2006年02月21日

神道論:太陽乙女神アマテラスと天皇の関係:不連続的差異論の視点から

イデア界=太陽乙女神アマテラスとしよう。そして、それが、1/4回転して、イザナミ/イザナギの雌雄的ペアの神々が生まれる。イシス/オシリスの神話と同じである。だから、天皇はイザナギであり、オシリスに当たる。イシス/オシリスの神話から見ると、イシスは殺害されたオシリスのばらばらの断片を集めて、復活させるのである。死から生への原理、復活・不死鳥の原理である。このイシスは、実は、イデア界に当たるのではないだろうか。生成消滅がメディア界の原理であって、復活の原理ではない。イシス/オシリス神話というものは、やはり、イデア界とメディア界を混同しているように思う。だから、先に述べたように、ハトホルをイデア界の女神とすべきように思うのである。だから、ハトホル/オシリスの神話である。
 では、極性のイシス/オシリス神話とは、何を意味するのか。また、このメディア界の神話と天皇はどう関係するのか。今、ふと思ったのであるが、太陽乙女神アマテラスとイザナミ/イザナギの双対神話とは、異質なものではないか、あるいは、別の時代や社会のものではないかとといういことである。沖縄の母権的な宗教が、太陽乙女神アマテラス宗教を伝えているのではないだろうか。ヤポネシア宗教である(ここで、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を想起する。)。しかし、男性神が出てくる、イザナミ/イザナギは別の宗教体系ではないのか。ヒミコ(日巫女、日見娘、日巳娘)は、太陽乙女神アマテラスに仕える巫女ではないのか。ならば、アマテラスの巫女としてのヒミコ(日巫女)である。これは、女性・母性・乙女(処女)の宗教的権威を想定させるのである。ここには、男性神は存しないと思う。純粋母権・乙女権的宗教である。
 そうならば、天皇とは何かということになる。おそらく、本来、アマテラスの《力》が付着するのは、巫女、女性祭司である。だから、前天皇とは女性であるはずである。では、どうして、巫女に相当するものが、女性から天皇に変わったのであろうか。日巫女から日御子(ひのみこ)への変化の問題である。これは複雑微妙な問題である。やはり、問題はイザナミ/イザナギ(イシス/オシリス)神話の意味にあると思う。これが、仲介となり、一種父権的な天皇制が生まれたと思うのである。【これは、また、『源氏物語』にも関係する問題である(光源氏が日御子に相当するだろう)。】(p.s. 後述したが、ここでの私の見解は間違っているので訂正する。父権的天皇制は、平安時代には生じていない。父権的天皇制の発想は、江戸時代の国学にあると考えられる。)
 今想像しているのは、ジョセフ・キャンベルの神話学である。そこでは、神話を4種類に分類している。

1)純粋母権・乙女神神話
2)イシス/オシリス型雌雄神話(夫に孕まされた女神から世界が生まれる)
3)父権神話(男神によって、女神の身体から世界が創られる)
4)純粋父権神話(男神単独で世界を創造する)

日本神話は、1と2の結合したものである。ただ、スサノオの八岐大蛇殺戮に3の要素がいくぶん、うかがえるようだが。問題は、2の神話の意味である。狩猟採集文化は、1であろう。農耕文化であるが、それが2ではないだろうか。思うに、前古代日本は、《縄文》文化(東アジア照葉樹林文化と言うべきか)において、1の宗教・神話をもっていただろうし、また、農耕文化性もあるから、2の要素もあったのであろう。すると、1と2の混淆した文化が、前古代日本文化ではなかったか。そして、そこへ、父権的文化が入ってくる。これが、天皇宗教文化をもたらしたのであろう。
 問題は、1と2は、母権神話であるが、日本国が、父権的な国になったことである。もっとも、天皇制は父権制なのであるのかという問題がある。天皇制は母権的だと思うのである。日本国が父権的になったのは、明治においてではないのか。封建制は確かに男女ヒエラルキーがあると思うが、しかし、そこには、母権的宗教が生きていたのではないか。排仏毀釈・神仏分離令は、この母権的宗教を解体して、父権的国家形成の基礎・基盤となったのではないか。すると、やはり、国学の問題がここにある。平田篤胤は、キリスト教の影響を受けて、神道を一神教化したと言うことである。思うに、これによって、神道が父権化したのではないだろうか。そして、これがイデオロギーとなり、明治維新があるのではないか。本居宣長が胡散臭い。大和心と漢心と分離するのがイデオロギーである。もともと、母権的宗教を核として、大陸の文化を吸収したのであるから、純粋な漢心はないはずである。これは、本居宣長のフィクションであると思う。この二項対立的発想は近代的であり、父権的である。やはり、国学に父権化の起源の一つがあるのではないだろうか。国学自体が「漢心」であろう。これは、母権的宗教の衰退があるのであろう。つまり、イデア/メディア的精神の衰退であり、メディア/現象的精神(父権的精神)の強化を意味するのだろう。これが、国学の意味ではないだろうか。この母権的精神の衰退と父権的精神の勃興が、江戸時代に生起して、明治維新の原動力となったのであろう。そして、明治天皇制は、父権制である。根源の母権的精神の衰退があるのである。ここで、折口が日本人は宗教性を久しく失っていると述べていたことを想起するのである。
 思うに、明治維新前後は、古い母権的精神と新しい父権的精神の混淆状態であったように思われるのである。その「カオスモス」、メディア的エネルギーが、明治維新のエネルギーとなったのであろう。そして、極端化して、太平洋戦争となり、敗戦し、米国文明化した。しかし、問題は、古い母権的エネルギーを喪失して、父権的精神を残していることである。これが、現代、靖国問題となっているのだろう。結局、飛躍するが、日本の自立・復活は、母権的エネルギーを再生することである。これは、神道復活であろう。イデア論としての神道・多神教の復活であろう。そう、平明に言えば、日本の女性が、太陽乙女神アマテラスの根源的力を取り戻すことが重要である。新アマテラス、新ヒミコとしての女性の復活である。それは、また、新天皇制ということだろう。新太陽乙女神アマテラス/新天皇をもつ新天皇制である。
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2006年02月11日

西洋文明の終焉と新地球・ガイア文明の創造へ向けて:不連続的差異論という文理統一理論の創造

藤原正彦氏は、『国家の品格』(新潮選書)で、論理と情緒を対立させているが、私見では、知魂ないし知心魂ないし知心魂身体があり、心を中心に、知性の極と魂性の極がある。日常生活的には、知性ないし知心性を基軸にしている。つまり、知的合理性である。しかしながら、人間存在の基層・基盤・根源としては、魂性ないし心魂性があるのである。ビジネスは、知性ないし知心性をベースにするだろう。しかし、個としては、魂性ないし心魂性をベースにしないといけない。さらに、社会即ち、民主主義や「自由主義」(私としては、両者は、差異主義で括れる)の基盤は、心魂性の理念(イデア)化にあると思う。つまり、《メディア》の《イデア》化である。 
 とまれ、最初の問題に戻ると、藤原氏の言う「論理」とは、知性・知心性であり、「情緒」とは、魂性・心魂性、さらには、それの理念化・イデア化である。そして、「心」の両極的相補性として、それらを捉えることができるだろう。つまり、《メディア》としての「心」の両極相補性として包摂できるだろう。
 ところで、より根本的に考えてみると、「ダークエネルギー」である《メディア》が「心」の根源である。ここにおいては、《光》と《闇》が相補している。知性と魂性の相補性とは、本来、ここから発現しているだろう。しかし、知魂性と身体との関係はどうなるのだろうか。この問題は複雑である。基本から考えよう。E=mc^2(Eはエネルギー、mは質量、cは光速である)。《光》は、+と−の解をもつ。いわば、《メディア》解をもつ。しかし、現象化とは、+の発現である。+の《光》の発現としての現象界である。そして、+である現象界は、+−の《メディア》を1/4回転した領域である超越論界としてのメディア界に排斥・隠蔽しているのである。だから、知性は、+《光》であり、魂性は−《光》と言えるだろう。では、《質量》である身体はどうなのだろうか。これは+の解しかない。これをどう考えるべきか。作業仮説として、《質量》とは、ゼロ度連結・連続化における不連続的差異のいわば《濃度》ないし《密度》ではないか。ならば、エネルギーとは、差異の《濃度》(《密度》)とゼロ度化した《境界》の《力》(デュナミス)の二乗の積である。即ち、

エネルギー=差異濃度(密度)・ゼロ度境界力^2

である。
 ここで、先の心身の問題に返ると、《心》においては、相補性があるが、《身体》においては、それはないことになる。しかしながら、心身の相補性があると当然考えられるから、問題は単純ではない。簡単に言うと、波動と粒子の相補性とは、心と身体の相補性と換言できるのである。問題は、知性と魂性との相補性の意味である。ここでも直観で言おう。魂性とは実は、心身性である。心性と身体性との結節領域である。ヨガのチャクラに当たる領域である。だから、知性と魂性の相補性という考えは、不正確である。知性と身体との相補性があると言うべきである。そして、魂性は相補性の領域であるということである。また、《心》であるが、それは、魂性と知性との中間領域であるということになるだろう。

《身体》/《魂性》/【⇔《心》⇔/】《知性》

となろう。ここで、スピノザの心身平行論を考えると、その「心」は単に《知性》だけではなくて、《魂性》と《知性》との中間態である《心》であると考えられよう。
 では、+−の《光》とは何か。また、《光》とは何かである。単純に考えると、+《光》は知性である。では、−《光》とは何か。もはや、《魂》ではない。当然、《身体》でもない。それは、反世界の知性ではないか。そう、思うに、ダークマターの世界を形成しているのはないか。反現象界の知性である。ダークマター現象界の知性である。D.H.ロレンスが言った「暗い神」dark Godとは、この−《光》に相当するように思う。あるいは、《メディア》であるダークエネルギーであろう。
 ところで、そう考えると、心身相補性は2つの意味をもつのではないだろうか。+《光》の知性だけではなく、−《光》の知性があるから、二重構成となるだろう。つまり、2つの《魂》が存在するということだろう。つまり、2つの《知性》があり、2つの《魂》があるということだろう。この二重構成の知性・魂性をもつ《メディア》があると言えよう。ここで、私は《夢》の世界を想起するのである。あるいは、ファンタジーや想像力である。あるいは、ニーチェのディオニュソスのことである。そう、ルイス・キャロルの世界を想起するのがいいだろう。『鏡の国』の世界と反世界の二重構造を考えてみるといいだろう。あるいは、《ナンセンス》である。裏返しの世界、正反対・逆の世界がある。反転の世界がある。これと−《光》の世界が関係すると直感されるのである。−《光》とは、x軸で言えば、原点より左側の領域であるから、ルイス・キャロルの反世界は正に、それに相当すると考えていいだろう。メディア界であるy軸を鏡とすれば、y軸=鏡を通過して、−《光》・反世界に達することとなる。だから、−《光》は超越論的次元の彼岸にあり、+《光》の現象界からは完全に不可視、無、非存在である。おそらく、これがダークマターと関係するだろう。つまり、−《光》の反現象界がダークマターの世界であると考えられよう。
 ならば、問題は、+《光》・現象界と−《光》・反現象界は、対称的であるのに、どうして、現代宇宙論の分析にあるように、圧倒的にダークマターの方が通常の物質よりも多量なのかという問題がある。直感では、それは、《メディア》を介しているからだと思う。つまり、ダークエネルギーと考えられる《メディア》を介して、ダークマターを計算しているからではないだろうか。+《光》・現象界は、《メディア》界からの1/4回転で発生するのである。しかしながら、《メディア》界全体が、現象界として顕現・発現・顕在・明在化しているのではない。未だ、未発の《メディア》が存しているのである。ここから見ると、現象界に対して、《メディア》界は、エネルギーとしては、一種デュナミス(「バッテリー」)のようなものを内蔵・内包しているのである。現象界を創造する以上のエネルギーが蓄えられているのである。だから、当然、−《光》も現象界の+《光》よりも多大・過大に存するのであり、−《光》・反現象界であるダークマターは、現象界の《物質》よりもはるかに多量に存すると考えられるのである。しかしながら、ダークマターの考えは、仮定に過ぎないだろう。虚像である。ダークエネルギーである《メディア》の《レンズ》を介して、ダークマターという虚像を作っているに過ぎないだろう。ダークマターはシミュラクルである。それは、幻像である。ただ、ダークエネルギーである《メディア》が超越論的に存在していると考えなくてはならないだろう。
 さて、更に考えると、現象界を顕現させるよりはるかに過剰なエネルギー(=ダークエネルギー:作業仮説)をもつ《メディア》界とは何だろうか。私は、そこに、デュナミスという言葉を使用した。そう、これは、《イデア》界である。つまり、《メディア》界にある《イデア》界とは、《イデア》/《メディア》境界を意味すると考えられよう。未発のエネルギーとは、この境界エネルギーと見ていいだろう。思うに、結局、まだ、創造は終了していないのである。創造過程にあるのである。というか、永遠にイデア界の回転があると考えられるから、創造の永劫回帰があるということだろう。未発のエネルギーが永劫に発生するのである。そう、螺旋的に回帰する宇宙創造があるのだろう。ならば、ビッグバンとは一回ではないだろう。複数回あるはずである。ここで、マヤやアステカの神話やインドの神話が意味をもつのである。複数の世界・宇宙創造神話である。
 とまれ、より根本的に言うならば、どうして、イデア界が存在するのかということになるだろう。数学的構造をもつ理念界であるイデア界がどうして存在するのかである。なぜ、完全無ではなくて、差異が存するのか。「初めにロゴスありき、ロゴスは神とともにありき。そして、ロゴスは神であった。」プラトンは、善のイデアと言った。《イデア》界は善のイデアである。そう、思うに、《イデア》界は超光の《超電導》の元界である。《志向性》、《間主観性》の元界である。不連続的差異が無限速度の《志向性》=《間主観性》をもって共立・調和する大元界・大根源界と考えられる。《超光》の世界、《阿弥陀如来》=無量光の世界である。超叡智の世界である。ここでは、知即存在である。知即存在の《理念》の世界である。そう、初めに、叡智ありき、ソフィアありき。それは、数学的叡智である。数智である。マテーシス・ソフィアである。華厳宇宙に近い。そう、円周率・πの世界だろう。πソフィア、π叡智である。原時空間の数学的叡智が、初めにありきである。思惟/延長、時間/空間を包摂した数学的理念叡智であるイデア・ソフィアが初めにあるのだろう。この元叡智が、本来の《神》である。グノーシス主義で説く至高神である。そして、この至高神を、ユダヤ/キリスト教の『神』は、乗っ取ったのである。ユダヤ/キリスト教の超越神とは、本当は邪神・魔神である。それが、本当の《神》・至高神の王座・王位を簒奪したのである。グノーシス神話はその点では正確であると言えよう。創造神・デミウルゴス=ヤハウェとは、邪悪な神、悪魔なのである。ゾロアスター教で言えば、悪魔のアフリマンがユダヤ/キリスト教の『神』である。ユダヤ/キリスト教こそ、悪魔崇拝である。邪教である。【ここで、イスラム教について簡単に言及すると、それは、基本的には、イデア界の《神》を把握しているのである。ユダヤ/キリスト教とは、異質である。ヤハウェ崇拝ではない。ヤハウェとアッラーは別の神である。ヤハウェは悪魔である。アッラーは、本来、叡智神である。強く言えば、不連続的差異論の《神》である。ただ、人格神化しているだけである。】
 最後に、何故、数学的叡智が根源にあるのかという問に答えるならば、存在とは智であるからである。無知は存在しないのである。無知は無力、無能、無である。つまり、叡知即存在なのである。無知即不存在である。だから、何故、数学的叡知が根源にあるのかという問は悪い問なのである。初めに知即存在である数学的叡智があるということである。これが、思惟・知性を生み、また延長・存在を生むのである。存在より、数学的叡智の方が先んじているのである。叡智の後に、存在や知が発生するのである。「初めにロゴスありき、ロゴスは神とともにありき。そしてロゴスは神であった。」ロゴスは数学的叡智ということである。あるいは、数学・理念的叡智ということである。ピュタゴラス/プラトンは正鵠を射ていたのである。ユダヤ/キリスト教によって、世界は、退化したのである。
 一つ付け加えると、数学的イデア論(ピュタゴラス/プラトン哲学)の問題点は、《イデア》界と《メディア》界の分離が不明確であったことである。これによって、イデア論の皮相な理解が生まれたのである。不連続的差異論が、両者を明確に分化したのであり、これによってピュタゴラス/プラトン哲学は、完成したのである。これは、ポスト西洋文明、新ガイア文明の誕生を意味するだろう。ユダヤ/キリスト教は乗り越えられたのである。

参照: 2006年2月11日発行
『from 911/USAレポート』第237回
    「風刺画事件と静かなアメリカ」

http://ryumurakami.jmm.co.jp/recent.html
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2006年02月09日

不連続的差異論の《メディア》について

ODA ウォッチャーズ氏の《メディア》に関する理論化によって、不連続的差異論の新たな地平が開けたと考えられる。即ち、《メディア》が、文理統一の領域となったのである。例えば、文科系の「心」を、《メディア》と考えればいいし、同時に、理科系の量子も《メディア》と考えればいいのである。つまり、《メディア》が一方では、「心」になり、他方、量子となるのである。「物質」とは《メディア》の現象なのである。また、ここで、スピノザの心身平行論が、《メディア》論であることが判明するのである。思惟・「心」も《メディア》であり、延長・「身体」も《メディア》であり、両者、《メディア》を介して、平行していると言える。
 ここで、《メディア》の語源を見るのも意義深いだろう。mediumとは、霊媒、即ち、「霊」を媒介する存在である。結局、「霊」も《メディア》であると言えるだろう。なんらかの《メディア》が、霊媒に、伝導していると考えればいいのだろう。そう、連続的差異である多種多様な《メディア》が、シャーマニズムの正体ではないだろうか。アニミズムもこれで説明がつくだろう。多神教もこれで説明がつくだろう。
 因みに、一神教は、《メディア》が、同一性化するときに発生するものだろう。思うに、《メディア》の極性において、+極が強化された時が、一神教ではないだろうか。つまり、一神教とは、現象界の形成と関係しているのである。メディア界が1/4回転で捩れて、現象化するのである。この現象化において、メディア界が超越神となるのではないだろうか。旧約聖書において、ヤハウェが、偶像崇拝や自然宗教を禁ずるのは、この1/4回転による捩れを考えれば、当然ではないだろうか。何故ならば、それらは、《メディア》であるからである。現象化が《メディア》ないしメディア界を排斥・隠蔽するのであることと、超越神が、偶像崇拝や自然崇拝を排斥・隠蔽するのは同じことであると考えられる。そして、有名な「光あれ」は、正に、メディア界の1/4回転による《メディア》である「光」の+化であろう。このプラスの「光」・+「光」は、「背後」にマイナスの「光」・−「光」を排斥・隠蔽しているのである。「背後」とは、内在的超越性・超越論性の領域であるメディア界である。ならば、超越神とは、暗い神ではないだろうか。否、違うだろう。それは、「光あれ」と言語行為・発話した超越神は、やはり、「光」の神である。《メディア》の+の極性の「神」である。そして、その神は背後にいわば暗い神を排斥・隠蔽しているのである。D.H.ロレンスが説いた暗い神dark Godが、これであろう。つまり、−《メディア》、−「光」の「神」である。メディア界において、光の神と闇の神が相補性を成しているのであるが、前者が後者を排斥・隠蔽という二項対立の二元論が、一神教に生じているのである。これは、正に、揺らぎのない神である。超越的善悪二元論である。これは、きわめて危険な神である。殺戮的神である。暴力・戦争・権力の神である。父権制の神である。結局、現象化・一神教が、近代主義へと展開したのである。主客分離二元論とは、現象化・一神教化の帰結である。だから、ポスト近代主義とは、ポスト一神教、ポスト西洋文明となるのである。
 ポスト近代主義とは、《メディア》を解放したのである。当然、「神」・超越神の死である。問題は、《メディア》の解放の意味である。+と−、存在と非存在の両極的「存在」としての《メディア》があばかれたのである。いわゆる、ポスト構造主義、即ち、デリダの脱構築主義やドゥルーズ&ガタリのリゾーム論は、《メディア》論なのである。これらは何を意味するのか。これは、物理学者ボームの述べた暗在系や内蔵秩序論や、マイケル・ポランニーの暗黙知の次元に関係すると考えられる。ODA ウォッチャーズ氏が明らかにしたように、現象界のx軸と直交するy軸としてのメディア界の「存在」の発見である。そして、これは、現代宇宙論のダークエネルギーの領域と考えられるのである。また、ダークマターとは、マイナスの《メディア》、負の《メディア》として、捉えられるのかもしれないが、しかしながら、量の過大さから見ると、ダークエネルギー総体においてダークマターを見た方がいいのかもしれない。
 まとめると、《メディア》の発見とは、文理統一論的な内在的超越性、超越論性の暗在領域の発見であるということである。そして、ポスト一神教であり、新多神教を意味するだろう。新母権制・新ガイア・コスモスの時代を意味するだろう。
 とまれ、ここで、《イデア》のことを考えなくては、不十分である。《メディア》の発見とは、逆に、《メディア》による権力が発生したということである。《メディア》は《力》である。《エネルギー》である。《メディア》は、「心」である。人の心を乗っ取るのである。あるいは、《メディア》は反動化すると言ってもいい。《メディア》は危険である。極めて危険である。思うに、指輪物語の「指輪」は、《メディア》を指しているのではないだろうか。あるいは、聖杯伝説の「聖杯」も《メディア》を指しているのではないだろうか。あるいは、秘教・神秘学における「知識・グノーシス」も《メディア》であろう。あるいは、オカルト主義も《メディア》であろう(占いや西洋占星術は、《メディア》によって説明できるだろう。つまり、連続的差異の等分割法則が、それらになったと考えられるのである。《メディア》的合理性があると考えられるのである)。これらは、悪用されると大変ことになるので、本来、秘密にされてきたのである。「黒魔術」である。《メディア》の解放であるポスト近代主義・ポストモダンには、恐ろしい危険性があると言えよう。いわば、悪魔化するのである。近代主義も悪魔化であったが、ポストモダンの悪魔化は、人心の支配という点にある。洗脳・マインドコントロールである。ここで、オウム真理教、創価学会、パフォーマンス屋の小泉首相、ITメディアのホリエモン、等を想起していいだろう。これらは、ポストモダン現象なのである。ポストモダンの反動化現象なのである。ここにあるのは、《メディア》の現象化・反動化である(参照:大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論)。《メディア》が現象化するときに、捩れて、自我同一化するのである。つまり、個人は超越神になってしまうのである。麻原彰晃、池田大作、小泉首相、ホリエモン、他は超越神化したのである。いわば、現人神になったのである。救世主、イエス・キリストになったのである。あるいは、《メディア》が憑依したとも言えるのではないだろうか。(思うに、暴力団とは、やはり、《メディア》の現象化・反動化によるのではないだろうか。その暴力団のヒエラルキーを見ても、それが、宗教集団と似ていることがわかるだろう。一神教化があるのである。)
 ということで、《メディア》に対する《イデア》化が必要なのである。それは、不連続化である。《メディア》が現象化するときに発する一神教化・反動化をそれを回避することができるのである。つまり、《イデア》化とは、反現象化であり、理念化である。これによって、《メディア》は、不連続的差異的多元化されるのである。つまり、「多神教」化されるのである。新多神教化である。現象化という超越神・一神教化を「免疫」して、《イデア》化という不連続的差異的多元化・「多神教」化をするのである。個人は不連続的差異的個・特異性の個となり、新しい民主主義の地平が開けているのである。
 日本・ヤポネシア民族・文化・社会であるが、それは、衰退、衰弱したとは言え、多神教の心性を残存させている。そう、多神教的心性とは何か。それは、《メディア》を現象化させない心性である。日本人の場合、《メディア》が「心」となっているだろう。これはいわば、正に伝統的な、無意識的な心性であろう。この「心」の日本・ヤポネシア文化は、それを、理論・言語化していないのである。意識・認識・知性化していないのである。推測するに、古代日本、あるいは、前古代日本には、なんらかの《イデア》の文化があったのである。それが、時代とともに忘失されていったのである。しかし、いったん存在した《イデア》の文化は、日本人のいわば血や生活世界となったのだろう。そして、それの象徴が「心」であろう。これは、知的に科学的合理性にも向うし、魂的に宗教性にも向うのである。《イデア》的《メディア》である「心」は、知魂性をもっているのである。
 しかし、この伝統文化が、脱亜入欧、戦後アメリカ文化化で、ほとんど喪失されるに至ったのが現代・現在である。ポストモダン革命によって、いわば、《メディア》の禁制が解かれたのである。《メディア》の現象化・反動化ではなく、《イデア》化として、日本・ヤポネシア多神教の復活が意味をもってくるのである。思えば、不連続的差異論が日本で誕生したのは、このようなことと関係するだろう。即ち、日本・ヤポネシア的多神教=《イデア》的《メディア》文化・社会が、無意識のうちに、日本人の心性に存在しているのであり、それが、ポストモダン革命によって、開花したのである。

参照1:ODA ウォッチャーズ氏による《メディア》の哲学・数式化:

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=117221

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=117790

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=118255

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=119655

http://blog.kaisetsu.org/?eid=314624


参照2:大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論

http://blog.kaisetsu.org/?eid=291995

http://d.hatena.ne.jp/kaisetsu/20060113
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2006年01月25日

自由主義と不連続的差異論:能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新へ向けて

私が、差異というとき、これは、個の自由ということとほぼ同じことである。そう、不連続的差異論は、一種自由主義である。しかし、通常の自由主義あるいは新自由主義とは決定的に異なる点をもつ。それは、差異の共存・共立・共生をも志向するからである。個の自由が同時に、個と個との共存であることを志向するのである。ここが、決定的に異なる点だと思う。
 イギリスそしてアメリカの自由主義は、簡単に言えば、近代的自我主義であり、個人主義だと思う。では、不連続的差異論から見たら、それは、どのように分析できるだろうか。これは、意外に難しい問題である。自我とは何かという問題があるからである。 
 まず、近代的自我であり個人主義的である自我が近代西欧に誕生する。これは、二重である。近代主義的であり、個人主義的である。しかし、デカルト的な合理的な主体というよりは、特異性をもった自我であると思う。つまり、不連続的差異論から見ると、自由主義の自我とは、不連続的差異性を帯びていると思われるのである。問題は、この不連続的差異の性質である。これは、先に二つのポストモダン(言わば、暗黒ポストモダンと光明ポストモダン)に述べたことと関連がある。即ち、反感的か肯定的かの違いが関係すると考えられるのである。二つの不連続的差異が存するということである。反動・憎悪・利己主義的不連続的差異と能動・歓喜・共生的不連続的差異である。ここまで、言うと、自由主義の自我がどちらであるか、ほぼ明瞭である。これは、前者でしかありえない。ニーチェ的に言えば、ルサンチマン的不連続的差異である。(おそらく、ホリエモン氏や小泉氏や竹中氏がこれである。)これは、極めて、破壊的な個人主義である。アナキストのシュティルナーの唯一者とは、ほぼこれに近いのではないだろうか。
 ということで、自由主義と不連続的差異論の「自由主義」の違いがこれで判明したと言えよう。前者は、イデア界から発しているものの、反動となった、いわば、凶暴な個人主義である。それに対して、後者は、イデア界に能動的に回帰した、差異共生共創的な個人主義である。前者は戦争主義であり、後者は平和主義である。一元論と多元論、一神教と多神教の違いとも言えよう。憎悪的であるか、歓喜的であるか。父権的あるか、母権的であるか。天上的であるか、大地的であるか、等々である。
 日本人は、戦後、USAの半植民地となり、アメリカ化した。それは、自我が反動・憎悪・利己主義を帯びたということである。本来、多神教の日本文化(ヤポネシア文化と言おう)は、差異共存主義の文化である。しかし、自覚乏しく、欧米化されて、自己を喪失しているのである。今、日本の政治・経済は大きく揺らいでいる。カオス状態である。結局、新自由主義的ポストモダン路線は、問題が多いのがわかる。これは、強暴な路線であり、他者を排斥するものであり、社会は荒廃する。確かに、新自由主義の小さな政府という理念は、「社会主義」的資本主義に対する処方箋の意味があることは否定できない。しかし、これは、いわば、副作用が大き過ぎるのである。社会をずたずたにするだろう。勝者と敗者の二極化が徹底するだろう。当然である。そして、今や、ライブドアや耐震強度偽装等で、そのダークさが誰の目にも明らかになったのである。
 今年は、戦後日本社会の一番の転換点となるだろう。アメリカの中国重視・多極化の政策という新たな黒船が来航しているからである。平成維新の可能性があるのである。ここで、ヤポネシア本来の文化の復活と、不連続的差異論が説く能動・歓喜・共生的ポストモダンの創造が、蓋然的になってきているのである。ポスト新自由主義としての能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新のエネルゲイアが、ふつふつと滾ってきていると思うのである。
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2006年01月03日

