2006年08月18日

資本主義の問題点:投資中心主義批判:投資-復資極性経済:双極資本主義へ向けて

炊事をしているが、誰でもやる人は分かると思うが、後片づけ、汚れた食器を洗う作業が面倒でたいへんなのである。これは、単に物理的な負担だけでなく、精神的負担もある。
 そんなことをいつも感じているのだが、ふと、これは、経済、資本主義に適用できる視点ではないかと思ったのである。つまり、資本主義は、創造的投資を行い、利益を拡大する指向をもつ。これは、いわば、創造的破壊である。そう、投資で、創造するのである。新しい製品、産業、施設、建物、等々を生み出す。しかし、これは、炊事で言えば、おかずを作る、料理するの産出側面であるが、しかしながら、後片づけの側面が欠落しているのである。そう、さまざまなゴミも出るのである。
 これを理論化すると、前者は排他的形成であり、当然、排除されたものがあるのである。つまり、産物と非産物の二元論がここには生じているのである。そして、前者に関心が集中して、後者は無視されるのである。しかし、ゴミが出るし、食器は汚れるのであるから、ゴミを捨てないといけないし、食器を洗い、テーブルをきれいに拭かないといけないし、等の、回帰の側面が必要なのである。これは、「生産」ではなくて、いわば、再構築の側面である。だから、炊事に関して言えば、構築/再構築の極性力学があるのである。極性ダイナミクスである。
 これは、少し考えれば、自然の律動的営為である。つまり、生死の循環である。そう、循環・回帰運動である。サイクルである。私の言いたいことは、リサイクルなのかと言えば、理念的にはそうである。しかし、いわゆる、リサイクルではないことはお分かりになるだろう。通常のリサイクルは、ゴミ、他に限定されるからである。
 私の考えているリサイクルは、経済全体におけるそれである。生産と消費が対にされて論じられるが、それは、私がここで言う極性にはあてはまらない。炊事の視点から見ると、生産と消費は同じ極に属するのである。つまり、生産・消費には、再構築の極・視点が欠落しているのである。生産・消費は構築極なのである。すると、当然、破壊が生じているのである。極性論から言うと、それに見合う再構築・再創造の営為が必要なのである。だから、生産・消費という破壊的創造の経済に対して、再構築・再創造の経済が必要であるということである。
 ここで、資本主義を考えると、それは、自明的に前者である。いわゆる、リサイクルは、前者の枠組みのものに限定されていると言えるだろう。
 ということで、炊事の視点・極性力学から見ると、対資本主義経済が必要である。資本主義をプラス経済とすると、マイナス経済が必要なのである。そして、結局、根本的には、極性経済が必要であるということになるのである。これは、ポスト資本主義であろう。
 では、どうすれば、いいのだろうか。思うに、現在の構築資本を、再構築資本を含む極性資本にすれば、いいのではないだろうか。投資に対する再構築資本が必要とされよう。これは、投資ではなくて、戻資(れいし)、返資(へんし)、復資(ふくし)、元資(げんし)、等である。とりあえず、復資と呼ぶ。結局、投資と復資の極性をもつ経済が必要であると言うことである。極性経済であるが、投資と復資の極性を考えて、極性資本主義ないし双極資本主義と呼べよう。
 後でさらに検討したい。
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2006年08月10日

新しい境界へ向けて:差異共振精神界と連続・同一性現象界

新しい境界へ向けて:差異共振精神界と連続・同一性現象界
テーマ:PLATONIC SYNERGY
差異共振コスモスが現象界の根源としてあるし、それは、人間や自然の内在超越次元として潜在していると考えられる。「心」とか、「倫理」、「道徳」は、ここから発して、意識合理化されたものだろう。そう、自然道徳とはあるだろうか。これは微妙である。原道徳・原倫理は、自然発生的であろうが、自然だけでは、道徳・倫理とはならないだろう。そこには、個の意志・意識・認識・知の介入が必要だろう。そう、理念化が必要だろう。精神化である。精神の起源は、自然にあるが、それを、理念化するには、知性が必要である。これが、「人間」の基本であろう。
 思うに、差異共振性だけで、倫理・道徳・精神が生まれるだろうか。否、こう言ってもいい。差異共振性は、倫理・道徳・精神である。しかし、人類の自然過程から、連続・同一性=「無明」・「マーヤー」化が発生して、自我が誕生する。これは、連続・同一性の意識であるから、潜在・内在超越する差異共振性は、連続・同一性化=反動化されるのである。だから、自然発生的には、道徳・倫理はありえないのである。脱連続・同一性=脱自我化したときに、差異共振性=倫理・道徳が生起すると言えよう。経験・教養・知性から、道徳・倫理が生まれるのである。(少女・少年には、道徳・倫理はないのである。現代日本人の大半は、少女・少年並みだろう。参考:『蝿の王』W.ゴールディング作)
 とまれ、私が言いたいのは、以上のことではなくて、差異共振コスモス性と連続・同一性現象性との関係のことである。結局、善とは前者であり、悪とは後者である。(この点で、グノーシス主義は正鵠を射ているだろう。ただし、その二元論は、間違っているとと考えられる。後で、検討したい。)
 問題は、欲望である。差異共振性とは欲望であるのか。あるいは、精神は欲望であるのか。そう、精神も欲望になりうる。上述したように、自我と結びつくと、欲望になる。例えば、「摂理」のように。現象界において、精神は、自我欲望化されているのである。(だから、ほとんどの宗教が胡散臭いのである。カルト化は後一歩であろう。)
 純粋な差異共振性=精神は、欲望ではない。しかし、現象界に生きる生物・生命体として、人間は、欲望に駆動されて生きているのである。他の生物を殺して、生きるのである。あるいは、他の人間の生命・生活・富を奪って生きるのである。餓鬼である。釈迦牟尼は、二千数百年前にこれを直観洞察した。大変に深い、畏るべき直観洞察力である。
 とまれ、生きる上で、差異共振性と欲望を調和させることが「正義」であろう。(ここから、新自由主義批判が出る。)思うに、古代人は、前者を神として、後者をこの世として、捉えて、両者に境界を置いたのではなかっただろうか。結界という発想がそうだろうし、あの世とこの世という二元論もそうだろう。(参考:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%95%8C

