2006年10月14日

イエス・キリストについて:プラトニスト・イエスと聖パウロのキリスト教:ポスト・キリスト教の新世界

テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明

ここで、「神」をプラトニック・シナジー理論から理論化しておくと、イデア界の神とメディア界の神の二種類があると以前述べたが、前者はカオスに、後者はコスモスに相当するだろう。しかし、このカオスはコスモスを生む秩序性をもっているのである。いわば、カオスからコスモスへである。カオスとしての神は、コスモスとしての神を発現するので、また、後者が、直接、人間に関係すると考えられるので、ここでは、メディア界の神に限定したい。つまり、差異共振シナジー様態全体としての神である。そして、このエネルゲイアの神を、これまで、多様に表現してきたのである。多神教であれ、一神教であれ、汎神論であれ、アニミズムであれ、・・・。すべて、神の仮面である。万教帰一である。
 では、この観点から、即ち、相対的多元論の観点から、イエス・キリストを見るとどうなのだろうか。やはり、キリストも、神の一面に過ぎないのである。では、どういう一面なのだろうか。私の直観では、イエスは、差異共振シナジーをそれなりに体現していた人物である。共振シナジー叡知を体現していた人物である。つまり、プラトニストである。しかし、純粋なプラトニストではないように思えるのである。混濁したプラトニストのように思えるのである。どういうことかと言えば、イエスには、連続・同一性の構造が残存していたと思えるのである。つまり、自我の構造がイエスにはあったと思うのである。つまり、差異と同一性の矛盾がイエスには、あったと思うのである。だから、意外に、デカルトに似た人物であったように思えるのである。
 同一性・自我があったからこそ、「汝(自我)自身の如く、隣人を愛せよ」になるのだと思う。純正なプラトニストならば、純粋な差異共振シナジーを体現する人物ならば、「愛」を説教せずに、自己認識の必要を説くだろう、仏教のように。どうも、俗物性があったように思えるのである。イエスには、虚栄心があったように思えるのである。そう、おそらく、イエスは、善と悪との混淆である。メディア/現象境界の両義神である。おそらく、分裂症的な人格をもっていたと思う。一方では、差異共振シナジー的エネルゲイアをもっていたが、それが、連続・同一性志向性によって捩じ曲げられていると思う。本来は、差異共振シナジー的共感性を説くべきであるのに、自我的隣人愛を説いているのであるから。やはり、聖霊教の方が、はるかに、イエス教よりも、優れていると思うのである。イエス・キリストは、神の連続・同一性の仮面をもっていたと言えると思う。

p.s. 以上述べことを、別の角度から見ると、「イエス」を少なくとも二人に分けて見るべきと考えられるのである。これまで、私は、キリスト教のイエスとグノーシス主義のイエスの二人に分けてきたのである。イエス二分説を、以上の視点から、展開すると、一人はプラトニストとしてのイエスであり、一人はキリスト教のイエスということになる。換言すると、叡知論のイエスとユダヤ/キリスト教のイエスである。
 プラトニズムないし叡知主義のイエスは、上記した差異共振シナジーを体現した人物であり、『トマスの福音書』のイエス(グノーシス主義のイエス)に近い。それに対して、キリスト教のイエスは、連続・同一性を帯びた教祖である。これは、悪魔的である。
 だから、イエス像は、根本的に異なる二人の人物の像が重なっていることになるように思えるのである。これをどう見るのか、である。聖パウロの問題がある。ニーチェが指摘したように、聖パウロがキリスト教のプロデューサーであろう。そして、ギリシア教父たちは、その路線にはあるとは言え、ロゴスの受肉としてイエス・キリストを捉えたことを考えると、彼らは、プラトニストとして、叡知主義者として、考えていたように思えるのである。信仰の対象としてのイエス像を形成したのは、聖パウロであろう。思うに、聖パウロは自身の宗教体験によって、イエス・キリスト像を形成して、教祖に仕立て上げたのだろう。聖パウロには、ニーチェが批判するように、「賎民」の本能、信仰という本能があったのだろう。そのために、プラトニスト、叡知主義者のイエスを、全く異質な、キリスト教の創始者に捩じ曲げてしまったと思えるのである。聖パウロの創作としてのキリスト教である。
 このようにニーチェの大天才的な洞察も、上述のイエス二分説の一つの有力な根拠になるだろう。そのように考えると、西洋史/世界史は、超錯誤の上に形成されたと言わざるを得ないだろう。ニーチェが神の死を説いたとされるのは、正しいのである。神、ユダヤ・キリスト教の神とは何であったのか。プラトニスト・叡知主義者のイエスは、おそらく、宗教を廃棄したはずである。ユダヤ教を廃棄して、イデア叡知を説いたはずである。プラトニズムの継承者としてのイエスである。しかるに、反動が起こったのである。ユダヤ教的反動として、聖パウロが、言わば、立ち上がったのである。(思うに、これは、イタリア・ルネサンスに対する、プロテスタンティズムの反動に、類似するだろう。)この聖パウロの反動によって、プラトニスト・イエスの叡知は、かき消されたのである。ここに、証拠隠滅、焚書、魔女狩り等の超恐怖のキリスト教の歴史が始まったのである。真のイエスは、抹殺されたのである。そして、救世主イエスが誕生したのである。大捏造としてのキリスト教と言えるだろう。だから、イエスの復活とは、プラトニスト・イエスの復活でなくてはならない。ここで、想起するのは、D.H.ロレンスが『死んだ男』で表わした復活したイエスである。それは、キリスト教の教えを否定する「死んだ男」・「救世主」である。それは、復活した「オシリス」である。そして、その作品には、コスモスの不可視の薔薇が描かれている。それは、正に、差異共振シナジー界である。だから、復活した「オシリス」・「死んだ男」とは、プラトニストのイエスである。そう、だから、ニーチェを継ぐD.H.ロレンスは、真のイエスを復活させていたと言えるのである。

D. H. Lawrence: Dying Game 1922-1930

ニーチェ/ロレンスこそ、真のイエス/プラトニスト・イエスを復活させたのである。ここで、超虚偽・超欺瞞のキリスト教的西洋史は終焉するのである。ポスト・キリスト教、ポスト・ユダヤ/キリスト教としての新しい世界史が始まるのである。そう、プラトニズムの新世界史、新人類史、新地球史、新宇宙史、新コスモス史が始まるのである。

p.p.s. 以上において、信仰・宗教と叡知・認識との二項対立的に区別しているが、私が否定しているのは、非合理主義としての信仰・宗教である。イデア叡知とは、ロゴスである。(もっとも、即非としてのロゴスであるが。)イデア叡知に基づいた信仰・宗教は肯定するし、それは、真正・正統である。しかし、単なる信仰主義・宗教主義は、否定されなくてはならないのである。不合理ゆえに我信ずという立場があるが、神は不合理ではないのである。即非という特異な合理性をもっているのである。

3p.s. 端的に言えば、有り体に言えば、キリスト教信仰は、自我信仰であるから、私は否定するのである。しかし、聖霊教・地味な野の花教・風の友愛教は、自我ではなくて、差異共振シナジー様相を信仰しているので、これは、肯定できるのである。これは、合理性の有無とも関係するのである。
posted by ソフィオロジスト at 14:28| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月13日

