2005年08月24日

現象学、不連続的差異論、仏教:超越論的現象、メディア界、空

フッサールの現象学が、先にも触れたが、不連続的差異論の先駆の一つであることが、明確に検証される箇所が、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫)の中に見いだすことができた。それは、第五十四節のbの箇所である。そこでは、不連続的差異論のメディア界における差異共存志向性に当たる事柄が、フッサール特有、一流のくどくどしい用語や言い回しで詳論されている。今は余裕がないので、引用できないが、例えば、338ページのところは明らかに、差異共存志向性を述べていると考えられる。
 先にも述べたが、現象学とは、超越論的差異論である。そして、ドゥルーズ哲学の主要な源流はここにあると言うべきである。ドゥルーズ自身がフッサールに言及したことを見たことはないが、フッサールを読んで、相当取り込んでいると考えられる。思うに、スピノザ、ニーチェ、ベルクソンがドゥルーズ哲学の表立った源流であるが、隠れ源流としてフッサール、そして、現象学があるのだ。フッサールの超越論哲学とは、主体の構造主義であるし、また、差異論を示唆しているので、ポスト構造主義の先駆である。また、無意識論と言うことができるだろう。判断停止とは、自我の判断停止であり、個吾の強度が対象となるのである。個吾とは、メディア界的であり、それは、無意識の領域である。そう、フッサールが言う自我(エゴ)とは、通常の自我ではなく、個ないし個吾として捉えなくてはならない。
 結局、現象学的判断停止(エポケー)とは、不連続的差異論でいう現象界の判断停止であり、メディア界への直覚へと人を赴かせると言えるだろう。そして、これは、仏教の解脱と重なるだろう。道元の身心脱落も同様だろう。自我から個・個吾へだ。(ユング心理学の個性化とは、本当は、このことを意味するべきであるが、ユングは、通常の自我を維持しているので、分裂しているのだ。そう、ユング心理学は、メディア界と現象界との折衷であり、混乱、混濁していると言わざるをえない。)
 結局、予見通り、不連続的差異論、現象学、仏教は共通する領域をもっているのである。それは、メディア界、超越論的現象、空である。結局、ポスト・モダン哲学である。脱近代哲学である。いわゆる、ポスト構造主義とは、実は、現象学のある種の進展であったと言えよう。現象学自体、構造主義的である。結局、19世紀から20世紀にかけての哲学の営為とは、超越論性、超越論的差異性を共通の震源にしていたと考えられる。そして、今や、グローバリゼーションによる日本乗っ取りの状況の中で、哲学、フィロソフィア、叡智学が、不連続的差異論として、結晶したのである。数千年、否、それよりも太古から、人類は、智慧を探究してきたのであり、いわば、永遠の智慧が不連続的差異論として、結晶したと言えよう。これは、森羅万象、万物、万有を包摂する統一理論である。存在の普遍的基本構造をこの理論は、明らかにしたのである。だから、あらゆる事柄に適用できるのである。そう、これまで、哲学者たちが探究してきた叡智の形が発見されたと言えよう。日本人には、縁遠いとされた哲学が、奇蹟的に創造されたと言えるのである。日本人も哲学民族になったのである。これを、郵政民営化、衆院総選挙で、考えるべきである。日本人の叡智が試されているのである。
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2005年08月21日

人間の悪とは何か:何故悪があるのか:ポスト・ユダヤ/キリスト教と世界ルネサンスに向けて(補足)

これまでの自我論から見ると、自我という悪は、差異共存志向の冷暗化によって生じるということであった。では、何故、近代西欧米において、これが、著しく増加したのだろうか。差異共存の冷暗化、あるいは、メディア界の冷暗化が、強化されたということになるのだが、その原因は何か。
 ここで、観点を変えて考えよう。では、何故、自我悪は、自身を正しいと思うのであろうか。何故、自我悪は、自身を義や善として振る舞うのだろうか。偽善・独善主義である。そのメカニズムは何だろうか。そう、差異共存志向性の冷暗化で述べたことをここで想起すればいい。つまり、誰にでも本来、差異共存志向性という善、本善、原善はあるのである。これは、仏性と言ってもいい。性善説である。しかし、これが、捩れて悪へと転化するのである。すなわち、善が悪と転化するのである。だから、性悪説とも言える。(性善説と性悪説は等価である。)
 とまれ、この冷暗化において、個体は、被害意識をもつのである。生得的喜びを否定された個体は、被害者意識をもち、反感をもつのである。反感とは、自己の存在が否定されたことへの反動であるから、そして、反感は自己の存在を取り戻そうとする衝動を内在させる。この反感・反動的自己存在復権衝動は、復讐でもあるが、独善・独断的衝動であると言えよう。つまり、反感独善衝動を反動性としてもっているのである。そして、これが、連続・同一性化という現象化と結びついているのである。連続・同一性は、必然的に生起する現象化であり、個体を形成するものである。しかし、そこに反感独善衝動・反動暴力が加わると、自我、自我悪魔となるのである。
 さて、以上のように考えて、当初の問題に戻ると、何故、自我悪は自分を正しいと思うのかということであるが、もはや自明的になったが、反感独善衝動が当然、自己を義と錯誤させるのである。反感独善衝動即ち自己善錯誤である。つまり、反感独善衝動が、盲目的反理性的衝動であり、個体はいわば、自己善、独善性に憑かれていると言える。
 では、先の問題、なぜ、近代西欧米に、自我悪が増加したのかという疑問を考えると、西欧とは、北の地域であり、自然の諸生産力が乏しいのである。だから、人間の精神も、必然的に、暗くなるのである。また、キリスト教という冷暗化の肯定の宗教が、入っているので、なおさら、西欧の精神は暗いのである。この精神の冷暗化がベースにあると考えなくてはならない。そして、近代であるが、これは、西欧の場合は、宗教改革と見なくてはいけないと考えている。アルプス以南、イタリアにおいてルネサンスが勃興した。そして、この人間・学芸復興運動は、西欧にまで伝わった。このイタリア・ルネサンスとは、差異の発動である。キリスト教に抑止されていた差異が、商業等を介して、点火したのである。そう、個=差異の自由運動がイタリア・ルネサンスである。これが、暗い西欧に達して、西欧は、それへの反動として、宗教改革を起こしたのである。この差異への反動が、近代西欧米を発生させたのである。差異、個、特異性への反動こそ、西欧近代主義であり、ここに自我悪が増加した原因を求められるのである。差異への反動、これが、自我悪の意味である。そして、これが、グローバリゼーションに帰結し、今や、郵政民営化路線と帰結しているのである。そう、反動である近代主義のどん詰まりが、郵政民営化問題なのである。これを乗り越えなくはならない。これは、必然である。今や、自我悪魔たちが跋扈している。これを乗り越えて、イタリア・ルネサンスを継承しないといけない。差異の運動である。これは、当然、世界・地球・国際ルネサンスとなる。そして、グローカル・ルネサンスである。差異の復活である。日本の復活、日本の独立運動、ニッポン・ルネサンスである。

 初めに差異ありき、差異は神とともにありき、差異は神であった。

新新約聖書 『新・ヨハネの福音書』

p.s. 妄想という現象も、反感独善衝動から生まれるのではないか。本人が妄想として思い込んだものに対して、何を言っても無駄である。思うに、妄想とは、実に一般的にあると思う。小泉氏の郵政民営化とは、妄想以外の何ものでもないだろう。自我主義の人は、妄想人である。社会に害悪となる。妄想人に政治を行わせないように、選択しないといけない。

p.p.s. 以上の自我悪論から、ユダヤ・キリスト教を究極的に解体できそうだ。キリスト教批判は、ニーチェの「アンチ・キリスト」が有名であるが、不連続的差異論によるユダヤ・キリスト教批判的解体論は、ニーチェ/D.H.ロレンスのルサンチマン論の系譜にあるが、また、スピノザ哲学の系譜にもあるが、結局、ヤハウェという超越一神とは、反感独善衝動による宗教的表象であるということになるだろう。つまり、イデア界の力の反動でもある反感独善衝動が、連続・同一性という現象化へと志向と結合した自我衝動の表象がヤハウェ、超越一神であるということになろう。だから、ヤハウェ、超越一神、ユダヤ・キリスト教とは、ニーチェがいみじくも洞察したように、究極的な悪魔の宗教である。邪教である。そう、かつて、私は、超悪魔的宗教と呼んだが。確かに、超悪魔的と呼ばれてしかるべきである。なぜならば、悪魔性の形而上学的結晶化であるからである。旧約聖書は確かにそうと言えるが、新約はほんとうにそうなのか。キリストは愛を説くが、自我悪において愛を説くとはどういうことなのだろうか。独善的な自我に愛を説くとは、その独善的自我が他者に積極的に干渉するということになるだろう。独善的自我における隣人愛とは、独善・自己正当化的に、他者へ干渉し、独善的自我を押し付ける暴力である。これが、キリスト教のミッション・宣教・伝道性に帰結したと言えよう。(また、十字軍という略奪に帰結したと言えよう。そして、現代、「イラク戦争」に帰結し、また、郵政民営化に帰結しているのである。超悪魔の帝国である。)ということで、キリスト教は、旧約宗教の究極的な帰結・完成である。世界平和のためには、絶対的に、ポスト・ユダヤ/キリスト教とならなくてはならない。不連続的差異論は、新しい多神教、不連続的差異的多神教を示唆している。もっとも、これは、理知的な宗教であり、叡智そのものである。そう、今や、正しく、逆ハルマゲドンの時である。似非天使=悪魔を退治しないといけない。
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人間の悪について:なぜ悪があるのか:近代の終焉と世界ルネサンスへ向けて

人間の悪について:なぜ悪があるのか:近代の終焉と世界ルネサンスへ

これまでの自我論から見ると、自我という悪は、差異共存志向の冷暗化によって生じるということであった。では、何故、近代西欧米において、これが、著しく増加したのだろうか。差異共存の冷暗化、あるいは、メディア界の冷暗化が、強化されたということになるのだが、その原因は何か。
 ここで、観点を変えて考えよう。では、何故、自我悪は、自身を正しいと思うのであろうか。何故、自我悪は、自身を義や善として振る舞うのだろうか。偽善・独善主義である。そのメカニズムは何だろうか。そう、差異共存志向性の冷暗化で述べたことをここで想起すればいい。つまり、誰にでも本来、差異共存志向性という善、本善、原善はあるのである。これは、仏性と言ってもいい。性善説である。しかし、これが、捩れて悪へと転化するのである。すなわち、善が悪と転化するのである。だから、性悪説とも言える。(性善説と性悪説は等価である。)
 とまれ、この冷暗化において、個体は、被害意識をもつのである。生得的喜びを否定された個体は、被害者意識をもち、反感をもつのである。反感とは、自己の存在が否定されたことへの反動であるから、そして、反感は自己の存在を取り戻そうとする衝動を内在させる。この反感・反動的自己存在復権衝動は、復讐でもあるが、独善・独断的衝動であると言えよう。つまり、反感独善衝動を反動性としてもっているのである。そして、これが、連続・同一性化という現象化と結びついているのである。連続・同一性は、必然的に生起する現象化であり、個体を形成するものである。しかし、そこに反感独善衝動・反動暴力が加わると、自我、自我悪魔となるのである。
 さて、以上のように考えて、当初の問題に戻ると、何故、自我悪は自分を正しいと思うのかということであるが、もはや自明的になったが、反感独善衝動が当然、自己を義と錯誤させるのである。反感独善衝動即ち自己善錯誤である。つまり、反感独善衝動が、盲目的反理性的衝動であり、個体はいわば、自己善、独善性に憑かれていると言える。
 では、先の問題、なぜ、近代西欧米に、自我悪が増加したのかという疑問を考えると、西欧とは、北の地域であり、自然の諸生産力が乏しいのである。だから、人間の精神も、必然的に、暗くなるのである。また、キリスト教という冷暗化の肯定の宗教が、入っているので、なおさら、西欧の精神は暗いのである。この精神の冷暗化がベースにあると考えなくてはならない。そして、近代であるが、これは、西欧の場合は、宗教改革と見なくてはいけないと考えている。アルプス以南、イタリアにおいてルネサンスが勃興した。そして、この人間・学芸復興運動は、西欧にまで伝わった。このイタリア・ルネサンスとは、差異の発動である。キリスト教に抑止されていた差異が、商業等を介して、点火したのである。そう、個=差異の自由運動がイタリア・ルネサンスである。これが、暗い西欧に達して、西欧は、それへの反動として、宗教改革を起こしたのである。この差異への反動が、近代西欧米を発生させたのである。差異、個、特異性への反動こそ、西欧近代主義であり、ここに自我悪が増加した原因を求められるのである。差異への反動、これが、自我悪の意味である。そして、これが、グローバリゼーションに帰結し、今や、郵政民営化路線と帰結しているのである。そう、反動である近代主義のどん詰まりが、郵政民営化問題なのである。これを乗り越えなくはならない。これは、必然である。今や、自我悪魔たちが跋扈している。これを乗り越えて、イタリア・ルネサンスを継承しないといけない。差異の運動である。これは、当然、世界・地球・国際ルネサンスとなる。そして、グローカル・ルネサンスである。差異の復活である。日本の復活、日本の独立運動、ニッポン・ルネサンスである。

 初めに差異ありき、差異は神と共にありき、差異は神であった。

新新約聖書 『新・ヨハネの福音書』





小泉政権を敗北させないといけない理由:逆ハルマゲドン

資料です。

郵政改革がほんとうに必要と考えているならば、衆院解散ではなくて、衆院にもどして、再審議・議決をすべきである。これが本筋であり、憲政の法理・条理・正道である。国民投票したいという気持ちは、わかるが、それで、法理を否定するならば、独裁主義である。私も、森田実氏に倣って、今度の選挙で、小泉痔眠倒を絶対に敗北させないといけないと絶叫しよう。小泉日本御陀仏政権を打ち破らないといけない。もし、政権が勝利すれば、思うに、日本経済は没落して、結果、ますます国債を発行し、課税が強化されるだろう。完全にアメリカの奴隷国家となるだろう。このような隷属化を誰が望んでいるのか。これは、近代的自我・合理主義による「狂気」に拠ると言えよう。私説では、近代的自我・合理主義とは、差異共存意識が欠落しているので、没倫理・無責任・利己主義・悪魔主義なのであり、自己中心主義で、他者がどうなろうと一切かまわないのだ。自分の欲望さえ満足できれば、それでいいのである。まさしく、癌的近代主義思想である。これは、パラノイアと言い換えられる。自己絶対だから、聴く耳をもたないのである。狂人の観念である。ジキル/ハイドである。天使の装いをした邪悪な悪魔である。
 現代の世界的潮流は、多元・多極主義である。それに対して、アメリカ一極主義は、古いのである。それは、ハイパー近代主義であり、近代の終末事象である。すると、郵政民営化か否かとは、「ハルマゲドン」である。そう、逆「ハルマゲドン」である。カウンター(抗)・ウォール街/永田町逆「ハルマゲドン」である。郵政民営化賛成の似非天使(逆賊)と、郵政民営化阻止の偽悪魔(国民派)との逆「ハルマゲドン」である。亡国狂信派と護国理性派との逆「ハルマゲドン」である。黙示録的終末論的世界史・人類史的闘争が今闘われていると言えよう。

「疑問1今、なぜ「郵政解散」なのか

「国民投票」で郵政民営化に再挑戦するためです

 小泉純一郎総理(総裁)が就任前から、一貫して必要性を主張してきた郵政民営化法案は国会で民主党などの反対により否決されました。このまま何もしなければ郵政民営化が政治課題にあがることはなくなり、ここまで進めてきた改革は頓挫(とんざ)することになります。
 郵政民営化法案は本当に日本の将来にとって必要ないのでしょうか。
 小泉総理は「国会で郵政民営化は必要ないという結論を出されてしまいましたが、もう一度国民に聞いてみたい」と述べ、「国民投票」で郵政民営化に再挑戦するための解散と位置付けています。
 郵政民営化は是か非かそれは小泉改革をこれからも進めるかどうかの判断を求めるという意味です。そして、そのことは21世紀の日本が進むべき道を国民自らが選択するということに他なりません。
 今回の選挙は歴史的に大きな意味を持っています。わが党は「改革を止めるな。」をキャッチフレーズにこの選挙戦を戦う考えです。そして、郵政民営化をはじめとする小泉改革の推進を求める多くの国民の声を結集していく決意です。」
郵政解散について
http://www.jimin.jp/contents/news/170820a.html





知的デザイン論と創世記

資料です。

intelligent design(知的デザイン、知的計画)仮説による、スミソニアン研究所の雑誌による、紛糾である。興味深いのは、一応、聖書の天地創造説と知的デザイン仮説は対立しているが、両者とも、「神」を原点にする点で共通である。ただ、「神」が、ヤハウェなのか、知的デザインなのかということである。不連続的差異論では、不連続的差異が共立するイデア界が万物、森羅万象の根源であると仮説している。そして、これは、超越論・内在論的差異論であることであり、超越主義、絶対超越のユダヤ/キリスト教的な「神」とは異質である。 
 私は、イデア界の力学、知的法則があり、自然は巨視的には必然性が支配していると考えているが、不思議なのは、スピノザが説くように、必然=自由となるのである。(後で、偶然とは何かを考えたい。)つまり、現象界の連続・同一性とは、メディア界の出来事、事件、生起したことの残像であり、これに執着(政官財メディアの癒着、利己主義等)すること(残像固着・執着)は、偶然であり、メディア界の必然性を逸脱しているのではないだろうか。そう、必然=自由=個=差異である。これが、あらゆる事柄の原点である。


US editor ignites evolution row at Smithsonian over editor institute mithsonian engulfed by row over evolution at centre of row over evolution
By David Usborne in New York
Published: 20 August 2005


Scientists at the prestigious Smithsonian Institution in Washington DC have become embroiled in a controversy over the origins of life, a debate which has also aroused the recent interest of President George Bush.

At the heart of the storm is Richard Sternberg, picked by the Smithsonian to edit one of its scientific journals, the Proceedings of the Biological Society of Washington. Normally, the journal arouses little non-specialist interest. But Dr Sternberg stepped straight into a controversy gripping America by publishing an article supporting the theory of intelligent design, the idea that an outside agent - God - must have at least lent a hand in creating our universe.

He has reignited a row that began when President Bush managed to appall the US scientific community during a meeting with reporters in Texas. Asked whether the notion of intelligent design should be taught in American schools alongside the theory of evolution he answered that, yes, it should. The appearance of the article, by an outside contributor named Stephen Meyer last August, has triggered an academic and political food-fight of astonishing proportions. Mr Sternberg's colleagues believe that the publication of the piece has all but brought a secular scientific institution into disrepute. "We do stand by evolution; we are a scientific organisation," said Linda St Thomas, a spokeswoman for the Smithsonian, which runs 16 of America's most important museums.

But a federal body, run by a hand-picked appointee of President Bush, has now accused the Smithsonian of waging a vindictive smear campaign against one of their own peers.

The allegation has been made by the Office of Special Counsel set up precisely to investigate cases of federal government employees who feel they have been unfairly treated or dismissed.

Most of the smears against Dr Sternberg, 42, came in the form of a flurry of e-mails. Some alleged that he was a closet priest or that he was an agent for radical conservative groups that peddle intelligent design or even creationism, which accepts almost literally the explanations in the Book of Genesis and views fossils not as scientific evidence but the residue from Noah's Flood.

"They were saying I accepted money under the table, that I was a crypto-priest, that I was a sleeper-cell operative for the creationists," Mr Sternberg told The Washington Post newspaper. "I was basically run out of there."

The Office of Special Counsel agrees. In a new but still unpublished report, the office said that "retaliation came in many forms ... misinformation was disseminated through the Smithsonian Institution and to outside sources. The allegations against you were later determined to be false".

James McVay, the principal lawyer and Bush appointee involved in studying the Sternberg case, stated in a letter to Dr Sternberg: "The rumour mill became so infected one of your colleagues had to circulate [your résumé] simply to dispel the rumour that you were not a scientist."

Mr McVay does not have the power to punish the Smithsonian. But he can try to embarrass it and some people believe he may have some political motivation in doing so.

Darwinism may be the basis of understanding for our existence in most of the developed world, but America still argues about it. In fact the debate seems only to get more and more passionate.