近代主義世界観は、この「正義」の実現に失敗した。確かに、民主主義的理念があり、自由主義・個人主義・資本主義理念がある。しかし、両者、精神と欲望は、調和せずに、後者が前者を蹂躙しているのが現状・実情である。だから、私は、新たな境界が必要ではないのか思ったのである。両者の境界が確定していないために、後者が前者を蹂躙すると考えられるのである。
 では、新しい境界とはどういうことなのだろうか。ここで、もう少し、連続・同一性現象=欲望の構造について考えよう。これは、五感の欲望構造から発しているだろう。つまり、同一性の欲望である。五感で知覚したものを欲望するメカニズムが、現象界にはあるだろう。おいしい食べ物がある。それを見て食欲が湧く。それを欲しいと思う。そのたえには、買うか、盗むかである。そして、後者は、犯罪であるから、止めて、前者を選ぶとすると、その反復のために、貯蓄が必要である。これは、同一性の蓄積である。おそらく、貯蓄には、同一性の理念がある。つまり、同一性の構造である。これは、カントの超越論的形式と等価であろう。つまり、欲望構造形式である。おそらく、ここにゲシュタルトが存している。原型である。例えば、花を見て、美しいと感じるが、その花のゲシュタルトが、ここにあるだろう。性欲のゲシュタルトもここにあるだろう。
 不連続的差異論から言うと、メディア/現象境界の現象面にこの欲望構造=ゲシュタルトがあることになる。つまり、連続・同一性現象欲望原型構造である。(思うに、唯識論の阿頼耶識とは、ここに存するのではないだろうか。また、精神分析の無意識もここのことを言っているのではないだろうか。精神分析の無意識は浅いのである。)有り体に言えば、色欲・無明・自我・無知・戦争の構造である。(プラトン哲学や仏教、等は、ここから脱却するための叡知を説いてきた。)自然過程では、ここに陥るのである。
 結局、精神と現象とのバランスをどうとるのかである。現代は近代唯物論のために、精神が物質の派生物のように思われている。結局、近代主義は、二元論であるが、唯物論的二元論で、帰結的に、物質一元論である。そのために、本当の二元論が喪失されていると言えよう。精神と現象との二元論の喪失なのである。この二元論があれば、新たな境界が可能となるだろう。そして、このためには、新プラトン・ルネサンス=新イデア論が必要であると考えられるのである。正確に言うと、イデア論は、イデア一元論である。しかし、これは、精神と現象との二元論を発生させると言えよう。しかし、精神/現象の二元論とは、実は、内在超越論のことである。だから、二元論というのは、一種議論の都合のことである。
 結局、新イデア論(プラトニック・シナジー理論・PS理論)によって、精神と現象との二元論が発生して、新たな境界が生まれるだろう。差異共振性という精神と連続・同一性である現象との境界である。
 そうすると、どういうことになるだろう。それは、前者と後者との別々の構築が必要であるということになるだろう。差異共振世界の構築であり、連続・同一性世界の構築である。そして、前者が主となり、後者が従となるだろう。精神主現象従である。この主従の二元論が必要なのである。
 では、具体的にはどうなるのだろうか。それは、差異共振生活と現象生活との共立であろう。現代は、後者中心で、前者が損なわれているのである。というか、否定・排除・隠蔽されているのである。生涯教育というのは、前者になるのである。しかし、資本主義生活は、後者中心で、前者が欠落しているのである。思うに、資本主義の富を前者のために活用する必要があるのである。つまり、精神社会のために富を消費するのである。能動的消費である。このためには、知のコペルニクス的転回・パラダイム転換が必要である。新プラトン・ルネサンスである。新イデア論の顕現である。
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2006年08月05日

差異共振界と現象界の関係構造に関する一試論

差異共振界と現象界の関係構造に関する一試論
テーマ:新イデア・共振シナジー理論
差異共振シナジー界が現象化するのであり、この現象界において、多様な物体が運動したり、生成消滅したりしているのである。この現象時空間の、これらの運動や生成は一体どういう構造をもっているのだろうか。
 差異共振界は差異と差異が零度即非的な連結をしているのであるが、このとき、エネルゲイアが発生する。差異と差異との共振エネルゲイアである。これが、現象化して、運動や生成となるのだろう。
 問題は、次元である。差異共振界の何次元だろうか。それを、思考実験的に、二次元ないし三次元としよう。ところで、元々、差異は何次元をもっているのか。最初はX軸で一次元のように思えるが、ガウス平面をイデア界とすると、二次元である。複素平面的二次元である。ならば、差異共振界(メディア界)は、垂直に捩れるので、三次元である。XYZ三次元である。
 この差異共振三次元が、コスモスである。実際のところ、共振軸であるY軸が不可視になっているのではないだろうか。つまり、XZ平面が現象面になっているのではないだろうか。(因みに、ドゥルーズ&ガタリの内在平面ないし存立・共立平面とは、YZ平面ではないだろうか。)
 そして、現象界時空四次元であるが、それは、第四の軸・F軸が生起するのである。それで、空間三次元となる。時間軸は、ほぼ、Y軸と見ていいだろう。(今の私見では、時間軸は、仮構の軸だと思う。Y軸は共振軸と考えるのがいいと思われるのであるが。p.s. 時間軸であるが、やはり、仮象(虚構)軸のように思えるのである。思うに、Z軸において、時間と空間の同一性が形成されるように思えるのである。つまり、時間と空間は対になっていると思うのである。)即ち、XZFの三次元空間である。
 F軸をどう考えたらいいのだろうか。Z軸が現象面軸ならば、F軸は現象同一性軸ではないだろうか。なぜなら、Z軸は、差異共振界の縁・周辺であるからである。つまり、メディア/現象境界なのである。
 これで、XZFの現象三次元空間が考えられた。この三次元空間で、「わたし」Aが原点(0,0,0)に居るとして、他者Bが、(0,0,1)の座標に居て、速度αで、X軸と平行に+の方向に移動しているとしよう。時間をt とすると、t 時間後には、他者Bは、(αt、0,1)の位置に移動していることになる。
 では、「わたし」Aと他者Bの差異共振界の「位置」について考えよう。Z軸から垂直に捩れて、F軸が発生すると考えると、他者Bは、元々は、Z軸上に存した。即ち、他者Bは、(0,1)にあった。Y軸を入れると、(0,0,1)である。あるいは、共振軸を位置を考えると、(0,1,0)に存してたと居えよう。さらに、イデア軸(X軸・実軸)上の位置を考えると、(1,0,0)に存したと言えるだろう。
 とまれ、差異共振界での事象を考えると、Y軸上の「わたし」Aと他者Bは、零度共振して、AとBの極性化ないし即非化が生じる。そして、Z軸上でのAとBとは、同一性のAとBとの関係である。おそらく、Y軸を、イデア/メディア境界、Z軸をメディア/現象境界と言えるだろう。そして、YZ平面が、メディア平面・共振シナジー平面である。
 しかしながら、Z軸上のAとBは完全に二元論的に分離しているわけではないだろう。なぜなら、それは、差異共振界の現象界に対する境界・縁にあるから、いわば、共振性を潜在させているだろうからである。
 では、現象界でのBの移動とは何か。それは、それほど、重要な問題ではないだろう。なぜなら、それは、単純に、現象界でのBの移動に過ぎないからである。現象三次元空間ないし四次元時空間での移動に過ぎないのである。そう、問題は、移動の原動力である。例えば、車で移動したという場合は、ガソリンの燃焼が、運動力に変換されて、移動したのであるから、燃焼によるエネルギーや力が問題であある。しかし、これも、同様に重要な問題ではないだろう。
 結局、現象界での、AとBとの関係が重要である。Bが、X軸と平行に移動したとしても、AとBとは、共振性を潜在させていると見ることができるのではないだろうか。XZFの現象三次元空間ないし四次元時空間においても、存在は、共振性を潜在させていると推測されるのである。つまり、Y軸・共振軸・コスモス軸・精神軸を潜在させていると思うのである。あるいは、YZ平面ないしXYZ立体を潜在させていると。
 【ここで、ついでながら言うと、これは思考実験であるが、XYZ座標において、メディア球が発生しているのではないだろうかと思われるのである。あるいは、共振シナジー球と呼べるように思えるのである。つまり、例えば、XYZ座標で言えば、(1,0,0)は、1/4回転で、((0,1,0)となり、また、垂直化して、(0,0,1)と「回転」する。この移動が瞬間的、無時間的なように思えるのである。つまり、(1,0,0)と(0,0,1)が同時生起するということである。そして、これは、メディア球ないしメディア球面(シナジー球ないしシナジー球面)のどこ位置でも同様なように思えるのである。つまり、この球面においては完全に非局所性が成立しているのである。量子力学の非局所性とは、この球面上の同時存在性を指しているのではないだろうか。】
 結局、現象次元XZF空間は、XYZ次元を潜在させていると言えるのではないだろうか。もっと明快に言えば、Y次元である。結局、これを幾何学的にどう捉えるのだろうか。思うに、現象三次元空間に、虚空間・虚次元を加えればいいのではないだろうか。そう、正に、虚軸としてのY軸である。これで、四次元時空間が考えられるのである。