検討問題:イエス・キリストとは、何か

可視的なものと、認識が結びついている(ヴィジョンvideoと観念ideaが語源的に一致する)ので、叡知=永遠の真理を可視的にする方法が、常に、人類にとって必要なのであり、それは、秘教・密教・神秘学、哲学、神話、宗教他に伝承されてきたと考えられるのである。プラトンのイデア論は、叡知の世界を知的に説いた、驚異的な理論である。また、仏教も、これに近いのである。人間は、現象界の知覚・認識を基盤とするために、この永遠の叡知を喪失しやすいのである。
 このような観点から、イエス・キリストを見ると、それは、叡知の世界を体現した人物と見ることができるように思える。しかし、その叡知的デモンストレーションが、キリスト教として、ドグマ・教条的に固定されてしまい、叡知性を喪失したと言えるのである。イエス・キリストとは、叡知の体現であると言えるのであり、それは、プラトンのイデア論と同じ真理を伝えていると考えられるのである。だから、キリスト教ではなくて、イエス・キリスト叡知実践論となるべきである。そして、それは、当然、イスラム教とも共通するものであり、万教帰一である。
 ニーチェのキリスト教批判は、宗教・教会としてのキリスト批判であり、イエス・キリスト自身は肯定しているのである。ニーチェが体現したと考えられる差異・特異性・不連続的差異・絶対的差異とは、基本的には、叡知とほぼ等価と言っていいものであり、イエス・キリストとニーチェは、同じ叡知を体現していると極論できるのである。(p.s.  この点は、もう少し丁寧に、精緻に述べるべきであろう。ニーチェが体現したのは、不連続的差異・絶対的差異・特異性そのものと考えられるのである。永遠回帰は、思うに、イデア界への回帰である。親鸞の往相回向であろう。それに対して、イエス・キリストの体現したのは、同様に、不連続的差異・絶対的差異・特異性であると考えられるが、それから、一歩進展して、差異共振シナジー様相をも体現していると思う。その差異共振シナジーは、完全に自由なものではなくて、連続・同一性の構造に囚われていると考えられるのである。差異共振シナジーは、即非の様相・様態であり、「愛」でもあるし、「愛」でもないのである。だから、イエスが説いた「愛」は、差異共振シナジーの叡知からは、連続・同一性へと傾斜していると考えられるのである。以上のように考えると、ニーチェとイエスであるが、不連続的差異性を両者もっているが、徹底しているのは、前者であり、後者は、連続・同一性の構造に囚われていると言えるのである。)
 私は聖霊教(あるいは、地味な野の花教、風の友愛教)を説いているが、これも、結局、叡知のエネルゲイアを説く宗教に過ぎないのであり、叡知普遍教そのものである。結局、ポスト・キリスト教であり、叡知論、プラトニック・シナジー理論の視点に基づき、イエス・キリストをキリスト教から救済することになるのである。仏陀も、プラトンも、イエスも、ゾロアスターも、ムハンマドも、モーゼも、老子も、朱熹も、卑弥呼も、一如である。(p.s. ガンジーも、ジョン・レノン、等々も同じである。また、スピノザやフッサールも、そうだし、D.H.ロレンスも折口信夫もそうである。同一の真理、差異共振シナジーという叡知の光とエネルゲイアを体現していたのである。)

p.s. 思うに、イエス・キリストは、叡知の実践・デモンストレーションであると述べたが、しかし、絶対的なそれではありえないだろう。時代の制約があるのである。だから、イエス・キリストの叡知実践は、一つの実践例として見るべきである。

p.p.s. 結局、差異共振シナジー叡知、メディア・エネルゲイアを、各時代、各場所において、多面的に観察した結果が、諸宗教、諸哲学、諸神話、等と言えるだろう。この叡知界は、通常の論理学や言語では捉えられない世界である。鈴木大拙氏の即非の論理学やウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」(第三の論理学)によって、把捉される世界である。これを、同一性の思考・論理で表現すると、矛盾が起きるのであり、これまで、一神教は、同一性の思考・論理(人格神)で、表現してきたので、混乱しているのである。零度差異共振シナジー界・叡知界・叡知空間を表現するには、差異の思考が必要なのである。プラトニック・シナジー理論は、それを、不連続的差異の共立・共振する世界として、理論化しているのである。

3p.s. 根源的な差異共振シナジー=イデア叡知を、様々な視点から解釈したものが、諸宗教、諸思想・哲学、諸神話・フォークロアであろう。絶対というものはありえないのである。それぞれが、一つの視点に過ぎないだろう。唯一神は、とは、一つの唯一神である。ヤハウェも、アッラーも、差異共振シナジーの一つの解釈である。つまり、諸宗教の相対性が考えられることになる。一神教は、同一性構造の視点に拠ると言えるのである。Kaisetsu氏が以前、宗教の相対性理論が成立について示唆されていたが、確かに、どの宗教で、「神」を「観測」しても、「光速」=真理は一定なのであろう。コ根源の「光」=差異共振シナジーの光・原光を、それなりに、捉えていると言えるのだろう。イデア叡知光を、どの視点からみるのかによって、諸宗教が生じるのである。ここには、宗教の進化論はないのである。宗教の共立があるだけである。相対性宗教論である。
posted by ソフィオロジスト at 01:23| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月27日

イデア 叡知光と阿弥陀 如来

イデア 叡知光と阿弥陀 如来

テーマ :PLATONIC SOPHIENCE

先に、イデア 叡知光の問題を考察 し、差異面の光と同一性面の光の2つの光の極性があり、併せてイデア 叡知光と考えた。この問題は、実に本質的で、核心的である。

 ここで、基本から考えよう。1/4回転によって、零度差異共振 シナジーが形成される。これは、メディア 界=メディア 平面である。零度差異共振 シナジーは、「発光」していると考えられる。これを、私は、イデア 叡知光と呼んでいるのである。

 しかし、メディア 界=メディア 平面は、主に二つの面をもつ。即ち、不連続 ・差異面(以下、差異面)と連続 ・同一性面(以下、同一性面)をもつ。そして、イデア 叡知光は、この両面性をもつと言えよう。差異面光(以下、差異光)と同一性面光(以下、同一性光)をもつ。つまり、イデア 叡知光は、差異光と同一性光の全く異なる2つの光を帯びることになるのである。そして、差異光は、おそらく、ロレンス 等が言う暗い太陽 dark sun に関係するのではないだろうか。そして、同一性光は、当然ながら、原太陽 光ないし現象光となるだろう。ついでに、ダークエネルギー のことに触れると、それは、差異光ないしイデア 叡知光の物質的エネルギー を問題にしていると言えるのではないだろうか。

 まとめると、イデア 叡知光とは、零度差異共振 シナジーの光であり、それは、差異光と同一性光の両極・対極・極性をもつのである。

 さて、ここで思考 を進展させると、差異面は差異極に、同一性面は同一性極になるのではないだろうか。つまり、ここでは、正に、太極 の極性が形成されているのではないだろうか。(もっとも、これまで、ずっとメディア 界・メディア 平面を陰陽極性で考えてきたのではあるが。)そうならば、メディア 平面は太極 図のようであり、差異光と同一性光との両極の光を発していることになるだろう。つまり、メディア 平面光=イデア 叡知光とは、差異と同一性の対極光であるということになる。(ここで、注意すべきは、同一性とは、疑似同一性であり、本来、連続 性と考えた方が正しいのである。連続 ・同一性志向性である。)つまり、差異/同一性の二重光であるということである。おそらく、この二重性は、混じってはいないのである。つまり、差異光と同一性光とは、混じり合ってはいないのである。あくまで、対極光である。比喩的に言えば、闇と光との対極性がここにはあるのである。黒い光と白い光の対極光である。暗い太陽 と明るい太陽 との二重太陽 なのである。もっとも、太陽 や光は、ここでは、原・プロト の意味 である。現象界や物質のそれと見てはいけない。(何度も言うと、ヌース理論 の根本 的誤謬は、メディア 平面光=イデア 叡知光と光子 というメディア /現象境界=超越同一性構造における「光」=量子とを混同して、同一視している点にある。半田氏がドゥルーズ の差異=微分 を基本にするのもむべなるかな。)

 以上のように考察 すると、イデア 叡知光とは、実に不思議 な光であることがわかる。本体は、零度差異共振 シナジーの光であるが、それは、対極光でもあるのである。一つの光であると同時に、「二つ」の光でもある。しかし、「二つ」とは、いわば、ヴェンダーンタ哲学 の不二一元論の「二つ」である。あるいは、即非の論理 の「二つ」である。二即一である。あるいは、差異即同一性である。

f:id:sophiologist:20051104180951j:image

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Waterland0_002.jpg

 さて、このようにイデア 叡知光を再検討してみると、これは、実に、阿弥陀 如来 の光、とくに、阿弥陀 三尊の様態に関係するように考えられるのである。後者 において、脇侍(きょうじ)として、観音菩薩 、勢至菩薩 をもつが、これは、イデア 叡知光の対極と見ることができるのではないだろうか。両者、「見る」や光に関係するのである。つまり、阿弥陀 如来 とは、イデア 叡知光そのものであり、脇侍の観音菩薩 と勢至菩薩 はその対極光をなしていると見ることができるように推察できるのである。

 さらに思考 を展開すると、古事記 の三柱の神、即ち、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・神産霊神(かみむすひのかみ)とパラレル になりそうである。天之御中主神が、当然、イデア 叡知光である阿弥陀 如来 である。そして、後の二者が陰陽光になる観音菩薩 ・勢至菩薩 に対応すると推察できるのである。つまり、日本の神話 と仏教 思想 とは、イデア 叡知光という共通の根源の光を見ていたことになると考えられるのである。ただ、表現が異なるだけである。万教帰一である。

 そうならば、神仏習合 とは、実に論理 的な宗教 的展開であると言えよう。そして、折口信夫 が、『死者の書』で、山越阿弥陀 の伝統 的な宗教 思想 を復活させたのは、折口自身が、イデア 叡知光を見ていたからであると考えられるのである。

 また、さらに付加すると、空海 の両界曼荼羅 であるが、思うに、大日如来 が、イデア 叡知光であり、金剛界曼荼羅 と胎蔵曼荼羅 が、対極世界を表現しているように思うのである。