日本新多神教へ向けて:日本の部族主義の思考構造について:いかに部族的盲目思考から脱するのか

脱亜入欧で、様々な欧米の思想を取り入れてきた日本ではあるが、一つ取り入れていないものがある。それは、個の思想である。近代主義を取り入れたが、デカルトの個の思想は取り入れていない。欧米の強さは、エゴイズムと同時に、この個の思想にあると私は考えている。後者が、前者の行き過ぎに対して、批判的機能を果たすのである。
 しかし、日本の場合、部族主義があるために、個の思想が排除されるのである。部族主義は、二元論であり、部族への同一性か、部族による他者差別かである。もっとも、日本のよさは、この部族主義をもたない、ほのぼのとして「庶民」の個が生きていることだろう。これは、日本多神教の末裔であろう。この点については、後で述べるとして、今や日本の未来にとっての害悪となっている部族主義を批判的検討しないといけない。
 日本の部族主義とは、一言で言えば、父権主義的部族主義である。これに西欧の近代主義が重なっているのである。つまり、近代主義的父権的部族主義、これが、日本社会の諸権力を構成しているのである。問題は、上述したように、ここでは、欧米文化の根底にある個の思想が欠落していることである。これが、いわば、日本の「権力」の致命的欠陥である。そのために、事象を分析的に知解できないし、また、個の思想のもつ内省・省察・自己考察性が欠落するのである。これは、はっきり言えば、愚である。盲点である。ここで、想像をたくましくすれば、日本が、太平洋戦争という大愚行を犯した精神的要因はここにあると思うし、バブルを生み出したのもこれであろうし、また、今問題の耐震強度偽装の問題にも、これがあると思われるのである。
 この近代的父権的部族思考から脱却しないと、日本は没落・滅亡するだろう。ここで、この思考の欠点を詳述しよう。実は、近代主義批判で、ほぼ済んでいるのであるが、ここで、確認しよう。
 近代主義思考とは、叡知の裏返しのような知である。ここでは、知覚は主に外界に向けられているのであり、自己内界は排斥されるのである。外界知覚が、意識の基盤となるのである。また、言語もそれへ向けられる。問題は、この主客二元論は、主観性に対して盲目で、客観性志向である点である。そして、主観性とは、自然的態度では、否定的なものである。つまり、受動的な感情・欲望によって作動しているのであり、簡単に言えば、反感によって作動しているのである。スピノザの『エチカ』から言えば、「悲しみ」の感情から発しているのである。この反感は、反動となるのであり、これによって、近代主義が形成されるのである。反感・反動的主客二元論である。D.H.ロレンスは、知性の基底には、憎悪があると言ったのは、この意味である。もっとも、知性は近代的知性である。
 結局、近代主義は、主観の反感・反動性に盲目であるのである。自己暴力性に盲目であるのである。他者に対して、攻撃的になるのである。そして、この自己盲目性が、いわば、狂気である。無知である。無明である。近代主義は、このように極めて欠陥のある思考である。
 ということで、この近代主義と父権的部族主義が結びついているのが、日本の権力・支配層である。 極めて危険であることがおわかりになるであろう。ここでは、父権的部族に属さないものを差別し、暴力的に排除する体制があるのである。これは、また、天皇制をイデオロギーとして、日本国家ナショナリズムを形成しているのである。(そして、これが、靖国神社と関係するのである。)
 この近代的父権部族主義は、欧米の個の思想を欠いている、一種全体主義である。これが、日本国民に、とりわけ、子供に破壊的な影響を与えるのである。学校問題、ニート・引きこもり・精神問題、幼児殺害等々の、社会問題の元凶はここにあると見ていいだろう。この日本の権力・支配の近代父権部族主義から脱しない限り、日本は、沈没するだろう。結局、日本の個の思想を肯定していかなくてはならないのである。
 日本の個の思想は、実は、日本多神教に本来潜んでいると思われるのである。森羅万象を肯定する日本多神教は、個的であり、同時に、多元的であると考えられるのである。つまり、日本的個の思想は、他者との共存・共生性を本来もっているのである。これは、日本文化・社会の本当の美点であると思われるのである。おそらく、イギリスにおけるケルト文化、北アメリカにおけるインディアン・「ネイティブ・アメリカン」の文化、イタリアにおけるエトルリア文化、ラテンアメリカにおけるインディオの文化、等に相当するものではないだろうか。日本の先住民文化が、日本多神教・庶民文化の基底・原基ではないのか。「縄文」(東アジア照葉樹林帯)・アイヌ・沖縄等々の文化につながる日本の根源・基層的文化が、無意識裡に、庶民層に、底流しているのではないのか。日本多神教文化が、近代父権部族主義の日本権力とは、異質なものとして存していると見なくてはならないだろう。(『古事記」の大国主は、日本的個の思想を体現している人物のように思える。)
 結局、これからの日本の針路とリンクして、日本人の個の思想を展開するには、この根源的な日本多神教(おそらく、東アジア、アジア、ユーラシア、アフリカ、オセアニア、南北アメリカの土着的多神教、そして、グローバルな多神教に通ずるだろう)を復活させなくてならないと考えられる。この日本多神教は、日本の大地・風土に根差したものであり、同時に、普遍的なものと考えられるのである。不連続的差異論的に言えば、特異性としての日本多神教である。そして、これが、普遍・叡知界であるイデア界に通じているのである。

Let Japanese polytheism resurrect! 
Let new Japanese polytheism be your singular thought!
Let Japanese fundamental culture awaken in your minds!
Awake, awake, Japan!
Tremendous danger threatens us.
The sun is fresh and new everyday.
Wake up to the dawn of New Japan!
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2006年01月01日

ケルト的なものとイデア界:イデア・ロゴス・ヴィジョン

ケルト的なものとイデア界:イデア・ロゴス・ヴィジョン

私見では、イギリス文学とは、濃厚にケルト的要素が強い。(また、アメリカ文学にも、ケルト的要素がかなりあると思っている。また、ヨーロッパ文学にも、かなりあるのではと思える。)煩雑なので、固有名は出さない。
 さて、イギリス文学は、また、確かに、経験論的ではあるが、それ以外に、イデアリスムの要素があると思っている。イデア界から発想している面がある。この点では、ドイツ的と言ってもいいのだろう。しかし、ドイツ文学とは異なり、イデアリスムが、レッシングやシラー等のように発現することはない。経験主義とイデアリスムが混淆しているのである。
 ここで、ケルト的要素とイデアリスムの要素を突き合わせてみると、両者は通じているのではないかと思えるのである。ケルト的要素とは、超越論的自然主義のようなものである。妖精や魔術が出現するが、それは、自然と関係するが、自然を内在的に超越している。だから、超越論的自然主義である。そして、これが、イデアリスムと通じているということである。考えてみれば、イデア界とは超越論的自然である。気をつけるべきは、超越的自然ではないのである。超越神的ではないのである。現象学的である。結局、ケルト的超越論的自然主義とイデアリスムの超越論的自然性は同一ではないかと思われるのである。つまり、ケルトもイデアリスムも、超越論的自然主義ということである。
 そして、これに経験論を加えると、超越論的自然主義的経験論となる。これが、イギリス文学のエッセンスと言えるだろう。
 さて、さらに、私見では、イギリス文学は他の文学と異なる点は、視覚と関係していることである。これは意外におもえるかもしれないが、事実である。フランス文学よりもはるかに視覚性に関係しているのである。詩人であり、版画家であるウィリアム・ブレイク、デザイナーであり、美術・建築の評論のある作家ジョン・ラスキン、ファンタジー作家であるウィリアム・モリス、美術に詳しかった、また、晩年絵を描き始めたD.H.ロレンス等々いるのであり、また、ディケンズの『クリスマス・キャロル』は、鮮明な映像を読み手に喚起するのである。(私はイギリスの文学者は、文学・言葉で、描画していたのではと思うのである。20世紀以前のイギリスの画家よりも、文学者の方が、ある意味で、絵画的だったと思えるくらいである。)この視覚性に関してだが、これは、ヴィジョン・心像と言っていいだろう。
 さて、さらに、西洋文学の表現の特徴であるアレゴリー性を考えると、それは、簡単に言えば、抽象的なものを視覚化することである。そして、イギリス文学には、このアレゴリー性がかなりある。結局、ヴィジョン性とアレゴリー性がイギリス文学の特性と言えるだろう。
 では、先にあげた超越論的自然主義的経験論とこのヴィジョン・アレゴリー性との関係をどう見るのかと言うと、これは、イデアとヴィジョンが通じていると考えることで説明ができると私は考えている。イデアとは、観念ではあるが、本来、ヴィジョンである。この心像的ヴィジョンのイデアがあり、無意識のうちに、それを根拠にして、作家は創作しているのではないかと思われるのである。また、語源的には、イデアideaとヴィジョンvideoは同一である。そう、ここにロゴスを加えてもいいだろう。即ち、イデア・ロゴス・ヴィジョンである。
 ということで、イギリス文学のケルト性、イデアリスム性、視覚性を、結びつけることができた。結局、超越論的自然主義・イデアリスム・ヴィジョン的経験論的文学ということになろう。
posted by ソフィオロジスト at 18:29| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

iPodのデザイナーはイギリス人であった。確かに、ユニークでシャレている。IT革命である。

iPodのデザイナーはイギリス人であった。確かに、ユニークでシャレている。IT革命である。

iPodのデザイナー、アイブ氏は、イギリス人であった。iPod以外のmac pcもデザインしているのである。デザインが確かに一風変わっているし、シンプルでシャレている。私は、デザインが気に入って、ボンダイブルーのiMacを購入したのである。また、それ以降、ずっとマックの製品を購入している。そうすると、このアイブ氏のデザインに私は魅かれ、共感したということになる。アイブ氏は、ロンドン生まれということであるが、Iveは、コーンウォールのセント・アイブズ市St Ivesを想起する。何か、ケルトの血が流れているのではないだろうか。ケルト文化とは、自然指向である。また、曲線指向である。やはり、ケルト的なのではないだろうか。
 St Iveは、St Ivoともいい、フランスのブルターニュ出身である。ブルターニュとは、大陸ケルトの地である。すると、Iveという名前は、やはり、ケルトに関係する。アイブ氏には、ケルトの血が流れていると思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%BA
http://en.wikipedia.org/wiki/Celt
 因みに、イギリス文化ですぐれたものは、たいがいケルト的である。ビートルズもケルトの血である。
http://saintspreserved.com/Ivo.html#history
http://www.stthomasirondequoit.com/SaintsAlive/id762.htm
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP%3Aofficial&q=St+Ivo&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

p.s. 
ケルト文様は、黄金比(らせん文様を含めて)や不連続的差異論の三層論(三つ巴文様)やと関係するのではないだろうか。
http//www.eigotown.com/culture/special/backnumber01/special_2001031200_p4.shtml_
http://en.wikipedia.org/wiki/Book_of_Kells
http://www.golden-bough.com/celt.html
http://quwa.hp.infoseek.co.jp/page0311.htm
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/12/post_48d7.html
http://www.slipware.jp/slip.htm
http://www.chitanet.or.jp/users/10010382/index.html-ssi
http://www4.osk.3web.ne.jp/~hkido/col/88b.htm
http://www.failyplanet.com/link.htm
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai02/tz0204.html
http://www5b.biglobe.ne.jp/~miki-s/html/travel02.html
http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/CELT1.html
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E6%96%87%E6%A7%98&start=0&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP:official

イギリス文様
http://www.ne.jp/asahi/fuse/abraham/europe/europe-mid/britain/uk-culturre/uk-design/uk-design.htm

ケルト十字は、イデア界を象徴ではないか。
http://www.celtarts.com/celtic.htm

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米アップル社の「iPod」デザイナー、大英勲章を授与

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 12月30日、米アップル社の「iPod」デザイナーに大英勲章が授与された。11月撮影(2005年 ロイター/John Gress)

 [サンフランシスコ 30日 ロイター] 米アップル社の大ヒット商品、携帯型デジタル音楽プレーヤー「iPod」のチーフデザイナーで同社のデザイン担当上席副社長、ジョナサン・アイブ氏(38)が30日、英国のエリザベス女王による、叙勲対象者リストに選ばれた。
 ロンドン生まれのアイブ氏は大英帝国勲章(CBE)を授与された。
 同氏はアップル社での約13年間で、「iPod」以外に、「iMac」、「iBook」やコンピューターのPowerbookシリーズを製作したチームのリーダーを務めた。
(ロイター) - 12月31日17時19分更新

関連トピックス: Yahoo!トピックス iPod Yahoo!トピックス イギリス王室 Yahoo!トピックス 美容、ファッション

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051231-00000455-reu-ent
http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/4569912.stm
posted by ソフィオロジスト at 14:03| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

基本的な4つの力と四大(地水火風):イデア界の4+1=5つの虚力の原構造

ここでは、詳述せずに、ポイントだけを考えよう。プラトンは、四大と正多面体とを結びつけている。
1)火=正四面体(正三角形の面)
2)空気・風=正八面体(正三角形の面)
3)水=正二十面体(正三角形の面)
4)土・地=正六面体(正方形の面)
そして、世界全体が、正十二面体(正五角形の面)である。
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-03/zone03top.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Platonic_solid
そして、ケプラーがこれを踏襲して、独自の宇宙論を立てたのであり、そこから、ケプラーの法則が生まれたのである。ある意味では、瓢箪から駒である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC
 とまれ、私は、これらが、物理学の基本的な4つの力と対応しないのかと思っているのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fundamental_forces
そして、正十二面体が、ダークエネルギーに対応しないかと思うのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dark_energy
 不連続的差異論から見ると、差異の垂直・水平の対極性があり、垂直の排斥力と牽引力、水平の排斥力と牽引力で、差異の4つの力が考えられ、また、4つの力を含む全体の力が考えられる。だから、4+1=5つの力があるということになる。これが、根源的な原動力・発動力である。だから、ここから演繹すれば、4+1=5つの力の構造が発生すると言えるだろう。これが、4つの力とダークエネルギー、四大や五大に対応するのか云々というよりは、この原構造が前提として存在し、それが、メディア界、現象界において、展開されると述べることが、エッセンシャルだと思う。そう考えれば、物理学の4つの力、ダークエネルギーという考え、プラトン立体、四大・五大という考えは、それぞれ、この原構造に一致するということはできるだろう。つまり、構造の問題としては、一致が見られるということであり、それはそれで限定するのである。
 そして、それ以上のことは、精緻に考察していくべきである。つまり、総論から各論ということである。

p.s. 
1.プラスのx軸とマイナスのx軸があるから、プラス5とマイナス5の力があることになるだろう。10(とう)の力である。しかしながら、プラス5+マイナス5=10全体の力が発生するだろう。すると、11の力となるだろう。超ひも理論では、10次元であったが、M理論では、11次元である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%BC%A6%E7%90%86%E8%AB%96
http://en.wikipedia.org/wiki/Superstring
2.物理学の基本的な4つの力とは、基本相互作用をもっていることであるが、仮定されたイデア界の4つの力も相互作用をもつのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fundamental_forces
posted by ソフィオロジスト at 02:04| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月31日

何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのか:過渡期としての近代とポストモダン革命

今、思いつくままに述べるが、この問題は、フッサールが、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で鋭く解明していると言えるだろう。つまり、近代的自然科学の問題である。コペルニクス、ガリレオの問題である。つまり、近代において、古代宇宙論(コスモス論)が崩壊して、太陽中心の宇宙という物質主義的宇宙観が進展したということである。コスモスの崩壊である。ユニヴァースが始まったと言えるだろう。
 とまれ、簡単に言えば、コスモスと叡知が結びついていたが、ユニヴァースは、近代的知性と結びついている。これが、西欧近代が、叡知を失った理由である。コスモスからユニヴァースへの転換である。つまり、これは、叡知的宇宙から物質的宇宙への転換である。この問題は複雑であるが、簡単に言えば、叡知の力の宇宙(コスモス)から物質の力の宇宙(ユニヴァース)へのパラダイム変換したことである。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560024162/250-8960880-5103431
フッサールが、『危機』で述べていることは、このことに関係するだろう。
 わかりやすく言えば、宇宙が、なんらかの「精神性」をもったものから、数量化できる物質だけから構成されるものへの変換である。そして、この結果、近代的科学・唯物論的宇宙観が形成されたのである。これが、西欧近代における、叡知の喪失の事態である。これは、主客二元論と平行し(デカルト)、第3のものを喪失したのである。ただし、事態は、単純ではなくて、近世においては、この物質的理性と神の理性とが、一致していたのであるが、後に、分離して、神の理性が消失するのである(神の死)。つまり、本来は、神の理性と人間の理性とがあったわけであるが、これが、これが、後者中心になり、前者が消失したのある。つまり、三元論から二元論への転換がここにはあるのである。
 これを不連続的差異論から見るならば、メディア界の喪失であろう。イデア界と現象界の二元論となったのである。キリスト教的に言えば、聖霊の喪失であり、父と子の二元論の宗教となったのである。芸術的に言えば、想像力の喪失である。このようなコスモスの崩壊・喪失によって、叡知の伝統が断たれたと考えられるのである。
 しかしながら、この叡知の喪失は、単に否定的なものだけではなかっただろう。これは、デカルト哲学の問題である。ここに近代の意味が集約されるだろう。即ち、コギト主義である。個的合理主義である。近代以前までは、神の理性が、宇宙を説明していたが、コギト主義となって、個から、正確に言えば、個の特異性から、森羅万象を説明しなくてはならなくなったのである。これは、実に、認識の大革命、パラダイムの変換であった。カントが、コペルニクス的転回と自身の哲学を呼んだが、実は、これは、デカルト哲学に発していると言うべきだろう。それまで、神の理性、神の叡知が主導的であったが、コギト革命の結果、コギトが主導的となったのである。そして、このコギト主義に、先に述べた主客二元論、物質主義・唯物論が重なるのである。
 結局、西欧近代における叡知の喪失とは、単に否定的な意味だけでなく、積極的な意味、即ち、コギト主義という意味があったのである。何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのかという問題は、こういう意味をもつのである。これは、人類革命なのである。神の理性、神の叡知から人間の理性、人間の叡知への転換を意味するのである。しかし、これは、根源的次元の喪失をともなったのである。
 整理すると、近代的科学において、神のコスモスから人間のユニヴァースへの転換があり、コスモスの叡知が喪失した。それは、メディア界、想像力の喪失であった。しかし、それは、神の理性から人間・主体の理性・コギトへの転換を意味していたのである。これは、一般性から特異性への転換を意味するのである。つまり、一般的叡知が解体して、特異性が出現し出したのである。不連続的差異論から見ると、イデア界の本来の不連続的差異の特異性が発現し出したのである。進化というよりは、進展である。イデア界の進展としてのコギト革命である。
 結局、叡知の喪失とは、イデア界の必然的進展であり、一種の忘却である。即ち、特異性は、近代的二元論の装いをしたのである。特異性の現象界化の徹底ということである。イデア界の現象界化への徹底である。結局、コギト主義は、イデア界の叡知の必然であったのである。叡知の喪失とは、叡知の展開であったのである。叡知の現象界化、これが、西欧近代における叡知の喪失の意味である。フッサールの自然的態度である。ハイデガーの言う存在忘却にほぼ当たるだろう。つまり、不連続的差異論から見ると、1/4回転によってメディア界が発生し、さらに、1/4回転によって、現象界が発生して、イデア界がすっかり裏返しになり、イデア界を消失するのである。しかし、これは、イデア界自体の発現なのである。自己隠蔽的発現なのである。つまり、イデアの影としての現象・仮象なのである。西欧近代とは、この徹底であるということである。これは、自己否定的発現である。自己否定的同一性である。これは、暴力・権力・破壊・狂気的である、これまで何度も指摘したように。
 結局、西欧近代とは、ニーチェが言うような過渡期であったのである。イデア界の現象界への自己否定的転化の徹底化であったのである。ここでは、積極性と反動性が併存しているのである。
 さて、今やポストモダン革命の真っ直中であるが、結局、何が、近代主義からの転換の駆動力であるのか。私は、何度も、資本主義は、差異から発動していると述べた。コギト主義も差異・特異性によって発動しているのである。つまり、近代とは、不連続的差異・特異性によって駆動されていたのであり、それが、現象界という衣をまとっていたのである。結局、震源である不連続的差異・特異性・イデア界は、近代の枠組・フレームワークを破砕・ブレークせずにはいないということなのである。そして、今日、それが実現して、ポストモダン革命が驚異的に進展しているのである。近代が解体するのは、必然であったのである。それは、過渡期だったのである。近代は意外に短い時代だったと言えよう。16世紀から20世紀にかけての、約4世紀が近代だったのである。
 もう少し、精緻にこのポスト近代革命について見ると、不連続的差異・特異性の駆動としてのコギト主義があり、それが、主客二元論の近代諸科学を生んだのである。しかし、それは、表面的な学に過ぎなかったのである。なぜならば、ベースの不連続的差異・特異性を排斥しているからである。しかし、これは、「自己主張」を当然行い、その結果、近代主義が瓦解するのである。この破壊の獅子吼がニーチェであった。また、先駆として、ブレイク、シュティルナー、ドストエフスキー、キルケゴール等をあげていいだろう。ニーチェの後、フッサールがポスト近代の理論を打ち立てたのである。
 また、物理学は、大天才のアインシュタインによってポスト近代的科学が誕生し、量子力学が決定的にした。そして、世界戦争の大災厄を越えて、フランスで、構造主義革命以後、ポストモダン革命が再燃したと言えるだろう。ポスト構造主義、「ポストモダン」である。そして、冷戦の終焉後、資本主義のグローバリゼーションが発動し、ポストモダン革命が忘失される。しかし、グローバリゼーションは、近代とポストモダンの折衷である。帝国主義性は近代主義であり、新自由主義は、ポストモダン的である。即ち、近代的資本主義のもつ集団的特権性を破壊するのである。これも、不連続的差異・特異性から発動していると考えることができるだろう。結局、ポストモダン革命が資本主義にも進展しているのである。ポストモダン資本主義であるが、これは、不連続的差異的資本主義と言ってもいいだろう。ここでは、資本が不連続的差異化、ミクロ化すると言えよう。そして、ここから、新しい民主主義が創造されるだろう。不連続的差異資本の共立による民主主義である。不連続的差異的資本共立民主主義である。人間は、不連続的差異的資本市民となるだろう。イデア界・メディア界・現象界の循環叡知が、資本となり、社会・世界・自然を環流するだろう。そう、近代の無明を超えた叡知資本主義とも言えるだろう。
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2005年12月30日

黄金比と不連続的差異論:2:叡知の伝統と西欧近代における喪失

イデア界の「黄金比」・超五芒星形は、比喩的に言えば、王冠であり、指輪であり、聖杯であり、賢者の石等である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Golden_ratio
http://en.wikipedia.org/wiki/Pythagoras
プラトンが善の太陽と言ったものであるが、この場合、太陽は超正五角形なのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Plato
この超正五角形の太陽は、真善美であり、知・力・心である。ニーチェの絶対的不連続性、ツァラトゥストラであり、フッサールの間主観性・相互主観性である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7
http://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Nietzsche
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%81%AF%E3%81%8B%E3%81%8F%E8%AA%9E%E3%82%8A%E3%81%8D
http://en.wikipedia.org/wiki/Thus_Spoke_Zarathustra
http://www.gutenberg.org/dirs/etext05/8zara10.txt
http://www.gutenberg.org/dirs/etext99/spzar10.txt
http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Husserl
スピノザの神である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6
http://en.wikipedia.org/wiki/Baruch_Spinoza
フィリップ・K・ディックのヴァリスである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BBK%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF
http://en.wikipedia.org/wiki/Philip_k_dick
グノーシス主義の至高神であり、
http://en.wikipedia.org/wiki/Gnosticism
アナクサゴラスのヌースであり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9
http://en.wikipedia.org/wiki/Anaxagoras
道教の太極であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
http://en.wikipedia.org/wiki/Taoism
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%A5%B5%E5%9B%B3
朱子学の理気であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%AD%90%E5%AD%A6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%AD%A6
古事記の天之御中主神である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E
また、本来のキリスト教の父である。エックハルトの「無」である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88
http://en.wikipedia.org/wiki/Meister_Eckhart
 思うに、ドゥルーズのような混乱が、叡知に関して、人類史において生じたと考えられる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Deleuze
フィリオクェ(子と共に)もそうである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%AF%E3%82%A7%E5%95%8F%E9%A1%8C
また、ヨハネの福音書で、ロゴスを言葉と訳したのもそうである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8
本来は、「初めにロゴスありき。ロゴスは神と共にありき。そして、ロゴスは神であった。」である。そして、こうすると、ロゴスが、超知・叡知であることがわかるのである。ロゴス=父=「黄金比」である。
 この叡知の混乱は、西欧近代で起こったとほぼ見ていいだろう。あるいは、西方キリスト教会で起こったと。『カラマゾフの兄弟』で、イワン(?)が、カトリック教会を攻撃していたのを想起する。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Brothers_Karamazov
ギリシア正教、東方キリスト教会は、叡知(ソフィア)を継承していたのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Eastern_Orthodox_Church
http://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Orthodoxy
(『罪と罰』のソーニャは、ソフィア(叡知)であろう。)つまり、不連続的差異論的三層性を、「正統」にも残していたのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Crime_and_Punishment
http://en.wikipedia.org/wiki/Fyodor_Dostoevsky
トルストイにも、流れているだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A4
http://en.wikipedia.org/wiki/Leo_Tolstoy
そう、ロシアには、ソフィアの伝統があったのである。ソフィオロジー(叡智学)の伝統があったのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Solovyov_%28philosopher%29
http://en.wikipedia.org/wiki/Sergey_Bulgakov
http://en.wikipedia.org/wiki/Pavel_Florensky
http://en.wikipedia.org/wiki/Nicolas_Berdyaev
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0940262606/250-8960880-5103431
http://72.14.203.104/search?q=cache:daaC_Cm1JH8J:blog.melma.com/00122700/20041103075652+sophiology&hl=ja&lr=lang_ja&client=firefox-a
http://72.14.203.104/search?q=cache:T8RzfbXWt0EJ:blog.melma.com/00122700/20041103073121+sophiology&hl=ja&lr=lang_ja&client=firefox-a
そして、西欧では、神秘主義者が、受け継いでいたのである。シェイクスピアにもあるし、ウィリアム・ブレイクにもあるし、そして、D.H.ロレンスにもある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shakespear
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Blake
http://en.wikipedia.org/wiki/D._H._Lawrence
(イギリスの場合、ジョン・ラスキンにも叡知の伝統が流れていて、その指導性が大きな意味をもっていた。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Ruskin
隠秘学、オカルティズムと不本意に呼ばれている。それは、本当は現実主義なのである。精神分析では、フロイトの枠を越えて、ラカンがこれを感知した。フランスの象徴主義(ボードレール、マラルメ)も感知している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Baudelaire
http://en.wikipedia.org/wiki/St%C3%A9phane_Mallarm%C3%A9
そして、日本では、大江健三郎がこれに気づいている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E
(中沢新一は、ドゥルーズ的であり、また、知性が不合理ないし杜撰である。)
別の稿で、この叡知の喪失の意味について検討したい。

p.s. ゲーテやシュティルナーに関しては、きわめて批判的である。なぜなら、両者とも、イデア界を感知していたが、それを直視することを回避しているからである。前者は、本当の闇に達していないと思う。悲劇的要素が足りないと思うのである。だから、光が弱いのである。後者は、先にも触れたが、メディア界からイデア界を見ているのであり、不連続的差異が、霊・スピリットになっているのである。シュティルナーは確かに、叡知の伝統に触れてはいたが、言葉(=メディア界)から、叡知(=イデア=ロゴス)を捉えようとするという西欧近代主義の倒錯に陥っているのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC
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2005年12月29日