p.s. 最後の問題は、正しく答えられていない。現象三次元空間ないし現象四次元時空間に対して、虚次元であるY軸、Y次元は、具体的にどのように位置しているのかという問題が残っているのである。
 先には、内在超越的に、垂直に捩れた次元にあるとは述べた。結局、Y次元の潜在のあり方である。
 有り体に言えば、Y次元とは、「心」ないし「精神」の次元である。つまり、「わたし」の「心」・「精神」の次元が、Y次元である。これは、幾何学的にはどういうことなのだろうか。XZFの現象次元において、「心」・「精神」の次元はどこに位置するのだろうか。それは、感覚的に言えば、現象面ないし現象界の「背後」に存するのではないだろうか。例えば、今、「わたし」は眼前にこんもりとして木立を見ているとすると、そのこんもりとした木立の「背後」に、「精神」の次元があることになる。正確に言えば、こんもりとした木立の内在超越次元に潜在していることになる。あるいは、重層的に、折り畳まれているというように言えるのかもしれない。
 今、ふと思ったのであるが、「わたし」という視点は、重層化した視点ではないかということである。「わたし」は、空間三次元を占めるだけでなく、精神次元も占めているのである。つまり、XZF三次元に「わたし」が位置するだけでなく、この位置において、同時に、精神次元Y次元を併存させているということである。スピノザ哲学的である。延長の属性と思惟の属性の心身平行論である。そう、確かに、延長三次元に併存して思惟一次元があるように思える。両者が重なっていると考えられるのである。この延長と思惟(空間と精神)の平行的二重性を、どう見るのかである。
 私見では、身体空間に精神が存するのである。つまり、三次元空間を占める身体に精神が内在しているのである。つまり、身体次元が精神次元であるということになる。ここで、空間と身体とを区別する必要があるだろう。空間次元にある身体次元は、同時に、精神次元を内包しているということである。これは、デカルトは当然ながらも、スピノザが考えなかった視点である。
 空間にある身体とは何かということになるだろう。これは点ではありえない。身体は、身体で、三次元空間であると同時に、精神次元である。これは、内在超越次元である。思うに、知覚次元において、三次元空間を想定するのであるが、知覚次元は、同時に、精神次元を内包しているだろう。ということは、知覚次元自体が、三次元空間+精神次元を内包しているということである。この知覚次元から三次元空間を抽象しているのである。そして、その空間抽象から、精神次元が捨象されているわけである。近代主義二元論的抽象である。
 知覚次元ないし知覚コスモスがあるのであり、ここを出発点にすべきであろう。知覚現象があるが、ここに、三次元空間と精神次元が、いわば、融合している、一如であるのである。そう、知覚現象次元とは、差異/同一性共存次元ではないだろうか。つまり、差異共振次元ではないだろうか。ただし、現象的側面が強いのである。即ち、知覚現象次元とは、YZ平面内在的Z軸的である。否、簡単に、YZ平面次元と言ってもいいのかもしれない。というか、知覚現象次元とは、XYZ次元であり、それにXZF次元が折り畳まれている言えるのかもしれない。つまり、知覚現象次元とは、XYZF四次元であり、空間現象的には、XZF三次元を知覚しているのであり、そこには、Y次元が不可視であるが、身体/精神的には、Y次元は直覚できているということではないだろうか。Y次元が、フッサールの超越論的主観性ないし間主観性の次元にほぼ相当するのではないだろうか。というか、XYZF四次元・知覚現象次元が、超越論的主観性・間主観性ではないだろうか。
 とまれ、近代主義は、知覚現象次元を、空間三次元/精神次元、延長/思惟、客体/主体という形式で、絶対的に二元論化してしまい、前者を唯物論化し、さらに、後者をも唯物論で説明しようとしているということである。プロトモダンの知覚現象次元を回復する必要があるのである。ここに哲学・科学認識論上の大問題であると言えよう。これは、当然、生活はもとより、芸術・文化の問題でもある。
 結局、知覚現象次元とは、本来、空間次元と精神次元とが即非的な現象次元であることであり、近代主義的な二元論化は、一つの見方に過ぎないということである。
 だから、空間次元は、精神次元を内包しているのであり、また、精神次元も空間次元を内包しているという、相補性の関係があるだろう。即非・極性関係である。これを、精神・空間極性関係と、とりあえず、呼ぼう(即非関係、相補関係等呼べるだろう)。だから、空間三次元は単なる抽象であり、実際からは離れているのである。(カントの超越論的形式という主観形式論であるが、それも、おかしいだろう。それは、近代主義化した知覚現象次元を前提とした考えであるからである。)思うに、知覚現象とは空間・精神現象、あるいは、時空間・精神現象である。(どうも、空間・精神現象と呼ぶ方が的確のように思えるのである。なぜなら、時間とは、精神の展開のように思えるからである。だから、空間・精神時間現象となろう。)
 だから、知覚現象を次元化するのは、本当は、微妙な難しいことである。とまれ、次元化すると、空間軸と精神時間軸が、少なくとも必要になるだろう。空間三次元軸と精神時間一次元軸である。そして、後者は、内在超越軸であろう。前者は、表面軸である。知覚現象の空間表面の三次元軸と、内在超越一次元軸との、四次元軸が必要であることになる。内在超越次元である精神時間次元であるが、それは、確かに、第四次元となるのではあるが、空間表象はできないのではないだろうか。数学的には、虚次元、虚軸であろう。つまり、三つの実軸(空間三次元)と一つの虚軸(時間軸:正確には、精神時間軸)による四次元時空間ではないだろうか。おそらく、三つの実軸は、複素平面を内在超越的に内包していることになるだろう。つまり、複素平面が共通になるだろう。そして、複素平面が、精神時間次元である。空間実軸三次元+精神時間虚軸一次元の知覚現象四次元である。差異共振シナジー界を考えると、当然、それは、精神時間虚軸一次元が基軸になるだろう。これが、コスモスの基軸である。
 思うに、近代というエポックは複雑化していて、本来、ルネサンスのプロトモダンが原点としてあるが、プロテスタンティズム/近代合理主義的反動によって、近代主義となる。そして、それへの反動として、ロマン主義、神秘学、生の哲学、現象学、実存主義、構造主義、等々が生まれたのである。しかし、プロトモダンは、もともと、空間/精神時間現象を対象としていたのである。即ち、新たな差異の発動、差異共振シナジーのエネルゲイアが発現する知覚現象が主体であったと考えられるのである。
 ここで、最後に付け加えると、現象、生命、人間を考えると、それらは、正に、空間/精神時間現象である。物質とは、その現象を、空間・時間同一性形式で切り取った、抽象化したものと考えられるのである。空間/精神時間現象を認識しないといけない。それは、差異共振シナジー的空間・精神時間現象である。現象を唯物論から救済しないといけない。差異共振シナジー現象として現象を把捉しないといけないのである。差異共振シナジー事象が、同時に、精神時間虚次元であり、空間三次元であるのであり、両者は即非・極性・相補関係にあると考えられるのである。
 結局、新プラトン・シナジー理論は、不連続的差異イデア論という新たなイデア論によって、現今の唯物論的自然科学を超克する新しいイデア論的サイエンスを提起していると言えるだろう。
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2006年08月03日

