2006年07月15日

オカルティズム批判:オカルティズムは、連続・同一性=ファシズム・全体主義思想の一つである

オカルティズム批判:オカルティズムは、連続・同一性=ファシズム・全体主義思想の一つである

ルドルフ・シュタイナーは、シュタイナー学校の創始者として有名であるが、しかし、プラトン・シナジー新論から見ると、たいへん、危険である。それは、新興宗教と同じである。霊感商法的になるだろう。なぜなら、霊主体従だからである。精神ではなくて、霊を主体にしているからである。精神とは、心身・魂の知性のことである。霊は、精神を連続・同一性の観念から見たものである。つまり、唯物論と同型である。換言すると、唯物論と相補性をなすものである。現象を唯物論で見たとき、メディア界が神秘主義的に発現するのである。この神秘主義性に、観念の枠を与えて、霊・スピリットが想定するのである。ここには、精神の弱さがあるのである。唯物論の反動としてのオカルティズムがあるのである。カント以前である。
 もう少し説明すると、近代合理主義によって、心身性が排除されて、潜在意識となる。即ち、近代合理主義/潜在意識という二元論が近代主義において生じるのである。例えば、近代合理主義とロマン主義の対立というような形をとるのである。(近代とは、プロトモダンが本来なのであり、近代主義とは、反動態である。)この潜在意識を、オカルティズムは、霊・スピリットとして現象化するのである。ここがポイントである。潜在意識の現象化である。即ち、潜在意識に、現象界の視点である連続・同一性の枠・構造を与えるのである。ここには、倒錯があるのである。連続・同一性の形式とは物質形式・唯物論形式である。これを、潜在意識(心身意識)に当てはめるのは、当然、カテゴリー・エラーであるし、虚偽、本当の狂気である。これは、近代合理主義信仰の倒錯である。近代合理主義を、潜在意識にまで、適用するという、ハイパー近代合理主義なのである。これが、正に、ルドルフ・シュタイナーの霊学・人智学である。また、半田広宣氏のヌース理論も、同様である。ハイパー近代合理主義信仰・崇拝である。(こう考えると、ヌース理論が、量子力学等を偏重する理由が了解できるだろう。)即ち、近代合理主義・唯物論化された潜在意識・心身意識が霊・スピリットなのである。これは、似非実在である。妄念・妄想・邪念・狂気である。だから、当然、邪悪なのであるから、社会に対する害悪である。哲学的には、差異が、連続・同一性化されているのであり、ファシズム・全体主義的である。(近代合理主義もファシズム・全体主義的であるが、西洋の場合、基礎に個・差異があるので、ファシズム・全体主義への根強い批判がありうる。)
 とまれ、ポスト・オカルティズム、ポスト・霊学ということで、差異、それも、純粋差異、不連続的差異、特異性差異、単独的差異、絶対的差異を取り戻さないといけない。これは、実に、イデアの純粋世界・真世界なのである。イデアと霊・スピリットとはまったく似て非なるものである。霊・スピリットとは、唯物論的神秘主義(参照:中沢新一の霊的唯物論)であり、イデアの唯物論的大曲解・ねじ曲げ・歪曲化である。ロゴスに対する、いわば、大犯罪である。極悪である。極刑に値するのである。
 イデアを正視しないといけない。イデアのロゴスを取りださないといけない。イデア・ロゴス・ソフィアである。イデア・レゾナンス・シナジー・コスモスが、原現象である。プラトンで言えば、コーラである。コーラ・コスモスである。
 とまれ、イデア・シナジーが心身・潜在意識を形成しているのである。そして、いわゆる、意識とは、作業仮説として、イデア・シナジーの意識ではないだろうか。そして、身体とは、イデア・シナジーの身体ではないだろうか。フッサール理論を用いると、ノエシス/ノエマというイデアのシナジーが、心身である。つまり、ノエイス/ノエマの共振多層重層シナジーが、心身ではないだろうか。そして、ここから、ノエシスが特化して、意識・思惟・知性・認識・知覚となり、また、ノエマが特化して身体・延長・存在となっているのではないだろうか。本来、イデア・シナジーにおいては、ノエシス/ノエマ=心身=潜在意識である。しかし、これが、現象界においては、二元論的に分離するように発現するのである。ここでは、視覚的知性が、二元論分離仮象の契機である。光が契機である。しかしながら、光は微妙な現象である。光は、イデア・シナジーそのものであると言えるのであるからである。原光・純光である。この原光・純光が、光現象となっているのである。そして、二元論分離を発現するのである。光現象・二元論分離現象とは、連続・同一性的仮象であり、原光・純光の仮象としての光が現象していると言えるだろう。つまり、光とは、太陽光とは、仮象スクリーン・マーヤーである。その真実在は、原光・純光なのである。つまり、「阿弥陀如来」である原光・純光を光と見ていることになる。(因みに、光子とは、原光・純光を仮象物質スクリーンを介して仮想したものである。)
 問題は、いわゆる近代自我と光との関係である。あるいは、原光と光との関係である。この問題に関しては、まだ結論が出ていない。即ち、単純に、流出的に、原光から光が仮現するのか、それとも、否定・排除的(内的抑圧隠蔽的)に、原光から光が発現するのか。(この問題は後で、再検討したい。)
 本論に戻ると、ノエシスとノエマが二元論的に分離して、心身二元論、思惟と延長の二元論が発生するのであある。しかし、イデア・シナジー界においては、ノエシス即ノエマであろう。即非でもないだろう。思惟即延長である。知即存在である。即非は、差異と差異との関係で発生するものである。
 結局、知性となったノエシスと身体となったノエマとを再統一する必要があるのである。それは、知性の身体化であり、身体の知性化である。しかしながら、ポイントは、知性であろう。なぜならば、基本的には、ノエシス/ノエマとは、知的存在であり、知主存在従であるからである。知が先行していて、結果、存在が帰結するのであるから。ノエシス→ノエマ、知→存在なのである。だから、知性の身体化/身体の知性化において、主体は、知性に置くべきなのである。これによって、イデア・シナジー=心身性を意識化できるようになるのである。超知性化と言ってもいいだろう。そう、超越内在(超内)論的知性形成である。これが、イデア・シナジー知性である。あるいは、イデア知性である。あるいは、プロトモダン知性である。プロトモダン合理主義である。これは、身体ともにある知性であり、知性とともにある身体である。そして、超知性がそれを包摂するのである。
 ここで、自我を考えると、それは何か。近代合理主義においては、近代自我=連続・同一性自我によって所有された身体があるが、この近代自我を不連続的差異化することで、イデア・シナジー的特異性意識になるのでないだろうか。思うに、自我は、知存在になるのである。知身体と言ってもいいだろう。自我が知身体へと変容するのである。
 さて、最後に、途中で置いておいた問題、原光と光の変換力学について考察しよう。これは、カントの超越論的形式に関わる問題である。あるいは、アインシュタインの相対性理論に関わる問題である。数学の問題でもある。近代合理主義は、現象を、連続・同一性の数量に変換したのである。そして、近代科学・技術・資本主義が発達するのである。この連続・同一性がカントの超越論的形式に相当しよう。これは、差異=微分→積分と等価である。
 ここでも、直観に基づいて述べよう。連続・同一性=数量が物質の単位である。つまり、現象対象に対して、近代合理主義・近代自我は、連続・同一性=数量を適用して、現象世界を「合理」化するのである。そして、この近代科学の合理主義に対して、フッサールは、危機を覚えて、現象学を創造するのである。
 問題は、現象世界である。近代合理主義自我は、現象世界を、連続・同一性=数量形式の体系・システムと見る。それは、また、連続・同一性=数量=近代自我の世界である。ここでは、特異性は消されている。(そう、ここは、近代合理主義というファシズム=全体主義の世界である。小泉政権がこれである。)特異性・不連続的差異・絶対的差異・単独的差異の抹消された、同質性・画一性・一般形式の世界である。ここには、明らかに、反動暴力があるのである。特異性を抹消・隠滅している暴力があるのである。(ここで、私は、ジョージ・オーウェルの『1984年』の情報隠滅・捏造作業等を想起している。)
 即ち、連続・同一性には、特異性に対する暴力が如実に存在しているのである。では、現象世界について考察しよう。現象世界の連続・同一性数量・数式を適用するのが、近代合理主義・近代自我・近代科学技術・近代資本主義である。そして、現象世界を連続・同一性のシステムに変換するのである。これが、近代的世界観である。ということは、現象世界自体は、連続・同一性ではないということになるだろう。連続・同一性の構造を現象世界は、いわば、人間から付与されたのである。この主観的形式が、カントの超越論的形式だと考えられるのである。そして、これは、言語形式と深く結びついているだろう。なぜなら、言語形式は、現象を連続・同一性である一般観念形式へと記号化されたものだからである。貨幣も同様である。
 ここで、明確に言えば、現象世界とは、本来、特異性の世界なのである。(私自身は、常に、現象個体は特異性であると考えているのである。)そして、フッサールの説く生活世界とは、この特異性の現象世界のことであろう。つまり、イデア・シナジーの世界である。ということは、現象界は本来、イデア・シナジーの世界であるが、それを近代自我は、連続・同一性システムの世界に変換しているのである。ということは、差異共振界の直截的発露、流出としての現象界が本来あるということである。共振の終点としての現象である。
 しかし、それに対して、連続・同一性的「現象界」があるのである。それは、近代自我の「現象界」である。一体、この連続・同一性はどこから発したのだろうか。イデア・シナジー、差異共振の流出としての現象は、連続・同一性をもたない。そう、連続性はあるが、それは、特異性の連続性である。差異共振の連続性である。
 結局、同一性はどこから生まれたのだろうか。それは、形相から生まれと思われる。形相自体は、不連続的差異論でいうメディア界の現象面にある連続様態、即ち、超越論的原型から生まれたと考えられるのである。即ち、超越論的形式から現象的形式としての形相=同一性が生まれたと言えよう。そして、近代主義とは、この同一性の数量化を意味するのである。つまり、連続・同一性とは、既に、アリストテレス哲学に存在していたのである。だから、近代合理主義が生まれるには、これを数量化する必要があったのである。つまり、アリストテレス哲学と数学の結合、これが、近代主義を生んだと言えよう。そして、これが、物理学を初め、近代自然科学として展開するのである。また、同時に、実験を提示しなくては不十分である。実験が、連続・同一性の物質主義を確証していったと言えるのであるから。
 とまれ、形相と数量と実験の結合、これが、連続・同一性の数量=物質を生んだのである。
 さて、ここで、形相について言及すると、それは、超越論的形式から現象化したものである。根源は、超越論界、不連続的差異論のメディア界に存する。しかし、これは、メディア界の連続面・現象面にある。だから、ここにおいては、それは、イデア面と分離していないのである。即ち、イデア・シナジー性をもつ原型である。そして、これが、このまま、現象化して、特異性の現象となるのである。
 では、超越論的原型がどうして連続・同一性の形相へと変換されるのか。ここに、もっとも重大な転換の一つがあると言えよう。形式の、超越論界から現象界への転換である。超越論界(=イデア・シナジー界=メディア界)には、差異共振性がある。そして、超越論界の形式を形相化するには、この差異共振性を否定・排除する必要があるのである。ここが、一番のポイントである。思うに、問題は、連続・同一性ではないのかもしれない。問題は、連続・同一性中心主義だと考えられるよう。例えば、私の使用するコーヒーカップは、特異性でありつつも、コーヒーカップという連続・同一性である。ここでは、特異性と連続・同一性が矛盾せずに、併存しているのである。特異性→連続・同一性である。
 しかるに、連続・同一性中心主義になると、特異性を排除するのである。これは、いったい、どういう事態なのだろうか。何故、特異性・不連続的差異性を否定・排除するのか。
 思うに、作業仮説であるが、光と関係する。差異共振シナジーにおいて原光が生まれる。そして、それが、連続化するときに、原型が生まれる。これは、ほぼ現象界の光をもつ連続・同一性である。つまり、このときに、視覚が生まれているのである。視覚と連続・同一性との相互関係があるのである。しかし、差異共振シナジー界=メディア界においては、闇と光が不可分一体である。つまり、原光=闇と光とが一如である。しかし、視覚/連続・同一性が言語習得と結びつくと、視覚/連続・同一性/言語=光は、闇と分離する傾向をもつだろう。つまり、光の欲望が発生して、それが、闇を排斥するようになるのだろう。これが、連続・同一性中心主義の発生、一神教の発生、父権主義の発生であろう。差異共振シナジーの闇は忌み嫌われて、否定・排除されるのである。これが、西欧近代自我合理主義である。換言すると、原光→ 光が、「断絃」されて、原光と光が分離されるのである。闇と光の分離である。ゾロアスター教の発生である。そして、ここから、ユダヤ教、キリスト教と続くのである。イスラム教は、差異共振性への揺り戻しを含むと思うが、基盤は、やはり、分離である。
 結局、不連続的差異論/プラトン・シナジー理論は、この闇と光の分離を、イデア・レゾナンス・シナジー・フィールドの発見によって、解消して、新たに、結合・融合・一体化したと言えよう。新東洋哲学である。ル・ルネサンス=プロトモダンの新生である。そう、ここでは、闇と光が一体となっている。闇から光が生まれのである。原光=闇から光が生まれるのである。そして、闇は光であり、光は闇である。これは、私の直観にぴったりである。キリスト教の闇を照らす光という二元論とはまったく別である。キリスト教の光とは、闇から分離した光であり、連続・同一性中心主義の光、悪魔の光なのである。
 初めに闇ありき、そして、光が生まれた。また、闇の前に原闇があった。それは、無である。 
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2006年07月09日