A recent Gallup poll showed that 45 per cent of Americans subscribe to the Book of Genesis theory of our origins. Only about one-third are ready to accept the evolutionary propositions of Darwin. Among the e-mails Mr Sternberg received after publishing the Meyer article was this one from an anonymous Smithsonian scientist: "We are evolutionary biologists and I am sorry to see us made into the laughing stock of the world, even if this kind of rubbish sells well in backwoods USA."

Dr Sternberg meanwhile insists that he himself is agnostic about intelligent design but defends his decision to publish the article that discussed it.

"I am not convinced by intelligent design but they have brought a lot of difficult questions to the fore," he said. "Science moves forward only on controversy."

Scientists at the prestigious Smithsonian Institution in Washington DC have become embroiled in a controversy over the origins of life, a debate which has also aroused the recent interest of President George Bush.

At the heart of the storm is Richard Sternberg, picked by the Smithsonian to edit one of its scientific journals, the Proceedings of the Biological Society of Washington. Normally, the journal arouses little non-specialist interest. But Dr Sternberg stepped straight into a controversy gripping America by publishing an article supporting the theory of intelligent design, the idea that an outside agent - God - must have at least lent a hand in creating our universe.

He has reignited a row that began when President Bush managed to appall the US scientific community during a meeting with reporters in Texas. Asked whether the notion of intelligent design should be taught in American schools alongside the theory of evolution he answered that, yes, it should. The appearance of the article, by an outside contributor named Stephen Meyer last August, has triggered an academic and political food-fight of astonishing proportions. Mr Sternberg's colleagues believe that the publication of the piece has all but brought a secular scientific institution into disrepute. "We do stand by evolution; we are a scientific organisation," said Linda St Thomas, a spokeswoman for the Smithsonian, which runs 16 of America's most important museums.

But a federal body, run by a hand-picked appointee of President Bush, has now accused the Smithsonian of waging a vindictive smear campaign against one of their own peers.

The allegation has been made by the Office of Special Counsel set up precisely to investigate cases of federal government employees who feel they have been unfairly treated or dismissed.

Most of the smears against Dr Sternberg, 42, came in the form of a flurry of e-mails. Some alleged that he was a closet priest or that he was an agent for radical conservative groups that peddle intelligent design or even creationism, which accepts almost literally the explanations in the Book of Genesis and views fossils not as scientific evidence but the residue from Noah's Flood.

"They were saying I accepted money under the table, that I was a crypto-priest, that I was a sleeper-cell operative for the creationists," Mr Sternberg told The Washington Post newspaper. "I was basically run out of there."

The Office of Special Counsel agrees. In a new but still unpublished report, the office said that "retaliation came in many forms ... misinformation was disseminated through the Smithsonian Institution and to outside sources. The allegations against you were later determined to be false".

James McVay, the principal lawyer and Bush appointee involved in studying the Sternberg case, stated in a letter to Dr Sternberg: "The rumour mill became so infected one of your colleagues had to circulate [your résumé] simply to dispel the rumour that you were not a scientist."

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the independent
http://news.independent.co.uk/world/americas/article307079.ece





差異共存可能態(デュナミス)と差異共存活動態(エネルゲイア):差異共存の反感・反動化と攻撃・暴力


不連続的差異論の見地から、人間の利己主義、自己中心主義、攻撃・暴力性を見てみよう。
 イデア界において、差異は共立・共存しているが、それは、潜在性、可能性、デュナミスにおいてである。そして、これが、メディア界で、活動態、実現態、エネルゲイアとなる。このメディア界の差異共存活動態、差異共存エネルゲイアとは、内的な太陽と言っていいものだろう。プラトンの善の太陽は、おそらく、これを介して、イデア界の差異共存可能態(デュナミス)を指しているのだろう。
 さて、問題は、幼児・小児期、あるいは、幼少年期に、トラウマとなるような、「暗い」体験をしたとしよう。すると、差異共存活動態は、「暗黒化」するのである。あるいは、「冷凍化」するのである。簡単に、冷暗化と呼ぼう。この体験は、差異共存活動態のもつ、他者との共存的喜び・歓喜性を消失させるのである。また、それだけでなく、他者への反感性をもたらすと思われる。この理由は、差異共存活動態における積極的感情(私は感情とは、感覚に含めていいように感じているが、とりあえずは、感情という言葉を用いる)・喜び/生命の感情を否定されて、反感的感情が生じていると考えられるからである。この幼少期における差異共存活動態の冷暗化=反感化は、スピノザの説く悲しみの感情と共通すると言えよう。そして、ここから、否定的・反動的な感情は、派生・発出すると言えよう。憎しみ、敵意、嘲り、侮蔑、嫌悪、傲慢、悪意等のルサンチマン(怨恨)等々、そして、攻撃・暴力的な行為となる。
 ここで、整理すると、普通、人間は、上記のような冷暗化のトラウマはもたないから、差異共存感情と保持して、他者との共存を維持するのである。しかし、実際は、差異共存感情と反感を併存させていて、なんとかバランスを取っているだろう。そして、差異共存感情ないし差異共存意識が、良識の根源・基盤である。
 さて、問題は、差異共存活動態が冷暗化している場合である。これは、今日、現代、顕著になってきていると思われる。なぜならば、資本主義の進展によって、利己主義的になり、他者への共感性が衰退ないし喪失していると考えられるからである。すると、子供は一番、この犠牲となる。差異共存活動態の冷暗化が、子供たちに直截に生起するのであり、それによって、暴力化ないし自己破壊(自殺)傾向すると言える。そう、社会のホッブズ化と言っていいだろう。
 とまれ、このような冷暗・反感・暴力化に対して、教育が大変重要な意味をもつ。つまり、単に知識を憶えさせるだけではなくて、各自の差異共存活動態を否定・反動態から、肯定・能動態へと変容させる知恵を授け、得心させる必要があると言えよう。私は、この差異共存活動態の肯定・能動化の方法を説く叡知として、スピノザの『エチカ』をあげたい。これは、宗教を越えた素晴らしい方法論的知恵の書である。
 さて、近代教育とは、実は、差異共存活動態を冷暗化させていると思う。近代的自我・合理主義とは、正に、メディア界の冷暗化の利己的知識である。そして、近代的高等教育を受けた者が、エリートとなり、政治家や役人等となる。かれらは、確かに、知性があるが、利己的な、自我中心的な知性であるから、指導者としてはふさわしくないのである。国民のことを真に考えるべき基盤となる差異共存活動態が冷暗化して、いわば、国民を侮蔑や無視しているからである。結局、今日の理不尽な問題は、この近代教育問題に内在的要因が求められるだろう。だから、ポスト近代、脱近代、ポストモダン、メタモダン、エクストラモダン、エクスモダン、脱モダン、トランスモダン、越近代とは、政治・経済の構造改革だけでなく、人間の構造改革でもあるのである。すなわち、連続・同一性の構造から、不連続的差異の共存共生の構造へとパラダイム変換しなくてはならないということである。因みに、郵政民営化の問題も同様である。不健全な財政を生む政官財メディアの癒着という連続・同一性の構造を解体・脱構築して、多数の差異である個、企業が、自律的に共存できる、収支バランスの健全な構造・システムの新構築へと転換することが本質である。





経済とは、メディア界に属しているのではないか

不連続的差異論から見ると、現象界を形成する直接的な根源はメディア界である。だから、産み出す自然の原基とは、メディア界と考えられる。つまり、自然の「生産」・創造の母胎は、メディア界である。

d1〜d2〜・・・〜dn (メディア界)
 
 ↓

d1ーd2ー・・・ーdn (現象界)

経済を考えると、それは、第二の自然である。自然に働きかけて、有用なものを創り出すこと、そして、それを他者と交換すること、これらは、人間社会の「自然」であると言えよう。だから、経済は、メディア界と理解することができるだろう。すなわち、差異の連結行為から、差異の連続化である商品を形成すると言えよう。だから、初めに、差異の連結ありきであり、それから、結果である製品、貨幣、信用等が生まれるということではないだろうか。ここで、差異⇒商品ないし差異⇒貨幣という方向性を確認しよう。
 さて、資本主義の問題は、貨幣経済ということで、貨幣自体に価値を置く傾向にあることである。しかし、貨幣を生むのは、本来、差異である。(ここで、重商主義や重農主義の二項対立に触れると、それらは、交換と生産との対立であるが、それは、不毛な対立であろう。情報という概念を使えば、それは交換において差異があることになり、それ自体で、生産的であるし、農業生産だけが、富のベースではないだろう。)だから、資本主義は、差異の価値を評価する必要があると言えよう。
 しかしながら、連続化された資本主義は、差異を喪失しているのである。即ち、商品のための商品、貨幣のための貨幣を追求しているのである。つまり、本来、メディア界である経済を現象界に限定している誤謬を犯しているのである。富の源泉は、メディア界の差異の連結にあるのであるが、差異の連続化である商品・貨幣・資本が目的となって、本来の経済行為を破壊して、結果、人間社会、自然を破壊することになっているのである。グローバリゼーションが最たるものである。つまり、差異の連続化である富は、差異の新たな連結化、あるいは、差異の連結の反復へと用いなければならないということである。
 これを、郵政問題で見ると、郵貯・簡保の資産を、差異の連結のために活用すべきであるということになる。国債化というのは、それは、差異の連続化であり、現象化の延長である。そうではなくて、新たな差異の連結を生むための、差異の政策が必要であるということである。国民一人一人が差異であるから、このために、差異的投資というものを考えるべきである。「ハゲタカ」に渡すなんてとんでもない話である。それは、差異化ではなくて、連続化の延長である。民主主義的差異経済システムの構築へと展開すべきであろう。
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2005年08月17日

〈不況の原因〉この不況は人為的なものである

「資料です。

私の直観では、小泉は、竹中を盲信しているのであり、ここに最大の問題点があると思う。以下、小野寺氏が述べていることは正しいと思う。もっとも、一番の問題は、マスコミが、きちんとした分析をせずに、大政翼賛会になったことだろう。政官財メディアの癒着が、日本をだめにしていると思う。アメリカ真理教に洗脳された、マインドコントロール国家となってしまっている。この呪縛を越えないといけない。
 それにしても、個人的には、竹中が一番ワルだと思っている。慶応大卒で、ハーヴァード大研究員の経歴、完全なエリートお坊ちゃんである。彼には民衆は、存在していない。ただ、洗脳され埋め込まれた、日本売国・亡国計画をあるだけである。また、平気で嘘をつく人格である。これが、恐ろしい。嘘は泥棒の始まりとはよくいったものだ。不誠実な、虚偽的な性格の持ち主。小泉は、能天気なお馬鹿なだけであるが、竹中は、きわめて邪悪であると思う。魂を悪魔に売った人物である。私は、彼の人生に何があったのかと思う。彼の人生を分析したい気がある。最高度のいかがわしさを感じるのである。また、あの表情、風貌も、というか、に、なにかがある。アメリカ金融の外交官である。そう、日本人ではないと思う。彼の空虚さは、彼の存在が日本にいないことから来ているように思う。つまり、傀儡、操り人形である。ウォール街真理教の前線隊長である。まだ、肝心なことを言っていないと感じる。精神病理を感じる。「精神分裂症」である。スーパー・マインドコントロール合衆国経済省日本担当大臣である。

p.s. そう、肝心なこととは、裏社会、裏組織のことである。国際金融「暴力団」が支配しているのだ。国際金融の暗黒集団。おそらく、それに脅されているのだ。恐怖の国際金融悪魔集団に睨まれているのだ。それで、亡魂なのだろう。

p.p.s. 悪魔とは、自我主義者のことである。それは、これまで、考察したように、反感から来ている。反感が発生する心の闇がある。その心の闇とは、一種の弱さ、おそらく、男性のもっている弱さから来ていると思う。メディア界の虚弱さである。他者に耐える強さが欠落している男性の弱さから来ている。フロイトはマザーコンプレクスを見たが、マザーコンプレクスは原因ではなく、結果である。この男性の本性的劣弱さについては、別に検討したい。

「竹中平蔵というガッツ石松金融大臣

<不況の原因>
○ 今現在不況なのは、小泉が、日本の企業を外資に乗っ取らせることを促進す
る法 案整備、
今まで景気回復のために役立ってきた道路公団、郵便貯金を「景気回復させな
い」た めに外資に売却してしまうからである。

○ つまり中小企業や、多くの大企業も含めて、この不況が人為的な不況である
こと
を理解していない。原因追及の番組の特番を作ればよい。
(参考 日本経済生か死かの選択・リチャードクー これを読めばわかりやす
い)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198614296/qid=1111088388/sr=8-3/ref=
sr_8_xs_ap_i3_xgl14/249-9536616-6021159

<竹中平蔵
○ たとえば、竹中平蔵氏がいる。彼は、もともと日本からハーバード大学に留
学し
ていった。米国では世界各国から来るエリートを選び、その人物に、洗脳教育を
施し
ていると聞く。つまり、「国際金融資本に、すべて任せることがよい」という洗
脳で
ある。

○ 竹中の推し進めてきた政策を振り返るとあることに気づく。それは、すべて日本
の企業を倒産させて、米国の企業に買い取らせるという結果になっている政策ばかり
であり、
しかも竹中はこれを「すばらしい」と表現している。

○ここでハーバードまで留学して、結局、「すべて国際金融資本に任せるべきだ」と
いう思想を植えつけられているとする。

<竹中の破壊の歴史>
・・・」

国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」
http://blog.mag2.com/m/log/0000154606/106318761?page=1#106318761
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2005年08月10日

官から民へということについて:郵政民営化問題、その他

官から民へということについて:郵政民営化問題

NHKの番組で、武部幹事長が、官から民へということを、今度の選挙に関して、強調していた。これは、正にイデオロギーであるが、何がおかしいかを愚直に検証しよう。郵政民営化とは、官から民へというポスト近代主義を、本義的には、意味している。だから、この点では問題ない。近代主義の国家主義から、脱近代主義・ポスト近代主義の民営主義へのシフトである。
 私は先に、言語論を展開した。言語とは、差異の分節・弁別化であると述べた。だから、原点は、差異である。これを絶対に忘れてはならない大前提である。つまり、言語は差異の反映・表現として本来あるということである。だから、ある言明・言説・声明・主張等に関しては、常に差異的検証・実証・説明等が要せられるのである。しかし、古泉氏や武部氏は、「官から民へ」ということを言うばかりで、この証明を怠っているのである。これは、非論理的、反論理的なあり方であり、懐疑的にならざるを得ないというのが、正しい反応である。つまり、言葉はあれど、基本・基礎・根本の差異が欠落しているのである。これは、没合理主義、没理性主義、没民主主義、等のあり方である。アカウンタビリティが欠如しているのである。だから、今度の選挙では、必然的に、古泉氏の主張を批判・否定するのが、必当然的である。

p.s. 言い忘れたが、言葉は、自我においては、心にもない事でありうるのである。即ち、自我においては、言葉は、自我中心主義のための言葉であり、自我主義のための観念(イデオロギー)であり、言葉の差異を無視することができるのである。「官から民へ」という言葉は、差異としての説明・検証・証明が必要である。これまで、古泉氏等は、それを怠っているのである。これでは、怪しいと考えるのが、正解である。





フッサール現象学と不連続的差異論:超越論的差異論と志向性

メディア界の差異の連結の感覚・意識と「志向性」について:超越論的感覚・意識論、超越論的感覚論、超越論的身体感覚論、超越論的身体論、超越論的身心論、超越論的感覚識論etc

フッサールの超越論的現象学とは、超越論的身体論ないし超越論的感覚識論、等と呼ぶことができるだろう。そして、直観では、これは、直接、ドゥルーズの差異の哲学と結びつく。フッサール現象学とは、換言すれば、差異論なのである。(ハイデガーは、これを、いわば、神秘主義的存在論にしたが、ポイントは、フッサールにおいて即自的差異的主観論を客観論に転化させたことにあるだろう。サルトルも、差異を神秘主義化した側面があるが、しかし、ハイデガーと異なり、即自的差異的主観性の全体指向を強調して、マルクス主義、共産主義的全体論と結びついたと考えられる。結局、構造主義的マルクス主義である。メルロ=ポンティは、推測では、フッサール現象学を、内容的に深化・探求したのであり、理論的進展はなかったと思う。)ドゥルーズは差異を理念(イデア)的に捉えている。つまり、超越論的に見ているということになる。だから、ドゥルーズ哲学は、超越論的差異論と呼ぶのが的確なのである。そして、ここにおいて、ハイデガーの存在的差異論との関係が生じてくるだろう。ハイデガーの存在とは、フッサールの意識の志向性をいわば客体化、客観化したものである。すなわち、フッサール現象学は、即自的主観的であったが、ハイデガー哲学は、超越論的即自的主観性を超越論的即自的客観性に進展させたと思う。この客観論をドゥルーズ哲学は、引き継いでいると考えられる。そして、この超越論的即自的客観論あるいは超越論的存在論とは、換言すれば、構造主義である。そして、これは、全体論であり、社会・政治的には、全体主義に通じるのである。なぜならば、超越論的領域とは、不連続的差異論におけるメディア界であり、連続・同一性(=自我・利己主義)の指向による全体主義性があるからである。
 とまれ、ドゥルーズ哲学は、フッサールの超越論的主観的差異論とハイデガーの超越論的客観的差異(存在)論を引き継いでいることになる。問題は、フッサールにあった志向性という内在的不連続性を、ハイデガーやドゥルーズは喪失していることである。言い換えると、ハイデガーやドゥルーズの哲学は、流出論になっており、連続論である。そして、ドゥルーズの場合、ベルクソンの連続的差異の思想をハイデガーに重ねているのである。もっとも、ドゥルーズの場合は、ニーチェによる特異性の不連続論を内包しているのである。ドゥルーズ哲学は、背理である。混同・混乱・混濁・分裂的背理である。
 以上のように考えると、不連続的差異論は、フッサールの言わば、超越論的不連続的差異主観論を、客観論に進展させたと言えるだろう。だから、超越論的不連続的差異客観論、超越論的不連続的差異普遍論である。こう見ると、ハイデガー哲学は、連続論の誤謬があるものの、即自的差異を存在論において客観化したことの意味は巨大である。そして、キルケゴールやニーチェであるが、特異性=単独性の哲学を西洋哲学において打ち立てた功績は巨大である。ドゥルーズは、この側面を内包していたが、上述したように折衷的に留まった。結局、フッサールの超越論的不連続的差異主観論、ハイデガーの客観的連続的差異論、キルケゴール/ニーチェの特異性=単独性の理論を、整合・統一化したのが不連続的差異論と言えるだろう。しかしながら、フッサールの志向性理論とは、デカルトのコギト論の展開でもある。だから、そこには、特異性=単独性の理論も内包されていると見るべきである。つまり、フッサールは、デカルト哲学を創造的に発展させることで、そのまま、キルケゴール/ニーチェの特異性=単独性の理論を内包したものとなったと言えるだろう。ただし、フッサールは、特異性=単独性のもつ不連続性を強調してはいないのである。だから、フッサール現象学は、キルケゴール/ニーチェ哲学と並立させることで、その十全な意義が発揮されると考えられる。つまり、フッサール現象学はそれ自体、実存学(実存主義)である。ハイデガー/ドゥルーズは客観論の方向へと巨大に進展したが、連続論に囚われたままであった。
 ここで、デリダやレヴィナスの哲学を見ると、デリダの脱構築論とは、キルケゴール/ニーチェやフッサールのもっていた不連続性を、差異論として展開したと言えよう。しかし、差異性を連続性の解体に集中させて、脱構築・解体後の積極的な新構築ができなかったと言えよう。破壊屋に留まったのである。さて、レヴィナスであるが、ここでは全くの推測・予測であるが、「存在とは別の仕方で」というのは、思うに、ハイデガーの連続論を乗り越える意味があると思う。それは、フッサールの志向性を倫理として強調した哲学のように思える。差異の志向性は倫理性をもつのである。しかし、この倫理とは、差異共立の倫理であり、いわゆる道徳とは関係ない。個の倫理である。だから、レヴィナスは、ハイデガー哲学の連続論の倫理的乗り越えであるが、しかし、差異を倫理に限定してしまった極論性があると思う。だから、超越論的不連続的倫理主義になっていると思う。倫理が出たので、スピノザ哲学に言及すると、それは、フッサール現象学の先駆であり、また、不連続的差異論の先駆でもあると言えよう。しかし、ただ、スピノザ哲学は、不連続性が、明瞭ではないことである。神即自然が多元的内包をもつものの、その多元性の元が不連続なのか連続なのかが、不明瞭である。確かに、存在の一義性はあるだろう。しかし、それが、一元論なのか多元論なのか不確定であると考えられるのである。ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー(高原)』は、明瞭に一元論(一神教)を否定して、絶対的多元論を提示している。そう、ドゥルーズはガタリとのコラボレーションによって、自身の連続論を突破したとは言えるのであるが、しかしながら、それは、イメージ的、文学的進展であって、理論的には、連続論と不連続論が混在していたのであって、いまだ混濁して、理論的な整合・統一を達成することができなかったのである。
 不連続的差異論の仮説は、西洋哲学、西洋近代/現代哲学、現代自然科学、現代芸術、東洋思想等が探求していた自然の理・ロゴスの理論を完成させたと言えるだろう。