近代的自我と差異:同一性志向性・投影による主客分化現象化

近代的自我と差異:同一性志向性・投影による主客分化現象化
テーマ:差異と同一性
差異を否定・排除する近代的自我は、差異を差異として見ずに、差異に同一性を当てているのであるが、逆に言えば、差異の存在は前提となっているのである。差異の存在を、否定・排除したいので、同一性を押し付ける(暴力)のである。だから、近代的自我は、同一性の脅迫観念をもっていることになる。カント哲学で言えば、物自体を否定・排除する超越論的形式の自我である。物自体は前提であるが、それを、否定・排除するのである。弁証法的自我である。
 物自体とは、差異共振シナジー世界(=メディア界)である。これを同一性で占めよう(「占領」しよう)とするのは、エゴイズム、暴力、権力であるが、アイロニカルに、同一性は、差異の位置に同一化しているのである。つまり、同一性は、差異を否定・排除する正にその時に差異の位置に同一化していると考えられるのである。だから、差異否定・排除(・隠蔽)とは、差異への譲歩の面があると言えるだろう。同一性は同一性だけでは成立しないのである。差異の位置を同一性が占めることで、同一性を確認するのである。もし、同一性自体に自律的な意味があるならば、それは、差異の位置を占める必要はないはずである。差異は差異、同一性は同一性であるからである。
 ということは、とりもなおさず、同一性がいかがわしいものであることを証するだろう。同一性の母体・基礎・基盤は、差異なのであると言えるだろう。差異の変形としての同一性であり、この出自を見えなくさせるために、差異の位置を占めるのだろう。差異は脅威なのである。
 思うに、この差異の位置の僭越的占領とは、現象の見えに関わっているように見えるのである。同一性が同一性にこだわるのは、現象的見え(=見栄)のためだと思われるのである。つまり、現象的見えと同一化しているために、自我は、差異を否定・排除するのである。つまり、本来、主体の投影である現象(客体現象)と、自我は同一化しているのであり、この現象同一性化が中心となり、差異を否定・排除するのである。ここで、ラカンの精神分析の鏡像段階を想起するのであるが、現象の見え(視覚的現象)に同一化する主体がここにはあるだろう。ここでは、転倒があるのである。フッサール哲学的に言えば、ノエマを、現象的見えに変換しているのである。本来、「心象」であるものを、外界化しているのである。ここには、ノエマを、「外界」へと同一性化的に投影している主体があるのである。
 問題は、この投影する主体である。内的視覚像(ヴィジョン?、イデア?)を投影=「外界」・「客体」・「対象」化する主体の問題である。この投影「事象」の力学構造が問題である。本来、差異、差異共振性とともにある同一性=内的視覚像であるはずであるが、それが、「外界」化されるのである。おそらく、「外界」とは、仮想・仮構・虚構的仮象なのである。正に、プラトンの洞窟の比喩における洞窟のスクリーンである。「外界」とは影絵であり、本体は、光の前の「人形」である。この比喩を継続すれば、光とは、差異共振シナジーであり、人形とは、内的視覚像・心象・ノエマであろう。
 投影「事象」が問題なのである。それは、本来の光源を忘却して、内的ヴィジョンを「外的」ヴィジョンと錯誤することである。これは、いったい何が原因なのか。そもそも、「内的」という考え方も、本来的ではない。それは、内部と外部の分離によって形成される見方であるからである。内と外との分離の発生が、根源の問題である。
 新プラトン・シナジー理論(以下、プラトン・シナジー理論)に拠れば、零度差異共振シナジー世界の発生によって、原現象が生起したと考えられる。差異1と差異2とが零度共振して、連結するのである。差異が本来もっているノエシス/ノエマは、このとき、対自化される。即ち、差異1のノエシス1/ノエマ1と差異2のノエシス2/ノエマ2とが共振して、ノエマ1には、差異2が反映・反照されると言えよう。そう、問題の核心は、この差異零度共振における反映・反照である。この反映・反照は、即自的なノエマとは異なり、明らかに、対自的なノエマとなっているのである。この対自的ノエマを、連続・同一性化することが、投影ではないか。零度差異共振世界(=メディア界)において、差異共振シナジーによって、ノエマが相互に対自化される。この対自的ノエマの連結体として、差異共振シナジー世界があるだろう。
 思うに、ここにおいて、原内部/原外部の区分が発生しているのではないだろうか。即自的ノエマと対自的ノエマの「差異」がある。前者が原内部となり、後者が原外部となるのではないだろうか。しかしながら、差異共振反映においては、内部/外部の分化はない。しかし、連続・同一性過程になると、対自的ノエマ=共振反映が、同一性化されるようになる。差異共振シナジー様相に過ぎないものが、連続・同一性として、仮現・仮象するのである。差異共振シナジー様相とは、「光」とともにある対自的ノエマの様相であろう。「光」と、「影」としての対自的ノエマが共立しているのだろう。「光」が背景で、「影」が原現象と言ってもいいかもしれない。ここでは、まだ、内外分離はない。連続・同一性の過程に入ることで、それが始まると言えよう。
 問題は、「光」とともにある差異共振像(対自的ノエマ)、「光」と「影」との相補的原像が、内外・主客分離するという「力学」である。ここで、ヘーゲルの疎外という用語が想起される。確かに、ここでは、なんらかの疎外が生起するだろう。連続・同一性過程は、差異共振像を排斥するようになる。即ち、対自的ノエマ・差異共振像が、連続・同一性にとり、否定・排除される対象となると考えられる。
 では、連続・同一性とはどうやって発生するのだろうか。何だろうか。その構造は何なのだろうか。差異1=差異2の等号が連続・同一性であると言える。ここで、即非の論理を考えると、差異1=差異2且つ差異1≠差異2であるが、後者の≠が喪失されるのが、連続・同一性事象であると言えよう。換言すると、即非の論理の事象、即ち、差異共振事象の内の、差異不等号性が消去されて、差異が等号化される。即ち、差異共振性自体が、いわば、差異連続・同一性に変換されると言えよう。差異連続・同一性とは、数学で言えば、微分のことである。差異=微分のことである。これは、同一性暴力である。
 さて、この差異連続・同一性が差異共振性を否定・排除・隠蔽するのであるが、冒頭でも述べたが、前者は、後者の位置を占めているのである。つまり、ノエマ、対自的ノエマの位置を、差異連続・同一性は占めているのである。本来、差異、差異共振性である事象を、差異連続・同一性として、錯誤するのである。
 では、差異連続・同一性は、対自的ノエマの位置にあるのであるが、仮象としては、どういうように見える(現象する)のであろうか。差異共振事象とは他者である差異への志向性的共振性である。しかし、差異連続・同一性とは、差異志向性を消去して、いわば、同一性志向性へと変換すると言えないだろうか。そう、作業仮説しよう。換言すれば、差異共振性を同一性志向性へと変換することである。思うに、この同一性志向性が投影ではないだろうか。差異連続・同一性が差異の位置を占めるのであるが、この「占領」が、同一性志向性ではないだろうか。差異連続・同一性が差異自体へと投影する同一性志向性、これが、外界や内界の分離・分化を発生しているのではないのか。図式化すれば、