 ここには、ゾロアスター教 、仏教 、神道 が一致しているのである。

 ここで、ユダヤ教 やキリスト教 の「光」の問題に触れると、ヤハウェの光ないしキリスト の光はイデア 叡知光の一面、一極の光、即ち、同一性の光に過ぎなかったと思うのである。旧約聖書 の神名は、ヤハウェとエロ ーヒム(神の複数形)の二つがあるのである。これは、推測 するに、イデア 叡知光の対極であると思うのである。ヤハウェが同一性光であり、エロ ーヒムが差異光であると思われるのである。そうすると、ユダヤ ・キリスト教 には、根源のイデア 叡知光が明示ないし顕示されていないように思えるのである。箴言等は、イデア 叡知光の智慧を表現していると思うのである。「光あれ」の光とは、同一性光、即ち、現象光だと思うのである。どうも、ユダヤ ・キリスト教 には、イデア 叡知光が、隠れてしまっているように思えるのである。イデア 叡知光の神が、隠れ、忘却されてしまったように思えるのである。ここで、想起するのは、ハーマン・メルヴィル の名作『モービー・ディック(白鯨 )』である。その中で、パラノイア 的なエイハブ 船長が、セント ・エルモ の火に対して述べる言葉 に、根源的な母なる神が示唆されているのである。父なる神を超えた神である。これこそ、失われたイデア 叡知光の神と考えられるのである。

 やはり、ポスト ・ユダヤ /キリスト教 である。真に正統的な宗教 の復活である。偏頗な宗教 の時代は終焉したのである。そう、メルヴィル において示唆されるゾロアスター教 の光、そして、ニーチェ におけるツァラトゥストラ と永遠回帰 を考えると、結局、

ポスト ・キリスト教 であり、

イデア 叡知光回帰 なのである。

ゾロアスター教 、仏教 、神道 、プラトン 哲学 の復活である。

西洋は滅びたのである。西洋は死んだのである、永遠 に!

p.s. ついでに、伝統 的な三女神(三美神も含めて)であるが、これも、ここでの考え方が適用できるように考えられるのである。例えば、古代ギリシア のエレウシス の秘儀であるが、デーメーテールとは、イデア 叡知光ではないだろうか。そして、復活する娘のコレーとは、対極光(死と生の対極性)を指すと考えられよう。コレーとペルセポネ(冥界の神)は一体である。そう、ペルセポネ(死)とコレー(生)が対極的に一如であろう。

 また、イシス ・オシリス神話 であるが、これも同様に考えられよう。オシリスが死んで、復活するのであるが、オシリスが生死の対極性であり、イシス がイデア 叡知光であろう。

 また、さらに、ユダヤ 神秘思想 のカバラ であるが、その三元的構成は、ここでの考え方で説明できるだろう。中央に対して、両極の柱があるが、それが、対極性であり、中央がイデア 叡知光と考えられよう。

 また、D.H.ロレンス の「王冠」の思想 であるが、父と子の二元 論と、聖霊 による一致であるが、父と子とが対極性であり、聖霊 がイデア 叡知光を指すと考えられるのである。

 結局、すべては、太極 哲学 に表現されているのである。そう、老子 とは何哉(なんぞや)。中国とは何哉。アジア・東洋とは何哉ということになるだろう。

_______________________________

参考:

阿弥陀 如来

出典: フリー 百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』

(阿弥陀 仏 から転送)

移動: ナビゲーション , 検索

来迎印の阿弥陀 如来 像(牛久大仏 )

拡大

来迎印の阿弥陀 如来 像(牛久大仏 )

定印の阿弥陀 如来 像(鎌倉大仏 )

拡大

定印の阿弥陀 如来 像(鎌倉大仏 )

鎌倉大仏 の印相

拡大

鎌倉大仏 の印相

阿弥陀 如来 (あみ だにょらい、amitaabha )は、大乗仏教 の如来 の一。阿弥陀 仏・弥陀仏などともいう。

目次

[非表示 ]

* 1 概論

* 2 垂迹 神

* 3 日本における主な作例

* 4 関連仏典

* 5 関連宗派

* 6 関連僧侶

* 7 関連項目

[編集 ]

概論

「阿弥陀 」はサンスクリット の「アミターユス(amitaayus)」=「無限 の寿命 をもつもの」、アミターバ(amitaabha)」=「無限 の光をもつもの」音写したもの。意訳して、無量寿仏/無量光仏とも呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。西方にある極楽浄土 という仏国土を持つ。造形化された時は施無畏印・与願印・定印・来迎印を結ぶ。阿弥陀 三尊 として祀られるときは、脇侍に観音菩薩 ・勢至菩薩 を持つ。密教 においては、五仏(五智如来 )の一如来 として尊崇される。

無量寿経 によるとインド 王族の出身だったが、世自在王仏 に出会い 出家 。法蔵 と名乗り、非常に長期間衆生 の救済の思索をめぐらし(五劫 思惟(ごこうしゆい))、浄土 への往生 の手立てを見出し たことにより仏 となった報身 仏。衆生 救済に関して48の願い(四十八願 )を立て、特に浄土教 において第十八願 を「本願 」と呼んで重要 視する。また、現在 も説法をしていると信じられている。

これを語源 とする他力本願 と云う言葉 は、本来の宗教 的な意味 合いを離れて、「ムシのいい、他人への依存 」「無責任 」という意味 でも広く用いられるが、本来は自分自身(自力)の力「のみならず」仏の力,他の人の力(他力)、すなわち縁の力も互いに借りて皆がより良く生きるという意味 である。浄土真宗 においては、煩悩 具足の凡夫は阿弥陀 仏の本願、すなわち他力本願 によって「のみ」往生を遂げることができるとし(絶対他力)、自力は否定されるが、この場合でも「他人依存 」「無責任 」は、言うまでもなく他力本願 とは相容れない概念 である。

チベット仏教 における副法王 パンチェン・ラマ は阿弥陀 如来 の化身とされる。

大乗仏教 で登場した仏尊であり、その起源 はゾロアスター教 に遡り、光明 の最高神アフラ ・マズダー が無量光如来 、無限 時間の神ズルワーン が無量寿如来 として仏教 化されたとする学説もある。また西方極楽浄土は、ゾロアスター教 の起源 であるペルシャ 地方、もしくは肥沃で繁栄した古代 バビロニア 地方が背景になっていると考える少数派の意見 もある。

[編集 ]

垂迹 神

* 熊野権現

* 八幡神

ほか

[編集 ]

日本における主な作例

国宝

* 中尊寺 像 (岩手県西磐井郡平泉町)(金色堂 安置諸仏のうち)

* 高徳院 像 (神奈川県鎌倉市)(鎌倉大仏 )

* 浄土寺 像 (兵庫県小野市)(阿弥陀 三尊像のうち、快慶 作、浄土堂安置)

* 平等院 像 (京都府宇治 市)(定朝 作、鳳凰堂安置)

* 広隆寺 像 (京都市)(講堂安置)

* 仁和寺 像 (京都市)(阿弥陀 三尊像のうち、金堂安置)

* 法界寺 像 (京都市)(阿弥陀 堂安置)

* 三千院 像 (京都市左京区)(阿弥陀 三尊像のうち、往生極楽院安置)

* 法隆寺 像 (奈良県生駒郡斑鳩町)(阿弥陀 三尊像のうち、橘夫人厨子安 置)

重要文化財 (国指定)

* 太山寺 像 (神戸市)(阿弥陀 堂安置)

* 圓教寺 像 (兵庫県姫路市)(常行堂安置)

* 知恩院 像 (京都市)(阿弥陀 堂安置)

* 孝恩寺 像 (大阪府貝塚市)

[編集 ]

関連仏典

* 無量寿経

* 観無量寿経

* 阿弥陀 経

[編集 ]

関連宗派

* 融通念仏宗

* 浄土宗

* 浄土真宗

* 時宗

[編集 ]

関連僧侶

* 曇鸞

* 善導

* 良忍

* 法然

* 親鸞

* 蓮如

* 一遍

[編集 ]

関連項目

* 大日如来

* 阿弥陀 信仰

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5 " より作成

カテゴリ : 如来 | 浄土系仏教


注:以上は以下の転載です。

http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20060928


posted by ソフィオロジスト at 22:20| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月18日

