382/index.html-ssi
http://www4.osk.3web.ne.jp/~hkido/col/88b.htm
http://www.failyplanet.com/link.htm
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai02/tz0204.html
http://www5b.biglobe.ne.jp/~miki-s/html/travel02.html
http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/CELT1.html
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E6%96%87%E6%A7%98&start=0&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP:official

イギリス文様
http://www.ne.jp/asahi/fuse/abraham/europe/europe-mid/britain/uk-culturre/uk-design/uk-design.htm

ケルト十字は、イデア界を象徴ではないか。
http://www.celtarts.com/celtic.htm

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米アップル社の「iPod」デザイナー、大英勲章を授与

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 12月30日、米アップル社の「iPod」デザイナーに大英勲章が授与された。11月撮影(2005年 ロイター/John Gress)

 [サンフランシスコ 30日 ロイター] 米アップル社の大ヒット商品、携帯型デジタル音楽プレーヤー「iPod」のチーフデザイナーで同社のデザイン担当上席副社長、ジョナサン・アイブ氏(38)が30日、英国のエリザベス女王による、叙勲対象者リストに選ばれた。
 ロンドン生まれのアイブ氏は大英帝国勲章(CBE)を授与された。
 同氏はアップル社での約13年間で、「iPod」以外に、「iMac」、「iBook」やコンピューターのPowerbookシリーズを製作したチームのリーダーを務めた。
(ロイター) - 12月31日17時19分更新

関連トピックス: Yahoo!トピックス iPod Yahoo!トピックス イギリス王室 Yahoo!トピックス 美容、ファッション

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051231-00000455-reu-ent
http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/4569912.stm
posted by ソフィオロジスト at 14:03| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

基本的な4つの力と四大(地水火風):イデア界の4+1=5つの虚力の原構造

ここでは、詳述せずに、ポイントだけを考えよう。プラトンは、四大と正多面体とを結びつけている。
1)火=正四面体(正三角形の面)
2)空気・風=正八面体(正三角形の面)
3)水=正二十面体(正三角形の面)
4)土・地=正六面体(正方形の面)
そして、世界全体が、正十二面体(正五角形の面)である。
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-03/zone03top.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Platonic_solid
そして、ケプラーがこれを踏襲して、独自の宇宙論を立てたのであり、そこから、ケプラーの法則が生まれたのである。ある意味では、瓢箪から駒である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC
 とまれ、私は、これらが、物理学の基本的な4つの力と対応しないのかと思っているのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fundamental_forces
そして、正十二面体が、ダークエネルギーに対応しないかと思うのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dark_energy
 不連続的差異論から見ると、差異の垂直・水平の対極性があり、垂直の排斥力と牽引力、水平の排斥力と牽引力で、差異の4つの力が考えられ、また、4つの力を含む全体の力が考えられる。だから、4+1=5つの力があるということになる。これが、根源的な原動力・発動力である。だから、ここから演繹すれば、4+1=5つの力の構造が発生すると言えるだろう。これが、4つの力とダークエネルギー、四大や五大に対応するのか云々というよりは、この原構造が前提として存在し、それが、メディア界、現象界において、展開されると述べることが、エッセンシャルだと思う。そう考えれば、物理学の4つの力、ダークエネルギーという考え、プラトン立体、四大・五大という考えは、それぞれ、この原構造に一致するということはできるだろう。つまり、構造の問題としては、一致が見られるということであり、それはそれで限定するのである。
 そして、それ以上のことは、精緻に考察していくべきである。つまり、総論から各論ということである。

p.s. 
1.プラスのx軸とマイナスのx軸があるから、プラス5とマイナス5の力があることになるだろう。10(とう)の力である。しかしながら、プラス5+マイナス5=10全体の力が発生するだろう。すると、11の力となるだろう。超ひも理論では、10次元であったが、M理論では、11次元である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%BC%A6%E7%90%86%E8%AB%96
http://en.wikipedia.org/wiki/Superstring
2.物理学の基本的な4つの力とは、基本相互作用をもっていることであるが、仮定されたイデア界の4つの力も相互作用をもつのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fundamental_forces
posted by ソフィオロジスト at 02:04| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月31日

