2006年07月09日

思考実験:イデア界の座標・幾何学、あるいは、虚軸と実軸の問題:イデア界・ガウス平面の太極力学論

虚軸Y軸を、時間軸・シナジー軸・メディア軸としよう。そして、これが、前後の軸である。これは、遠近法の軸でもある。思うに、1/4回転で、Y軸へ経てZ軸が出現するとしよう。即ち、X軸とZ軸の関係がここに生じる。これは、プラスZ軸である。
 そう、ここで、イデアの極性を考えた方がいい。プラスX軸とマイナスX軸である。プラスX軸は、プラスY軸→プラスZ軸、マイナスX軸は、マイナスY軸 →マイナスZ軸ではないのか。つまり、プラス軸の1/4回転は、プラス軸へと捩れ、マイナス軸の1/4回転は、マイナス軸へと捩れるのではないだろうか。それとも、プラス軸へ捩れるのだろうか。思うに、これは、プラスX軸の1/4回転においても、問題である。結局、プラスとマイナスの両方の捩れが生じるとしよう。即ち、±Z軸への捩れである。
 問題は、Z軸の意味である。これを高さ/深さの軸としよう。そして、X軸を左右の軸としよう。これは、ヌース理論と類似する。しかし、半田氏は、近代は、垂直に降下すると述べていた。しかし、近代は、ないし、プロト近代は、高さ/深さではなくて、前後・奥行きの方向に関係すると考えられるのである。そして、思うに、20世紀初期の「四次元」指向は、半田氏が述べていたようにアインシュタインの相対性理論の時空四次元で落ち着いてしまったのだろう。つまり、Y軸・虚軸の次元の探究が止まってしまったと言えるだろう。問題は、虚軸、虚次元の問題が消失してしまったことである。現代のあらゆる領域における閉塞は、ここに根因があるだろう。虚次元の喪失である。あるいは、イデア次元(正しくは、差異共振次元)の喪失である。
 ここで、直観で考察しよう。差異共振シナジー界(略して、シナジー界)は、Y軸の方向にあるはずであるが、それが、前後軸・奥行き軸となっている。音で言えば、ステレオ・立体音響となっているのだろう。しかし、これが、もはや、共振していず、連続・同一性化しているのである。実軸化しているのである。これは、光=視覚のもっている連続・同一性化によるのではないだろうか。どうやったら、虚次元・シナジー次元を取り戻すことが出来るのか。あるいは、イマジネーション・ヴィジョン次元を取り戻せるのか。それは、一つは、視覚の身体化ないし身心化によってであろう。あるいは、視覚の触覚化と言ってもいいだろう。視覚のコスモス化とも言えよう。(そう、宮崎駿の「絵」には、視覚的コスモス性があると思う。)視覚の差異化でもある。知性・意識の身体化でもある。これは、幾何学的には何を意味するのだろうか。これは、マイナス軸を肯定することのように思える。即ち、プラスX、Y、Z軸に対して、マイナスX、Y、Z軸を肯定すること。右に対して左、前に対して後、上に対して下の方向である。即ち、太極・対極性の力学である。思うに、プラス方向が光の方向ならば、マイナス方向は闇の方向ではないのか。ここで、KAISETSU氏の光の陰陽極性論を想起する。わかりやすいのが、上下方向である。上は天の方向であり、下は地の方向である。それぞれ、精神と身体の方向と言えよう。しかし、近代主義は、プラス方向(陽方向)の展開・発展であり、それで、閉塞したと言えよう。そう、プラス・エネルギーの展開であったと言えるだろう。それに対して、マイナス・エネルギーの展開が抑圧されたのである。プラス・エネルギーが連続・同一性の方向ならば、マイナス・エネルギーは、差異の方向ではないのか。おそらく、そうだろう。プラス方向は連続・同一性の方向で、マイナス方向が差異の方向ではないのか。思うに、イデア界=ガウス平面の太極(対極・双極)性があるのである。それは、連続・同一性と差異性との極性である。あるいは、光と闇の極性である。あるいは、知と存在との極性である。思惟と延長との極性である。父権と母権との極性である。オシリスとイシスとの極性である。太陽と月との極性である。いちおう、そう仮定しよう。東洋はこの極性の文化・社会を伝統的にはもっていたのに対して、西洋・西欧は、プラス・エネルギー、プラス方向、プラス極性中心の文化・文明であったと言えよう。なぜ、そうなったのか。なぜ、光中心となり、闇が排除されたのか。思うに、イデア界=ガウス平面自体の極性力学があるのだろう。イデア界自体の揺らぎ・揺動があるのではないのか。即ち、プラスへと傾いたり、マイナスへと傾いたりするのではないだろうか。そうならば、西洋文明とは、プラス極へと傾いた極相と言えるだろう。しかし、イデア界の極性力学は当然、揺り戻しがあるのだから、マイナス極へと戻るはずである。これが、ポスト西洋文明の力動であろう。つまり、差異化が発動するのである。プラスへと傾いたイデア界が、マイナスへと回帰するのである。思うに、これは、3/4回転ではないだろうか。最初の1/4回転で、プラス・エネルギーが発動した。そして、2/4回転で、それが、閉塞するのではないのか。そして、新たな1/4回転即ち3/4回転がマイナスX軸から生じる。左方である。これが、マイナスY軸へと移動するのである。これが、後方である。そう、これは、マイナスZ軸を形成するのではないだろうか。つまり、下方である。
 そう、即ち、西洋文明の場合、プラスX軸へとイデア界の虚力が作動し、プラス展開を行なう。そして、徹底的に、光=同一性化がなされる。しかし、プラス極へと達したイデア界の虚力は、今度は、マイナス極へと向かう。原点へと向かう。これが、3/4回転を発生させるのではないのか。そして、思うに、プロトモダンとは、この意味ではなかったのか。つまり、マイナス化がプロトモダンの力動ではなかったのか。しかるに、プラスとマイナスの二元論的分離になってしまったのではないのか。もともと、西洋文明のもっているプラス化に対して、プロトモダンは、マイナス化を意味したが、西洋文明のプラス化の強固さによって、マイナス化が中途半端で終わったのではないのか。それが、近代主客二元論ではないのか。あるいは、唯物論的合理主義ではないのか。心身の二元論化ではないのか。そう、プロトモダンは、マイナス方向へ向かったのであろうが、プラス反動(プロテスタンティズム)で、中和してしまったのではないのか。西洋文明のもっているプラス力で、マイナス力が抑圧されてしまったのではないのか。結局、思うに、西欧近代主義とは、プラス化(産業化・近代合理主義化とマイナス化(ロマン主義、ニーチェ哲学、現象学、モダン・アート等)を平行的に生んだと言えよう。そして、今日、前者がグローバリゼーションで支配的なのである。マイナス化をさらに作動させなくてはならないのに、プラス化が主導的なのである。(現代日本は、とりわけてそうだろう。)不連続的差異論は、このような状況で、誕生した。それは、プラス化の連続・同一性化を切断して、差異共振シナジー性を回復したのである。つまり、純粋な、絶対的なマイナス性を取り戻したといえよう。即ち、プロトモダンの回帰である。マイナス化の復活である。これは、思うに、3/4回転である。3/4回転を実現したのである。1/4回転のプラス化の反動性を乗り越えて、マイナス化を実現したのである。これは、結局、プラスとマイナスの極性バランスの実現であろう。そう、太極図が新たに実現したのである。太極の結晶が回帰したのである。太極が永遠回帰したのである。これは、新東洋文明と言えるだろう。というか、新東アジア文化の創造と言えるだろう。
 ということで、不連続的差異論/新プラトニック・シナジー理論は、イデア界の太極性を復活回帰させたと言えよう。プロトモダンの完成でもある。ここで、占星術のことを言うならば、やはり、宝瓶宮(水瓶座)のエポックなのだろう。キリスト教的西洋文明が白羊宮から双魚宮への移行・相転移であるとすれば、プロトモダン・新東アジア文明は、双魚宮から宝瓶宮への移行・相転移であるだろう。そう、ルドルフ・シュタイナーの占星術は間違っているのだ。やはり、キリスト教に囚われているのだ。伝統的な占星術が説くように、春分点は、宝瓶宮へと移動しているのだ。しかし、思うに、この占星術宇宙とは、イデア界的コスモスと見るべきだと思う。外宇宙の事象ではありえない。内宇宙の事象である。内在的宇宙の事象である。イデア論的占星術については、後で検討したい。
 とまれ、簡単にまとめると、イデア界・ガウス平面の太極的極性力学があるという仮説をここで提示したのである。

p.s. 一点確認しておくと、イデア界・複素平面の実軸X軸において、+X軸の方向に、イデア界の「虚力」、即ち、プラスの虚力が作用したときに、1/4回転が発生するのであり、そのプラスの虚力がプラス極に達した後は、《力》は、反転して、原点の方向、マイナス極の方向へと移動する。即ち、マイナスの虚力になる。思うに、原点(0,0)へと向かうことは、2/4回転ではないだろうか。そして、《力》が原点に達してから、マイナスX軸、マイナスX極へと移動するときが、3/4回転と考えられるのである。そして、それが、マイナス極に達した後、再度、原点(0,0)へと逆反転する。これが、4/4回転と考えられる。この原イデアの《力》の極性力学=円運動(プラトンの説)が、螺旋を形成すると考えられる。螺旋は、プラスの原イデアとマイナスの原イデアの双極性があり、プラス・マイナスの二重螺旋になると考えられよう。これが、女媧と伏儀の二重螺旋であり、また、DNAのそれを、また、外宇宙の渦巻星雲を現象させるのだろう。また、思うに、易経の八卦の2^3×2^3は、イデア面、メディア面、現象面の三重性の陰陽性を意味しているのではないか。また、太陽系であるが、これは、螺旋形状の横断面ではないのか。太陽系は螺旋形を描いてるのではないのか。
 後で、五芒星(ペンタグラム)と陰陽五行について検討したい。ここで、簡単に予見を言えば、これは、空海の言った「五大(地水火風空)の響きあり」の、五大に重なるだろう。つまり、十字の頂点数プラス中心数、即ち、4+1=5ではないだろうか。十字架に全体の一が入って、正五角形になったのではないのか。
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2006年06月21日