A. 差異連続同一性→B. 差異自体

この→が、同一性志向性、同一性投影であり、ここで、AからBへの同一性投影が、現象化ではないだろうか。つまり、Aが内界・内部・主体であり、Bが外界・外部・客体へと転換するのではないだろうか。つまり、同一性志向性・投影が主客二元論的現象(仮象)を発生させるのではないだろうか。これも作業仮説としよう。そして、この徹底化というか、物質主義的徹底化が、近代的合理主義だと考えられよう。
 そして、この同一性志向性・投影による現象化が、時空間世界の仮象化である。さらに、作業仮説であるが、同一性志向性・投影が、時空間形式構造、即ち、カントの超越論的形式構造ではないだろうか。そして、これが、アインシュタインの相対性理論の光速度一定の公理に結晶しているのではないだろうか。簡単に言えば、同一性構造形式が、光速度一定ということである。また、E=mc^2 とは、同一性志向性・投影のもつエネルギー公式ではないだろうか。(ここで、ヌース理論を想起するが、それは、まったくの同一性現象を説明しようとしている理論もどきであり、差異自体をまったく排除している。だから、やはり、ヘーゲル主義なのである。国家主義=全体主義・ファシズムなのである。また、イデア論ではありえない。なぜなら、同一性=物質が単位であるからである。似非イデア論であり、唯物論である。ヌースは物質のことである。だから、ヌース理論とは、大変な食わせ物である。詐欺・ペテンである。物質をヌースと呼んでいる思想・哲学的詐欺・ペテンである。哲学的には、追放されるべきであるし、また、自然科学的にも、問題があるだろう。半田氏に一番欠落しているものは、物事の基本的定義や意味である。これを完全無視しているので、不合理・非合理・妄想・狂気に陥っているのである。たとえば、水は液体である。液体は、流動的である。これが、意味である。半田氏は、水という現象を、イデア自体と考えているのである。水はイデア・シナジー事象ではあるが、イデア自体ではないのである。)
 ということで、差異連続・同一性志向性・投影の構造形式が主客二元論の「現象」を仮現していることがわかったとしよう。では、次の問題は、やはり、「光」の問題である。同一性志向性・投影は「光」の「現象」を生むのであるから。端的に言えば、差異共振性と「光」の関係が問題である。
 差異共振シナジー事象は「光」事象であるが、それは、いわば、原光事象であろう。差異共振シナジーは原光事象である。それを差異連続・同一性が光現象に変換するのではないだろうか。即ち、差異共振シナジー事象は原光事象そのものであり、差異は共振して、原光事象となっていると考えられるだろう。このときの、いわば、共振的ノエマが「影」であるが、これは、いわば、「光」=原光の中の「影」であろう。
 とまれ、問題は、原光と光の関係である。差異共振志向性が原光であるとすれば、同一性志向性が光である。換言すると、差異の光と同一性の光があるのである。太極の光と連続・同一性の光である。プラトンの光とニュートンの光である。無限速度の光と有限速度の光である。前時空間の光と時空間の光である。
 ここで整理すると、時間とは、同一性志向性エネルギーのことであり、空間とは、同一性志向性によって派生する同一性と同一性との距離、即ち、延長のことであろう。だから、差異の光の《場》(=原・前時空間)には、差異共振シナジー・原エネルギーがあるということになるのではないだろうか。これが、原光である。思うに、無限の原エネルギーではないだろうか。イデア・シナジー・「エネルギー」である。そして、同一性志向性=光=エネルギーとは、これを、同一性構造に拘束・抑圧していると考えられるだろう。差異共振シナジーの無限・原エネルギーを、同一性の有限・エネルギーに、言わば、「縮約・縮小」、「変圧」しているのである。これが、現象太陽であろう。だから、現象太陽の「裏面」(つまり、内在的超越的次元)には、差異の太陽が存していることになろう。そして、これが、コスモスであろう。現象宇宙のことではない。即ち、差異の太陽=コスモスである。そして、これが、原太陽系であろう。だから、差異の太陽=コスモス=原太陽系である。
 この差異の太陽が、D.H.ロレンスの説くdark sunであろう。そして、神話では、イシスであろう。同一性の太陽がオシリスであろう。そして、プラトンの洞窟の外部にある太陽=善のイデアも、差異の太陽のことだと考えられるのである。
 さて、さらに、問題は、この差異の太陽の根源の原イデアの存するイデア界のことである。おそらく、アリストテレスのデュナミスの用語を当てるといいだろう。ここで、整理するために、図式化すると、

1.イデア界・不連続的差異共立界・デュナミス:「玄無」
     ↓

2.メディア界・差異共振シナジー界・エネルゲイア:「黒い太陽」
     ↓

3.現象界・エンテレケイア・同一性エネルギー:「白い太陽」

ではないだろうか。とまれ、エネルギーの問題がここにはあるだろう。E=mc^2の問題である。これは、3の同一性エネルギーの記述であろう。では、2のエネルゲイアの記述はどうなるのか。これまでの思考実験では、エネルゲイアをXとすれば、Xi=mc^2であるから、X=mc^2/i である。後でさらに検討を続けたい。
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2006年08月02日

プロトモダンとモダンとプラトン・ルネサンス:思想的人類史からの視点

プロトモダンとモダンとプラトン・ルネサンス:思想的人類史からの視点
テーマ:新イデア・共振シナジー理論
A) 紀元前7〜5世紀前後の哲学・宗教・思想的創造と紀元前後の大乗仏教と「キリスト教」の創造。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9
http://en.wikipedia.org/wiki/Pre-Socratic

B) 14世紀〜16世紀のイタリア・ルネサンスと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9
1900年前後数十年の知の変革

AとB、それぞれにおいて、始動と発展が考えられるならば、両時期、500年前後のスパンがある。このような巨視的な歴史観で見ると、1900年も2000年もそれほど変わらない。現代、21世紀(2006年)は、イタリア・ルネサンス革命(プロトモダン・原近代革命)の発展段階であると見ることも可能である。釈迦牟尼に対する大乗仏教と相似に、ルネサンスに対するXが考えられるだろう。とりあえず、Xをプラトン・ルネサンス(又は、コスモス・ルネサンス)と呼ぼう。現代は、理論的には、プラトン・ルネサンスの最中となる。プラトン・ルネサンスは、私見では、ロマン主義が始点となっている。つまり、フランス革命と連動しているが、1800年前後である。これは、イタリア・ルネサンスから5〜3世紀経っている。そして、超人類の先駆ニーチェが19世紀後半、絶対的差異(不連続的差異)として、出現する。そして、20世紀に入り、爆発的に、創造の時代となる(哲学では、フッサール現象学が生まれる)。しかし、二度の世界大戦の後、近代合理主義、資本主義が支配的になる。20世紀後半、1968年の五月革命とポスト・モダン運動が起こる。しかし、1990年代以降のグローバリゼーションにより、思想的停滞・衰退が起きる。2001年911事件。アメリカでは、ブッシュ大統領、日本では、小泉首相が、新自由主義を唱える。
 思想的に見ると、明らかに、反動化している。ルネサンスのプロトモダン精神の喪失であり、プロテスタンティズム精神が主導的である。一神教的反動である。プロトモダンが、反動プロトモダンになっているのだ。「近代」とは、明らかに、分裂・矛盾した時代である。二重構造である。即ち、プロトモダン革新主義とモダン反動主義の二重構造である。プロトモダンは、モダンの反動性を批判するが、モダンのもつ唯物論的科学・技術の知識は、唯物論という枠組みにおいては、評価するが、モダンは、プロトモダンを否定・抑圧・排除・隠蔽する。確かに、プロトモダンは、「ポスト・モダン」、トランス・モダン、スーパー・モダン等の様態を取るだろうが、これは、モダンから見た場合である。
 とまれ、不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論は、プロトモダンの停滞・後退の状況において、プロトモダンの「進化」だと思う。ブレークスルーだと考えられるのである。モダン反動路線の破壊であり、プラトン・ルネサンスの開花と見られるだろう。
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2006年07月31日

連続・同一性自然過程とポスト人類精神革命の理論としての不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論