世界の変化について:世界革新の問題:ポスト唯物論・ポスト西洋と超次元的世界観

世界の変化について:世界革新の問題:ポスト唯物論・ポスト西洋と超次元的世界観

テーマ:メタ・モダン進化meta-modern

ブッシュのタカ派的政策の行き詰まり、それへの批判が、USA国内で、高まり、また、ブッシュに同調したブレアが退陣することになり、また、アメリカ主義者の小泉首相も退くことになり、その他、中東問題(ヒズボラの勝利、イランの躍動、他)、ラテン・アメリカの跳ね返し(チャベス、他)等を見て、世界は、いわゆる、多極化へと向かっていると言えるだろう。
 しかし、呑気に、評論家のように言ってはいられないのである。私見では、これは、西洋中心主義の終焉なのである。つまり、西洋文明の終焉なのである。この意味することを、注意深く考察しないといけないのである。
 ここに来て、ポスト構造主義ないしポストモダンが問題にしたことが、真に問題となっていると言えるのである。これは、言い換えると、キリスト教ないしユダヤ・キリスト教的西洋文明の終焉である。これは、近代物質主義を生み出し、現代の狂気的な破局を帰結させているのである。
 これまで、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論(以下、DD/PS理論ないしDDPS理論:a discontinuous difference/platonic synergy theoryの略である)の視点から、メディア/現象境界である超越境界、いわゆる、構造主義の厳然たる構造(超越論的同一性構造)が、西洋文明の土台・根幹・基底であることが判明したのである。ポスト構造主義は、この構造の超克を意図したが、ポストモダン流行時期の優れた思想家であったデリダもドゥルーズも、結局、この構造から、真に脱却できなかったのである。これは、ポストモダン流行以前の、ニーチェ哲学とフッサール現象学を、発展的に継承できなかったことを意味すると考えられるのである。【この問題に関して、ハイデガーの思想が、最高度に有害・害悪であったと考えられるのである。フッサール現象学の画期的独創性(超越論的不連続性)を、ハイデガーの思想は内在的連続性の観念によって、隠蔽してしまったと考えられるのである。このハイデガーの思想が、後のポストモダンの限界を生み出したと言っても過言ではないだろう。】
 結局、政治・経済・社会的世界が、理論の行き詰まりを超えて、大変化しているのが現状であろう。いったい何が起きているのか。それは、構造主義の構造、超越論的同一性構造が、意味をもたない時代に世界が入ったということだろう。つまり、差異が、諸差異が、換言すると、特異性・単独性、即ち、諸不連続的差異が賦活された世界になったということである。これまで、西洋文明、とりわけ、USA中心の構造が支配しているのであるが、この構造主義を打ち破る動きが世界に発生しているのである。政治・経済・社会的実在が、構造主義を超克したのである。そう、多極化とは、理論的には、DDPS化である。そう、近代の同一性中心主義(唯物論、近代的合理主義、近代的自我、プロテスタンティズム)の崩壊・終焉・破滅がここには生起しているのである。ユダヤ・キリスト教的西洋文明の終焉が、今は、実在となったのである。この意味することは、途轍も無い。
 USAに隷従してきた日本は、大破局の危機にあると言わざるを得ないのである。今度の安倍政権は、予想通り、短命であろうが、ポスト安倍が今や核心的問題である。ベスト・チョイスは、小沢政権であろう。それしか、考えられない。そして、おそらく、そう歩むだろう。今や、大陣痛の時代である。日本国民は、大覚醒しないといけない。近代主義の幻想・妄想・狂躁に酔っぱらっていてはいけない。
 とまれ、今や、DDPS理論の時代になったと言えよう。ポスト西洋文明のコスモス文明の時代になったと言えよう。近代主義のドラッグ時代から、いちはやく、衆生はエクソダスしないといけない。

 西洋は死んだ!

参考:「安倍政権が誕生した場合の、その性格予測 ◆これは、日本の正統な保守陣営の再集合政権である。つまり、反小泉であり、アジア主義である。」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=447759
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu of ODA Watchers  『New Platonic Synergy Theory』 
posted by ソフィオロジスト at 10:37| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月11日

同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象

同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象

テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義

自己愛性人格障害という名称は、生ぬるいと思う。自我狂気病(同一性自我狂気症)と呼ぶのが適切・的確だと思う。現代、この自我狂気病ないし自我精神病が蔓延している。この自我精神病について、再考したい。
 先に、「揺らぎのない芸術は情操を高めない」というタイトルで、記事を引用したが、自我狂気病は、確かに、「揺らぎ」がない。「揺らぎ」とは、本来、メディア界がもたらすものである。だから、これまで、差異(メディア界)を否定・排除・隠蔽する同一性中心自我の様態にぴったりとあてはまると言えよう。
 これまで理論的解明をしてきたが、やはり、この絶対的否定の原因が、よくわからないという思いがするのである。というか、不思議な感じがするのである。
 とまれ、具体的な事象で考えよう。揺らぎの有無が出たので、考えると、現在、流行しているような若者の歌には、揺らぎが欠落している。そう、若者だけでなく、いわゆる、演歌歌手の歌にも、揺らぎが欠けている。いわば、頭だけで歌っているのである。頭とは、この場合、近代的自我の頭と考えられるのである。差異・メディア界の揺らぎがないのである。これは、音楽で言えば、直接的に、響きの質の問題である。響きの質に揺らぎがないということである。共振シナジー相が排除されているということである。
 どうも、何か洗脳されている向きがあるのである。本当の歌を、生産せずに、同一性の似非歌を生産しているのである。これは、当然、同一性の自我を発生させることになる。
 ここには、観念の問題がある。言語観念である。思うに、観念は、二つはある。メディア界的観念と言語観念である。(イデアとは、本来、前者である。これは、ヴィジョンに近い観念と言えよう。また、私が先に、ウィーンフィルとベルリンフィルの相違について述べたが、ここの問題と一致する。)言い換えると、差異観念と同一性観念の違いである。結局、歌の観念が、現代、後者、同一性観念になっているということである。歌の声が、同一性観念になっているということである。これは、結局、貨幣と同じである。
 
ナルシス
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Narcissus.jpg

 同一性自我狂気病は、正に、近代主義の帰結と言えよう。この大本は、プロテスタンティズムと言っていいだろう。また、デカルトのコギトの半面の同一性からである。そう、超越論的同一性なのである。形而上学的同一性なのである。単なる現象界の同一性ではないのである。これこそ、デリダが問題にした「ロゴス中心主義」である。カント哲学の超越論的形式と等しいだろう。超越論的同一性形式と言ってもいいだろう。これは、ヒエラルキー的同一性秩序をもつものである。つまり、同一性が高位・優位にあり、差異が低位・劣位にあるという価値観である。これは、メディア界の対極性・極性を分離二元論にしたものとも言えよう。プラスとマイナスが対極を為していたが、同一性化とは、プラスを優位とし、マイナスを劣位としたのである。しかし、本来両者が極性を為していたのである。例えば、天と地との分離的二元論であるが、本来、天と地とは、対極性で一体のものである。正に、陰陽を形成していたのである。つまり、プラス・エネルギーが作用・作動して、陰陽が分離して、陽が陰に対して、優位に立ったと言えよう。ここで、留意すべきは、陰が否定されたのではなくて、差異が否定されたことである。対極性が否定されたことである。天と地との二元論は、天を優位にしても、地を優位にしても、同形である。ここにあるのは、差異、差異共振、差異極性の否定である。
 しかし、これまで、述べたように、マイナス・エネルギーが作用すると、再び、差異が発動するようになるのである。これは、超越論的領域に起こるのである。つまり、超越論的同一性形式の場に、差異が発生するのである。つまり、それまで、同一性の構造であった場(超越場、内在超越場)に差異の構造が発現するのである。これは、たいへんの事態である。つまり、それまで、アリストテレス的形式論理学の「帝国」に、対極性・即非の論理学・ターシャム・オルガヌムが出現するからである。これは、大事件である。正に、革命的事件である。この差異再発の事件こそ、ポスト近代の事象であると考えられるだろう。当然、自我は、混乱するのである。自我に差異という怪物が急襲したのである。これが、本当のポスト・モダンの意味である。いわゆる、ポストモダンは、真正のポスト・モダンの応急処置のようなものではなかったか。真正ポスト・モダン(ディープ・ポストモダン)とは、ニーチェ哲学のような事態であり、フッサール現象学の探求に存する。
 とまれ、超越論的構造における差異の再出現という大事件によって、近代的自我は混乱、カオスの状態に陥るのである。私見では、これが、「自己愛性人格障害」の本体ではないかと思えるのである。近代的自我、同一性中心自我にとって、在り得ない、不可能な事態が発現したのである。差異の力動、エネルギーが再発動・駆動したのである。この差異の発動が、近代的自我・同一自我に否定されて、反動狂気となっているのである。つまり、差異を否定しようとする憎悪・暴力・攻撃がここにあるのであるし、また、この、正に、反動暴力が、狂気凶暴な傲慢さを発生させていると考えられるのである。即ち、高位・優位の同一性自我は、差異を否定することで、成立・確立するのだが、しかし、ポストモダン事象によって、差異が再発動して、この前提が危うくされているのである。つまり、同一性を否定する差異の事象が再発現したのである。当然、同一性は、この差異を激しく否定する。蛇蝎のごとく、忌み嫌うように憎悪するのである。つまり、ポストモダン事象において、近代的自我は、分裂症、二重人格になるのである。高位・優位の同一性自我と同列の、対等の差異自我が発生するのであるが、前者が後者を否定・排除・隠蔽しようとするのである。そう、抑圧するのである。しかし、自己に存在し、また、進展するものを抑圧するので、当然、病理的になるのである。この差異への抑圧が反動病理になるのであり、これが、「自己愛性人格障害」として発症しているのだと考えられるのである。そして、唯物論的資本主義は、差異知性・差異教養・差異理性を排除しているので(ヴァンダリズム、石原都知事の都立大破壊)、この近代的自我狂気病は、治癒方法を喪失して、蔓延するのである。
 結局、近代的自我が否定した差異を肯定することが治癒につながるのである。そう、先に流行したポストモダンではだめである。DD/PS(DDPS)理論こそ、これを完遂できる理論と考えられるのである。つまり、流行したポストモダンは、DD/PS理論から見ると、メディア界に達したが、イデア界を捉えていないのであり、そのため、同一性構造から真に脱却できなかったのである。いったん、イデア界に達することから、純粋なメディア界に達することができるからである。不連続的差異の共立するイデア界に回帰して、純粋メディア界が生起するのである。これが、純粋ポストモダン、純粋ポスト構造主義である。