自我とは何か:メディア界と反動

ここで、メディア界を隠蔽する自我について、少し考えたい。私の直観では、捩じるようにして、メディア界の差異を押しやる反動的な自我があるのである。このメカニズムはどのようなものだろうか。もっとも、これについては、以前に何度も触れているが、再確認してみたい。
d1⇔d2⇔・・・⇔dn
この⇔は、±を意味するので、d1ーd2ー・・・ーdnという連続化への指向がある。しかし、これは指向であり、結合ではない。連続化指向である。この力があるが、同時に、ゆりもどす力もある。すなわち、連続化指向に対して、不連続化指向である。つまり、個体は、本来、メディア界と現象界の間をゆらぐのである。しかし、不連続化指向をねじ曲げるように押しやって、連続化指向に固着する自我、自我中心主義が存する。これは、悪、暴力、狂気、権力を帯びる。近代自我とはこのようなものである。このメカニズムは何か。メディア界、差異を押しやるこの反動的自我とは何か。
 メディア界とは感覚・意識の身心領域であり、受動感性の領域でもある。すると、外界の力を直接受ける領域である。つまり、感受性の領域である。ここで、外界の影響に対して、メディア界の受容力が弱い場合、それは、反感、反動性を強く帯びるだろう。その反感、反動の力は、メディア界を排斥するように作用すると考えられる。この反動力が、連続化指向を固着させ、自我を形成すると言えるだろう。つまり、感受性の領域であるメディア界を隠して、反動的に自我という構えを構築するのだろう。だから、メディア界の排斥・隠蔽という自我のスタイルが形成されるのである。これは、反動である自我である。メディア界的なものを、内的であれ、外的であれ、反動的に排斥するのである。自己疎外であり、暴力であり、イジメである。
 ここで、メディア界の感受性が本来豊かな人間の場合、自我のスタイルに染まると、マインド・コントロールで、そのメディア界を排斥・隠蔽する。しかし、そうしても潜在的に活動しているのである。ここで、はっきりと分裂が生じている。精神分裂症(統合失調症)である。メディア界と現象界(自我)との分裂である。この分裂は、つねに、自我へと固着する反復強迫が生じる。反動的自我への衝動があるのである。これは、狂気の一種である。メディア界へ攻撃するのである。(イジメとはこのことであろう。)それは、マインド・コントロールから来ているのである。
 ということで、真正な感受性をもつメディア界を排斥・隠蔽・追放する反動的自我の分析ができた。精神分析では、去勢コンプレックスを、自我形成の契機に見るが、それをここで批判したことになるだろう。そうではなくて、メディア界の頼りなさが、反動的自我を形成するのである。
 これを敷延して言うと、現代の日本人はこの自我様式に染まっているのである。「魂」であるメディア界を排斥・隠蔽・追放しているのである。暴力の社会である。ここでは、音楽、美術、文学等々、芸術の死がある。

p.s.  メディア界を外界の影響を受ける受動的感性の領域と上述したが、実は、メディア界に内在する諸力があるのである。差異の差異への指向(フッサールの志向性)があるのである。これは、また、倫理、他者への倫理性を帯びるのである。だから、メディア界は単に、受動的な感性というのは、一面的であり、そこには、差異共存の積極的な力(倫理、創造性等)があると言わなくてはならない。





日本の選択

森田実氏のすばらしい、力強い、洞察力のある言葉に刺激されて、少し、日本の未来について考えたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10003366536.html
 はっきり言って、敵は悪霊と見たほうがいい。この点で容赦してはならない。人間は悪魔族と天使族がいるのだ。確かに、すべての人に仏性はあるだろうが、現実は、悪魔的な我欲が中心であるから、油断禁物である。人生は、戦いである。もっとも、暴力は認めない。平和、平和、平和。
 結局、日本の問題は、アメリカに集約される。アメリカは、実は、第三世界である。一部の人間が潤っているのである。だから、アメリカの庶民と日本の庶民は、共闘できるのである。国家とピープルを混同してはいけない。国家は、ナショナリズムを利用して、国民を支配するのである。また、庶民レベルにおいて、人間はさほど変わらないというのが私の実感である。だから、世界の庶民と共闘できるのである。(私は、スポーツが民族主義となっているのが問題だと思っている。オリンピックとは何ぞや。民族主義的金儲けだろう。国際とは名ばかりだ。) 
 つまり、ナショナリズム、国民/国家主義を利用した政治は否定すべきだということである。古泉政治は、そのようなものである。日本国民がしっかりしないと、おそらく立ち直れなくなる。世界の動きは俊敏である。不連続的差異論は、差異の共立・共存・共生を説く。それは、すべての領域に適用されるべきことである。これが、真正な理念である。これは、地域活性化であり、また、他国民との和解的共創である。差異的共創である。日本丸はタイタニックか?





言語とは何か:差異弁別性としての言語と連続・同一性としての虚偽言語

これまで、近代西欧の言語観を検討したが、言語とは何か分析していないので、ここで、検討したい。
 一見、言語は、連続・同一性の形式に見える。カントの超越論的形式に似ているように見える。しかし、実際は異なる。因みに、デリダの誤謬は、言語をロゴスと見て、それを連続・同一性=自我主義とを混同したことである。では、言語とは何だろう。端的に言えば、本来、言語とは、メディア界の感覚・意識を表現する知覚手段である。あるいは、感覚・知覚の観念・概念を表現する記号手段である。すなわち、差異を表現するものである。それは、記号signで、分節化するのである。意味するもの(シニフィアン)で区別するのである。即ち、差異を他の差異から分節的に表現するために、記号signを用いるのである。つまり、言語とは、差異の分節的表現の手段である。差異は他の差異への志向性をもつために、連結・連続性をもち、いわばファジーである。量子論的相補性、両義性をもつのである。しかし、差異を差異としての分節化するが言語である。それにより、差異の知覚・認識化が生起するのである。しかし、注意すべきは、差異を分節化することで、差異のもつ志向性が脱落することである。これを、言語の脱志向性化と呼んでもいいだろう。つまり、同一性化が生じるのである。これを差異・同一性化と呼ぼう。(これは、連続・同一性化と混同されてはならない。)これが意味するものは、明晰化である。これを知性と呼んでいいだろう。すなわち、言語知性が生じるのである。あるいは、差異知性である。結局、言語は記号を用いて、差異を分節化すること、差異を弁別することにある。たとえば、太陽という差異を分節・弁別するとき、「日」という文字を使用する。これは、感覚・意識、即ち、メディア界の感覚・意識(主に視覚・意識)における太陽を分節・弁別するものである。視覚差異分節・弁別化である。これを先に差異同一性化と呼んだが、それは、西田哲学を援用して、差異相互限定と考えていいだろう。この相互限定が差異同一性化、差異個別化である。すると、言語とは、差異の働きの一部と言えるのである。即ち、差異の相互限定的分立性の外在的発現として言語ないし言語記号があるということになる。すなわち、メディア界の差異の相互限定的分立性から言語が発生するということになり、連続・同一性ではなくて、差異の派生物である。ここで、ソシュールの相対的差異としての言語観と比較してみると、ソシュールにおいては、差異は全く相対的なものであり、独立性をもっていない。しかし、不連続的差異論における差異とは独立性と他者への指向性が基本である。だから、絶対的差異性があるのである。ここで、根本的にソシュールの言語観とは異なることがわかる。ソシュールは、いわば、結果から説明しているのである。差異の結果である言語記号の関係から相対的差異を説いているのと考えられるのである。元々は、差異的区別があるのであり、それは絶対的区別である。しかし、その結果の言語記号は、正に恣意的でありうるから、相対的な区別となるしかないのである。
 以上から、言語とは、差異の記号表現であることが判明した。だから、言語を学び、習熟することは、個であること、自由であるために、必須であると言える。しかし、問題は、近代西欧の言語一元主義である。これは、差異を否定した連続・同一性の言語であり、言語本来から見ると不純であり、一種本末転倒である。つまり、差異としての言語が、連続・同一性=自我へと、ねじ曲げられているのである。すなわち、言語の疎外、自己喪失、歪曲があるのである。偽物、シミュラークルとしての言語である。不誠実な、いかがわしい、欺瞞的、詐欺・ペテン的言語である。






ロゴスの受肉と近代西欧的知性

ロゴスは、宇宙の理であり、これが、イエス・キリストとして受肉したと、キリスト教の教父たちは解釈した。そして、西方キリスト教は、フィリオクェ(子とともに)によって、「父」が「子」ともに聖霊を発出すると考えて、父と子の位格を近づけた。そして、近代西欧は、ロゴスを言葉と訳した。ロゴス=理性=子=言葉という近代西欧の図式がある。言葉は、連続・同一性であり、自我形成につながる。すなわち、ロゴス=理性=子=言葉=連続・同一性=自我という図式となる。ここで、ポイントは、ロゴス=理性=言葉である。単なる言葉は、連続・同一性=自我とは結びつかない。しかし、ロゴス=理性=言葉という理念があるとき、言葉は、連続・同一性=自我と結びつく。それは、その場合、言葉が支配的になり、言葉以外の感覚・意識等を劣位に置いたり、排除・排斥したりするからである。何故、そうなるのだろうか。言語による秩序が優先されるから、言語がそれ以外の感覚・意識等を吸収同化する言語一元主義が起こるからである。それでは、言語一元主義と自我とはどう結びつくのだろうか。言語は人間の主体性、能動性、意志に基づくものである。この主体的な能動力と言語は結びつき、さらには、観念・概念力に結びつく。この観念・概念力とは、メディア界の差異の志向性(フッサール)によると考えられる。この志向性が観念・概念力の基礎であろう。すなわち、ノエシス(志向性)→ノエマ(志向されたもの)において、ノエマとして観念・概念力が形成されると言えるだろう。だから、観念・概念は、差異が基礎としてある。つまり、観念・概念は差異、特異性として存するのである。そして、言語とは、観念・概念を連続・同一性化するものと言えるだろう。というか、連続・同一性化しようとするのである。そして、この連続・同一性化行為は、すべて差異をすくい上げることはできない。すなわち、差異と連続・同一性が二重性が存在するのである。そして、先に述べた主体的能動力とは、差異を否定する連続・同一性化行為である。この連続・同一性化行為が自我となるのである。
 まとめると、言語一元主義とは、連続・同一性化行為による自我形成と、観念・概念の連続・同一性化行為をもたらし、両者、差異を否定し、排出・隠蔽すると言えよう。つまり、ここには、不誠実、欺瞞、虚偽があるのである。なぜならば、メディア界に存する差異を否定するからである。自己欺瞞である。自己に内在する差異に盲目に、連続・同一性の自我を形成するからである。もし、差異を感覚・意識するならば、自我は抑制されて、自我中心の横暴、専横、専断、独断、暴力等々を起こさない。なぜならば、差異とは、特異性であり、かつ、差異の共立・共存・共生を志向するからである。つまり、差異とは理性なのである。(これまで、理性は、言語的知性、連続・同一性の知性と混同されてきた。) 
 ということで、近代西欧の言語一元主義が、連続・同一性の自我を形成し、近代自我・合理主義という暴力・支配的知性を生んだことが理解されるのである。そして、ポスト近代西欧主義とは、言語一元主義を解体するものであり、差異を復権させるのである。差異、不連続的差異によって、言語一元主義、連続・同一性の自我主義による近代的構築を脱構築して、差異共立の世界を新創造・新構築するのである。これにより、諸科学はパラダイムの転換となる。差異、不連続的差異に基づく諸科学となる。それは、不連続的差異論的科学となるのである。(ODA ウォッチャーズ氏による不連続的差異論的自然科学の解明を参照されたい。『不連続的差異論ノート』http: //blog.melma.com/00138706/)
また、政治・経済・文化・生活も、パラダイム変換である。新しい地球文明の誕生である。不連続的差異の共立・共存・共生の新地球文明である。西洋文明は終焉したのである。





ロゴスの受肉と西欧的知性

キリスト教の教父たちは、ギリシア哲学をもって、キリスト教を把捉しようとして、ロゴスの受肉という概念を形成した。つまり、イエス・キリストは、ロゴスが人間となったものと考えたのである。ロゴスとは、宇宙の根元の理(ことわり)である。それが、イエスになったということである。思うに、仏陀も、そのような発想がなされているだろう。とまれ、ロゴスは理性とされた。そして、近代西欧において、ロゴスは言葉と翻訳された。すなわち、言葉が中心となったのである。言葉と理性とがいわば一致したのである。言葉とは、何かという問題がある。ここで簡単に言えば、言葉とは、観念、概念的存在であり、それは、抽象形式性をもつ。つまり、カントの超越論的形式に当たると考えられる。これは、連続・同一性を形成する原型・構造であるから、当然、言語は、連続・同一性を形成する。すなわち、自我を形成するのである。しかし、これは、擬制である。差異の代理として、本来、言語は存しているのである。とまれ、ロゴス=言葉の近代西欧とは、自我中心的になる。本来のロゴス=理性を喪失するのである。つまり、近代西欧は、連続・同一性の知識を形成したが、差異の知識、すなわち、真正のロゴスを喪失してしまったと考えられる。
 結局、近代西欧とは、自我合理主義、自我的科学を生み出したのである。これはこれで、意味がある。しかし、これは、自己中心的であり、破壊的である。結局、自我合理主義を脱構築しなくてはならないのである。それは、言語ロゴスではなくて、メディア・ロゴスの復権である。喪失された本来のロゴスの復権である。そして、これは、メディア・ロゴス科学の可能性をもっているのである。メディア・ロゴスとは、メディア界の論理、知である。差異の連結の論理、知である。そして、それは、感覚、身体を内包しているのである。スピノザ哲学が先駆である。

p.s. 自我合理主義、自我的科学に対して、哲学、文学、芸術からは、異議申し立てが、西欧内においてなされてきた。キルケゴールやニーチェが顕著であり、また、現象学から始まるポスト・モダンの哲学もそうである。

p.p.s.  ロゴス→言語=連続・同一性=自我→近代主義、唯物論的近代科学という図式がある。簡単に言えば、言語=自我=近代知性である。これは、近代科学・技術や近代資本主義の基礎であった。だから、近代西欧とは、近代科学・技術、近代資本主義を形成した意味があるのである。これが、西洋文明の帰結的成果である。しかし、同時に、終末である。脱近代主義、ポスト近代主義が、発動しているのである。西欧ロゴスでなく、メディア・ロゴスが基調となっている。

3p.s. 後で、整理したい。





誰が戦争を起こすのか

今は、簡単に触れますが、戦争を起こすのは、ある程度「知性」のある人間だと思います。庶民は、メディア界の感覚意識がそれなりに生きているために、バランスがあり、共存しようとします。しかるに、ある程度「知的」教育を受けてきた人間は、自我が発達しますので、自己中心的になります。そう、「知性」とは、自我を発達させる傾向があります。そして、そのような人間が、政官財等の上層部につきます。彼らは、利己的な金儲け中心ですから、庶民のことは眼中になく、戦争を起こします。
 知性教育と同時に「理性」教育が必要なのですが、これが、なされていません。理性とはメディア・ロゴスないしメディア界的合理性です。今日、後者が忘失されています。科学・技術教育と同時に、メディア界理性教育を行わなくてはなりませ
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2005年08月07日

現象界の力とは何か:メディア界の差異・強度不可分一体性と連続的虚構性

現象界の力とは何か:メディア界の差異・強度不可分一体性と連続的虚構性

メディア界の発出として現象界を考えることができるだろう。つまり、メディア界の変容としての現象界である。だから、メディア界即非現象界である。(即非とは、等号と同時に不等号を意味する。鈴木大拙の用語である。)現象界の力は、確かに、存在するが、それは、メディア界の力、強度の変容(変成)である。このメディア界と現象界の関係が複雑である。現象界はメディア界の変容でありながら、独立した領域である。独立した力をもつ。メディア界の強度が変容した現象の力(現象力)があるのである。このメディア界の強度と現象界の力の即非の関係を、相対性理論や量子力学は記述していると思われる。時空の相対性とは、メディア界の差異・強度不可分一体(「不二一元論」:ヴェーダーンタ哲学)を意味するものであるが、時空相対性という現象界は、メディア界そのものではない。そして、粒子と波動の相補性とは、同様に、メディア界の差異・強度の不可分一体(「不二一元論」)を意味しているが、しかし、メディア界の事象そのものではない。いわば、メディア界の事象とは「物自体」であり、現象界とは「物自体」の仮象・現れ・見えである。思うに、現象界は二重である。真実在としては、「物自体」であるが、「物自体」そのものとして現われているものではない。それを言わば隠蔽する「仮象」(マーヤー)として、擬制として現われている。これは、連続体である。的確に言えば、連続的虚構である。結局、現象界とは、同時に、連続的虚構であり、メディア界的事象=「物自体」である。
 さて、ここで自然科学のことに言及すると、近代自然科学(古典的自然科学)とは、現象界の連続的虚構を対象として科学であったと言えよう。これは、近似値的には正しい。そして、20世紀の現代自然科学(相対性理論、量子力学、分子生物学等)は、メディア界的事象=「物自体」を対象とするものになっているのである。これは、現象界の連続的虚構とは異質な世界であるために、一般に理解されないのである。しかし、現代自然科学は、「物自体」、メディア界を対象としてはいるものの、記述が現象界の物質主義によるので、不十分な記述しかできないと考えられる。新しい酒を古い革袋に入れているのである。(ODA ウォッチャーズ氏の『不連続的差異論ノート』は、メディア界ないしイデア界からの視点で、自然を把捉している。)いや、むしろ、対象が、メディア界であることに気付いていないのである。それは、現代自然科学の基礎理論、哲学的基礎理論(理念)がまったく不十分だからである。
 以上から、現象界の力、現象力が何を意味しているのかわかるだろう。それは、端的に、メディア界の力(差異・強度不可分一体の力)である。しかし、一般に、現象界の連続的虚構性(真理の近似値、疑似値)によって、覆われてしまっているのである。





ハイデガーと西田幾多郎

根井康之氏の『現代自然科学と哲学』(農文協)を拾い読みして、ハイデガーや西田幾多郎の哲学について考えた。ハイデガーの存在とは、メディア界における総体的な差異の連結を指しているようだ。そして、現存在(世界内存在)とは、そのような総体的な差異の連結が、現象化したものであると考えられる。だから、ほとんど、キルケゴール哲学である。そして、実存とは、現存在(世界内存在)の指向性のことだろう。だから、フッサールの志向性と少し似ている。しかし、フッサールの志向性は、内在的、即自的な志向性であるのに対して、ハイデガーの実存は、後のサルトルのそれに似て、対自化された志向性であると思う。
 では、西田哲学の「矛盾的自己同一」であるが、それは、私見では、ハイデガーを越えているのではと思う。「個物と個物との相互限定即一般者の自己限定」(p.220)という表現であるが、「個物と個物との相互限定」とは、正に、メディア界の差異と差異との連結であり、また、「一般者の自己限定」とは、ほぼ、イデア界の差異の共立を指していると考えられるのである。ただし、西田は、これを全一として、一元論にしてしまっている。これは、全体主義につながるだろう。結局、西田哲学は、メディア界からイデア界へと指向したが、やはり、メディア界のもつ両義性、即ち、連続/不連続性に囚われていたと考えられるのである。