連続・同一性自然過程とポスト人類精神革命の理論としての不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論
テーマ:新イデア・共振シナジー理論
Mon, July 31, 2006 14:44:30
以下は、次のブログの部分を独立させたものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10015284984.html
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連続・同一性(と連続・同一性中心主義)の形成を連続・同一性自然過程と、先に呼んだが、それは、当然、ファシズム・全体主義形成過程とも言えるのである。サル社会で、ボス中心のピラミッド社会が形成されるというのは、この連続・同一性自然過程の表出ではないだろうか。もし、そうなら、人間社会は、サル社会と類似していると言えよう。深く、猿の遺伝子を継承しているのではないだろうか。(では、人間の遺伝子とは何か。)
 当然、人間社会は、連続・同一性(主義)自然過程から脱却するものでなくてはならないはずである。もし、進化があるなら、その方向にあるはずである。
 不連続的差異論は、本当に画期的な、否、超革命的な、超進化(精神進化)的な、理論であると思うが(理解している人は、どれほどいるだろうか)、それは、脱連続・同一性自然過程である人類進化・生命進化に役立つだろう。(インテリジェント・デザイン論・ID理論があるが、ここでの「進化」とは、内的デザインの進展ということになろう。)そう、ポスト・「サル/人類」進化の理論である。

 p.s. 父権主義・西洋文明・近代主義、等の地球・人類に破壊的なものがどうして存在するのかという疑問に対して、この視点から答えられるように思う。おそらく、現人類は、サルと超・ポスト人類との中間の、過渡期の、架橋的生命体なのである。そのために、サル社会の連続・同一性自然過程=父権制・原ファシズム・全体主義を内包しているのである。これが、現代の桎梏なのである。このため、戦争、暴力、自然破壊、不正、不平等、等が理不尽に為されるのである。サル遺伝子、サルの遺産が、現人類を、狂気にしているのである。
 不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論は、明らかに、ポスト・人類革命の超理論である。私は、理論誕生直後、直観の狂喜・情熱のままに、
最勝超至高不連続的差異論と呼んだものである。
 耳あるものは、傾聴するといい。


参照:
サル目
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E7%9B%AE

ゴリラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%A9

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本ブログの後記:

上記の仮説が正しいならば、ユダヤ/キリスト教とは何か。とりわけ、ユダヤ一神教とは何かという疑問が起こる。それは、サル人類(現人類のことである、勿論)の遺伝子の反動的発露ではないのか。超越神とは、サル人類神である。しかし、問題は、二重構造である。超越神ヤハウェとは、サルのボスと超人類の「超越性」との中間態と考えられるように思うのである。だとすれば、正に、サル人類宗教・神学である。中間神学である。反動的な面と進歩的な面があるだろう。そして、キリスト教が成立する。これも、ユダヤ教と同じく、中間的なものであるが、人間において超越性(イエス・キリストの体現した精神:本当は、仏教・プラトン主義・グノーシス主義的イエスの精神である。p.s. 後で、グノーシス主義の問題を検討したい。)を説いている点で、ユダヤ教より、進歩していると言えよう。
 このサル人類的一神教神学がベースになって、西洋文明、とりわけ、プロテスタンティズム西洋文明が成立したのである。問題は、サル的父権制が桎梏となり、全体主義的に地球・自然・人類を破滅の過程に陥れていることである。超人類の精神能力である、超越性(超越論性:差異共振性)が、反動暴力・狂気化しているのである。まったき倒錯の様態にある。
 結局、父権一神教とは、超人類進化のための、サル人類史の最終段階であると見られよう。サル人類史の終末なのである。黙示録的時代であるが、それも、いわば、ポスト黙示録的黙示録的時代である。即ち、ポスト一神教的黙示録の時代であるということである。新コスモスの新時代(新アイオーン)の開始である。
 これは、イエスの救済(イエスを救済すること)を意味するだろう。救世主を救済することになるのである。イエス・キリストは、本来、超人類、超サル人類進化の方向性を説いた人物と考えられるのであるが、それが、サル人類神学に利用されてしまったのである。そう、D.H.ロレンスが、『死んだ男』で、イエス・キリストを救済することを表明しているのである。新コスモス・超人類進化を説くポスト・イエスにイエス・キリストが変容したのである。(ロレンスは、ニーチェを進展的に継承する大天才である。文学は、20世紀後半以降、反動・停滞・衰退しているだろう。)
 付け加えると、イタリア・ルネサンスとは、超人類進化の、古代ギリシアに続く第二の烽火であったが、プロテスタンティズムの反動に隠蔽されてしまった。しかし、今や、第三の烽火として、新プラトン・シナジー理論が、決定的に、出現したと言えよう。
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2006年07月30日

零度差異共振とは何か:差異と同一性の関係性についての考察

零度差異共振とは何か:差異と同一性の関係性についての考察

これは、例えば、差異(不連続的差異)1と差異2とが、零度で、共振するということであり、このとき、差異1と差異2とは接していると同時に、接していないという、相反した事象にあるのである。これは、鈴木大拙の即非の論理の事象であると言える。後に、ドゥルーズ&ガタリが、離接という概念を提起したが、同じ意味のものであると考えられる。有り体にいえば、後者は二番煎じである。
 この共振事象ないし共振シナジー事象は、きわめて、不思議なものである。現象界の二項対立的論理を超越した論理である。差異1=差異2、且つ、差異1≠差異2である。イデア界からの順序に即せば、差異1≠差異2、且つ、差異1=差異2である。換言すると、差異1=非差異1である。A=~Aである。これが、差異共振事象の本性・実体であり、差異共立とも呼んでいいのであるが、イデア界の差異共立と混同してはいけない。後者においては、零度共振はなく、境界に隔てられた絶対的差異の共立があるだけである。混乱を避けるために、イデア界の差異事象を、差異分立と呼んでもいいだろう。
 さて、差異共振事象であるが、一方、即ち、差異共振界(=メディア界)のイデア極においては、差異分立性があり、他方、現象極には、差異連続・同一性(明快にするため、差異同一性と呼びたい)があると言えよう。だから、差異共振界(略して、差共界)では、差異分立性と差異同一性との矛盾事象が生起していると換言できる。前者を特異性・単独性と呼ぶことができるし、後者は単に同一性と呼ぶことができるだろう。特異性と同一性との矛盾共立が生起しているのである。因みに、ドゥルーズ哲学は、この矛盾共立を直接反映した哲学であると言えるのである。即ち、特異性としての差異と微分としての差異とを含んだ差異哲学なのである。しかし、これまで、言い尽くしたように、両者を混同しているのである。この混同が、差共界の矛盾共立・矛盾同一の直接的反映を意味しよう。わかりやすく言えば、差共界の矛盾同一事象に没入しているのが、ドゥルーズ差異哲学であると言えよう。没入しているので、自身が揺れ動いているのが、自覚できないのである。そのために、差共界の、謂わば、自然過程に陥っているのである。即ち、連続・同一性過程である。【ここで、想起したのであるが、ヌース理論は、正に、「精神」の連続・同一性化の理論なのであるが、差共界のもつ連続・同一性自然過程に没入しているのではないかと思ったのである。おそらく、そうであろう。素朴な差共界の様態は、連続・同一性への自然過程であると考えられる。そして、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」であるが、これもこの事象を説いていると考えられる。】
 ということで、差共界について、整理する必要があるだろう。不連続的差異論は、差異の根本・基本的な不連続性を発見した、ないし、仮説するものであり、差異の不連続化によって、不連続的差異の共立するイデア界が発見できたと考えられるのである。それまでは、差共界の自然過程のままに、連続・同一性に拘束されていたのであり、反動化が免れなかったのである。差異の不連続化、即ち、差共界の不連続化によって、この連続・同一性化=反動化の拘束から脱却できたと言えるのである。(言い換えると、真の社会革命が可能になったのである。)連続・同一性の束縛を切断したのである。即ち、不連続的差異の共立するイデア界に回帰することにより、差共界の連続・同一性の桎梏・束縛・拘束・規定・構造(カントの超越論的形式)を解体・破壊・解消して、差共界を変容したと言えるのである。差共界の変容とは、何か。不連続的差異化、イデア界への回帰による差共界の変容とは何か。それは、連続・同一性自然過程を解体・脱構造化したことである。それは、また、連続・同一性である自我の解体・破壊・脱構造化と言えるだろう。自我が、とりわけ、近代自我が、仮象・仮構であることを明らかにしたのである。「わたし」とは、自我ではなくて、差異・特異性であること、そして、根本的には、不連続的差異、絶対的差異であることが、判明したと言えよう。自我が、差異・不連続的差異に還元されたのである。イデア界に回帰したのである。
 その結果の差共界の変容とは何か。連続・同一性化が解体されて、今や自我が消滅したのではないだろうか。つまり、連続・同一性過程において、自我、とりわけ、近代自我が成立するのであるが、連続・同一性過程が解体されたとなると、差共界は、もはや、連続・同一性過程を形成しなくなるのである。即ち、連続・同一性自然過程から解放された差共界の成立・形成・創造である。これが、差共界の変容・変成である。連続・同一性の現象界からの解放である。連続・同一性の「力」からの解放である。そして、差異共振シナジー・エネルギーの解放であろう。差異共振エネルギーが、これまで、連続・同一性を形成する「力」になっていたのだが、それが、それから解放されて、純粋な差異共振シナジー・エネルギーとなるということである。完全な零度共振が可能になるということだろう。即非論理の貫徹がここに発生すると言えよう。差異共振シナジー世界が、いわば、現象化すると言えるだろう。
 では、不連続的差異化以前において、連続・同一性自然過程の「力」とはいったい何なのであろうか。私の直観では、捩れを感じさせるのである。差異否定の「力」である。連続・同一性の極において、おそらく、言語化が発生するのである。そして、連続・同一性が、謂わば、固定・固着・凝固するのである(連続・同一性中心主義の成立)。この連続・同一性極の言語的石化によって、連続・同一性中心主義=自我中心主義が発生すると言えるだろう。そして、これが、差異・他者を否定・抑圧・排除・排斥・排出・隠蔽すると考えられるのである。暴力の誕生である。父権制暴力の誕生である。戦争の誕生である。帝国主義の誕生である。(そして、現代、西洋文明として、この父権的暴力の帰結を迎えているのである。)結局、連続・同一性自然過程の「力」とは、連続・同一性のエネルギーの言語的固定であった。
 では、不連続的差異論/差異共振シナジー理論(新プラトン・シナジー理論)によって、純粋な差異共振シナジー・エネルギーが解放されることは何を意味するのか。当然、帝国主義の解体、国家主義の解体、自我中心主義の解体、等である。一つの人類史、父権的人類史の終焉である。ポスト人類史、ポスト父権的人類史、ポスト西洋文明である。当然、ポスト一神教である。ポスト資本主義である。新コスモス文明への駆動と言えよう。そう、純粋・純正差異零度共振シナジー・エネルギーとは、新コスモス・エネルギーと言えよう。
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2006年07月25日