p.s. 同一性自我について、新たに考えると、これは、本来、差異自我が、同一性自我へと、いわば、転移ないし投影しているのである。同一性自我の投影像である。神話のナルシスであるが、水面に映る自我像とは、正に、同一性自我像であり、差異自我自身が自身をこれに投影しているのである。つまり、これは、まったく幻想・幻像なのである。差異自我自身が、同一性自我の仮面(パーソナリティ)をつけている、かぶっているからである。差異でありながら、同一性であると過信、盲信、妄信しているのである。つまり、同一性自我は、もともと、幻影・虚偽・虚構・欺瞞・虚栄的なのである。
 プラス・エネルギーの時は、これが、能動的であるからいいが、ポストモダン事象においては、仮面の具合が悪くなるのである。仮面の下の、真相が剥き出しになろうとするのである。仮面破壊が生起するのである。これに対して、同一性自我は、反動的に抑圧するために、病理・狂気的になるのである。「自己愛性人格障害」を哲学するとこうなるだろう。

p.p.s. 極性構造のエネルギーは、言い換えると、欲動・情動・衝動と言えるのではないだろうか。思うに、欲動・欲望とした呼んだ方がいいのかもしれないが。とまれ、作業仮説的に、欲望と呼んでおこう。プラス・エネルギーの場合は、同一性自我欲望である。食欲や性欲や所有欲においても、同一性自我の欲望が入るだろう。例えば、ブランド製品を欲望すると言った場合であるし、高級レストランで食事をするとか、外観の優れた者を性欲の対象にするとかである。そう、資本主義は、この同一性自我欲望と結んでいると言えよう。そのため、同一性欲望を刺激する宣伝に満ちることになるのである。
 とまれ、この同一性自我欲望がプラス・エネルギーであり、暴力である。即ち、

プラス・エネルギー=同一性自我欲望=暴力

となる。これは、また、差異への否定暴力でもある。
 しかし、問題は、マイナス・エネルギーが賦活されたポストモダン事象となる場合である。差異のエネルギーが生成して、同一性自我暴力を解体する方向にはたらくのである。この差異という他者に対して、同一性自我は、反動狂気化するのである。そう、マイナス・エネルギーとは、思うに、差異の欲望であろう。差異であることの欲望である。(ここで、ユング心理学の個性化の概念を想起する。)ここでは、差異への欲動と呼んでもいいように思える。とまれ、ポストモダン事象において、同一性自我欲望と差異自我欲望が衝突することになるのである。しかし、この事象は、超越論的構造、超越論的極性構造で生起しているので、単なる自我意識によっては、どうすることもできないのである。つまり、同一性自我は、ポストモダン事象において、いわば、ほぼ未知の経験をすることになるのである。つまり、同一性自我なので、差異に対する認識が欠落しているということである。このため、差異の欲望に対して、同一性自我は反動的な抑圧的態度をとるのである。というか、衝動的にそうなるのである。差異の欲望エネルギーが発動する。それを肯定的に受容できないので、それを抑圧するが、その抑圧が差異欲望エネルギーを反動化させて、狂気傲慢暴力攻撃衝動とするのである。つまり、同一性自我は、その差異欲望エネルギーを抑圧する態度のために、反動狂気衝動を引き起こすと考えられるのである。この差異欲望エネルギーの抑圧が、同一性自我の狂気的傲慢さを生むと考えられるのである。

3p.s. 以上のように考えると、「自己愛性人格障害」・同一性自我狂気病の原因は、子供の時期の親から見捨てられる経験というトラウマ云々よりは、差異認識の欠落・欠如・欠損によるのではないのかと思えてきたのである。付け加えると、豊かな自然体験のそれである。この場合、自然とは、勿論、農村・漁村・山村等々における自然を含めて、いいのであるし、野趣の残る自然でもいいのである。
 すると、結局、なんらかの差異経験・体験の欠落が考えられるのである。「揺らぎがない」状態とは、正に、このことから発したと考えられるのである。子供たちに、同一性教育をして、差異教育していないのである。狂育である、正に。やはり、戦後唯物科学中心教育の帰結であろう。
 そう、「自己愛性人格障害」・同一性自我狂気病とは、トラウマというよりは、唯物科学教育の産物と見た方がいい。唯物科学とは、正に、同一性自我形式をもつのである。だから、
同一性自我/唯物科学教育が真因である。私は、近代的自我は、現代において、狂気になっていると執拗に論じたが、それは、正鵠を射ていたと言わなくてはならない。

4p.s. 言及するのを忘れていたが、オウム真理教事件であるが、正に、理系出身の青年たちが、多く関与していたことを想起するのである。同一性自我/唯物科学教育(狂育)を彼らは受けてきて、差異教育を受け来なかったため、差異が狂気反動化してしまったと考えられるのである。唯物科学は、悪魔の科学である。これを、明確に、認識しないといけない。真にイデア論に基づく科学が、天使の科学であろう。

DD/PS理論が、ポスト唯物悪魔科学としてのイデア論的天使科学を創造できるだろう。
posted by ソフィオロジスト at 10:46| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月10日