思考実験:イデア界の座標・幾何学、あるいは、虚軸と実軸の問題:イデア界・ガウス平面の太極力学論

虚軸Y軸を、時間軸・シナジー軸・メディア軸としよう。そして、これが、前後の軸である。これは、遠近法の軸でもある。思うに、1/4回転で、Y軸へ経てZ軸が出現するとしよう。即ち、X軸とZ軸の関係がここに生じる。これは、プラスZ軸である。
 そう、ここで、イデアの極性を考えた方がいい。プラスX軸とマイナスX軸である。プラスX軸は、プラスY軸→プラスZ軸、マイナスX軸は、マイナスY軸 →マイナスZ軸ではないのか。つまり、プラス軸の1/4回転は、プラス軸へと捩れ、マイナス軸の1/4回転は、マイナス軸へと捩れるのではないだろうか。それとも、プラス軸へ捩れるのだろうか。思うに、これは、プラスX軸の1/4回転においても、問題である。結局、プラスとマイナスの両方の捩れが生じるとしよう。即ち、±Z軸への捩れである。
 問題は、Z軸の意味である。これを高さ/深さの軸としよう。そして、X軸を左右の軸としよう。これは、ヌース理論と類似する。しかし、半田氏は、近代は、垂直に降下すると述べていた。しかし、近代は、ないし、プロト近代は、高さ/深さではなくて、前後・奥行きの方向に関係すると考えられるのである。そして、思うに、20世紀初期の「四次元」指向は、半田氏が述べていたようにアインシュタインの相対性理論の時空四次元で落ち着いてしまったのだろう。つまり、Y軸・虚軸の次元の探究が止まってしまったと言えるだろう。問題は、虚軸、虚次元の問題が消失してしまったことである。現代のあらゆる領域における閉塞は、ここに根因があるだろう。虚次元の喪失である。あるいは、イデア次元(正しくは、差異共振次元)の喪失である。
 ここで、直観で考察しよう。差異共振シナジー界(略して、シナジー界)は、Y軸の方向にあるはずであるが、それが、前後軸・奥行き軸となっている。音で言えば、ステレオ・立体音響となっているのだろう。しかし、これが、もはや、共振していず、連続・同一性化しているのである。実軸化しているのである。これは、光=視覚のもっている連続・同一性化によるのではないだろうか。どうやったら、虚次元・シナジー次元を取り戻すことが出来るのか。あるいは、イマジネーション・ヴィジョン次元を取り戻せるのか。それは、一つは、視覚の身体化ないし身心化によってであろう。あるいは、視覚の触覚化と言ってもいいだろう。視覚のコスモス化とも言えよう。(そう、宮崎駿の「絵」には、視覚的コスモス性があると思う。)視覚の差異化でもある。知性・意識の身体化でもある。これは、幾何学的には何を意味するのだろうか。これは、マイナス軸を肯定することのように思える。即ち、プラスX、Y、Z軸に対して、マイナスX、Y、Z軸を肯定すること。右に対して左、前に対して後、上に対して下の方向である。即ち、太極・対極性の力学である。思うに、プラス方向が光の方向ならば、マイナス方向は闇の方向ではないのか。ここで、KAISETSU氏の光の陰陽極性論を想起する。わかりやすいのが、上下方向である。上は天の方向であり、下は地の方向である。それぞれ、精神と身体の方向と言えよう。しかし、近代主義は、プラス方向(陽方向)の展開・発展であり、それで、閉塞したと言えよう。そう、プラス・エネルギーの展開であったと言えるだろう。それに対して、マイナス・エネルギーの展開が抑圧されたのである。プラス・エネルギーが連続・同一性の方向ならば、マイナス・エネルギーは、差異の方向ではないのか。おそらく、そうだろう。プラス方向は連続・同一性の方向で、マイナス方向が差異の方向ではないのか。思うに、イデア界=ガウス平面の太極(対極・双極)性があるのである。それは、連続・同一性と差異性との極性である。あるいは、光と闇の極性である。あるいは、知と存在との極性である。思惟と延長との極性である。父権と母権との極性である。オシリスとイシスとの極性である。太陽と月との極性である。いちおう、そう仮定しよう。東洋はこの極性の文化・社会を伝統的にはもっていたのに対して、西洋・西欧は、プラス・エネルギー、プラス方向、プラス極性中心の文化・文明であったと言えよう。なぜ、そうなったのか。なぜ、光中心となり、闇が排除されたのか。思うに、イデア界=ガウス平面自体の極性力学があるのだろう。イデア界自体の揺らぎ・揺動があるのではないのか。即ち、プラスへと傾いたり、マイナスへと傾いたりするのではないだろうか。そうならば、西洋文明とは、プラス極へと傾いた極相と言えるだろう。しかし、イデア界の極性力学は当然、揺り戻しがあるのだから、マイナス極へと戻るはずである。これが、ポスト西洋文明の力動であろう。つまり、差異化が発動するのである。プラスへと傾いたイデア界が、マイナスへと回帰するのである。思うに、これは、3/4回転ではないだろうか。最初の1/4回転で、プラス・エネルギーが発動した。そして、2/4回転で、それが、閉塞するのではないのか。そして、新たな1/4回転即ち3/4回転がマイナスX軸から生じる。左方である。これが、マイナスY軸へと移動するのである。これが、後方である。そう、これは、マイナスZ軸を形成するのではないだろうか。つまり、下方である。
 そう、即ち、西洋文明の場合、プラスX軸へとイデア界の虚力が作動し、プラス展開を行なう。そして、徹底的に、光=同一性化がなされる。しかし、プラス極へと達したイデア界の虚力は、今度は、マイナス極へと向かう。原点へと向かう。これが、3/4回転を発生させるのではないのか。そして、思うに、プロトモダンとは、この意味ではなかったのか。つまり、マイナス化がプロトモダンの力動ではなかったのか。しかるに、プラスとマイナスの二元論的分離になってしまったのではないのか。もともと、西洋文明のもっているプラス化に対して、プロトモダンは、マイナス化を意味したが、西洋文明のプラス化の強固さによって、マイナス化が中途半端で終わったのではないのか。それが、近代主客二元論ではないのか。あるいは、唯物論的合理主義ではないのか。心身の二元論化ではないのか。そう、プロトモダンは、マイナス方向へ向かったのであろうが、プラス反動(プロテスタンティズム)で、中和してしまったのではないのか。西洋文明のもっているプラス力で、マイナス力が抑圧されてしまったのではないのか。結局、思うに、西欧近代主義とは、プラス化(産業化・近代合理主義化とマイナス化(ロマン主義、ニーチェ哲学、現象学、モダン・アート等)を平行的に生んだと言えよう。そして、今日、前者がグローバリゼーションで支配的なのである。マイナス化をさらに作動させなくてはならないのに、プラス化が主導的なのである。(現代日本は、とりわけてそうだろう。)不連続的差異論は、このような状況で、誕生した。それは、プラス化の連続・同一性化を切断して、差異共振シナジー性を回復したのである。つまり、純粋な、絶対的なマイナス性を取り戻したといえよう。即ち、プロトモダンの回帰である。マイナス化の復活である。これは、思うに、3/4回転である。3/4回転を実現したのである。1/4回転のプラス化の反動性を乗り越えて、マイナス化を実現したのである。これは、結局、プラスとマイナスの極性バランスの実現であろう。そう、太極図が新たに実現したのである。太極の結晶が回帰したのである。太極が永遠回帰したのである。これは、新東洋文明と言えるだろう。というか、新東アジア文化の創造と言えるだろう。
 ということで、不連続的差異論/新プラトニック・シナジー理論は、イデア界の太極性を復活回帰させたと言えよう。プロトモダンの完成でもある。ここで、占星術のことを言うならば、やはり、宝瓶宮(水瓶座)のエポックなのだろう。キリスト教的西洋文明が白羊宮から双魚宮への移行・相転移であるとすれば、プロトモダン・新東アジア文明は、双魚宮から宝瓶宮への移行・相転移であるだろう。そう、ルドルフ・シュタイナーの占星術は間違っているのだ。やはり、キリスト教に囚われているのだ。伝統的な占星術が説くように、春分点は、宝瓶宮へと移動しているのだ。しかし、思うに、この占星術宇宙とは、イデア界的コスモスと見るべきだと思う。外宇宙の事象ではありえない。内宇宙の事象である。内在的宇宙の事象である。イデア論的占星術については、後で検討したい。
 とまれ、簡単にまとめると、イデア界・ガウス平面の太極的極性力学があるという仮説をここで提示したのである。

p.s. 一点確認しておくと、イデア界・複素平面の実軸X軸において、+X軸の方向に、イデア界の「虚力」、即ち、プラスの虚力が作用したときに、1/4回転が発生するのであり、そのプラスの虚力がプラス極に達した後は、《力》は、反転して、原点の方向、マイナス極の方向へと移動する。即ち、マイナスの虚力になる。思うに、原点(0,0)へと向かうことは、2/4回転ではないだろうか。そして、《力》が原点に達してから、マイナスX軸、マイナスX極へと移動するときが、3/4回転と考えられるのである。そして、それが、マイナス極に達した後、再度、原点(0,0)へと逆反転する。これが、4/4回転と考えられる。この原イデアの《力》の極性力学=円運動(プラトンの説)が、螺旋を形成すると考えられる。螺旋は、プラスの原イデアとマイナスの原イデアの双極性があり、プラス・マイナスの二重螺旋になると考えられよう。これが、女媧と伏儀の二重螺旋であり、また、DNAのそれを、また、外宇宙の渦巻星雲を現象させるのだろう。また、思うに、易経の八卦の2^3×2^3は、イデア面、メディア面、現象面の三重性の陰陽性を意味しているのではないか。また、太陽系であるが、これは、螺旋形状の横断面ではないのか。太陽系は螺旋形を描いてるのではないのか。
 後で、五芒星(ペンタグラム)と陰陽五行について検討したい。ここで、簡単に予見を言えば、これは、空海の言った「五大(地水火風空)の響きあり」の、五大に重なるだろう。つまり、十字の頂点数プラス中心数、即ち、4+1=5ではないだろうか。十字架に全体の一が入って、正五角形になったのではないのか。
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2006年06月21日

お金と指導層:コナトゥス(自己保存力)とシナジー強度:シナジー共生体エコノミーへ向けて

日銀の福井総裁は、村上ファンドへの投資で、元本の2倍以上に値上がったこと等の事実の判明に対して、元本等を慈善団体に寄付すること、報酬を自主的に減額することを、償いとして発表したが、これは、自分の責任回避の、悪賢い、没倫理的な、行為であり、このような人物を日本経済のキーポイントに置くことは、許されるべきことではない。
 貨幣至上主義という悪魔・悪霊の精神がここにはあるのである。日本の中枢に巣くっている、悪霊どもである。これを、浄化しないといけない。貨幣というマモン・悪霊に憑依された者どもである。
 明らかに、お金は、現象界自我と結びついてる。自我所有欲と結びついている。そう、誰でも、自我所有欲はある。ホッブズ/スピノザの言う自己保存力(コナトゥス)とは、人間個体存在の基盤にあると言えよう。しかし、ホッブズのように、それがすべてであるとは言えないと私は考える。(参考:
http://www.mars.dti.ne.jp/~kells/Essay/spp2.html
http://www.ne.jp/asahi/village/good/hobbes.html
 整理して言おう。コナトゥスがすべてであると言っていいのである。しかし、コナトゥス(自己保存力)は、単に、ホッブズの言うように、利己主義ではないのである。コナトゥスには、自我所有欲が一つの中枢として存するが、その他の中枢があるのである。
 より整合化して言えば、個体の基盤にあるコナトゥス(自己保存力)とは、根源の差異が同一性的に現象化して、発生しているものだろう。(おそらく、唯識論の阿頼耶識とは、差異と同一性の境界意識を指しているのではないだろうか。)
 思うに、一般の動物・植物の場合は、差異が類型化していて、差異と同一性の相違がそれほどないのではないだろうか。しかるに、人間の場合は、差異と同一性の相違が大きいのである。思うに、人間の場合、差異が剥き出しであり、プラトン・シナジー(イデア・シナジー)理論(New Platonic Synergy Theory)の説く「メディア界」(これも名称を変えた方がいいだろう。シナジー界ではどうだろうか。)が、剥き出しであり、生成変容する多次元多様体であり、それに対応する同一性自我が強化されると考えられるのである。即ち、多次元多様体としての差異とそれに対応する同一性自我の境界において、コナトゥスが発生すると思えるのである。正確に言えば、境界の現象面にコナトゥスが発生すると言えよう。図化すると、