黄金比と不連続的差異論

知・叡知の普遍空間の創造へ:事象共通平面の構築
2005-12-29-Thu CATEGORY: 不連続的差異論
様々な分野、領域に渡る考察や引用を行ってきて、だんだん、様々な(different)異質なもの、不連続的差異が、1つの知的空間に嵌まるような感じがしてきたのである。おそらく、不連続的差異の共通・普遍空間と言っていいだろう。イデア界・メディア界・現象界が共立するような超空間が形成され出したと言えよう。これは、意外に、三つ巴の文様が表現していることではないか。ボロメオの輪・結び目のような感じにも思えるが、それよりは、もっとシンプルだと思う。三層平面と言っていいようにも思える。というか、三層でもないのである。華厳経の事事無碍に近いと思うのである。つまり、イデア界の事象も事であり、メディア界の事象も事であり、現象界の事象も事であり、三者、事であることで、共通である。だから、事象共通平面、事象共通空間と言ってもいいのかもしれない。 
 後で、もう少し考えたい。
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黄金比と不連続的差異論:1
2005-12-29-Thu CATEGORY: 不連続的差異論
黄金比の問題は、難問なので、もっと準備を行う必要があるが、ここで、簡単に、今イメージしていることを述べよう。
 物理学の4つの力と地水火風をアナロジー的に対応させることは、とり合えず、見合わせた方がいいだろう。それよりは、不連続的差異論から考えられる垂直・水平の4つの力との関連を考えた方がいいだろう。
 ここで、直観から述べていこう。イデア界は、即の世界であり、多数・無数の不連続的差異が、境界を隔てて、即「一」の状態にある。鈴木大拙の用語で言えば、即非である。あるいは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一である。もっとも、この用語は、メディア界にもあてはまるのである。思うに、西田哲学の用語は、メディア界に限定した方がいいだろう。イデア界の即一・即非とは、メディア界の様態の矛盾的同一ではなくて、共立的同一、共立的一である。多が多のまま、一になるのである。
 とまれ、イデア界において、垂直対極(2つ)、水平対極(2つ)、そして、総合力(1つ)の5つの力・虚力が考えられると思う。この5つの力が、いわば、共立しているのである。それは、共立均衡となるのではないだろうか。5であるから、正五角形が発生するのではないだろうか。(イデア界の秘数は、5ないし3であろう。三位一体は、ここから来るのではないか。あるいは、三神性。)これを作業仮説として、イデア界の原正五角形ないし原五芒星形(アーキペンタグラム)としよう。つまり、イデア界は、多数・無数の不連続的差異が、原正五角形を構成しているということになる。これは、イデア界自体が、正五角形ないし五芒星形を構成しているということになるだろう。簡単に言えば、イデア界は、超五芒星形であるということである。超黄金比を成しているということである。これが、超光速なのである。超五芒星形が超光なのである。
 これが、1/4回転して、メディア界を形成するが、当然、メディア界は、黄金比のエッセンスをもって、垂直に捩れるだろう。つまり、黄金比らせん形成である。そして、これが、現象化して、森羅万象の様々なラセン形状・造形を発生させるのである。
 では、これを物理学で考えるとどうなのだろうか。イデア界には、5つの力・虚力があるのであるから、物理学も、4つの力ではなくて、5つの力を想定、前提しなくてはならないだろう。そして、5番目の力とは、当然、総合的な力であり、全体的均衡力である。そして、これが、最近注目され始めたダークエネルギーではないだろうか。ダーク力、暗黒力である。4つの力+暗黒力の5つの力で、不連続的差異論の原5元論に対応することになるだろう。そして、原五芒星形・原正五角形・原正十二面体が、宇宙・コスモスを貫徹しているということになるだろう。結局、ピタゴラス派、ピュタゴラス派のルネサンスである。あるいは、プラトン/ピタゴラス派・ルネサンスである。また、占術も新たに考え直されることとなるだろう。どうやら、現代は、古代ギリシア/イタリア・ルネサンスのスーパー・スーパー・ルネサンスの時代に突入したようである。ポスト・キリスト教的西洋文明である。
 ところで、不連続的差異論の三層界を数で表記すると、5/5/4あるいは、1/5/4あるいは、3/5/4となるだろう。14,10又は12となる。

参考
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity221.html
http://www.google.co.jp/search?q=%EF%BC%94%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%8A%9B&start=0&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP:official
http://www.geocities.jp/timstjp/bb1-dark-enargy.htm
http://ameblo.jp/renshi/entry-10007521097.html
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黄金比とメディア界
2005-12-29-Thu CATEGORY: 不連続的差異論
黄金比とメディア界:五芒星形と聖数5

思うに、黄金比は、メディア界の比率=理性と考えるべきではないだろうか。五芒星形、正五角形が、ピタゴラス派のシンボルとされたのは、メディア界のエネルギーと関係するだろう。即ち、メディア界は、4つの力の不可分一体の第5のエネルギー(ダークエネルギー)を帯びると考えられるからだ。ここで、アナロジー的に考えると、人間の手であるが、親指が他の指に対して、特殊である。英語には、親指は指ではなくて、thumbである。親指に当たるのが、第5のエネルギーではないだろうか。
 とまれ、差異・ゼロ度のメディア界は、相対性理論・量子力学の世界であり、ダークエネルギーの世界であり、そして、幾何学的には、五芒星形や正五角形と関連する領域と言えるのはないだろうか。(現象界は4の世界であろう。ならば、世界全体は5+4+1=10の世界ではないか。イデア界に1という数を当てるのは、それは、多元的であるが、一つの即の世界ということから考えられる。)ピタゴラス派にとって五芒星形ないし正五角形がシンボルとなったのは、それが、メディア界の幾何学であるからではないだろうか。4つの力ではなくて、5つの力があるのである。ダークエネルギーがあるのである。あるいは、ダークマターがあるのである。これは、五芒星形に関するラセンを形成するのだろう。そして、これが、現象界の基本の形状・原形なのだろう。(参照:「フィボナッチ数列(Fn+1=Fn+Fn-1)と,黄金分割(χ2−χ−1=0)と,等角らせん(指数関数y=eχ)が同じことの証明」
http://www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/fibonatti.shtml

 思うに、この5とは、根源的には、イデア界の不連続的差異の「力」に発するのではないだろうか。即ち、不連続的差異の総合力である虚力と、垂直・水平の2つの極性の四元力があり、1+4=5ということではないだろうか。つまり、イデア界の元5が、メディア界の5となるのではないか。イデア5→ メディア5である。ならば、イデア界も5に関わる幾何学があるのではないだろうか。正多面体・プラトン立体とは、メディア5であろう。イデア5とは、ピラミッド体・三角錐かもしれない。黄金分割ピラミッドという考えもある。(参照:
http://www.google.co.jp/search?hs=q76&hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP%3Aofficial&q=%E9%BB%84%E9%87%91%E5%88%86%E5%89%B2%E3%83%94%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
) 
 とまれ、黄金比が、宇宙・世界の構造の原理・基本的比率・理性かもしれない。それは、聖数・秘数5の世界である。中世のキリスト教宇宙観では、占星術の4つの星座(ペテロ、パウロ、マタイ、ヨハネ)とキリストないし聖母のセットとなっているから、これも、5である。
 さて、ここで、宗教・神秘的に考えると、根源は、イデア界とメディア界の二種類・二元性・二重性があるのである。これは、いわば、光と影であろう。D.H.ロレンスが、キリスト教の神に換わる暗黒の神dark godを唱えたり、あるいは、暗黒の太陽dark sunと言ったりしたが、暗黒とは、このイデア/メディアの二重性に関係するだろう。否、正確に言えば、三重性である。イデア/メディア/現象の三重性である。この三重性を、プラトンは、『国家』の有名な洞窟の比喩で指摘していると考えられる。善の太陽が、イデア界であり、洞窟内の人形がメディアで、影絵が現象である。だから、暗黒と言ったときは、二重である。
 問題は、やはり、イデア/メディアの関係である。ロレンスのcosmosは、基本的には、メディア界であろう。しかし、『死んだ男』では、明らかに、不連続的差異の共立(イデア界)が表現されているのである。だから、イデア・メディア境界、IM境界が問題となっているのである。この両義性が問題となるのである。暗黒と言ったとき、この境界が問題となっているのだろう。連続と不連続とが、混淆しているのである。ここで、また、宗教や神話が生まれるのである。連続・同一性的にイデア界を解釈するのである。複雑なのは、光が、メディアであることである。そして、それは、メディア界の一部に過ぎないのである。光は暗いと言っていいのである。暗黒の太陽があるのである。陰陽二重相補性である。しかし、本当は、それを突き抜けないといけない。そこは、超光=超闇の世界であろう。無量光であろう。仏陀の光はこれを意味するだろう。後光、後背、白毫の光。ゾロアスター教も、原神道もここから発しているだろう。聖書も本来、ここから発してるだろう。「光あれ」。
 すると、この原光とダークエネルギーの問題があるだろう。直観では、ダークエネルギーは、根源光の背中である。ここで、根源の太陽は背中を見せているというロレンスの言が意味をもつだろう。そう、暗黒の太陽とは、実は、根源の太陽を指していると考えられるだろう。だから、やはり、cosmos は、イデア界をも指すと考えられる。
 結局、イデア・メディア境界が大きな意味をもつと言えよう。不連続的cosmosと連続的cosmosの混淆があるのである。そして、この混淆哲学がドゥルーズ哲学である。まとめると、光と影の問題は、三重である。イデア界の光の影がメディア界で、メディア界の影が現象界である。だから、現象界は影の影である。夢のまた夢である。ウパニシャッド哲学では、ビシュヌの見る夢が、ブラフマンであり、ブラフマンの夢がインドラである。これを借りると、ビシュヌ=イデア界、ブラフマン=メディア界、インドラ=現象界だろう。(参照:
http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-7.htm

 とまれ、5という数が、イデア界とメディア界に共通するのだろう。聖数5である。3という数は、5の単純化であると言えよう。また、思うに、占星術や占いとは、メディア界宇宙の智であろう。

pentagram
http://en.wikipedia.org/wiki/Pentagram


p.s. イデア界の根源的太陽=太陰のイメージとしては、原点(0,0)を中心に、プラスのx座標とマイナスのx座標が均衡を取っているもので、そして、x−y座標で、円を描くのである。プラトンは、円が、理性の形と考えていた。(楕円の問題もあるが、これは新たに考えよう。ケプラーとも関係する。)思うに、イデア界=ガウス平面の円が、イデア界の根源的太陽=太陰ではないだろうか。そして、この太陽・太陰の影が、メディア界のダークエネルギー、いわば、ダークコスモス(暗黒宇宙)と考えられるだろう。イデア・メディア境界のスリット、孔、亀裂から、イデア界の太陽・太陰の超光が漏れると言えるのではないだろうか。そして、この漏れた光が、ダークエネルギーであり、現宇宙を構成しているのではないだろうか。つまり、暗いエネルギーから、銀河や諸星雲や太陽系等々が浮かび上がっているのである。D.H.ロレンスの『死んだ男』の暗黒の薔薇の宇宙とは、この暗いエネルギー、ダークエネルギーを表現・表象していると考えられる。
 暗いエネルギー、ダークエネルギーのもつ五芒星形のラセンが、現宇宙の基盤にあるのだろう。この暗い薔薇宇宙を、今、物理学は明らかにしつつあると言えよう。しかし、これは、まだ、根源の太陽・太陰の背中に過ぎないのである。暗い薔薇宇宙、暗黒薔薇宇宙を越えて、イデア界の太陽・太陰に達しないといけないのである。仏教や神秘思想での「無」とは、ここを指しているのではないだろうか。「空」は、メディア界であろう。だから、無/空/色というような三層構造があるのではないだろうか。仏陀は、空を説き、空の彼岸の無を説いたのであろう。
 とまれ、イデア界において、多元的無数の不連続的差異の「即非」的共立が、超光=超闇の状態なのだろう。根源的ヴィジョンは、ここから発しているのだろう。プラトンは、ここを視たのであろう。プラスx座標を光、マイナスx座標を闇とすれば、光と闇が均衡している世界であろう。根源的陰陽、超陰陽の世界であろう。根源的二元論であろう。根源的対極性の世界であろう。


________________________________________________________________
先にあげた『黄金比はすべてを美しくするか:最も謎めいた「比率」をめぐる数学物語』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4152086912/qid=1135595885/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/250-8960880-5103431
(マリオ・リヴィオ著 早川書房:これだけの知見が含まれていて、本体2000円は、安い。コストパフォーマンスが高いと言えよう。)の大半を読んだが、これは読んでためになった本である。しかし、訳が、少し練れていない、ぎこちない日本語で、少し読みにくいのが残念である。とまれ、たいへん、よく調べてある、博学の著であり、素人には少し難しいところがあるが、中味が詰まっている。本書で、国際ピタゴラス賞、ペアノ賞をとったと書いてあるが、それは、賞にとっても名誉であろう。とにかく、黄金比が身近になったと言える。一番、面白かったのは、ペンローズ・タイルが黄金比に関係していること、また、フラクタルにも通じることを述べている個所である。
 やはり、黄金比は、メディア界の核心にある比率=「理性」と見ていいのではと感じた。差異・φ(ゼロ度)・差異=差異・φ(ファイ)・差異とやはりなるように思われるのだが。φ(ファイ)は、プランク定数等の自然定数に近いのではないだろうか。
 問題は、その意味合いである。イデア界からメディア界への変換において、φがはたらくことになるのだが、この意味は何か、である。おそらく、本来、プラトン立体、正多面体の問題を含めて、検討しなくてはならないのであろうが、ここでは、ざっと述べると、1/4回転したときに、垂直方向に捩れるが、この捩れに黄金比が発生するということではないだろうか。問題は、何故、これが、黄金比になるのかということである。直観で言えば、ここで、プラトンとペンローズの考えがポイントになると思う。1/4回転で、垂直に捩れるときに、平面や立体が発生するだろう。それらは、連続的差異の平面、立体であろう。この連続化を可能にするのが、黄金比ではないかと思うのである。本来、不連続な差異が境界を隔てて共存しているのであるが、それらが、ゼロ度で連続化するのであり、その連続構造の形相が黄金比ではないかと思われるのである。(ひょっとしたら、メディア・現象境界の構造かもしれないが、これは置いておく。)思うに、yーz軸で、メディア界平面を形成すると考えてもいいのではないだろうか。そうならば、メディア平面が、例えば、ペンローズ・タイルのようになるのではないだろうか。あるいは、エッシャーの連続パターンになるのではないだろうか。
 直観では、黄金比は、1/4回転、不連続性を隠蔽しているのである。この調和は、不連続の調和を隠しているのである。そう、ゼロ度になったことで、比率が可能になるのである。通約不可能性(共約不可能性)があるが、しかし、比率は比率で、連続性である。通約不可能性が、不連続性、虚数/複素数、イデア界の名残ではないだろか。そう、不連続性/黄金比/連続性ではないだろうか。
 さて、問題は、五芒星形ないし正五角形、あるいは、聖数5である。これが謎である。不連続的差異論から、メディア界の力は、4+1の力であることがわかる。ダークエネルギーが入るのである。もし、第5がダークネルぎーならば、どうして、それが、五芒星形、正五角形と関係するのだろううか。ここでも、想像であるが、イデア界自体が、五芒星形、正五角形、5と関係しているのではないだろうか。以前、半分冗談で、太陽系は差異5として、想像したことがあるが。思うに、イデア界は絶対均等ないし均衡の原空間である。差異1、差異2、差異3、・・・差異nが、不連続に、共立しているのであるが、±水平、 ±垂直、全体の計5つの力がはたらいていると考えられないか。この5つは、バランスで、五等分割されるのではないのか。つまり、イデア界に原五芒星計ないし原正五角形を想定するのである。そして、これが、1/4回転で、メディア界平面を形成して、五芒星形、正五角形を形成するのではないだろうか。ダークエネルギーの五芒星形・正五角形である。
 また、後で、再検討したい。
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不連続的差異論
2005-12-24-Sat CATEGORY: 統一理論
ガウス平面で、x軸を1/4回転させると、y軸と同化する。これは、z軸を考えると、(0,0、z)であり、これが、おそらく、現象界であろう。ここで、球座標を考えてもいいのかもしれない。宇宙は、球座標となる。
 問題は、時空四次元性である。私の直観では、時間が、空間の三次元性を創造するのである。思うに、z軸は、時空軸ではないだろうか。そして、これが、垂直に捩れて、現象界を形成するのではないか。これが、時空四次元ではないだろうか。xーyーzの三次元に対して、現象は、x−y−z−p(phenomena)の四次元として、発現するのではないだろうか。
 さて、x軸の1/4回転の意味をさらに展開させると、これは、プラスのx座標とマイナスのx座標があり、プラスのy座標とマイナスのy座標ができる。これが、メディア界の対極性を意味するのではないだろうか。陰陽である。極性である。そして、このメディア界の対極性のエネルギーが、ダークエネルギーだろう。つまり、これまで、プラスのy座標、「光」、「重力」しか見てこなかったのである。しかし、マイナスのy座標である、反「光」、反「重力」を考慮することで、超対称性が成立するのではないだろうか。思うに、反「光」、反「重力」が、暗黒物質、ダークマターではないだろうか。そして、y座標全体が、暗黒エネルギー、ダークエネルギーではないだろうか。そうならば、古代中国の道教は、まったく正しいのである。また、朱子学もほぼ正しいのである。ただ、理気説において、イデア界とメディア界を混同しているのと考えられるのである。ならば、易経もほぼ正しいと言えるだろう。八卦は正しいと言えるだろう。2の6乗=64は、RNAに関するコドンの数である。(参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86
)ならば、占いも、ほぼ正しいと言えるだろう。それは、メディア界の智であろう。
 結局、残った問題は、イデア界のことである。それは、超知性、超智性であろう。ここでは、万知帰一であろう。力は知である。知即存在である。スピノザの神である。フッサールの超越論的主観性ないし志向性である。イデアである。超知性としてのイデア界である。これを、神と呼んだのは、理解されることである。全知全能的である。しかし、これを、一神教的に解釈するのは、擬人化であろう。また、不連続的差異の多元界としてイデア界であるから、一元化するのは、誤謬である。一義性ならば、正しいのである。そう、SF作家のフィリップ・K・ディックのヴァリスの方が、超越唯一神より、適切であろう。結局、一神教とは、多元的なイデア界を、連続・同一性である現象界の視点から解釈しているのであると考えられる。
 最後に、4という数であるが、これは、基本的には、不連続的差異の垂直・水平相補性の直交性から発したものではないだろうか。ここには、弱い力と強い力、重力と電磁気力のペアがあるのではないだろうか。地水火風の四大もこれと重なるだろう。仏教の五大(地水火風空)、五輪であるが、これは、メディア界全体、ダークエネルギーを指しているのだろう。空海の「五大にみな響きあり」は、暗黒エネルギーのことだろう。(参照:
http://www.eel.co.jp/03_near/01_sei
gowchannel/
now_events/0807mikyo.html
)量子論である。そう、ダークエネルギーの振動を、空海は、響きと呼んでいるのだろう。また、円空の「法の御音」も、このことだろう。西洋文化で言う、天空の音楽もこのことであろう。D.H.ロレンスのコスモスの音楽もこれであろう。しかし、このダークエネルギーの「音楽」、ミューズとは、実は、イデア界の根源の「音楽」に通じているはずである。イギリス・ロマン主義の詩人のジョン・キーツは、「耳に聞こえない音楽」と表現したが、それは、イデア界の「音楽」のことであろう。
 結局、コスモスとは何かである。それは、メディア界の「宇宙」であると同時に、イデア界の「宇宙」であろう。空海の両界曼荼羅はこのことを意味しているのではないか。金剛界がイデア界のコスモスであり、胎蔵界がメディア界のコスモスだろう。
 さらに言えば、古事記の三柱の神・「造化の三神」であるが、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは、正にイデア界であり、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)は、メディア界の対極性を意味しているのではないか。

参照:天之御中主神
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E5%A4%A9%E4%B
9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E
7%A5%9E
http://www.google.co.jp/search?q=
%E5%A4%A
9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B
8%BB%E7%A
5%9E&start=0&start=0&hl=ja&lr=
lang_ja&ie=ut
f-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls
=org.mozilla
:ja-JP:official
http://www.loops.jp/~asukaclub/
kami/kami_001.html





内在的イデア界と現象の光

なぜ、人間は、光に救いを感じるのだろうか。大江健三郎の傑作『万延元年のフットボール』の冒頭は、正にそうである。私は、闇が光に変容すると直観する。思うに、現象の光を通して、介して、人間は、イデア界の光を直感しているのではないだろうか。初日の出、ご来光、大日如来、ヒミコ、日御子、天照、ひじり、お水取り、お天道様、日=火=緋、等々。日の本、元、基は、イデア界の太陽であり、それを、人は、直感するのだ。個に内在するイデア界が、現象界の光を介して(光はメディアである)、イデア界の太陽を求めるのだ。現象界の太陽とは、実は、イデア界の太陽の影、影像、陰影であり、そのスクリーンを介して、根源のイデア界=超太陽を郷愁するのだろう。ゾロアスター教は正しいのである。日本の宗教も本来は、ゾロアスター教と共通であろう。
 イデア界の超太陽とは、大宇宙の根源の超太陽であろう。



イデア界の虚力とは、直観智であろう。

私は、イデア界=直観力、メディア界=想像力、現象界=物質力と、先に考えた。思うに、イデア界は、即の世界である。イデア界の差異の境界の虚力とは、無限速度の直観智ということができるだろう。フッサールの間主観性、相互主観性とは、このことだろう。インテレクトとは、本来、直観力のことであった。つまり、知性とは、直観力、直観智のことであった。それが、理性と入れ違ったのである。理性は、比率のことである。それは、メディア界の知性ではないだろうか。用語の混乱があるのだ。カントの純粋理性とは、直観智と比率智とのハイブリッドであろう。
 とまれ、直観智が、近代主義で、排斥、排出されたのである。直観智をもつ、天才たちが、近代において、狂人、精神病者とされたのである。実は、近代主義者こそ、狂人・精神病人・愚人であったのである。
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2005年12月24日

不連続的差異論

ガウス平面で、x軸を1/4回転させると、y軸と同化する。これは、z軸を考えると、(0,0、z)であり、これが、おそらく、現象界であろう。ここで、球座標を考えてもいいのかもしれない。宇宙は、球座標となる。
 問題は、時空四次元性である。私の直観では、時間が、空間の三次元性を創造するのである。思うに、z軸は、時空軸ではないだろうか。そして、これが、垂直に捩れて、現象界を形成するのではないか。これが、時空四次元ではないだろうか。xーyーzの三次元に対して、現象は、x−y−z−p(phenomena)の四次元として、発現するのではないだろうか。
 さて、x軸の1/4回転の意味をさらに展開させると、これは、プラスのx座標とマイナスのx座標があり、プラスのy座標とマイナスのy座標ができる。これが、メディア界の対極性を意味するのではないだろうか。陰陽である。極性である。そして、このメディア界の対極性のエネルギーが、ダークエネルギーだろう。つまり、これまで、プラスのy座標、「光」、「重力」しか見てこなかったのである。しかし、マイナスのy座標である、反「光」、反「重力」を考慮することで、超対称性が成立するのではないだろうか。思うに、反「光」、反「重力」が、暗黒物質、ダークマターではないだろうか。そして、y座標全体が、暗黒エネルギー、ダークエネルギーではないだろうか。そうならば、古代中国の道教は、まったく正しいのである。また、朱子学もほぼ正しいのである。ただ、理気説において、イデア界とメディア界を混同しているのと考えられるのである。ならば、易経もほぼ正しいと言えるだろう。八卦は正しいと言えるだろう。2の6乗=64は、RNAに関するコドンの数である。(参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86
)ならば、占いも、ほぼ正しいと言えるだろう。それは、メディア界の智であろう。
 結局、残った問題は、イデア界のことである。それは、超知性、超智性であろう。ここでは、万知帰一であろう。力は知である。知即存在である。スピノザの神である。フッサールの超越論的主観性ないし志向性である。イデアである。超知性としてのイデア界である。これを、神と呼んだのは、理解されることである。全知全能的である。しかし、これを、一神教的に解釈するのは、擬人化であろう。また、不連続的差異の多元界としてイデア界であるから、一元化するのは、誤謬である。一義性ならば、正しいのである。そう、SF作家のフィリップ・K・ディックのヴァリスの方が、超越唯一神より、適切であろう。結局、一神教とは、多元的なイデア界を、連続・同一性である現象界の視点から解釈しているのであると考えられる。
 最後に、4という数であるが、これは、基本的には、不連続的差異の垂直・水平相補性の直交性から発したものではないだろうか。ここには、弱い力と強い力、重力と電磁気力のペアがあるのではないだろうか。地水火風の四大もこれと重なるだろう。仏教の五大(地水火風空)、五輪であるが、これは、メディア界全体、ダークエネルギーを指しているのだろう。空海の「五大にみな響きあり」は、暗黒エネルギーのことだろう。(参照:
http://www.eel.co.jp/03_near/01_seigowchannel/now_events/0807mikyo.html
)量子論である。そう、ダークエネルギーの振動を、空海は、響きと呼んでいるのだろう。また、円空の「法の御音」も、このことだろう。西洋文化で言う、天空の音楽もこのことであろう。D.H.ロレンスのコスモスの音楽もこれであろう。しかし、このダークエネルギーの「音楽」、ミューズとは、実は、イデア界の根源の「音楽」に通じているはずである。イギリス・ロマン主義の詩人のジョン・キーツは、「耳に聞こえない音楽」と表現したが、それは、イデア界の「音楽」のことであろう。
 結局、コスモスとは何かである。それは、メディア界の「宇宙」であると同時に、イデア界の「宇宙」であろう。空海の両界曼荼羅はこのことを意味しているのではないか。金剛界がイデア界のコスモスであり、胎蔵界がメディア界のコスモスだろう。
 さらに言えば、古事記の三柱の神・「造化の三神」であるが、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは、正にイデア界であり、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)は、メディア界の対極性を意味しているのではないか。

参照:天之御中主神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E
http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E&start=0&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP:official
http://www.loops.jp/~asukaclub/kami/kami_001.html





内在的イデア界と現象の光

なぜ、人間は、光に救いを感じるのだろうか。大江健三郎の傑作『万延元年のフットボール』の冒頭は、正にそうである。私は、闇が光に変容すると直観する。思うに、現象の光を通して、介して、人間は、イデア界の光を直感しているのではないだろうか。初日の出、ご来光、大日如来、ヒミコ、日御子、天照、ひじり、お水取り、お天道様、日=火=緋、等々。日の本、元、基は、イデア界の太陽であり、それを、人は、直感するのだ。個に内在するイデア界が、現象界の光を介して(光はメディアである)、イデア界の太陽を求めるのだ。現象界の太陽とは、実は、イデア界の太陽の影、影像、陰影であり、そのスクリーンを介して、根源のイデア界=超太陽を郷愁するのだろう。ゾロアスター教は正しいのである。日本の宗教も本来は、ゾロアスター教と共通であろう。
 イデア界の超太陽とは、大宇宙の根源の超太陽であろう。



イデア界の虚力とは、直観智であろう。

私は、イデア界=直観力、メディア界=想像力、現象界=物質力と、先に考えた。思うに、イデア界は、即の世界である。イデア界の差異の境界の虚力とは、無限速度の直観智ということができるだろう。フッサールの間主観性、相互主観性とは、このことだろう。インテレクトとは、本来、直観力のことであった。つまり、知性とは、直観力、直観智のことであった。それが、理性と入れ違ったのである。理性は、比率のことである。それは、メディア界の知性ではないだろうか。用語の混乱があるのだ。カントの純粋理性とは、直観智と比率智とのハイブリッドであろう。
 とまれ、直観智が、近代主義で、排斥、排出されたのである。直観智をもつ、天才たちが、近代において、狂人、精神病者とされたのである。実は、近代主義者こそ、狂人・精神病人・愚人であったのである。
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2005年11月26日

一神教(ユダヤ・キリスト教)、近代的自我合理主義、連続・同一性主義の構造分析:ポスト西洋文明論

一神教(ユダヤ・キリスト教)、近代的自我合理主義、連続・同一性主義の構造分析:ポスト西洋文明論

何故人間は、自己中心主義、利己主義、傲慢・尊大・暴力的になるのだろうか。ソクラテスは無知の知と言った。アポロンの神託は、汝自身を知れであった。しかし、これは、難問である。超難問である。どうして、自己を知ることができるのか。ハムレットは、ミメーシス論を説いた。鏡に映して見るということである。しかし、鏡像に人間は、ナルシシズムを覚えるのではないか。 
 本論に入ろう。例えば、何故官僚は、利己主義なのか。自己保身なのか。民主主義を実践しないのか。これは、当然、人間の欲望が原因である。「色」である。「色」は「空」であるが、「空」とは理解できない。何故なら、「色」とは、意識が「色」ということである。欲望と連続体であるということである。
 近代という時代は、確かに、自我や個人の解放を志向した。これは、評価すべきでことである。しかし、西欧近代は、決定的に、致命的に、欠陥、欠落、欠如をもっているのである。それは、特異性、不連続性、根源性を喪失しているのである。差異はあるが、連続的差異にしか過ぎないのである。微分・積分の世界である。ライプニッツ、ベルクソン、ハイデガー、ドゥルーズ(の一面)の哲学は、近代主義の深化に過ぎない。(私見では、ハイデガーは、とりわけ、悪質である。なぜなら、ニーチェとフッサールがブレークスルーしたポスト近代の理論的前線を、閉ざしてしまったからである。)この近代主義の途轍も無い欠陥が人類を絶滅の危機に陥らせているのである。これは、西洋文明、キリスト教的西洋文明が生んだものである。キリスト教を突破しないでは、この袋小路から脱出できないだろう。デカルト哲学にこの問題が収斂していると言えるだろう。しかし、この点については、これまで何度も述べてきたので、ここでは述べない。
 近代主義は、自我、個体を中心に展開したのであるが、フッサールが批判するように、主客二元論なのである。これは、不連続的差異論から見ると、連続化の帰結である。あるいは、キリスト教の帰結と言えよう。(思うに、キリスト教とプラトン主義は正反対である。どうして、類似的なものと考えられて来たのか。しかし、ある意味では、類似的である。結局、西欧近代は、完全に、勘違いしている。近代日本は、この勘違いを、踏襲しているのである。)
 近代主義とは、連続化の帰結なのであり、根源は、イデア界である。そして、これは、普遍性である。つまり、普遍性が、近代的自我に特殊化されているのである。個別化と言ってもいいだろう。だから、ヘーゲル哲学は、この理論化である。普遍性が、連続・同一性化されたのである。結局、これが、自己中心主義、利己主義、尊大・傲慢・暴力主義である。普遍性とは、本来、不連続性、脱構性、特異性である。この真理が、近代主義において、倒錯されたのである。
 ということで、本課題への解答を得たであろう。つまり、一神教、近代的自我合理主義、連続・同一性主義とは、根源の普遍性が連続・同一性化したものであり、普遍性を独断化しているのである。つまり、真理の歪曲化があると言えよう。真理とは、本来、不連続的なものであるのに、それを、否認しているのである。つまり、不連続的真理を連続的誤謬に換えているのである。これが、傲慢・尊大・暴力なのである。官僚の知とは、そのように染色されるのである。「色」は、「色」のままである。
 では、どうすればいいのか。ポスト近代主義教育が必要である。近代主義的連続主義をすべて廃棄しなくてはならない。不連続的差異論の教育が必要である。文部科学省中心主義は否定されなくてならない。また、経済もそのようになる必要がある。脱連続的経済である。不連続的経済である。これは、また、不連続的政治を意味する。これは、真の民主主義である。ポスト・モダン民主主義である。そう、ポスト・モダン資本主義である。大前研一氏の経営理論は、これに入るだろう。思うに、今日、人類が新黄金時代への進展するのを阻害しているのは、近代主義=連続主義である。ポスト西洋文明、超世界文明である。

テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/11/25 19:19】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

生命とは何か:D.H.ロレンスの生命哲学と不連続的差異論

ロレンスは、哲学小説の中で、顕微鏡の下の生命を見た女性主人公(アーシュラ)に次のように語らせている。
「何の目的のためにこの無数の物理的化学的作用が、顕微鏡下に影のように蠢くこの一点に集まっているのだろうか。そして作用を集中させ、今見ているこの生命体を創み出している意志とは何なのか。・・・
 それは本来の自己自身になろうと目論んでいるのだ。しかし、その自己とは何か。・・・突然彼女は、強烈に輝く無量光の中へと没入していった。・・・それは、自己の完成(コンサメイション)であり、無限になることであった。自己は今や、無限と一体化した。自己自身であることは、最高の輝ける、無限の勝利であったのだ。」
「『虹』における原生命」杉山泰、『ロレンス研究ーー『虹』』所収 p.24

「・・・葉っぱやあらゆるところにある微光を放つ原形質を描いたように、・・・」
同書p.50

ロレンスが説く「自己の完成」、「微光を放つ原形質」を参考にして、不連続的差異論の生命哲学を考えたい。今、作業仮説的に、生命体とは、脱構造性と構造性との結合体であるとしよう。つまり、不連続的差異論のイデア・メディア境界のあり方が、生命体の本体である。ロレンスが言う「原形質」とは、脱構造性のことではないだろうか。また、「自己の完成」、「無限になること」も、脱構造性を意味しているのではないだろうか。構造は拘束・規制・規定するものである。それは、形態であり、形相である。自然は、ある必然から構造を形成し、現象化するのだ。しかし、この必然的構造は、不自由を意味しよう。だから、構造に対して、脱構造性が自由への活動を意味するだろう。つまり、生命体とは正に、西田哲学の絶対矛盾的自己同一なのだ。脱構造性⇔構造性の対極・両極的相補性があるだろう。(思うに、ヘーゲル弁証法は、この矛盾対極相補性を、精神一元論にフレーム化したものではないか。)この矛盾が生命そのものだろう。そして、根源は、脱構造性ないし脱構造「体」にあるだろう。これが、ロレンスの「原形質」や「霊魂」(これは、アニマanimaがぴったりするだろう)に当たるものと言えよう。また、遺伝子や種子や胚芽や卵等に相当しよう。より正確に言うならば、イデア・メディア境界が脱構造⇔構造矛盾対極相補性であり、ここが、「原形質」、「霊魂」、遺伝子、種子、胚芽、卵に当たるのではないか。(メディア・現象境界が、構造⇔現象の連続・同一性を意味しよう。言わば、超越論的形式・構造・連続性である。それに対して、イデア・メディア境界は、超越論的志向性であろう。)イデア・メディア境界、IM境界が、生命ないし生命体の核であるということになろう。これは、実は、非生命体にもあてはまるだろう。鉱物にも核があるだろう。(cf. 山川草木鳥獣虫魚悉皆成仏)
 この矛盾相補性が、生命・非生命の存在体の力学であり、本質であると言えよう。キルケゴールの有限/無限のパラドックスは正しいと言えよう。これが、本質である。つまり、存在体は、構造・有限志向性と脱構造・無限志向性のパラドックスをもっているということである。これは、また、カントの純粋理性批判につながるだろう。(そう、キルケゴールも不連続的差異論の先駆者の一人に数えるべきだろう。)
 生命で考えると、有限・構造的現象体は消滅して、子孫を残す。これはどういうことなのか。つまり、現象体はエネルギーの消耗ということで、消滅する。しかし、根源の核は、根源を反復するということになるが、この反復の力学は何か。そう、結局、現象体は、展開するが、それは、根源の核のプロセスである。つまり、根源の核の変態・変化・過程そのものである。だから、遺伝子、種子、卵を「生産」するのである。初めから、現象体には、核が内在しているのであるから、帰結的に、核を現象化すると言えよう。この反復はいわば、シャッフル作用だろう。骰子一擲である。アトランダム作用である。いわば、万華鏡の世界である。
 さて、ロレンスの「自己完成」、無限化とはどういうことだろうか。それは、存在体をイデア界化することではないだろうか。脱構造性をより進展させることが、「自己完成」、無限化であろう。そして、これは、宗教の本来の意味であろう。色即是空、空即是色。親鸞の往相・還相。阿弥陀如来。禅。万教帰一。万物が、イデア界的現象界を志向していると言えるのではないだろうか。地上楽園。万物はそれぞれの「速度」で、イデア界を志向しているのではないだろうか。万物は、生命であれ、非生命であれ、イデア・メディア境界的「霊魂」、「原形質」、「遺伝子」、「種子」、「卵子」、「胚芽」をもっているのだ。
 さて、ここで、経済、資本主義、民主主義を考えるとどうだろう。万民民主主義である。普遍民主主義である。個それぞれの「速度」、「色」で存在している。しかし、脱構造性への志向性を閉ざしたものは、悪である。つまり、構造性だけの存在は悪である。近代主義がそれである。これが、人類を絶滅の危機に陥れているのだ。絶対的ポスト近代主義である。資本主義も、ポスト近代的資本主義にならなくてはならない。新自由主義は、その一歩ではあるだろう。ただし、脱構造的資本主義になることが、本来である。思うに、ドゥルーズ&ガタリは、連続性と不連続性を区別しなかったので、構造性と脱構造性を明確に識別できなかった。だから、彼らの資本主義論は、中途半端なのである。構造と脱構造、近代とポスト近代の混同があるのである。不連続的差異論に立脚することで、資本主義は脱近代化するのである。それは、脱構造的資本主義である。ポスト近代的資本主義である。

p.s. 少し蛇足的であるが、宗教の光とは、脱構造性が放つ光、イデア界の光である。これは、超光、原光である。ロレンスが無量光と言っているのは、正に、阿弥陀如来、アミターヴァ(無量光)に関係しよう。後で、この超光・原光と現象界の光の関係を考察したい。

p.p.s. また、後で、異性化の問題を考えよう。何故、雌雄の別が生じて、それが、牽引したり、反発させたりするのか。これは、正に、差異の問題である。不連続的差異の志向性の問題であろう。以前に、男性は、女性にイデア界を見て、女性は、男性に現象界を見ると述べたことがある。予見を言えば、女性とは、複雑で、イデア界的でありながら、連続主義を志向しているのである。つまり、不連続的差異でありながら、連続主義志向である。現象界志向である。それに対して、男性は、連続主義であり、不連続的差異を志向するのである。ちょうど、女男は正反対である。これは、生命体の脱構造性⇔構造性の「絶対矛盾的自己同一」が二元的に分化・分離したものではないか。

テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/11/25 13:24】 | 遺伝子/生命科学 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

D.H.ロレンスのコスモス論と不連続的差異論:脱構造性と構造性の「差異」としての自我

ロレンスの『エトルリアの故地』で説かれている宇宙論と不連続的差異論を結びつけられないかと思っている。問題は、宇宙を一つの「霊魂」と考えている点である。不連続的差異論は、無数の不連続的差異が境界を隔てて存するイデア界を根元に見ているので、一元論的考え方を否定するのである。一つの「霊魂」は、イデア・メディア境界と考えることができるだろう。しかし、イデア界をなんらかに意味合いで、そのように考えることは意味があるかもしれない。
 ロレンスの言う二元性・対極性の宇宙とは、いわば陰陽論であるが、それは、垂直・水平性をもつ差異の「宇宙」と等価になるように思える。ロレンスが説く分裂と統一を行う宇宙とは、やはり、イデア・メディア境界のカオスモスに似ていると思う。
 問題は、自然形成の構造を緻密化することである。多様な宇宙・自然の発生の構造の精緻化である。ロレンスはあらゆる存在には、核があると言っている。これも「霊魂」であろう。そして、ロレンスは、霊魂も破壊されてエネルギーに還元されると言っている。これは、物理学的な考え方に近い。根元をエネルギーと見るのである。これは、不連続的差異論では、メディア界の考え方に相当しよう。エネルギーは±でゼロになるだろう。ここで整理すると、イデア・メディア境界は、境界とゼロ度が交差する領域であり、メディア界がゼロ度の領域である。そして、現象界は、+エネルギーによる現象と−エネルギーの現象が連続する領域だろう。つまり、生成消滅する領域である。

イデア界:差異1/差異2/・・・/差異n

イデア・メディア境界:差異1/φ差異2/φ・・・/φ差異n

メディア界:差異1φ差異2φ・・・φ差異n

現象界:
 
A −差異1+−差異2+−・・・+−差異n+  

B +差異1−+差異2−+・・・−+差異n−  
      
      −  
     差異1
      +
      −  
     差異2
      +
      −
      ・
C      ・
      ・
      +
      −
     差異n
      +



      +
     差異1
      −
      +  
     差異2
      −
      +
      ・
D      ・
      ・
      −
      +
     差異n
      −

以上四種類の差異連続・同一性が生起するのではないか。上二つは、差異水平力の連続化であり、下二つは垂直力の連続化である。だから、両者をまとめることができるだろう。

     ±
  Σ ±差異k± 
     ±

問題は、+と−のエネルギーないし極性の意味である。ゼロ度から、±が生成するだろう。では、なぜ、生成するのか。それは、差異がもともと志向性があるからである。志向性が根元的な力、虚力であると考えられる。この志向性(原志向性と読んだ方が明快だろう)が、ゼロ度連結で、連続化すると言える。つまり、実数化されると言えるのではないだろうか。虚数から実数へ。この時にゼロ度連結の+エネルギーが形成され、同時にそれを解消する−エネルギーが発生するのではないか。つまり、連続化とは、エントロピーを発生させるということではないか。生成消滅性である。これは、現象界の4つの連続的差異現象にあてはまる。そして、それは、メディア界へと解消するように見えるだろう。ゼロ度の世界である。これが、いわば、「空」である。しかし、これは、見せかけの「空」、ゼロ度の世界である。
 とまれ、問題にしたいのは、ロレンスが説く烈しく対立しつつ調和する世界のこととである。この対立、対極・両極・相補性はどう説明できるだろうか。ライオンと鹿の対極性はどう説明できるだろうか。火と水の対立・相補性はどう説明できるだろうか。作業仮説的に、垂直力と水平力の対立・相補性ではないだろうか。差異の原志向性である垂直/水平力の根元的対立相補性が、つまり、イデア界の差異の原志向性である垂直/水平力が、ゼロ化によって、連続化される。そのとき、垂直的連続化と水平的連続化が発生する。そして、これが基本的対立構造(構造主義)を構築しているだろう。そして、この連続化は、現象界での対立となり、同時に、メディア界においては、「空」、ゼロ度として、一体化している。これが相補性となるだろう。ロレンスが説いているエトルリア文明の古代宇宙論、コスモス論は、このように説明できるだろう。即ち、「空」、ゼロ度のメディア界と連続・同一化の現象界の結合としての宇宙論である。そう考えると、これまで、イデア・メディア境界をカオスモスとしてきたが、メディア界自体をカオスモスないし絶対矛盾的自己同一と考えた方が適切・的確であると考えられる。とまれ、差異・ゼロ度のメディア界からの現象発生であるが、それは、上述の差異連結からわかるように、垂直連結と水平連結が結合して、らせん的な形状・形態となるのではないだろうか。DNAの二重らせん形態とは、一種典型であろうし、渦巻星雲、つるまき植物、巻貝、竜巻、台風等々のらせん形態もそうだろう。黄金分割やフィボナッチ数列は、このメディア・現象境界の構造であろう。つまり、原らせん構造は、メディア界にあるのであり、それが、メディア・現象境界を通して、現象化するということだろう。また、時空四次元の発生であるが、それも、これで説明できるのではないだろうか。つまり、差異・ゼロ度の原らせん的構造が、時空四次元現象となるのではないだろうか。つまり、宇宙時空間とは、らせん形態をしているということである。そして、ここでは、ただ触れるだけだが、現代物理学の4つの力も、この4つの差異・連続化に関係しているのであり、当然、4つの力は、差異・ゼロ度のメディア界の数学で説明できるはずである。強い力、弱い力、重力、電磁気力は、融合して、メディア界の差異・ゼロ度になるはずである。(このように考えても、重力と電磁気力は双一的ないし相補的ではないだろうか。光が重力によって曲がるのは、ここから見れば、当然である。)
 さて、時空四次元のうち、時間を形成する差異連続とは何だろうか。時間も一つの空間ではないだろうか。あるいは、逆に空間が時間なのか。思うに、時間によって空間が移動するのだから、やはり、空間軸ではないか。とりあえず、時間も空間としよう。そうすると、時間は、電磁気力が形成するのではないだろうか。光である。(これは直観である。)
 次に、ロレンスが説く「霊魂」、「魂」とはどう説明できるだろうか。すべての存在にそれがあると言う。物質的には、DNAのようなものである。遺伝子である。あるいは、現象体の発生をどう説明するのか。あるいは、生命とはどう説明するのか。現象体は、メディア界の構造によって(、正確に言えば、メディア・現象境界の構造だろう)、発生するだろう。つまり、差異連続の順列の種類によって多種多様な現象体が発現すると考えられる。「霊魂」、「魂」とは、メディア界の差異・ゼロ度であるということになるだろう。
 では、生命と非生命体はどう説明できるのか。あるいは、知的生命体と非知的生命体は。たとえば、鉱物と植物の相違は何か。直観で言うと、基本構造的には、相違はないのではないか。共に、差異・ゼロ度の原構造をもっているのではないか。人間また他の動物の違いもそうなるだろう。また、確かに、新しい存在が生まれてもいいだろう。ポスト人間が。天使は、現象体ではなくて、メディア界の構造だろう。
 しかしながら、私はこれまで、人間の特性として、イデア界の過剰性を説いてきた。つまり、メディア界的構造性を脱構築するものとしてイデア界的不連続性をもっていると考えてきたのである。これはどう説明するのだろうか。
 人間の場合、あるいは、生命の場合も含めていいかもしれないが、メディア界の差異・ゼロ度構造に対して、イデア界の不連続的差異的脱構造性が存していると考えられる。つまり、イデア界の脱構造性とメディア界の構造性との「差異」があるのである。(カントのアンチノミーはこの表現の一種であろう。)脱構造性は創造性とも言えるだろう。そして、構造性は同一性である。便宜的に、脱構造性を差異性、構造性を同一性としてもいい。(プラトンのイデアは、両者を指していたと言えよう。)
 もし、構造が必然性ならば、脱構造性は偶然である。(スピノザ哲学は、やはり、基本的には、メディア界的哲学である。)そして、意識や認識、自我を考えると、それは、イデア界(脱構造性)/メディア界(構造性)の「差異」によって生起しているだろう。コギト・エルゴ・スムとは、やはり、この「差異」を指しているだろう。デカルトはカントやフッサールの先駆である。これを具体的に解明するなら、特異性や不連続的差異とその共存性が、連続・同一性の構造に介入することであろう。【ここで、ジュリア・クリステヴァのル・セミオティック(原記号作用)とル・サンボリック(象徴作用)との対立を想起するが。】この「差異」が人間存在の本質と言っていいだろう。(しかし、近代主義は、この差異を排出・隠蔽してきた。そして、近代主義自体が、いわば「精神病」になったのである。つまり、脱構造性を否定するので、それが反動衝動・狂気となって主体に逆襲するのである。現代社会の精神病理は近代主義の病理であろう。)
 思うに、もし、イデア界、脱構造性の介入がなかったら、意識、自我、認識は生まれなかったのではないだろうか。ただ、動物のように自動作用しかなかったのではないか。(勿論、ここで、進化を考えているのではない。進化論については、後で検討しよう。)とまれ、イデア界、脱構造性の介入によって、生体は、主体となり、現象界その他を対象化するようになったと言えよう。これは、不連続的差異の不連続性によって原志向性が、純粋志向性になっていると言えるのではないだろうか。なぜなら、通常の差異・ゼロ化による連続化では、志向性が連続化して、自己対象化ができないからである。つまり、連続・同一性化された志向性とは、自己対象化がないから、意識、自我、知的認識は生じないだろう。動物である。動植物である。対象と一体となった個体である。だから、イデア界の不連続的差異の脱構造性の介入によって「差異」が発生して、意識、自我、認識が生まれる基盤となると言えるだろう。(ここで、精神病について言うと、この「差異」において、脱構造性を否定する方向に構造性が作用するのだろう。そして、その反動衝動が狂気である。また、これは、一種分裂性である。自我分裂である。脱構造性と構造性の分裂である。しかし、両者の接点があるので、病理的な自我が発現しているのである。本来の自我は失われているのであるが。今日の自己愛性人格障害とは、ここに病因があるのではないだろうか。「差異」を否定して、連続・同一性の自我に癒着しているのではないか。)
 ということで、物質身体的には、類人猿と人間は違いがほとんどなく、ヒトゲノムは、他の動物のゲノムとの違いはわずかであろう。結局、質的差異を以上のように認めなくてはならないだろう。人間において、過剰なイデア界、脱構造性、不連続性が存在するのである。ならば、人間の「霊魂」、「魂」とは何だろうか。それは、イデア界の「霊魂」、「魂」ということだろう。動物の「霊魂」、「魂」は、メディア界の構造であろう。もっとも、この二分化を絶対化してはいけないだろう。おそらく、相対的なものではないだろうか。イデア/メディア的「霊魂」ということである。脱構造/構造性、不連続性/連続性である。すると、これは、イデア・メディア境界の問題となるだろう。このゼロ度において、「霊魂」が発生するだろう。ここは微妙な問題があるだろう。 二つの変換が考えられるのである。一つは、イデア/メディア変換であり、一つは、メディア・現象変換である。後者は、構造による生成消滅を意味しよう。+エネルギーと− エネルギーの相補的ゼロ度性である。前者は、不連続/連続変換でもある。これは、境界/ゼロ度変換でもある。そして、ゼロ度は境界へと回帰するということになるだろう。つまり、ゼロ度、「空」、メディア界が、イデア界に回帰するのである。虚界に回帰するのである。ロレンスが、魂も破壊されてエネルギーになると言っていたが、魂をメディア界的構造とするなら、このエネルギーは、イデア界的なものではないか。もっとも、もうエネルギーとは呼べなくなるだろうが。何が、言いたいのかというと、人間の場合、いわば、二重構成となっているということである。一つは、構造性であり、一つは脱構造性である。そして、両者の「差異」において自我が生じる。つまり、二つの要素の中間としての自我である。つまり、いわば、二つの「霊魂」、「魂」を人間はもっていることになろう。イデア界の「霊魂」とメディア界の「霊魂」であり、後者はゼロ度、「空」ないし「無」に回帰する。しかるに、前者は、イデア界に回帰する。つまり、不連続的差異とその境界に回帰するのではないか。つまり、イデア界の「霊魂」とは、不連続的差異とその境界のことではないか。これをロレンスは根源的エネルギーと呼んだのではないか。しかし、これは、メディア界から見た把捉である。もっとも、デュナミス・エネルギー、ポテンシャル・エネルギーとすればいいだろう。ならば、人間(、本当は、動植鉱物を含めていいのだが)は、死んだ時、その「霊魂」はイデア界に回帰すると言っていいだろう。それは、イデア界自体かもしれないが。それとも、一つの不連続的差異なのだろうか。とりあえず、今は前者を取っておこう。
 ならば、さらに問題は、これまで、何度も検討してきたが、記憶の問題、プラトンの想起説の問題である。「霊魂」は現象界の記憶をもつのかである。脱構造性と構造性との「差異」があるのだから、両者には、なんらかの交通があるはずである。どうやって交信するのか。それは、思うに、先に述べた想像力・創造力・虚力が顕現する身心体(メディア界)において交通すると思う。メディア界が媒体となり、イデア界と現象界が交通するのだ。すると、現象界の知覚・経験は、メディア界に内蔵されるだろう。そして、それは、そこに存する想像力・創造力・虚力に反映するだろう。これで、現象界がイデア界に記録されることになるだろう。虚力的記憶である。(これが、大乗仏教の阿頼耶識ではないか。)これが、イデア界という記憶装置に蓄積されるのだろう。イデア界は、個体的記憶をもつことになるだろう。イデア界とはいわば、一者が多数・無数である。この一者が、無数の個体的記憶をもつのだろう。この一者がブラフマン、梵である。しかし、真実在は、境界で隔てられた無数の不連続的差異である。思うに、ロレンスが一つの「霊魂」としての宇宙を述べていたが、それは、この意味で取ることができるだろう。一つの「霊魂」としての宇宙とは、無数の不連続的差異の一者である。もっとも、一者とは、存在の一義性と言うべきかもしれないが。
 最後の付け加えると、一神教の一神・超越神とは、このイデア界をいわば連続化していると言えよう。無数の不連続的差異としての一神・超越神を捉えるべきである。それも、内在性・超越論性においてである。

p.s. 「気」とは、これまでは、メディア界の力と考えたが、それは、イデア界の虚力と考えるべきだと思う。自然が発する「気」=生命力とは、イデア界の力だろう。
イデア界の「霊魂」であろう。

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【2005/11/23 16:44】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

『エトルリアの故地』Etruscan Places 1932 D.H.ロレンス著 奥井潔訳 南雲堂

これは、小説家(長編、中編、短編)、評論・批評家、紀行作家、詩人、劇作家他であったD.H.ロレンスの紀行文である。紀行文として、他に、『イタリアの黄昏』Twilight in Italy、『海とサルジニア』The Sea and Sardinia、『メキシコの朝』Mornings in Mexicoが、代表的である。『メキシコの朝』を除けば、イタリア紀行文の三部作と言えるだろう。
D.H.ロレンス(1885〜1930)は、日本では、一般には、『チャタレイ夫人の恋人』でのみ知られたほぼ忘れられた作家であるが、アカデミズムにおいては盛んに研究されている作家である。ここで一つ問題をあげておけば、現代文学のカノン(「聖典」)の問題がある。20世紀現代文学の代表的古典として、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(並びに、T.S.エリオットの『荒地』)とマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』をあり、これらが、規範となって、現代文学が形成されてきたことは確かであるが、しかし、現代文学が行き詰まる新世紀において、アカデミズムの規範が排除してきた文学を見直すことは意味がある。詩人T.S.エリオットは、批評家でもあり、文学のモダニズム革命に当たり、文学の規範を、古典主義に求めて、ロマン主義を排除した。しかし、このモダニズム革命は、矛盾していたのである。自身の内部にロマン主義ないしサンボリスム(象徴主義)の要素をもっていたのであり、それを否定するように、反動的に、古典主義を主唱したのである。だから、モダニズムは早晩限界に突き当たるのである。結局、ロマン主義や象徴主義の問題に正対しなくてはならなかったのであり、今日、D.H.ロレンス研究が盛んであるというのは、この意味があると言えよう。つまり、ポスト・モダニズム(ポスト近代主義)の問題が、現代的であると言えるのである。そういう現代の知的文脈において、D.H.ロレンスの再評価があると考えるべきである。そういう意味合いにおいて、ロレンスの本作品と自身の絵画集の序論を見ていきたい。

エトルリアとは、簡単に言えば、先史時代、イタリア半島に住んでいたイタリアの先住民である。紀元前8世紀〜紀元後2,3世紀まで、存在して、ローマ帝国によって滅びた。今日、イタリア半島の西側にある海洋をティレニア海と呼ぶが、ティレニアとは、エトルリアの語から発している。
本作は4つのエトルリアの地を選んで、そこの遺跡の紀行文となっている。

1. チェルベテリ
2. タルクィニア
3. ヴルチ
4. ヴォルテラ

本紀行文の中核となるタルクィニアに関する章を簡単にまとめる。


「タルクィニア」
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb01.html
「古代の原始時代の地中海民族、それもアジアもしくはエーゲ海系の民族の系譜に属していたと考えなければならない。私たちの歴史の始まりを告げる夜明けの薄明かりは、それに先立って存在した歴史の日没を告げる薄明かりに外ならなかった。」p.54
「エトルリア文明は、先史時代の地中海世界から芽吹いた一本の小枝、おそらくは最後の一枝のように思われる。そして、エトルリア人というのは、新たに来た人々も原住民たちも、互いに種族の異にし、文化の水準を異にしてはいたけれども、共にあの有史以前の古代世界に属する民族であった点では同じだった。勿論、後になるとギリシア人が大きな影響を及ぼすことになった。しかしそれはまた別問題だ。」p.54
「・・・ちょうどエトルリアの宗教が十中八九まで基本的には土着の宗教であり、有史以前の古代世界を包んでいたある広大無辺な古代の宗教に属するものであるように。有史以前の世界という暗がりの中から滅び行く様々な宗教の瀕死の姿が浮かび出て見える。それらの宗教は未だ男の神々、あるいは女の神々という人格神を作り出してはいず、ただ大宇宙に存する根源的な諸力の神秘によって、私たちが今日弱々しい声で自然と呼んでいるものが持つ、あの様々な複合的な生命力によって生きている宗教である。神々も女神たちも、何ら明確な形では未だ出現してはいなかったように見えるのだ。」p.56
「エトルリア人の本能のなかには、生命(いのち)から生まれる自ずからなる気分を守りたいちう真率な願望があったように思われる。」p.68


「タルクィニアの壁画のある墓(1)」

「狩りと漁り(すなどり)の墓」p.86
「みんな小さくて、浮き浮きとしていて、生き生きとした動きがあり、若い生命だけが持つあののびやかな自然さがある。ただ、こんなにも破損がひどくさえなければ嬉しいのだが・・・だってここにこそ本当のエトルリア的な快活さと自然さがあるからだ。それは強い感銘を押しつけてくるものではないし、また偉大でもない。ただ生き生きと寄せてくる生命の小波、と言った感じなのだが、もしそれで満足されるならば、まさにそれがここにあるのだ。」p.88
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb07.html
(突き当たり壁の死者が宴会を開いている光景)
「これは死の、葬送の宴なのだ,そして同時に、これは死者が、下界で、黄泉の国で開いている宴でもあるのだ。なぜなら、エトルリア人たちが往く黄泉の国で開いている宴でもあるのだ。なぜなら、エトルリア人たちが往く黄泉の国は、楽しいところであったからだ。生者が戸外で楽しい祝宴を開いている時、同時に、死者の墓でも、死者自身が、同じように祝宴を開いていたのである、傍らに貴婦人が侍して彼に花輪を捧げ、奴隷たちは彼に紫の酒を運んでいたのである、はるかなる黄泉のくにで・・・。なぜなら地上の生活が、かくも楽しく良きものであったが故に、下界の生活もそれの楽しい続きとなるより外はなかったからだ。
・・・
すべての立居振舞いの中に、何か舞踏のようなもの、生き生きと心を魅する輝きがある。裸の奴隷の男たちの立居振舞いの中にすらそれはあるのだ。」p.89〜p.90
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「豹の墓」p.92
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「饗宴の墓」p.98
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「バッカスの巫女の墓」p.104
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「死者の墓」p.105
「雌獅子の墓」p.106
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「乙女の墓」p.107
「彩色壺の墓」p.107
「老人の墓」p.109
「記銘の墓」p.111