自己愛性人格障害と近代的自我:超越的連続・同一性構造と超次元知的存在の新創世記

自己愛性人格障害と近代的自我:超越的連続・同一性構造と超次元知的存在の新創世記
テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明
自己愛性人格障害や境界性人格障害に関しての説明を少し読んだが、根本において、親から見捨てられる不安から、発症するように思えた。
 以前、近代的自我の発生に関して、「心」の冷暗化を仮説したことがあるが、このような不安は、一種「心」の冷暗化に関係すると言えるだろう。私は、理論的に突き詰めて、では、何故、親、この場合は、母親は、このように子供に依存するのかである。やはり、親自身の問題であり、親の「心」の冷暗化の原因を考えなくてはならない。
 結局、個・自我としての自律の問題である。「我在り」ないし「我思う」の問題である。不連続的差異論dd論から見ると、メディア界の問題である。言い換えると、自我存在の基盤の問題である。
 デカルトは、コギトに基盤を求めたのである。しかし、デカルト哲学の問題は、やはり、メディア界の問題だと思う。コギトは、原点としては、メディア界を含むだろうが、近代的自我となると、メディア界を排除することになるのだ。コギト→近代的自我の移行には、メディア界の排除があるのである。だからこそ、ここには、暴力があるのである。自他への暴力である。そして、ここに、自己愛の問題が発生すると思えるのである。これまで、既述したように、自他の他者・差異の否定・排除・隠蔽である。しかし、これは、極性力学に拠るのであり、必然である。問題になるのは、マイナス・エネルギーが賦活されて、反動化するときである。つまり、賦活される差異を容認しない、反発的な、否定的な姿勢をとるときである。
 問題は、何故、差異を容認しようとしないのかである。確かに、差異は、同一性自我の体系を破壊・解体するのであるから、同一性自我にとって、たいへん不安である。同一性自我である近代的自我自体が、差異を否定しようとするのである。
 現代、自己愛性人格障害が起こるのは、差異を否定する強固な同一性自我が存するからである。私は、近代的自我の反動態として見ているのである。これまで述べたように、「ポストモダン」様相とは、マイナス・エネルギーが賦活され、差異の志向性が発動するので、その発動に対して、同一性自我=近代的自我が、反動的に否定的な反応を起こすのであり、この反動的否定反応こそが、精神病理なのである。
 また、これも既述したように、差異を否定する唯物論文化が主導的なので、差異を肯定する「教養」がないので、差異への受容力がなくなっていることも、一因であると考えられるのである。そう、だから、結局、ポスト・近代主義の発動という実在的な主観・主体的環境における、近代主義の「末期症状」であると見ることができるのである。問題が複雑化しているのは、いわゆる、ポストモダンの運動が挫折したことで、ポスト・近代主義の視点を喪失して、近代からのエクソダスの地平がなくなり、近代主義の反動様態が支配していることである。ポストモダンやポスト構造主義で、夜明けが来たかと思えたが、それは、中途半端な光であり、そのため、真のポスト・近代主義へのブレークスルーにならなかったのである。
 不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の観点から見ると、この近代主義の大反動様態は、理論・知の衰退に大きく存していると思う。有り体に言えば、現代を批判解明し、未来を切り開く理論・知が欠落していることである。これは、明らかに、衰退路線である。
 近代的自我は、無反省のままで、継続していて、自滅へと進んでいるのである。
 そう、まったく、プラトンの洞窟の影像に見入っている反動様態である。狂気ではあるが、妄想狂気(妄狂)自我相である。近代合理主義=唯物論の傲りの結果である。また、カント哲学の限界に拠るとも言えよう。物自体の合理性・ロゴスをカントは理論化できなかったのである。それは、フッサール現象学が行ったのであるが、ハイデガーがそれを後退的に隠蔽してしまったのである。物自体の合理性とは、超越論的主観性、志向性、ノエシス・ノエマ、間主観性、生活世界である。そして、さらに、それを空間化したのは、ウスペンスキーであったのであるが、これらが、アカデミズムにおいて、無視されてしまったのである。というか、哲学分野での、知的劣化・衰退があるのである。
 思えば、デリダやドゥルーズは、後、一歩という境界点で、物自体の世界へとブレークスルーすることができなかったのである。ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、西田幾多郎、鈴木大拙、他の始動的ブレークスルーを継承できなかったのである。そして、また、量子力学も、近代唯物科学の枠に留まったままである。
 結局、これまでの結論を繰り返すしかないが、連続・同一性内在超越構造を徹底して解体する方法しか、真のブレークスルーはありえないのである。ユダヤ・キリスト教、近代的自我、唯物論・唯物科学、ポスト構造主義、資本主義、これらは、この超越論的構造を維持したまままである。

この超越論的連続・同一性構造の解体・破壊にしか、未来は存しないと断言できるのである。

 不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論によって、この
超越論的絶対的差異進化が生起すると言えるのである。これは、東洋も西洋も超越した進化である。

そう、今や、
プラトニック進化が、人類に襲来したのである。これまでの人類は猿人類と退化するだろう。

超次元知的存在の新創世記のエポックである。

NEW GENESIS OF SUPERDIMENSIONAL INTELLIGENT BEINGS

来るべきものが来たのである!!!
posted by ソフィオロジスト at 03:47| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月09日

キリスト教を脱構造化する:「光」の連続・同一性自我化としての「イエス・キリスト」批判


キリスト教を脱構造化する:「光」の連続・同一性自我化としての「イエス・キリスト」批判
[ 04:55 ] [ ポスト・キリスト教 ]
[ スライドショウ ] [ 編集 ] [ 削除 ]
『ヨハネの福音書』の冒頭はきわめて興味深い。「初めにロゴスありき」として、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論ddps理論から見ると、「ロゴス」は、メディア界・差異共振シナジー相である。そして、これが、「光」である。しかし、この「光」は、イデア・シナジーである。だから、不可視の「光」である。「闇」である「光」である。現象界の「光」ではないのである。つまり、浄土教の阿弥陀如来の「光」と等価と見ていいだろう。原光・プロトライトである。そして、この「光」が肉体化したのが、「イエス・キリスト」であるが、しかし、これは、おかしいと思うのである。すべては、「光」から生成したのであるから、誰でも、「光」を体現しているはずである。「イエス・キリスト」だけに限定されるものではないのである。凡人や悪人にさえ、「光」は潜在しているのである。そう、悪魔にさえ、「光」は潜在しているだろう。思うに、「光」の顕在をなんらかの精神修練によって実現した人物が「イエス・キリスト」であったろう。これは、「イエス・キリスト」が唯独りということはありえないのである。これは、また、D.H.ロレンスの懐疑であったのであるが。「光」の顕在的体現は、多くの、いわゆる、神秘家に生起したと考えられるのである。やはり、この点が、ドグマティックに考えられるのである。「光」の独占である。これは、不合理である。ここには、「光」の連続・同一性自我化があると思うのである。デカルトのコギトに近いと思う。そう、キリスト教は、「光」、「ロゴス」、コスモスの理(「ダルマ」)を、連続・同一性自我化していると思う。だから、やはり、ポスト・キリスト教として、キリスト教の脱連続・同一性化=不連続的差異化が必要である。
 また、ヨハネの福音書は、父とロゴスとを混同している向きがあると思う。だから、父とは、イデア界である。そして、ロゴスはメディア界である。そして、子(複数)とは、現象界である。そして、聖霊もメディア界である。聖母マリア、聖母子も、メディア界である。これらが、非常に、混乱しているように思えるのである。カオス状態にあるように思えるのである。古代の叡智が、キリスト教によって、カオス状態にされてしまったように思えるのである。狂乱のキリスト教ではないだろうか。狂気の、精神異常の、精神分裂症のキリスト教ではないだろうか。
 聖書は、文学、フィクション、物語として見るといいと思う。しかし、これは、古代の叡智の破壊ではないか。ポスト・キリスト教である。

_____________________________________

English: New American Standard Bible Japanese: JKUG
John 1 [Commentary]
1. In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2. He was in the beginning with God. この言は初めに神と共にあった。
3. All things came into being through Him, and apart from Him nothing came into being that has come into being. すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4. In Him was life, and the life was the Light of men. この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5. The Light shines in the darkness, and the darkness did not comprehend it. 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
6. There came a man sent from God, whose name was John. ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
7. He came as a witness, to testify about the Light, so that all might believe through him. この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
8. He was not the Light, but he came to testify about the Light. 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
9. There was the true Light which, coming into the world, enlightens every man. すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10. He was in the world, and the world was made through Him, and the world did not know Him. 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11. He came to His own, and those who were His own did not receive Him. 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12. But as many as received Him, to them He gave the right to become children of God, even to those who believe in His name, しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
13. who were born, not of blood nor of the will of the flesh nor of the will of man, but of God. それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
14. And the Word became flesh, and dwelt among us, and we saw His glory, glory as of the only begotten from the Father, full of grace and truth. そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
15. John *testified about Him and cried out, saying, "This was He of whom I said, `He who comes after me has a higher rank than I, for He existed before me.' " ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
16. For of His fullness we have all received, and grace upon grace. わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
17. For the Law was given through Moses; grace and truth were realized through Jesus Christ. 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
18. No one has seen God at any time; the only begotten God who is in the bosom of the Father, He has explained Him. 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
19. This is the testimony of John, when the Jews sent to him priests and Levites from Jerusalem to ask him, "Who are you?" さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
20. And he confessed and did not deny, but confessed, "I am not the Christ." すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。
21. They asked him, "What then? Are you Elijah?" And he *said, "I am not." "Are you the Prophet?" And he answered, "No." そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。
22. Then they said to him, "Who are you, so that we may give an answer to those who sent us? What do you say about yourself?" そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。
23. He said, "I am A VOICE OF ONE CRYING IN THE WILDERNESS, `MAKE STRAIGHT THE WAY OF THE LORD,' as Isaiah the prophet said." 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
24. Now they had been sent from the Pharisees. つかわされた人たちは、パリサイ人であった。
25. They asked him, and said to him, "Why then are you baptizing, if you are not the Christ, nor Elijah, nor the Prophet?" 彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
26. John answered them saying, "I baptize in water, but among you stands One whom you do not know. ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
27. "It is He who comes after me, the thong of whose sandal I am not worthy to untie." それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
28. These things took place in Bethany beyond the Jordan, where John was baptizing. これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。
29. The next day he *saw Jesus coming to him and *said, "Behold, the Lamb of God who takes away the sin of the world! その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

http://unbound.biola.edu/index.cfm?method=unbound.welcome
から
posted by ソフィオロジスト at 07:33| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

近代的自我と言葉の関係:言語とは何か:言語とメディア界の関係について:「初めにロゴスありき」


近代的自我と言葉の関係:言語とは何か:言語とメディア界の関係について:「初めにロゴスありき」
[ 03:18 ] [ 言語と差異 ]
[ スライドショウ ] [ 編集 ] [ 削除 ]
「初めに言葉ありき」とは、あまりに有名なヨハネの福音書の冒頭の言である。しかし、何度も既述したが、原語のギリシア語では、「初めにロゴス(ο λογος)ありき」なのである。「言葉」と「ロゴス」は、一般に、同じものを意味していると考えられている。しかし、誰が見ても、両者、異なるのである。
 英語の欽定聖書やドイツ語のルター訳聖書では、「言葉」と訳(誤訳)されているのである。近代主義とは、精神的には、ここから発したと言ってもいいくらいだと思われるのである。
_______________________________

Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
English: King James Version
German: Luther (1545)
English: New Revised Standard Version


John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.