お金と指導層:コナトゥス(自己保存力)とシナジー強度:シナジー共生体エコノミーへ向けて

日銀の福井総裁は、村上ファンドへの投資で、元本の2倍以上に値上がったこと等の事実の判明に対して、元本等を慈善団体に寄付すること、報酬を自主的に減額することを、償いとして発表したが、これは、自分の責任回避の、悪賢い、没倫理的な、行為であり、このような人物を日本経済のキーポイントに置くことは、許されるべきことではない。
 貨幣至上主義という悪魔・悪霊の精神がここにはあるのである。日本の中枢に巣くっている、悪霊どもである。これを、浄化しないといけない。貨幣というマモン・悪霊に憑依された者どもである。
 明らかに、お金は、現象界自我と結びついてる。自我所有欲と結びついている。そう、誰でも、自我所有欲はある。ホッブズ/スピノザの言う自己保存力(コナトゥス)とは、人間個体存在の基盤にあると言えよう。しかし、ホッブズのように、それがすべてであるとは言えないと私は考える。(参考:
http://www.mars.dti.ne.jp/~kells/Essay/spp2.html
http://www.ne.jp/asahi/village/good/hobbes.html
 整理して言おう。コナトゥスがすべてであると言っていいのである。しかし、コナトゥス(自己保存力)は、単に、ホッブズの言うように、利己主義ではないのである。コナトゥスには、自我所有欲が一つの中枢として存するが、その他の中枢があるのである。
 より整合化して言えば、個体の基盤にあるコナトゥス(自己保存力)とは、根源の差異が同一性的に現象化して、発生しているものだろう。(おそらく、唯識論の阿頼耶識とは、差異と同一性の境界意識を指しているのではないだろうか。)
 思うに、一般の動物・植物の場合は、差異が類型化していて、差異と同一性の相違がそれほどないのではないだろうか。しかるに、人間の場合は、差異と同一性の相違が大きいのである。思うに、人間の場合、差異が剥き出しであり、プラトン・シナジー(イデア・シナジー)理論(New Platonic Synergy Theory)の説く「メディア界」(これも名称を変えた方がいいだろう。シナジー界ではどうだろうか。)が、剥き出しであり、生成変容する多次元多様体であり、それに対応する同一性自我が強化されると考えられるのである。即ち、多次元多様体としての差異とそれに対応する同一性自我の境界において、コナトゥスが発生すると思えるのである。正確に言えば、境界の現象面にコナトゥスが発生すると言えよう。図化すると、

シナジー界(メディア界)/境界/《コナトゥス》→同一性自我現象界

である。コナトゥスは、ホッブズ/スピノザの言うように否定することはできない。それが、人間を現象界(いわゆる現実や経済)を動かしているのである。そして、近代以降、このコナトゥスが中心的になったのである。しかしながら、人間は、境界を介して、シナジー界への「心感性」をもっているのである。そして、指導層となる人間には、この「心感性」の意識知性が要求されるものである。しかしながら、日銀福井総裁は、憎らしくも、これを裏切ったのである。(もっとも、今日、日本の指導層は、「鬼畜」であるが。)「心」があるなら、当然、「自己責任」で、辞職すべきである
 理論的検討を続けると、境界人間(シナジー/同一性境界的人間)は、シナジー界と同一性自我現象界の両面を帯びているのである。ただし、ここで、弁証法構造を考えてはいけない。弁証法構造とは、確かに、境界の事象の一つであるが、優先点(プライオリティ)は、同一性である。つまり、シナジー/同一性境界の同一性面にあるのである。つまり、ここで言いたい境界人間とは、対極性構造の「力学」をもった人間である。つまり、シナジー界的人間、シナジー強度をもった人間と換言できるだろう。このシナジー強度は、コナトゥスに対する「倫理」の強度であると言えよう。そう、コナトゥスは否定できない、これは認めよう。しかし、プラトン・シナジー(イデア・シナジー)理論では、コナトゥス以外の力として、シナジー強度を肯定するのである。そして、指導層には、このシナジー強度を内包した人間が必要なのである。しかるに、現日本は、コナトゥスのみの、没シナジー強度・倫理の悪霊人間が中枢を占めているのである。福井総裁が正にそうである。これは、明らかに亡国路線である。
 では、コナトゥスとシナジー強度の関係を考えると、少なくとも、相補的関係になるのが整合的であろう。自己保存力が、シナジー強度・倫理強度と結合することは、必要ないし必然なことのように思えるのである。(私が、オカルティズムや宗教に対する疑念はここに存すると言える。霊主体従に批判的である。だから、D.H.ロレンスを評価するのである。彼の『死んだ男』のオシリス・イエスが、貪欲と贈与の二元論でなく、そのバランス・エコノミーを説いていたが、正に、コナトゥス/シナジー相補経済である。)なぜなら、もし、シナジー強度中心にすると、コナトゥスが否定的になる。しかし、コナトゥスは否定しようがないから、反動化して、さらに悪霊化するのである。(おそらく、新興宗教関係が悪魔・悪霊化しているのは、ここにあるだろう。コナトゥスではなくて、シナジー強度を中心に説くから、個体に強く存在しているコナトゥスが影に隠れて反動的に拡大するのである。ここで、親鸞哲学の意味を考えた方がいい。また、愛国心教育も同様である。それは、悪魔・悪霊の教育である。)
 両者の相補的バランスを目指すべきである。今日のグローバル資本主義と社会民主主義の問題も、ここに帰着するのだろう。即ち、コナトゥス/シナジー・コンプルメンタリティ(相補性)政治経済文化社会を目指すべきなのである。思うに、共産主義/社会主義の失敗は、コナトゥスを否定して、コナトゥスの悪魔的反動を招いた点であろう。そして、新自由主義の問題は、シナジー強度を否定して、コナトゥス一辺倒である点にあるだろう。この二元論的発想を捨てなくてはならない。西洋的二元論を廃棄して、東洋的対極論を身につける必要がある。(しかし、これは、単純な東洋的対極理論ではなくて、コナトゥスとシナジー強度の「シナジー」の対極理論である。)
 しかしながら、具体的には、コナトゥス/シナジー・《ポリティカル・エコノミー》(ポリティカル・エコノミーとは、共生体経済と訳せるのではないだろうか。差異共生体経済、シナジー共生経済でもある。)とはどのようなものなのだろうか。小沢一郎氏の共生主義とは、一見、コナトゥスを否定したシナジー主義のように見える。しかし、推察では、私見では、小沢共生主義とは、コナトゥスをもったシナジー政治経済である。そう、小沢氏の共生主義は、私がここで述べているコナトゥス/シナジー共生体経済に類似的なような思えるのである。精神と物質とのシナジー経済とも言えるだろう。精神・物質シナジー共生体経済、これが、グローバル資本主義と社会民主主義の二元論を超克する新しい政治経済ではないだろうか。簡単に、シナジー共生体エコノミーと言おうか。もっとも、正確には、コナトゥス/シナジー・コンプルメンタリティ(相補性)共生体エコノミーであるが。

p.s. コナトゥス/シナジー界的《シナジー》とは、混乱させる表現である。しかし、現代・未来の問題は、もはや、当然、かつての東洋文化にもどることではあり得ない。伝統的な東洋文化とは、対極性文化である。しかしながら、それは、シナジー界と同一性界が未分化の文化だと思うのである。不連続的差異論から言えば、メディア界/現象界の境界の両義性の文化である。
 しかしながら、不連続的差異の発見・創出によって、未分化状態が破られたのである。即ち、純粋なメディア界=シナジー界が出現することになったのである。これは、換言すると、対極性と同一性の未分化的闘争(二項対立)ではなくて、対極性と同一性との調和を意味しないだろうか。未分化状態は、弁証法構造へと転化するだろう。これは、闘争・戦争状態である。父権主義の様態である。しかし、メディア界=シナジー界の純化が生起すると、もはや、闘争・戦争は志向されないだろう。なぜなら、差異共振強度こそ、能動知・力であるからである。つまり、差異共振強度=シナジー強度が、境界において、同一性に作用するとき、同一性は変容すると考えられる。一種、融合である。対極性と同一性の融合である。即ち、ここにおいて、同一性はもはや、否定・反動的に作用するのではなく、対極性・シナジー強度へとひかれている。弁証法構造では、共振差異→同一性の方向性であったが、この対極性構造においては、同一性→共振差異となるのである。ただし、同一性がなくなるわけではあり得ない。自我同一性現象界=近代主義=物質界は、一つの史的所産であり、意味のあるものと考えられるのである。もはや、「科学技術」のない世界は考え得られないだろう。同一性は構造なのである。言語構造(ラカンの象徴界)なのである。(ラカン「意識哲学」は、正鵠を射ている。ただし、何度も繰り返すが、脱オイディプス化しないといけない。)
 結局、「ポスト・モダン」・脱構造主義とは、この同一性=言語構造から、「メディア界」=シナジー界への「回帰」ヘの志向であったのである。デリダ哲学は、それを、脱構築という方法で、暗示した。しかし、その問題点は、同一性を絶対的に否定的に見ていることである。問題は、同一性からの差異化にあったはずである。言うならば、同一性が、現代における出発点であり、ここからの差異への志向が問題であったのである。この点で、デリダ哲学は、倒錯しているのである。だから、やはり、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学の方が、はるかに明敏なのである。
 とまれ、近代主義は、同一性を完成させたのである。西欧・西洋文明・文化は、この点で偉大であったと言えよう。他のどの文明・文化はこれを生むことはできなかったのである。もっとも、これは、実は、悪魔性だったのであるが(参照:シュタイナーの悪魔論)。そして、この近代同一性に対して、共振差異強度が、シナジー強度が到来するのである。これは、クリステヴァ哲学のように、記号作用(セミオティック)のような逆弁証法となる時もあっただろう。また、バタイユのような、やはり、逆弁証法的なエロティシズムもあっただろう。しかし、それは、一時的な事象である。問題は、同一性と差異との融合である。
 不連続的差異の発見によって、純粋な差異共立が可能となったのである。それは、新たなデュナミス(可能態)であろう。このデュナミスにおいて、差異と同一性の融合・調和が可能になると思われるのである。この新たなデュナミスにおいて、融合・調和の可能性を志向できるのである。そして、これが、資本主義と社会民主主義の融合調和となるように思えるのである。即ち、シナジー共生体エコノミーである。これは、新しいデュナミス、新しいシナジー可能性を原点にして、差異と同一性の調和・融合を企図するものであると言えるだろう。だから、デュナミス・シナジー共生体エコノミーと言えるだろう。そう、この新しいデュナミスの発生によって、同一性と差異との調和・融合が可能となるだろう。そして、この新しいデュナミスとは、不連続的差異の創造によって、発生するものと考えられる。ヌース理論の半田広宣氏の言葉を借りれば、顕在的イデアによる創造である。
 ということで、境界における対極性と同一性との調和・融合とは、不連続的差異による差異共立性=新たなデュナミスを契機・メディアにして可能になるということであり、簡潔に言えば、デュナミス的シナジーと言えよう。これが、本当の「ポスト・モダン」、「ポスト構造主義」である。とまれ、この意味で、上述したシナジー共生体エコノミーが「現実」化(エネルゲイア/エンテレケイア化)すると考えられるのである。また、小沢一郎氏の共生主義も、このように捉えることで、より未来創造的になると考えられる。そう、小沢一郎氏の共生主義は、シナジー共生体エコノミー理論ならびにプラトン・シナジー理論と平行である。おそらく、現代日本において、超変革の《潮》強度が満ち始めているのである。
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2006年06月11日