★p.113〜p.134で、ロレンスが考える、エトルリア人の世界観・宇宙観が爆発的に述べられる。

「まるである力強い別種な生命の流れが、・・・彼等の中を滔々と流れているよう、まるで我々には掬むことを許されていない別の深淵から、彼等は生命の水を掬み上げているかのよう。」p.114
「生命の自然なる開花!」p.114
「エトルリア人にとっては、すべてのものが生きているものだった、全宇宙も生きていた、そして、人間の務めは、その全体の唯中で自分も生きることであった。人間は、様々な生命力が巨大な潮のようにうねり流れているこの世界という海から、生命という水をみずからの内部に掬み入れなければならなかった。全宇宙は生きていた、まるで巨大な一個の生きもののように。その全体が呼吸し、動いていた。
・・・
世界全体が生きものであった、そして、偉大な魂を、即ち霊魂(アニマ)を持っていた。そして偉大な一つの魂であるにもかかわらず、同時にもっとも小さな無数の漂泊して止まることのない魂に分かれているものでもあった。すべての人間が、すべての動物、樹木、湖、山、川がみな生きものであり、それぞれが自分固有の意識を、心を持っていた。そして、今日だってそれに変わりはないのである。 
 宇宙は一つであった、そして、宇宙の霊魂(アニマ)も一つであった。しかし、それは無数の生きものから出来ている一つなのであった。」p.115
「宇宙というものは、ただ一つの魂を持つただ一つの生きものであったが、そう私たちが考える暇もなく、それはたちまち変化して二つのものから成る一つの生きものとなり、内なる魂も、火のような魂と水のような魂と二つになり、二つは小休みなく混じり合い、またたちまちに相離れつつ、究極的には大宇宙の生命力によって一つの均衡調和が保たれているのであった。しかし、この二つは常に烈しい勢いで合体し、また烈しい勢いで分裂し、そして瞬時にして無数の生きものに変ずるのだった、無数の火山に、海に、それから河川に、山々に、森や林に、生きものたちに、そして人間に。だからすべてのものは二元的であった、即ち内に二元性を蔵していた、そして常時小休みなく混じり合い、瞬時にしてまた分裂していたのである。
 宇宙は一つの生きものであるという古代の思想が徐々に形成されて行ったのは、有史時代が始まるよりもはるかに古い昔のことであって、この思想が精緻に集大成されて既に巨大な一つの宗教となった後に有史時代がきて、我々はこの宗教を垣間見ることになるのである。有史時代のまさに夜明けの頃の、支那にも、印度にも、エジプト、バビロニアにも、いや太平洋諸島や原始時代のアメリカにも、既に一つの宗教思想が、それぞれの土台に存在していたという明らかな証拠が見られる。即ち宇宙は一つの生きものであり、宇宙を形成している無数の生命は、烈しく入り混じって混沌なる状態にあるが、しかしこの混沌には、依然としてある秩序が保たれているという宗教思想が・・・そして人間は、この真赤に燃え上がる混沌のただ中に立って、あえて危険をものともせず、力戦苦闘してただ一つのものを、生命を、活力を、さらに多くの活力を求めるのだ、彼方にきらめく大宇宙の生命力を、さらに多く己れの内部に、いやが上にも掬み入れようとするのである。その活力こそ求むべき宝なのだから。この能動的な力に満ちた宗教観によれば、人間は、鋭敏な注意力と繊細な感受性と全力をあげての努力によって、いよいよ多くの生命(いのち)をいやが上にも多くの、きらめく生命力を己れの内部に掬み入れることが出来、かくして遂にはみずからも朝の如く光り、神の如く燦爛として輝くことになるのであった。生命に満ち、完全に己れ自身を成就すると、彼は自分の全身を朱に塗った、曙の赤い初光のような朱に、そして神の体になった、まざまざと目に見える神の、赤々と、全身に生命が満ち輝く神の身体が具現したのである。」p.116〜p.117
「いろいろな墓を見て私たちの目に付くのは、ライオンと鹿とが対比されている図が、次から次に繰り返し出てくることである。この世界が創造されたそもそもの初めから、この世界は二元的な存在形式を取っていたと言うのが古代人の考え方だった。あらゆるものが、二元性を持つものとなった。・・・ 
 豹と鹿、ライオンと牡牛、猫と鳩もしくは鷓鴣(しゃこ)、これらの組み合わせは、この根元的な偉大な二元性、即ち動物の王国にある両極性と切り離せぬ一部をなしている。・・・この組み合わせは、聖なる大宇宙は、動物を創造する場合にも、動物には二つの対極があるような創り方をしたということをあらわしているのである。
 大切な宝の中でも大切な宝は魂であって、それはあらゆる生きもの、あらゆる生きもの、あらゆる木にも池にも内在するもの、そして火的性質と水的性質というこの二元性を形成する二つの部分、二つの要素の間の釣合い、もしくは均衡を知覚するあの神秘的な意識の切点を意味している。この神秘的な切点は、右手から次々に押し寄せる生き生きとした生命にも、それから左手からも次々に押し寄せるくる生命にも包まれるのである。そして個体は死んでも魂は決して消え失せることはなく、あの卵の中に、あるいはあおの壺の中に、あるいはあの木の中にすら保存されていて、そこから再び芽吹き生まれてくるのである。」p.131〜p.132
【この切点である魂とは、不連続的差異の境界のことではないだろうか。後で検討したい。】


「タルクィニアの壁画のある墓(2)」

「牡牛の墓」p.148
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb02.html
この箇所においても、ロレンスのエトルリアの宗教観・世界・宇宙観が述べられている。
「エトルリアの宗教は、けっして神を擬人化し神と人間を同一化する性質のものでなかったことは確かである。即ちこの宗教の中に現れている神々は、すべて存在しているものではなくて、根源的な様々な力(エネルギー)の象徴だった、まさに象徴に外ならなかった。そして、これはさらに昔のエジプトにおいても同じだった。分割されていない究極の神の本質は、もしそういう呼び方で言ってよければであるが、あのマンダム、即ちその中に核を持つ原形質的な細胞によって象徴化された。そしてこれがそもそもの始源、はじまりなのであって、我々の場合のように、究極の神の本質が、擬人化された神、人格神によって象徴されるではなく、また人間がすべての創造もしくは進化の目指す終点、究極の目的ではないのである。これがエトルリアのすべてに一貫して見られる原理だ。エトルリアの宗教は、霊魂の形成のもとでもあり、また霊魂の破壊のもとにもなるあの物質的な、そして創造的なあらゆる力、あらゆるエネルギーに対する信仰なのである。そしてあの霊魂、個性なるものは、混沌の中から、まるで花のように徐々に産み出されてくるもの、そして再び混沌の中に、即ち下界へと消え去って行くものに過ぎないのだ。これとは反対に、私たちは言う、太初(はじめ)に言葉ありき、とーーそして宇宙という大自然が真に実在することを否認するのである。私たちはただこの言葉の中にのみ存在するのであり、この言葉は打ち延ばされ薄く広げられて、すべてのものを覆い、メッキをかけ、すべてのものを隠してしまうのである。
エトルリア人にとって、人間とは、その人間の持つ他と異なる様々な性質や力に応じて、牡牛であり、あるいは牡羊であり、ライオンであり、あるいは鹿でもあるものであった。人間はその血管の中に、翼ある鳥たちの血を持ち、また蛇の毒を持つものであった。すべてのものはそういう血の流れから出現したのであり、従ってこの血縁関係は、それがどんなに複雑で両立出来ない関係になったとしても、けっして断ち切れれることはなく、また忘れられることもなかった。この血の川の中にはいろいろな流れがあって、その中にはいつもぶつかり合っている流れも少なくなかった、鳥と蛇、ライオンと鹿、豹と仔羊というように。しかしそのぶつかり合いそのものが和合調和の一形式に外ならなかった、ライオンが同時に山羊の頭を持っている姿に見るように・・・。」p.153〜p.154


「占い師の墓」p.161
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb03.html
「男爵の墓」p.165
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb08.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/194.jpg
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/197.jpg
「オルクス、即ち地獄の墓」p.168
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb12.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb13.html
「楯の墓」p.171
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb14.html

リンク
http://www.basarchive.org/sample/bswbBrowse.
asp?PubID=BSAO&Volume=1&Issue=1&ArticleID=10
http://www.victorianweb.org/courses/nonfiction
/lawrence/

エトルリア美術 
http://www.mysteriousetruscans.com/art/art.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/main.html
http://www.artlex.com/ArtLex/e/etruscan.html
http://www.huntfor.com/arthistory/ancient/etruscan
.htm
http://www.google.co.jp/search?q=etruscan+art&btnG
=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&num=30&hl=ja
http://www.insecula.com/us/salle/theme_40013_M0001
.html
http://witcombe.sbc.edu/ARTHrome.html#Etruscan

イタリアの地図
http://www3.zero.ad.jp/cipolla/map.htm
http://rome-navi.net/miritalymap.htm
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9716/italia0.
html
日本語
http://www.jalcityguide.com/world/italy/citymap01.jpg
イタリア(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3
%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2
イタリア・リンク
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5769/links.html


テーマ:絵画 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/11/22 03:55】 | 文学&哲学 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

日本人の想像力・創造力・差異力が枯渇・消滅・死滅した理由について
ロマン派は想像力を強調する。また、大江健三郎もそうだった。想像力をやたらに言うのは、鼻につく。しかし、芸術からこれを除いたら、単に感覚だけになる。先にも触れたが、想像力は唯物論によって衰退し、死滅させられたのではないか。かなり想像力のある中沢新一でさえ、霊的唯物論という奇妙な唯物論を説いている。唯物論とは、主体の外部に、客体である物質が存しているのであり、その真理を、主体が認識するという考えである。この考えを認めると、主体のもつべき想像力は、衰退する。どうも、戦後日本は、唯物論の道を歩み、現在のように、想像力の枯渇した国になってしまったようだ。イギリスの版画家で詩人のウィリアム・ブレイクは、詩的精神である想像力を強く説き、物質主義の近代に対抗した。そう、ディケンズもそのような面があるだろう。二つの文化(理科系と文科系)の問題は、実は、フッサール現象学で、乗り越えられているだろう。西洋人はプラトン主義が大伝統であるが、日本人は、アリストテレスは理解できるが、プラトンが苦手なようである。
 ところで、日本文学で、想像力がもっとも豊かなものは何だろうか。私は、折口信夫の『死者の書』をあげる。ただし、難解である。精読しないと理解できないだろう。緻密で、複雑にできているのである。

p.s. 想像力とは特異性においてあるものでもあろう。つまり、イデア界の力でもある。これは、軽薄ではない。想像力が消滅すれば、軽くなる。知識人に想像力がない。優れた知識人であった柄谷行人氏にも、想像力が欠落している。
 思うに、知識は、想像力を排除するような方向ではたらくようだ。想像力は理念的な力でもあり、また、主体の力でもある。民主主義を健全なものにするには、想像力が不可欠である。想像力的民主主義である。想像力の欠落した多くの日本国民に対して、民主主義は、洗脳する政治家の道具となる。
 とまれ、何故、想像力を排除するのか。どうして、想像力をもった知性を発展させないのか。それは、やはり、近代的合理主義的知性にとって、想像力は、夾雑物に思えるからだろう。これは、デカルトの責任があると思う。想像力はあいまいに見えてしまうのである。しかし、想像力はあいまいではなくて、明快なものである。虚構想像的な力である。スピノザの能動的観念には、想像力が含まれているだろう。

p.p.s. 想像力を排斥・排除した場合、それは、逆襲するだろう。想像力は本質的に人間に内在するものであるから、否定できないのである。だから、排斥・排除されれば、逆襲する。想像力はイデア界の力である。それは、ほぼ、イデア・メディア境界の力となるだろう。カオスモスの力である。これが排斥されたときは、反作用・反動が生じる。それは、どう現象するのか。それは、衝動となる。非合理な衝動、つまり、狂気となるだろう。もっと正確に言うと、志向性、他者への志向性を排除しているので、連続化だけとなり、現象自我へと集中する。自己中心主義、パラノイア、自己愛性人格障害、分裂症等になるだろう。つまり、想像力の排除に対して、反動衝動が起こるのである。現象自我中心性に、他者排除的反動衝動が加わるのである。つまり、憎悪・暴力が現象自我に内在しているのである。想像力的他者を攻撃しないではないだろう。反感、ルサンチマンからである。そう、ニーチェがキリスト教に見たルサンチマンとは、想像力の排除と等価だろう。想像力とは他者への志向性である。一神教は他者を否定するのである。ここから逆に言うと、一神教とは、ユダヤ・キリスト教とは、想像力を排除したものである。イデア界の志向性を排除しようとする連続・同一性の宗教であろう。やはり、イデア・メディア境界において、イデア界を暴力的に閉ざそうとするあり方であろう。それは、連続・同一性の展開のあり方である。そう、おそらく、+エネルギー的あり方と言えるのではないか。−エネルギーを否定するのである。−エネルギーを認めまいとする不合理な暴力性をもつ。そう、これは、無意識となったイデア界の力が衝動化して、現象自我に狂気をもたらすのである。そう、差異・他者を否定しているので、コスモスがカオスとなった衝動が襲うのである。これは、明らかに精神病である。西洋文明、キリスト教文明は精神病となるのである。

テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/11/20 23:48】 | 心的活動 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

夢、想像力、創造力と不連続的差異論:実在感、実在力の基層・原基・基盤は何か

先の検討の中から、夢、想像力、創造力の基盤・根拠が問題になったので、ここで検討したい。 
 先ず、具体的な簡単な疑問から見ていこう。夢を見ているとき、ほぼ夢には実在感がある。夢の世界を疑問なく信じている。(中には、夢と感ずる場合もあるだろうが、ここでは、例外としておく。)この夢の「実在感」から考えたい。現象界の知覚の基盤として、メディア界がある。超越論的知覚である。夢は、この知覚が形成すると考えられる。メディア界は、多様体と考えられる。そして、原時空間であるから、時空を超越するし、また、現象界的連続性を超越する。【フロイトは、夢における性的思考の圧縮や置換を述べていたが、性的と限定する必然性はないと考えられる(フロイト批判)。】この現象界から見たら、奇妙な世界を、見ているときは、そのまま実在と感じている。夢見とは何だろうか。視覚、内的視覚、内的視知覚の問題がある。これは、志向性に還元できると考えられる。つまり、志向性には、視覚、ヴィジョンも入るのであり、とりわけ、視覚が重要だと考えられる。しかし、志向性は根源的には原知覚である。超越論的主観性である。とまれ、視覚優位とは、当然、光と関係する。差異・ゼロ度から発出するメディア界は、ゼロ度を内在している。このゼロ度は、メディア界の強度を発生させるものである。もっとも、強度とは、差異・ゼロ度自体を意味するが。
 ここで、力の問題を考えよう。ゼロ度において、力が発生する。この力は、「知覚」でもある。ここで、用語を規定して明快にしよう。イデア界のおける超越論的主観性を根源知覚ないし原知覚、メディア界におけるそれを中間ないし媒介知覚と呼ぼう。そして、現象界の主観性は現象知覚である。メディア界の力は、中間ないし媒介知覚である。そして、これは、作業仮説として、4つの力に呼応する4つの中間ないし媒介知覚である。感覚・感情・直観・知性の媒介知覚である。もっとも正確に言えば、中間的感覚・感情・直観・知性であり、現象界のそれではない。とまれ、これらが、ゼロ度の4つの力・媒介知覚である。
 では、これらと視覚、視知覚とどうつながるのか。E=mccである。エネルギー・強度において、質量と並んで、光が根源である。強い力と弱い力と重力が質量に関係し、電磁気力が光に関係するだろう。思うに、光の特殊性があるのだろう。ここで、作業仮説的に私の直観を言うと、重力が反光である闇、ダークネスである。つまり、光と重力が対(つい)になっているのではないだろうか。光と闇(重力)が相補性を形成するのではないか。とまれ、言えることは、光と闇が、メディア界において志向性の中核になるのではないかということである。そう、光とシャドウ(重力)の相補性がメディア界の知覚、中間知覚の枢軸ではないか。これを作業仮説とする。ということで、メディア界の志向性
において、視覚、視知覚が優位となるのである。これは、光且つ影である。そして、夢の実在感から言うと、この光/影が実在感の基盤ではないだろうか。即ち、光/重力が基盤ではないかということである。正確に言えば、光/影と質量性が実在感の根拠であろうが、質量性は、夢においては、光/影の背後に隠れているのだろう。(後で、光/重力、光/影(シャドウ)について考察する。)
 では、この実在感とイデア界はどう関係しているのだろうか。睡眠において、イデア界に「知覚」は回帰すると仮説しているが、夢を見ていない睡眠において、「知覚」は、4つの力・中間知覚を超えて、イデア・メディア境界(IM境界)に達して、さらに、イデア界内部に帰還していると思われるのである。つまり、根源知覚、根源的超越論的主観性に達していると考えられるのである。純粋な志向性の世界である。これは、絶対界である。デュナミスである。ここは、前エネルギー世界である。あるいは、ポテンシャル・エネルギーの世界である。これによって、知覚は、原エネルギー体となるのであろう。そして、目覚めとともに、知覚はエネルギーを使用するのである。
 さて、最後に、光/重力、光/影(シャドウ)について考えよう。これは、相補性の関係にあると思う。比喩的というか文学的に言えば、光には、影が伴っているのである。光と闇とは一体である。両者は分離できないのではないだろうか。つまり、光と重力は分離できないのではないだろうか。電磁波と重力との相補性があるのではないだろうか。光が重力で曲がるのは当然だと思う。なぜなら、光と重力は不可分一体だからである。光は重力を伴うのである。知覚で言えば、直観と知性が結びついているのである。そして、これが広義の視覚・ヴィジョンであろう。これが、ニーチェのアポロ的なものに相当しよう。アポロ的ヴィジョンである。そして、これは、影・闇・シャドウが付随している。ディオニュソスである。アポロとディオニュソスは一体であり、いわば、双子である。先に、ディオニュソスを、イデア・メディア境界的な矛盾同一・カオスモス的なものと考えたが、それも考えられるが、狭義においては、こちらの方が適切ではないだろうか。(後で、検討しよう。)アポロとディオニュソス、光と影は一体であると考えると、いろいろ説明がつくことがあるだろう。D.H.ロレンスは黒い太陽と言ったが、それは、ディオニュソスのことだろう。また、暗い神と言ったが、それもディオニュソスだろう。光と闇は双子である。(思うに、天使と悪魔、善と悪も双子だろう、おそらく。プラトンの白い馬と黒い馬も双子だろう。)この闇が光に付随して、身体へとつなぐ。知性が身体と連結するのである。思うに、この闇が想像力・構想力であり、心身を結合しているものではないか。そして、「気」とはこの闇ではないか。つまり、重力である。また、さらに、ダークマターの問題であるが、これも、重力に関係する問題ではないか。光の背面にダークマターがあるのではないか。結局、光重力論が出てくるのではないだろうか。まぁ、作業仮説的想像はここまでとしよう。

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【2005/11/20 12:24】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

イデア・メディア境界とイデア界的身体/意識について:イデア知覚とメディア知覚

先の諸考察を整理する必要があるが、ポイントは、イデア界の力を把握した思考をどう捉えるかである。自我、現象自我とは、イデア界→メディア界→現象界の帰結としてあり、これは、歴史的には、近代主義である。(宗教的には、キリスト教の誕生がそうだろう。イデア界が現象界になるのであるから。)しかし、この連続・同一性の志向性は、反転して、イデア界←メディア界←現象界という差異への志向性となる。これが、ポスト・モダニズムである。脱近代主義である。哲学的には、ニーチェとフッサールが巨大な震源である。これは、物理学では、相対性理論、量子力学とパラレルである。文学・芸術では、「モダニズム」がパラレルである。
 明確にしなくてはいけないことは、メディア界の意味である。これは、連続・構造界であり、現象界の原型・形相の世界であることである。現象界にとっての直前の超越論的世界である。カントの超越論的形式は、メディア界の一つであると言えよう。先に、身体をメディア界と考えたが、それは正しいだろうか。つまり、身体とは超越論的世界や原型・形相・構造の世界になるのだろうか。メディア界は差異・ゼロ度連結界である。この差異・ゼロ度連結において、ゼロ度的側面において思考・知性が、差異的側面において身体が発現するだろうが、両者は相補性を形成すると考えられる。つまり、

身体ー差異/ゼロ度ー思考

である。だから、メディア界は身心体と呼んでもいいだろう。とまれ、身体をメディア界とするのは、不正確である。身心体をメディア界とするのが正しい。では、身心体において、超越論界があることになる。身心性の四つの知覚、感覚・感情・直観・知性と、超越論性がどう結びつくのだろうか。これは、カント的に考えて、超越論的感覚・感情・直観・知性があるとすればいいだろう。つまり、超越論的身心体性である。これが、原型・形相・構造となる。一種の超越論的主観性である。メディア界的超越論的主観性である。
 問題は、この超越論性を知覚できるのかということである。ここでも直観で述べよう。身心体において感じる過剰な知覚は何だろうか。感覚のフレームを超えるような過剰な、何か超越的な知覚とは何だろうか。これは、思うに、一種の超越論的主観性だと思う。ならば、身心体において、超越論性を知覚できるのである。つまり、差異/ゼロ度というメディア界である身心体を知覚できるのである。超越論的知覚を得ているのである。
 そして、さらに問題は、このメディア界的知覚は、イデア界的知覚に達するのではないかということである。メディア界はイデア界に接している。だから、理論的に、メディア界的超越論的知覚は、イデア界に触れることができるのである。これは、すぐれた哲学者、芸術家、宗教家等において存していることだろう。
 では、この接触したイデア界はどのような知覚をもたらすのか。それは、一言で言えば、カオスモスの知覚である。あるいは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一である。これは、力の知覚でもある。ニーチェのディオニュソスとはこの知覚であろう。簡単に言えば、一即多である。実際はもっとはるかに複雑だろうが。とまれ、不連続的差異と不連続的差異とが共立しつつ、連結する状態である。ここには、イデア界の力とメディア界の力とが混交しているだろう。問題は、このイデア界の力がどういう機能をもつのかである。これは、正に、脱構築であろう。メディア界の構造を解体するだろう。正確に言えば、脱構造化であろう。つまり、連結・連続化した差異の構造を、イデア界の力は解体させるのである。つまり、不連続化させるのである。この頂点にニーチェ哲学がある。問題は、このイデア界の力とメディア界の力とをドゥルーズのように混同しやすいことである。不連続性の力と連続性の力とが混同されやすいのである。これをどう識別するのか。これはとても難しいと思う。なぜならば、連続化と同時に、不連続性に触れるからである。ここで、特異性を考えるといいだろう。不連続性とは特異性である。この特異性がメルクマールとなるだろう。イデア界の力とは特異性を形成する。例えば、コギトとは、特異性であるから、イデア界の力である。また、自然との一体感というのは、それを感じる自己は特異性であるが、一体感は連続性であるから、メディア界の力が入っていると言えるだろう。ということで、特異性が区別する契機になるだろう。
 では、イデア界の力、特異性はどのような力学をもつのだろうか。いわば、脱構造的「構造」を形成するのではないか。つまり、共立である。不連続的差異の共立構造を形成するのだろう。これは、メディア界的な連続構造とは異質のものである。ドゥルーズ&ガタリが離接(分離的接合)と呼んだものに近いだろう。あるいは、ガタリの用語だと思うが、機械状アジャンスマン(アレンジメント)に似ているだろう。これは、近代の連合、連帯、アソシエーション、コミューン、団結等々とは全く異なるもの、次元の異なるものである。共立、共存、共生であろう。これは、フッサール現象学の志向性の世界である。不連続的差異の他者の不連続的差異への志向性がある世界である。そして、ここは、コナトゥス(自己保存力)が機能している世界である。しかし、また、不連続的差異の境界的調和が作用している「調和」の世界でもあるだろう。おそらく、原調和の世界である。イデア・メディア境界において、ゼロ度の調和があるだろう。
 そうなると、イデア界の力、即ち、虚力は、(独特の)創造性をもつだろう。不連続的創造性である。これまでにないものを生み出すと言えるだろう。発見や発明。つまり、イデア界の虚力は、新しいメディアを創出するだろう。あるいは、ポスト・メディアである。つまり、不連続的差異・特異性の共立である脱メディアの創出である。
 最後に、イデア界の虚力と想像力についてである。想像力とは何かである。イメージ力とは何か。あるいは、実在感とは何か。夢は実在感がある。何故か。実在感の基礎がはたらいているからだろう。実在感の原基は、イデア界なのかメディア界なのか。これは、夢はメディア界的であり、実在感もほぼメディア界に拠るだろう。そして、想像力は、やはり、メディア界的なものだろう。しかし、夢、実在感、想像力は、メディア界のみを根拠にしているのか。イデア界の力がないのだろうか。今は、指摘だけするが、イデア界の力がやはり作用しているのではないだろうか。例えば、小説を読んで深く作品世界に参入しているとき、それは、メディア界的であると同時に、読者が創り出している虚構世界だから、イデア界的創造力がはたらいているのではないか。虚構は、単にメディア界的構造では形成できないのではないだろうか。メディア界は、構造という固定した世界であるからと考えられるからである。想像力には、やはり、イデア界の創造力が必要のように思える。後で、検討を深めたい。

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【2005/11/20 02:44】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

不連続的志向性と連続的志向性:イデア界的志向性とメディア界的志向性

先にあげた4つの力・知覚(力知覚)は、メディア界における連続的な力であり、それは、現象界の自我の基本構成(基本構造)となるだろう。しかし、自我においては、メディア界だけではなく、イデア界が作用しているのである。もっとも、これは無意識的にという方がほとんどの場合適切だろう。ここで、身体の問題が発生するだろう。通常、身体は、感覚、感情、欲望の領域であるが、イデア界の作用を問題にするとき、身体性が問題となるのである。これはどうしてなのか。身体とは何かを考える必要があるだろう。実は、身体とは、延長と思惟との接合領域であると考えられる。感覚体であり、同時に、思考体である。つまり、身体とは、差異ゼロ度のメディア界領域総体を指していると見ていいだろう。自我や意識は身体から発すると言ってもいいだろう。(思惟と延長の二元論は、身体が欠落している。スピノザの心身平行論は、精神と身体の二元論で、思惟と延長との二元論とは異なるだろう。)
 ということで、身体=メディア界となったのである。そして、イデア界の力は、イデア・メディア境界に存している。これは、換言すれば、メディア界の背後、裏面にあると言えるだろう。通常は、この無意識のイデア界は隠蔽されている。しかし、ある時、これがひらかれるのである。これは、仮説的だが、成長と関係していると思う。成長の前半は、イデア界→メディア界→現象界と進展して心身形成される。しかし、これが、成長の後半になると反転すると思うのである。つまり、現象界→メディア界→イデア界である。何故こうなるのか。
 今、二つの考えが浮かぶ。一つは、イデア界のさらなる1/4回転である。他の一つは、メディア界の強度の極性力学である。前者は置いておいて、後者を考えよう。つまり、プラス強度によって連続化が発生したとするならば、当然、力の拮抗性によって、マイナス強度が発生する。

A)差異1+−差異2+−差異3・・・+−差異n

B)差異1−+差異2−+差異3・・・−+差異n

Aを+強度として、Bを−強度としよう。BはAの反転である。そして、A+Bで、再び、ゼロ度の状態を回復するだろう。つまり、イデア・メディア境界回帰となるだろう。この反転が、成長の後半であると作業仮説しよう。そして、これによって、イデア界の差異共存志向性が出現することとなる。ある人にとっては、心機一転の時期だろうし、ある人にとっては、宗教性への開眼だったり、ある人にとっては、精神病や狂気の発生だったりするのではないだろうか。ユングが中年の危機と呼んでいたものがこれと共通するだろう。(思うに、ユング心理学の無意識はイデア界と見れば、明快になるだろう。)
 すると、必然的に、メディア界の反転によってイデア界の力が自我に参入するようになるのである。(思うに、天才と呼ばれる人は、イデア界の流入が初期、前期からあるのだろう。また、精神病理も、これと関係しよう。)そして、この流入の場所が、身体であると考えられる。なぜならば、メディア界の反転においてイデア界が流入するのであるから、身体であるメディア界に生起することになるだろう。
 このように考えると、メルロ=ポンティの身体現象学やD.H.ロレンスの身体的無意識論が、より明快整合的に説明できるだろう。フッサール現象学も身体現象学と言えるようになるだろう。また、ロレンスの身体的無意識の二元的四元性の知覚とは、イデア界的対極的志向性とメディア界的対極的志向性を総合させたものを表現したいるのかもしれない。
 さて、この観点からポスト構造主義を見ると、それは、イデア界的次元の示唆にあると言えるだろう。差異ゼロ度によるメディア界を近代的二元論的世界に説くのであるが、それは、また、イデア界領域を示唆していたのである。思うに、長期の文化期においてもこのような反転が言えるのではないだろうか。不連続性から連続性へ、そして、連続性から不連続性へと移行する。
 ここで、気になるのが、映像の問題である。特にテレビの問題である。(私は、テレビをほとんど見ない。)今日の映像は、写実主義であり、連続体である。(ドゥルーズの映画論はベルクソンの持続論を根拠にしているので、連続論で、全く使い物にならないだろう。)これは、人間の視覚を平面・平板化させると思う。つまり、イデア界的心象直観を喪失させるように思うのである。これは、また、都市の問題である。イデア界的建築物や施設の有無の問題である。今日の都市文化において、イデア界的直観が欠落すると思うのである。自然の乏しさも問題である。おそらく、イデア界的心象直観と現代の映像・都市がそぐわないのである。不連続的映像・都市が必要である。テレビの不連続化が必要だろう。ライブドアはどうなっているのだろう。不連続的差異テレビである。

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【2005/11/19 10:07】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