2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον

The same was in the beginning with God.

Dasselbige war im Anfang bei Gott.

He was in the beginning with God.


3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν

All things were made by him; and without him was not any thing made that was made.

Alle Dinge sind durch dasselbige gemacht, und ohne dasselbige ist nichts gemacht, was gemacht ist.

All things came into being through him, and without him not one thing came into being. What has come into being.


次は仏語版である。

Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
French: Louis Segond (1910)
French Jerusalem Bible
French: Darby


John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος

Au commencement était la Parole, et la Parole était avec Dieu, et la Parole était Dieu.

Au commencement était le Verbe et le Verbe était avec Dieu et le Verbe était Dieu.

¶ Au commencement était la Parole; et la Parole était auprès de Dieu; et la Parole était Dieu.


2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον

Elle était au commencement avec Dieu.

Il était au commencement avec Dieu.

Elle était au commencement auprès de Dieu.


3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν

Toutes choses ont été faites par elle, et rien de ce qui a été fait n'a été fait sans elle.

Tout fut par lui, et sans lui rien ne fut.

Toutes choses furent faites par elle, et sans elle pas une seule chose ne fut faite de ce qui a été fait.

The Unbound Bible
http://unbound.biola.edu/

_______________________________

 問題は、連続・同一性自我と言葉・言語の関係である。これまで、既述したように、同一性と言葉・言語とが、いわば、一致・一体化するのである。つまり、同一性自我・近代的自我と言葉・言語とが、結合するのである。この結果生起する同一性言語自我・近代的言語自我(ラカンの象徴界は、言語自我界であり、ここと一致するだろう。)は、差異を否定・排除・隠蔽する様相となっているのである。ここで、差異とは、メディア界・差異共振シナジー相・心身性・精神である。 
 結局、近代合理主義・近代的自我・同一性言語自我とは、差異を排除して成立しているものである。そう、近代的自我とは、言語と結合することで、強固な内在超越論的連続・同一性構造を形成していると言えるだろう。換言すると、プラス・エネルギーと言語とが結合しているのである。この近代的同一性言語は、差別的な言語であり、主体の差異・他者と同時に、外的な差異・他者を差別・排除するのである。思うに、ナショナリズムや宗教はここと結びついているので、暴力・攻撃的に排外的なのである。(参照:石原都知事、小泉首相、等々、国粋主義的ナショナリズムの面々)
 とまれ、言語と一体化している近代的同一性自我についてであるが、それは、独断・独善的自我中心主義である。「自己中」である。自己盲目であり、妄想・妄念・妄言的である、小泉首相のように。
 そう、先に述べたように、内部環境がプラス・エネルギーの場合は、これが、能動的であったと言えようが、今日のような「ポストモダン」状況では、マイナス・エネルギーが賦活・活性化されていると考えられるので、この近代的同一性言語自我は、反動狂気様態になっているのである。
 では、言語と差異との関係を見る必要がある。明らかに、差異は、言語ではない。あえて言えば、差異とはロゴスである。「理」である。ただし、近代合理主義の「理」ではなく、メディア界・差異共振シナジー界の「理」である。これは、心身・精神的「理」である。だから、言語は、これを、直截に把捉できないのである。言語の他者としての差異なのである。だから、ヨハネの福音書の冒頭の「ロゴス」=「理」を、「言葉」・「言語」と訳すのは誤訳であることが、これで証明されたと言えよう。ロゴスと言葉は、まったく別のものであり、メディア界・メディア平面・差異共振シナジー界の「ロゴス」=「理」と、現象界の同一性形式である言語との混同が、西欧近代において形成・確立されたと言えよう。そして、極論すれば、その結果、主体意識において、内在超越意識が喪失されて、現象界中心主義(=唯物論)になったとも言えよう。(この内在超越界の取り戻しは、芸術では、ロマン主義以降の運動、そして、哲学では、スピノザ、カント、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他によって為された。また、日本では、西田幾多郎や鈴木大拙によって為されたと言えよう。私としては、在野の根井康之氏を含めたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10001141893.html
http://shop.ruralnet.or.jp/search_result.php?mode=detail&id=011706&b_no=01_454083021X

 結局、現代において、言語と差異とが矛盾する事態となっているのである。私は、以前、ポストモダンとは、言語からのズレのことを意味するのだと、戯れに、仲間に言ったものである。そう、このズレが、心身・精神性なのである。そして、これを、さらに、不連続化して、差異共振シナジー相の純粋なメディア界・メディア平面が発生しうるのである。
 問題は、どうやって、このズレを気づきさせるのか。ここに大きなポイントがあると言えよう。差異をどうやって、気づきさせるのか。これが、わかれば、精神意識革命が生起するのである。「こころ」と言われているものは、まだ、連続観念をもっているので、危険だと思う。ズレを不連続的単独化する必要があるのである。「犀の角のように唯独り歩め」。そして、このズレの心身性を、不連続化し、また、スピノザの能動的観念化する必要があると思うのである。つまり、差異・心身性という言語からのズレを不連続且つ能動的観念化すること、これで、不連続的差異論精神意識革命が発生するはずである。つまり、不連続的差異的能動的観念論である。これで、心身は、自我は、イデア界に達して、純粋メディア界・差異共振界を形成するのである。
 また、問題は、どうやって、言語とのズレ・差異を発生させるのかということがある。ここにすぐれた芸術の役割があるだろう。すぐれた芸術は、心身・精神・差異を賦活させるのである。バッハ芸術、シューベルト芸術、トルストイ芸術、芭蕉芸術、セザンヌ芸術、D.H.ロレンス芸術、等々である。また、すぐれた哲学もそうである。スピノザ哲学、ニーチェ哲学、フッサール哲学、ウスペンスキー哲学、仏教を含めた東洋哲学、他。精神的点火をもたらす芸術・哲学・思想・宗教が、すべてである。
 また、自然との単独的触れ合いが重要である。自然は、言語とのズレ・差異を、永遠に喚起するだろうから。
posted by ソフィオロジスト at 07:32| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月03日