スピノザの心身平行論と三重の「自我」・知性覚:単独・特異性の前自我の力の意志

スピノザの心身平行論と三重の「自我」・知性覚:単独・特異性の前自我の力の意志

不連続的差異論では、メディア界は、心身一体の領域となるが、不可視の領域である。これは、スピノザの神即自然の領域であろう。しかし、スピノザは、心身論を説かなかった。心と身体の二元論をあくまで保ったのである。スピノザは、思惟と延長を属性とした。これをどう捉えるべきか。即ち、実体(神即自然)の属性とすることで、デカルト哲学から、離れたと言えるだろう。思うに、思惟と延長、ないし、心と身体は、不連続的差異論的には、どこに位置するのだろうか。
 思惟・知性・心はどこに位置させるべきか。確かに、メディア界に置くというのは考えやすい。しかし、問題は、メディア/現象境界である。ここでは、差異と同一性の弁証法が生起しているのである。即ち、思惟と言った場合、差異の思惟と同一性の思惟があるのである。近代自我は、同一性の思惟をもつし、また、同一性の身体をもつだろう。しかし、差異の思惟と差異の身体があるだろう。ここには、二重の思惟と身体があることになる。スピノザの思惟と延長、心と身体とは、メディア/現象境界における差異と同一性の弁証法を、差異を肯定することで、解消し、メディア界の対極性の回路を開く契機となっていると言えよう。だから、スピノザの思惟と延長、心と身体は、メディア/現象境界にあり、それが、差異の能動観念的肯定からメディア界へと浸透していくと言えるだろう。
 ということで、スピノザの心身平行論における思惟と延長、心と身体の属性を不連続的差異論的に位置且つ意味づけることができた。

 以上のようにスピノザの心身平行論を不連続的差異論的に布置できたが、では、スピノザ哲学の自我は、どういう意味をもつのだろうか。私は、これまで、デカルト哲学からの進展としてのスピノザ哲学を説いてきたが、デカルトのコギトをスピノザは、継承しているのだろうか。私はこれまで、そう考えてきたのであるが、以上のような布置からすると、再検討が必要である。
 スピノザ哲学の実体に相当するメディア界的思惟・身体(心身)は、単独的自我と同一性自我との中間であろう。おそらく、少なくとも、三つの自我がある。即ち、

1)単独自我
2)心身自我
3)同一性自我

である。そして、自我をフッサール哲学からノエシス/ノエマとしよう(簡単に、ノエシスマないしノエシマとしよう)。ノエシマとは、知と感覚との統一体であろう、本当は。というか。知覚そのものと言うべきかもしれない。ヌース理論で言えば、NOOS即NOSである。志向性は、感覚知覚、知覚、知性感覚である。物質的に言えば、神経である。神経の正体は、ノエシマである。ヌース理論的に言えば、造語して、 NOOSAであろう。不連続的差異論的には、差異のベクトル(方向性)である。また、造語して、知性覚としよう。知性覚が、神経の正体である。そして、これは、不連続的差異であり、また、共振差異である。そして、同一性において、身体と知性に分離する。
 とまれ、上図式は、

1)単独知性覚
2)心身知性覚
3)同一性知性覚

となるだろう。少なくとも、この三重の知性覚が存していることを確認しよう。これは、当然、イデア界知性覚、メディア界知性覚、現象界知性覚である。
 ここで、デカルト哲学に何度も言及することになるが、コギトは、1と3とが重なり合っているものであり、単純に近代自我と見ることはできない。しかし、考えると、もともと、根源には、単独知性覚があり、その展開としての同一性知性覚が生じるのである。図式化すると、

3)表層:同一性知性覚
____________

2)中間層:心身知性覚
____________

1)基層:単独知性覚


となり、基層の展開としての中間層、表層であると言えよう。とまれ、近代自我の潜在意識として、基層があることは確かである。これを、ニーチェやフッサールは明確に、探求し突き止めたと考えられるのである。スピノザはそこまで達していないと思う。ドゥルーズは、中間層と基層を混同していたと考えられる。(キルケゴールは、先駆的に達していたと考えられる。シュティルナーの唯一者は、デカルトのコギトの展開のように思える。)
 近代自我とは、中間層を排除し、かつ、また、基層も隠蔽している。つまり、近代自我/近代合理主義は、中間層と基層を排除し隠蔽しているのである。近代自我の暴力性は、この排除・隠蔽という反動性にあるだろう。思うに、近代自我暴力は、基層の単独性・特異性の力に対応しているものだろう。つまり、ニーチェ的に言えば、力の意志に対応して、近代自我暴力が反動として発生していると言えるだろう。
 問題は、単独性・特異性の力は、自我においてどういう意味をもつのかである。これは、自我の根源である。原自我である。前自我である。これは、不連続であるから、メディア界的共振的連結性を断ち切る、切断、断裁すると言えよう。つまり、破壊/創造の力と言えるだろう。あるいは、独創の力、天才の力である。これは、メディア界→現象界的連続・同一性の現象を断ち切り、新しい《メディア》を創造するのではないだろうか。古い《メディア》を破壊して、新たな独創的《メディア》を新構築すると考えられるのである。その基盤は、単独・特異性の力、力の意志(イデア界の力・虚力)である。
 結局、不連続的差異論によって、この《潜在イデア》の力が明確化して、連続性を断ち切り、メディア界を純粋化したと言えるのである。それまで、メディア界は現象界と連続していたのである。つまり、両者未分化状態にあったのである。これが、明晰に分化したのである。だから、現象界からメディア界への進展がここで、明確になったと言えよう。近代の崩壊・解体・瓦解である。即ち、西洋文明の終焉である。新たな東洋文明(ユーラシア文明)の起動である。
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2006年05月29日

思考実験:メディア界の空間・幾何学について

作業仮説として、メディア差異(ゼロ度共振差異)を、三次元時空体としよう。あるいは、n次元時空体としよう。この時空体とは、時間と空間が未分化一体となっているということである。E=mc^2である(とりあえず)。この差異時空体が、メディア/現象境界領域において、同一性化されるわけであるが、この同一性化によって現象化が為されるのである(半田氏は、オイディプス化と呼んでいる)。このとき、思惟と延長が分化するのである。主客二元論化するのである(近代西欧化)。この同一性化による延長の発生が、半田氏の言う奥行きに相当するのではないだろうか。
 ガウス平面=イデア界での、1/4回転によって差異が虚軸化する。そして、それが、垂直に展開して、Z軸化するとしよう。このZ軸が、メディア/現象境界ではないだろうか。そして、ここにおいて、現象化に際して、延長が発生するのではないだろうか。Z軸と延長方向が重なることになる。このようなことは、以前考えたことがある。とまれ、Z軸を前後方向としよう。すると、ガウス平面=イデア界とは、Z軸=現象界と直交している関係にある。これは、ヌース理論が表現している世界観と重なるだろう。
 問題は、この現象界とメディア界の「空間」関係である。Z軸が前後方向あるいは時間軸方向ならば、左右方向、上下方向はどうなるだろうか。それらは、互換できるものになるだろう。つまり、X軸が上下方向に、Y軸が左右方向になったり、Y軸が上下方向に、X軸が左右方向になったりするだろう。しかし、根本的には、無数の上下左右方向が可能になるということである。つまり、上下左右は回転するからだ。しかし、前後方向/時間軸は一つしかないだろう。これが、半田氏が奥行きという言葉で表現したものに通じるのかもしれない。
 とまれ、ここでは、作業仮説として、Z軸が前後方向・時間軸であり、ここで、延長空間=現象化が発生するのであり、この一次元に対して、ガウス平面=イデア界の二次元が加わって三次元空間=4次元時空間が発生すると言えないだろうか。それは、1/4回転による捩れによって、ガウス平面=イデア界に垂直に差異(ゼロ度差異=共振差異)が「発出」するという事象で説明できるだろう。つまり、Z軸の発生によって、差異は、三次元化しているのである。そして、これが、同一性化によって時空4次元化すると言えるだろう。考えれば、確かに、左右上下は、多様性であるが、前後も多様である。この点を説明しなくてはならない。
 これは、感覚の中でも、視覚に関係する。正面や背後の問題である。直観的に、正面は枢要なものである。同時に、背後の意識も喚起される。正面と背後・背面の体極性があるだろう。視線が基礎であり、ここから、前後方向が規定されて、左右上下が決定されるだろう。視線ないし視点の問題である。そして、これは、同一性化の問題である。光の同一性の問題である。光の同一性が、視線・視点を形成するのであり、これが、延長空間・前後方向・現象化を発生させると考えられる。ということで、前後方向の問題は、光の同一性⇒視線・視点による正面・背面で説明できるだろう。即ち、前後方向(=奥行き)とは、光の同一性=視線・視点によって一義的に決定されるということである。
 ここで、時間軸が光軸であるということになるだろう。相対性理論は、ここを理論化しているのだろう。つまり、Z軸理論である。ついでに、量子論は何かと言えば、それは、メディア三次元体の理論ではないだろうか。ただし、ガウス平面=イデア界を外しているように思えるのである。差異が現象化する以前のXYZ三次元事象が真の量子空間ではないだろうか。つまり、絶対エネルギーの空間(ガウス平面=イデア界)を入れて、完全な量子空間となるのではないだろうか。つまり、現在の量子論は、ゼロ度共振差異=量子のみを扱っているのであるが、その原初に、絶対的差異の回転エネルギーがあるのであり、この回転エネルギー=絶対(絶対値)的エネルギー(=デュナミス)を計算する必要があるのではないだろうか。この点は後で検討したい。
 ここで、最後に、メディア界の空間・幾何学の形態について触れると、それは、二重らせん形状、あるいは、円柱、あるいは、球体等になるのではないだろうか。ここに形態の原型があるのだろう。そして、プラトンは、ここを、イデア界、コーラと呼んだのだろう。そして、ここは、D.H.ロレンスの『死んだ男』の暗いコスモスの薔薇に相当するだろう。多重多層な時空間多様体である。また、善のイデアであるが、それも、メディア界を指していると見ることができるように思われる。しかし、なにか、イデア界自体の示唆も感じるのである。また、大乗仏教であるが、《空》とはメディア界を指しているだろう。また、キリスト教は、同一性の極致を意味しよう。Z軸=ヤハウェからの同一性の展開としてのイエス・キリストだろう。そして、ここは、極点であるから、反転して、メディア界へと回帰するだろう。これが、聖霊教を意味しよう。そして、私の直観では、これが、宝瓶宮(水瓶座アイオーン)の意味するものである。水瓶の水は、聖霊であると考えられるのである。っ伝統的には、ミューズ(ムーサイ・詩神たち)である。また、天使や精霊である。霊感である。そして、メディア界は、確かに、差異調和の世界である。コスモス的ハーモニーCOSMIC HARMONYの世界である。ロレンスが、『馬で去った女』で表現した宇宙、月と太陽の調和の世界である。華厳経宇宙である。モーツァルトの音楽の世界である。また、円空の言う「法の御音」の世界である。高天原である。常世である。新エデンの園である。新八百万の神々の世界である。新多神教である。
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2006年05月06日