差異共存志向性とは何か:イデア界の虚力的脱構造性とメディア界の構造性

先に、4つの力・知覚に関して言及したが、では、それまで述べていたイデア界の差異共存志向性はどういうものとなるのだろうか。差異共存志向性とは、イデア界の力である。だから、先の4つの力・知覚の考え方は、補足説明が必要だろう。イデア・メディア境界において、イデア界の虚力が作用する。この虚力が連続化して4つの力となるのであるが、しかし、連続化されない虚力あるのである。これが、差異共存志向性ではないか。4つの力・知覚が、連続・同一性の自我を形成するなら、差異共存志向性の虚力は、脱自我、ポスト自我を形成するだろう。だから、4つの力・知覚+一つの虚力・虚知覚だろう。この虚力・虚知覚が、虚次元知覚であり、イデア界知覚である。この虚力・虚知覚・イデア界知覚を近代主義は排出・隠蔽しているのである。これは、自然科学的に見たらどうなるのだろうか。虚力を自然科学ではどう捉えているだろうか。これは、高次元や虚時間等で、考えられているの事象ではないだろうか。因みに、空海は、五大に響き在りと言った。地水火風空である。だから、空が虚力・虚知覚ではないか。この空は、メディア界の空ではなくて、イデア界の空である。また、思うに、「気」とは、この虚力ではないのか。
 思うに、現象界において虚力的創造化することが、差異共創共存主義ではないか。虚力が新たな差異連結を創造するのである。ところで、プラトンのコーラとは、この虚力的形成力を指しているのではないだろうか。これまで、メディア界的形成力がコーラと思っていたが、どんなものも受け入れる容れ物とは、虚力的創造力でしかないだろう。なぜなら、メディア界的形成力とは、構造・原型・形相であるからだ。それは、連続的差異の多様体・位相体である。これは、生成変化するが、連続体の型があるだろう。だから、あらゆる形態をもつというわけにはならないだろう。構造主義としてのメディア界であろう。黄金分割とかフィボナッチ数列とかである。あるいは、有機体の連続性である。脱構造化するには、イデア界の虚力が必要である。そして、コーラとは、融通無碍なものであるのだから、虚力であると見た方がいいだろう。つまり、コーラとは、イデア・メディア境界を超えて、イデア界的虚力であると思う。やはり、プラトンは、決定的にイデア界を捉えていたこととなるだろう。プラトンのイデアは、メディア界的構造とイデア界的脱構造の両方を指しているのである。最初のポスト構造主義者であるし、また、イデア界を明快に指していた点では、デリダやドゥルーズを超えていたと言えるだろう。

p.s. イデア界の虚力の知覚を理性にすれば、カント哲学が解明されるのではないか。純粋理性批判とは、イデア界的知性とメディア界的知性の混同である。これによって、アンチノミーが生じていると考えられるのである。イデア界的知性を不連続的知性、メディア界的知性を連続的知性と区別すれば整合化されるだろう。アンチノミーはないのである。とりあえず、前者をイデア知性、後者をメディア知性と呼べるだろう。近代主義の知性とは現象知性であろう。

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【2005/11/18 22:27】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

不連続的差異論的資本主義とはどうなるのか:不連続的差異論的共創共存資本主義ゲーム

不連続的差異論の開花した資本主義とはどうなるのだろうか。それは、差異共創共存主義となるだろう。市場原理は尊ばれる。一種、ゲームのように資本主義がなるだろう。つまり、ゲームを楽しむように、資本主義を経営するようになるだろうし、働きが、楽しみとなるだろう。楽働、楽労、楽営となるだろう。
 不連続的差異論とは、差異の全面的な開花を意味する。即ち、スーパー・ルネサンスである。このとき、企業において、共創共存原理によって、どんどん新しい製品が開発されるようになるだろう。つまり、個々の才能が開花されて、連結されて、独創的な発想や製品が生まれるのである。これは、次から次へと、自ずから、湧き上がる発想・独創である。いわば、インスピレーションによって企業経営が為されるだろう。そして、この延長で、諸問題も解決されることとなるだろう。病気、戦争、公害、食料、福祉・医療・年金等々の大問題も、解決されるだろう。人類は、新しい黄金時代を迎えるだろう。「水瓶座」の時代である。
 これは、空想ではなくて、真理である。根源的差異である不連続的差異を開花させることで、資本主義は、新しい段階に達するだろう。不連続的差異論的共創共存資本主義ゲームである。人類総天才化時代となるだろう。イデア界的資本主義ゲームである。
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2005年10月23日

ポスト新自由主義へ向けて:単純利己主義から相互利己主義へ:個体差異自由経済=個体差異共存経済

新自由主義とは、資本主義の純粋化である。国家の規制を最小として、市場原理を絶対とするのである。しかし、市場とは何かである。というか、それ以前に、交換価値とは何かを考えなくてはならない。これは、量的価値でああり、マルクスが説いたように、一般的価値であるが、しかし、単に一般的価値だけではなくて、個人の力と結びついた価値であろう。つまり、これは、イデア界と結びついていると考えられるのではないだろうか。そう、交換価値とは、きわめて、現象界的である。あるいは、自然的である。不連続的差異の連続・同一性化である現象界と一致すると言えよう。自然のもつ仮象性と結びついているだろう。だから、これを解体するのは容易ではない。それは、いわば、反自然的行為が必要である。資本主義、新自由主義は自然なのである。そして、この自然は、破壊的なのである。エントロピーの増加である。死へと邁進している。結局、新自由主義は、自然のいわば摂理である。破壊的自然である。ここで、シェイクスピアの『リア王』のグロースターの私生児エドマンドを想起する。彼とゴネリルとリーガンが「新自由主義」的自然である。この破壊衝動は何なのだろうか。これは、一神教的衝動である。ヤハウェ的衝動である。我有り有りて、有り余れるものなり。これは、イデア界の過剰、イデア・エネルゲイア、ディオニュソス的なものである。小泉首相はディオニュソス的である。私はこれまで、一神教的衝動を反動として捉えてきた。しかし、連続・同一性という自然のシステムから見たら、反動ではないのではないだろうか。ならば、多神教はどうなるのだろうか。
 ここで、再点検しよう。イデア界とメディア界の境界、IM境界で、最初の連続化が起こる。そして、メディア界と現象界との境界、MP境界で、自我化が完成するだろう。しかし、ここで、多様性を自我統合しようとするだろう。自我中心的に、他者を統括しようとするのである。だから、多神教と一神教との「差異」とは、このメディア界と現象界との境界、MP境界にあると言えるだろう。両者、IM境界は共通である。しかし、MP境界において、相違が生じる。多神教は、IM境界の差異共存性を肯定しつつ、「自己実現」する。つまり、MP境界は、形式⇒個体現象というようになる。しかし、一神教においては、捩れが入るのである。差異共存性を捩じ伏せるようにして、自我統合を図るのである。この捩じ伏せが問題点である。この起点はどこなのか。もし、差異共存志向性があれば、それを捩じ伏せないといけないだろう。だから、この起点は、MP境界ではなくて、IM境界となるだろう。ここで、作業仮説であるが、IM境界において、90度回転に対する反動が生じるとしよう。それは、メディア界化に対する反動・反作用である。つまり、差異共存から差異連結化への反動・反作用である。つまり、不連続的差異性の反作用ではないか。これが、一神教の起源・震源・起動点ではないだろうか。水平化に対する垂直化の反動・反作用・反発である。だから、差異共存性に基づくメディア界的多様性である多神教を否定しようとするのではないだろか。つまり、これは、ガウス平面で言えば、さらに90度回転ということで、180度回転、1/2回転ではないだろうか。しかし、さらに、これが、90度回転するだろう。270度回転、3/4回転である。これは、新たな差異共存/差異連結化であり、これからさらに90度回転して、4/4回転で、回帰する。つまり、根源の起源回帰である。
 とまれ、一神教とは以上のようなものとするならば、差異共存性を破壊し、無、カオスへと向かう。というか、連続・同一性を破壊するのであり、差異を志向しているのである。連続・同一性を徹底的に破壊するのである。それは、新たな差異共存性を志向していると言えるだろう。
 ここで、経済に適用すると、一神教とは新自由主義であり、それは、連続・同一性である国家資本主義、官営資本主義、社会主義的資本主義を破壊する。その市場主義とは、不連続性の志向である。そして、その不連続性は、差異共存性を志向するに違いない。その差異共存的経済とは何だろうか。それは、個体的差異に基づく経済である。若きマルクスの経済学だろう。フッサールの生活世界である。ロレンスの『死んだ男』である。折口の『死者の書』である。個体的差異を単位とする経済である。それは、IBMのような企業では実際起こっている事象である。個体的差異的経済である。そのための、市場経済である。新自由主義は、個体差異的自由経済を内在・潜在している。悪魔の新自由主義は、天使の個体差異自由経済を内在させているのだ。結局、私が言う差異共存主義とは、このことではないだろうか。個体差異自由経済が、差異共存主義ではないか。個体差異は明らかに、共存共創するだろう。なぜなら、差異はそういうものだからだ。
posted by ソフィオロジスト at 01:29| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月10日

不連続的差異共存資本主義社会へ向けて

「襞」という概念について:不連続的差異共存資本主義社会というエンテレケイア

ドゥルーズの『襞』はとても刺激的である。アイデアを刺激するのである。この書の冒頭を少し読んだだけで、いろいろ考えが浮かぶ。後で、冒頭部分を引用したいが、今は、簡単に襞に関する私見を述べたい。
 やはり、ドゥルーズは、イデア/メディア界の境界において哲学しているのであり、その「絶対矛盾的自己同一」性の「カオスモス」にいわば飲み込まれているだろう。ここでの論理的不明快さ、論理的渾沌の最中にあって、哲学しているのであり(とても、中沢新一に似ているが、中沢の方が、より「いい加減」、杜撰であるが)、論理的思考、知的思考としては、杜撰さがある。知性の曇り、濁り、混濁があるのである。しかしながら、イデア/メディア境界(IM境界)で思考しているので、真理に、あいまいな様態ではあるが、接近するのである。だから、私は、刺激を受けるのである。
 本件の「襞」であるが、それは、不連続的差異論から見ると、正に、イデア界/メディア界境界、イメディア境界、IM境界を連続性の側から、メディア界側から捉えた見方、捉え方、視点であると思えるのである。連続性の視点だから、襞という連続的差異的織物が出てくると考えられるのである。これは、もう、時代遅れの考え方であろう。不連続性を原点に置かなくては、現代、現実、真実・真理は捉えられない。たとえば、連続性の立場が、先の倒錯衆院選挙を生んだのである。首相の「改革」と連続する立場(メディア界の立場)が、あの結果を生んだのである。(思うに、メディアの時代をもう終わった思う。不連続性のエポックである。ブログやHPがデモクラシーを現代では体現しているということは、それらは、不連続的差異の視点であるということを考えると、ポスト・メディアであり、イデア時代であると言えるだろう。あるいは、不連続的差異、不連続的イデアの時代と言える。そう、ブログはメディアなのだろうか。これは、直接であり、剥き出しであり、メディア(中間、媒体、媒介)がないのではないか。イデア、特異性、不連続的差異の時代だ。ブログ・イデアの時代だ。)
 ということで、少し脱線したが、「襞」は時代遅れである。ドゥルーズは時代遅れである。ポスト構造主義は時代遅れである。メディアでなく、イデアの時代である。不連続的差異の時代、イデア界の時代、不連続的差異論の時代である(時代という言葉もなにか「時代遅れ」のようだ。エポックもそうだ。アイオーンの方がいいのかもしれない。)。そう、資本主義も近代の連続主義(国家資本主義、社会主義的資本主義、派閥・利権・集合的公共投資的資本主義)から脱する時代である。新自由主義とは、そのような意味合いをもつ、そのような過渡期の意味をもつだろう。近代的連続性を新自由主義は破壊するのだ。しかし、本当に向かうべき方向は、不連続的差異である。不連続的差異のもつ共存・共立・共生性である。イデア界へ向かうべきなのである。不連続的差異資本主義、差異共存共創資本主義、イデア界的資本主義である。もともと、資本主義は差異、不連続的差異、イデア界から駆動しているのである。イタリア・ルネサンスが資本主義の原点である。不連続的差異的共存資本主義が今や誕生する時である。









創造性とは:ホワイトヘッドの「把握」(prehension)とイデア/メディア境界創造性

ホワイトヘッドの「把握」(抱握)prehensionとは難解な概念である。以下のドゥルーズの説明を、不連続的差異論に適用して考えると、「把握」とは、イデア界とメディア界の境界を基礎とした知覚行為ではないだろうか。イデア界の差異共存体という特異性である主体性がある。それは、また、多様な連結を生成するメディア界へと変形する指向をもつ。つまり、イデア界とメディア界の境界は生成界と言うべき領域であり、おそらく、プラトンのコーラに相当するだろう。自然は、造化は、黄金分割、フィボナッチ数をもって生成する構造、自然構造をもっているだろう。それは、この境界の構造であると言っていいだろう。しかし、その規定構造がすべてではない。喩えて言えば、「がらくたDNA」のように連結されない不連続的差異群ないし不連続的差異共存体が、この境界領域に存するだろう。これは、ある意味で、剥き出しのイデア界、剥き出しの不連続的差異共存体である。(人間は、これは他の存在と比べて、これが過剰にあると言えよう。というか、イデア界総体を内在・内包・体現していると言える。)これが、原創造性であろう。これが、新たな連結作用をもつのである。だから、この非連結的な剥き出しの不連続的差異群・不連続的差異共存体の原創造性が、現象界の対象を、「反映」して、取り込むことができるのである。この新たな取り込み、新たな順列化は、再編成・再構築は、現象界の対象を不連続的差異に還元して、成されるのではないだろうか。そう、フッサールの現象学的還元のように、現象を不連続的差異に還元して、それを、主体性・原創造性に取り込んで、創造すると言えるのではないだろうか。思うに、現代美術の方法に似ていると思う。現象を不連続的差異に還元して、それらを新たなに連結して創造する、鋳直すのである。(ジェイムズ・ジョイスの方法、エズラ・パウンドの方法に似ているだろう。断片化して、それらを共存共立化させるのである。)
 ということで、ざっとではあるが、ホワイトヘッドの「把握」とは、イデア界とメディア界の境界のもつ創造性が原基となっている創造的理解行為であると言えるのではないだろうか。 
 なお、最重要な、イデア界とメディア界の境界を簡潔に命名すべきである。私が言ったイデア極とは、メディア界よりの言い方で不十分である。イメディア境界とでも呼ぼうか。それとも、IM境界。I/M境界。

「・・・ホワイトヘッドにとって個体とは創造性であり、ある〈新しいもの〉の形成である。もはや不定辞でも指示詞でもなく。人称的なもの問題である。部分をもち、しかも一部分であるもの、また内在的な特性をそなえるものを、要素と呼ぶことにすれば、個体とは諸要素の「融合」であるといってよい。これは連結や結合とはまた別のものであり、把握(prehension)といったものである。・・・把握とは個体的な統一性である。あらゆるものはそれに先行するもの、それに付随するものを把握し、徐々に一つの世界を把握する。目とは光の把握であり、生物は水、大地、炭素、塩などの把握である。・・・「反響、反映、痕跡、プリズム的な変形、遠近法、仕切り、襞」といったものは、心的な生活をなんらかの形で先取りする把握であるということができる。把握のベクトルは世界から主体に向かい、把握されたデータから把握するものに向かう(「自己超越体」)。それゆえ把握のデータは把握の公的な要素であり、一方主体とは親密な、あるいは私的な要素であって、直接性、個体性、斬新性を表現するのである。」
『襞』ドゥルーズ著、p.136.








ドゥルーズの『襞』からの引用

以下の引用において、ドゥルーズがカオスと呼んでいるものは、不連続的差異論における不連続的差異の共存空間であるイデア界に当たると考えられる。また、「篩」とは、メディア界のこと、あるいは、不連続性から連続性への転換のことを意味するだろう。イデア界とメディア界の境界と言ってもいいだろう。後で、引用を続けたい。ホワイトヘッドとライプニッツとを関係させている箇所で、実に興味意義深い。
 もっとも、やはり、ドゥルーズはイデア界をフッサールのようには、的確に捉えていない。イデア界はカオスというよりは、コスモスである。不連続的差異共存体というコスモスである。カオスというのは、イデア界とメディア界の境界を指すならば、そう言えると思う。しかし、境界は、西田哲学の絶対矛盾的自己同一という術語・概念が十分に表現している。西田の方が、ドゥルーズよりは、明晰であろう。ドゥルーズは、これまで何度も言ってきたように、境界的混同・揺動的思考を行なっていると言えよう。

「・・・出来事は一つのカオスの中に、カオス的な多様体の中に生じるのだが、それにはある種の篩(ふるい)が介入することが条件である。
 カオスは存在しない。それは抽象にすぎないのだ。それはカオスから何か(無ではなくてむしろ何か)を出現させる篩と切り離せないからである。カオスとは純粋な多(Many)であり、純粋な離接的多様さであるが、何かとはあsる一つ(One)であって、あらかじめ一つの単位でなく、むしろ任意の特異性を指示する不定冠詞なのである。いかにして多は一となるのか。ここには形をもたない可塑的な膜のように、電磁場のように、さるいは、ティマイオスの入れ物【コーラのことだろう】のように、大いなる篩が介入し、たとえその何かがカオスとほんの少ししかちがわないにしても、やはりカオスから何かを出現させるのでなければならない。この点でライプニッツは、すでにカオスに近似したいくつかのものを与えることができた。宇宙的な近似にしたがえば、カオスとは可能なものの集合であろう。つまりそれぞれが、それぞれに実在をめざすかぎりにおいて、カオスとはすべての個体的な本質なのである。しかし、篩は共可能的なものしか、共可能的なものの最良の組み合わせしか通過させない。物理的な近似にしたがえば、カオスとは無底の闇であるが、篩はそこから暗い底、フスクム・スブニグルムを抽出するのであり、それは暗黒とほとんど違わなくても、あらゆる色彩を含んでいる。篩とは、〈自然〉を構成する、無限に機械化された機械のようなものだ。心的な観点からすれば、カオスとは普遍的な目眩であり、無限小のもの、無限に小さいものとしての、ありうべきすべての知覚の集合である。しかし篩はそこから、調整された知覚の中に組み込むことのできる微分をとりだす。もしカオスが実在しないとしたら、それは大いなる篩の裏面にすぎないからであり、この篩は、われわれにはカオス的に見えない全体と部分の系列を無限に構成するからである。これがカオス的(任意の系列)に見えるとしたら、それらを追うことができない無能さによってカオス的であるにすぎない。洞窟さえもカオスではなく、一つの系列であって、その要素はやはり、ますます精妙になる物質にみたされる洞窟であり、洞窟の一つ一つは後続する洞窟に広がっていく。」(第6章 一つの出来事とは何か)
『襞ーライプニッツとバロック』ジル・ドゥルーズ著
宇野邦一訳 河出書房新社 pp.133~135

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/430924209X/249-3508088-6643522








イデア界と現象界とのインタラクションについて:交互作用のプロセスとしてのメディア界

先に、経験がイデア界に影響を与えると示唆したが、理論的にはどうなのか。イデア界とメディア界の境界は、不連続性と連続性とが不可分一体、西田哲学の絶対矛盾的自己同一の状態にある。つまり、不連続性即非連続性である(即非は、等号且つ不等号を意味する鈴木大拙の術語である)。この境界に経験・現象は影響を与えると思う。たとえば、暴力は、差異共存性の否定であるから、それは、暴力を振るう者の差異共存性を傷つけると考えられる。ここで、図式化すると、

イデア界とメディア界の境界
 
d1|d1
/ |〜
d2|d2
/ |〜
d3|d3 
/ |〜
・ |・
・ |・
・ |・
/ |〜
dn|dn

不連続性・・・・ |・・・・・連続性
差異共存性・・・ |・・・差異連結性


ここで、広義の暴力を揮ったとしよう。それは、差異共存性を否定する行為である。それは、メディア界/現象界の自我中心主義的行為と言えるだろう。反動行為である。それは、上図の境界を阻害すると言えよう。つまり、境界面に加害するのであり、この阻害・加害が、差異共存性への歪みとなり、「記録」、「記憶」されるだろう。つまり、イデア界への歪みの「記録」・「記憶」である。結局、イデア界にこの害悪が記録・記憶される。いわば、閻魔帳である。仏教や霊学では、死んだとき、生前での行為の清算がされると説かれる。しかし、これは、魂という連続体を前提としている。不連続的差異論は、そのような連続体を否定している。この個と普遍の問題は以前相当悩んだ問題である。特異性=普遍性であるが、この普遍性とは、イデア界である。だから、結局、差異共存性への阻害によるイデア界の歪みの記録・記憶がされるだけに留まるだろう。そして、イデア界は、この歪みを修正すべく、新しい個体を発生するだろう。歪みを更正する個体発生である。ここには、個の因果関係はないだろう。因果・因業はないのである。
 では、逆の場合はどうなのか。差異共存性を積極的に肯定した場合は、どうなるのか。それは、スピノザ哲学で言えば、能動的観念の発生であり、活動力が賦活されるような状態になるだろう。つまり、差異共存性、差異共存志向性を、個体において、活性化することは、イデア界の力を活性化することであり、イデア界と個体が共鳴し、インタラクションの回路が形成されて、両者、親和関係となるだろう。つまり、イデア界自体も賦活されると言えるのではないか。つまり、ホワイトヘッド哲学のような過程(プロセス)、即ち、メディア界を媒介として、経験・体験・行為・実践的現象界と根源的イデア界が相互作用・相互形成のプロセス関係にあるということになるだろう。
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2005年10月09日

不連続的差異論(はてなダイアリー)

これは、ODA ウォッチャー ズ氏とsophiologistがブログ 上で出会って生まれた新しい理論 である。端的に言えば、ジル・ドゥルーズ の差異の哲学 を、その連続 性と不連続 性との不整合さを取り除いて、後者中心に、首尾一貫・整合化したものである。これは、ポストモダニズム、ポスト構造主義 の後退後や、グローバリゼーション を受けた後の、閉塞状況から生まれたものであり、多様な分野・領域での行き詰まりに解明・解決を与える統一的理論 と考えられる。以下を参照されたい。

http://blog.melma.com/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db%cf%c0

http://kaisetsu.ameblo.jp/category-232976bb6994bc1dc0108d98b2b3a1d0.html

http://renshi.ameblo.jp/category-c500ecea7a687b51817aff1be94a2ccf.html

http://blog.melma.com/00112192/

http://blog.melma.com/00135605/20050317203443

不連続的差異

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db?kid=98883

http://blog.melma.com/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db

後記:以下、不連続的差異論 の新しい考え方がsophiologistから提起されている。これはまだ決定を見たものではなく、暫定的なものであるが、本理論 の確立やさらなる発展のために役立つであろう。

http://blog.melma.com/00135605/20050322205819

http://d.hatena.ne.jp/antares/20050524

http://d.hatena.ne.jp/antares/20050525

http://d.hatena.ne.jp/antares/20050528

プラトン とアリストテレス の統一論が提起された。

http://renshi.ameblo.jp/entry-d289c0176e3af660490d88bc80c5aa7a.html

ODA ウォッチャー ズ氏による不連続的差異論 の新たな解明である『不連続的差異論 ノート 』が更新 中である。

http://blog.melma.com/00138706/

『不連続的差異論 入門』として、本理論 の平易な解説を始めた。

http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913

不連続的差異論 の先駆として、ニーチェ /ドゥルーズ 哲学 だけでなく、フッサール 現象学 もそうであることが、発見された。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003750346.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003779798.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003913350.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003954621.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003982905.html

スピノザ 哲学 と現象学 の統一が提起された。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004264966.html

http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913/1845359#1845359

課題として、ホワイトヘッド 哲学 と不連続的差異論 の比較論が、不連続的差異論 を最終的に西洋 哲学 の集大成であり、また、新しい世界哲学 であることを、検証することになると期待される。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004271406.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004299001.html

不連続的差異論 とホワイトヘッド 哲学 との整合性・互換性の一つの試みが為された。まったくの試論段階であり、これから、さらに検討されねばならない。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004573995.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004716499.html  (アフォーダンス 理論 との関連に言及)

イデア 界とメディア 界の境界問題を解明した。即ち、差異共存志向性(フッサール の志向性ないし間主観 性・相互主観 性に相当する)が、イデア 界の力に存することを解明した。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004835272.html

sophiologistによる仮説であるが、ガウス 平面であるイデア 界は、x軸とy軸の直交 座標をもち、それに直交 するz軸が時間軸となり、これにさらに直交 するα軸、β軸、γ軸の空間軸を考えた。即ち、イデア 界は、x軸とy軸であり、y軸がイデア 界とメディア 界の境界であり、y軸⇒z軸はメディア 界であり、そして、z軸、α軸、β軸、γ軸が時空四次元 を構成するのではないかと考えた。

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-19.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004926125.html

さらに展開させると、x、y,z,α、β、γ、δの7次元 となった。これからもさらに検討を続ける。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004948722.html

ID(インテリジェント・デザイン )理論 、プラトン の『ティマイオス 』の宇宙 創造神デミウルゴス 、ユダヤ 神秘思想 の原人アダム ・カドモンの概念 も、不連続的差異 共存体であるイデア 界の概念 で説明できるようである。結局、イデア 界である差異共存体が人間個体に超越論的に内在しているということになった。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004956144.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004968981.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004977242.html

物理学 、相対性理論 と量子力学 との統一等に関しては、ODA ウォッチャー ズ氏の『不連続的差異論 ノート 』を参照していただきたい。思うに、不連続的差異論 を、超ひも理論 やペンローズ のツイスター 理論 と比較検討することで、最終的に、不連続的差異論 は、文系 、理系 の分化を超克した絶対的超統一理論 として完成すると考えられる。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004826864.html


http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db%cf%c0?kid=98880
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2005年10月04日

メディア界の構造について:イデア界とメディア界の境界について:イデア界ルネサンスへ向

メディア界の構造について:イデア界とメディア界の境界について:イデア界ルネサンスへ向けて

どうも混乱しているようなので、整理したい。

不連続的差異論の基本構成:
イデア界//メディア界//現象界

メディア界

d1〜d2〜d3〜・・・〜dn (dkは差異)