シナジー界(メディア界)/境界/《コナトゥス》→同一性自我現象界

である。コナトゥスは、ホッブズ/スピノザの言うように否定することはできない。それが、人間を現象界(いわゆる現実や経済)を動かしているのである。そして、近代以降、このコナトゥスが中心的になったのである。しかしながら、人間は、境界を介して、シナジー界への「心感性」をもっているのである。そして、指導層となる人間には、この「心感性」の意識知性が要求されるものである。しかしながら、日銀福井総裁は、憎らしくも、これを裏切ったのである。(もっとも、今日、日本の指導層は、「鬼畜」であるが。)「心」があるなら、当然、「自己責任」で、辞職すべきである
 理論的検討を続けると、境界人間(シナジー/同一性境界的人間)は、シナジー界と同一性自我現象界の両面を帯びているのである。ただし、ここで、弁証法構造を考えてはいけない。弁証法構造とは、確かに、境界の事象の一つであるが、優先点(プライオリティ)は、同一性である。つまり、シナジー/同一性境界の同一性面にあるのである。つまり、ここで言いたい境界人間とは、対極性構造の「力学」をもった人間である。つまり、シナジー界的人間、シナジー強度をもった人間と換言できるだろう。このシナジー強度は、コナトゥスに対する「倫理」の強度であると言えよう。そう、コナトゥスは否定できない、これは認めよう。しかし、プラトン・シナジー(イデア・シナジー)理論では、コナトゥス以外の力として、シナジー強度を肯定するのである。そして、指導層には、このシナジー強度を内包した人間が必要なのである。しかるに、現日本は、コナトゥスのみの、没シナジー強度・倫理の悪霊人間が中枢を占めているのである。福井総裁が正にそうである。これは、明らかに亡国路線である。
 では、コナトゥスとシナジー強度の関係を考えると、少なくとも、相補的関係になるのが整合的であろう。自己保存力が、シナジー強度・倫理強度と結合することは、必要ないし必然なことのように思えるのである。(私が、オカルティズムや宗教に対する疑念はここに存すると言える。霊主体従に批判的である。だから、D.H.ロレンスを評価するのである。彼の『死んだ男』のオシリス・イエスが、貪欲と贈与の二元論でなく、そのバランス・エコノミーを説いていたが、正に、コナトゥス/シナジー相補経済である。)なぜなら、もし、シナジー強度中心にすると、コナトゥスが否定的になる。しかし、コナトゥスは否定しようがないから、反動化して、さらに悪霊化するのである。(おそらく、新興宗教関係が悪魔・悪霊化しているのは、ここにあるだろう。コナトゥスではなくて、シナジー強度を中心に説くから、個体に強く存在しているコナトゥスが影に隠れて反動的に拡大するのである。ここで、親鸞哲学の意味を考えた方がいい。また、愛国心教育も同様である。それは、悪魔・悪霊の教育である。)
 両者の相補的バランスを目指すべきである。今日のグローバル資本主義と社会民主主義の問題も、ここに帰着するのだろう。即ち、コナトゥス/シナジー・コンプルメンタリティ(相補性)政治経済文化社会を目指すべきなのである。思うに、共産主義/社会主義の失敗は、コナトゥスを否定して、コナトゥスの悪魔的反動を招いた点であろう。そして、新自由主義の問題は、シナジー強度を否定して、コナトゥス一辺倒である点にあるだろう。この二元論的発想を捨てなくてはならない。西洋的二元論を廃棄して、東洋的対極論を身につける必要がある。(しかし、これは、単純な東洋的対極理論ではなくて、コナトゥスとシナジー強度の「シナジー」の対極理論である。)
 しかしながら、具体的には、コナトゥス/シナジー・《ポリティカル・エコノミー》(ポリティカル・エコノミーとは、共生体経済と訳せるのではないだろうか。差異共生体経済、シナジー共生経済でもある。)とはどのようなものなのだろうか。小沢一郎氏の共生主義とは、一見、コナトゥスを否定したシナジー主義のように見える。しかし、推察では、私見では、小沢共生主義とは、コナトゥスをもったシナジー政治経済である。そう、小沢氏の共生主義は、私がここで述べているコナトゥス/シナジー共生体経済に類似的なような思えるのである。精神と物質とのシナジー経済とも言えるだろう。精神・物質シナジー共生体経済、これが、グローバル資本主義と社会民主主義の二元論を超克する新しい政治経済ではないだろうか。簡単に、シナジー共生体エコノミーと言おうか。もっとも、正確には、コナトゥス/シナジー・コンプルメンタリティ(相補性)共生体エコノミーであるが。

p.s. コナトゥス/シナジー界的《シナジー》とは、混乱させる表現である。しかし、現代・未来の問題は、もはや、当然、かつての東洋文化にもどることではあり得ない。伝統的な東洋文化とは、対極性文化である。しかしながら、それは、シナジー界と同一性界が未分化の文化だと思うのである。不連続的差異論から言えば、メディア界/現象界の境界の両義性の文化である。
 しかしながら、不連続的差異の発見・創出によって、未分化状態が破られたのである。即ち、純粋なメディア界=シナジー界が出現することになったのである。これは、換言すると、対極性と同一性の未分化的闘争(二項対立)ではなくて、対極性と同一性との調和を意味しないだろうか。未分化状態は、弁証法構造へと転化するだろう。これは、闘争・戦争状態である。父権主義の様態である。しかし、メディア界=シナジー界の純化が生起すると、もはや、闘争・戦争は志向されないだろう。なぜなら、差異共振強度こそ、能動知・力であるからである。つまり、差異共振強度=シナジー強度が、境界において、同一性に作用するとき、同一性は変容すると考えられる。一種、融合である。対極性と同一性の融合である。即ち、ここにおいて、同一性はもはや、否定・反動的に作用するのではなく、対極性・シナジー強度へとひかれている。弁証法構造では、共振差異→同一性の方向性であったが、この対極性構造においては、同一性→共振差異となるのである。ただし、同一性がなくなるわけではあり得ない。自我同一性現象界=近代主義=物質界は、一つの史的所産であり、意味のあるものと考えられるのである。もはや、「科学技術」のない世界は考え得られないだろう。同一性は構造なのである。言語構造(ラカンの象徴界)なのである。(ラカン「意識哲学」は、正鵠を射ている。ただし、何度も繰り返すが、脱オイディプス化しないといけない。)
 結局、「ポスト・モダン」・脱構造主義とは、この同一性=言語構造から、「メディア界」=シナジー界への「回帰」ヘの志向であったのである。デリダ哲学は、それを、脱構築という方法で、暗示した。しかし、その問題点は、同一性を絶対的に否定的に見ていることである。問題は、同一性からの差異化にあったはずである。言うならば、同一性が、現代における出発点であり、ここからの差異への志向が問題であったのである。この点で、デリダ哲学は、倒錯しているのである。だから、やはり、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学の方が、はるかに明敏なのである。
 とまれ、近代主義は、同一性を完成させたのである。西欧・西洋文明・文化は、この点で偉大であったと言えよう。他のどの文明・文化はこれを生むことはできなかったのである。もっとも、これは、実は、悪魔性だったのであるが(参照:シュタイナーの悪魔論)。そして、この近代同一性に対して、共振差異強度が、シナジー強度が到来するのである。これは、クリステヴァ哲学のように、記号作用(セミオティック)のような逆弁証法となる時もあっただろう。また、バタイユのような、やはり、逆弁証法的なエロティシズムもあっただろう。しかし、それは、一時的な事象である。問題は、同一性と差異との融合である。
 不連続的差異の発見によって、純粋な差異共立が可能となったのである。それは、新たなデュナミス(可能態)であろう。このデュナミスにおいて、差異と同一性の融合・調和が可能になると思われるのである。この新たなデュナミスにおいて、融合・調和の可能性を志向できるのである。そして、これが、資本主義と社会民主主義の融合調和となるように思えるのである。即ち、シナジー共生体エコノミーである。これは、新しいデュナミス、新しいシナジー可能性を原点にして、差異と同一性の調和・融合を企図するものであると言えるだろう。だから、デュナミス・シナジー共生体エコノミーと言えるだろう。そう、この新しいデュナミスの発生によって、同一性と差異との調和・融合が可能となるだろう。そして、この新しいデュナミスとは、不連続的差異の創造によって、発生するものと考えられる。ヌース理論の半田広宣氏の言葉を借りれば、顕在的イデアによる創造である。
 ということで、境界における対極性と同一性との調和・融合とは、不連続的差異による差異共立性=新たなデュナミスを契機・メディアにして可能になるということであり、簡潔に言えば、デュナミス的シナジーと言えよう。これが、本当の「ポスト・モダン」、「ポスト構造主義」である。とまれ、この意味で、上述したシナジー共生体エコノミーが「現実」化(エネルゲイア/エンテレケイア化)すると考えられるのである。また、小沢一郎氏の共生主義も、このように捉えることで、より未来創造的になると考えられる。そう、小沢一郎氏の共生主義は、シナジー共生体エコノミー理論ならびにプラトン・シナジー理論と平行である。おそらく、現代日本において、超変革の《潮》強度が満ち始めているのである。
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2006年06月11日

スピノザの心身平行論と三重の「自我」・知性覚:単独・特異性の前自我の力の意志

スピノザの心身平行論と三重の「自我」・知性覚:単独・特異性の前自我の力の意志

不連続的差異論では、メディア界は、心身一体の領域となるが、不可視の領域である。これは、スピノザの神即自然の領域であろう。しかし、スピノザは、心身論を説かなかった。心と身体の二元論をあくまで保ったのである。スピノザは、思惟と延長を属性とした。これをどう捉えるべきか。即ち、実体(神即自然)の属性とすることで、デカルト哲学から、離れたと言えるだろう。思うに、思惟と延長、ないし、心と身体は、不連続的差異論的には、どこに位置するのだろうか。
 思惟・知性・心はどこに位置させるべきか。確かに、メディア界に置くというのは考えやすい。しかし、問題は、メディア/現象境界である。ここでは、差異と同一性の弁証法が生起しているのである。即ち、思惟と言った場合、差異の思惟と同一性の思惟があるのである。近代自我は、同一性の思惟をもつし、また、同一性の身体をもつだろう。しかし、差異の思惟と差異の身体があるだろう。ここには、二重の思惟と身体があることになる。スピノザの思惟と延長、心と身体とは、メディア/現象境界における差異と同一性の弁証法を、差異を肯定することで、解消し、メディア界の対極性の回路を開く契機となっていると言えよう。だから、スピノザの思惟と延長、心と身体は、メディア/現象境界にあり、それが、差異の能動観念的肯定からメディア界へと浸透していくと言えるだろう。
 ということで、スピノザの心身平行論における思惟と延長、心と身体の属性を不連続的差異論的に位置且つ意味づけることができた。

 以上のようにスピノザの心身平行論を不連続的差異論的に布置できたが、では、スピノザ哲学の自我は、どういう意味をもつのだろうか。私は、これまで、デカルト哲学からの進展としてのスピノザ哲学を説いてきたが、デカルトのコギトをスピノザは、継承しているのだろうか。私はこれまで、そう考えてきたのであるが、以上のような布置からすると、再検討が必要である。
 スピノザ哲学の実体に相当するメディア界的思惟・身体(心身)は、単独的自我と同一性自我との中間であろう。おそらく、少なくとも、三つの自我がある。即ち、

1)単独自我
2)心身自我
3)同一性自我

である。そして、自我をフッサール哲学からノエシス/ノエマとしよう(簡単に、ノエシスマないしノエシマとしよう)。ノエシマとは、知と感覚との統一体であろう、本当は。というか。知覚そのものと言うべきかもしれない。ヌース理論で言えば、NOOS即NOSである。志向性は、感覚知覚、知覚、知性感覚である。物質的に言えば、神経である。神経の正体は、ノエシマである。ヌース理論的に言えば、造語して、 NOOSAであろう。不連続的差異論的には、差異のベクトル(方向性)である。また、造語して、知性覚としよう。知性覚が、神経の正体である。そして、これは、不連続的差異であり、また、共振差異である。そして、同一性において、身体と知性に分離する。
 とまれ、上図式は、

1)単独知性覚
2)心身知性覚
3)同一性知性覚

となるだろう。少なくとも、この三重の知性覚が存していることを確認しよう。これは、当然、イデア界知性覚、メディア界知性覚、現象界知性覚である。
 ここで、デカルト哲学に何度も言及することになるが、コギトは、1と3とが重なり合っているものであり、単純に近代自我と見ることはできない。しかし、考えると、もともと、根源には、単独知性覚があり、その展開としての同一性知性覚が生じるのである。図式化すると、