フッサール哲学とメディア界

フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読み出しています。諸学は、原語では、Wissenschaftenとなっていますから、諸科学と考えた方が、明快でしょう。さて、フッサールの科学批判と科学以前の直観(ないし直感)的世界(生活世界)の提唱は、直観的によくわかります。彼の発想は、正に、近代西欧文化批判であり、近代合理主義批判という点では、ニーチェと共通します。不連続的差異論の見地から、フッサールの生活世界(思うに、これは、生命世界、生世界としてもいいと思われる)は、メディア界に即した世界であると考えられますし、ニーチェの哲学は、イデア界的ですが、実は、連続・同一性の自我の側面が入っているために、ちょうど、新たなイデア界的視点とこれまでの現象界的視点が混淆していて、新旧の分岐点・分水嶺に存するものと考えられます。私見では、フッサールは、メディア界、さらには、イデア界から現象界を捉え直そうとしたのだと思います。メディア界の差異の差異への志向を捉えていたと思います。だから、フッサールも仏教的です。デリダは、フッサールを批判しましたが、デリダとフッサールは、それほど距離はないのではと思います。両者、現代仏教哲学です。





地震等の予知

太陽系が諸差異の連結としますと、この強度の変様によって、「波動」が不調和になるときがあると思います。この不調和のときに、地震等が起きやすいのではないでしょうか。
 それはともあれ、断層とは、差異と差異とのズレです。このズレは、差異の強度です。この強度を測定するようにすればいいのではと思われます。いわば、断層、地層の「気」、「龍脈」を測定することです。これは、電磁波等となって発現するでしょう。あるいは、人間以外の生物は、メディア界を生きているので、メディア界の強度の感度があり、地層の強度変化を感覚すると思います。動物の動きの変異がよく観察されます。ですから、少なくとも、地層強度観測体制が作られるべきでしょう。動物占いも、思うに、元々はそのようなものだったのではと思います。とまれ、地層強度は実際に存在すると考えられますので、間接的にも、なんらかの地層強度観測装置が可能ではないでしょうか。





物質と生命体との関係について

差異連結difference connection(略して、dc)の複合体が、有機体であり、生命体となります。有機体と生命体との違いは、遺伝子にあるのでないでしょうか。指令書があり、それが、有機体を作動させているのでしょう。この遺伝子という指令書の有無が有機体と生命体との違いのように思います。 
 遺伝子という生命体の指令書は、いわば「イデア」です。差異連結dcの複合体complex、差異連結複合体(dcc)です。先に、差異連結が解体するのが死と言いました。では、新陳代謝はどういうシステムによるのでしょうか。それは、解体しつつある差異連結を補充するシステムではないかと思われます。一種補修工事のようなものではないかと思います。 
 では、ホルモン、血液、神経、等々の重要な伝達物質とはどう表記できるでしょうか。それらは、メディア界の強度、差異連結の複合体(dcc)間の諸強度だと思います。強度が差異連結間で、諸様相化されます。この様相が多様に物質化されているのだと考えられます。強度はまた「気」でもあります。この「気」の通路が経絡であり、これは、生命体メディア界の強度分布、強度地図と考えられます。
 次に、病気、健康を考えますと、差異連結間の強度の「波動」に関係するでしょう。共立できない波動同士は、破壊的に作用するでしょう。差異連結の共立・共感をもたらす強度関係が健康であり、そうでないのが病気ではないでしょうか。オルターナティブな療法とは、差異連結の共立・共感をもたらす方法ではないでしょうか。
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2005年08月05日

ユダヤ/キリスト教とイスラム教の違いについて、その他

ユダヤ/キリスト教とイスラム教の違いについて

先の連結卵点の記事で、本件について言及したが、ここで、簡単に整理したい。
 ここでも、メディア界の連結卵点を起点としよう。ここは、多神教→一神教の契機となる。なぜなら、一点に集約されているからである。しかし、ここからの進展は、2通りあるのである。

1.ユダヤ/キリスト教の場合:この連結卵点を、いわば、簒奪するようにして、取り込んで、イデア界の虚力を反動化させて、それと連続・同一性の自我主義とを結合させて、自我主義的超越神を形成した。(p.s. ここで、訂正したい。「イデア界の虚力を反動化させて」とここで述べているが、それは誤りである。イデア界の虚力によるメディア界の強度による捩じりから連続・同一性の現象界が形成されるのであるから、ユダヤ/キリスト教の場合、反動ではなくて、必然的展開と言えるのである。イデア界の虚力の必然的展開としての連続・同一性=自我主義化である。そして、今日、この展開は終了したということであり、新たな展開点に達しているということである。)

2.イスラム教の場合:連結卵点を肯定的に内包してイデア界の虚力と結合するのである。つまり、連結卵点の一点がイデア界の虚力と結びつき、超越一神となるのである。簡単に言うと、連結卵点が、メディア界からイデア界へと高まったと言えるだろう。

以上のように考えると、イスラム教におけるタウヒード(存在の一性)であるが、それは、メディア界という個を包摂した一性であり、中世の哲学者ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性と通じるだろう。この存在の一義性という思想は、スピノザへ、そして、ドゥルーズ(&ガタリ)へと発展的に継承されたと考えられている。(不連続的差異論は、この進展・創造的路線にあるのである。)だから、イスラム教の一神教性とは、存在の一義性であり、メディア界を肯定して、展開したイデア界的宗教と言えよう。つまり、イスラム教とは、漱石の則天去私に近いのである。個はあるが、自我がないのである。つまり、差異の共存性を志向した宗教であるのであり、差異を排斥する自我宗義のユダヤ/キリスト教とは全く異質の、別個の宗教であると言わなくてはならない。両者を一神教と呼ぶのは、途方もなく犯罪的である。 
 とまれ、メディア界から正反対の方向を向いた「一神教」がこれで確認できたのである。差異共存志向と差異排斥自我志向である。ここで、今村仁司氏が、イスラム教をスピノザ哲学との類似性を述べていることを想起すべきである。さらに、後者は、前者を徹底したような形であると述べているのである。そう、スピノザ哲学は、デカルト哲学のコギトのもつメディア界性を取り込んでいるメディア界の哲学であり、イスラム教と類似するのは、納得できるのである。ここで、先に、仏教が、ウパニシャッド哲学のアートマンと意外に結びつくことが言ったが、これも結局、メディア界思想であるからである。すると、インド哲学・宗教は、イスラム教、スピノザ哲学と繋がるのである。井筒俊彦氏が、『意識と本質 東洋哲学の共時的構造化のために』(岩波文庫)で、アジア哲学として東洋哲学の共通基盤を探究されていたが、それは、メディア界哲学として普遍化できると思う。(これは、また、フランス哲学に通じるのであるが。そして、英米系の哲学は、メディア界を排斥した、連続・同一性の自我・現象界を中心としたものと言えるのではないだろうか。論理実証主義は正に最たるものであろう。)
 ずいぶん、飛躍したが、これで、イスラム教の構造が明らかになったであろう。それを一神教と呼ぶならば、内在的一神教と呼ぶべきであり、ユダヤ/キリスト教は超越的一神教と呼ぶべきであろう。あるいは、差異的一神教と同一性的一神教の別である。一の意味が正反対である。差異を基礎づけるものとしてのイデア界的一であり、他方は、連続・同一性=自我を基礎づける反動的なイデア界的一である。
 ここで、ついでであるが、父権神話に見られる天地創造に言及したい。それは、母なる混沌を英雄が天地に分離することから創造されるのであるが、これを不連続的差異論の観点から、ここで簡単に触れたい。母なる混沌とは、メディア界のことである。このメディア界を、天と地に、2項対立的に、ヒエラルキー的に分離するのであるが、天が「父」となり、地が「母」(邪悪として)となる。英雄とは、自我主義の英雄であると考えられる。肥大膨張した自我意識をもった英雄が、メディア界を切り裂くのである。これは、イデア面ーメディア界ー現象面というメディア界で考えると、このメディア界の両極性(陰陽性)を単純な二元論にするのであるが、このメカニズムを考えると、メディア界を捩じるようにして連続・同一性の自我が発現するのであるが、この捩じりにおいて、イデア面の差異共立性は排出される。そう、この捩じりとは、もともと、イデア界の虚力に拠るのであるから、当然、イデア界に連動する形として、メディア界の排斥である連続・同一性=自我主義の父権神話(さらには、超越的一神教)は発生すると考えられるだろう。結局、父権神話は、連続・同一性=自我主義を「天」とし、そして、排斥するメディア界を「地」とするのだ。そして、これが徹底したのが、超越的一神教であるユダヤ教であり、キリスト教である。ここのパースペクティブ(展望)から見ると、イスラム教は、排斥されたメディア界の復活・復権であり、ユダヤ/キリスト教の矯正・修正であるとさえ言えるだろう。また、父権神話や超越的一神教に破壊された母権神話、女神神話の一種、復権・復活であるとも言えるだろう。(イスラム教のシンボルは月である。月は当然、イシス等女神のシンボルである。)これは、イデア界の回転が1/4回転、90度回転を越えたということを意味しているのではないだろうか。というか、1/2回転、180度回転を意味しているのかもしれない。
 さて、とまれ、父権神話の天地創造の天地分離について説明ができたであろう。これは、近代西欧米の文明に帰結したと言えるだろう。今や、ポスト近代西欧米の「文明」の時代である。不連続的差異論の時代である。イスラム教はその宗教的変奏と見られるだろう。
 
 




不連続的差異論のメディア界と現象界上のメディア界

前者は、身体感覚意識をもつ。後者、たとえば、ITメディア、ネットはどうなのだろうか。ブログの場合、個の本音を伝達することができる。すなわち、連続・同一性である自我という建前から離れて、個として、個のもつ感覚意識を表出、伝達できるのである。これは、自己の差異、自己のメディア界性を表現しているのであるから、 不連続的差異論のメディア界とブログ・メディアは、差異、特異性という点で、共通すると言えるのである。
 脱近代日本化、ポスト近代化のために、ブログは、必須のtoolということになるのだろう。

p.s. 本音は、「音」となる。本「音」とは、先に私が、音楽論で触れたメディア・トーンと通じるのである。そう、メディア・トーン=本音である。ならば、敷延すれば、ブログの勃興は、日本の音楽を甦らせる可能性がある。もっとも、音楽だけではないが。





再考:差異の連結について:連結卵点は成り立つか

先の連結卵点という仮説を再考したい。d1⇔d2⇔・・・⇔dnが、収縮してほぼ点になるのはいいとして、それが、正多角形を形成するのはどう説明できるのか。つまり、収縮しても、以上の順番、順列は残っているからだ。問題点は、d1とdnとを実際に、つなげることができるかどうかにある。実際、たとえば、
ーd1+ーd2+ー・・・ー+dn+
となる。だから、ーd1とdn+の極性が引きつける可能性はある。では、超ミクロの状態で、それらが引きつけ合い、連結するとしよう。これは、どういうことだろうか。⇔は、無限小である。だから、dn+ーd1+ー・・・+ーdn+ーd1と状態となると考えられる。こうすれば、連環・円環が形成されるだろう。 
 ということで、いちおう、連結卵点の仮説は、成立しえるということである。





差異の連結とは何か:メディア界の共立/連結/連続とは何か

私は、これまで、形態の構造の原因を考えて、差異の連環・円環をメディア界に仮定して話を進めてきたが、これについて、再検討しよう。
d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔dn
これが標準のメディア界における差異の連結である。この連結は、一種ゼロにすることができる(本当は、疑似ゼロである)。あるいは、収縮、縮約させて、一点にすることができる。これを、とりあえず、連結卵点と呼ぼう。すると、この連結卵点は、連環・円環化するのである。すると、この卵点には、多様な幾何学を内包していることになろう。とりわけ、正多角形であるが。しかし、正多角形以外に、多様な幾何学を内在させている。この連結卵点はいわばミクロコスモスであり、マクロコスモスを秘めていると言える。そう、古代の神話に出てくる卵は、これを意味しているのではないだろうか。すべての原点として、また、プラトンのコーラもこれではないだろうか。この連結卵点が、幾何学の原点であると考えられる。ここから、たとえば、朝顔を簡単に表現できるだろう。朝顔とは、連結卵点の一様相としての記述できる。そう、連結卵点とは、普遍卵点である。また、神話の豊饒の角もこれではないだろうか。また、聖書のアーク(聖櫃)や、聖杯もこれではないだろうか。
 しかしながら、注意すべきは、この連結卵点の差異の連結、正確に言えば、差異の連結の連結的連続化とは、擬制であるということである。これは、そのように見えると言うべきである。3つの差異から正三角形が形成されるが、それは、正三角形のように見えるということである。
 さて、以上で、差異の連環・円環化に対する第三の仮説を提起したことになる。私見では、この仮説が、今のところ、一番説得力があると思う。つまり、こうすると、先の2つよりも、全現象をより整合的に記述できるからである。たとえば、連結卵点にすれば、差異の連結を重ねる必要がなくなるのである。差異の連結の一種の集合から、差異の連結の連結が説明できるのである。朝顔の双葉、三葉、五弁の花、螺旋の蔓等、これらが、一つの差異連結、連結卵点で説明できるのである。一つの差異の連結から朝顔の複合体が説明できるのである。

p.s. この連結卵点は、一神教の神とつながるのはないだろうかと思った。私はこれまで、一神教(ユダヤ/キリスト教)は、メディア界を否定する連続・同一性から発現したと考えていた。そして、メディア界的多神教性を否定する超越的意志(イデア界的意志)をもっていると考えた。しかし、連結卵点は、一点であるから、これを、メディア界からイデア界へと超越化すれば、一神教となるはずである。では、この超越化とは何か。これは、メディア界的特異性を介したイデア界の虚力とメディア界の一体化性が結合して発現したものと言えるのではないだろうか。そう、メディア界のイデア面のイデア界性と、連続・同一性の自我とが結合して発生したものではないか。イデア界性があるものの、その差異共立・共存性は、連続・同一性の自我主義によって、排出されているのである。だから、反動的イデア界的連続・同一性的自我主知である。連結卵点にすると、一が明快になるのである。
 しかし、イスラム教の場合はこれとは異なると考えられる。即ち、差異共存性をもって、一としてのイデア界性を志向する一神教である。それは、多神教を内包した、それからの一神教への肯定的な発展である。ユダヤ/キリスト教は、多神教を否定し、排出した、自我中心主義的なものであるが、イスラム教は、多神教を否定はしているが、しかし、その要素を包摂したイデア界的一神教と考えられるのである。後で、別の記事でもう少し整理したい。
posted by ソフィオロジスト at 16:59| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月31日

メディア界から現象界へ:捩れとらせん

イデア界からメディア界への1/4回転、90度回転を、x軸とy軸の直交座標における二つの垂直な力の関係としよう。そして、これにより、z軸に捩れると考えよう。このz軸の座標が、現象界となるだろう。これはこれでいい。問題は、y軸、即ち、メディア軸において、差異が連結されて、差異の幾何学が生じると言えるだろう。3差異は正三角形、4差異は正方形、5差異は正五角形等々である。そして、これが、いわば原型ないし構造となって、現象界のパターンを形成すると言えよう。そう、構造主義とは、このメディア界を捉えているのである。しかしながら、構造主義の問題は、メディア界が単に差異の連結だけでなく、それが、本来、不連続的差異の共立であることを看過している。メディア界は二重、二層なのである。とまれ、メディア界を原型、構造から見ると、現象界の形態、形状、パターンを発生させているのがよくわかる。カントの超越論的形式は、構造主義とはぴったり重ならないにしても、抽象形式、形式構造という点ではほぼ重なるだろう。 
 では、この構造と捩れの関係はどうだろうか。ここで、朝顔のつぼみと花弁を見るといいと思う。5差異の花弁があるが、それらが、捩れて、つぼみになっていると考えることができるだろう。つまり、差異が捩れるのである。そして、次に、差異が開くのである。差異と捩れは一種相補性があると言えよう。とまれ、差異が基本にあるとは言え、捩れが最初に生起して、次に、差異が展開(「開花」)すると言えよう。だから、宇宙を花に、とりわけ、花弁の多いの花に喩えるのは適切であると言えよう。薔薇の花弁。
 ということで、結局、諸差異がイデア界にあり、それらが、メディア界で、連結・連合・結合して、現象界の原型を構成する(構造)。それが、現象界へと展開すると言えよう。この点で、構造主義は全く正鵠を射ていると言える。しかし、構造主義の問題は、個、特異性が扱えないところにある。実は、メディア界は、単に差異の連結構造(原型)があるだけでなく、差異の共立性も保持しているのである。この差異の共立性が、特異性、個の根拠となるのである。確かに、差異の連結構造も根拠になるが、それは、特異性、個のそれではなくて、自我のそれである。つまり、差異の連結構造とは、自我の根拠となるのであり、それは、連続・同一性の原基であり、全体主義(ナショナリズム、ファシズム等)の基盤となるのである。中沢新一が、田辺元の種の論理を構造主義と捉えたが、それは、正解であるし、同時に、全体主義、ナショナリズムの原理と共通であると言わなくては、きわめて不十分である。構造主義は、メディア界を半面において把捉しているだけである。そして、デリダやドゥルーズは他の半面を、把捉しようとしたのである。いわゆる、ポスト構造主義である。どちらが、メディア界を捉えているかと言えば、それはデリダの方であろう。デリダの脱構築主義は、現代の仏教哲学と言うべきものであり、メディア界の両極性、両義性を捉えている。ドゥルーズの場合は、ある意味で、不連続的差異の特異性を捉えていながらも、同時に、連続的差異の構造主義に留まっているのであえる。ドゥルーズは、混乱、混濁しているのである。しかし、差異の共立という概念は、デリダではなくて、ドゥルーズが明確に捉えていたものである。まとめると、デリダはメディア界の仏教的様式を把捉していたのに対して、ドゥルーズは、メディア界の両義性において分裂し、また混乱していたと言える。前者は、メディア界のゆらぎを明確に把捉したのに対して、後者は、前者が捉ええなかった差異の共立性を把捉しながらも、それを差異の連結構造と混同していたのである。そう、デリダは、差異の共立というイデア界性を捉えることはできなかったが、しかし、メディア界のゆらぎという事象を明確に捉えていたのである。そして、ドゥルーズはデリダよりも一歩進みながらも、メディア界の両義性に囚われて、イデア界性、不連続的差異性、特異性を明確に把捉することはできなかったのである。一方は、ゆらぎに遊び、他方は、ゆらぎの領域のメディア界を理論的に揺れ動いたのである。すなわち、特異性(ニーチェ)となったり、連続性(ベルクソン/ハイデガー)となったりしたのである。

p.s. 先に、サルトルの実存主義の問題点として、個の全体性への指向をあげたが、本件の視点から見ると、サルトルの実存主義とは、実は、構造主義的であるとわかるのである。これは、哲学史の皮肉である。フッサールの現象学は、即自性、内在性を維持したことにより、安易な連帯性を拒否している。そして、サルトルの現象学/実存主義は、外在的指向として対自的他者を指向したのであるが、それが、全体性を帯びるのである。つまり、フッサールはある意味で、特異性を維持したのであるが、サルトルは、勇み足で、特異性を破壊して、自我・構造的な連帯である全体性へと進んだのである。これは、サルトル哲学の破壊・破砕であったと思う。サルトル哲学には、大変な分裂がある。一方では、現象学のもつ脱自我の指向をもっている(『嘔吐』)。他方、投企、アンガージュマン(参加、参与)として、差異を排して、マルクス主義的全体性(構造性)へと連続化する。実存主義とは、本来、個、特異性の哲学のはずである。サルトルの場合は、思うに、メディア界に即していたが、やはり、メディア界の両極性、両義性に足をすくわれたと思う。実存主義は、メディア界の個、特異性の方向であるが、メディア界は構造主義性をももつのであり、この構造主義性が、全体性、マルクス主義、共産主義に結合したと思われるのである。メディア界のもつ両義性が、サルトルの場合、完全に分裂したのである。ドゥルーズが、サルトルを肯定しているが、思うに、ドゥルーズの差異哲学とサルトルの現象学/実存主義とは似ているのだ。両者、メディア界の両義性によって混乱しているのだから。つまり、両者、メディア界の哲学者であるということである。ドゥルーズは、アカデミズムの人として、サルトルのように、実践的ではなかった。だが、実践的であったら、サルトルの二の舞いとなったと思う。フランス哲学は、思うに、メディア界哲学である。ニーチェの特異性/単独性の哲学を展開したのは、私見では、イギリスの作家のD.H.ロレンスだったように思うのである。ロレンス自身にも連続性があったが、晩年、それから脱して、特異性、単独性、不連続的差異性に達していると考えられるのである。
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2005年07月16日