〜はメディア界の力・強度である。それは、イデア界の力が変容したものである。
問題は、差異共存志向性と差異連続・同一性志向性という対極をもつ力の形成である。
イデア界の力は虚数の力であるから、虚力と呼べる。
メディア界の力は、一種虚構力(仮構力・仮想力・想像力・創造力等)である。
現象界の力は、物質力・エネルギーである。
問題は、差異共存志向性の力とメディア界の虚構力との関係である。
直観では、どうも両者異なると考えた方がいいのではないだろうか。先に、メディア界の力で、差異共存志向性を説明しようとして、混乱してしまった。
差異共存志向性とは、イデア界の力と考えるべきではないのか。
つまり、問題は、イデア界とメディア界の境界の問題である。思うに、この境界において、差異共存志向性が作用するだろう。つまり、この境界において、差異は、虚力と虚構力の両義性をもつのであり、虚力において、差異共存志向性の力をもつと考えるべきではないか。そして、同時に、メディア界の力(メディア力)・虚構力をもつのである。メディア力とは、連結力である。即ち、イデア界とメディア界の境界(イデア/メディア境界)において、イデア力である差異共存志向性とメディア力である差異連結力の両義性が生起しているということである。
 さて、ここで、いわゆるコスモスという観念・感覚的観念であるが、それは、この境界の両義性から生じる観念(概念)ではないか。宗教観念や神秘主義はここが発生源ではないか。そして、また、ここが、不連続性と連続性との混同が起こる発生源でもあろう。20世紀後半のすぐれた哲学者であったジル・ドゥルーズは、この混同に陥っていたが、この境界で哲学していたのだろう。因みに、この境界を超えて、イデア界において哲学したのは、ニーチェとフッサールであると私は考えている。また、作家のD.H.ロレンスや『死者の書』の折口信夫はイデア界にほとんど越境したと考えられる。
 ということで、差異共存志向性と差異連結力を分離することができた。これまで、私はこれらをメディア界領域において考えてきたが、それは誤りであったこととなる。フッサールの志向性であるが、それは、イデア界の力・虚力である。超越論的現象学とは、イデア界の理論である。イデア界からフッサールは、現象を捉えていたのである。生活世界とは、イデア界的な生活ということになるだろうし、それは、理念的な生活、いわば理想的な生活である。しかし、資本主義はそこに向かうだろう。
 とまれ、そうすると、現象学的還元、判断停止(エポケー)とは、メディア界も超えることになるだろう。ならば、自然的態度とは、メディア界/現象界のことだろう。メディア界的な現象界のことだろう。こう考えると、たとえば、先の倒錯的衆院選挙の説明ができるだろう。多数の国民は、メディア界的現象界的思考をしているのであり、首相のパフォーマンスというメディア界的現象に牽引されたのである。一体化したのである。また、さらに、日本人の有り様もメディア界/現象界的存在様態として説明できるだろう。つまり、日本人は、イデア界を喪失しているのである。西欧ないし欧米には、イデア界が存しているだろう。個人主義、コギトは、イデア界的であろう。民主主義も本来イデア界が起源であろう。そう、西欧文化・西洋文化は、イデア界に起源があると考えなくてはならない。そして、西欧近代は、これを意識においてこれを喪失したのであるが、無意識においては、それは存在しているのである。日本人はどうしてイデア界を喪失したのだろうか。(そう、イタリア・ルネサンスはイデア界・差異の新たな発動である。また、プロテスタンティズム・宗教改革は、イデア界への反動であるが、根本においては、イデア界が発動しているのである。)日本人にとってのイデア界とは伝統的に何であったのか。明治維新とは、イデア界から発していると思う。しかし、近代日本のイデア界がどこかで喪失したのである。三島由紀夫が言った断絃の時とは、このイデア界喪失を指しているだろう。ハイデガーは存在忘却と言ったが、イデア界喪失があるのである、とりわけ日本において。(ところで、物理学や生命科学は、今や、イデア界を探求しているだろう。)その原因はどこにあるのだろうか。私の直観では、70年代後半にある。日本の現代文学が衰退したのも、この頃であろう。経済的には、アメリカ経済に組み込まれた時期ではないか。しかし、本当は、戦後日本であろう。アメリカに屈服した日本である。敗北した日本である。ここで、日本人のイデア界が喪失したのではないか。ここで、イデア界に起源がある個が、日本人から喪失したのではないか。文化侵略されたのである。折口信夫が新神道論を立てたが、完全に無視された。(神道が必要と私は言いたいのではなくて、問題は、イデア界の作用の問題である。)そう、敗戦が、日本人から魂=イデア界を喪失させたのではないか。そして、三島由紀夫の自害は、その反動である。戦前の天皇制は当然、問題であるが、しかし、日本人の魂=イデア界とリンクしていたと思う。敗戦/戦後において、魂=イデア界が喪失されたと思う。そして、折口信夫は、戦前天皇制が終焉して、神道の復活の好機と考えた。それは、結局、日本人の魂=イデア界の発展を意図したと言えるのではないか。しかし、実際は、アメリカ政治・経済に組み込まれたのである。戦後の近代主義が入るがそれは、皮相な合理主義であった。デカルト的な合理主義ではない。(もっとも、全面的に戦後を否定しているのではない。長所もある。ある意味で、合理主義が進展したことは認めなくてはならない。)
 思うに、明治維新でもそうであったが、日本人の二項対立性が作用しているだろう。尊王攘夷、戦後の戦前否定、郵政民営化選挙。二項対立とは、ヒエラルキー思考である。優劣思考である。封建的思考である。明治維新にしろ、本来、これの否定である。これはいったい何か。屈服した民の思想ではないか。隷属した民の思想ではないか。奴隷根性である。いったいどこで、この奴隷根性が発生したのか。卑しさの発生でもある。生存のための、卑しさを隠蔽する自己欺瞞がある。権力に踏みにじられ、屈服した精神がある。当然、暴力・権力があった。そう、卑しさである。誇りの喪失である。思うに、明治維新後、あるいは、戦後、日本人のイデア界の文化を形成すべきであったが、それが、確立されなかった。折口はそれを目指したのであるが。
 とまれ、原因は、やはり封建思想である。男尊女卑である。これが、いまだに日本人の精神に巣くっているのだ。これが、公共投資の無駄遣い・財政超赤字を生んだのでもある。日本社会主義的資本主義の原因であろう。ポスト封建思想が必要である。確かに、前近代的近代の日本人である。これが、現在、日本のネックである。世界は、ポスト近代的多極主義に移行しているのに、おそろしく退行しているのである。日本ルネサンスが必要である。日本イデア界ルネサンスが必要である。ぜひ、不連続的差異論を理解してほしい。






検討課題:多神教と不連続的差異論

差異が万象を形成するのだから、多神教の神々とは、諸差異に還元されるだろう。では、これらの諸差異とはどういう連結性をもっているのだろうか。
たとえば、木を創る「差異」とは。つまり、木・差異とは。水・差異とは。太陽・差異とは。動物・差異とは、等々である。
以前、太陽系の差異は、5個の差異であると仮想したが、さらに検討しなくてはならない。
形象の問題もある。
成長の問題もある。
もっとも、らせん的展開でほとんど説明できるだろう。
だから、形象の問題の方が大きい。
巻貝は、螺旋で簡単に説明がつくだろう。
渦巻き星雲も。
後、幾何学であるが、たとえば、三角形は?
これは、三個の差異でいいのではないか。
つまり、三個の差異の連結でいいのではないか。
d1、d2、d3の差異があるとしよう。これが、メディア界において、
連結する。そう、イデア界の垂直軸がいわばメディア軸となるが、これは、平面としていいのではないだろうか。即ち、メディア平面である。
そして、メディア平面での差異連結形式・形態・形相・「イデア」が、現象化すると言えるのではないだろうか。
すると、イデア界のガウス平面から、メディア界のメディア平面(エネルゲイア形態)へと展開するということになる。そして、ここから、現象四次元へと展開するということになる。
だから、形の問題は、メディア平面で原形が形成されるすればいいのではないか。
イデア界の3つの差異d1,d2、d3が、たとえば、メディア平面で、三角形の原形・「構造」を形成すると考えればいいのではないか。図化しよう。

イデア界:d1/d2/d3

メディア平面(メディア界)

 d1 
 / \ 
 d2___d3

思うに、このように考えると、量子論、分子論、分子生物学、大脳生理学等に適用できるのではないか。
また、本件の多神教の神々であるが、それは、やはり、メディア(差異連結体)であると考えられる。ゼウス(ジュピター)、アポロ、デメテル、アフロディテ(ヴィーナス)、ヘルメス(マーキュリー、メルクリウス、トート)、等々は、メディア平面で説明できるだろう。ゼウスは、メディア平面全体の強度・力ではないか。そして、これが、後の一神教へと転じたのではないか。ついでに、イエス・キリストとはどう説明できるか。イエスは、愛や許しを説いたが、それは、差異共存志向性のことだろう。つまり、メディア平面の強度とは、両極的であり、不連続性の極(イデア極)では、差異共存志向性をもち、連続・同一性の極(現象極)では、一神教的パワー(暴力・権力)をもつと言えよう。つまり、メディア平面の両極性において、「イエス・キリスト」と「ヤハウェ」が存するということである。ゼウスは、前ヤハウェであろう。
[ここで、現代政治の世界に飛躍すると、アメリカ一極主義とは、ヤハウェ路線である。(プロテスタンティズムとは、イエス教ではなくて、ヤハウェ教、つまりユダヤ教に似ているだろう。)そして、多極主義とは、多神教路線である。それは、差異共存路線である。]
とまれ、メディア両極多様平面(エッシャーのような平面)を考えると、多神教は説明できるのではないか。メディア多様平面における多様な組合せが、神々となるだろう。そう、ギリシア/ローマ神話の神々は、惑星でもある。そして、これは、占星術(古代宇宙論)と通じている。神々=「惑星」(たとえば、マルス=火星)は、メディア多様平面の諸差異連結で説明できるだろう。即ち、神々=「惑星」=諸差異連結である。多差異連結である。そして、これが、神々のパンテオンを形成する。しかし、これは単純ではない。これは、差異連結体の連結としてあるだろう。つまり、多差異連結体である。ヴィーナス・金星という差異連結体があり、マルス・火星という差異連結体があるということになる。
差異連結体であるが、これは、一種スペクトラム状ではないか。もちろん、プロセスもあるだろう。そう、虹の七色。光線のスペクトラム。七賢人。北斗七星、古代宇宙論での七つの星(月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星)。オクターブの七音。
思うに、メディア平面のスペクトラムが考えられないか。紫と赤。そして、人間の心、心身も、メディア平面のスペクトラムなのではないか。差異連結体スペクトラムである。多神教とは、これをイメージ化したものではないか。また、占星術もそうだろう。惑星とは、差異連結体であろう。 
 では、実際の太陽系はどうなのか。これも、一種メディア界の実現である。太陽系メディア平面があるだろう。太陽系スペクトラム。太陽系メディア・スペクトラム。これが、太陽系の原形となるだろう。この太陽系原形を地球も、人間も内在しているのではないだろうか。






『心は量子で語れるか』ロジャー・ペンローズ著

時間があったので、本書を百ページほど読んだが、内容は高度であるが、読みやすく、面白いと思った。直観では、ペンローズの理論と不連続的差異論を比較するととても意義深いだろう。結局、不連続的差異論を、ホワイトヘッド哲学とペンローズ理論とアフォーダンス理論と比較検討すれば、ますます洗練されるだろう。
 私見では、量子とは物質ではない。それは、差異の連結体である。メディア界の差異連結体が量子だと思う。そして、心も量子だと思う。正確に言えば、心身が量子だと思う。ペンローズの著作を読んでから、この点について、論じたい。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/index=books-jp&field-author=%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA%2C%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC/250-7564220-6771446


p.s. ツィスター理論であるが、どうも、不連続的差異論と似ているように思える。『ペンローズのねじれた四次元』(竹内薫著 ブルーバックス)から、引用しよう。

【相対論と量子論の申し子がスピノールと呼ばれる奇妙な数学的(かつ物理的)物体である。おおまかなには、スピン1/2のスピノールが二つ合わさるとスピン1の光子になるため、スピノールは、光の「平方根」だということができる。これは、大きさがゼロ(!)のベクトルの平方根である。
 このスピノールをたくさん集めてネットワークにした「ペンローズのスピン網」が現実の時空構造と酷似していることがわかり、「時空はスピンから作られているのではないか」という推測が生まれた。この推測を推し進めて数学的に厳密にしたものが、いわゆるツイスターというしろもの。ツイスターは、光の平方根であるだけでなく、それを渦巻きのようにねじってあるために、英語でねじった(twist)もの(-or)と命名された。】p.202〜 p.203.

推測で言えば、スピノールが差異、不連続的差異であろう。「ペンローズのスピン網」とはイデア界(多数ないし無数の不連続的差異の境界をもった原空間)に当たるのではないか。また、ツイスターであるが、差異は、回転すると考えているので、確かに一種ねじれがある。どうやら、ツイスター理論と不連続的差異論との比較論が実に生産的であろう。

『ペンローズのねじれた四次元』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062572605/ref=pd_bxgy_text_2/250-7564220-6771446

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2005年09月16日

現代日本ファシズムの成立と派閥政治の終焉:ポスト近代主義革命としての小泉ファッショ革命

現代日本ファシズムの成立と派閥政治の終焉:ポスト近代主義革命としての小泉ファッショ革命

先の記事は、支離滅裂であったが、支離滅裂になるというのは、私の思考が、私の哲学が、現実と噛み合っていないことから発しているのであり、これは、当然、洞察の不十分さを意味しているが、私としては、この矛盾は、とても生産的だと思っている。なぜなら、ここには、なにか新しい見方の必要が生じていることを意味しているだろうからである。たとえば、これまで、近代主義・自我主義を差異の観点から批判してきた。そして、小泉政治をそれと同一視してきた。しかし、これはある意味では正しいが、小泉政治が果たした積極的な仕事、派閥政治の解消を評価することができないということである。私は、理論的に、この点を取り込みたいので、理論のなんらかの進展や修正が必要となるのである。だから、ここで、整理して、整合化したい。
 新自由主義とこれまでの自民党の派閥政治の関連を整理しないといけない。これは、近代の問題、近代日本の問題である。私は、これまで、近代主義とは、反動である自我によるものと考えてきた。差異に対する反動である自我主義である。この近代/自我主義の考え方は、小泉新自由主義・ファシズムと派閥自民党政治の相違をどう説明するのであろうか。この考え方では、説明できないと思うので、新しい観点を入れないといけないと思う。それは、小泉新自由主義・ファシズムとは、派閥自民党政治への反動であるという観点ではないだろうか。つまり、前者は、近代・自我主義である後者への反動として生起していると見るべきではないだろうか。では、この新自由主義・ファシズムの反動とは何かである。これは、思うに、近代主義の批判ではないか。私は、先に新自由主義は、古典派経済学や近代・自我主義が起源であると考えたが、それは、誤りだと思うので、ここで訂正したい。そうではない。新自由主義・ファシズムは近代批判として捉えないと理解されないだろう。思えば、戦前の日本ファシズムは、「近代の超克」、「大東亜共栄圏」のイデオロギーをもっていたし、アメリカのネオコンは、元々はトロツキストであるということである。(ネオコンも、ここでは、新自由主義の圏内と見てもいいだろう。)つまり、新自由主義・ファシズムは、近代主義の乗り越えを志向しているのだ。この点を見ないと、小泉ファッショ「革命」の意味が理解できないと思う。そう、広義的には、ポスト近代主義に入ると言えるだろう。では、この近代批判の新自由主義・ファシズムの本体は何か見てみよう。
 ここにあるのは、一方、国際金融資本ないし世界金融資本であり、他方、民主主義であり、困窮する国民である。この二面性を見ないといけない。前者は、政治形態の民主主義(間接民主主義)を志向し、後者は、民主主義の社会的実現を切望している。だから、民主主義がある意味で共通点と言える。しかし、前者は、国家、国民国家、近代国家を枠を超えて成長する志向をもつ。これは、思うに、「力の意志」(ニーチェ)である(小泉ファッショ革命も「力の意志」を意味しているだろう)。この新自由主義・ファシズムの「力の意志」を分析しないといけない。確かに、これは、権力の意志でもある。問題は、「力」とは何かである。不連続的差異論の観点からは、「力」とは強度であり、メディア界の「エネルゲイア」である。そして、これは、差異の「エネルギー」である。問題は、「力」、差異の「エネルギー」の発現形態である。ここで、確認すべきは、新自由主義・ファシズムは、本体的には、差異の「エネルギー」を基盤にしているということである。しかしながら、新自由主義・ファシズムにおいては、差異の「エネルギー」の発現形態が能動的ではなくて、反動的であるという点を確認しないといけない。つまり、新自由主義・ファシズム、小泉ファッショ革命とは、基盤としての差異の「エネルギー」に駆動された反動形態であるということである。即ち、これは、本体はポスト近代主義であるが、発現形態は反動であるということである。だから、問題は、本体のポスト近代主義である差異の「エネルギー」を能動・積極・肯定的に発現させることなのである。そして、新自由主義・ファシズムは、このポスト近代主義的「革命」・変容への過渡期であるということである。本体は、ポスト近代主義、メタ近代主義であるが、発現形態が反動形態である近代主義である。これが、小泉ファッショ革命の意味である。小泉ファシズムは、「力の意志」(ディオニュソス)の発現であり、反動的「力の意志」である。とても、ニーチェ的な現象である。だから、ここから、ポスト近代・メタ近代革命を能動・積極・肯定的に実現する「自然」の必然性があるのである。この反動形態を、フッサールの判断停止(エポケー)やスピノザの能動的観念やD.H.ロレンス的身心論、等によって、能動形態に変態転化して、突破する必要があるのである。
 ということで、小泉ファッショ革命とはポスト近代主義革命を志向しているのである。





小泉ファッショ党と諸派閥を清算した政治:小泉ファッショ革命とは何か


私の今の知識では、本件の問題に十分答えられないが、小泉ファッショ革命は、派閥政治に終止符を打ったことは認めなくてはならない。派閥政治とは何か。それは、政官財の癒着した国家資本主義ないし社会主義的資本主義のことではないだろうか。つまり、近代主義・国民国家的資本主義を意味しているのではないだろうか。つまり、近代・自我主義という連続性による民主主義的資本主義である。これは、連続的資本主義である。
 では、これを清算したKファッショ革命は、何であろうか。新自由主義とは何か。これは、国際金融資本主義である。あるいは、世界金融資本主義である。そう、これは、近代国家内の連続主義の規制を破壊する。連続・同一性主義を破壊する。だから、自我をも破壊しているのだ。近代主義・国民国家主義・自我の連続・同一性を破壊するのだ。ある意味で、資本主義の本質と言ってもいいのかもしれない。(資本主義の哲学が必要だろう。)思うに、資本主義は、国際的であり、ある形而上学性というか構造性をもっている。そう、これは、カントの言った超越論的形式性と合致する経済であろう。資本主義は、人間のもっている超越論的形式に合致した経済である。これは、抽象性をもっているのであるから、連続主義の現象界を破壊するのである。そう、確かに悪魔的であるが、これは、普遍的である。ユダヤ人、中国人は、おそらくこれを直覚しているのではないか。とまれ、Kファッショ革命は、ポスト近代主義革命である。しかし、おそろしく危険である。悪魔的革命でもあるのだから。思うに、ファシズムを捉え直さないといけないのではないか。ファシズムとは何ぞや? 新自由主義=ファシズムとは何か? これは、哲学的には、今述べたように、超越論的形式の発現である。
 ここで整理しよう。連続・同一性と自我によって近代主義がある。しかし、超越論的形式とは、自我ではなくて、連続・同一性のことであろう。そう、これまでの議論では、新自由主義は近代自我主義であると私は述べたので、矛盾を犯している。そう、新自由主義は、利己主義と超越論的形式とが一体となったものである。では、近代主義の自我主義とどう異なるのか。
 ここで、超越論的形式にもどって考えよう。これは、連続・同一性の形式である。純粋なそれである。これは、普遍的である。では、近代主義は何か。それは、超越論的形式はもつものの、地域共同体という「連合」性をもっているのではないか。「連合」性とは、経験的連続性である。この経験的連続性と超越論的形式の連続性とは別種のものである。前者は個別、特殊的であるが、後者は普遍的である。ならば、近代主義とは、超越論的形式性をもつものの、個別・特殊性の連合性(国民国家であり、派閥である)に限定・規制されているものである。それに対して、新自由主義は、この個別・特殊性の連合性を解体するものである。この点で、新自由主義は、ポスト近代主義である。そう、悪魔的ポスト近代主義である。結局、Kファッショ革命はこれを意味しているのだろう。ここでは、個別・特殊的なものはすべて解体されるだろう。そして、人間は、抽象的に画一化されるのである。これは、超越論的形式の必然性である。しかし、不連続的差異論からは、差異の未来があるのである。差異の夜明けがあるのである。これは、政治経済的には何を意味するのか。差異主義政治経済である。これは、超越論的形式を破壊しないが、乗り越えたものである。そう、資本主義、新自由主義を差異によって乗り越えた政治経済である。超越論的差異的資本主義ではないだろうか。あるいは、超越論的不連続的差異的資本主義である。

p.s. では、K氏の靖国参拝とは何か。それは国民国家主義ではないのか。これは単純ではないだろう。これは、一神教の問題である。自我主義である。国民国家主義というよりは、そうなのだろう。

p.p.s.  ここで、考え直さないといけないのは、近代主義とは、不徹底な自我主義である。なぜなら、個別・特殊的連合性、地域共同体性があるからだ。つまり、前自我主義的要素、集合的要素、感情主義的要素がある。新自由主義は、徹底した自我主義である。利己主義である。これは、超越論的形式の必然性である。人間の必然性である。しかし、差異の必然性もあるのである。





メディア界と心身相補性:スピノザ哲学と現象学の統一:「最勝超至高」の不連続的差異論


心身二元論は、周知のように、デカルト哲学が拓いたものである。不連続的差異論のメディア界と、心身の関係はどうなのだろうか。これまで、私は、メディア界を、「心」、「魂」、倫理の領域と見てきたし、また、直観では、身体的であるとも見ている。この心身的両義性をどう見るべきだろうか。メディア界は差異の連結領域であり、これが、遺伝子を形成したり、また、精神や身体を形成したりする。差異の連結、差異の強度的連結状態、これが、身体や精神として現象するのである。 
 私は、以前、差異が身体的側面で、強度が精神的側面であると考えた。しかし、差異と強度は不可分一体であるから、身体と精神を厳密には区分することはできない。つまり、差異連結による差異即非強度とは、一種相補性を形成しているのであるから、身体と精神も相補性を形成していると言える。もう少し精緻に見よう。メディア界は差異連結領域であり、この差異連結が、身体や精神として現象化する。そして、この心身現象は、二元論的に捉えられてきた。しかし、身体とは、差異連結態(メディア界)の差異的側面であり、精神とはそれの強度的側面である。結局、心身とは、差異連結態が本体であり、心身自体も相補性を形成していると考えることができるだろう。すなわち、二つの相補性がある。一つは、差異と強度の相補性であり、一つは、精神と身体の相補性である。
 ここから帰結することは、身体に属する感覚とは、精神と関連するのであり、また、精神に属する知性や理性は、身体と関連すると言えるのである。だから、感覚的精神、知性的身体という表現が可能なのであるし、それが、おそらく、本来的であろう。しかし、近代的心身二元論は、この相補性を否定したと言えよう。スピノザの心身平行論は、心身二元論を基礎としているが、私見では、スピノザは、実は、心身相補性を、『エチカ』で採用していると思う。つまり、スピノザは、精神に感情を見て、その肯定的感情をともなう知性によって能動的観念を形成するのであり、その時、能動的な「力」が身体にも喚起されるという心身平行論を説いているのだが、この平行論の根拠は、実体(神即自然)にある。精神が実体に関わり、その結果、実体から身体へと関わるという図式である。つまり、実体とは、精神即身体であるような根源的存在である。スピノザ的に言えば、思惟即延長であるような原存在である。しかし、この考え方は、精神が身体と相補性を形成しているという考え方に直してもいいと思われるのである。すなわち、精神は、差異連結態の現象であり、その精神の現象を能動化するということは、差異連結態に働きかけて、強度に変化をもたらすことであり、この強度変化が差異連結態の現象である身体にも影響するというように考えることができるだろう。ならば、スピノザ哲学の心身平行論とは、心身相補性の理論に変換することができるのであり、スピノザ哲学は、メディア界の差異連結態の哲学であると言うことができるのではないだろうか。
 さらに、ここで、現象学ないし超越論哲学の観点から見ると、スピノザが説く能動的観念とは、実は、現象学的還元、判断停止(エポケー)を意味するのではないかと思われるのである。すなわち、否定的感情(自我)を停止させて、肯定的に、共感的に、事態への観念を形成するのであるからである。だから、スピノザの能動的観念とは、超越論的観念であり、メディア界的観念・概念であるということができるように考えられるのである。さらに、このように考えるならば、フッサール現象学自体も捉え直されることとなるだろう。すなわち、超越論的主観性あるいは相互主観性とは、メディア界自体であるということであり、スピノザ哲学と一致するのであり、また、メディア界とは原存在性であるから、ハイデガーの存在論を鋳直す形で吸収することができるだろう。結局、不連続的差異論は、スピノザ哲学と現象学とを、メディア界の哲学として整合化して、統一させることができ、また自身に包摂することができるのである。
 これで、不連続的差異論は、プラトン哲学とアリストテレス哲学を統合し、さらに、スピノザ哲学と現象学とを統合し、包摂することができた。また、もともと、「ポスト構造主義」であるドゥルーズ哲学の不備をニーチェ哲学の特異性の視点から解消して、発展した理論であるから、ニーチェ/ドゥルーズ哲学を発展的に包摂した理論でもある。以上から、これまで、述べたように、不連続的差異論は、西洋哲学の集大成であることが理解されるだろうし、また、ODA ウォッチャーズ氏が、数学/物理学的に不連続的差異論を展開されているので、これは、また、自然科学をも包摂する理論ということができるのである。また、さらに、社会科学への展開もすでに為されていて、これは、正に、全統一理論という性格をますます明らかにしている。私は、この理論を初期(昨秋)に、「最勝超至高」と形容したが、それは、誇張ではないだろう。

p.s. 単に西洋哲学の集大成であるだけでなく、仏教を含めた宗教思想・哲学の集大成でもあり、また、日本の西田哲学の積極的発展であり、また、包括的芸術論でもある。超統一理論である。
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2005年09月12日

自我/近代主義/ファシズムと叡智の喪失:日本における一神教とメディア界の復活

自我/近代主義/ファシズムと叡智の喪失:日本における一神教とメディア界の復活


先の考察を続けよう。メディア界が現象化して、「現実」があるのである。近代においては、反動性である自我と「現実」(資本主義経済)とが「連続」しているのである。 そう、反感による独善衝動である自我は、本質的に倒錯的である。自己の暴力性に気がつかず、自己善を信じているのである。
 先に、精神分析の説を借りて、死の欲動、死の本能が自我にはあることを述べたが、不連続的差異論の観点から説明する必要がある。簡単に言えば、反感による攻撃衝動である。憎しみによる攻撃衝動である。これは、差異共存志向性がいわば死んでいるのであり、否定相となっているのである。そして、この否定相となった志向性が死の欲動に当たるのではないだろうか。心の闇である。このような反動、倒錯、攻撃的自我は、差異共感性、差異共存志向性を喪失しているので、つまり、理性を失っているので、邪悪である。そして、この暴力的感情・情動をもった自我に対して、権力的情動を注ぐ者が、リーダー、支配者に選ばれる。
 つまり、ファシズムでは、自我による反動・暴力・権力的情動が社会を支配するのである。つまり、自我に対する解毒剤のような智慧、文化、叡智がないところでは、自我主義が蔓延して、ファシズムに対する免疫がなく、感染するのである。つまり、自我主義が跋扈した社会に、ファシズムはその温床を見出すのである。自我を解体する、あるいは、自我を相対化する叡智がなくなれば、自我/近代主義における資本主義はファシズム化すると言えよう。
 日本において、今、「改革」ファシズムが実現した。では、何故、日本において、自我に対抗する叡智が、喪失したのであろうか。これは、政治/経済/文化/社会/歴史的問題である。これは、実に大きな問題であるが、ここでは、不連続的差異論の見地から言うと、何故、日本人は、肯定・積極的なメディア界を喪失したのかと換言できる。これは、折口信夫の新神道論とも関係する。折口は、日本人は、宗教的情熱を永く失っていると考えた。そして、敗戦は、新しい神道を生み出す好機と見たのである。しかし、日本人は、折口の意向をまったく無視した。宗教とは、実は、メディア界の問題である。そして、差異・個の問題であり、漱石が問題にしたものでもある。
 思うに、近代日本と戦後日本の問題である。そして、民衆、人民の問題であり、また、言語の問題である。問題はきわめて複雑なので、ここで、直観で言おう。父権的自我が、母権的差異を、日本では、侮蔑している文化・社会状況があると私は考える。この点が、欧州と異なるのだ。欧州文化は、母権的差異が基盤にある。そう、日本にはマッチョであることを美意識とする父権制が今でも残っている。母権的差異性、差異共存志向性を女々しいものとする父権的価値観があると思う。男尊女卑である。これが、日本問題の元凶だと思う。それは、以前、政府が、イラクに行ったNGOのメンバーに自己責任を取れと言ったことと通じる。そう、マッチョであり、暴力性を価値観とする父権制が日本には色濃くあるのだ。だから、刺客も生じるのである。(首相と暴力団との関係も取りだたされている。)これは、ある意味で、武士、武家の文化である。というか、一種野蛮性の文化である。これが、日本文化・社会にあるのである。アングロ・サクソンも野蛮性があるが、計算づくのものである。
 そう、粗野であること、荒々しくあることが、美徳のように、日本では今でも捉えられている。威勢のよさが評価される。これは、ヤクザ文化とも言えるだろう。そう、これが、日本社会に巣くっているだろう。西欧には、中世において、宮廷愛文化があった。女性が主となり、求愛するのである。これは、母権文化である。日本の場合、母権文化が、おそろしく破壊されてきたと思う。とにかく、日本にある凶暴・狂暴・野蛮な「文化」。この根因は何なのだろう。これが、日本の真の開化を阻害しているのだ。とにかく、日本的父権制、これが元凶である。どうも精神の基盤の喪失があると思う。私は、いつも、廃仏毀釈、神仏分離政策が、日本人の精神性を破壊したと感じるのである。私見では、神仏習合は、日本の地域と一体となっていた。いわば、土着化されていた。これが、日本の大地や都市を「精神」化していたと言える。つまり、神仏によるメディア界で、日本の土地を包んでいたのである。しかし、日本においても自我化の傾向が生じる。それが、国学だろう。これが、天皇制・父権・一神教的イデオロギーを生んでいく。思うに、日本における一神教の覚醒のようなものがあると言えよう。これと、下級武士が結びついたと言えるだろう。そう、廃仏毀釈、神仏分離令以前に、日本において、多神教文化は崩壊していて、一神教性が芽生えていったのではないだろうか。日本における「ユダヤ・キリスト教」文化性である。これは、ルサンチマン宗教であり、反動・暴力的である。野蛮である。そして、これが、明治維新で、天皇制国家となって発現したのではないだろうか。日本的ユダヤ・キリスト教=天皇教が、日本におけるマッチョ/野蛮文化を造ったのではないだろうか。この鋳型が近代日本にはあると思う。そして、戦後においては、アメリカがいわばこれを利用するようにして、日本を支配してきたと言えよう。小泉ファシズムは、この帰結ではないだろうか。そう、日本人は、内から一神教を形成して、野蛮化したのではないか。だから、日本の解放とは、ポスト一神教、ポスト父権制を意味するだろう。ならば、日本人が、アメリカに共鳴する内在的原因があるのである。野蛮な一神教・父権制が共通なのである。日本の多神教を復活するには、差異共存志向性を肯定しなくてはならない。肯定・積極的なメディア界の復活である。