メディア/現象境界における差異と同一性の二律背反性:ポスト・モダンと不連続的差異論革命

先に、構造主義の問題で、本件について考察したが、もう少し、細かく検討したい。メディア/現象境界MP境界は、差異と同一性とが発生している領域であり、構造的には、弁証法構造と言うべきである。これは、メディア界の対極性構造と現象界の同一性構造との中間領域である。本来は、矛盾の領域であり、二律背反・二項対立の領域と考えられる。しかし、これを、同一性構造=自我は、弁証法構造にするのである。だから、弁証法構造とは、この境界の現象面を指している見ることができる。
 さて、この領域の差異と同一性との二律背反・二項対立性であるが、これは、差異は同一性を否定しようとし、同一性は差異を否定しようとする相互否定の関係である。ここには、カオスがあるのである。だから、安定するには、どちらかを肯定するしかないのであるが、近代においては、同一性が肯定され、差異が否定されたのである。中世においては、差異は、共同体の信仰と結びついていたと考えられる。そして、バランスをそれなりに取っていたと考えられる。
 しかし、近代になると、自我が全面にでてくる。これは、志向性の必然である。根源的志向性・根源的自我が、イデア界/メディア界からはたらきかけて、エネルギーとなり、メディア/現象境界を活発にする。そして、デカルトのコギト主義が生まれる。これは、根源的差異と現象同一性自我との結合である。簡単に言えば、イデア界と現象界との結合である。これが、コギトである。(この後、排除されたメディア界をスピノザが掬うことになるのである。)問題は強度である。メディア界を否定している強度がここにはあるのである。メディア界が共感エネルギーをもているとすれば、それを否定する反感エネルギーがここにはあることになる。エネルギーと言っても、肯定的ではなくて、否定的である。それは、エネルギーとしては、どういうことなのであろうか。それは、差異共振性を否定するのであるから、本来、エネルギー強度は減退するのである。いわば、エントロピー的なのである。そう、エネルギーが滞るのである。この滞ったエネルギーが、反動エネルギーであり、いわば、負のエネルギーであろう。これが、攻撃・暴力・権力衝動となるのであろう。
 だから、同一性自我は、本来のエネルギーを反動化させて、攻撃・暴力・権力衝動に転化させているのであり、自他破壊的で不毛である。戦争とはここから発しているだろう。近代主義は、このようなものになったのである。ホッブズの世界である。
 問題は、否定された差異、メディア界を取り戻すことであった。近代的合理主義、近代科学は、唯物論化して、メディア界を無視してきたのである。(そして、現代日本の精神の荒廃は、この帰結である。)この取り戻しが、様々な分野で行われたが、一言で言えば、ポスト・モダン運動である。差異の復活としてのポスト・モダン運動である。本来、モダン運動は、差異から始まったのであるが、プロテスタンティズムの反動で、メディア界が否定されてしまい、ルネサンスの差異主義が否定されてしまったと言えよう。だから、モダンとは、矛盾した二重運動である。差異と同一性の二項対立の運動である。
 そして、19世紀後半から、ポスト・モダン運動が明確になり、そして、20世紀後半、フランス現代思想として、流行することになる。それは、既に述べたように、相対的差異と絶対的差異が混同されていて、行き詰まったと考えられる。
 とまれ、差異とは、個のことであり、個の肯定である。それは、鈴木大拙の用語、即非が一番的確に表現している。差異、個の即非である。「わたし」と「あなた」は共感しつつ、分離した存在であるということである。この差異即非性を、同一性自我は暴力的に抑圧・否定するのである。思うに、差異即非性とは、実は、本来の芸術的感性である。芸術に親しむ者は、この能力を涵養していると言えよう。つまり、差異の復活とは、芸術の復活でもある。フランス現代思想が流行したが、それは、実は簡単なことを意味していたのである。本来の芸術的感性(心身性)を取り戻そうということである。しかし、頭でっかちになり、相対主義だとか、脱構築主義だとか、用語が、独り歩きして、実質が抜けていたのである。
 結局、ポスト・モダン運動は、停滞・衰退してしまった。それは、資本主義の同一性が主流になったことが大きいだろう。グローバリゼーションである。これに対して、ポスト・モダン運動は、非力であった。しかし、グローバル資本主義は、脱コード化を行い、自我を脱関係化して、剥き出しの自我、即ち、単独の自我に還元する傾向をもつのである。つまり、グローバル資本主義自体も、自己矛盾的に、ポスト・モダン現象を引き起こすのであり、ポスト・モダン運動は必然なのである。しかし、上述したように、フランス・ポスト・モダンは、相対的差異と絶対的差異の区別を明確にしなかったために、このグローバル・キャピタリズムの引き起こすポスト・モダン現象に、対処できなかったと言えるのである。つまり、特異性、単独性がグローバリゼーションにおいて、多数(「マルチチュード」)出現するのであるが、この事象を、これまでのポスト・モダン知性は、これを十分に理論化できなかったのである。そのために行き詰まったと見る方が的確である。確かに、実質を喪失した用語の独り歩きもあったし、また、グローバリゼーションの同一性の力に非力だったこともあるが、一番の問題は理論的欠陥であったと考えられる。これは、日本においては、ポスト・モダンの旗手であった柄谷行人氏の理論的行き詰まりに見られることである。彼は、単独性の思想を追究してきたのだが、彼の唯物論のために、現象学やドゥルーズ哲学の理解が阻害されてしまい、探究が頓挫してしまい、カント/マルクス主義の近代主義に後退・退行してしまったのである。
 結局、鍵は、単独性・特異性の理論化である。そして、不連続的差異論は、単独性・特異性が、根源的に、イデア界に、不連続的差異として存することを提起して、この問題を解決したと考えられるのである。差異が差異でありつつ、共闘することが可能になることをこの理論は説いているのである。それまで、連帯・共闘するには、連続・同一化したために、反動・暴力化したのであったのである。
 世界は今や、ますます差異化(多極化)していくのであり、また、同時に、反動的な権力が全体主義を志向するのであるが、このポスト・モダン・キャピタリズムの状況において、後者を打破するには、差異を不連続化する必要があるのである。絶対的差異としての個となることが必要なのである。ここから、ポスト・モダンが真に革命的になるのである。それは、不連続的差異的共生共創主義である。不連続的差異論は、個を救うことで、世界共生を目指すのである。
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2006年05月05日

ウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』の思想:「魂」とメディア界:作業仮説としてのアトランティス文明




ウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』の思想:「魂」とメディア界:作業仮説としてのアトランティス文明

ブレイクは、「人間は魂から区別される身体をもたない。なぜなら、身体とは、五感によって弁別される魂の一部分であるから。」と言っている。

 ブレイクの説く「魂」とは、不連続的差異論のメディア界に相当するだろう。私は、メディア界を心身と捉えているが、正確に言えば、メディア差異である。ここでは、思惟(精神)と延長(感覚・身体)とが、即非である。だから、ブレイクの「魂」とは、思惟(精神)「即非」延長(感覚・身体)である。そう考えれば、正に、「身体とは、五感によって弁別される魂の一部分である」。

 近代主義は、当然、この思惟と延長とを切断・分離したのである。主客二元論である。ブレイクが、「この時代の主なる入口」と五感を呼んでいるが、それは、近代主義ないし唯物論を意味していよう。

 また、「エネルギーが唯一の生命であり、身体から発するのであり、理性は、エネルギーの限界(境界)ないし外的な周囲(円周)である」と述べているが、これは、「魂」⊇身体からエネルギーが発生するということであり、「理性」とは、エネルギーの知性、メディア界の知性ということだろう。敷延すれば、エネルギーと知性とは一体ないし即非であるということになるだろう。

 思うに、ブレイクのエネルギーという言葉は、とりわけ、意味深長である。これは、メディア界のエネルギーであり、単純な物質的エネルギーではなくて、共振差異的エネルギー=共感的エネルギーである。そう、太陽のエネルギーでさえ、差異の共振性=共感性によって発生しているのだ。もし、共振性=共感性を「愛」と呼べるならば、エネルギーは、差異の「愛」から産まれているのである。(ついでに言えば、女性の本性は、メディア界である。今日、メディア界を喪失した現象界化した女性がほとんどである。)