東京父権的近代主義批判:一神教的父権主義日本と「縄文」的母権主義日本の分裂二重性の超克

東京父権的近代主義批判:一神教的父権主義日本と「縄文」的母権主義日本の分裂二重性の超克

テーマ:ポスト・ニッポン/太陽国ルネサンス

一つ日本社会における問題点を指摘すると、現代日本人の殺伐とした攻撃的な精神性は、上述した超越的同一性構造に拠るとは言えるものの、それだけでは、不十分だと考えられる。現代日本人、とりわけ、東京人の殺伐さは、近代的自我に拠るとは言え、極めて極端なものに思えるのである。つまり、差異の否定・排除・隠蔽の度合が極めて強く、病理的になっているのである。近代的自我そのものが、病的であるが、それが、徹底していると思うのである。近代的自我病理に、東京人が集団的に染まっているように思えるのである。そして、これは、日本人全体に感染するのである。
 この原因は、思うに、東京における生活の、過度の同一性自我意識にあると思う。一種過度の競争心であるが、病的な競争心である。己の差異を忘失しての病理的な競争心である。これが、どこから生まれたのか。つまり、ここには、個がないのである。単に、近代的自我が、個・差異・特異性を暴力的に排除している社会様態がここにはあるのである。
 この問題は、とても本質的な重要さをもっていると思う。何故、東京社会において、近代的自我意識が跋扈して、個・差異・特異性を攻撃的に否定・排除・隠蔽するのか。東京の問題点がある。これは、日本人の個・差異・特異性にも、当然、関係する重大の事柄である。何故、東京社会には、近代的自我、近代的合理主義、近代主義が、跋扈するのか。直観では、マインドコントロール・洗脳があると思う。また、何か、地方出身者の精神の有り様にも関係していると思う。現代、江戸っ子の精神がほぼ消えている。(漱石が『坊ちゃん』で問題化したのは、ここに何か関係するようにも思えるが。)
 とまれ、近代的自我として、攻撃的であること、マッチョ的であることが、東京において、ステータスの有り様となっているのだ。これは、一体どこから生まれたのか。私に言わせれば、このような無粋さ、野蛮さを価値としている起因は何であるのか。ひとことで言えば、ここには、父権主義がある。もっとも、近代的自我が、父権主義的である。いくら、民主主義云々と説いてもそうである。
 何か、東京社会には、根本的な倒錯があるのだ。それは、何か。父権主義と結びついた近代的自我である。これは、欧米の個人主義とは異なるのである。何故なら、欧米は、ルネサンスに発する個人主義・差異主義がベースにあるからである。他方、その反動としてのプロテスタンティズム的同一性自我ある図式である。日本の近代的自我には、このルネサンス的個人主義・差異主義が欠落している。ルネサンスとは、換言すると、母権的個人主義だと、私は考えている。そう、差異共振主義があると思うのである。日本、とりわけ、東京社会には、これが、欠落している。これは、いったい何なのか。狂気の社会なのである。
 考えられるのは、日本の父権主義と欧米の近代的自我主義とが結びついたものが、この東京近代的自我である。では、日本の父権主義とは何だろうか。私は、ここに、日本社会の元凶を見ている。西洋の近代主義も、狂気的ではあるが、日本の父権主義も狂気的である。狂気+狂気の、二重狂気である。私は、以前に、日本の父権的部族主義という考え方をした。これは、先には、豪族主義と呼んだ。(思うに、ヤクザ社会に共通する何かがあるのではないだろうか。)
 この父権的部族主義、豪族主義とは何か。また、病的な競争心とは何か。深い精神病理・社会病理・狂気の病巣がある。差異を徹底して憎悪して排除する「精神」が、東京社会を、支配している。差異への狂気的な憎悪、これは、何か。これが、東京、日本を、狂わせている元凶だと思う。
 ここでは、直観で述べよう。一つは、日本のナショナリズムがあると思う。国学から発するナショナリズムである。これは、連続・同一性主義であり、差異を排除している。一つは、・・・。
 そう、どうも、バビロニア神話他におけるような父権神話と同質の純粋な父権主義があるのではないだろうか。それは、言わば、純粋父権主義、絶対的父権主義である。二項対立暴力である。差異である母権主義を完全否定する父権主義である。どうも、これが、日本社会にあると思う。二年前に、日本の母権主義と父権主義の分裂的二重性について言及した。前者は、「縄文」文化であり、後者は、「天皇族」文化である。そして、これが、不連続であると私が、その時、考えたのである。つまり、差異と同一性との分裂があるということになるだろう。今考えても、日本の社会の歴史は、この母権的差異と父権的同一性の分裂的二重社会の歴史と言えよう。これは、現代においても、まったく変わらない。自民党/公明党は、これを利用しているのである。小泉/安倍自民党は、この二重性に立っているのである。

火焔土器

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Jomon_vessel_3000-2000BC.jpg

 ようやく、見え始めてきたようだ。思うに、日本社会には、ユダヤ・キリスト教と共通するような父権主義をもつ部族(「天孫降臨族」)がある時代に到来して、伝統的であった母権的社会(「縄文」的母権社会)を支配するようになった。しかし、その支配のために、後者の宗教文化を前者は利用したのである。それが、「天皇制」である。「天皇(日御子)」信仰とは、本来、イシス・オシリス宗教、聖母子・聖母マリア信仰、等に通ずる宗教であると考えられる。それを、父権主義が利用して、天皇制に祭り上げたのである。原日本人は、「天孫降臨」父権民族に、いわば、騙されているのである。この構図は、現代の自民党/公明党支配でも、まったく、変わらないと考えられるのである。

王冠型土器

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Oukankeidoki.jpg

 ということで、私が問題にした、日本の父権主義、父権的部族主義とは、純粋・絶対父権主義であったという仮説になったのである。(もっとも、今の段階では、作業仮説であるが。)つまり、ユダヤ・キリスト教的一神教的父権的民族が、古代日本に到来して、強力な父権主義を、世界的に稀な母権社会である日本に、分裂的にもたらしたのである。これが、日本社会の、日本人の、本質的構図・構造であると考えられる。

遮光器型土偶

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:JomonStatue.JPG

 だから、日本近代とは、きわめて、異常な社会なのである。つまり、欧米の父権的近代主義と日本の父権主義を合わせたものであるからである。過剰な父権主義がここには存しているのである。私が、近代的自我の狂気と考えたもの正体がこれである。結局、ハイパー父権主義、ハイパーな近代主義が、現代日本、東京に存しているのである。私が、東京社会の病的な競争心と見たものの根因とはここにあったと考えられるのである。日本的ユダヤ・キリスト教的父権狂気なのである。それがベースとなり、ルネサンス的個人主義、母権的差異主義を除いた、西洋近代的自我が形成されているのである。
エウレカ!!!


注:本稿は「イデア・共振シナジーと歓喜:極性シナジーと能動/反動」http://ameblo.jp/renshi/entry-10016573185.html
の後記p.p.s.を独立させたものです。
posted by ソフィオロジスト at 19:42| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月30日

連続・同一性自我は、何故、全体主義的になるのか:自我絶対的暴力とは内在超越的暴力・狂気である。

連続・同一性自我は、何故、全体主義的になるのか:自我絶対的暴力とは内在超越的暴力・狂気である。
テーマ:差異と同一性
これについては、ある意味では、検討済みではあるが、ここで、明確にしたい。
 連続・同一性自我・近代的自我は、差異・他者を否定・排除する。この否定・排除の暴力の度合いが問題なのである。狂気の暴力である。凶暴性があるのであるが、これは、全体主義的なのである。つまり、自我絶対的なのである。そう、これを問題にしたいのである。自我絶対的な暴力が、ここにはあるのである。この自我絶対的暴力の絶対性がどこから発しているのかである。父権暴力と言ってもいい。アメリカ国家暴力と言ってもいい。
 これは、根本から考えなくてはならない。即ち、極性エネルギーにおいて、プラス・エネルギーが連続・同一性志向性となると、これまで、考えてきた(仮説)。プラス・エネルギーが連続・同一性自我、換言すると、近代的自我を形成すると言える。すると、同一性自我・近代的自我とは、本来、超越的であるのがわかる。つまり、超越次元、コスモス次元から発動しているのであるから。この典型が、ヤハウェである。ヤハウェが、プラス・エネルギーによる連続・同一性自我の典型的表現だと考えられよう。超越神となるのは、正しいのである。不連続的差異論で言うメディア界という内在超越(超越論)界から発しているからである。そう、同一性自我暴力とは、言わば、内在超越的暴力であり、神的暴力なのである。私は、近代的自我を狂気と呼んできたが、ここから見ると、その狂気とは、内在超越的暴力であると解明できるのである。

ancient days

 これで、ようやく、この問題に、究極的に結論が出たような感じがある。近代的自我・近代合理主義について、これまで、おそらく、何百回と議論してきて、それなりに解明を試みてきた。これまでの、結論は、複合的なもので、粗差異とプラス・エネルギーの複合と見てきたのである。これは、これなりに正しいのであるが、ここでの究明によって、これが、内在超越次元の暴力狂気であることが明確になったのである。神的狂気、一神教的狂気、ヤハウェ的狂気ということになったのである。
 近代的自我の暴力・狂気とは、内在超越的・父権一神教的・ヤハウェ的狂気なのである。形而上学的暴力・狂気なのである。近代主義とは、明確に、形而上学的なのである。そう、だから、近代的自我の問題は、通常の理性・知性では解決しないのである。形而上学的事象なので、形而上学的解決が必要なのである。そう、結局、近代主義を形而上学的に解明する必要があるのである。そして、これは、新イデア論である不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論によってこそ、なされ得るのである。なぜなら、現代において、形而上学ないし哲学は、ほぼ壊滅状態であり、近代主義・近代的自我・近代合理主義を、批判的超克ができないからである。

p.s. これで、小泉首相の「狂気」も完璧に説明できるだろう。

p.p.s. 資本主義批判も、この根底から為され得るだろう。交換価値=貨幣経済とは、やはり、この形而上学・内在超越構造(ほぼ、カントの超越論的形式、あるいは、構造主義の構造に相当する)から発しているのであり、この構造を解体しない限り、暴力を振るうと言えよう。結局、資本主義は、この内在超越的暴力・狂気と結びついているのである。この内在超越的連続・同一性構造の脱構造化・解体・「脱構築」が必須である。これによって、差異共振シナジー経済・ポスト資本主義が可能となると考えられるのである。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論が、この革命をもたらすだろう。内在超越論的連続・同一性自我=近代的自我の解体なくして、人類の未来はないだろう。ポスト近代的自我としての差異共振シナジー自我への変容が必須である。人類進化の黎明が、これで、もたらされるだろう。

注:画像The Ancient of Days by William Blakeは、以下からのものです。
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/blake/
WebMuseum
Blake, William
© 14 Oct 2002, Nicolas Pioch - Top - Up - Info
posted by ソフィオロジスト at 03:17| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。