人相と人格相:その1

人を人相で見るのは、浅い、皮相な見方、浅薄である。人は、人格相で見ないといけない。小泉氏は、一見人相はよさそうであり、岡田氏は、人相はよくない方だ。しかし、人格相から見ると、小泉氏には、凶相がある。凶悪さが現れている。岡田氏の人格相は、単に生真面目である。凶悪な人格相の人を選んだのだから、この結果は、計り知れない恐ろしいものとなる。日本人は、心眼を失っているから、このような途方もなく由々しき選択をしたのである。
 私にははっきりと凶相が見える。小池にも見える。別に私は霊能者ではない。ただ、自分の直観を信じているだけである。そう、「霊」というものは、実は、「霊」ではない。「霊」ではなくて、不連続的差異論におけるメディア界なのである。魂とか、心とか、倫理とかは、実は、メディア界のことである。このメディア界を確信していれば、人格相が見えてくるのである。つまり、メディア界に他者のメディア界が映されるのである。
 どういうことかというと、人間の実在は、メディア界である。これが、現象化しているのである。そして、メディア界の差異共感性、差異共存志向性を誠実に、正直に保持している人は、それが、心を映す鏡となるのである。明鏡としてのメディア界である。フッサール現象学で言えば、志向性である。純粋志向性である。これを、ねじ曲げている人、濁らせている人、即ち、志向性を喪失している人は邪悪な人であるから、その歪みがメディア界に生じるのである。そして、このメディア界の歪みが凶相となって、顔の人格相に現れるのである。小泉氏の人格相は明らかに、凶相であり、凶悪である。そして、確かに、外見や発言は表面的には、真摯そうに見える、聞こえるが、それに同化されるというのは、自身のメディア界、すなわち、心や魂や倫理が歪んでいたり、喪失されているからである。表面で物事を判断しているのである。悪魔のペテン師に魅入られたアホな愚劣な国民と多くの日本人はなってしまった。
 後で、このメディア界的人格性についてさらに考察してみたい。

p.s. ついでに言えば、ホリエモンは、ある独創的な洞察力をもつブログ(『世に倦む日々』)で述べられていたが、確かに、人相と人格相が悪化したと言える。誠実さを無くしたのである。魂を悪魔に売ったと思う。





女男のメディア界の差異性:差異共存志向性と連続・同一性

先に、試論で、人間は、他の動物と比べて、差異共存志向性が過剰であり、それの受け皿となる極がないために、連続・同一性=言語・象徴という現象界へと転化されると述べた。
 では、女男の差異はどう説明できるのだろうか。私は、これまで、女性の方が男性よりも、差異が強いと言った。しかし、正確に言うならば、極性が違うと言うべきである。女性は、差異共存志向性であるマイナス強度に偏差があり、男性は、連続・同一性のプラス強度に偏差がある。もっとも、これは、相対的である。このように見たとき、現象化において、女男のどういう違いが生まれるだろうか。
 先ず、女性について見ると、メディア界が、差異共存志向性の強度(マイナス強度)をもっているので、これに補完するものとして、連続・同一性への転化である現象化が生起するのであるが、思うに、この転化・現象化は、差異共存志向性を積極的に帯びていると考えられる。つまり、差異共存内包的現象化が、女性存在であると言える。
 では、男性の場合は、連続・同一性の強度(プラス強度)が強いのであるが、それでも、存在する差異共存志向性によって、外連続・同一性=言語・象徴化=現象化が生起する。しかし、このとき、女性のように差異共存志向性が積極的に関与することはない。なぜならば、男性の現象化の場合、差異共存志向性の転化において、連続・同一性のプラス強度が介在するからである。つまり、女性の場合は、差異共存志向性の転化は、直截であり、積極的であるが、男性の場合、いわば、中間に、連続・同一性のプラス強度が関与するのである。この中間のプラス強度が、差異共存志向性のマイナス強度をいわば遮蔽するように作用するのではないだろうか。そう、こう考えたらどうだろうか。差異共存志向性の強度に押されるように連続・同一性の強度が連続・同一性=言語・象徴=現象化する。つまり、男性の場合は、二重になるのである。差異共存志向性に駆動されながらも、連続・同一性志向性が現象化すると言えよう。
 もう少し整理しよう。というか、考えを少し修正しよう。人間の場合、メディア界が過剰であり、この過剰さが、現象化を生む。これは、これまで通りである。そして、女性の場合、差異共存志向性であるマイナス強度が強く、これをもって、現象化すると言える。これもこれまで通りである。しかし、男性の場合、メディア界が、連続・同一性のプラス強度が強い状態で、現象化すると言い直そう。だから、当然、男性の場合は、連続・同一性=言語・象徴=現象化が強く、差異共存志向性は弱くなっているのである。では、男性の場合、差異共存志向性はどうなっているのだろうか。(急に思いついたが、右脳が差異共存志向性であり、左脳が連続・同一性志向性ではないだろうか。)思うに、メディア界においては、差異共存志向性と連続・同一性志向性の両義性が存しているが、しかし、現象化したとき、男性の場合、連続・同一性=言語・象徴性に同一化して、差異共存志向性を隠蔽するのではないだろうか。なぜならば、男性の特徴である連続・同一性のプラス強度が、言語・象徴と同一化しやすく、内在していた差異共存志向性を排出・隠蔽するからではないだろうか。もう少し丁寧に言うと、プラス強度が言語・象徴と同一化するのであり、マイナス強度である差異共存志向性が、正に、無意識化されるのだと思う。これは、精神分析の言うような抑圧や排除ではない。それは、自然に排出・隠蔽されるのである、女性の場合が、差異共存志向性を内在させた現象化であるのに対して。
 では、反感や反動はどうなるのだろうか。それは、これまで、述べてきている、冷暗化等で説明できるだろう。

p.s.  女性は、差異共存志向性が強いということは、女性が、男性よりも、芸術的、文化的であること、そして、右脳/左脳の両義性をもつことを意味しているだろう。女性が、例えば、編み物、衣服、織物、ファッション等々を志向するのは、メディア界の差異共存志向性に起源があると言えよう。なぜならば、それは、差異と差異とが共存的に連結される領域であり、テクスチャ、テキスタイルの領域であるからである。また、脳梁が女性は男性よりも太い、大きいのは、女性における右脳/左脳の両義性を証明しているのではないだろうか。
 結局、女性は、男性よりも、内在的には、多元的な能力に優れているのである。メディア界的能力をもっているのである。男性の場合は、メディア界を排出・隠蔽した連続・同一性=言語・象徴の能力が強いということになる。近代科学、近代主義は、正に、男性的である。哲学という行為は、女性的な領域を男性的な志向で構成する営為ではないだろうか。
 とまれ、今日、男性的領域(父権制/近代主義/新自由主義)は、行き詰まり、女性的領域(母権制/ポスト近代主義・メタ近代主義/差異共存主義)にシフトしていると言えよう。何故だろうか。後で、このパラダイム・シフトについて、考察したいが、簡単に言うと、近代主義への懐疑が強まり、脱近代主義(ディーモダン)への必然的展開があり、それによって、女性的領域、メディア界が発見されてきたことがあるだろう。ポストモダン、ポスト構造主義は、このようなものである(が、理論的不備のため、頓挫してしまった)。巨視的なスケールで見た場合、ポスト近代主義、脱近代主義の潮流は否定できない事実である。そして、これが、女性的領域への移行・シフトを意味しているのである。

p.p.s. 触れるのを忘れたが、一般に、女性がきれい好きというのは、どう説明できるのか。それはやはり、差異共存志向性のもつ根源的調和性に拠ると考えられるだろう。この調和が美を希求するのである。因みに、コスモス(宇宙)とは、古代ギリシアでは、秩序であり、美を意味していた。そして、化粧品(cosmetics)は、これ(cosmos)からの派生である。

参考
cos・met・ic/kzmétik | kz-/
[名]

1 ((通例〜s))化粧品.

2 (表面的な)体裁の繕い, ぼろ隠し.

━━[形]

1 表面的に繕った, ぼろ隠しの

a cosmetic solution

その場しのぎの解決, 弥縫びぼう策.
2 美容のための, 化粧用の.

3 《外科》整形の;補綴ほてつの

cosmetic surgery

整形外科. ⇒ PLASTIC SURGERY
[ギリシャ語kosmētikos(kósmos秩序+-IC=秩序ある→美容の)]
livedoor辞書
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2005年09月02日

差延的差異とイデア的差異:デリダとドゥルーズ:不連続的差異論の奇蹟

差延的差異とイデア的差異:デリダとドゥルーズ:不連続的差異論の奇蹟


デリダは、超越論的なものは、差異であると、『『幾何学の起源』序説』の末尾で述べている。しかし、デリダの言う差異は、差延である。本源からの常なる遅延のことである。だから、差異=差延を通して、本源への永遠の遡行が為されるということで、ここにデリダ哲学の存立基盤が述べられているのだろう。しかし、これでは、永遠に遡行は不可能である。デリダは、差異=差延を形成する起源を規定しようとしない。ただ、本源的起源のみだ。差異=差延を構成するのは、イデア的な差異であり、その共立・共存性である。これを、デリダはまったく考えようとしていない。確かに、デリダは、自己の理論に一貫的である。ここで、差延的差異と、イデア的差異とを区別しないといけない。ドゥルーズは、後者に関わったのである。ドゥルーズが、デリダに言及することがほとんどなかったは、当然である。そう、なぜなら、デリダ哲学は、一種不可知論であるからだ。そう、超越論的というよりは、超越性的である。
 とまれ、フッサールを差延的に読むのは、いかがなものであろうか。フッサールは、絶対的起源を確信している。差延の根源を確信している。それは、志向性、相互主観性であり、差異共存志向性である。そう、デリダは、フッサールに差延的様相を与えたとは言えるだろう。だから、フッサール/デリダと見ないといけない。フッサールを基盤に見ないといけない。
 因みに、ハイデガーは、志向性を存在にして、存在論的差異を述べたが、思うに、存在論的差異とは、ほとんど差延である。デリダ哲学の積極性とは何であろうか。思うに、理論ではなくて、西欧主義への反逆的意志の過激さにあったのではないだろうか。その意志は、「怨霊」的と言えないこともない。
 では、ハイデガー哲学をどう見るべきか。これは、推測しか言えないが、志向性を存在に転換したことで、自然哲学に、つまり、人間を包摂した自然哲学になったと言えるのではないだろうか。志向性が、自然の力となったのである。だから、現象学を人間現象学から、自然現象学に変えたと言えるのではないだろうか。しかし、この進展に大きな問題があるだろう。つまり、志向性のもつ他者への志向性が、喪失されているからだ。存在としたとき、即自的になり、対自性が欠落することになったと言えるだろう。そう、フッサールにあった差異と差異との距離(志向性)が喪失することになったと言えるだろう。つまり、フッサールは、特異性を保持していたのである。つまり、ある不連続性を保持していたのであるが、それが、ハイデガーにおいて喪失しているのである。だから、差異の連続・同一性化と言っていい。これは、ベルクソン哲学と通じる事柄である。そして、何度も述べているが、ドゥルーズがこのベルクソン/ハイデガー的連続・同一性の差異を無批判に継承してしまったのである。だから、スピノザやニーチェの超越論性や特異性をも継承しているドゥルーズ哲学は、自己矛盾を犯しているのである。そして、この矛盾を、樫村晴香氏が天才的に抉り出したのである。問題は、フッサール⇒ハイデガーの転移にある。ハイデガーには、デカルト、スピノザ、ニーチェ、フッサールの特異性、単独性が欠落していたのである。この点ならば、サルトルの『自我の超越』の「自我」ではなく「エゴ」の考えの方が、適切であったように思える。(「エゴ」とは、個・個吾とすべきである。思うに、ドゥルーズの言う前個体性とは、サルトルの「エゴ」に起源があるのではないだろうか。)そう、サルトルは、ある意味で、特異性、単独性を捉えていたと思う。サルトルの「実存主義」とは、特異性、単独性ということだと思う。ただ、サルトルの失敗は、連続的全体性に囚われていて、共産主義と結託してしまったことである。そう、サルトルは、だから、ハイデガー以上に、フッサールを継承していたのではないだろうか。ただし、魔が差したと言うのか、マルクス主義を選択してしまった。本来、カミュと共闘できたはずであるが、連続・同一性の全体性の「罠」に嵌まってしまった。これは、メディア界中心主義的に発想するとき、陥りやすい誤謬である。キルケゴール/ニーチェ/フッサールの特異性・単独性を継承した現象学者や、ポストモダンの哲学者はこれまで、いなかった。このように見ると、どれほど、不連続的差異論が奇蹟的な理論であるかが、わかるだろう。ODA ウォッチャーズ氏の不連続性の概念が、スーパーブレークスルーへの導火線であったのである。
 不連続的差異論は、自然の原理を解明したものであり、ここから、新しい世界が創造されることになる。差異共存共創資本政治経済社会の創造である。





フーガの後れ:差延としてのフーガ

フーガは、思うに、不連続的差異論の音楽的表現のように思える。最初の主題提示とは、イデア界からメディア界への転化による出来事である。これは、差異共立である。

d1⇔d2・・・⇔dn

である。そして、これが、メディア界的に変容されるのである。

d1〜d2〜d3〜・・・〜dn

である。この〜は揺らぎである。問題は、フーガの声部の後れである。なぜ、同時ではないのか。これは、デリダの差延に関係するように思える。これは、イデア界における差異の共立の無限速度とメディア界から現象界への転化における相対速度と関係するように思える。簡単に言えば、現象界、

d1ーd2ーd3ー・・・ーdn

が形成されるには、それ以前に、

d1〜d2〜d3〜・・・〜dn

がなくてはならず、この結果として、現象界が発現するのであるから、後れが生じると考えられよう。正に、差延である。この差延をフーガは表現しているように考えられるのである。そう、差延としてのフーガの技法である。〜の揺らぎの応じて、多様なフーガが成立すると考えられる。 
 そして、マイナス強度とプラス強度があるから、前者が主導的だと、より差異共存的フーガとなり、後者が主導的だと、連続・同一性的フーガとなるだろう。そして、それぞれ、対称性をもつので、計四種類となるだろう。差異共存的フーガとは、正に、典型的なフーガということであり、連続・同一性的フーガとは、単純なフーガということではないだろうか。

p.s. 以上の考察で、差延というデリダの概念を用いたが、それは、メディア界から現象界への転化を意味するが、それは、差異と連続・同一性のズレ・後れを意味していると言えるだろう。そして、デリダは、この差延を基礎として、連続・同一性(=「ロゴス・音声中心主義」)を正当に脱構築したのである。そして、差延の起源として、グラマトロジー、エクリチュールを考えたと言えるだろう。これも正しいが、しかし、これは、構造のことである。差異の連結である構造のことである。結局、デリダのエクリチュール論とは、ドゥルーズの差異論と重なると言えるだろう。ただし、デリダの問題は、ロゴス批判をしたために、差延において論理を見いだすことができなくなってしまったことだろう。エクリチュールで留まってしまったのだろう。この点で、差異を理念と見たドゥルーズの方に有利性があったと言えるだろう。事実、差延の基礎は、差異の連結であり、ロゴス・論理があるのである。そう、差延の論理・ロゴスをデリダは、必然的に、否定してしまったと言えるだろう。デリダが陥っていた束縛は、正に、近代的合理主義である。このために、それを越えた差延の「合理主義」を見いだせなかったと言えよう。





差異共益倫/共創資本政治経済と、らせん回帰的創造サイクル論


1)差異共存共創政治経済において、差異共存益・公益・社会益をどう捉えるのか。これは、実益があるし、また、倫理に適うことである。適倫性である。適益適倫性である。あるいは、公益倫性、益倫性である。あるいは、倫益性である。あるいは、共益倫性である。これは、単に、精神的な問題だけでなく、利益に関係する事柄である。だから、差異共存共創政治経済とは、共益倫/共創相補性経済である。年金、福祉、医療問題は、共益倫性の問題である。

2)イデア界の回転とらせん回帰的創造サイクル論

3)フッサールが言うように、主観性の根源に志向性、つまり、差異共存志向性があるのだから、これが、人間の絶対的基盤であるから、これへの意識の欠落とは、自然的態度の奴隷ということになるだろう。つまり、志向性が、自然的態度を確立するのでああるが、志向性に無意識であるとは、自然的態度に囚われているのである。これが、思うに、人間の「狂気」の原因ではないか。妄想とは、この自然的態度から来ているのだろう。つまり、志向性という絶対的基盤から発生した自然的態度(妄想)であるから、「解脱」できないのだろう。自然的態度とは、通常は、自我である。利己主義である。そして、この自然的態度が固着すると、妄想、狂気となるのだろう。参考:小泉首相。後で、再検討する。





バッハ音楽は、差異共存志向性の音楽である

クラシック音楽で、一曲あげよと言われたら、躊躇なく、バッハの『フーガの技法』それもグスタフ・レオンハルトの演奏をあげる。
 とまれ、先に、バッハ音楽は、メディア界の構成を表現しているのではないかというようなことを述べたが、それは、間違ってはいないように思える。バッハ音楽は、差異の共存志向性の音楽である。差異の独立が、差異の共存志向をもつという一見背理だが、「正理」が、そこには感じ取られるのである。フーガは、あるテーマが差異となり、それに対して、別の差異である声部が、それを差異共存的に「追いかける」のである。そう、正に、差異共存の音楽である。だから、メディア界の音楽なのである。
 後で、詳しく検討したい。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061490257/249-1656578-6209160





差異的創造論:進化論? 知的計画論(intelligent design)?

資料です。

進化論と創造論の対立であるが、私は、周期的創造論の立場と言えるかもしれない。不連続的差異論において、イデア界の回転があり、その回転周期によって、創造が異なると考えられるのである。そう、らせん的回帰の創造論である。これは、一見、進化論と見られるかもしれないが、そうではなくて、差異的変容論である。ある創造のサイクルがあり、それが、終末すると、新たな創造のサイクルが始まるということではないだろうか。これは、古代インドやマヤとアステカの民族の神話に近い考えである。そう、D.H.ロレンスも『メキシコの朝』で、これに言及している。

p.s. 思うに、現代は、西洋文化という一つの創造のサイクルが終末期に達して、新しい一つの世界文化のサイクルが創造されつつある時期ということになるのかもしれない。占星術で言う星座エポック・サイクル(例えば、水瓶座・宝瓶宮のエポック)は、このようなものかもしれない。

「One side can be wrong

Accepting 'intelligent design' in science classrooms would have disastrous consequences, warn Richard Dawkins and Jerry Coyne

Thursday September 1, 2005


It sounds so reasonable, doesn't it? Such a modest proposal. Why not teach "both sides" and let the children decide for themselves? As President Bush said, "You're asking me whether or not people ought to be exposed to different ideas, the answer is yes." At first hearing, everything about the phrase "both sides" warms the hearts of educators like ourselves.

One of us spent years as an Oxford tutor and it was his habit to choose controversial topics for the students' weekly essays. They were required to go to the library, read about both sides of an argument, give a fair account of both, and then come to a balanced judgment in their essay. The call for balance, by the way, was always tempered by the maxim, "When two opposite points of view are expressed with equal intensity, the truth does not necessarily lie exactly half way between. It is possible for one side simply to be wrong."

As teachers, both of us have found that asking our students to analyse controversies is of enormous value to their education. What is wrong, then, with teaching both sides of the alleged controversy between evolution and creationism or "intelligent design" (ID)? And, by the way, don't be fooled by the disingenuous euphemism. There is nothing new about ID. It is simply creationism camouflaged with a new name to slip (with some success, thanks to loads of tax-free money and slick public-relations professionals) under the radar of the US Constitution's mandate for separation between church and state.

Why, then, would two lifelong educators and passionate advocates of the "both sides" style of teaching join with essentially all biologists in making an exception of the alleged controversy between creation and evolution? What is wrong with the apparently sweet reasonableness of "it is only fair to teach both sides"? The answer is simple. This is not a scientific controversy at all. And it is a time-wasting distraction because evolutionary science, perhaps more than any other major science, is bountifully endowed with genuine controversy.

Among the controversies that students of evolution commonly face, these are genuinely challenging and of great educational value: neutralism versus selectionism in molecular evolution; adaptationism; group selection; punctuated equilibrium; cladism; "evo-devo"; the "Cambrian Explosion"; mass extinctions; interspecies competition; sympatric speciation; sexual selection; the evolution of sex itself; evolutionary psychology; Darwinian medicine and so on. The point is that all these controversies, and many more, provide fodder for fascinating and lively argument, not just in essays but for student discussions late at night.

Intelligent design is not an argument of the same character as these controversies. It is not a scientific argument at all, but a religious one. It might be worth discussing in a class on the history of ideas, in a philosophy class on popular logical fallacies, or in a comparative religion class on origin myths from around the world. But it no more belongs in a biology class than alchemy belongs in a chemistry class, phlogiston in a physics class or the stork theory in a sex education class. In those cases, the demand for equal time for "both theories" would be ludicrous. Similarly, in a class on 20th-century European history, who would demand equal time for the theory that the Holocaust never happened?

So, why are we so sure that intelligent design is not a real scientific theory, worthy of "both sides" treatment? Isn't that just our personal opinion? It is an opinion shared by the vast majority of professional biologists, but of course science does not proceed by majority vote among scientists. Why isn't creationism (or its incarnation as intelligent design) just another scientific controversy, as worthy of scientific debate as the dozen essay topics we listed above? Here's why.

If ID really were a scientific theory, positive evidence for it, gathered through research, would fill peer-reviewed scientific journals. This doesn't happen. It isn't that editors refuse to publish ID research. There simply isn't any ID research to publish. Its advocates bypass normal scientific due process by appealing directly to the non-scientific public and - with great shrewdness - to the government officials they elect.

The argument the ID advocates put, such as it is, is always of the same character. Never do they offer positive evidence in favour of intelligent design. All we ever get is a list of alleged deficiencies in evolution. We are told of "gaps" in the fossil record. Or organs are stated, by fiat and without supporting evidence, to be "irreducibly complex": too complex to have evolved by natural selection.

In all cases there is a hidden (actually they scarcely even bother to hide it) "default" assumption that if Theory A has some difficulty in explaining Phenomenon X, we must automatically prefer Theory B without even asking whether Theory B (creationism in this case) is any better at explaining it. Note how unbalanced this is, and how it gives the lie to the apparent reasonableness of "let's teach both sides". One side is required to produce evidence, every step of the way. The other side is never required to produce one iota of evidence, but is deemed to have won automatically, the moment the first side encounters a difficulty - the sort of difficulty that all sciences encounter every day, and go to work to solve, with relish.

What, after all, is a gap in the fossil record? It is simply the absence of a fossil which would otherwise have documented a particular evolutionary transition. The gap means that we lack a complete cinematic record of every step in the evolutionary process. But how incredibly presumptuous to demand a complete record, given that only a minuscule proportion of deaths result in a fossil anyway.

The equivalent evidential demand of creationism would be a complete cinematic record of God's behaviour on the day that he went to work on, say, the mammalian ear bones or the bacterial flagellum - the small, hair-like organ that propels mobile bacteria. Not even the most ardent advocate of intelligent design claims that any such divine videotape will ever become available.


・・・」

guardian
http://www.guardian.co.uk/life/feature/story/0,13026,1559743,00.html





政党HP:郵政民営化プラン「たち」

資料です。

「郵政民営化」という言葉が独り歩きしてしまっている。小泉/自民党・公明党の郵政民営化、民主党の郵政民営化、国民新党の郵政民営化等とあるのである。これは、日本語の問題が少しある。郵政民営化計画「たち」があるのである。首相のものは、一つの郵政民営化計画なのである。ところで、今、ふと思ったのだが、日本的全体主義ないしファシズムとは、日本語の力学による側面があるのではないだろうか。つまり、理念を表わす抽象名詞が、全体化され、絶対化されてしまう傾向があると言えよう。英語ならば、an idea(一つの理念)である。A Privatization of Post Office(一つの郵政民営化). もっとも、首相の二項対立(二元論、あれかこれか)を煽る言い方にも問題がある。危険である。広告・宣伝手法である。あるいは、新興宗教手法である。とまれ、こういう理念・概念の問題は、具体化する必要があるから、少なくとも、小泉/自民党の郵政民営化計画は、これこれですと中味を具体的に説明するのが、正道、本筋、本道、真正である。小泉首相の二元論は、邪道であり、独裁主義で、最高度に危険である。

政党

* ・自由民主党
* ・民主党
* ・公明党
* ・日本共産党
* ・社会民主党
* ・国民新党
* ・新党日本
* ・新党大地

日経
http://www.nikkei.co.jp/senkyo/200509/elecnews/20050831d1e3100t31.html





差異共存志向性とフッサールの志向性


先に、差異共存志向性とフッサールの志向性とを同一視したが、前者の外在的志向性が今一つはっきりしないようなので、ここで検討したい。ここでも、図式化したい。

d1・d2・d3・・・・・dn (メディア界の現象極:連続・同一性志向性)

これが、メディア界における差異の連続・同一性の図式である。ここから、現象化が生じるのである。即ち、

d1ーd2ーd3ー・・・ーdn (現象界)

となる。問題は、知覚である。現象界の図式は、言語知覚と一体である。即ち、これは、内在的知覚であり、同時に、外在的知覚を意味する。つまり、内的対象であれ、外的対象であれ、これは、「意識」の志向性の対象であると考えることができるだろう。だから、現象界の図式は、フッサールの志向性の末端であると言えるだろう。そして、フッサールの志向性自体は、メディア界の差異共存志向性であると言えるだろう。あるいは、メディア界自体の志向性と言えるだろう。即ち、

d1〜d2〜d3〜・・・〜dn (メディア界)

である。だから、整理すると、ノエシスが、メディア界自体であり、ノエマが、現象界であると言えるだろう。結局、差異共存志向性自体が、フッサールの志向性と重なり、志向性されるものは、現象界となるのである。
 以上により、はなはだ簡単ではあるが、これまで述べた通り、不連続的差異論とフッサール現象学とは、重なることがさらに検証されたと言える。フッサールは、確かに、現代哲学のパイオニアであった。それも、基本型は実に明確である。しかし、後継者たちが、いわば曲者であった。現象学を発展させるよりは、自己流に味付けした嫌いがある。そして、実存主義、構造主義、ポスト構造主義と、哲学が流行に堕してしまった。結局、これらは、フッサール現象学のそれなりの展開である。また、私見というか、推測では、レヴィナスの哲学もフッサール現象学の延長上にあると思う。また、ポストモダンないしポストモダニズムというものも、原点はフッサールないしニーチェであるが、フッサールを看過していると思う。結局、不連続的差異論は、ポストモダン、ポスト構造主義であるドゥルーズ哲学を批判的継承して、結局、ニーチェと並ぶ現代哲学の原点、あるいは、ニーチェを越える原点であるフッサール現象学を発展させたものとなっていると言えるのである。それを、不連続的差異化させたと言える。つまり、フッサールの超越論的現象を不連続的差異化したのである。ということは、フッサールとドゥルーズは、超越論的には、同一物である。ドゥルーズは、フッサールを現代において、復活させていたと言える。結局、現代哲学、ポストモダンの問題は、超越論性の本体は何かということであったと言えるだろう。フッサールが開拓したこの新大陸を、ドゥルーズは差異をもって、いささか混乱していたが、発展させたとは言えるだろう。そして、不連続的差異論が、これを、完成させたと言えるだろう。

p.s. 
現代哲学・ポスト・モダン哲学の超略譜

ニーチェ/フッサール⇒ デリダ、ドゥルーズ⇒不連続的差異論





差異共存共創資本的政治経済社会論:差異共存益・共創益的相補性・相互補完的資本経済


差異共存共創経済(以前、差異共創存経済と呼んだ)であるが、上記の結びでは、差異共存志向的公益的経済と差異創造・共創市場経済との相互補完・両極相補的経済と書いたが、どうも、二元論的に見えてしまうおそれがある。真意は、差異共存志向性という「一義性」に基づく経済システムである。繰り返すが、個であることが、他者の個との共存を志向するのである。これが原点である。そして、個の即自・対自的創造性を活かすのが、共創自由市場経済であり、個の共存志向性の共存的利益をもたらすのが、公益・社会益的経済である。後者には、第一次産業も含む。たとえば、農業は、単に個的利益だけでなく、公益・社会益性があるからである。 
 もう少し説明すると、個であることは、単独的側面と共存的側面があるということであり、両者の相補性がある。いわば、個の「量子力学」だろう。単独性/共存性の相補性である。(自我、自我主義、自己中心的利己主義はこれを破壊する。)そして、単独志向の側面が、共創自由市場経済であり、共存志向の側面が共存益・公益的経済である。もっとも、単独志向にも、共存志向があり、共存志向にも単独志向があるのである。だから、原理としての一義的な差異共存志向性があり、この経済的展開が、この共存益・公益経済/共創自由市場的相補性経済であると言える。つまり、不連続的差異論を理論的根拠とする政治/経済学である。一言で言えば、差異共存共創的公益/倫理/自由資本経済である。差異共存・共創資本的政治経済である。

尚、これは、以下の記事の追伸を修正し、独立させたものである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10003874662.html

p.s. 換言すると、差異共存益・共創益的相補性・相互補完的資本経済である。つまり、共存資本と共創資本に、政治・政策的に分化させ、相補性を形成するのである。差異共存資本⇔差異共創資本的政治経済である。差異共存/共創相補性資本主義。
posted by ソフィオロジスト at 14:21| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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