 この視点から見ると、心身平行論と呼ばれるスピノザ哲学は、明らかに、メディア界の哲学である。即ち、スピノザの説く「思惟」・「心」・「精神」とは、メディア界の知性であり、それは、ブレイクの「理性」であり、ブレイクの「身体」(ないし「魂」)・エネルギーと結びついているのである。つまり、メディア界の心身性(心即非身体)を基盤とする心身平行論と考えることができる。スピノザは、デカルト哲学をベースにしているので、心と身体の二元論を保持しているが、実質的には、スピノザの心と身体は心身性=メディア界を共通基盤にしているのである。そう考えると、スピノザの実体(神即自然)とは、メディア界のことではないだろうか。もっとも、イデア/メディア境界をもっているのであるが。つまり、イデア界の縁はもっているのである。

 さらに展開すると、ドゥルーズがスピノザに至高の評価を与えるのは、ドゥルーズ哲学が、メディア界の哲学、メディア差異を対象にした哲学であるということを意味していると考えられるのである。

 さらにさらに、展開すると、西欧文化におけるメディア界的思想の起源は何だろうかという問題があるのである。ブレイクの場合は、ケルト・コスモス主義あるいは、ケルト/東方キリスト教的コスモス主義だと思われるのである。スピノザ哲学のメディア界的コスモス主義はどこから発生しているのだろう。オランダという「地霊」なのか、それとも、ユダヤ教からの逸脱なのか。ユダヤ神秘主義(カバラ)なのか。スピノザとブリテンのロマン主義は、通じるものがあるのである。ブレイクには、グノーシス主義的な要素がある。また、カバラ的なところもある。簡単に言えば、神秘学が背景にある。すると、ケルト・コスモス主義、東方キリスト教、グノーシス主義、カバラ、等となる。そう、超越論的高次元内在論の思想である。結局、これが、スピノザとイギリス・ロマン主義(さらには、ロマン主義全般)に共通する起源ではないだろうか。そして、これが、ニーチェやフッサールで、絶対的ポスト・モダンの展開をすると考えられよう。

 超越論的高次元内在論とは、本来のイデア論ないしプラトニズムである。また、超越論的知性である数学である。文化史的には、西欧ないしヨーロッパにおいては、ルネサンスに結びつく。しかし、スピノザの存在の一義性とは、中世のドゥンス・スコトゥスに拠るのである。彼は、スコットランド出身である。つまり、ケルト文化圏出身である。すると、ケルト・コスモス主義が起源として考えられる。もし、そうならば、ケルト文化とは何かである。ケルト神話は先に見たように、折口信夫の日本宗教観に近いのである。簡単に言えば、ケルトとは、東洋主義である。あるいは、前アーリア民族的な文化である(ケルト人は、アーリア民族であるが、イギリスの巨石文化を受け継いだと考えられるのである)。

 今、アトランティスという言葉が浮かんだのである。作業仮説として、アトランティス文明が起源としよう。こうすると、巨石文化の高度文化性も説明できるし、また、プラトンが『ティマイオス』等で、アトランティスに言及していたことにも符号する。そう、ケルト十字(⊕の+の部分を延長する)は、ガウス平面の円運動を表現していると見ることもできる。また、アトランティス文明を想定すれば、超越論的知性である数学の起源も説明できるだろう。そうならば、起源は、アトランティスの叡智(ソフィア)・般若である(そう考えると、仏教哲学とプラトン哲学の近さを整合的に説明できるだろう)。

 では、折口信夫の日本宗教観とどうつながるのか。記紀神話は、メディア界の表現(イザナミ/イザナミ、アマテラス/スサノオ)と見ることができるし、また、イデア界の表現【造化三神:天之御中主神 (あめのみなかぬし)、高御産巣日神 (たかむすび)、神産巣日神 (かみむすび)】と見ることができる。また、ケルト神話と同様に、他界・常世を、海の彼方と見たのである。海の彼方とは、アトランティス大陸の名残と見ることができるだろう。以上のように考えると、すべては、アトランティス文明で糸がつながるのである。パズルはこれで、解決するのである。

Marriage of Heaven and Hell PLATE 4

The voice of the Devil

All Bibles or sacred codes. have been the causes of the following Errors.

1. That Man has two real existing principles Viz: a Body & a Soul.

2 That Energy. calld Evil. is alone from the Body. & that Reason. calld Good. is alone from the Soul.

3. That God will torment Man in Eternity for following his Energies.

But the following Contraries to these are True

1 Man has no Body distinct from his Soul for that calld Body is a portion of Soul discernd by the five Senses. the chief inlets of Soul in this age

2. Energy is the only life and is from the Body and Reason is the bound or outward circumference of Energy.

3 Energy is Eternal Delight

http://www.english.uga.edu/nhilton/Blake/blaketxt1/marriage_of_heaven_and_hell.html

詩画(版画)は以下。

http://www.blakearchive.org/exist/blake/archive/object.xq?objectid=mhh.i.illbk.04&java=yes

参考:般若

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5

Sophia

http://en.wikipedia.org/wiki/Sophia

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

http://en.wikipedia.org/wiki/Duns_Scotus

以下は、toxandria氏のスコトゥスに関する論考である。

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050403

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050404

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus 1266年 ? - 1308年 11月8日 )中世ヨーロッパの神学者 ・哲学者 。トマス・アクィナス 後のスコラ学 の正統な継承者。アリストテレス に通じ、その思想の徹底的な緻密さから「精妙博士」(Doctor Subtilis)といわれたフランシスコ会 スコットランド のドゥンスで生まれ、オックスフォードとパリ で哲学・神学を学んだ。最後はケルン で教え、そこで亡くなった。主著として「命題集註」が知られている。 士。盛期スコラ学と後期スコラ学をつなぎ、スコトゥス学派の祖となった。

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思想

トマス・アクィナス と異なり、スコトゥスは神学を「人間を神への愛に導く実践的な学問」であると考えた。また個物に本質を見出したアリストテレス から一歩進んで、存在が個物においてのみ成り立つ(「知性は個をとらえる」)と考えたところにスコトゥスの思想の特徴がある。さらには必然的なものである自然と、必然的なものでない意思の自由をわけて考えたスコトゥスにとって、人間の幸福は(トマスが言うような)神を直観することではなく神を愛することにあった。この考えは近代の主体主義 のルーツとなっていく。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9 " より作成

カテゴリ : キリスト教神学者 | 1266年生 | 1308年没

折口信夫『妣が国へ・常世へ 異郷意識の起伏

』から

「十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾(かつ)ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。

すさのをのみことが、青山を枯山(カラヤマ)なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣(ハヽ)が国」は、われ/\の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます国なるからの名と言ふのは、世々の語部の解釈で、誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた。

而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、訣(わけ)があると思ふ。第一の想像は、母権時代の俤(おもかげ)を見せて居るものと見る。即、母の家に別れて来た若者たちの、此島国を北へ/\移つて行くに連れて、愈(いよいよ)強くなつて来た懐郷心とするのである。併し今では、第二の想像の方を、力強く考へて居る。其は、異族結婚(えきぞがみい)によく見る悲劇風な結末が、若い心に強く印象した為に、其母の帰つた異族の村を思ひやる心から出たもの、と見るのである。かう言つた離縁を目に見た多くの人々の経験の積み重ねは、どうしても行かれぬ国に、値(あ)ひ難い母の名を冠らせるのは、当然である。

     二

民族の違うた遠い村は、譬ひ、母の国であつても、生活条件を一つにして居るものと考へなかつたのが、大昔の人心であらう。さればこそ、とよたまひめの「ことゞわたし」にも、いはながひめ等の「とこひ」にも、八尋鰐や、木の花の様な族霊崇拝(とうてみずむ)の俤が、ちらついて居るのだと思ふ。此方は、かう言ふ事実が、此島での生活が始つてからも、やはり行はれて居て、其に根ざして出て来たもの、と見ても構はぬ。

又、右の二つの想像を、都合よく融合させて、さし障りのない語原説を立てることも出来る。

ともかく、妣が国は、本つ国土(クニツチ)に関する民族一列の※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)から生れ出て、空想化された回顧の感情の的である。母と言ふ名に囚はれては、ねのかたすくになり、わたつみのみやなりがあり、至り難い国であり、自分たちの住む国の俗の姿をした処と考へて居なかつた事は一つである。此は、妣が国の内容が、一段進んで来た形と見るべきで、語部の物語は、此形ばかりを説いて居る。いなひの命と前後して、波の穂を踏んでみけぬの命の渡られた国の名は、常世(トコヨ)と言うた。

過ぎ来た方をふり返る妣(ハヽ)が国の考へに関して、別な意味の、常世(トコヨ)の国のあくがれが出て来た。ほんとうの異郷趣味(えきぞちしずむ)が、始まるのである。気候がよくて、物資の豊かな、住みよい国を求め/\て移らうと言ふ心ばかりが、彼らの生活を善くして行く力の泉であつた。彼らの歩みは、富みの予期に牽(ひ)かれて、東へ/\と進んで行つた。彼らの行くてには、いつ迄も/\未知之国(シラレヌクニ)が横(よこたは)つて居た。其空想の国を、祖(オヤ)たちの語では、常世(トコヨ)と言うて居た。過去(スギニ)し方の西の国からおむがしき東(ヒムガシ)の土への運動は、歴史に現れたよりも、更に多くの下積みに埋れた事実があるのである。大嘗会のをりの悠紀・主基の国が、ほゞ民族移動の方向と一致して、行くてと過ぎ来し方とに、大体当つて居るのも、わたしの想像を強めさせる。東への行き足が、久しく常陸ぎりで喰ひ止められて延びなかつたことは事実である。祖たちの敢てせなかつたことを、為遂げたのは、毛の国から更に移り住んだ帰化人の力が多い。此は、飛鳥・藤原から、奈良の都へかけての大為事であつた。

祖たちが、みかど八洲の中なる常陸の居まはりに、常世(トコヨ)並びに、日高見(ヒタカミ)の国を考へたのも、此処に越え難いみちのおくとの境があつて、空想を煽り立てたからであつた。常世(トコヨ)を海の外と考へる方が、昔びとの思想だとする人の多からうと言ふことは、私にも想像が出来る。併し今の処、左袒多かるべき此方に、説を向けることが出来ぬ。