日本人を進化させる:日本人の「精神」を哲学する

日本は、近代以前は、単独的な、特異な個性をもった人間が多く居た。しかし、今日、ひどくせせこましい、窮屈な、疑似共同体意識(ナショナリズム)の社会・世間となっている。どうも、孤立を恐れて、勇敢な態度がとれないようだ。思うに、韓国人や中国人の方が個がある。これはどういうことか。人目を気にする日本人。いったい、この精神の構造は何か。これを探りたい。   不連続的差異論から直観で言えば、日本人は連続化の度合が強いのである。メディア界から現象界へと転化するとき、差異を放出ないし廃棄して、連続・同一性的自我へと固着するのである。確かに共感性はあるものの自我と同一化しているために、反感を強くもつものになっているのである。いわば、ウェットである。つまり、共感/反感的自我である。これが、日本の狭苦しい世間・疑似共同体を造っているのである。共感性があるから、他者と一致しようとする。これが模倣欲である。ブランド志向である。同時に、他者に反感を覚えて、嫉み、憎んだりする。ルサンチマンである。そう、ルネ・ジラールの説く模倣欲望・暴力である。しかし、これは、簡単に、連続・同一性の欲望と呼べる。そう、これは、あらゆる社会で多かれ少なかれ見られることであるが、日本では、この度合が強いと言えよう。アメリカ人は、思うに、エゴイスティックであるが、しかし、日本人のように疑似共同体である世間を気にすることは少ないだろう、というか全くないだろう。 
 結局、日本人の場合、メディア界のもつ連続化にまったく陥っているのである。メディア界には、不連続的差異があり、特異性の生起するところである。しかし、この特異性が日本人の場合、消失しているのである。これは何であろうか。はっきり言って、マインドコントロールである。私見では、70年代半ばからの、量的経済価値中心主義による、企業中心主義によるマインドコントロールによる、個の特異性を廃棄・排出して、連続・同一性の自我を模倣することが、日本において、中心・主流になったのである。簡単に言えば、差異を廃棄したのである。これは、自我暴力を生む。自我的世間・疑似共同体を生む。これは、模倣欲望・暴力「社会」である。明らかに、70年代半ば、日本は、差異という生命・魂を廃棄したのである。そして、バブルへと邁進したのであった。そこには、アメリカの黒い意志・強制があったと言えよう。つまり、日本は、経済界とアメリカによって、個を廃棄するマインドコントロール社会になったのであった。日本の死である。差異、特異性、個が否定されたのである。経済界、国家、アメリカによって、日本人はマインドコントロール状態となったのである。そう、ここから脱しないといけない。メディア界を取り戻さないといけない。
 思うに、小泉/竹中路線とは、このマインドコントロールの産物でもある。換言すれば、アメリカ・日本の政治・経済・文化連続主義の産物でもある。しかし、今、この呪縛が突破されようとしている。そう、戦後米日連続的近代主義が今や終焉しよとしているのだろう。世界は今や、個の時代である。差異の時代である。メディア界が復活する時代である。ポスト近代主義である。ポスト近代西欧米主義である。そのための「ハルマゲドン」が今、闘われていると言えよう。

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日本人を進化させる:日本人の「精神」を哲学する

日本は、近代以前は、単独的な、特異な個性をもった人間が多く居た。しかし、今日、ひどくせせこましい、窮屈な、疑似共同体意識(ナショナリズム)の社会・世間となっている。どうも、孤立を恐れて、勇敢な態度がとれないようだ。思うに、韓国人や中国人の方が個がある。これはどういうことか。人目を気にする日本人。いったい、この精神の構造は何か。これを探りたい。   不連続的差異論から直観で言えば、日本人は連続化の度合が強いのである。メディア界から現象界へと転化するとき、差異を放出ないし廃棄して、連続・同一性的自我へと固着するのである。確かに共感性はあるものの自我と同一化しているために、反感を強くもつものになっているのである。いわば、ウェットである。つまり、共感/反感的自我である。これが、日本の狭苦しい世間・疑似共同体を造っているのである。共感性があるから、他者と一致しようとする。これが模倣欲である。ブランド志向である。同時に、他者に反感を覚えて、嫉み、憎んだりする。ルサンチマンである。そう、ルネ・ジラールの説く模倣欲望・暴力である。しかし、これは、簡単に、連続・同一性の欲望と呼べる。そう、これは、あらゆる社会で多かれ少なかれ見られることであるが、日本では、この度合が強いと言えよう。アメリカ人は、思うに、エゴイスティックであるが、しかし、日本人のように疑似共同体である世間を気にすることは少ないだろう、というか全くないだろう。 
 結局、日本人の場合、メディア界のもつ連続化にまったく陥っているのである。メディア界には、不連続的差異があり、特異性の生起するところである。しかし、この特異性が日本人の場合、消失しているのである。これは何であろうか。はっきり言って、マインドコントロールである。私見では、70年代半ばからの、量的経済価値中心主義による、企業中心主義によるマインドコントロールによる、個の特異性を廃棄・排出して、連続・同一性の自我を模倣することが、日本において、中心・主流になったのである。簡単に言えば、差異を廃棄したのである。これは、自我暴力を生む。自我的世間・疑似共同体を生む。これは、模倣欲望・暴力「社会」である。明らかに、70年代半ば、日本は、差異という生命・魂を廃棄したのである。そして、バブルへと邁進したのであった。そこには、アメリカの黒い意志・強制があったと言えよう。つまり、日本は、経済界とアメリカによって、個を廃棄するマインドコントロール社会になったのであった。日本の死である。差異、特異性、個が否定されたのである。経済界、国家、アメリカによって、日本人はマインドコントロール状態となったのである。そう、ここから脱しないといけない。メディア界を取り戻さないといけない。
 思うに、小泉/竹中路線とは、このマインドコントロールの産物でもある。換言すれば、アメリカ・日本の政治・経済・文化連続主義の産物でもある。しかし、今、この呪縛が突破されようとしている。そう、戦後米日連続的近代主義が今や終焉しよとしているのだろう。世界は今や、個の時代である。差異の時代である。メディア界が復活する時代である。ポスト近代主義である。ポスト近代西欧米主義である。そのための「ハルマゲドン」が今、闘われていると言えよう。

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2005年07月11日

2005年07月10日

メディア界の構造について:イデア・デュナミスのメディア・エネルゲイへの変換・変容:順列と極性

イデア界・ガウス平面で生じる1/4回転・90度回転によって生起する事態とはいったい何なのであろうか。「ゼロ」化である。しかし、これは疑似ゼロ化である。差異の境界が消滅するように見える。つまり、y軸・虚数軸で差異が連なるのであるが、この差異連結とはどういうことなのだろうか。いつものように、直感で考えてみる。
 不連続な差異が複数存していて、それが、1/4回転によって、連なる。疑似連続化する。ここには擬制がある。この擬制のシステムの問題である。見せかけである。1/4回転しないときは、正に、不連続そのものであり、いわばばらばらである。しかし、1/4回転で、連続の見せかけが生じる。これは、差異が虚数次元に移動したと言うことができるだろう。あるいは、逆にして考えて、マイナス1/4回転で、実数軸、x軸において連続化が生じるというふうに考えるのだろうか。 
 混乱を気にせず、直感で展開しよう。メディア界とは、差異と差異の境界がゼロに見える領域である。たとえば、d1/d2が90度回転して、d1・d2(・は結合の記号とする)となるということだろう。しかし、それはメディア界の事態であるから、d1±d2ないし、d1〜d2(〜はゆらぎの記号とする)である。問題は、この±や〜の意味である。この±、〜は、極性を意味するが、しかし、これは、本来、イデア界の力、1/4回転の力である。イデア・デュナミスがメディア・エネルゲイアに変容・変換されているのである。(先に、イデア・エネルギーと言ったが、混乱するので、イデア界の力をデュナミスと呼ぶこととする。)ここが、最も重要な力の変換領域だろう。これは、y軸、虚数軸の出来事、事象である。次のように考えたらどうだろうか。ガウス平面では、(x、y)の座標をもつが、これをベクトルにして、ベクトルx、ベクトルyにすることができるだろう。そして、1/4回転とは、ベクトルxが、ゼロ化することである。これが疑似ゼロではなくて、本当にゼロ化である。ベクトルxが差異の境界を形成するならば、1/4回転で、ベクトルxがゼロとなって、境界がゼロとなるのである。しかしながら、実際、y軸においては、境界があるのである。つまり、境界ゼロと虚数境界との併存状態がここにはあるのである。つまり、連続と同時に、不連続がここにはあるのである。これは、正にメディア界である。この連続/不連続併存状態において、イデア・デュナミスは、メディア・エネルゲイアに変換するのだろう。すなわち、イデアの絶対値であるデュナミスが、メディアの極性であるエネルゲイアに変換するのだろう。このメディア界において、実に、2つの「存在」様式があると言えるだろう。一つは、イデア・デュナミスであり、一つは、メディア・エネルゲイア(極性力)である。そして、前者は、ODA ウォッチャーズ氏が述べた順列エネルギーに関係するのである。つまり、イデア・デュナミスが、1/4回転によって、プラスの順列エネルギーとなるのであり、1/2回転によって、マイナスの順列エネルギーとなるのではないだろうか。
 とまれ、整理すると、1/4回転によるメディア界において、一方では、イデア・デュナミスが順列エネルギーとして作用し、他方では、イデア・デュナミスがメディア・エネルゲイアに変換・変容しているのである。つまり、メディア界では、イデア・デュナミスが、順列エネルギーと極性力に変換しているのである。そう、私は、2つに分けたが、実は、一つではないだろうか。順列エネルギー=極性力ではないだろうか。すなわち、イデア・デュナミスが1/4回転によって、メディア・エネルゲイアである順列エネルギー・極性力に変換・変容しているということではないか。そうならば、先に述べた、順列エネルギーと極性力との分離は誤りである。順列エネルギーはイデア・デュナミスではないのである。少し混乱しやすいので、明確に区分すると、1/4回転・メディア界での順列エネルギーは+の順列エネルギーであり、ここに極性力が生じるのである。そして、1/2回転は、−の順列エネルギーを生じるのであり、ここには、もはや極性力はないということになるだろう。




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2005年07月09日

連続/脱連続化エネルギーと極性エネルギー

先に、「個と生死」というタイトルで、検討したが、どうも本件の事柄を混同しているか、あるいは不明瞭、不明確なので、ここで検討したい。
 問題は、メディア界の極性力が、差異順列化のエネルギーなのかどうかである。もう一度図示する。

d1±d2±d3・・・±dn(メディア界:dは差異)

この±は、差異dを連結し、また連続化する極性エネルギーである。また、このエネルギーは、メディア界のゆらぎをもたらすものである。つまり、±=〜(ゆらぎ)である。さて、具体的に検証しよう。
d1±d2を考えたとき、この±、+−の力が極限値としてゼロになることが考えられる。すなわち、limit ±→ゼロである。これは、図示すると、d1・d2である。(・を連続化の記号としよう)しかし、ここで注意しないといけないのは、これは、あくまで、極限値であり、架空、仮想の事柄である。連続化というシュミラクルである。本当は、d1、d2は不連続である。とまれ、この±という極性力、極性エネルギーの起源は、当然、イデア界である。イデア界のエネルギー、イデア界の虚数エネルギーから発生したものである。すると、±極性エネルギーとは、イデア・エネルギーといういわば高位の力の変容・トランスフォーメーションであると考えられる。すると、イデア・エネルギーの動きこそが、「支配」的である。つまり、極性エネルギーとは、イデア・エネルギーが生成変化させているのである。イデア界・ガウス平面での力、「モーメント」が、メディア界の極性力・エネルギーを形成しているのであるから、±エネルギーの変化とは、イデア界の虚数「モーメント」によるのであり、それは、ODA ウォッチャーズ氏の用語を用いれば、「存在」と「非存在」を反復するのである。つまり、連続化=「存在」であり、脱連続化=「非存在」であり、これは、イデア界の差異の回転力・「モーメント」によると言えるのである。そうならば、次のような図式が成立しよう。

イデア・エネルギー≧極性エネルギー≧現象エネルギー

冒頭にあげた問題、すなわち、極性エネルギーと差異順列エネルギーの関係はどういうものであるという問題であるが、それは両者は位相が異なると言えるだろう。差異順列エネルギー、即ち連続/脱連続化エネルギーとは、基本的には、イデア・エネルギーであり、極性エネルギーとは、イデア・エネルギーのメディア界化されたエネルギーであると言えるだろう。そして、この極性エネルギーは、極限値をとることで、現象エネルギーとなると言えるだろう。しかし、あくまで、極限値であるから、仮想エネルギーである。つまり、現象エネルギーとは、古典的近代科学によるものであり、現代科学(相対性理論、量子力学等)は、この仮想エネルギーを超えて、極性エネルギーを対象としていると言えようし、さらには、存在/非存在のエネルギー、つまり、イデア・エネルギーにまで向かっていると言えるのではないだろうか。
 さて、以上で、本件をいちおう解決したとしよう。また、後で、精緻に再検討することとなるだろう。

参照:「存在」と「非存在」に関して
http://blog.melma.com/00138706/20050501021749
http://blog.melma.com/00138706/20050627020855

また、全体に関して、「不連続的差異論ノート」を参照されたい。
http://blog.melma.com/00138706/



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2005年07月08日

個と生死:「霊」とは何か

私は、輪廻転生の存在を批判して、否定した。つまり、霊は存在しないということである。存在するのは、永遠の複数の差異であり、個は、死んだとき、連続性が解体して、差異へ還元されるということである。「わたし」という個の発生は、メディア界におけるあるまとまりをもった差異の連結によるのであるが、この差異の連結が、人間の個のエネルゲイアであり、この個のメディア・エネルゲイアが、霊というイリュージョンを形成すると言えるだろう。つまり、個の根源として、イデア界という不連続的差異界は置いておくとして、メディア界における差異の連結=エネルゲイアがあり、このエネルゲイアの連続化と脱連続化の交替する事態が生死ないし死生である。つまり、差異の連結による連続化が生命の発生、生命の現象を意味し、その連続体が脱連続化されるのが、死の現象である。
 ここで、少し、差異の連結=エネルゲイアによる生死・死生の運動のあり方を検討してみよう。以前、ODA ウォッチャーズ氏は、エネルギーの保存則によって、順列形成で使用されたプラス(正)・エネルギーに対して、マイナス(負)・エネルギーが形成されるという主旨のことを述べた。このマイナス・エネルギーとはどのような作用をするのだろうか。プラス・エネルギーが差異の連続化を意味するならば、それは、差異連続化の解体・脱連続化を意味するのではないだろうか。そうならば、生死の運動、連続化/脱連続化とは、メディア界における極性力の生成消滅と関係すると考えられる。極性力がプラス・エネルギーをもつときと、マイナス・エネルギーをもつときがあり、それが生死のダイナミクスである。しかし、問題は、このプラスとマイナスのエネルギーの問題である。私は、メディア界をd1±d2±d3・・・±dnと記述するが、このプラスマイナスと、生死の正負のエネルギーとは異なるのではないだろうか。メディア界のプラスマイナス・エネルギーとは、連続化のエネルギーであり、脱連続化のそれではない。だから、エネルギーを少なくとも二種類に分けないといけない。とりあえず、連続化/脱連続化のエネルギーをイデア界のエネルギーとして、虚数エネルギーとしよう。そして、メディア界のエネルギーを、実数エネルギーとしよう。つまり、メディア界の極性エネルギーとは、実数値をもつということである。整理すると、メディア界には、二種類の異質なエネルギーが作用しているのであり、一つは、連続/脱連続化の虚数エネルギーであり、一つは、極性的連続化の実数エネルギーである。前者はイデア界のエネルギーであり、後者は現象界のエネルギーであると言えるのではないだろうか。
 では、さらに詳しく検討しよう。イデア界のエネルギーとは、ガウス平面のエネルギーだろう。この虚数エネルギーは、またイデア・エネルギー、ガウス・エネルギー、差異・エネルギー等と呼べるだろう。そして、現象界のエネルギーは、現代物理学のエネルギー公式と説明されているだろう。
 ここで、疑問が浮かんだのである。やはり、メディア界の極性エネルギーは、現象界のエネルギーとは別物であろう。だから、以前にも述べたように、三種類のエネルギーを考えなくてならない。メディア界には、だから、イデア・エネルギー/メディア・エネルギー/現象・エネルギーの三者が交差していると言えるだろう。これは、アリストテレス哲学を用いれば、デュナミス・エネルギー/エネルゲイア・エネルギー/エンテレケイア・エネルギーとなる。
 さて、ここで、本論にもどると、ODA ウォッチャーズ氏の述べた、エネルギー保存則とは、やはり、イデア・エネルギーであり、連続/脱連続化の順列エネルギーとは、メディア・エネルギーと見るべきであろう。そして、生死の運動とは、このメディア・エネルギーに拠ると考えられるだろう。では、現象・エネルギー(物質・エネルギー)とは何であろうか。それは、当然、連続体のエネルギーである。そして、個は、差異の連結であるメディア・エネルギーから発生し、また、そこへ帰還すると言えるだろう。個とは、メディア・エネルギーの様相であると言えよう。そして、「霊」とは、メディア・エネルギーの様相を指しているだろう。だから、「霊」というような個体的なものは、本来存していないのである。ただ、メディア界の生成変化・生成消滅する様相があるだけであり、死んだ時は、メディア的様相へと還元されると言えよう。これは、いわば、メディア的差異である。そして、このメディア的差異ないしメディア的様相は、確かに永遠的だろう。メディア的差異様相の永劫回帰はあると言えるだろう。しかし、それは、個体的なものではありえないのである。ただ、メディア界という世界が主体であり、その諸様相が生成変化・生成消滅すると言えるのである。メディア界をバラの花弁に喩えれば、その花弁の一片が一様相であり、ここから、現象の個体が発生する。しかし、この一片を個体として固定してはならない。そうすると、カルマの思想を生じてしまう。そうではなくて、メディア界のバラの花弁の諸様相と、現象界の個体とは、連続してはいないのである。つまり、メディア界は多様体であり、それは、位相体であり、その様相は限定されないということである。位相体の「ここ」は「あそこ」であるのである。つまり、メディア界は無限定の位相体・多様体であるということであり、現象界の個体的被限定性をもってはいないということである。つまり、喩えると、メディア界において、あるシャッフルがあり、その結果、現象界の個体が形成されるということであり、一対一対応していないということである。だから、現象界の「わたし」とは、確かに幻影である。それは、メディア界の様相が真相であり、その真意は、メディア界的普遍性ということである。「わたし」は、正に仮の存在(仮象・バーチャルな存在)であり、他者と基本的には一致するのである。「わたし」は、メディア界の仮象・空蝉に過ぎないのである。偉大なメディア界の一つの化身に過ぎないのである。このように考えると、再び、仏教の「科学」性を確認することとなるのである。仏教は偉大である。しかし、現実は、途方もない仏教超堕落のあり様である。不連続的差異論は、仏教の復活をも意味する。
 とまれ、これで、本論を終えたとしよう。



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2005年07月07日

初めに、メディアありき:感覚senseとポスト・モダン的メディア感覚叡智主義

senseセンスとは何だろうか。これは、感覚、意味、知覚、理性等、内包されているものが幅広い。私の直感では、senseセンスとは、不連続的差異論のメディア界の知覚のことである。これを少し考察してみよう。
 メディア界は、差異が共存している領域である。そして、連続化の「幻想」が生起する「閾」でもある。感覚とは、メディア界の「現象」であると言える。身体と精神との境界の現象である。ここで、少し考え方を整理しよう。つまり、身体、精神とは何かである。デカルト/スピノザに即せば、延長と思惟とは何かである。不連続的差異論を徹底しよう。差異の共存するメディア界があり、このメディア界の発現が、身体・延長/精神・思惟となると言えよう。たとえば、視覚を考えよう。それは、光を介して、ある現象をある生命体が知覚する感覚である。(生命体でなくてもかまわないだろうが、ここでわかりやすくするために、生命体としよう。)光とは、差異の共存による「力」である。ここのところを、少し詳しく説明しよう。
 
     [メディア界]

d1±〜d2±〜d3±〜・・・±〜dn
(dは差異であり、±とは、極性力であり、〜とはゆらぎを意味する)