3)表層:同一性知性覚
____________

2)中間層:心身知性覚
____________

1)基層:単独知性覚


となり、基層の展開としての中間層、表層であると言えよう。とまれ、近代自我の潜在意識として、基層があることは確かである。これを、ニーチェやフッサールは明確に、探求し突き止めたと考えられるのである。スピノザはそこまで達していないと思う。ドゥルーズは、中間層と基層を混同していたと考えられる。(キルケゴールは、先駆的に達していたと考えられる。シュティルナーの唯一者は、デカルトのコギトの展開のように思える。)
 近代自我とは、中間層を排除し、かつ、また、基層も隠蔽している。つまり、近代自我/近代合理主義は、中間層と基層を排除し隠蔽しているのである。近代自我の暴力性は、この排除・隠蔽という反動性にあるだろう。思うに、近代自我暴力は、基層の単独性・特異性の力に対応しているものだろう。つまり、ニーチェ的に言えば、力の意志に対応して、近代自我暴力が反動として発生していると言えるだろう。
 問題は、単独性・特異性の力は、自我においてどういう意味をもつのかである。これは、自我の根源である。原自我である。前自我である。これは、不連続であるから、メディア界的共振的連結性を断ち切る、切断、断裁すると言えよう。つまり、破壊/創造の力と言えるだろう。あるいは、独創の力、天才の力である。これは、メディア界→現象界的連続・同一性の現象を断ち切り、新しい《メディア》を創造するのではないだろうか。古い《メディア》を破壊して、新たな独創的《メディア》を新構築すると考えられるのである。その基盤は、単独・特異性の力、力の意志(イデア界の力・虚力)である。
 結局、不連続的差異論によって、この《潜在イデア》の力が明確化して、連続性を断ち切り、メディア界を純粋化したと言えるのである。それまで、メディア界は現象界と連続していたのである。つまり、両者未分化状態にあったのである。これが、明晰に分化したのである。だから、現象界からメディア界への進展がここで、明確になったと言えよう。近代の崩壊・解体・瓦解である。即ち、西洋文明の終焉である。新たな東洋文明(ユーラシア文明)の起動である。
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2006年05月29日

思考実験:メディア界の空間・幾何学について

作業仮説として、メディア差異(ゼロ度共振差異)を、三次元時空体としよう。あるいは、n次元時空体としよう。この時空体とは、時間と空間が未分化一体となっているということである。E=mc^2である(とりあえず)。この差異時空体が、メディア/現象境界領域において、同一性化されるわけであるが、この同一性化によって現象化が為されるのである(半田氏は、オイディプス化と呼んでいる)。このとき、思惟と延長が分化するのである。主客二元論化するのである(近代西欧化)。この同一性化による延長の発生が、半田氏の言う奥行きに相当するのではないだろうか。
 ガウス平面=イデア界での、1/4回転によって差異が虚軸化する。そして、それが、垂直に展開して、Z軸化するとしよう。このZ軸が、メディア/現象境界ではないだろうか。そして、ここにおいて、現象化に際して、延長が発生するのではないだろうか。Z軸と延長方向が重なることになる。このようなことは、以前考えたことがある。とまれ、Z軸を前後方向としよう。すると、ガウス平面=イデア界とは、Z軸=現象界と直交している関係にある。これは、ヌース理論が表現している世界観と重なるだろう。
 問題は、この現象界とメディア界の「空間」関係である。Z軸が前後方向あるいは時間軸方向ならば、左右方向、上下方向はどうなるだろうか。それらは、互換できるものになるだろう。つまり、X軸が上下方向に、Y軸が左右方向になったり、Y軸が上下方向に、X軸が左右方向になったりするだろう。しかし、根本的には、無数の上下左右方向が可能になるということである。つまり、上下左右は回転するからだ。しかし、前後方向/時間軸は一つしかないだろう。これが、半田氏が奥行きという言葉で表現したものに通じるのかもしれない。
 とまれ、ここでは、作業仮説として、Z軸が前後方向・時間軸であり、ここで、延長空間=現象化が発生するのであり、この一次元に対して、ガウス平面=イデア界の二次元が加わって三次元空間=4次元時空間が発生すると言えないだろうか。それは、1/4回転による捩れによって、ガウス平面=イデア界に垂直に差異(ゼロ度差異=共振差異)が「発出」するという事象で説明できるだろう。つまり、Z軸の発生によって、差異は、三次元化しているのである。そして、これが、同一性化によって時空4次元化すると言えるだろう。考えれば、確かに、左右上下は、多様性であるが、前後も多様である。この点を説明しなくてはならない。
 これは、感覚の中でも、視覚に関係する。正面や背後の問題である。直観的に、正面は枢要なものである。同時に、背後の意識も喚起される。正面と背後・背面の体極性があるだろう。視線が基礎であり、ここから、前後方向が規定されて、左右上下が決定されるだろう。視線ないし視点の問題である。そして、これは、同一性化の問題である。光の同一性の問題である。光の同一性が、視線・視点を形成するのであり、これが、延長空間・前後方向・現象化を発生させると考えられる。ということで、前後方向の問題は、光の同一性⇒視線・視点による正面・背面で説明できるだろう。即ち、前後方向(=奥行き)とは、光の同一性=視線・視点によって一義的に決定されるということである。
 ここで、時間軸が光軸であるということになるだろう。相対性理論は、ここを理論化しているのだろう。つまり、Z軸理論である。ついでに、量子論は何かと言えば、それは、メディア三次元体の理論ではないだろうか。ただし、ガウス平面=イデア界を外しているように思えるのである。差異が現象化する以前のXYZ三次元事象が真の量子空間ではないだろうか。つまり、絶対エネルギーの空間(ガウス平面=イデア界)を入れて、完全な量子空間となるのではないだろうか。つまり、現在の量子論は、ゼロ度共振差異=量子のみを扱っているのであるが、その原初に、絶対的差異の回転エネルギーがあるのであり、この回転エネルギー=絶対(絶対値)的エネルギー(=デュナミス)を計算する必要があるのではないだろうか。この点は後で検討したい。
 ここで、最後に、メディア界の空間・幾何学の形態について触れると、それは、二重らせん形状、あるいは、円柱、あるいは、球体等になるのではないだろうか。ここに形態の原型があるのだろう。そして、プラトンは、ここを、イデア界、コーラと呼んだのだろう。そして、ここは、D.H.ロレンスの『死んだ男』の暗いコスモスの薔薇に相当するだろう。多重多層な時空間多様体である。また、善のイデアであるが、それも、メディア界を指していると見ることができるように思われる。しかし、なにか、イデア界自体の示唆も感じるのである。また、大乗仏教であるが、《空》とはメディア界を指しているだろう。また、キリスト教は、同一性の極致を意味しよう。Z軸=ヤハウェからの同一性の展開としてのイエス・キリストだろう。そして、ここは、極点であるから、反転して、メディア界へと回帰するだろう。これが、聖霊教を意味しよう。そして、私の直観では、これが、宝瓶宮(水瓶座アイオーン)の意味するものである。水瓶の水は、聖霊であると考えられるのである。っ伝統的には、ミューズ(ムーサイ・詩神たち)である。また、天使や精霊である。霊感である。そして、メディア界は、確かに、差異調和の世界である。コスモス的ハーモニーCOSMIC HARMONYの世界である。ロレンスが、『馬で去った女』で表現した宇宙、月と太陽の調和の世界である。華厳経宇宙である。モーツァルトの音楽の世界である。また、円空の言う「法の御音」の世界である。高天原である。常世である。新エデンの園である。新八百万の神々の世界である。新多神教である。
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2006年05月06日

メディア/現象境界における差異と同一性の二律背反性:ポスト・モダンと不連続的差異論革命

先に、構造主義の問題で、本件について考察したが、もう少し、細かく検討したい。メディア/現象境界MP境界は、差異と同一性とが発生している領域であり、構造的には、弁証法構造と言うべきである。これは、メディア界の対極性構造と現象界の同一性構造との中間領域である。本来は、矛盾の領域であり、二律背反・二項対立の領域と考えられる。しかし、これを、同一性構造=自我は、弁証法構造にするのである。だから、弁証法構造とは、この境界の現象面を指している見ることができる。
 さて、この領域の差異と同一性との二律背反・二項対立性であるが、これは、差異は同一性を否定しようとし、同一性は差異を否定しようとする相互否定の関係である。ここには、カオスがあるのである。だから、安定するには、どちらかを肯定するしかないのであるが、近代においては、同一性が肯定され、差異が否定されたのである。中世においては、差異は、共同体の信仰と結びついていたと考えられる。そして、バランスをそれなりに取っていたと考えられる。
 しかし、近代になると、自我が全面にでてくる。これは、志向性の必然である。根源的志向性・根源的自我が、イデア界/メディア界からはたらきかけて、エネルギーとなり、メディア/現象境界を活発にする。そして、デカルトのコギト主義が生まれる。これは、根源的差異と現象同一性自我との結合である。簡単に言えば、イデア界と現象界との結合である。これが、コギトである。(この後、排除されたメディア界をスピノザが掬うことになるのである。)問題は強度である。メディア界を否定している強度がここにはあるのである。メディア界が共感エネルギーをもているとすれば、それを否定する反感エネルギーがここにはあることになる。エネルギーと言っても、肯定的ではなくて、否定的である。それは、エネルギーとしては、どういうことなのであろうか。それは、差異共振性を否定するのであるから、本来、エネルギー強度は減退するのである。いわば、エントロピー的なのである。そう、エネルギーが滞るのである。この滞ったエネルギーが、反動エネルギーであり、いわば、負のエネルギーであろう。これが、攻撃・暴力・権力衝動となるのであろう。
 だから、同一性自我は、本来のエネルギーを反動化させて、攻撃・暴力・権力衝動に転化させているのであり、自他破壊的で不毛である。戦争とはここから発しているだろう。近代主義は、このようなものになったのである。ホッブズの世界である。
 問題は、否定された差異、メディア界を取り戻すことであった。近代的合理主義、近代科学は、唯物論化して、メディア界を無視してきたのである。(そして、現代日本の精神の荒廃は、この帰結である。)この取り戻しが、様々な分野で行われたが、一言で言えば、ポスト・モダン運動である。差異の復活としてのポスト・モダン運動である。本来、モダン運動は、差異から始まったのであるが、プロテスタンティズムの反動で、メディア界が否定されてしまい、ルネサンスの差異主義が否定されてしまったと言えよう。だから、モダンとは、矛盾した二重運動である。差異と同一性の二項対立の運動である。
 そして、19世紀後半から、ポスト・モダン運動が明確になり、そして、20世紀後半、フランス現代思想として、流行することになる。それは、既に述べたように、相対的差異と絶対的差異が混同されていて、行き詰まったと考えられる。
 とまれ、差異とは、個のことであり、個の肯定である。それは、鈴木大拙の用語、即非が一番的確に表現している。差異、個の即非である。「わたし」と「あなた」は共感しつつ、分離した存在であるということである。この差異即非性を、同一性自我は暴力的に抑圧・否定するのである。思うに、差異即非性とは、実は、本来の芸術的感性である。芸術に親しむ者は、この能力を涵養していると言えよう。つまり、差異の復活とは、芸術の復活でもある。フランス現代思想が流行したが、それは、実は簡単なことを意味していたのである。本来の芸術的感性(心身性)を取り戻そうということである。しかし、頭でっかちになり、相対主義だとか、脱構築主義だとか、用語が、独り歩きして、実質が抜けていたのである。
 結局、ポスト・モダン運動は、停滞・衰退してしまった。それは、資本主義の同一性が主流になったことが大きいだろう。グローバリゼーションである。これに対して、ポスト・モダン運動は、非力であった。しかし、グローバル資本主義は、脱コード化を行い、自我を脱関係化して、剥き出しの自我、即ち、単独の自我に還元する傾向をもつのである。つまり、グローバル資本主義自体も、自己矛盾的に、ポスト・モダン現象を引き起こすのであり、ポスト・モダン運動は必然なのである。しかし、上述したように、フランス・ポスト・モダンは、相対的差異と絶対的差異の区別を明確にしなかったために、このグローバル・キャピタリズムの引き起こすポスト・モダン現象に、対処できなかったと言えるのである。つまり、特異性、単独性がグローバリゼーションにおいて、多数(「マルチチュード」)出現するのであるが、この事象を、これまでのポスト・モダン知性は、これを十分に理論化できなかったのである。そのために行き詰まったと見る方が的確である。確かに、実質を喪失した用語の独り歩きもあったし、また、グローバリゼーションの同一性の力に非力だったこともあるが、一番の問題は理論的欠陥であったと考えられる。これは、日本においては、ポスト・モダンの旗手であった柄谷行人氏の理論的行き詰まりに見られることである。彼は、単独性の思想を追究してきたのだが、彼の唯物論のために、現象学やドゥルーズ哲学の理解が阻害されてしまい、探究が頓挫してしまい、カント/マルクス主義の近代主義に後退・退行してしまったのである。
 結局、鍵は、単独性・特異性の理論化である。そして、不連続的差異論は、単独性・特異性が、根源的に、イデア界に、不連続的差異として存することを提起して、この問題を解決したと考えられるのである。差異が差異でありつつ、共闘することが可能になることをこの理論は説いているのである。それまで、連帯・共闘するには、連続・同一化したために、反動・暴力化したのであったのである。
 世界は今や、ますます差異化(多極化)していくのであり、また、同時に、反動的な権力が全体主義を志向するのであるが、このポスト・モダン・キャピタリズムの状況において、後者を打破するには、差異を不連続化する必要があるのである。絶対的差異としての個となることが必要なのである。ここから、ポスト・モダンが真に革命的になるのである。それは、不連続的差異的共生共創主義である。不連続的差異論は、個を救うことで、世界共生を目指すのである。
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2006年05月05日

ウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』の思想:「魂」とメディア界:作業仮説としてのアトランティス文明




ウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』の思想:「魂」とメディア界:作業仮説としてのアトランティス文明

ブレイクは、「人間は魂から区別される身体をもたない。なぜなら、身体とは、五感によって弁別される魂の一部分であるから。」と言っている。

 ブレイクの説く「魂」とは、不連続的差異論のメディア界に相当するだろう。私は、メディア界を心身と捉えているが、正確に言えば、メディア差異である。ここでは、思惟(精神)と延長(感覚・身体)とが、即非である。だから、ブレイクの「魂」とは、思惟(精神)「即非」延長(感覚・身体)である。そう考えれば、正に、「身体とは、五感によって弁別される魂の一部分である」。

 近代主義は、当然、この思惟と延長とを切断・分離したのである。主客二元論である。ブレイクが、「この時代の主なる入口」と五感を呼んでいるが、それは、近代主義ないし唯物論を意味していよう。

 また、「エネルギーが唯一の生命であり、身体から発するのであり、理性は、エネルギーの限界(境界)ないし外的な周囲(円周)である」と述べているが、これは、「魂」⊇身体からエネルギーが発生するということであり、「理性」とは、エネルギーの知性、メディア界の知性ということだろう。敷延すれば、エネルギーと知性とは一体ないし即非であるということになるだろう。

 思うに、ブレイクのエネルギーという言葉は、とりわけ、意味深長である。これは、メディア界のエネルギーであり、単純な物質的エネルギーではなくて、共振差異的エネルギー=共感的エネルギーである。そう、太陽のエネルギーでさえ、差異の共振性=共感性によって発生しているのだ。もし、共振性=共感性を「愛」と呼べるならば、エネルギーは、差異の「愛」から産まれているのである。(ついでに言えば、女性の本性は、メディア界である。今日、メディア界を喪失した現象界化した女性がほとんどである。)

 この視点から見ると、心身平行論と呼ばれるスピノザ哲学は、明らかに、メディア界の哲学である。即ち、スピノザの説く「思惟」・「心」・「精神」とは、メディア界の知性であり、それは、ブレイクの「理性」であり、ブレイクの「身体」(ないし「魂」)・エネルギーと結びついているのである。つまり、メディア界の心身性(心即非身体)を基盤とする心身平行論と考えることができる。スピノザは、デカルト哲学をベースにしているので、心と身体の二元論を保持しているが、実質的には、スピノザの心と身体は心身性=メディア界を共通基盤にしているのである。そう考えると、スピノザの実体(神即自然)とは、メディア界のことではないだろうか。もっとも、イデア/メディア境界をもっているのであるが。つまり、イデア界の縁はもっているのである。

 さらに展開すると、ドゥルーズがスピノザに至高の評価を与えるのは、ドゥルーズ哲学が、メディア界の哲学、メディア差異を対象にした哲学であるということを意味していると考えられるのである。

 さらにさらに、展開すると、西欧文化におけるメディア界的思想の起源は何だろうかという問題があるのである。ブレイクの場合は、ケルト・コスモス主義あるいは、ケルト/東方キリスト教的コスモス主義だと思われるのである。スピノザ哲学のメディア界的コスモス主義はどこから発生しているのだろう。オランダという「地霊」なのか、それとも、ユダヤ教からの逸脱なのか。ユダヤ神秘主義(カバラ)なのか。スピノザとブリテンのロマン主義は、通じるものがあるのである。ブレイクには、グノーシス主義的な要素がある。また、カバラ的なところもある。簡単に言えば、神秘学が背景にある。すると、ケルト・コスモス主義、東方キリスト教、グノーシス主義、カバラ、等となる。そう、超越論的高次元内在論の思想である。結局、これが、スピノザとイギリス・ロマン主義(さらには、ロマン主義全般)に共通する起源ではないだろうか。そして、これが、ニーチェやフッサールで、絶対的ポスト・モダンの展開をすると考えられよう。

 超越論的高次元内在論とは、本来のイデア論ないしプラトニズムである。また、超越論的知性である数学である。文化史的には、西欧ないしヨーロッパにおいては、ルネサンスに結びつく。しかし、スピノザの存在の一義性とは、中世のドゥンス・スコトゥスに拠るのである。彼は、スコットランド出身である。つまり、ケルト文化圏出身である。すると、ケルト・コスモス主義が起源として考えられる。もし、そうならば、ケルト文化とは何かである。ケルト神話は先に見たように、折口信夫の日本宗教観に近いのである。簡単に言えば、ケルトとは、東洋主義である。あるいは、前アーリア民族的な文化である(ケルト人は、アーリア民族であるが、イギリスの巨石文化を受け継いだと考えられるのである)。

 今、アトランティスという言葉が浮かんだのである。作業仮説として、アトランティス文明が起源としよう。こうすると、巨石文化の高度文化性も説明できるし、また、プラトンが『ティマイオス』等で、アトランティスに言及していたことにも符号する。そう、ケルト十字(⊕の+の部分を延長する)は、ガウス平面の円運動を表現していると見ることもできる。また、アトランティス文明を想定すれば、超越論的知性である数学の起源も説明できるだろう。そうならば、起源は、アトランティスの叡智(ソフィア)・般若である(そう考えると、仏教哲学とプラトン哲学の近さを整合的に説明できるだろう)。

 では、折口信夫の日本宗教観とどうつながるのか。記紀神話は、メディア界の表現(イザナミ/イザナミ、アマテラス/スサノオ)と見ることができるし、また、イデア界の表現【造化三神:天之御中主神 (あめのみなかぬし)、高御産巣日神 (たかむすび)、神産巣日神 (かみむすび)】と見ることができる。また、ケルト神話と同様に、他界・常世を、海の彼方と見たのである。海の彼方とは、アトランティス大陸の名残と見ることができるだろう。以上のように考えると、すべては、アトランティス文明で糸がつながるのである。パズルはこれで、解決するのである。

Marriage of Heaven and Hell PLATE 4

The voice of the Devil

All Bibles or sacred codes. have been the causes of the following Errors.

1. That Man has two real existing principles Viz: a Body & a Soul.

2 That Energy. calld Evil. is alone from the Body. & that Reason. calld Good. is alone from the Soul.

3. That God will torment Man in Eternity for following his Energies.

But the following Contraries to these are True

1 Man has no Body distinct from his Soul for that calld Body is a portion of Soul discernd by the five Senses. the chief inlets of Soul in this age

2. Energy is the only life and is from the Body and Reason is the bound or outward circumference of Energy.

3 Energy is Eternal Delight

http://www.english.uga.edu/nhilton/Blake/blaketxt1/marriage_of_heaven_and_hell.html

詩画(版画)は以下。

http://www.blakearchive.org/exist/blake/archive/object.xq?objectid=mhh.i.illbk.04&java=yes

参考:般若

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5

Sophia

http://en.wikipedia.org/wiki/Sophia

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

http://en.wikipedia.org/wiki/Duns_Scotus

以下は、toxandria氏のスコトゥスに関する論考である。

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050403

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050404

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus 1266年 ? - 1308年 11月8日 )中世ヨーロッパの神学者 ・哲学者 。トマス・アクィナス 後のスコラ学 の正統な継承者。アリストテレス に通じ、その思想の徹底的な緻密さから「精妙博士」(Doctor Subtilis)といわれたフランシスコ会 スコットランド のドゥンスで生まれ、オックスフォードとパリ で哲学・神学を学んだ。最後はケルン で教え、そこで亡くなった。主著として「命題集註」が知られている。 士。盛期スコラ学と後期スコラ学をつなぎ、スコトゥス学派の祖となった。

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思想

トマス・アクィナス と異なり、スコトゥスは神学を「人間を神への愛に導く実践的な学問」であると考えた。また個物に本質を見出したアリストテレス から一歩進んで、存在が個物においてのみ成り立つ(「知性は個をとらえる」)と考えたところにスコトゥスの思想の特徴がある。さらには必然的なものである自然と、必然的なものでない意思の自由をわけて考えたスコトゥスにとって、人間の幸福は(トマスが言うような)神を直観することではなく神を愛することにあった。この考えは近代の主体主義 のルーツとなっていく。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9 " より作成

カテゴリ : キリスト教神学者 | 1266年生 | 1308年没

折口信夫『妣が国へ・常世へ 異郷意識の起伏

』から

「十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾(かつ)ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。

すさのをのみことが、青山を枯山(カラヤマ)なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣(ハヽ)が国」は、われ/\の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます国なるからの名と言ふのは、世々の語部の解釈で、誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた。

而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、訣(わけ)があると思ふ。第一の想像は、母権時代の俤(おもかげ)を見せて居るものと見る。即、母の家に別れて来た若者たちの、此島国を北へ/\移つて行くに連れて、愈(いよいよ)強くなつて来た懐郷心とするのである。併し今では、第二の想像の方を、力強く考へて居る。其は、異族結婚(えきぞがみい)によく見る悲劇風な結末が、若い心に強く印象した為に、其母の帰つた異族の村を思ひやる心から出たもの、と見るのである。かう言つた離縁を目に見た多くの人々の経験の積み重ねは、どうしても行かれぬ国に、値(あ)ひ難い母の名を冠らせるのは、当然である。

     二

民族の違うた遠い村は、譬ひ、母の国であつても、生活条件を一つにして居るものと考へなかつたのが、大昔の人心であらう。さればこそ、とよたまひめの「ことゞわたし」にも、いはながひめ等の「とこひ」にも、八尋鰐や、木の花の様な族霊崇拝(とうてみずむ)の俤が、ちらついて居るのだと思ふ。此方は、かう言ふ事実が、此島での生活が始つてからも、やはり行はれて居て、其に根ざして出て来たもの、と見ても構はぬ。

又、右の二つの想像を、都合よく融合させて、さし障りのない語原説を立てることも出来る。

ともかく、妣が国は、本つ国土(クニツチ)に関する民族一列の※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)から生れ出て、空想化された回顧の感情の的である。母と言ふ名に囚はれては、ねのかたすくになり、わたつみのみやなりがあり、至り難い国であり、自分たちの住む国の俗の姿をした処と考へて居なかつた事は一つである。此は、妣が国の内容が、一段進んで来た形と見るべきで、語部の物語は、此形ばかりを説いて居る。いなひの命と前後して、波の穂を踏んでみけぬの命の渡られた国の名は、常世(トコヨ)と言うた。

過ぎ来た方をふり返る妣(ハヽ)が国の考へに関して、別な意味の、常世(トコヨ)の国のあくがれが出て来た。ほんとうの異郷趣味(えきぞちしずむ)が、始まるのである。気候がよくて、物資の豊かな、住みよい国を求め/\て移らうと言ふ心ばかりが、彼らの生活を善くして行く力の泉であつた。彼らの歩みは、富みの予期に牽(ひ)かれて、東へ/\と進んで行つた。彼らの行くてには、いつ迄も/\未知之国(シラレヌクニ)が横(よこたは)つて居た。其空想の国を、祖(オヤ)たちの語では、常世(トコヨ)と言うて居た。過去(スギニ)し方の西の国からおむがしき東(ヒムガシ)の土への運動は、歴史に現れたよりも、更に多くの下積みに埋れた事実があるのである。大嘗会のをりの悠紀・主基の国が、ほゞ民族移動の方向と一致して、行くてと過ぎ来し方とに、大体当つて居るのも、わたしの想像を強めさせる。東への行き足が、久しく常陸ぎりで喰ひ止められて延びなかつたことは事実である。祖たちの敢てせなかつたことを、為遂げたのは、毛の国から更に移り住んだ帰化人の力が多い。此は、飛鳥・藤原から、奈良の都へかけての大為事であつた。

祖たちが、みかど八洲の中なる常陸の居まはりに、常世(トコヨ)並びに、日高見(ヒタカミ)の国を考へたのも、此処に越え難いみちのおくとの境があつて、空想を煽り立てたからであつた。常世(トコヨ)を海の外と考へる方が、昔びとの思想だとする人の多からうと言ふことは、私にも想像が出来る。併し今の処、左袒多かるべき此方に、説を向けることが出来ぬ。

書物の丁づけ通りに、歴史が開展して来たものと信じて居る方々には、初めから向かぬお話をして居るのである。常世(トコヨ)と言ふ語の、記・紀などの古書に出た順序を、直様(すぐさま)意義分化の順序だ、との早合点に固執して貰うて居ては、甚だお話がしにくいのである。ともあれ、海のあなたに、常世(トコヨ)の国を考へる様になつてからの新しい民譚が、古い人々の上にかけられて居ることが多いのだ、とさう思ふのである。海のあなたの大陸は蒲葵(アヂマサ)の葉や、椰子の実を波うち際に見た位では、空想出来なかつたであらう。其だから、大后一族の妣(ハヽ)が国の実在さへ信じることが出来ないで、神の祟りを受けられた帝は、古物語を忘れられた新人として、此例からも、呪はれなされた訣になる。彼らは、もつと手近い海阪(ウナザカ)の末に、わたつみの国と言ふ、常世(トコヨ)を観ずる様になつて来た。いろこの宮を、さながら常世(トコヨ)と考へることは、やはり後の事であるらしい。 」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/13212_14465.html

p.s. ケルト・ブリテンは、20世紀に入り、大爆発した。文学では、「モダニズム」と呼ばれるものである。(それは、完全に錯誤の命名であり、例えば、前期ポスト・モダニズムと呼ぶべきものである。)D.H.ロレンス、ヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス、T.S.エリオット他である。とりわけ、ロレンスは、西方キリスト教を突き抜けて、さらには、皮相なプラトニズムを突き抜けて、ケルト・コスモス=メディア界を体現し、表現したのである。