書物の丁づけ通りに、歴史が開展して来たものと信じて居る方々には、初めから向かぬお話をして居るのである。常世(トコヨ)と言ふ語の、記・紀などの古書に出た順序を、直様(すぐさま)意義分化の順序だ、との早合点に固執して貰うて居ては、甚だお話がしにくいのである。ともあれ、海のあなたに、常世(トコヨ)の国を考へる様になつてからの新しい民譚が、古い人々の上にかけられて居ることが多いのだ、とさう思ふのである。海のあなたの大陸は蒲葵(アヂマサ)の葉や、椰子の実を波うち際に見た位では、空想出来なかつたであらう。其だから、大后一族の妣(ハヽ)が国の実在さへ信じることが出来ないで、神の祟りを受けられた帝は、古物語を忘れられた新人として、此例からも、呪はれなされた訣になる。彼らは、もつと手近い海阪(ウナザカ)の末に、わたつみの国と言ふ、常世(トコヨ)を観ずる様になつて来た。いろこの宮を、さながら常世(トコヨ)と考へることは、やはり後の事であるらしい。 」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/13212_14465.html

p.s. ケルト・ブリテンは、20世紀に入り、大爆発した。文学では、「モダニズム」と呼ばれるものである。(それは、完全に錯誤の命名であり、例えば、前期ポスト・モダニズムと呼ぶべきものである。)D.H.ロレンス、ヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス、T.S.エリオット他である。とりわけ、ロレンスは、西方キリスト教を突き抜けて、さらには、皮相なプラトニズムを突き抜けて、ケルト・コスモス=メディア界を体現し、表現したのである。

 また、哲学では、巨人のホワイトヘッドが、『プロセスと実在』で、メディア界の哲学を打ち立てたと考えられるのである。

 結局、ケルト・ブリテンは、アトランティスの叡智に現代的に反復・回帰したと言えよう。

p.p.s. フランス人ドゥルーズが、英米文学を評価するのは、ドゥルーズには、ケルトの血が流れているからではないだろうか。そう、ニーチェに関しても、ケルトの血を感じるのである。これらについては後で検討したい。

3p.s. 前期ポスト・モダニズム文学として、ジョイスと並び称されるプルーストをあげられるが、ケルトと関係があるのではないかと検索していたら、あった。

「ここで、プルーストの作品構造と、時間が凝固してしまったようなヨーロッパ中世の教会堂建築との血縁性が明らかになる。

 プルーストは、ラスキンの翻訳や、その長い序文執筆によって、ラスキンの美意識と彼の鋭い観察眼をわがものとし、

ゴシック建築をはじめ、中世芸術に通じていた。

さきの引用で、言及されていたロマネスク建築を例にとれば、それは、

「歴史のすべてを監禁し、幽閉し、圧搾している」と表現されていた。

ここでは、時の流れとしての歴史は存在しない。その代わりに、重層する空間化された「時」が存在する。

 現代のわれわれにまで伝わる、例えば十二世紀のロマネスクの教会堂は、

後陣のこの部分は十世紀、柱頭彫刻のいくつかは十一世紀、壁画のこの部分は十三世紀、

この修復はバロック期・・・といった具合に、ひとつの建物の中に、それぞれ具体的な「時」が息づき併存している。

さらには、教会堂の地下にケルト時代の泉があったり、ローマ時代のミトラ信仰の祭壇があったり、

地下墳墓(クリプト)があったりすることもある。

一つの建築物の中に、可視的なレヴェルで、複数の「時」が重層したイマージュの構造をとる。

歴史の連続性が、視覚に訴えられるのである。

 したがって、『失われた時を求めて』の冒頭部、プルースト文学の核心をつくるマドレーヌ菓子の挿話も、

その前後で、古代ケルト人の信仰に触れた一文が置かれていることは、注意深い考察に値しよう。

それは決して偶然ではない。

私はケルト人の信仰をいかにももっともだと思う。それによると、われわれが亡くした人々の魂は、何か下等物、獣とか植物とか無生物とかのなかに囚われていて、われわれがその木のそばを通りかかったり、そうした魂がとじこめられている物を手に入れたりする日、けっして多くの人々には到来することのないをのような日にめぐりあうまでは、われわれにとってはなるほど失われたものである。ところがそんな日がくると、亡くなった人々の魂はふるえ、われわれを呼ぶ。そしてわれわれがその声をききわけると、たちまち呪縛は解 かれる。われわれによって解放された魂は、死にうちかったのであって、ふたたび帰ってきてわれわれとともに生きるのである。

 

 ここで、プルーストは、カエサルのゴール征服以前、フランスの土地にいたケルト人の信仰にある霊魂不滅の説をとりあげている。樹木の霊力や魂の再生に触れ、死を征服し、魂の甦りを信ずるケルト人たちの信仰について述べている。プルーストはこの話を、理性や意志の力ではいかんともしがたい隠れた記憶を、感覚が偶然的な契機によって喚起してくれるという、あのマドレーヌ菓子による至福の体験の描写にふかく繋げている。われわれの心の深層に、ふだんは眠っている反覆、繰り返しの単位であった太古の時間は、容易に変化しないものとして、歴史の基層に確かに存在する。」

http://osaka.cool.ne.jp/micay/temps.htm

『夢想書庫:プルースト』

4p.s. 先に、ケルトと結びついた東方キリスト教のことを述べたが、『叡智の禁書図書館』(http://library666.seesaa.net/

では、アリウス派であろうと推測している。これは、キリスト教異端で、イエスの神性を否定しているのである。いわば、三位不一体論である。これは、不連続的差異論の三層構成と一致するだろう。「父」/「聖霊」/「子」である。三位不連続である。

 また、D.H.ロレンスが、大天才的作品『死んだ男』で、「死んだ」イエスを、単独的な、コスモス的な人間に変えたことを想起するのである。ケルト・ブリテンも不思議ではない。ケルト・アリウス派と言うべきなのだ。

参考:アリウス派

http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/bun041.htm

http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official

5p.s. ケルト・アリウス派的ブリテン・コスモス主義を、より広く考えようとすると、19世紀後半から20世紀初めのロシア文学にぶつかる。文豪トルストイやドストエフスキーたちの文学は、奇蹟的である。ロシア文学は、ロシアの大地から切り離しては考えられない。そして、また、ロシア文化には、コスモス主義がある。これは、東方キリスト教から発しているだろうし、また、土着的なものがあるだろう。大地とコスモスの一体性がある。一言で言えば、メディア界文学・文化である。だから、当然、ケルトと通じるものがあるのである。しかし、アトランティス文明を根源として想定したとき、どうつながるのか。そう、キリスト教の問題があるのである。キリスト教は、本来は、アリウス派的な三位不一体であったと思われるのである。あるいは、グノーシス主義的なキリスト教であったと思われるのである。さらに、言えば、超越論的高次元内在コスモス主義である。これが、東方キリスト教に伝播しているのだろう。ギリシア正教である。ギリシアは、東西の結節点である。そう、ギリシアは、古代ギリシアは、古代エジプトの叡智を継承したと思われる(プラトンの『ティマイオス』で、ギリシア人は、エジプト人から見たら、子供であるという言葉が伝えられている)。これは、また、アトランティスの叡智であろう。つまり、東方キリスト教はアトランティスの叡智を継承しているのである。だから、ケルト・アリウス派的ブリテン・コスモス主義と共通点をもつのである。両者、アトランティスの叡智の継承なのであると考えられるのである。

 西洋文明は、アトランティスの叡智の破壊である。そう、アトランティス文明を破壊させたと考えられる同一性の悪魔アーリマンの邪悪な知性を西洋文明は発展させたのだ。それが、近代主義であり、とりわけて、アメリカ文明である。西洋文明は、占星術の双魚宮(魚座)にふさわしく、二面性をもっているのだ。一つは、アトランティスの叡智の継承とアトランティス破壊の悪魔的知性の継承である。今日、前者を批判的に継承しなくてはならず、今や、不連続的差異論やヌース理論として、日本で新生したと言える。ポスト西洋文明である。新アジア文明である。新アトランティス文明である。新アジア=新アトランティス=新ユーラシア=新地球ポスト文明・超文明である。

6p.s. 参考:ベルギー、オランダとケルト

「ベルギー

  国名はローマの征服以前住んでいたケルト系住民ベルガエ族に由来しています。オランダ、ルクセンブルク、ベルギーを含めてネーデルランドと呼んでいましたが、19世紀ごろから分裂してベルギーを国名として使うようになりました。」

http://www.mita.lib.keio.ac.jp/lib_info/display_history/189.html

「オランダの最古の都市Nijmegen(ネイメーヘン)とケルト」

http://plaza.rakuten.co.jp/patitani5555/diary/200601230000/

のコメント参照

その他

http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/forg/forg36.htm

http://www.geocities.jp/beerforum/bbhistory.htm

7p.s. 因みに、私がクラシックのCDで、一枚あげよと言われたら、グスタフ・レオンハルトの演奏によるバッハの『フーガの技法』である。とても、東洋的な幽玄な、わびさびのある、能楽のような、間のある演奏である。また、バッハの音楽、特にこの曲は、ケルト的な、多元的な入り組んだ文様を想起させないだろうか。バッハのポリフォニーとケルト文様は比較する価値がある。

8p.s. ロシアのコスモス主義

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004906772.html

http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/ETHER1.html

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9970051296

http://72.14.203.104/search?q=cache:daaC_Cm1JH8J:blog.melma.com/00122700/20041103075652+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80sophiology&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1&client=firefox

http://72.14.203.104/search?q=cache:mdjhiGAnGJ8J:blog.melma.com/00122700/20041103075342+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80sophiology&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2&client=firefox

http://72.14.203.104/search?q=cache:-OQecW1jCvYJ:blog.melma.com/00122700/20041103080036+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80philosopractical&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2&client=firefox

http://72.14.203.104/search?q=cache:0b-_BYSqxikJ:blog.melma.com/00122700/20041103080425+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80philosopractical&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1&client=firefox

映画ならば、タルコフスキーだろう。
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2006年04月18日