このメディア界において、差異と、差異との関係は、不可分である。たとえば、d1とd2とは、d1±〜d2のことであり、単独でd1やd2が存していることはない。とまれ、メディア界の「現象」つまり、メディア現象とは、粒子/波動である。(なお、/は、不可分態を意味する。中国の陰陽の対極性と考えてもいい。だから、∽という記号を用いて、粒子∽波動としてもいい。またさらに、d1∽d2∽d3∽・・・∽dnとしてもいい。)故に、光とは、メディア現象であり、差異共存現象である。そして、身体/精神、延長/思惟も、メディア現象であり、身体・延長とは、粒子ないし差異の側面であり、精神・思惟とは、波動ないし「力」(極性力)の側面である。
 このように考えて、感覚senseを見るとき、感覚とは、正にメディア界における差異1と差異2との反応関係であることがわかる。それは、粒子と粒子との関係であり、また波動と波動との関係である。つまり、メディア連結・交通・反応である。メディア連結として、感覚・知覚があると言えよう。すると、メディア連結である感覚とは、当然、身体・延長/精神・思惟の両側面を帯びると言えよう。また、たとえば、感情というものは、身体・延長の指向性であり、欲望もそうであろう。また、知性、概念・観念・言語、理性等は、精神・思惟の側面である。ならば、倫理とは、メディア連結によって生起する差異共存指向である。それは、身体・延長/精神・思惟の両側面をもつ「力」である。
 ということで、感覚senseとは、メディア界の根源・基礎的現象であることがわかる。だから、本当の理性とは、感覚senseに基づかなくてはならない。デカルト/スピノザの理性とはそれである。しかし、近代的合理主義とは、この感覚senseを、言語的形式(構造、超越論的形式)によって、排出・隠蔽した一般形式的な合理主義であり、メディアという真理を歪曲しているものであり、曲解の一種である。つまり、メディア界といういわば真実在を、ねじ曲げているのであり、そのねじ曲げとは、当然暴力を意味するのであり、近代主義(近代合理主義)とは、必然的に、虚偽と暴力の世界をもたらすのであり、事実もたらしたのである。強く言えば、狂気の世界を生んだのである。近代の世界戦争とは、この必然的帰結である。そして、「文明」、「資本主義」も、この産物であり、近代主義のままでは、地球、世界、自然、人類等を破壊するのである。結局、ポスト近代主義、ポスト近代合理主義として、メディア界的感覚叡智主義が生起するのである。あるいは、メディア感覚叡智主義と呼んでもいいだろう。これは、万人を芸術家、宗教家、哲学者、革命家、科学者、技術者、詩人等にするだろう。万人が天才となるだろう。(大乗仏教の仏性とは、メディア感覚のことであろう。)
 そう、言おう。初めに、メディアありき。

p.s. ここで、やや蛇足的であるが、カント哲学に言及すると、上述からわかるように、超越論的形式とは、メディア界の連続・同一性化した形式であり、メディア界と現象界との固定した境界形式であると言えよう。そして、物自体とは、端的に、メディアである。カント哲学では、メディアは把捉不可能である。何故か。カントは、直観が根源であるとしながら、直観つまり感覚senseを、連続・同一性の形式(言語形式、構造)の枠にはめていて、いわば、直観・感覚(メディア)を排出・隠蔽しているからである。抑圧と言ってもいい。そう、カント哲学が、近代主義、近代合理主義の出発点である。それは、暴力・権力・イデオロギーの形式である。また、観念論/唯物論という二元論を生んだ。だから、ポスト近代主義、ポスト・モダニズムとは、ポスト・カント主義である。 
 ついでに言えば、神秘主義とは、カント主義の裏返しである。確かに、メディアに触れてはいるが、近代合理主義のネガである。それは、神秘主義と近代合理主義との二項対立という分裂のままである。ロマン主義は、神秘主義と一致する。とまれ、現代、メディアの多元生成的生産・創造の時代である。ホリエモンは、ITメディアの革命児である。
 さらについでに言えば、D.H.ロレンスの「コスモス」とは、正に、メディアである。メディア宇宙のことである。また、占いとは、このメディア宇宙のイメージ表象であると言えよう。それは、科学ではありえないが、しかし、イメージ的なファジーな認識と言えるだろう。






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2005年06月24日

Pagan Frontier and Resurrecitions: D. H. Lawrence's The Escaped Cock and Shinobu Orikuchi's The Book of the Dead

“Pagan Frontier and Resurrections: D. H. Lawrence’s The Escaped Cock and Shinobu Orikuchi’s The Book of the Dead”

             By Hiroaki Inami

The aim of this paper: Focusing on visions of a new religion of these texts and the authors’ thoughts, we will consider a possibility of new polytheism through a theory of discrete difference.
    
1. Introduction of Shinobu Orikuchi
Shinobu Orikuchi (1887-1953) was one of the greatest scholars of ancient Japanese literature, religion and folklore, and an eminent poet and writer. His representative academic work on literature and folklore is Ancient Studies(1929-30). The Book of the Dead, a novella, is not only the supreme achievement of his career as a writer but one of the most distinguished fictions in modern Japanese literature. A certain literary critic calls it unparalleled in modern Japanese fictions. The first draft was written in 1939 and the first and second editions were published in 1943 and 1947 respectively.
As can be known, Orikuchi and Lawrence were contemporary. (I am going to explain Orikuchi’s spiritual connection by following Mr. Reiji Ando’s commentary on Orikuchi.) In a sense, they belonged to the same cultural milieu, because Orikuchi came in touch with the contemporary Western religious or spiritual movement through his close friend or his homosexual lover Musen Fuji, who was a ‘new Buddhist’ and probably asserted the identity of lives of Buddha and Christ for the first time in Japan. Musen Fuji edited “ The Gospel of Two Saints”, in which he referred to Paul Carus(1852-1919), who invited Taisetsu Suzuki to Chicago and whose book Suzuki translated into Japanese. And it was clear that under the influence of the translation Musen Fuji edited the above-mentioned book. But he was so challenging that he also drew on Arthur Lillie (1831-1912)’s two books, which were written under the influence of Theosophy. Arthur Lillie was in close touch with Anna Kingsford (1846-1888) who belonged to the second generation of Theosophy led by Madam Blavatsky. So Lillie’s books considerably corresponded with Kingsford’s assertion on the method of transformation of Christianity under the secret knowledge of Asian paganism, i.e. the exploration of Buddhism on the basis of extremely mystic interpretation of Christianity. After all, “Buddhism” Lillie found out was Christianized and interpreted in secret or hermetic knowledge of ancient Egypt and Hellenism. To sum up, Orikuchi, in a sense, belonged to the modern Western syncretistic religious, spiritual or mystical movement, which Lawrence was versed in or, to a certain extent, belonged to.

2.Religious Visions
A) Lawrence’s vision of a new religion in The Escaped Cock:
We can affirm this novella is the artistic culmination of Lawrence’s religious thought. There are at least four elements or levels of his vision of a new religion. The first is regeneration or tranformation of Christianity, which at the same time means the end of the Christ figure as preacher of spiritual love and the beginning of the life of resurrected Christ as a singularity or difference in the phenomenal world. The second is his cosmic vision, his cosmic sense of the nature or his idea of nature as manifestation of unseen power, strength or virtue. The third is a vision of the myth of Isis and Osiris. The fourth is rather difficult to grasp, but should be said as the recognition of the Father, which can paradoxically be called polytheistic. Here are the items.

1)A Vision of Regeneration of Christianity
2)A Cosmic Vision of Nature as Power
3)A Vision of the Myth of Isis and Osiris
4)A Vision of the Father as Polytheism

The fourth is related to the first, so the two might be turned into one. We don’t have to explain the first, the second and the third. The fourth vision needs to be explained. This point is so vital that this paper’s gist depends on it. In the commentary by Gerald M. Lacy of The Escaped Cock, there is cited part of Lawrence’s letter to Gordon Campbell(20th December, 1914), which will be most related to my point, so I sufficiently quote the letter from the Cambridge edition.

But the moderns today prefer to end insisting on the sad plight. It is characteristic of us that we have preserved, of a trilogy which was really Prometheus Unbound, only the Prometheus Bound and terribly suffering on the rock of his own egotism.
But the great souls in all time did not end there. In the mediaeval period, Christianity did not insist on the Cross: but on the Resurrection: churches were built to the glorious hope of resurrection. Now we think we are very great, whilst we enumerate the smarts of the Crucifixion. We are too mean to get any further.
I think there is the dual way of looking at things: our way, which is to say ‘I am all. All things are but radiations out from me.’- The other way is to try to conceive the Whole, to build up a Whole by means of symbolism, because symbolism avoids the I and puts aside the egotist; and, in the Whole, to take our decent place. That was how man built the Cathedral. He didn’t say ‘out of my breast springs this cathedral. But ‘in this vast Whole I am a small part, I move and live and have my being’.
………………………………………………………
The Crucifix, and Christ, are only symbols. They do not mean a man who suffered his life out as I suffer mine. They mean a moment in the history of my soul, if I must be personal. But it is a moment fixed in context and having its being only according to context. Unless I have the Father, and the hierarchies of Angels, I have no Christ, no Crucifixion.
It is necessary to grasp the Whole. At last I have got it, grasping something of what the mediaeval church tried to express. To me, the Latin form of expression comes very natural. To you, the Celtic I should think. I think the Whole of the Celtic symbolism and great Utterance of its Conception has never been fathomed. But it must have been in accord with the Latin.
There is the Eternal God, not to be seen or known, so bright in his fire that all things pass away, evanescent at its touch. He is surrounded by the Hierarchy of the Cherubim and Seraphim, the Great Ones who partake of his being and transmit his glory: and they are absorbed in praise eternally. Beyond the Cherubim are the Dominions and Powers: and beyond these great ones, the Principalities, Archangels, and Angels, which come as messengers and guardians and carriers of blessing at last to mankind.
So, there are the central symbols, from the oldest vision.
Then God, in mediating upon himself, begot the Son. The Son receives the Divine Nature by Generation within the human flesh. In the Son, the human flesh is again crucified, to liberate the eternal Soul, the Divine Nature of God.
For the Divine Nature of God, the Spirit of the Father procreating the human flesh forms the ego. And the Ego would fain absorb the position of the Eternal god. Therefore it must suffer crucifixion, so that it may rise again praising God, knowing with the Angels, and the Thrones, and the Cherubim.
And, from the mutual love of the Father and the Son, proceeds the Holy Spirit, the Holy Ghost, the Reconciler, the Comforter, the Annunciation.
……………………………………………………
But Christianity should teach us now, that after our Crucifixion, and the darkness of the tomb, we shall rise again in the flesh, you, I, as we are today, resurrected in the bodies, and acknowledging the Father, and glorying in his power, like Job.
It is very dangerous to use these old terms lest they sound like Cant. But if only one can grasp and know again as a new truth, true for ones own history, the great vision, the great satisfying conceptions of the worlds greatest periods, it is enough. Because so it is made new.
All religions I think have the same inner conception, with different expressions.
(The Letters of D. H. Lawrence 2 1913-16.Cambridge University Press, 1981. 248-49. The underline is my emphasis and the following ones are the same.)

The underlined sentences presents Lawrence’s two ways of view. Though it may seem contradictory, I think “our way” is monotheistic and “the other way” is polytheistic. There may occur opposition to the idea; is the Father not the only God? Yes. But Lawrence’s emphasis is not the only one but on the whole and the symbolism, in which a man is a small part, which means metaphorically polytheism or plurality. On the other hand, “our way” and “I am all” means metaphorically monotheism, i.e.“ I am the only God.” Therefore I consider Lawrence’s religious idea as a kind of polytheism. (We later consider what kind of polytheism this is.)
Now we recognize four elements of Lawrence’s vision of a new religion. And we can call this a multiple, fourfold vision of a new religion in The Escaped Cock: a unification of regenerate Christianity, a cosmic vision, a goddess myth and the Father’s polytheism. And my contention is that this new religion is new polytheism, on which I will explore philosophically at the third section.

B)Orikuchi’s vision of a new religion in The Book of the Dead:
I have to introduce this novella briefly. (Since this text is most elaborate and intricate, to summarize it is to omit its multiplicity.) I will tell the main story. It was in the Nara period. A man who had been executed long ago resurrected in a rocky cave. He was Shiga-tsuhiko ( historically Otsu-miko). He had been suspected of plotting against the life of the emperor, and had been executed. The day he was killed, he saw a young woman called Mimimono-toji and he fell in love with her at first sight. His passion for her remained after his death. He had been dead for about fifty years. Then he resurrected and began to think of his lover Mimimono-toji. His longing for her was, as it were, telepathically transmitted to the heroine, Iratsume, who is a young girl belonging to the great aristocratic family to be a maiden in the service of a shrine. At spring and autumn equinoxes, a vision of a young fair man with golden hair and white skin appeared before the heroine between two tops of Mt. Futakami-yama at about sunsets. She saw his vision several times and the vision impressed her soul deeply. The heroine had read sutras of Buddhism and had been copying a sutra by hand. When she finished a thousand time hand-copying, she saw another vision and left her hermitage for a location where a vision appeared, which was Taima-dera Temple halfway up Mt. Futakami-yama. She entered the precincts of the temple and sinned, because no women were admitted to the temple those days. To atone for her sin, she was detained at the temple and began to weave cloth from lotus threads and to make a garment forthe man of the vision. On it she drew a picture of the man of the vision, which was simultaneously a Mandala. Other persons saw in it thousands of Bodhisattvas appear out of the earth.
This is a very rough sketch of the novella. From this text we can draw some visions or elements of a new religion.

1)A Vision of Shintoism: Japanese traditional or native faith in the sun: in this case, the setting sun
2)A Vision of Buddhism of Amitabha Tathagata(Amitabha means infinite light)
3)A Vision of Christianity(the man of the vision is associated with a suggestion of Christ, because he has golden hair and white skin, and Orikuchi was under the influence of Christianized Shintoism of Atsutane Hirata of the Edo Period.)
4)A Vision of the Myth of Isis and Osiris: the heroine is equivalent to Isis and the man who resurrected Osiris
5) A Vision of a Mandala

These multiple visions or elements are combined in the text. Therefore here we have a syncretism of monotheism and polytheism. But there is a remarkable resemblance between Lawrence’s vision and Orikuchi’s. To put it srongly, they are almost the same. Lotus, which appears in both texts, is really suggestive. (A distinct sense of flesh I haven’t mentioned is common to both works.) It is as if they were twins. Since I called Lawrence’s vision new polytheism, Orikuchi’s may also be called so. As a working hypothesis, I call Orikuchi’s new polytheism too.

3. New polytheism: from the perspective of a theory of discrete difference

I made a theory of discrete difference in collaboration with Mr. Kazumi Sakamoto. This theory reforms or revises Gilles Deleuze’s philosophy of difference. We can’t afford to explain it in detail here, so we put it simply. We found out that there is confusion between continuous difference and discrete one in Deleuze’s idea of difference. So we distinguished them, selected the latter and turned it into a theory of discrete difference. The theory has a hypothesis of a threefold world.

The Idea World/The Media World/The Phenomenal World

The Idea World is the universal world with plural discrete difference coexisting or consistent with each other in it. The Media World mediates between the Idea World and The Phenomenal World. (We are sorry we can’t fully explain the core of this theory here. We know Lawrence fiercely attacked Platonism. But we have to distinguish two Platonisms. The Idea World is not the one Lawrence attacked.) I draw a parallel between Lawrence’s vision, Orikuchi’s and it.

1.The Idea World/The Media World/The Phenomenal World
2.The Father/Cosmos, Gods(,The Holy Spirit)/The Phenomenal World or Nature
3.Musubino-kami(God of Spirit)/Gods of Creation/Nature

They are threefold or three-layered. We can think there is a correlation between them, or these partitions are equivalent to each other. So, since a theory of discrete difference asserts that The Idea World consists of plural discrete difference, The Father and Musubino-kami(God of Spirit) should be plural. We said our hypothesis above that Lawrence’s vision is new polytheism. A theory of discrete difference logically comes to prove the hypothesis.
Let us consider concretely. In The Escaped Cock we clearly find the idea of singularity and difference.

"For nothing is so marvellous as to be alone in the phenomenal world, which is so raging, and yet apart. And I have not seen it, I was too much blinded by my confusion within it. Now I will wander among the stirring of the phenomenal world, for it is the stirring of all things among themselves which leaves me purely alone."
(p. 571)

"Strange is the phenomenal world, dirty and clean together! And I am the same. Yet I am apart! And life bubbles variously. ・・・・now I am risen in my own aloneness, and inherit the earth, since I lay no claim on it. And I am alone in the seethe of all the things; first and foremost, for ever, I shall be alone. ・・・・And perhaps one evening I shall meet a woman who can lure my body, yet leave me my aloneness." (p.572)

"And as he(the man who had died) watched her(the priestess of Isis), he saw her soul in its aloneness, and its female difference. He said to himself: How different she is from me, how strangely different! She is afraid of me, and my male difference. ・・・How alive she is, with a life so different from mine! How beautiful, with a soft, strange courage of life, so different from my courage of death! ・・・”
(p.592)
The Complete Short Novels, Penguin Books, 1982.

“To be alone in the phenomenal world, which is so raging, and yet apart” etc. can mean that the man who had died decided to live a singular and discretely different life. So we have here examples of singularity and discrete difference in the phenomenal world, while there exists the dimension of the Father. Though we can’t afford to explain fully in this short paper a theory of discrete difference, the theory asserts singularity or discrete difference in the Phenomenal World corresponds to singularity or discrete difference in the Idea World. Therefore we can prove that the dimension of the Father in The Escaped Cock contains plurality of “God”.
The same thing applies to the Orikuchi’s text. The heroine, Iratsume is a noble virgin who is to be a maiden in the service of a shrine, singularly different from common or mean people in the secular world. She is singularity and discrete difference. Her religious and sensual vision of the man who resurrected means a transcending dimension, because it is related to Amitabha Tathagata and Buddhist Pure land, which is considered to correspond to Orikuchi’s idea of Musubino-kami or God of Sprit at once.

“The Figure I[Iratsume] vividly saw above shining clouds at sunsets on the days of spring and autumn equinoxes. I don’t believe he is a man of Yamato(Japan’s old name). I wonder whether there will be such one among men of this country I have not known yet. His bared shoulder upon which a golden wig and golden hair are richly hanging is light and fair. A full face with a prominent nose and noble eyebrows. Lowering his eyes, raising his right hand around his breasts, he was hanging his left hand below the armpit, showing his full palm, …. Alas, his scarlet lips above clouds and his visage seeming to smile fragrantly.”
(The Book of the Dead, Chuokoron-Shinsha. INC. 1999, 34-35. My tentative translation.)

“The rich figure with skin, shoulders, armpits and breasts has appeared above the pine tree field of the mountain ridge. But only the face she had been yearning after was dim.
‘Please make your figure appear a little clearly.’
……………………………
Calmly and calmly clouds were descending. …… Where clouds were swaying just over the sand of the garden [of Manhozo-in Temple], you saw quite distinctly the figure of the noble person with his half body vividly appearing. His face with a fragrant smile turned directly to Iratsume for the first time. His lowered eyes half closed opened freshly as if he recognized her at this time. His lightly closed lips looked softened as if they were saying something to this woman.
Iratsume thought her eyes began to lower because of his nobleness. But she didn’t turn her eyes away, so intent on it that she might not miss this moment.
The ode that she had thought would praise a noble man spurted out from her heart again.
I devote myself to Amitabha. How sublime Amitabha!
At the instant the light became dim. The clouds she saw directly and the figure of the noble man above the clouds were getting dimmer and dimmer and rising higher and higher, and still higher”(ibid. 138-140. )

Therefore also in The Book of The Dead, we can assert the dimension of the heroine’s vision that should be Musubino-kami or God of Spirit contains plurality of “God”.
After all, we have proved our hypothesis of new polytheism, which can also be called new pluralism, because it maintains the dimension of the Idea World. We can call it immanent-transcendental.