 また、哲学では、巨人のホワイトヘッドが、『プロセスと実在』で、メディア界の哲学を打ち立てたと考えられるのである。

 結局、ケルト・ブリテンは、アトランティスの叡智に現代的に反復・回帰したと言えよう。

p.p.s. フランス人ドゥルーズが、英米文学を評価するのは、ドゥルーズには、ケルトの血が流れているからではないだろうか。そう、ニーチェに関しても、ケルトの血を感じるのである。これらについては後で検討したい。

3p.s. 前期ポスト・モダニズム文学として、ジョイスと並び称されるプルーストをあげられるが、ケルトと関係があるのではないかと検索していたら、あった。

「ここで、プルーストの作品構造と、時間が凝固してしまったようなヨーロッパ中世の教会堂建築との血縁性が明らかになる。

 プルーストは、ラスキンの翻訳や、その長い序文執筆によって、ラスキンの美意識と彼の鋭い観察眼をわがものとし、

ゴシック建築をはじめ、中世芸術に通じていた。

さきの引用で、言及されていたロマネスク建築を例にとれば、それは、

「歴史のすべてを監禁し、幽閉し、圧搾している」と表現されていた。

ここでは、時の流れとしての歴史は存在しない。その代わりに、重層する空間化された「時」が存在する。

 現代のわれわれにまで伝わる、例えば十二世紀のロマネスクの教会堂は、

後陣のこの部分は十世紀、柱頭彫刻のいくつかは十一世紀、壁画のこの部分は十三世紀、

この修復はバロック期・・・といった具合に、ひとつの建物の中に、それぞれ具体的な「時」が息づき併存している。

さらには、教会堂の地下にケルト時代の泉があったり、ローマ時代のミトラ信仰の祭壇があったり、

地下墳墓(クリプト)があったりすることもある。

一つの建築物の中に、可視的なレヴェルで、複数の「時」が重層したイマージュの構造をとる。

歴史の連続性が、視覚に訴えられるのである。

 したがって、『失われた時を求めて』の冒頭部、プルースト文学の核心をつくるマドレーヌ菓子の挿話も、

その前後で、古代ケルト人の信仰に触れた一文が置かれていることは、注意深い考察に値しよう。

それは決して偶然ではない。

私はケルト人の信仰をいかにももっともだと思う。それによると、われわれが亡くした人々の魂は、何か下等物、獣とか植物とか無生物とかのなかに囚われていて、われわれがその木のそばを通りかかったり、そうした魂がとじこめられている物を手に入れたりする日、けっして多くの人々には到来することのないをのような日にめぐりあうまでは、われわれにとってはなるほど失われたものである。ところがそんな日がくると、亡くなった人々の魂はふるえ、われわれを呼ぶ。そしてわれわれがその声をききわけると、たちまち呪縛は解 かれる。われわれによって解放された魂は、死にうちかったのであって、ふたたび帰ってきてわれわれとともに生きるのである。

 

 ここで、プルーストは、カエサルのゴール征服以前、フランスの土地にいたケルト人の信仰にある霊魂不滅の説をとりあげている。樹木の霊力や魂の再生に触れ、死を征服し、魂の甦りを信ずるケルト人たちの信仰について述べている。プルーストはこの話を、理性や意志の力ではいかんともしがたい隠れた記憶を、感覚が偶然的な契機によって喚起してくれるという、あのマドレーヌ菓子による至福の体験の描写にふかく繋げている。われわれの心の深層に、ふだんは眠っている反覆、繰り返しの単位であった太古の時間は、容易に変化しないものとして、歴史の基層に確かに存在する。」

http://osaka.cool.ne.jp/micay/temps.htm

『夢想書庫:プルースト』

4p.s. 先に、ケルトと結びついた東方キリスト教のことを述べたが、『叡智の禁書図書館』(http://library666.seesaa.net/

では、アリウス派であろうと推測している。これは、キリスト教異端で、イエスの神性を否定しているのである。いわば、三位不一体論である。これは、不連続的差異論の三層構成と一致するだろう。「父」/「聖霊」/「子」である。三位不連続である。

 また、D.H.ロレンスが、大天才的作品『死んだ男』で、「死んだ」イエスを、単独的な、コスモス的な人間に変えたことを想起するのである。ケルト・ブリテンも不思議ではない。ケルト・アリウス派と言うべきなのだ。

参考:アリウス派

http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/bun041.htm

http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official

5p.s. ケルト・アリウス派的ブリテン・コスモス主義を、より広く考えようとすると、19世紀後半から20世紀初めのロシア文学にぶつかる。文豪トルストイやドストエフスキーたちの文学は、奇蹟的である。ロシア文学は、ロシアの大地から切り離しては考えられない。そして、また、ロシア文化には、コスモス主義がある。これは、東方キリスト教から発しているだろうし、また、土着的なものがあるだろう。大地とコスモスの一体性がある。一言で言えば、メディア界文学・文化である。だから、当然、ケルトと通じるものがあるのである。しかし、アトランティス文明を根源として想定したとき、どうつながるのか。そう、キリスト教の問題があるのである。キリスト教は、本来は、アリウス派的な三位不一体であったと思われるのである。あるいは、グノーシス主義的なキリスト教であったと思われるのである。さらに、言えば、超越論的高次元内在コスモス主義である。これが、東方キリスト教に伝播しているのだろう。ギリシア正教である。ギリシアは、東西の結節点である。そう、ギリシアは、古代ギリシアは、古代エジプトの叡智を継承したと思われる(プラトンの『ティマイオス』で、ギリシア人は、エジプト人から見たら、子供であるという言葉が伝えられている)。これは、また、アトランティスの叡智であろう。つまり、東方キリスト教はアトランティスの叡智を継承しているのである。だから、ケルト・アリウス派的ブリテン・コスモス主義と共通点をもつのである。両者、アトランティスの叡智の継承なのであると考えられるのである。

 西洋文明は、アトランティスの叡智の破壊である。そう、アトランティス文明を破壊させたと考えられる同一性の悪魔アーリマンの邪悪な知性を西洋文明は発展させたのだ。それが、近代主義であり、とりわけて、アメリカ文明である。西洋文明は、占星術の双魚宮(魚座)にふさわしく、二面性をもっているのだ。一つは、アトランティスの叡智の継承とアトランティス破壊の悪魔的知性の継承である。今日、前者を批判的に継承しなくてはならず、今や、不連続的差異論やヌース理論として、日本で新生したと言える。ポスト西洋文明である。新アジア文明である。新アトランティス文明である。新アジア=新アトランティス=新ユーラシア=新地球ポスト文明・超文明である。

6p.s. 参考:ベルギー、オランダとケルト

「ベルギー

  国名はローマの征服以前住んでいたケルト系住民ベルガエ族に由来しています。オランダ、ルクセンブルク、ベルギーを含めてネーデルランドと呼んでいましたが、19世紀ごろから分裂してベルギーを国名として使うようになりました。」

http://www.mita.lib.keio.ac.jp/lib_info/display_history/189.html

「オランダの最古の都市Nijmegen(ネイメーヘン)とケルト」

http://plaza.rakuten.co.jp/patitani5555/diary/200601230000/

のコメント参照

その他

http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/forg/forg36.htm

http://www.geocities.jp/beerforum/bbhistory.htm

7p.s. 因みに、私がクラシックのCDで、一枚あげよと言われたら、グスタフ・レオンハルトの演奏によるバッハの『フーガの技法』である。とても、東洋的な幽玄な、わびさびのある、能楽のような、間のある演奏である。また、バッハの音楽、特にこの曲は、ケルト的な、多元的な入り組んだ文様を想起させないだろうか。バッハのポリフォニーとケルト文様は比較する価値がある。

8p.s. ロシアのコスモス主義

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004906772.html

http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/ETHER1.html

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9970051296

http://72.14.203.104/search?q=cache:daaC_Cm1JH8J:blog.melma.com/00122700/20041103075652+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80sophiology&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1&client=firefox

http://72.14.203.104/search?q=cache:mdjhiGAnGJ8J:blog.melma.com/00122700/20041103075342+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80sophiology&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2&client=firefox

http://72.14.203.104/search?q=cache:-OQecW1jCvYJ:blog.melma.com/00122700/20041103080036+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80philosopractical&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2&client=firefox

http://72.14.203.104/search?q=cache:0b-_BYSqxikJ:blog.melma.com/00122700/20041103080425+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80philosopractical&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1&client=firefox

映画ならば、タルコフスキーだろう。
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2006年04月18日