差異共振シナジー・宇宙(コスモス)について:人類史の終焉と超宇宙神時代

現代の自然科学・工学技術は、唯物主義に基づいている。すなわち、現象は、物質であると考えているのである。そして、精神や生命等を、物質から説明しようとしている。たとえば、遺伝子は、DNAに集合体であるゲノムに存すると考えているし、また、精神現象を、脳の物質現象として、捉えようとしている。《ヌース理論は、精神を、量子現象として、捉えようとしている。量子は、霊と等価になるだろう。なぜなら、霊とは、精神を、連続・同一形式によって捉えたものだからであり、量子とは、イデア・シナジー(差異共振シナジー)=精神を連続・同一性形式で捉えたものと考えられるから、霊=量子となるのである。中沢新一の霊的唯物論と一致すると言えよう。》
 しかし、唯物論的自然科学・工学技術とは、カント哲学が明らかにしたように、超越論的形式=主観性に規定されているのであり、いわゆる、物自体、言い換えられば、自然自体を把捉していない、主観形式に限定された世界観である。近代主義的自然観である。
 これに対して、プラトニック・シナジー理論は、不連続的差異論をベースにした、新たなイデア論であり、イデア論的科学(イデア・シナジー・サイエンス)、イデア論的技術(イデア・シナジー・テクノロジー)、その他を目指していると言えよう。これによれば、現象は、イデア・シナジーの発現ないし仮象である。すなわち、差異イデア共振シナジー現象である。つまり、現象は、イデア共振シナジーが本体であるということであり、物質とは、イデア共振シナジー現象の同一性化であると言えるのである。換言すると、物質主義的自然科学は、イデア共振シナジー現象の同一性的表面のみを捉えているのであり、差異的本体を捉えていないということができるのである。すなわち、イデア的真実在を捉えていないということである。正に、表層・皮相科学である。
 これは、端的に言うと、どういうことであろうか。それは、差異共振シナジーという事象事実を取り逃がしているということである。より明快に言えば、差異共振という事象事実を看過しているということである。より平明に言えば、差異調和という事象によって、全宇宙が成り立っているという事実を見逃しているということである。差異のハーモニーによって、全宇宙は成立しているという事象事実の見落としである。これが、全宇宙の真実・真相・真理である。(華厳経は正しいのである。また、欧州の古代・中世の知の伝統における、コズミック・ハーモニーの思想(宇宙的調和観)は、正しいのである。)
 これは何を意味しているのか。差異共振調和を否定する現代の人類の社会は、宇宙の根本的法則を踏みにじっている、違反している、否定しているということである。そう、今や、地球世界は全宇宙のガン細胞となっていると言えよう。全宇宙・コスモスの調和を乱す地球・人類の存在は、全宇宙にとり、ゆゆしきものであろう。宇宙・コスモスの真理に違反して、宇宙・コスモスを阻害していると言えよう。
 もう少し、詳しく見ると、差異共振エネルギーが本体としてあり、それが現象しているのであるから、現象の本体・真実在は、差異共振エネルギーないし差異共振シナジー・エネルギーである。しかし、今日・現代の地球・人類の意識・生活様態は、差異共振シナジー・エネルギーを否定・排除・排出・隠蔽するものである。すなわち、自然破壊のような外的な破壊以外に、内的な破壊が行われているのである。内的エネルギーの枯渇が、人類に起こっているのである。当然、精神・肉体の病気になるだろうし、また、創造も枯渇するのであるし、戦争が、常態となるだろう。つまり、人類壊死である。古木に栄養が行き渡らなくなるような事態になっているのである。栄養源に対して自閉しているのである。そう、地球人類衰退・滅亡の過程になっていると言えるのである。そして、差異共振シナジー・エネルギーを新たに導入するポスト人類・超人類が、出現しつつあると思えるのである。
 そして、経済的には、ポスト資本主義として、差異共振シナジー経済が生まれるだろう。差異共振シナジー宇宙・コスモスに接続するスーパー・エポックとなったと言えよう。人類史の終焉・終末である。
新アポカリプスである。新コスモスの超時代である。スピノザ/カント/ヘルダーリン/フッサール/D. H. ロレンスの時代である。ポスト・キリスト教/大乗仏教&コスモス・ルネサンスである。差異共振シナジー・コスモスのエネルギーが参入する超時代である。大宇宙・超宇宙ルネサンスである。差異共振シナジー宇宙が、今や、顕現するのである。
超宇宙神の時代である。
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2006年07月23日