4.Conclusion
Both Lawrence and Orikuchi present a vision and a possibility of a new universal religion, which is, in a sense, a fusion of polytheism and monotheism. But from the viewpoint of a theory of discrete difference, their new religions are post-polytheism and post-monotheism and can be called new polytheism(or super-polytheism). The point is that Lawrence’s ‘the Father’ and Orikuchi’s ‘Musubino-kami’ or God of Spirit are, as it were, deconstructed by a theory of discrete difference and become plural. ‘The Father’ and ‘Musubino-kami’ can be thought as ‘univocity or univocality of Being’ where plural discrete difference coexist, which mean original plural ‘gods’ or discretely different ‘gods’ coexist or exist alongside of each other. *

A Note
* In Apocalypse, Fragment T, Lawrence tells that God of the Old Testament is polytheistic.
“Now the Bible, we know well, is a great religious book. It is full of God. .....The Jews did a wonderful thing when they focused the whole religious feeling of man upon One God. But that does not prevent their Bible from being full of all the gods. It is this discovery which a man can make in his maturity, to his unspeakable relief.
The Bible is full of all the gods. Nay, even, the Jahveh of the Old Testament is all the gods, except the dying and redeeming gods. But surely the Jehovah of Genesis and Numbers, Samuel, Psalms, Isaiah, Ezekiel, surely he is all the gods in turn, Dionysic, Apollo-like, strange like Ra, and grim like Baal or Bel. You can’t make an idol to Jehovah because he has the qualities of all the ancient gods in turn, Ouranos or Kronos or Saturn, even the old Osiris, or the mysterious gods of the first Sumerians. He is One because he is all of them, not because he is different from any of them. He does not sit absolute and apart, while all the other gods topple, mere fallen into idols. He is himself all the gods and all the idols, savage and fertile, and even he is all the unknown gods that are yet to come.
…………………………
But now, having really read the Bible as a book, not as a one-sided pronouncement, I realize the very truth of the Bible: If this God exists, One and Eternal, then all the other gods exist too. For all the gods are only “sides” of the One God.”(p. 156) As for Orikuchi, his thinking was wavering between monotheism and polytheism.

A Bibliography

Works by D. H. Lawrence
The Escaped Cock. in D. H. Lawrence The Complete
Short Novels. Eds. Keith Sagar and Melissa
Partridge. Penguin Books. 1990
The Escaped Cock. Ed. Gerald M. Lacy. Black Sparrow
Press. 1973.
“The Flying-Fish.” The St. Mawr and Other
Stories.Cambridge University Press. 1988.
205-225.
“Resurrection”. Reflections on the Death of a
Porcupine and Other Essays.Ed. Michael Herbert.
Cambridge University Press. 1988. 231-235.
“The Risen Lord.” Late Essays and Articles. ED.
James T. Boulton. Cambridge University Press.
2004. 265-273.
“The Risen Lord.” D. H. Lawrence The Complete
Poems. Eds. Vivian De Sola Pinto and Warren
Roberts. Penguin Books. 1993. 459-461.
“Resurrection of the Flesh.” ibid. 737-738.
“Resurrection.”ibid. 743-746.
Apocalypse and the Writings on Revelation. Ed. Mara
Kalnins. Cambridge University Press. 1980
The Letters of D. H. Lawrence 2 1913-16. Cambridge
University Press, 1981. 248-49.

Works about D. H. Lawrence

Ceramella, Nick. “Lorenzo in Search of a New
Religion.” Etudes Lawrenciennes 21: D. H.
Lawrence After Strange Gods T. Service
Publidix Universite Paris-X Nanterre. 2000.
105-129.
Ferreira, Maria Aline. “ ‘Glad Wombs’ and
‘Friendly Tombs’: Reembodiments in D. H.
Lawrence’s Late Works.” Writing the Body in
D. H. Lawrence: Essays on
Language,Representation, and Sexualty. Ed. Paul
Poplawski. Greenwood Press 2001. 163-175
Harris, H. Janice. “The Many Faces of Lazarus: The
Man Who Died and Its Context.” D. H. Lawrence:
Critical Assesments vol.V. Eds. David Ellis
and Ornella De Zordo. Helm Information. 1992.
356-370.
Hyde, Virginia. The Risen Adam: D. H. Lawrence’s
Revisionist Typology. The Pennsylvania State
University Press. 1992
Lacy, Gerald M. “T. Introduction: Lawrence and
the Resurrection Theme” and “ U. Chronology:
Influences and Works.” The Escaped Cock. Ed.
Gerald M. Lacy. Black Sparrow Press. 1973.
121-141.
Marcus, Philip L. “Lawrence, Yeats, and ‘the
Resurrection of the Body’.”D. H. Lawrence: A
Centenary Consideration. Eds. Peter Balbert and
Philip L. Marcus. Cornell University
Press.1985. 210-235.
Troy, Mark. “…a Wild Bit of Egyptology: Isis and
The Escaped Cock of D. H. Lawrence.” D. H.
Lawrence: Critical Assesments vol.V. Eds.
David Ellis and Ornella De Zordo. Helm
Information. 1992. 371-383.
Wright, T. R.“The Risen Lord: The Escaped Cock,
Lady Chatterley’s Lover and the Paintings.”
D. H. Lawrence and the Bible. Cambridge
University Press. 2000. 214-227.

Works by Shinobu Orikuchi
The Book of the Dead and Shintokumaru.
Chuokoron-Shinsha, Inc(Tokyo). 1999.
The First Draft・The Book of the Dead. Ed. Reiji
Ando. Kokusho-Kankokai, Inc(Tokyo). 2004.
The Orikuchi Shinobu Corpus vol. 20: Shinto
Religion Volume. Ed. The Ancient Institute in
Memory of Doctor Orikuchi. Chuokoron-sha,
Inc(Tokyo). 1976.

Works about Shinobu Orikuchi
Ando Reiji. The Struggle of Gods: A Study on Shinobu
Orikuchi. Kodan-sha(Tokyo). 2004.
Ando Reiji.“The Mandala of Light.” The First
Draft・The Book of the Dead. Kokusho-Kankokai,
Inc(Tokyo). 2004.

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2005年06月21日

Pagan Frontier and Resurrections:The Escaped Book and The Book of the Dead

“Pagan Frontier and Resurrections: D. H. Lawrence’s The Escaped Cock and Shinobu Orikuchi’s The Book of the Dead”

     By Hiroaki Inami

Contents:
T. Introduction of Shinobu Orikuchi (1887~1953): Lawrence’s contemporary and having, in a sense, a similar religious milieu; the idea of religious fusion or of “All religions are one” etc.

U. Visions of new religions in D. H. Lawrence’s The Escaped Cock (The Man Who Died) and Shinobu Orikuchi’s The Book of the Dead
A) Lawrence’s vision: A religion of cosmos and ‘power’ with a framework of a myth of Isis and Osiris and at the same time a new religion as a developed form of Christianity, which is a paganized one, not a Christianity of Crucifixion but of Resurrection. A unified religion of a pagan myth, a cosmic religion and Chritianity.
B) Orikuchi’s vision: He was critical of the prewar Emperor system. He thought that the Pacific war had been a war between Western God and Japanese gods or God, and that Western God had defeated Japanese gods or God. After the Emperor’s declaration of his being human (, since he had been God so far), Orikuchi thought that it was a good chance that Shintoism (, which literally means ‘ the way of God’) should be a real religion, because he believed that Japanese had been short of religious enthusiasm. He wanted to resurrect so long dead Shintoism as a Japanese religion. It is considered to be a basic urge to write The Book of the Dead, besides a personal reason. Using a historic matter of Prince Otsu’s execution and a legend of Princess Chujo weaving Taima mandala, Orikuchi wrote it on the basic idea of the syncretistic fusion of Japanese native ‘Himatsuri or a festival of Sun’ and the Buddhist worship of Amitabha, which means infinite light. The very religious point of the text is visions the heroine Iratsume saw at about sunsets at the spring and autumn equinoxes, in which there appeared the beautiful man with golden hair and white skin. The man was the dead man who had lately resurrected. There was a conjunction of a setting sun, a vision of the fair man and Buddhism. It was a religious and sensual vision with cosmic and natural sense. It raises a religious problem of the sun and light, which bears a strong resemblance to Lawrence’s sun and light.

V. A perspective from a theory of discrete difference (in short, a DD theory), which originated in collaboration with Mr. Kazumi Sakamoto
A DD theory: The Idea World/The Media World/The Phenomenal World
Lawrence’s Vision: The Father/Cosmos, Gods, the Holy Spirit/The Son (Christ)
Orikuchi’s Vision: Musubinokami (God of Spirit)/Gods of Creation/Nature

The Escaped Cock: consistence of difference and singularity: singularity and universality
The Book of the Dead: singularity and universality

W. Conclusion
______________________________________________________________________________________
T. Introduction of Shinobu Orikuchi
   Shinobu Orikuchi (1887~1953) was one of the greatest scholars of ancient Japanese literature, religion and folklore, and an eminent poet and writer. His representative academic work on literature and folklore is Ancient Studies(1929~30). The Book of the Dead, a novella, is not only his supreme achievement of his career as a writer but one of the most distinguished fictions in modern Japanese literature. A certain literary critic calls it unparalleled in modern Japanese fictions. The first draft was written in 1939 and the first and second editions were published respectively in 1943 and 1947.
  As can be known, Orikuchi and Lawrence were contemporary. (I am going to explain Orikuchi’s connection by following Mr. Reiji Ando’s commentary on Orikuchi.) In a sense, they belonged to the same cultural milieu, because Orikuchi came in touch with contemporary Western religious or spiritual movement through his close friend or his homosexual lover Musen Fuji, who was a ‘new Buddhist’ and asserted a theory of the identity of lives of Buddha and Christ probably for the first time in Japan. Musen Fuji edited “ The Gospel of Two Saints”, in which he referred to Paul Carus(1852~1919), who invited Taisetsu Suzuki to Chicago and whose book Suzuki translated into Japanese. And it was clear that under the influence of the translation Musen Fuji edited the above-mentioned book. But Musen Fuji was so daring that he also drew on Arthur Lillie (1831~1912)’s two books, which were written under the influence of Theosophy. Arthur Lillie was in close touch with Anna Kingsford (1846~1888) who belonged to the second generation of Theosophy lead by Madam Blavatsky. So Lillie’s books considerably corresponded with Kingsford’s assertion on the method of transformation of Christianity under the secret knowledge of Asian paganism, i.e. the exploration of Buddhism on the basis of extremely mystic interpretation of Christianity. After all, “Buddhism” Lillie found out was Christianized and interpreted in Ancient Egyptian and Hellenistic secret or hermetic knowledge. To sum up, Orikuchi, in a sense, belonged to the modern Western syncretistic religious, spiritual or mystical movement, which Lawrence was versed in or belonged to.

U.Religious Visions
A) Lawrence’s vision of a new religion in The Escaped Cock
Lawrence’s vision in The Escaped Cock: We can say this novella is the culmination of Lawrence’s religious thought. There are at least four elements or levels of his vision of a new religion. The first is regeneration or tranformation of Christianity, which at the same time means the end of the Christ figure as preacher of spiritual love and the beginning of the life of resurrected Christ as a singularity or difference in the phenomenal world. The second is his cosmic vision, his cosmic sense of the nature or his idea of nature as manifestation of unseen power, strength or virtue. The third is a vision of Isis and Osiris myth. The fourth is rather difficult to grasp, but should be said as the recognition of the Father, which can paradoxically be called polytheistic. I itemize them.

1)A Vision of Regeneration of Christianity
2)A Cosmic Vision of Nature as Power
3)A Vision of the Myth of Isis and Osiris
4)A Vision of the Father as Polytheism

The fourth is related to the first, so the two could be turned into one. We don’t have to explain the first, the second and the third. The fourth vision needs to be explained. This point is so vital that this paper’s gist depends on it. In the commentary by Gerald M. Lacy of The Escaped Cock, there is cited part of Lawrence’s letter to Gordon Campbell, 20th December in 1914, which will be most related to my point, so I sufficiently quote the letter from the Cambridge edition.

But the moderns today prefer to end insisting on the sad plight. It is characteristic of us that we have preserved, of a trilogy which was really Prometheus Unbound, only the Prometheus Bound and terribly suffering on the rock of his own egotism.
But the great souls in all time did not end there. In the mediaeval period, Christianity did not insist on the Cross: but on the Resurrection: churches were built to the glorious hope of resurrection. Now we think we are very great, whilst we enumerate the smarts of the Crucifixion. We are too mean to get any further.
I think there is the dual way of looking at things: our way, which is to say ‘I am all. All things are but radiations out from me.’- The other way is to try to conceive the Whole, to build up a Whole by means of symbolism, because symbolism avoids the I and puts aside the egotist; and, in the Whole, to take our decent place. That was how man built the Cathedral. He didn’t say ‘out of my breast springs this cathedral. But ‘in this vast Whole I am a small part, I move and live and have my being’.
………………………………………………………………………………………………
The Crucifix, and Christ, are only symbols. They do not mean a man who suffered his life out as I suffer mine. They mean a moment in the history of my soul, if I must be personal. But it is a moment fixed in context and having its being only according to context. Unless I have the Father, and the hierarchies of Angels, I have no Christ, no Crucifixion.
It is necessary to grasp the Whole. At last I have got it, grasping something of what the mediaeval church tried to express. To me, the Latin form of expression comes very natural. To you, the Celtic I should think. I think the Whole of the Celtic symbolism and great Utterance of its Conception has never been fathomed. But it must have been in accord with the Latin.
There is the Eternal God, not to be seen or known, so bright in his fire that all things pass away, evanescent at its touch. He is surrounded by the Hierarchy of the Cherubim and Seraphim, the Great Ones who partake of his being and transmit his glory: and they are absorbed in praise eternally. Beyond the Cherubim are the Dominions and Powers: and beyond these great ones, the Principalities, Archangels, and Angels, which come as messengers and guardians and carriers of blessing at last to mankind.
So, there are the central symbols, from the oldest vision.
Then God, in mediating upon himself, begot the Son. The Son receives the Divine Nature by Generation within the human flesh. In the Son, the human flesh is again crucified, to liberate the eternal Soul, the Divine Nature of God.
For the Divine Nature of God, the Spirit of the Father procreating the human flesh forms the ego. And the Ego would fain absorb the position of the Eternal god. Therefore it must suffer crucifixion, so that it may rise again praising God, knowing with the Angels, and the Thrones, and the Cherubim.
And, from the mutual love of the Father and the Son, proceeds the Holy Spirit, the Holy Ghost, the Reconciler, the Comforter, the Annunciation.
…………………………………………
But Christianity should teach us now, that after our Crucifixion, and the darkness of the tomb, we shall rise again in the flesh, you, I, as we are today, resurrected in the bodies, and acknowledging the Father, and glorying in his power, like Job.
It is very dangerous to use these old terms lest they sound like Cant. But if only one can grasp and know again as a new truth, true for ones own history, the great vision, the great satisfying conceptions of the worlds greatest periods, it is enough. Because so it is made new.
All religions I think have the same inner conception, with different expressions.
(The Letters of D. H. Lawrence 2 1913~16.Cambridge UP, 1981. pp. 248~49. The underline is my emphasis.)

In the underlined sentences, Lawrence presents two ways of view. Though it may seem contradictory, I think “our way” is monotheistic and “the other way” is polytheistic.
Almost reflexively you will oppose to the idea; is the Father not the only God? Yes. But Lawrence’s emphasis is not the only one but on the whole and the symbolism, in which a man is a small part, which means metaphorically polytheism or plurality. On the other hand, “our way”, “I am all” means metaphorically monotheism, i.e.“ I am the only God.”
Therefore I consider Lawrence’s religious idea as polytheism. (We later consider what kind of polytheism this is.)
Now we recognize four elements of Lawrence’s vision of a new religion. And we can call this a multiple, fourfold vision of a new religion in The Escaped Cock: a unification of regenerate Christianity, a cosmic vision, a goddess myth and the Father’s polytheism. And my contention is that this new religion is new polytheism, on which I will explore philosophically at the third section.

B)
Orikuchi’s vision of a new religion in The Book of the Dead:

I have to introduce this novella briefly. (Since this text is most complicated, to summarize it is to omit its intricateness.) I will tell the main story. It was the Nara period. In a cave a man who had been executed long ago resurrected in a rocky cave. He was Otsumiko. Because he had been thought to have tried to kill the emperor, he had been executed. The day he was killed, he saw a young woman called Mimimono-toji and he fell in love with her at first sight. His passion for her remained after his death. About fifty years had passed since his death and he resurrected and began to think of his lover Mimimono-toji. But the heroine is Iratsume, not Mimimono-toji, who is a young aristocratic girl to be a maiden in the service of a shrine or a kind of sibyl, and to whom a vision of Otsumiko who had been executed began to appear. At spring and autumn equinox, a vision of a young beautiful man with golden hair and white skin appeared before the heroine between two tops of Mt. Futakami-yama at about sunset. She saw his vision several times and the vision impressed her soul deeply. The heroine had read sutras of Buddhism and had been copying a sutra by hand. When she finished a thousand time hand-copying, she saw another vision and left her hermitage for a location where a vision appeared, which was Taima-dera Temple halfway up Mt. Futakami-yama. She entered the precincts of the temple and sinned, because then the temple permitted no woman to enter. To atone for her sin, she remained at the temple and began to weave the cloth made of lotus thread to have it worn by the man of the vision. And she drew a picture of the man of the vision, which was a Mandala. Other persons saw in it thousands of Bodhisattvas appear out of the earth.
This is a very rough sketch of the novella. From this text we can draw some visions or elements of a new religion.

1)A Vision of Shintoism: Japanese traditional or native faith in the sun: in this case,
the setting sun
2)A Vision of Buddhism of Amitabha Tathagata(Amitabha means infinite light)
3)Association of Christianity(because the man of the vision is like white people,
he has association with the sun and the light and also Orikuchi was under the influence
of Christianized Shintoism of Atsutane Hirata in Edo Period.)
4)A Vision of the Myth of Isis and Osiris: the heroine is equivalent to Isis and
the man who resurrected Osiris
5) A Vision of Mandala

These representative visions or elements are, as it were, combined in the text. Therefore here we have a syncretism of monotheism and polytheism. But there is a remarkable resemblance between Lawrence’s vision and Orikuchi’s. To put it srongly, they are almost the same. Lotus, which appears in both texts, is really suggestive. (Sensuality I haven’t mentioned is common to both works.) It is as if they were twins. Since I called Lawrence’s vision new polytheism, Orikuchi’s might also be called so. As a working hypothesis,
I call Orikuchi’s new polytheism too.

V. New polytheism: from the perspective of a theory of discrete difference

I created a theory of discrete difference in collaboration with Mr. Kazumi Sakamoto. This theory reforms or revises Gilles Deleuze’s philosophy of difference. We can’t afford to explain it in detail here, so we put it simply. We consider that there is confusion of continuous difference and discrete one in Deleuze’s idea of difference. So we distinguished them, selected discrete difference alone and turned it into a theory of discrete difference. The theory has a hypothesis of a threefold world.

The Idea World/The Media World/The Phenomenal World

The Idea World is the universal world. The Media World mediates between the Idea World and The Phenomenal World. I draw a parallel between Lawrence’s vision, Orikuchi’s and it.

1.The Idea World/The Media World/The Phenomenal World
2.The Father/Cosmos, Gods(,The Holy Spirit)/The Phenomenal World or Nature
3.Musubino-kami(God of Spirit)/Gods of Creation/Nature

They are threefold or three-layered. We can think there is a correlation between them, or these partitions are equivalent to each other. So, since a theory of discrete difference asserts that The Idea World consists of plural discrete difference, The Father and Musubino-kami(God of Spirit) should be plural. We told our hypothesis above that Lawrence’s vision is a new polytheism. A theory of discrete difference logically comes to prove the hypothesis.
Let us consider concretely. In The Escaped Cock we clearly find the idea of singularity and difference.

"For nothing is so marvellous as to be alone in the phenomenal world, which is so raging, and yet apart. And I have not seen it, I was too much blinded by my confusion within it. Now I will wander among the stirring of the phenomenal world, for it is the stirring of all things among themselves which leaves me purely alone."
(p. 571)

"Strange is the phenomenal world, dirty and clean together! And I am the same. Yet I am apart! And life bubbles variously. ・・・・now I am risen in my own aloneness, and inherit the earth, since I lay no claim on it. And I am alone in the seethe of all the things; first and foremost, for ever, I shall be alone. ・・・・And perhaps one evening I shall meet a woman who can lure my body, yet leave me my aloneness." (p.572)

"And as he(the man who had died) watched her(the priestess of Isis), he saw her soul in its aloneness, and its female difference. He said to himself: How different she is from me, how strangely different! She is afraid of me, and my male difference. ・・・How alive she is, with a life so different from mine! How beautiful, with a soft, strange courage of life, so different from my courage of death! ・・・”
(p.592)
(The underlines are my emphasis.)
The Complete Short Novels, Penguin Books, 1982.