差異の共立とは何か:東西文明統一とパラモダン・コスモス超文明/新ヘレニズムの誕生

次のODAウォッチャーズ氏の論考は、とても意味深長であるので、この問題に関して検討したい。

「人間の存在認識の多様性と(不連続的差異論上の)メデイア界について」『海舌』http://blog.kaisetsu.org/?eid=363490

結局、Aという命題と非Aという命題が、同時成立する事象をどう見るのかということである。イデア界においては、不連続な差異が共立しているので、まったく問題はない。問題は、メディア界においてである。即ち、心身=メディア界を問題とするとき、差異の相互の関係はどうなるのかということである。差異の共立が成立するならば、どういうものであろうか。
 以下では、西洋文化における視覚優位性が問題となっていたのであるが、それに対して、ODA ウォッチャーズ氏は、メディア界における諸感覚の共立について、述べていたのである。一種共感覚に通じる考察である。とまれ、各差異でありつつ、同時に、各差異ではないという矛盾同一が指摘されているのである。この共立事象は、メディア界を考えると、とりわけ、イデア/メディア境界を考えると、わかりやすいのである。不連続性と連続性が共立しているのである。狭義的には、イデア/メディア境界の事象であるが、広義においては、メディア界の事象と言って間違いないのである。なぜなら、メディア界とは、上端にイデア/現象境界ともち、下端にメディア/現象境界をもっているからである。
 では、なぜ、西洋文化は、視覚優位なのかと、単純に考えると、これは、やはり、西洋文化の根本的二元論によるのではないだろうか。霊肉二元論でもいいし、善悪二元論でもいいし、主客二元論でもいい、心身二元論でもいい。これは、これまでの私の検討から見ると、同一性構造によるのである。つまり、西洋文化・文明において、同一性構造が、他の文化・文明よりも徹底的に作用して、二元論化したと思えるのである。同一性構造とは、差異を徹底して否定して、無化して、同一性で感覚・知覚・認識を満たす構造のことである。これは、弁証法構造とも言える。図式化すると、差異1・同一性・差異2・同一性・差異3・・・・・差異nであり、差異1=差異2=差異3・・・・=差異nとなるのである。これは、自我同一性構造とも呼べるだろう。丁寧に言えば、自我同一性弁証法構造(自同律)と言えるだろう。これは、ユダヤ・キリスト教的構造である。(私見では、古代ギリシアは、基本的には、差異に関わっていた。もっとも、パルメニデスのように不動の一者に関わっていた哲学者もいた。)この自我同一性とは、メディア/現象境界に必然的に発生するものである。1/4回転によって、差異の境界がゼロ化し、さらに、垂直に捩れて、ゼロ度が、ゼロ化されて、無となる。つまり、差異が完全に一体化するのである。このゼロのゼロ=無=差異の否定が同一性構造である。これは、確かに悪魔的である。シュタイナーはこれを、アーリマンと呼んだと考えられるのである。これは、暴力である。二項対立暴力である。西洋文明が本質的にもっている暴力である。アメリカ合衆国国家に如実にある暴力である。覇権暴力である。父権暴力である。戦争の原動力である。 
 視覚優位性と同一性構造の関係であるが、差異の否定性=無=同一性構造が、差異を否定するのであるが、このとき、同一性と差異の間に《距離》が生じるのである。この透き間が消去しようとするのが、視覚なのではないだろうか。では、なぜ、視覚であって、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、等々の諸感覚ではないのか。これは、視覚のもっている特殊性を考えるとわかりやすいだろう。視覚は、主体と対象(客体)との距離を発生させて、主客二元論化するのである。つまり、個体の同一性を確固のものとするのである。他の諸感覚では、同一性ではなくて、他の差異との関係が発生して、同一性が形成されないのである。例えば、触覚を考えればいい。自分の両手を合わせてみれば、どちらが、主体か客体がわからなくなるだろう。同一性構造にとって、視覚が重要なのである。
 では、同一性と視覚との直接的結びつきはないのだろうか。思うに、これは、光と関係しているだろう。メディア界は、光子の領域である。そして、これが、現象化するのであるが、メディア界における光とは、差異のある光である。差異的光子である。これが、現象化すると、差異が同一性によって無化されて、いわば、同一性の光となるのではないだろうか。この同一性の光が、主客二元論の視覚を形成するのではないだろうか。つまり、差異の光ではなくて、同一性の光が、西洋文化・文明における視覚優位性を発生させると考えられるのである。
 もし、そのように考えられるならば、少なくとも二種類の光があることになる。アインシュタインの光とはどちらなのか。思うに、同一性の光を観測しているのではないだろうか。これが、光速度一定となるのではないだろうか。差異の光は、量子力学が扱っているのではないだろうか。確かにそうだろう。2つの光。ここで、飛躍的に言うと、イデア界が黒い光ならば、現象界が白い光ならば、メディア界の光、差異の光とはどう形容できるのか。一面は白い光だが、他の一面は黒い光だろう。白と黒が合わさっている光である。両面的光、ヤヌス的光である。(D.H.ロレンスの、太陽は背を向けているという言葉を想起する。)これは実に不思議な光、二重光であろう。陰影のある光。光と思えば闇であり、闇と思えば光である。少し、真夏の太陽を想起する。つまり、光に闇が透けているし、闇から見ると、底に光が輝いているのである。《ここで、シュタイナーが、青空の青は、闇が光の領域に入った時の色で、夕焼けの赤は、光が闇に入る時のいろであるということを言っていた(?)ことを想起する。》
 とまれ、メディア界の光は、対極的であり、グラデーションのある光ではないだろうか。虹色かもしれないし、さらに、微妙かもしれない。もっとも、陰影多彩である。幻想的な感覚性をもつのではないだろうか。また、ここで、電磁波のスペクトルを想起するのである。黒は紫外線を、白は、赤外線を想起する。この事柄は後で検討しよう。
 二重光の問題に戻ると、量子力学の対象とする差異の光とは、二重光であり、黒い光と白い光である。あるいは、陰陽光と呼んでもいいだろう。直観では、これは、無限速度であり、同時に、光速であろう。先に、非局所性について言及したが、これは、黒い光を考えると、正しいのではないだろうか。否、精緻に考察しよう。イデア界に黒い光、現象界に白い光があるならば、メディア界には、二種類ではなくて、三種類の光があるのではないだろうか。即ち、不連続的差異の光(黒い光)、共振的差異の光(陰陽の光)、同一性の光(白い光)の三種類である。そして、量子力学は、この陰陽の光を対象としているだろう。確かに、一面では、同一性の光を帯びるから、光速度一定であろう。しかし、同時に、差異共立的に、超光速度を帯びるだろう。メディア界は不可分時空間である。ここでは、時空間が揺らいでいるのだろう。光が無限速度になったり、通常の光速度になったり、あるいは、その中間速度になったりするのではないだろうか。ベルの定理、非局所性とは、本当は、メディア界のこの事象を指しているのではないだろうか。
 本件のテーマからずいぶん離れてしまったが、ここで、テーマに即すと、西洋文化・文明において視覚優位性があるのは、同一性の光が支配的だからであるということを、ひとまず、述べておく。そうすると、量子力学を含めてポスト・モダン理論やパラ・モダン理論は、明らかに、脱西洋文化・文明、ポスト西洋文化・文明を説くことになる。それは、「東洋文化・文明」的である。しかし、さらに、超東洋文化・文明も説くだろう。これまでのポスト・モダン理論は、イデア界とメディア界を混同していたのであり、そのため、行き詰まってしまったと考えられるのである。しかし、新ポスト・モダン理論=パラ・モダン理論である不連続的差異論の出現によって、混同・混乱が解消されて、ポスト・モダンの問題が明晰・明確になったのである。つまり、これまでの東洋文化・文明も、古ポスト・モダン理論と同様であったと思われるのである。つまり、差異の連続性までは達したが、不連続性までは、明瞭に達していたなかったと考えられるのである。だから、新ポスト・モダン理論=パラ・モダン(トランス・モダン)理論は、単に東洋文化・文明への回帰ではなくて、それを超えた新東洋文化・文明を説くことになるのである。そして、それは、プラトン主義の創造的発展となるのである。ここで、東洋と西洋とが、創造的に、新たに、合体し、統一するのである。東西統一文化・文明の誕生がここに出現したと言えよう。新地球世界宇宙文化・文明、即ち、新コスモス超文明の誕生である。
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2006年04月15日

不連続的差異と素粒子:ポスト量子力学とポスト大乗仏教:新イデア宇宙ポスト文明に向けて

不連続的差異と素粒子:ポスト量子力学とポスト大乗仏教:新イデア宇宙ポスト文明に向けて

不連続的差異・イデアの垂直/水平十字志向性強度とは、ミクロの黒い光たち、ミクロの玄光たちであり、そのデュナミス/エネルゲイアの発動である1/4回転によって、原初的光=素粒子・量子(=メディア)時空間を発生させる。聖書の光あれである。エローヒームによる光の創造である。1/4回転事象において、イデア界のイデアの境界が、ゼロ・空化するのであり、イデア1とイデア2が、言わば、接するのである。この時、ゼロ度共鳴・共振が発生する。これが、素粒子・量子の生成を意味するだろう。即ち、共振するイデア・「ネットワーク」の生成である。(思うに、華厳経宇宙は、このメディア宇宙ではないだろうか。)つまり、ゼロ度となることで、イデア同士が共振して、振動・共振粒子が発生して、それが、波動となるということだろう。即ち、不連続的差異であるイデアが共振して、素粒子・量子となるということだろう。即ち、この共振する不連続的差異=イデアが、粒子即波動ということである。問題は、この粒子即波動の意味である。
 問題は、ベルの定理、非局所性にある。粒子即波動で考えると、無限距離を、超光速で、粒子即波動が移動する事態となる。これは、矛盾である。問題点は、観測の意味にあるのだろう。観測によって、量子の位置が決まったり、速度が決まったりするが、そこでは、ハイゼンベルグの不確定性原理がはたらく。しかし、この事象は、現象界(近代主義的自然科学)からの観測を介入させるから、発生すると考えられるのである。考えれば、量子の存するメディア界においては、粒子即波動であり、不確定なことはなにもない。例えば、ある量子q1があるとしよう。これは、メディア界においては、粒子p1であり、且つ、波動w1である。即ち、量子q1=粒子p1即波動w1である。
 しかるに、これを、現象界(粒子と波動を分離する二元論的近代主義的自然科学)の観点から見ると、量子を、粒子か、波動に分離させてしまうのである。もともと、粒子即波動である量子を、粒子と波動に分離するのは、誤りである。メディア界の次元を、現象界の次元から把捉するのは、誤謬である。例えば、光子である量子を、2つのスリットに通す周知の実験を行なったとき、スリットを通った光子が一個観測される。そして、どちらのスリットを通ったのかということになるのである。これは、愚問である。なぜなら、量子は、粒子即波動であり、波動自体が粒子であるのだから。光子は、両方のスリットを通ったのである。一個の光子が2つのスリットを通ったのである。これを、確率とするのは、誤りである。
 非局所性の問題に返ると、その問題が生じるのは、今述べたことに関わる。即ち、不確定な量子が、例えば、地球からアンドロメダ星雲の距離に存しているが、それが、観測によって、一瞬のうちに収束して、粒子として、確定されるのであり、この距離を量子が超光速で移動したことになるのである。しかし、これは、誤りである。不確定な量子とは、現象界の観測から考えられたものに過ぎず、実際は、確定した量子が存在しているのである。一瞬のうちに、超光速で移動するのではないのである。量子は、メディア界の事象として把捉しなくてはならない。
 イデア界をガウス平面として、X軸・実軸をイデア軸、Y軸・虚軸をメディア軸、それらに直交するZ軸を現象軸と作業仮説すると、メディア界は、Y軸―Z軸平面となるだろう。そして、この平面から、空間/時間4次元の現象界(仮象界)が発現(仮現)するのである。量子力学は、メディア界の量子の確定の事象を、現象界から観測して、不確定の事象として把捉するのである。つまり、現象軸Z軸の同一性構造によって、主客二元論の近代主義的自然科学が発生して、それは、共振イデアである量子を、物質化して、延長の時間・空間次元に置くのである。そのため、非局所性となった量子が、言わば、超光速で、粒子に収束することになるのである。換言すると、非局所性とは、もともと、メディア界の事象である量子・素粒子(素粒子の方が的確であろうから、これから、素粒子とする)を、現象界・時間/空間4次元の視点からの観測から発生すると言えるだろう。現象界の観測から不確定となるに過ぎない。すると、ここで、非局所性の考え方が崩壊するのである。また、量子力学自体も、崩壊するだろう。素粒子を不可分時空間であるメディア界での事象と見る科学が必要となるのである。それは、メディア界的物理学である。イデア論的物理学である。
 ここで、光子について考えてみると、それは、本来、無限速度であろう。なぜなら、イデア界の事象であるし、また、時空間そのものであるからである。問題は、光速の問題である。相対性理論の問題である。直観で言うと、現象軸Z軸の同一性が、主客二元論的時空間=現象界を発現させるのであり、この同一性構造形式が、光速を発生させているのではないのか。つまり、現象軸の同一性構造形式が、素粒子・光子を測定して、光速度を観測しているのだろう。つまり、現象界=同一性構造の枠から素粒子・メディア界を観測すると、光速度一定という事態となるのだろう。つまり、光子は、もともと、無限速度である。というか、不可分時空間事象であるから、無時間・無空間である。だから、光子、素粒子を記述するには、メディア界の科学が必要であり、それは、虚軸であるY軸と現象軸であるZ軸との複素平面となるだろう。ODA ウォッチャーズ氏の『不連続的差異研究』の座標はそのように見ることができるだろう。また、ヌース理論のヌース界もそのように捉えることができるように思えるのである。
 考察をイデア界へと進展させると、そこは、完全なイデアの領域である。もはや、共振によるイデアのネットワークは存していない。ただ、「超越論的主観性」による「間主観性」があるのみである。不連続的差異であるイデア、不連続的イデアの共立空間があるのみである。それは、黒いイデアたちである。ここが、究極の世界・玄界・叡知界である。このイデア界・ガウス平面における不連続な黒いイデアたちの永遠回帰がここにはあるだけである。「至高天」である。双対的生成消滅が反復されるのである。地球や宇宙を生成消滅させるのである。ゲーテの『ファウスト』の「母の国」であり、折口信夫の「常世」であり、ケルト神話の他界である。死者たちの住み処・冥界即ち浄土・天国である。ここでは、最後の審判はありえない。一神教はまがい物である。ただただ、永劫回帰である。絶対的永劫回帰である。ここでは、無数・無限の自我たちが存するのである。無数・無限の「わたし」たちが存するのである。そして、おそらく、「対話」していているのである。ポリフォニー的に対話しているのである。これこそ、コスモスの音楽であろう。モーツァルトの音楽であろう。円空のいう「法の御音」であろう。D.H.ロレンスが、「馬で去った女」で表現したコスモスの妙音であろう。コズミック・ハーモニーである。
 では、これは、メディア界の音ではないのかという疑問が起こるだろう。確かに、メディア界の共振するイデアの音楽があるだろう。しかし、これは、純粋な音楽ではないだろう。つまり、不連続的イデアが、ここでは、その純粋性を喪失して、いわば、協和音となっているからである。ゼロ化によって、共振的連続化が生起して、イデアは、言わば、不純になっているのである。だから、メディア界の音楽とは、濁った音楽であると言えよう。
 ここで、禅の瞑想について言うと、それは、イデア界へと心身を回帰させることだろう。つまり、空(くう)とは、イデア界のことである。しかし、大乗仏教の問題は、メディア界的矛盾同一とイデア界的絶対的差異の共立性とを混同していると考えられる点である。ちょうど、ドゥルーズ哲学の問題点と重なると言えよう。
 結局、ポスト量子力学、ポスト大乗仏教である。つまり、ポスト西洋文明、ポスト東洋文明であり、新イデア・コスモス文光の誕生である。
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2006年04月07日

何回の1/4回転によって現象が生まれるのか:ガウス平面の回転について:西洋文明の消滅期に臨んで

複素平面での1/4回転と不連続的差異論の3層構成との整合性が、私の考えにおける、現時点での、いちばんの難点、難問である。
 先の考察から、問題点は、現象界が発現するのに、1/4回転は何回必要なのかということである。1回?、2回?、3回?・・・。あるいは、観点を変えて、メディア界から現象界が生じるのは、どういう力学によるのか。後者を検討した方が、適切なのかもしれない。
 メディア界は、いわば、多様体の世界である。生成変化の世界である。不連続性と連続性が共存しているとも言える。これは、問題ない。しかし、これが、現象化することは、どういうことなのか。私見では、同一性の構造の力学がはたらいているということである。ならば、メディア界から同一性の発生を解明しないといけない。一番簡単に、図式化して考えよう。

イデア界:差異1⊕差異2(差異1⇔差異2)