差異の共立とは何か:東西文明統一とパラモダン・コスモス超文明/新ヘレニズムの誕生

次のODAウォッチャーズ氏の論考は、とても意味深長であるので、この問題に関して検討したい。

「人間の存在認識の多様性と(不連続的差異論上の)メデイア界について」『海舌』http://blog.kaisetsu.org/?eid=363490

結局、Aという命題と非Aという命題が、同時成立する事象をどう見るのかということである。イデア界においては、不連続な差異が共立しているので、まったく問題はない。問題は、メディア界においてである。即ち、心身=メディア界を問題とするとき、差異の相互の関係はどうなるのかということである。差異の共立が成立するならば、どういうものであろうか。
 以下では、西洋文化における視覚優位性が問題となっていたのであるが、それに対して、ODA ウォッチャーズ氏は、メディア界における諸感覚の共立について、述べていたのである。一種共感覚に通じる考察である。とまれ、各差異でありつつ、同時に、各差異ではないという矛盾同一が指摘されているのである。この共立事象は、メディア界を考えると、とりわけ、イデア/メディア境界を考えると、わかりやすいのである。不連続性と連続性が共立しているのである。狭義的には、イデア/メディア境界の事象であるが、広義においては、メディア界の事象と言って間違いないのである。なぜなら、メディア界とは、上端にイデア/現象境界ともち、下端にメディア/現象境界をもっているからである。
 では、なぜ、西洋文化は、視覚優位なのかと、単純に考えると、これは、やはり、西洋文化の根本的二元論によるのではないだろうか。霊肉二元論でもいいし、善悪二元論でもいいし、主客二元論でもいい、心身二元論でもいい。これは、これまでの私の検討から見ると、同一性構造によるのである。つまり、西洋文化・文明において、同一性構造が、他の文化・文明よりも徹底的に作用して、二元論化したと思えるのである。同一性構造とは、差異を徹底して否定して、無化して、同一性で感覚・知覚・認識を満たす構造のことである。これは、弁証法構造とも言える。図式化すると、差異1・同一性・差異2・同一性・差異3・・・・・差異nであり、差異1=差異2=差異3・・・・=差異nとなるのである。これは、自我同一性構造とも呼べるだろう。丁寧に言えば、自我同一性弁証法構造(自同律)と言えるだろう。これは、ユダヤ・キリスト教的構造である。(私見では、古代ギリシアは、基本的には、差異に関わっていた。もっとも、パルメニデスのように不動の一者に関わっていた哲学者もいた。)この自我同一性とは、メディア/現象境界に必然的に発生するものである。1/4回転によって、差異の境界がゼロ化し、さらに、垂直に捩れて、ゼロ度が、ゼロ化されて、無となる。つまり、差異が完全に一体化するのである。このゼロのゼロ=無=差異の否定が同一性構造である。これは、確かに悪魔的である。シュタイナーはこれを、アーリマンと呼んだと考えられるのである。これは、暴力である。二項対立暴力である。西洋文明が本質的にもっている暴力である。アメリカ合衆国国家に如実にある暴力である。覇権暴力である。父権暴力である。戦争の原動力である。 
 視覚優位性と同一性構造の関係であるが、差異の否定性=無=同一性構造が、差異を否定するのであるが、このとき、同一性と差異の間に《距離》が生じるのである。この透き間が消去しようとするのが、視覚なのではないだろうか。では、なぜ、視覚であって、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、等々の諸感覚ではないのか。これは、視覚のもっている特殊性を考えるとわかりやすいだろう。視覚は、主体と対象(客体)との距離を発生させて、主客二元論化するのである。つまり、個体の同一性を確固のものとするのである。他の諸感覚では、同一性ではなくて、他の差異との関係が発生して、同一性が形成されないのである。例えば、触覚を考えればいい。自分の両手を合わせてみれば、どちらが、主体か客体がわからなくなるだろう。同一性構造にとって、視覚が重要なのである。
 では、同一性と視覚との直接的結びつきはないのだろうか。思うに、これは、光と関係しているだろう。メディア界は、光子の領域である。そして、これが、現象化するのであるが、メディア界における光とは、差異のある光である。差異的光子である。これが、現象化すると、差異が同一性によって無化されて、いわば、同一性の光となるのではないだろうか。この同一性の光が、主客二元論の視覚を形成するのではないだろうか。つまり、差異の光ではなくて、同一性の光が、西洋文化・文明における視覚優位性を発生させると考えられるのである。
 もし、そのように考えられるならば、少なくとも二種類の光があることになる。アインシュタインの光とはどちらなのか。思うに、同一性の光を観測しているのではないだろうか。これが、光速度一定となるのではないだろうか。差異の光は、量子力学が扱っているのではないだろうか。確かにそうだろう。2つの光。ここで、飛躍的に言うと、イデア界が黒い光ならば、現象界が白い光ならば、メディア界の光、差異の光とはどう形容できるのか。一面は白い光だが、他の一面は黒い光だろう。白と黒が合わさっている光である。両面的光、ヤヌス的光である。(D.H.ロレンスの、太陽は背を向けているという言葉を想起する。)これは実に不思議な光、二重光であろう。陰影のある光。光と思えば闇であり、闇と思えば光である。少し、真夏の太陽を想起する。つまり、光に闇が透けているし、闇から見ると、底に光が輝いているのである。《ここで、シュタイナーが、青空の青は、闇が光の領域に入った時の色で、夕焼けの赤は、光が闇に入る時のいろであるということを言っていた(?)ことを想起する。》
 とまれ、メディア界の光は、対極的であり、グラデーションのある光ではないだろうか。虹色かもしれないし、さらに、微妙かもしれない。もっとも、陰影多彩である。幻想的な感覚性をもつのではないだろうか。また、ここで、電磁波のスペクトルを想起するのである。黒は紫外線を、白は、赤外線を想起する。この事柄は後で検討しよう。
 二重光の問題に戻ると、量子力学の対象とする差異の光とは、二重光であり、黒い光と白い光である。あるいは、陰陽光と呼んでもいいだろう。直観では、これは、無限速度であり、同時に、光速であろう。先に、非局所性について言及したが、これは、黒い光を考えると、正しいのではないだろうか。否、精緻に考察しよう。イデア界に黒い光、現象界に白い光があるならば、メディア界には、二種類ではなくて、三種類の光があるのではないだろうか。即ち、不連続的差異の光(黒い光)、共振的差異の光(陰陽の光)、同一性の光(白い光)の三種類である。そして、量子力学は、この陰陽の光を対象としているだろう。確かに、一面では、同一性の光を帯びるから、光速度一定であろう。しかし、同時に、差異共立的に、超光速度を帯びるだろう。メディア界は不可分時空間である。ここでは、時空間が揺らいでいるのだろう。光が無限速度になったり、通常の光速度になったり、あるいは、その中間速度になったりするのではないだろうか。ベルの定理、非局所性とは、本当は、メディア界のこの事象を指しているのではないだろうか。
 本件のテーマからずいぶん離れてしまったが、ここで、テーマに即すと、西洋文化・文明において視覚優位性があるのは、同一性の光が支配的だからであるということを、ひとまず、述べておく。そうすると、量子力学を含めてポスト・モダン理論やパラ・モダン理論は、明らかに、脱西洋文化・文明、ポスト西洋文化・文明を説くことになる。それは、「東洋文化・文明」的である。しかし、さらに、超東洋文化・文明も説くだろう。これまでのポスト・モダン理論は、イデア界とメディア界を混同していたのであり、そのため、行き詰まってしまったと考えられるのである。しかし、新ポスト・モダン理論=パラ・モダン理論である不連続的差異論の出現によって、混同・混乱が解消されて、ポスト・モダンの問題が明晰・明確になったのである。つまり、これまでの東洋文化・文明も、古ポスト・モダン理論と同様であったと思われるのである。つまり、差異の連続性までは達したが、不連続性までは、明瞭に達していたなかったと考えられるのである。だから、新ポスト・モダン理論=パラ・モダン(トランス・モダン)理論は、単に東洋文化・文明への回帰ではなくて、それを超えた新東洋文化・文明を説くことになるのである。そして、それは、プラトン主義の創造的発展となるのである。ここで、東洋と西洋とが、創造的に、新たに、合体し、統一するのである。東西統一文化・文明の誕生がここに出現したと言えよう。新地球世界宇宙文化・文明、即ち、新コスモス超文明の誕生である。
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2006年04月15日