“To be alone in the phenomenal world, which is so raging, and yet apart” etc. can mean that the man who died decided to live a singular and discretely different life. So we have here examples of singularity and discrete difference in the phenomenal world, while there exists the dimension of the Father. Though we can’t afford to explain fully in this short paper a theory of discrete difference, the theory asserts singularity or discrete difference in the Phenomenal World corresponds to singularity or discrete difference in the Idea World. Therefore we can prove that the dimension of the Father in The Escaped Cock contains plurality of discrete difference.
The same thing applies to the Orikuchi’s text. The heroine, Iratsume is a noble virgin who is to be a maiden in the service of a shrine, singularly different from common or mean people in the secular world. She is singularity and discrete difference. Her religious and sensual vision of the man who resurrected means a transcending dimension, because it is related to Amitabha Tathagata and Buddhist Pure land, which is considered to correspond to Orikuchi’s idea of Musubino-kami or God of Sprit at once.

“The Figure I[Iratsume, the heroine] vividly saw above shining clouds at sunsets on the days of spring and autumn equinoxes. I don’t believe he is a man of Yamato(Japan’s old appellation). I wonder whether there will be such one among men of this country I have not known yet. His bared shoulder upon which a golden wig and golden hair are richly hanging is light and fair. A full face with a prominent nose and noble eyebrows. Lowering his eyes, raising his right hand around his breasts, he was hanging his left hand below the armpit, showing his full palm, …. Alas, his scarlet lips above clouds and his visage seeming to smile fragrantly.”
(The Book of the Dead, Chuokoron-Shinsha. INC. 1999, pp.34~35. My tentative translation.)

“The rich figure with skin, shoulders, armpits and breasts has appeared above the pine tree field of the mountain ridge. But only the face she had been yearning after was dim.
‘Please make your figure appear a little clearly.’
……………………………
Calmly and calmly clouds were descending. …… Where clouds were swaying just over the sand of the garden [of Manhozo-in Temple], you saw quite distinctly the figure of the noble person with his half body vividly appearing. His face with a fragrant smile turned directly to Iratsume[the heroine] for the first time. His lowered eyes half closed opened freshly as if he recognized her at this time. His lightly closed lips looked softened as if they were saying something to this woman.
Iratsume thought her eyes began to lower because of his nobleness. But she didn’t turn her eyes away, so intent on it that she might not miss this moment.
The ode that she had thought would praise a noble man spurted out from her heart again.
I devote myself to Amitabha. How sublime Amitabha!
At the instant the light became dim. The clouds she saw directly and the figure of the noble man above the clouds were getting dimmer and dimmer and rising higher and higher, and still higher”(ibid. pp. 138~140. The underlines are my emphasis.)

Therefore also in The Book of The Dead, we can assert the dimension of the heroine’s vision that should be Musubino-kami or God of Spirit contains plurality of discrete difference.
After all, we have proved our hypothesis of new polytheism, which can also be called new pluralism, because it maintains the dimension of the Idea or Ideal World. We can call the system of this thought immanent-transcendental.

W. Conclusion
Both Lawrence and Orikuchi present a vision and a possibility of a new universal religion, which is, in a sense, a fusion of polytheism and monotheism. But from the viewpoint of a theory of discrete difference, their new religions are post-polytheism and post-monotheism and can be called new polytheism or super-polytheism. The point is that Lawrence’s ‘Father’ and Orikuchi’s ‘Musubino-kami’ or God of Spirit are, as it were, deconstructed by a theory of discrete difference and become plural. ‘Father’ and ‘Musubino-kami’can be thought as ‘univocity or univocality of Being’ where plural discrete difference coexist or consist, which turns out that original plural‘gods’coexist or consist, not the only one but plural ones, i.e. discretely different ‘gods’.(1)


notes:
1) In Apocalypse, Fragment T, Lawrence tells that God of the Old Testament is polytheistic.
“Now the Bible, we know well, is a great religious book. It is full of God. But not, we find at last, to our unspeakable relief, not the chapel God of the grocery-store keepers. The Jews did a wonderful thing when they focused the whole religious feeling of man upon One God. But that does not prevent their Bible from being full of all the gods. It is this discovery which a man can make in his maturity, to his unspeakable relief.
The Bible is full of all the gods. Nay, even, the Jahveh of the Old Testament is all the gods, except the dying and redeeming gods. But surely the Jehovah of Genesis and Numbers, Samuel, Psalms, Isaiah, Ezekiel, surely he is all the gods in turn, Dionysic, Apollo-like, strange like Ra, and grim like Baal or Bel. You can’t make an idol to Jehovah because he has the qualities of all the ancient gods in turn, Ouranos or Kronos or Saturn, even the old Osiris, or the mysterious gods of the first Sumerians. He is One because he is all of them, not because he is different from any of them. He does not sit absolute and apart, while all the other gods topple, mere fallen into idols. He is himself all the gods and all the idols, savage and fertile, and even he is all the unknown gods that are yet to come.
…………………………
But now, having really read the Bible as a book, not as a one-sided pronouncement, I realize the very truth of the Bible: If this God exists, One and Eternal, then all the other gods exist too. For all the gods are only “sides” of the One God.”(p. 156)
As for Orikuchi, his thinking was wavering between monotheism and polytheism.


A Bibliography

Works by D. H. Lawrence
The Escaped Cock. in D. H. Lawrence The Complete Short Novels. Eds. Keith Sagar and
Melissa Partridge. Penguin Books. 1990
The Escaped Cock. Ed. Gerald M. Lacy. Black Sparrow Press. 1973.
“The Flying-Fish.” The St. Mawr and Other Stories. Cambridge University Press.
1988. 205-225.
“Resurrection”. Reflections on the Death of a Porcupine and Other Essays.
Ed. Michael Herbert. Cambridge University Press. 1988. 231-235.
“The Risen Lord.” Late Essays and Articles. ED. James T. Boulton.
Cambridge University Press. 2004. 265-273.
“The Risen Lord.” D. H. Lawrence The Complete Poems. Eds. Vivian De Sola Pinto and
Warren Roberts. Penguin Books. 1993. 459-461.
“Resurrection of the Flesh.” ibid. 737-738.
“Resurrection.”ibid. 743-746.
Apocalypse and the Writings on Revelation. Ed. Mara Kalnins. Cambridge University
Press. 1980
The Letters of D. H. Lawrence 2 1913-16. Cambridge University Press, 1981. 248-49.


Works about D. H. Lawrence

Ceramella, Nick. “Lorenzo in Search of a New Religion.” Etudes Lawrenciennes 21:
D. H. Lawrence After Strange Gods T. Service Publidix Universite Paris-X Nanterre.
2000. 105-129.
Ferreira, Maria Aline. “ ‘Glad Wombs’ and ‘Friendly Tombs’: Reembodiments in
D. H. Lawrence’s Late Works.” Writing the Body in D. H. Lawrence: Essays on
Language,Representation, and Sexualty. Ed. Paul Poplawski. Greenwood Press 2001.
163-175
Harris, H. Janice. “The Many Faces of Lazarus: The Man Who Died and Its Context.”
D. H. Lawrence: Critical Assesments vol.V. Eds. David Ellis and Ornella De
Zordo. Helm Information. 1992. 356-370.
Hyde, Virginia. The Risen Adam: D. H. Lawrence’s Revisionist Typology.
The Pennsylvania State University Press. 1992
Lacy, Gerald M. “T. Introduction: Lawrence and the Resurrection Theme” and
“ U. Chronology: Influences and Works.” The Escaped Cock. Ed. Gerald M. Lacy.
Black Sparrow Press. 1973. 121-141.
Marcus, Philip L. “Lawrence, Yeats, and ‘the Resurrection of the Body’.”
D. H. Lawrence: A Centenary Consideration. Eds. Peter Balbert and Philip L.
Marcus. Cornell University Press. 1985. 210-235.
Troy, Mark. “…a Wild Bit of Egyptology: Isis and The Escaped Cock of D. H. Lawrence.”
D. H. Lawrence: Critical Assesments vol.V. Eds. David Ellis and Ornella De
Zordo. Helm Information. 1992. 371-383.
Wright, “The Risen Lord: The Escaped Cock, Lady Chatterley’s Lover and the Paintings.”
T. R. D. H. Lawrence and the Bible. Cambridge University Press. 2000. 214-227.

Works by Shinobu Orikuchi
The Book of the Dead and Shintokumaru. Chuokoron-Shinsha, Inc(Tokyo). 1999.
The First Draft・The Book of the Dead. Ed. Reiji Ando. Kokusho-Kankokai, Inc(Tokyo). 2004.
Orikuchi Shinobu Complete Works vol. 20: Shinto Religion Volume. Ed. The Ancient Institute
in Memory of Doctor Orikuchi. Chuokoron-sha, Inc(Tokyo). 1976.

Works about Shinobu Orikuchi
Ando Reiji. The Struggle of Gods: A Study on Shinobu Orikuchi. Kodan-sha(Tokyo). 2004.
Ando Reiji. “Mandala of Light.” The First Draft・The Book of the Dead. Kokusho-Kankokai,
Inc(Tokyo). 2004.

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2005年06月14日

メディオソフィオロジーへ向けて:自我欲望と差異メディア

人間において、メディア界の動性・ダイナミクスを表現しないと、メディア界の力が、盲目的に衝動化するのではないか。自我は、メディア界を基盤にしているが、メディア界への反動性をもって、メディア界を排出・隠蔽している。いわば、メディア界の封印ないし結界があるのだ。しかし、この封印・結界は、絶対ではない。メディア界が無意識になっているのである。つまり、メディア界と不連続ではないのである。連続的に排出・隠蔽しているのである。すなわち、自我とメディア界は連続の関係である。しかし、自我はメディア界に無意識なので、それを認識していない。この連続関係であるが、どのような「構造」であろうか。メディア界は、差異の不連続性と疑似連続性の境界的領域である。ゆらぎの領域である。つまり、常に不連続性への力がここには存している。不連続的な極性力と言ってもいいだろう。あるいは、単に極性力と言ってもいいだろう。自我とは、この極性力、ゆらぎを排出・隠蔽する連続的知覚・意識である。連続・同一性によって、メディア界を排出・隠蔽するのである。(ラカンは、ここに父の名、原シニフィアンを見ているだろう。これが、連続・同一性=言語・象徴のいわば芯と見ている。)ここで、メディア・ロゴスないしメディオロゴスを想起しないといけない。メディア・ロゴスの近似値ないし極限値として、言語が発生するだろう。つまり、メディア・ロゴス自体は、生成変化するものであり、その連続・同一性・微分として言語が発生するだろう。この連続的言語が、メディア界を排出・隠蔽するのである。これは、現象界の記号である。現象界という連続性の世界に対応・適応した記号である。そう、連続性とはいわば残像である。メディア界ないしメディア・ロゴスの残像として生起するのだ。これは、必然的に生起するものだ。文法でいえば、完了形である。⇒である。フッサールで言えば、志向性である。ドゥルーズで言えば、差異である。この残像が連続・同一性・微分としての現象界における言語を生起するのである。これは、目眩し(めくらまし)と言ってもいい。この連続・同一・微分という残像・現象に囚われた個体が自我である。これは、当然、メディア界に盲目である。必然的である。メディア界の差異を見ないで、残像の連続性を見ているからである。(ベルクソンはこの差異を連続化してしまっている。これをドゥルーズは引き継いでしまったのである。)そうならば、この残像の連続・同一・微分に固定することが自我の確立であり、その固定が、メディア界を排出・隠蔽するのである。この固定する力とは何かである。しかし、この固定力は、絶対ではない。自我とメディア界はつながっているからだ。この固定する力とは、欲望ではないのか。残像への固定とは、現象界への欲望である。飢えや餓え、渇望、飢渇があるだろう。欲望が固定力なのだろう。そして、固定を否定するメディア界の力、極性力を排出・隠蔽するのである。個体的欲望、いわばエゴイズム(語義的にはエゴティズムであるが、慣用に従う)である。それが、連続性を固定するのである。だから、メディア界自体のゆらぎは存しているのであるが、それを欲望によって排除しようとするのである。だから、メディア界の力に対しては、攻撃的になるのである。これが、自我の真相である。そう、自我の発生には、飢えがある。やはり、砂漠と関係するだろう。生存条件に厳しい砂漠である。激しい飢え・飢渇がある。これが、一神教を生むだろう。酷烈な飢え・飢渇・渇望があるのだ。個体維持への苛烈な渇望があるのだ。これが自我・エゴイズムを生むのだ。そして、これが、父権制である。戦争主義である。ホッブズ主義である。この自我欲望のあり方を断ち切らないといけない。これが、世界を狂気にしているのだ。仏教は深い。新神仏習合が必要だろう。とまれ、この自我欲望と資本主義が結びついているのだ(近代自我的資本主義)。ポスト自我欲望資本主義、ポスト近代資本主義、差異メディア資本主義とならなくてはならない。新仏教的資本主義と言えるかもしれない。あるいは、新神仏的資本主義である。大乗仏教の新生が必要である。あるいは、多神教の新生である。メディア界の新生が必要である。砂漠から森林へ。都市の森林化が必要である。ポスト自我として、森林的個の誕生である。あるいは、海洋的個、地球生命的個。それは、メディア界的個である。メディア界的資本主義へ。差異メディア資本主義へ。
 とまれ、なぜ、近代的資本主義において、「魂」や「仁義」がなくなるのか了解できる。自我欲望によって、メディア界が封鎖・閉塞されるからだ。とまれ、メディア界の知、英知が必要である。メディア界的科学が必要である。メディア界的知恵が必要である。メディア・ロゴス・ソフィアである。メディア・ロゴス・ソフィオロジーである。メディオロゴスソフィオロジーである。あるいは、メディオ・ソフィオロジーである。メディア叡智学である。簡略化して、メディソフィオロジーである。

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2005年06月13日

メディア・ロゴス又はメディオロゴス論

 メディア・ロゴス(メディオロゴス又は短縮して、メディオ)とは、通常の言語ではない。そう、ロゴスと言語の違いを明確にしないといけない。ヨハネの福音書は、「はじめに、ロゴスありき」であり、「はじめに、言葉ありき」ではないのだ。思うに、差異・粒子のもつ「言葉」・波動ではないか。差異の「言葉」が、ロゴス、メディア・ロゴス、メディオロゴス、メディオではないか。差異の「力」である。差異の「強度」である。差異の波動・「音波」である。差異波動、差異波である。これが、メディオロゴスであろう。無数のメディオロゴスがある。おそらく、言霊やエクリチュールは、これに関係する。このメディオロゴスを、現象化したものが、音声言語や文字言語であろう。メディオロゴスは、多数・複数・無数のものだろう。そして、これが、また、プラトンのイデアの一つだろう。そして、アリストテレスのエネルゲイア・形相である。そして、フッサールの志向性であろう。ドゥルーズの差異である。また、ハイデガーの存在であろう。東洋の「気」であろう。言語の原完了形であろう。デリダのエクリチュールだろう。また、古代キリスト教で言われた種子的ロゴスだろう。また、聖霊だろう。ついでに言えば、言語学は、現象化された言語を一般に対象にしていて、メディア界の「言語」をほとんど看過している。折口の言語論は、メディア・ロゴスを問題にしているのだ。ヨハネの福音書のロゴスも、メディア・ロゴス、メディオロゴスと見るべきだろう。すると、当然、ヘラクレイトスのロゴスもそうである。ここでは、ロゴス=イデアである。空海の言語論も、メディア・ロゴス、メディオロゴスを対象としているだろう(五大の響きあり)。文学とりわけ詩歌は、メディオロゴスを表現するものだろう。メディオロゴスとしての森羅万象界があるだろう。これが、また、八百万の神々の世界、多神教の世界である。あるいは、アニミズムの世界である。そして、また、シャーマニズムの世界である。魂とは、メディオロゴスのことだろう。ブレイクの詩的精霊the Poetic Geniusも、メディオロゴスのことだろう。メディオロゴスが「憑依」するのだろう。物の怪も、メディロゴスであろう。霊やスピリットもメディオロゴスだろう。(死者の霊、幽霊、亡霊とは、メディオロゴスの残像だと思う。)そう、メディオロゴスが万象を形成しているのだ。クラドニの図形である。そして、メディオロゴスの先に、真のイデア界があるのである。奥の院である。メディア界は、本殿だろう。
 とまれ、これまでの哲学、思想は、メディオロゴスに留まっていて、それを土台にしているので、多元論=一元論となったのである。つまり、多元性を創出する高位の次元に一元論を置いてしまうのである。一神教化である。この一の意識は、メディア界、メディア軸の「強度」、すなわち、連続志向強度に起因するだろう。そう、意識に置いて、メディオロゴス、メディア界は、一と意識されてしまうのである。連続化されるのである。メディオロゴスの根源は、不連続的差異論から、多数の差異イデアにしないといけないのである。上記のメディオロゴス(たち)は、不連続的差異化しないといけないである。ある意味で、ヒューム/ニーチェ化である(彼らの天才性は光っている)。ちなみに、安藤氏の解釈する折口の天皇論であるが、それも、不連続的差異化しないといけない。危険である。全体主義化する。そう、ある意味で、大乗仏教化することである。折口自身、神道に大乗仏教を重ねているのである。だから、新神道論とは、新神仏論であろう。産霊神を空(くう)とすべきなのである。あるいは、阿弥陀如来である。とまれ、天皇とは、脱構築されて、メディア・ロゴス、メディオロゴスを表現する人となるだろう。もはや天ではなくて、天地である。陰陽である。玄牝、女神である。
 後で、もう少し、深化させたい。

3p.s. メディオロゴスは、量子であるが、また、相対的時空性だろう。いわば、時空子だろう。量子と時空子は一致するだろう。光とは、メディオロゴスである。

4p.s. では、メディオロゴスと資本主義はどういう関係をもつか。情報をメディオロゴスへと発展するならば、情報資本主義は、メディオロゴス資本主義となる。メディオ資本主義となる。それは、正に、創造的資本主義である。差異創造的資本主義である。メディオ創造資本主義である。メディオ・クリエーション資本主義である。


5p.s. 西田幾多郎の哲学とメディア界的な全体主義

西田哲学は、メディア界で閉塞しているように思う。ライプニッツを引き寄せてしまったのである。「一と多、全と個との矛盾的自己同一」とは。メディア界的発想である。でも、メディア界に忠実である。西田哲学は、現象学から発しているが、後一歩突破できなかったと思う。イデア界へと突破できなかったようである。メディア界を不連続的差異化することができなかったのである。
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2005年06月11日

折口神道神学と不連続的差異論:超越神と内在神の統一

安藤礼二氏の『神々の闘争 折口信夫論』の「第五章 内在と超越の一神教」は、実に刺激適である。折口の神道論の先駆者として、平田篤胤をあげている。平田篤胤はキリスト教の影響を受けて、古事記の造化の三神を、「主宰神」としての天御中主神、天地創造する神として産霊神を考えていたということである。折口は、この造化の三神を一つの産霊神にしたということである。ここで図化すると、

篤胤の神道
1.主宰神:天御中主神/2.造化神:産霊神/3.万象

折口の神道
1.産霊神/2.神々(造化神)/3.造化

となるだろう。
 
 最後に、安藤氏は、折口の神道教は、イスラム教とスピノザ哲学との矛盾統一するようなものだと述べている。引用しよう。
  
 『折口は「産霊」によって、一方においてこのような「最終・至高」の一神教イスラームの絶対帰依を要求する超越的な創造神「アッラーフ」と重なり合う概念を提出し、またもう一方において伝統的な「神道」の立場から、そしてシャーマニズムの根源に見出されたマナの概念に基づいて、この同じ「産霊」を、万物に内在し万物を生成させる「神即自然」でもある、きわめてスピノザ的な内在適創造神としてもとらえている。これは非常に緊張感に満ちたダイナミックを引き起こす。なぜなら、この世界から隔絶したイスラームの「超越神」は、世界に偏在しその根本原因となるスピノザ的「内在神」とは鋭く対立する部分があるからである。』p.231

安藤氏は、イスラム教とスピノザ哲学の対蹠的両面をもつものとして、折口神学を説明している。しかし、不連続的差異論の見地からは、内在性=超越性が理論化されているので、実に、両者の対立は、統一化されるのである。超越神=内在神である。だから、折口神道神学は、アジアの宗教を統一していると言えるのである。アフロ・ユーラシアの宗教の統一とも言えると思う。思うに、D.H.ロレンスが考えた聖霊的宇宙宗教と通じるものがある。それは、ポスト・キリスト教である。そして、この全地球宗教と言うべき宗教の神学の構成を、不連続的差異論は整合的に提示する。不連続的差異論が、新しい地球宗教を説明保証する。




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