メディア界:差異1☯差異2

現象界:差異1=差異2

☯から=への変容の力学をどう見るのかである。
 その前に、ここで説明すると、ドゥルーズ&ガタリの内在平面ないし存立平面とは、メディア界のことだと考えられる。差異が、《離接》している。鈴木大拙の用語では、《即非》である。これは、1回目の1/4回転によってもたらされるだろう。そして、イデア界・複素平面に直交するZ軸を時間軸としよう。これで、単純に、らせん的形状が発生すると言えるだろう。問題は、ゼロ化である。ゼロ化は、Y軸で発生すると考え、X軸でゼロ化が解消すると考えてきた。しかし、問題は《視点》である。最初の1/4回転は、X軸上から見ると、ゼロである。そして、2回目の1/4回転では、Y軸上から見ると、ゼロである。以下同様である。つまり、X軸視点とY軸視点が交互に入れ替わって、ゼロ化が発生して、螺旋形状運動が発生すると言えるだろう。だから、奇数回の1/4回転は、X軸視点、偶数回のそれは、Y軸視点となる。思うに、この2つの視点は、不連続的差異・イデアのもつ垂直/水平志向性によるのではないだろうか。即ち、第1回転では、不連続的差異・イデアの水平的志向性の視点から見ると、ゼロ化・ゼロ度となり、第2回転では、不連続的差異・イデアの垂直的志向性の視点から見ると、ゼロ化・ゼロ度となるのではないのか。不連続的差異・イデアの垂直/水平十字志向性がポイントとなる。 
 この点を精緻に考えてみよう。X軸では垂直志向性と水平志向性があるが、それが、1/4回転して、Y軸上に移動するが、そのとき、X軸上での垂直志向性は、逆に、水平志向性になり、水平志向性が垂直志向性になると言えるだろう。つまり、十字志向性が逆転するのである。X軸では、+の垂直志向性と−の水平志向性がある。これが、1/4回転して、−の垂直志向性と−の水平志向性となるだろう。これが、第1回転である。そして、第2回転の結果、−の垂直志向性と+の水平志向性が生まれる。そして、第3回転では、+の垂直志向性と+の水平志向性がある。そして、第4回転・1回転では、回帰して、+の垂直志向性と −水平志向性がある。図式化しよう。

ゼロ回転:+X軸の垂直/水平志向性:+、−
第1回転:+Y軸の垂直/水平志向性:−、−
第2回転:−X軸の垂直/水平志向性:−、+
第3回転:−Y軸の垂直/水平志向性:+、+
第4回転:+X軸の垂直/水平志向性:+、−   (1回転)

さて、ゼロ化の問題であるが、+X軸において、不連続的差異は水平共立している。しかし、+Y軸においては、不連続的差異の水平共立が解消して、ゼロ化が生起している。しかし、垂直共立は生起しているのである。このことを、+X軸で考えると、垂直共立はゼロ度であり、水平共立は言わば、+である。このことから考えると、これまで、イデア界と呼んだものは、不連続的差異の偶数回転、メディア界は奇数回の回転に関係しそうである。つまり、イデア界とメディア界の交互変換が複素平面にはあることになるだろう。イデア/メディア/イデア/メディア/・・・である。
I/M/I/M/・・・である。しかしながら、これだと、イデア界とメディア界の質的区別がなくなるだろう。イデア界ないしメディア界の変容だけがあるだけとなるだろう。だから、不連続的差異の垂直/水平十字志向性と、不連続的差異の存立性ないし共立性については、区別する必要があるのではないだろうか。後者、存立・共立性は、X軸の事象であると限定すべきなのではないだろうか。そして、Y軸へ回転移動したとき、この存立・共立性が解消して、メディア界的《離接》・《即非》・《絶対矛盾的自己同一》が発生するのではないだろうか。ならば、I/M/I/M/・・・交互変換とは、無(空)と有との交互過程となろう。即ち、無/有/無/有/・・・である。そして、「原軸」の−X軸の不連続的差異・イデアを考慮すると、これは、双対的過程である。双対的生成消滅過程である。
 そうすると、やはり、メディア界的螺旋運動は、言わば、破線的螺旋運動となる。しかし、《差延》が発生するため、連続化のシミュラクルが発現(仮現・仮象)すると言えよう。以上のように作業仮説的に前提を確かにしたので、いよいよ所期の目標である。現象化について検討しよう。
 1/4回転の反復によって、垂直に捩れて、Z軸が生まれる。これを時間軸と作業仮説しよう。問題は、発生するシミュラクル螺旋形状運動が、メディア界なのか現象界なのかということである。直観では、メディア界だと思われる。そうならば、現象界はどこに発現(仮現・仮象)するのか。先にも使用したが、Y軸で形成される《有》的差異をメディア差異と呼ぼう。そして、シミュラクルの螺旋は、当然、メディア差異と考えられるのである。ならば、差異1☯差異2の共振連結多様体である。(推測するに、DNAの二重らせんは、これの現象的発現ではないか。)だから、ここに同一性構造を入れれば、現象化の起因となる。差異1☯差異2の螺旋形状があり、この螺旋に差異1=差異2の同一性構造を入れればいいのだろう。私は、これまで、同一性構造は、1/4回転によって発生すると、長い間考えてきたが、どうなのだろうか。ガウス平面での1/4回転の反復には、私の考えるような同一性構造を発生させる1/4回転はないように思えるのだが。
 思うに、Z軸をどう理解するかである。又は、Z軸の発生の力学をどう見るのかである。これは、垂直の捩れによると考えられる。そう、こういうことではないのか。1/4回転によって、Y軸へ不連続的差異が回転移動するが、同時に、Y軸からZ軸への1/4回転が生起するのではないのか。つまり、一つの1/4回転は、ガウス平面に直交するZ軸の生起を意味するということではないのか。即ち、一つの1/4回転とは、二重の1/4回転、立体的1/4回転であると言えるのではないだろうか。これを作業仮説としよう。そして、このZ軸が、同一性構造の軸となるだろう。Y軸において、不連続的差異の共立とメディア化の「矛盾同一」があった。ならば、Z軸においては、メディア化と同一化の「矛盾同一」が存するだろう。なぜなら、Z軸では、(0,0,z)が発生して、イデア界も、メディア界もゼロ化となるからである。このメディア差異のゼロ化が同一性化である。即ち、差異1=差異2の「=」である。
 従来は、Z軸からさらに垂直の捩れを考えて、P軸を考えたのである。これで、4次元になるのである。しかし、この捩れは発生しないように推測されるのである。だから、Z軸の視点の問題となるだろう。Z軸視点から、メディア差異の螺旋形状を見ると、それは、(0,0,z)あるいは、(0,0,t)である。イデア界は完全に消失している。そして、メディア差異の共振極性であるが、それは、同一性と「矛盾同一」していると言えよう。そして、この「矛盾同一」であるが、ここで、否定性が発動していると考えられるのである。なぜなら、ここでは、Y軸上の「矛盾同一」とは異なり、メディア差異の「ゼロ」・「空」(くう)が、無化されるからである。「ゼロ」とは、有と無との中間態であるが、「ゼロ」の「ゼロ」化によって、無化が発生すると考えられるのである。この無化が否定性である。
 では、現象化はどうやって発現するのか。もう、さらなる垂直の捩れはないのである。Z軸は、不連続的差異論の3層構成から見ると、メディア/現象境界・MP境界と考えられる。現象発現力学は何か。ここで発想を変えて、Z軸の現象面を仮定すると、これが、現象界なのではないだろうか。つまり、Z軸、MP境界が現象界ではないのかということが考えられるのである。ここでは、自然現象の生成消滅が見られるだろう。そう、プラトンの洞窟理論から言えば、洞窟のスクリーンが、Z軸・MP境界となるだろう。ものが仮現・仮象(マーヤ)する面である。
 そうすると、現象界とは、メディア差異と同一性の争闘の領域になるだろう。そう、これが、旧約聖書のヤハウェが自然宗教を迫害するに現れているだろうし、今日では、アメリカの覇権主義を考えればいいのである。
このように考えると、現象界とは、Z軸・MP境界そのものの事象であるということとなるだろう。
 では、西欧近代主義・近代合理主義・近代自我主義を考えると、それは同一性構造のメディア差異に対する勝利と言えるのであるが、それはどう説明されるだろうか。Z軸・MP境界では、「矛盾同一」であり、対立物が並存しているはずではないのか。しかし、これは、Y軸でのイデア/メディア境界でのような、ゼロ度の共存性はないのである。なぜならば、ここでは、いわば、弁証法が生起しているのであるからだ。つまり、暴力・権力である。父権暴力である。発生した同一性は、メディア差異を否定して、暴力化するのである。だから、西欧近代主義とは、Z軸・MP境界の帰結であると言えるだろう。
 そうならば、3層構成を少し修正しないといけないだろう。即ち、
1.イデア界/IM境界/2.メディア界/3.MP境界=現象界である。しかしながら、現象界は、Z軸・MP境界の帰結であるから、やはり、別枠にしてもいいと考えられるから、これまで通りの3層構成でいいだろう。ただし、力学構造を変更することになる。即ち、現象界の発現は、メディア界からの1/4回転ではなくて、メディア界自体の展開によると言える。
 結局、1/4回転を考えると、Y軸への1/4回転とZ軸への1/4回転の、二重立体的1/4回転構造があるということになる。結局、複素平面の1/4回転とは、立体的1/4回転であり、これが、メディア界/現象界を発現・仮現させていると言えるのである。
 では、このような視点から、ポストモダン革命を見るとどうなるのだろう。これは、偉大な進化革命であろう。とまれ、この力学の意味は何だろうか。これは、Z軸・MP境界の超克であるが、どうして、そのような事態となったのか。その起因・原動力は何か。それは、人間の心身は、基本的にイデア界/メディア界/現象界の総体であるからであり、当然、「無意識」において、イデア界/メディア界の《力》ないし《エネルゲイア》を感じるものだからではないのか。しかし、どうして、19世紀末から、この《衝動》が強化されたのか。それは、様々な原因があるだろう。近代主義の恐ろしい害悪が出現したこともあるだろう。それは、外的原因であるが、内在的原因があるだろう。特異性の問題もあるし、・・・。いったい何が根源なのか。人間の探求心とも言えるし、・・・。私が推測しているのは、イデア界の回転の動きである。1回の1/4回転で、1サイクルが発生するだろう。そして、2回目の1/4回転で、その1サイクルが閉じるのである。おそらく、現代は、ユダヤ・キリスト教西洋文明のサイクルの終焉期を迎えているのだろう。つまり、ユダヤ・キリスト教西洋文明の1/4回転がイデア界・ガウス平面で起こり、それが、西洋文明を発生させる。しかし、イデア界はさらに回転を続けて、その1サイクルを消滅させると言えるだろう。そして、3回目の1/4回転で、新文明が発生すると言えよう。そして、4回目の1/4回転でそれが消滅する。こう考えると現代は、2回目の1/4回転で、西洋文明の消滅期であると同時に新しい文明の胎動期であると言えるだろう。つまり、3回目の1/4回転が近づいているのである。あるいは、現代は、4回目の1/4回転を終えて、新しい第1回転を迎えつつあるのかもしれない。この点については後で検討したい。
 このように考えると、西洋占星術等の考え、つまり、大プラトン年の考えを想起するのである。432の数に60をかけると、25920年という大プラトン年が出てくる。これを12で割ると、2160年というプラトン月が出てくる。ここで、ヌース理論を参考にすると、円運動1周するのに、25920年かかるとすると、1/4回転は、6480年である。そして、これを、これが、西洋文明の生成消滅のサイクル年だろう。そして、新しい6480年の文明生成消滅の「アイオーン」に入るのだろう。西洋占星術でいう水瓶座の時代とは、これを示唆しているのではないだろうか。これを三等分割すると、2160年で、いわゆる星座の時代である。魚座の時代が、典型的な西洋文明の時代であったのだろうが、しかし、それは、同時に消滅の時代である。その前に牡羊座の時代があり、その前に、牡牛座の時代があった。牡牛座→牡羊座→魚座→水瓶座であるが、これは、母権・女神の時代(農耕)→父権・超越神の時代(遊牧民)→キリスト教の時代(都市文明)→新叡知の時代(新ガイア・コスモス文明)ではないだろうか。結局、偉大なイデア・コスモスの新たな回転・R・Evolutionがやってきたのだろう。これは、政治文化的に言えば、共生の時代であり、小沢一郎が、日本での代表である。小泉首相は、古い代表である。つまり、古い西洋文明現象界の代表である。同一性構造の代表である。ODA ウォッチャーズ氏がいみじくも述べるように、小沢氏の政策は、ポスト・モダン、脱構造主義と呼ぶべきである。(参考:『海舌』「小沢一郎氏は「脱構造主義」或いは「ポスト・モダン」という言葉を使うべきだ。」http://blog.kaisetsu.org/?eid=354882
それは、また、ポスト西洋文明であり、新東洋文明とも言えるだろう。今年は、日本の社会革命の年になると予見したが、そうならないと日本は、断末魔の西洋文明とともに去りぬとなるだろう。また、今年沸騰するフランスの反CPEのデモなど、やはり、根源的には、偉大なイデア・コスモスの回転に拠るのではないだろうか。ただし、主体性が大事である。主体性のはたらきかけがない限り、運動とはならず、古きものとともに、滅びるものとなるのである。日本人の場合が、きわめて、危険なのである。被洗脳羊である。
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