何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのか:過渡期としての近代とポストモダン革命

今、思いつくままに述べるが、この問題は、フッサールが、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で鋭く解明していると言えるだろう。つまり、近代的自然科学の問題である。コペルニクス、ガリレオの問題である。つまり、近代において、古代宇宙論(コスモス論)が崩壊して、太陽中心の宇宙という物質主義的宇宙観が進展したということである。コスモスの崩壊である。ユニヴァースが始まったと言えるだろう。
 とまれ、簡単に言えば、コスモスと叡知が結びついていたが、ユニヴァースは、近代的知性と結びついている。これが、西欧近代が、叡知を失った理由である。コスモスからユニヴァースへの転換である。つまり、これは、叡知的宇宙から物質的宇宙への転換である。この問題は複雑であるが、簡単に言えば、叡知の力の宇宙(コスモス)から物質の力の宇宙(ユニヴァース)へのパラダイム変換したことである。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560024162/250-8960880-5103431
フッサールが、『危機』で述べていることは、このことに関係するだろう。
 わかりやすく言えば、宇宙が、なんらかの「精神性」をもったものから、数量化できる物質だけから構成されるものへの変換である。そして、この結果、近代的科学・唯物論的宇宙観が形成されたのである。これが、西欧近代における、叡知の喪失の事態である。これは、主客二元論と平行し(デカルト)、第3のものを喪失したのである。ただし、事態は、単純ではなくて、近世においては、この物質的理性と神の理性とが、一致していたのであるが、後に、分離して、神の理性が消失するのである(神の死)。つまり、本来は、神の理性と人間の理性とがあったわけであるが、これが、これが、後者中心になり、前者が消失したのある。つまり、三元論から二元論への転換がここにはあるのである。
 これを不連続的差異論から見るならば、メディア界の喪失であろう。イデア界と現象界の二元論となったのである。キリスト教的に言えば、聖霊の喪失であり、父と子の二元論の宗教となったのである。芸術的に言えば、想像力の喪失である。このようなコスモスの崩壊・喪失によって、叡知の伝統が断たれたと考えられるのである。
 しかしながら、この叡知の喪失は、単に否定的なものだけではなかっただろう。これは、デカルト哲学の問題である。ここに近代の意味が集約されるだろう。即ち、コギト主義である。個的合理主義である。近代以前までは、神の理性が、宇宙を説明していたが、コギト主義となって、個から、正確に言えば、個の特異性から、森羅万象を説明しなくてはならなくなったのである。これは、実に、認識の大革命、パラダイムの変換であった。カントが、コペルニクス的転回と自身の哲学を呼んだが、実は、これは、デカルト哲学に発していると言うべきだろう。それまで、神の理性、神の叡知が主導的であったが、コギト革命の結果、コギトが主導的となったのである。そして、このコギト主義に、先に述べた主客二元論、物質主義・唯物論が重なるのである。
 結局、西欧近代における叡知の喪失とは、単に否定的な意味だけでなく、積極的な意味、即ち、コギト主義という意味があったのである。何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのかという問題は、こういう意味をもつのである。これは、人類革命なのである。神の理性、神の叡知から人間の理性、人間の叡知への転換を意味するのである。しかし、これは、根源的次元の喪失をともなったのである。
 整理すると、近代的科学において、神のコスモスから人間のユニヴァースへの転換があり、コスモスの叡知が喪失した。それは、メディア界、想像力の喪失であった。しかし、それは、神の理性から人間・主体の理性・コギトへの転換を意味していたのである。これは、一般性から特異性への転換を意味するのである。つまり、一般的叡知が解体して、特異性が出現し出したのである。不連続的差異論から見ると、イデア界の本来の不連続的差異の特異性が発現し出したのである。進化というよりは、進展である。イデア界の進展としてのコギト革命である。