思考実験:虚軸と空間次元の問題:イデア軸ーメディア軸ー現象軸ー物質軸四次元空間・時空間の成立

作業仮説として、軸上に、無数の不連続的差異(=イデア:以下、差異)があり、それらが、1/4回転を行なうことで、私たちが見る現象界を発現させているとしよう。そこで、前提として、ガウス平面=複素平面(X軸・実軸とY軸・虚軸の直交する平面)をイデア界とする。
 X軸は、差異(=原イデア)が境界を隔てて、共立している。そして、1/4回転して、Y軸・虚軸に移行すると、X軸から見ると、差異は、ゼロ度上に存するのであり、これが、零度差異共振シナジーを発生されると考える。そして、このときに、原エネルギーが発生して、垂直に捩れると考える。即ち、XY平面に直交するZ軸を考える。Z軸も虚軸である。思うに、1/4回転した差異は、どこに存するのかと考えると、それは、原点をO(オー)とすると、例えば、差異1(x1、0,0)は、零度差異1(0,y1、z1)の位置にあるのではないだろうか。(差異1をD1,零度差異1をφD1と表記する。)零度差異1は、Y軸・虚軸とZ軸・虚軸の成分、即ち、y1とz1をそれぞれもっている。零度差異1は、一方では、Y軸の視点、他方では、Z軸の視点をもつと言えよう。
 ここで、重要な作業仮説を述べると、軸視点が、重層化されるというものである。つまり、例えば、零度差異1は、X軸、Y軸、Z軸の三つの軸視点を重層化した三重視点をもつということになる。ここで、X軸を不連続軸(又は、イデア軸、原軸)、Y軸を共振軸(又は、メディア軸、シナジー軸)、Z軸を連続軸(又は、連続・同一性軸、現象軸)と、そして、Y軸とZ軸の平面をメディア平面ないし差異共振シナジー平面と呼ぶことにする。
 零度差異1(φD1)は、メディア平面、差異共振シナジー平面に存すると言える。そして、Y軸視点からは、零度差異1は、連続・同一性的差異に見えるはずである。即ち、現象として見えるはずである。これが、自我ならば、現象の個体として見えるはずであるし、零度差異2を見るならば、例えば、コーヒーカップの現象、山の現象が見えるはずである。しかし、これは、Z軸・虚軸の視点現象である。
 しかし、零度差異は、メディア平面、差異共振シナジー平面に存するので、単なる現象以上のものとして、知覚されうるのである。例えば、私が、先に述べたが山と私との共振コスモス現象であるが、それは、Y軸・虚軸から見た零度差異であると言えるだろう。あるいは、Y軸・虚軸を含めたZ軸・虚軸の視点から見た場合である。つまり、メディア平面・差異共振シナジー平面上にある零度差異を観照しているということである。
 問題は、次元である。ここでも作業仮説であるが、軸・視点を次元とカウントするということである。すると、零度差異は、三次元空間ないし三次元時空間になるだろう。(時間の問題であるが、それは、今は、時間と空間は一如であると考えることにする。)
 しかし、Y軸・虚軸・共振軸は、X軸・実軸・不連続軸やZ軸・虚軸・連続軸(現象軸)に比べて、不可視になりやすいと考えられるので、この現象は、二次元空間(時空間)になりやすいのではないだろうか。つまり、共振コスモス空間(時空間)が、見えにくくなると考えられるのである。なぜならば、X軸は実軸であるから、実体が明快だと思われるし、また、Z軸は、現象軸なので、幻像が明確に生起しているに対して、Y軸・虚軸では、不連続性と連続性とが、即非様相で、揺らいでいて、中間的過程で、明確な形象をとっていないと考えられるからである。
 以上で、三次元空間(時空間)を説明できたが、では、四次元空間(時空間)はどうやって説明できるだろうか。これは、これまで、述べてきた、言語観念化による連続・同一性中心主義を考慮することで、説明できるように思える。この連続・同一性中心主義の軸・F軸(THE FOURTH AXIS)を作業仮説しよう。これを二項対立軸、主客分離軸、近代主義軸、物質軸と呼ぶことができるだろう。簡単に物質軸と呼ぶとわかりやすいだろう。F軸・物質軸において、現象は、物質化されると言える。だから、この軸の次元を入れると、四次元空間(時空間)が成立することになる。但し、上述したように、Y軸・虚軸・共振軸が不可視になりやすいので、この空間は、三次元空間(時空間)に見えやすいと言える。とりわけ、物質軸が成立すると、それのもつ同一性中心主義は、差異共振シナジー領域を否定・排除する傾向があるので、なおさら、三次元空間(時空間)に見えると言えるだろう。
 これで、本稿の論考を終えたこととする。
posted by ソフィオロジスト at 19:33| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月16日

光の利己的欲望:差異共振という玄光を否定・排除した連続・同一性中心主義という光悪魔

今は簡単に触れるが、どうして、連続・同一性主義自我は、他者を否定して、自尊感情を高める快感をもつのか。問題は、この自尊快感の発生の原因である。これは、攻撃的快感でもある。感情が、観念と癒着・融合している状態である。自己陶酔ではあるのだが。
 先に、連続・同一性が、言語と結びつき、差異共振の闇を排除するという一神教/父権制/近代自我の構造を提示した。これを光の欲望を呼んだ。これは、視覚的同一性中心主義自我意識と、無意識となった身体との分離とも言えよう。西欧近代は、前者中心の世界観であり、後者が忌避・排除されたのである。現代日本は、この究極的な帰結のようなところがあるのである。欧米は、前者的ではあるが、後者を何らかの形で保持しているように思えるのである。とまれ、この2項対立構造については、既述済みであるが、再度検討して、確認を新たにしよう。
 もともとは、差異共振と連続・同一性は、メディア界においては、いわば、メダルの両面である。だから、2項対立していはいないのである。闇と光の両面である。しかし、光が言語と結びついて、とりわけ、文字言語・表音言語と結びついて、2項対立が発生すると考えられるのである。その理由は、言語と結びついた連続・同一性は、差異共振性から切断されるからと考えられる。即ち、言語と結びついたときに、それは、いわば、モナド化されると思うのである。例えば、現象視覚において、山を知覚していたとき、山という連続・同一性は、他者と差異共振するコスモス・自然・宇宙の一部であったと考えられるのである。(これは、多くの詩人が表現することである。)これは、母権文化の知覚であると考えられる。陰陽対極性は、この文化哲学であると考えられよう。
 しかしながら、象形・表意文字の「山」、表音文字の「やま」が使用されると、それは、差異共振のコスモスから切断されるのである。「山」は、まだ、現象視覚性が残存しているので、差異共振コスモスとの結びつきが比較的残りやすいと言えようが、「やま」ないしyamaになると、結びつきから離れて、独立する傾向をもつと言えるだろう。つまり、連続・同一性が差異共振性から分離・切断されて、抽象文字的連続・同一性となったと言えよう。この分離・切断の意味するものを考察しないといけない。ここには、差異共振性に対する否定があり、連続・同一性の独立化、言わば、独立自我化が生起しているといえるだろう。そう、原コギトの成立と言えるかもしれない。この差異共振性の否定と独立自我化が、連続・同一性を連続・同一性中心主義へと相転移するものと言えよう。これが、原一神教・原父権制・原近代自我の発生であろう。(現代文明とは、この抽象文字人類革命の帰結であると言えよう。差異共振性というコスモス・自然宇宙から切り離されて、グローバル資本主義・科学技術文明を、性懲りもなく、自殺自滅的に、「発展」し続けているのである。これは、もはや、発展ではなくて、滅亡過程と言うべきであろう。終局相であろう。)
 とまれ、これで、本稿の問題を解いたこととしよう。私が既述したように、連続・同一性中心主義とは、連続・同一性と言語、とりわけて、表音文字との結合によって生まれたのである。それは、自我・悪魔性の誕生である。光である悪魔であり、ここで、真の光である差異共振性が闇=悪魔にされたのである。価値転倒・倒錯が発生したのである。これは、キリスト教に完全に顕在したものである。光が闇とされ、闇が光とされたのである。キリスト教の光は、反復するが、悪魔の光であり、闇である。かつて、10代の学生の頃、私は、「光は暗く、闇は明るい」と言ったのである。
 現代日本の闇は、正に、この連続・同一性中心主義という光の闇である。これは、光悪魔である。たいへん、危険なものである。しかしながら、不連続的差異論/プラトン的シナジー理論によって、この光悪魔の闇が暴れて、真の光への方向が啓かれたといえよう。初めに玄光あり、そして、それは、光であった。
posted by ソフィオロジスト at 23:40| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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