 結局、叡知の喪失とは、イデア界の必然的進展であり、一種の忘却である。即ち、特異性は、近代的二元論の装いをしたのである。特異性の現象界化の徹底ということである。イデア界の現象界化への徹底である。結局、コギト主義は、イデア界の叡知の必然であったのである。叡知の喪失とは、叡知の展開であったのである。叡知の現象界化、これが、西欧近代における叡知の喪失の意味である。フッサールの自然的態度である。ハイデガーの言う存在忘却にほぼ当たるだろう。つまり、不連続的差異論から見ると、1/4回転によってメディア界が発生し、さらに、1/4回転によって、現象界が発生して、イデア界がすっかり裏返しになり、イデア界を消失するのである。しかし、これは、イデア界自体の発現なのである。自己隠蔽的発現なのである。つまり、イデアの影としての現象・仮象なのである。西欧近代とは、この徹底であるということである。これは、自己否定的発現である。自己否定的同一性である。これは、暴力・権力・破壊・狂気的である、これまで何度も指摘したように。
 結局、西欧近代とは、ニーチェが言うような過渡期であったのである。イデア界の現象界への自己否定的転化の徹底化であったのである。ここでは、積極性と反動性が併存しているのである。
 さて、今やポストモダン革命の真っ直中であるが、結局、何が、近代主義からの転換の駆動力であるのか。私は、何度も、資本主義は、差異から発動していると述べた。コギト主義も差異・特異性によって発動しているのである。つまり、近代とは、不連続的差異・特異性によって駆動されていたのであり、それが、現象界という衣をまとっていたのである。結局、震源である不連続的差異・特異性・イデア界は、近代の枠組・フレームワークを破砕・ブレークせずにはいないということなのである。そして、今日、それが実現して、ポストモダン革命が驚異的に進展しているのである。近代が解体するのは、必然であったのである。それは、過渡期だったのである。近代は意外に短い時代だったと言えよう。16世紀から20世紀にかけての、約4世紀が近代だったのである。
 もう少し、精緻にこのポスト近代革命について見ると、不連続的差異・特異性の駆動としてのコギト主義があり、それが、主客二元論の近代諸科学を生んだのである。しかし、それは、表面的な学に過ぎなかったのである。なぜならば、ベースの不連続的差異・特異性を排斥しているからである。しかし、これは、「自己主張」を当然行い、その結果、近代主義が瓦解するのである。この破壊の獅子吼がニーチェであった。また、先駆として、ブレイク、シュティルナー、ドストエフスキー、キルケゴール等をあげていいだろう。ニーチェの後、フッサールがポスト近代の理論を打ち立てたのである。
 また、物理学は、大天才のアインシュタインによってポスト近代的科学が誕生し、量子力学が決定的にした。そして、世界戦争の大災厄を越えて、フランスで、構造主義革命以後、ポストモダン革命が再燃したと言えるだろう。ポスト構造主義、「ポストモダン」である。そして、冷戦の終焉後、資本主義のグローバリゼーションが発動し、ポストモダン革命が忘失される。しかし、グローバリゼーションは、近代とポストモダンの折衷である。帝国主義性は近代主義であり、新自由主義は、ポストモダン的である。即ち、近代的資本主義のもつ集団的特権性を破壊するのである。これも、不連続的差異・特異性から発動していると考えることができるだろう。結局、ポストモダン革命が資本主義にも進展しているのである。ポストモダン資本主義であるが、これは、不連続的差異的資本主義と言ってもいいだろう。ここでは、資本が不連続的差異化、ミクロ化すると言えよう。そして、ここから、新しい民主主義が創造されるだろう。不連続的差異資本の共立による民主主義である。不連続的差異的資本共立民主主義である。人間は、不連続的差異的資本市民となるだろう。イデア界・メディア界・現象界の循環叡知が、資本となり、社会・世界・自然を環流するだろう。そう、近代の無明を超えた叡知資本主義とも言えるだろう。
posted by ソフィオロジスト at 00:34| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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