不連続的差異と素粒子:ポスト量子力学とポスト大乗仏教:新イデア宇宙ポスト文明に向けて

不連続的差異と素粒子:ポスト量子力学とポスト大乗仏教:新イデア宇宙ポスト文明に向けて

不連続的差異・イデアの垂直/水平十字志向性強度とは、ミクロの黒い光たち、ミクロの玄光たちであり、そのデュナミス/エネルゲイアの発動である1/4回転によって、原初的光=素粒子・量子(=メディア)時空間を発生させる。聖書の光あれである。エローヒームによる光の創造である。1/4回転事象において、イデア界のイデアの境界が、ゼロ・空化するのであり、イデア1とイデア2が、言わば、接するのである。この時、ゼロ度共鳴・共振が発生する。これが、素粒子・量子の生成を意味するだろう。即ち、共振するイデア・「ネットワーク」の生成である。(思うに、華厳経宇宙は、このメディア宇宙ではないだろうか。)つまり、ゼロ度となることで、イデア同士が共振して、振動・共振粒子が発生して、それが、波動となるということだろう。即ち、不連続的差異であるイデアが共振して、素粒子・量子となるということだろう。即ち、この共振する不連続的差異=イデアが、粒子即波動ということである。問題は、この粒子即波動の意味である。
 問題は、ベルの定理、非局所性にある。粒子即波動で考えると、無限距離を、超光速で、粒子即波動が移動する事態となる。これは、矛盾である。問題点は、観測の意味にあるのだろう。観測によって、量子の位置が決まったり、速度が決まったりするが、そこでは、ハイゼンベルグの不確定性原理がはたらく。しかし、この事象は、現象界(近代主義的自然科学)からの観測を介入させるから、発生すると考えられるのである。考えれば、量子の存するメディア界においては、粒子即波動であり、不確定なことはなにもない。例えば、ある量子q1があるとしよう。これは、メディア界においては、粒子p1であり、且つ、波動w1である。即ち、量子q1=粒子p1即波動w1である。
 しかるに、これを、現象界(粒子と波動を分離する二元論的近代主義的自然科学)の観点から見ると、量子を、粒子か、波動に分離させてしまうのである。もともと、粒子即波動である量子を、粒子と波動に分離するのは、誤りである。メディア界の次元を、現象界の次元から把捉するのは、誤謬である。例えば、光子である量子を、2つのスリットに通す周知の実験を行なったとき、スリットを通った光子が一個観測される。そして、どちらのスリットを通ったのかということになるのである。これは、愚問である。なぜなら、量子は、粒子即波動であり、波動自体が粒子であるのだから。光子は、両方のスリットを通ったのである。一個の光子が2つのスリットを通ったのである。これを、確率とするのは、誤りである。
 非局所性の問題に返ると、その問題が生じるのは、今述べたことに関わる。即ち、不確定な量子が、例えば、地球からアンドロメダ星雲の距離に存しているが、それが、観測によって、一瞬のうちに収束して、粒子として、確定されるのであり、この距離を量子が超光速で移動したことになるのである。しかし、これは、誤りである。不確定な量子とは、現象界の観測から考えられたものに過ぎず、実際は、確定した量子が存在しているのである。一瞬のうちに、超光速で移動するのではないのである。量子は、メディア界の事象として把捉しなくてはならない。
 イデア界をガウス平面として、X軸・実軸をイデア軸、Y軸・虚軸をメディア軸、それらに直交するZ軸を現象軸と作業仮説すると、メディア界は、Y軸―Z軸平面となるだろう。そして、この平面から、空間/時間4次元の現象界(仮象界)が発現(仮現)するのである。量子力学は、メディア界の量子の確定の事象を、現象界から観測して、不確定の事象として把捉するのである。つまり、現象軸Z軸の同一性構造によって、主客二元論の近代主義的自然科学が発生して、それは、共振イデアである量子を、物質化して、延長の時間・空間次元に置くのである。そのため、非局所性となった量子が、言わば、超光速で、粒子に収束することになるのである。換言すると、非局所性とは、もともと、メディア界の事象である量子・素粒子(素粒子の方が的確であろうから、これから、素粒子とする)を、現象界・時間/空間4次元の視点からの観測から発生すると言えるだろう。現象界の観測から不確定となるに過ぎない。すると、ここで、非局所性の考え方が崩壊するのである。また、量子力学自体も、崩壊するだろう。素粒子を不可分時空間であるメディア界での事象と見る科学が必要となるのである。それは、メディア界的物理学である。イデア論的物理学である。
 ここで、光子について考えてみると、それは、本来、無限速度であろう。なぜなら、イデア界の事象であるし、また、時空間そのものであるからである。問題は、光速の問題である。相対性理論の問題である。直観で言うと、現象軸Z軸の同一性が、主客二元論的時空間=現象界を発現させるのであり、この同一性構造形式が、光速を発生させているのではないのか。つまり、現象軸の同一性構造形式が、素粒子・光子を測定して、光速度を観測しているのだろう。つまり、現象界=同一性構造の枠から素粒子・メディア界を観測すると、光速度一定という事態となるのだろう。つまり、光子は、もともと、無限速度である。というか、不可分時空間事象であるから、無時間・無空間である。だから、光子、素粒子を記述するには、メディア界の科学が必要であり、それは、虚軸であるY軸と現象軸であるZ軸との複素平面となるだろう。ODA ウォッチャーズ氏の『不連続的差異研究』の座標はそのように見ることができるだろう。また、ヌース理論のヌース界もそのように捉えることができるように思えるのである。
 考察をイデア界へと進展させると、そこは、完全なイデアの領域である。もはや、共振によるイデアのネットワークは存していない。ただ、「超越論的主観性」による「間主観性」があるのみである。不連続的差異であるイデア、不連続的イデアの共立空間があるのみである。それは、黒いイデアたちである。ここが、究極の世界・玄界・叡知界である。このイデア界・ガウス平面における不連続な黒いイデアたちの永遠回帰がここにはあるだけである。「至高天」である。双対的生成消滅が反復されるのである。地球や宇宙を生成消滅させるのである。ゲーテの『ファウスト』の「母の国」であり、折口信夫の「常世」であり、ケルト神話の他界である。死者たちの住み処・冥界即ち浄土・天国である。ここでは、最後の審判はありえない。一神教はまがい物である。ただただ、永劫回帰である。絶対的永劫回帰である。ここでは、無数・無限の自我たちが存するのである。無数・無限の「わたし」たちが存するのである。そして、おそらく、「対話」していているのである。ポリフォニー的に対話しているのである。これこそ、コスモスの音楽であろう。モーツァルトの音楽であろう。円空のいう「法の御音」であろう。D.H.ロレンスが、「馬で去った女」で表現したコスモスの妙音であろう。コズミック・ハーモニーである。
 では、これは、メディア界の音ではないのかという疑問が起こるだろう。確かに、メディア界の共振するイデアの音楽があるだろう。しかし、これは、純粋な音楽ではないだろう。つまり、不連続的イデアが、ここでは、その純粋性を喪失して、いわば、協和音となっているからである。ゼロ化によって、共振的連続化が生起して、イデアは、言わば、不純になっているのである。だから、メディア界の音楽とは、濁った音楽であると言えよう。
 ここで、禅の瞑想について言うと、それは、イデア界へと心身を回帰させることだろう。つまり、空(くう)とは、イデア界のことである。しかし、大乗仏教の問題は、メディア界的矛盾同一とイデア界的絶対的差異の共立性とを混同していると考えられる点である。ちょうど、ドゥルーズ哲学の問題点と重なると言えよう。
 結局、ポスト量子力学、ポスト大乗仏教である。つまり、ポスト西洋文明、ポスト東洋文明であり、新イデア・コスモス文光の誕生である。
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2006年04月07日

何回の1/4回転によって現象が生まれるのか:ガウス平面の回転について:西洋文明の消滅期に臨んで

複素平面での1/4回転と不連続的差異論の3層構成との整合性が、私の考えにおける、現時点での、いちばんの難点、難問である。
 先の考察から、問題点は、現象界が発現するのに、1/4回転は何回必要なのかということである。1回?、2回?、3回?・・・。あるいは、観点を変えて、メディア界から現象界が生じるのは、どういう力学によるのか。後者を検討した方が、適切なのかもしれない。
 メディア界は、いわば、多様体の世界である。生成変化の世界である。不連続性と連続性が共存しているとも言える。これは、問題ない。しかし、これが、現象化することは、どういうことなのか。私見では、同一性の構造の力学がはたらいているということである。ならば、メディア界から同一性の発生を解明しないといけない。一番簡単に、図式化して考えよう。

イデア界:差異1⊕差異2(差異1⇔差異2)

メディア界:差異1☯差異2

現象界:差異1=差異2

☯から=への変容の力学をどう見るのかである。
 その前に、ここで説明すると、ドゥルーズ&ガタリの内在平面ないし存立平面とは、メディア界のことだと考えられる。差異が、《離接》している。鈴木大拙の用語では、《即非》である。これは、1回目の1/4回転によってもたらされるだろう。そして、イデア界・複素平面に直交するZ軸を時間軸としよう。これで、単純に、らせん的形状が発生すると言えるだろう。問題は、ゼロ化である。ゼロ化は、Y軸で発生すると考え、X軸でゼロ化が解消すると考えてきた。しかし、問題は《視点》である。最初の1/4回転は、X軸上から見ると、ゼロである。そして、2回目の1/4回転では、Y軸上から見ると、ゼロである。以下同様である。つまり、X軸視点とY軸視点が交互に入れ替わって、ゼロ化が発生して、螺旋形状運動が発生すると言えるだろう。だから、奇数回の1/4回転は、X軸視点、偶数回のそれは、Y軸視点となる。思うに、この2つの視点は、不連続的差異・イデアのもつ垂直/水平志向性によるのではないだろうか。即ち、第1回転では、不連続的差異・イデアの水平的志向性の視点から見ると、ゼロ化・ゼロ度となり、第2回転では、不連続的差異・イデアの垂直的志向性の視点から見ると、ゼロ化・ゼロ度となるのではないのか。不連続的差異・イデアの垂直/水平十字志向性がポイントとなる。 
 この点を精緻に考えてみよう。X軸では垂直志向性と水平志向性があるが、それが、1/4回転して、Y軸上に移動するが、そのとき、X軸上での垂直志向性は、逆に、水平志向性になり、水平志向性が垂直志向性になると言えるだろう。つまり、十字志向性が逆転するのである。X軸では、+の垂直志向性と−の水平志向性がある。これが、1/4回転して、−の垂直志向性と−の水平志向性となるだろう。これが、第1回転である。そして、第2回転の結果、−の垂直志向性と+の水平志向性が生まれる。そして、第3回転では、+の垂直志向性と+の水平志向性がある。そして、第4回転・1回転では、回帰して、+の垂直志向性と −水平志向性がある。図式化しよう。

ゼロ回転:+X軸の垂直/水平志向性:+、−
第1回転:+Y軸の垂直/水平志向性:−、−
第2回転:−X軸の垂直/水平志向性:−、+
第3回転:−Y軸の垂直/水平志向性:+、+
第4回転:+X軸の垂直/水平志向性:+、−   (1回転)

さて、ゼロ化の問題であるが、+X軸において、不連続的差異は水平共立している。しかし、+Y軸においては、不連続的差異の水平共立が解消して、ゼロ化が生起している。しかし、垂直共立は生起しているのである。このことを、+X軸で考えると、垂直共立はゼロ度であり、水平共立は言わば、+である。このことから考えると、これまで、イデア界と呼んだものは、不連続的差異の偶数回転、メディア界は奇数回の回転に関係しそうである。つまり、イデア界とメディア界の交互変換が複素平面にはあることになるだろう。イデア/メディア/イデア/メディア/・・・である。
I/M/I/M/・・・である。しかしながら、これだと、イデア界とメディア界の質的区別がなくなるだろう。イデア界ないしメディア界の変容だけがあるだけとなるだろう。だから、不連続的差異の垂直/水平十字志向性と、不連続的差異の存立性ないし共立性については、区別する必要があるのではないだろうか。後者、存立・共立性は、X軸の事象であると限定すべきなのではないだろうか。そして、Y軸へ回転移動したとき、この存立・共立性が解消して、メディア界的《離接》・《即非》・《絶対矛盾的自己同一》が発生するのではないだろうか。ならば、I/M/I/M/・・・交互変換とは、無(空)と有との交互過程となろう。即ち、無/有/無/有/・・・である。そして、「原軸」の−X軸の不連続的差異・イデアを考慮すると、これは、双対的過程である。双対的生成消滅過程である。
 そうすると、やはり、メディア界的螺旋運動は、言わば、破線的螺旋運動となる。しかし、《差延》が発生するため、連続化のシミュラクルが発現(仮現・仮象)すると言えよう。以上のように作業仮説的に前提を確かにしたので、いよいよ所期の目標である。現象化について検討しよう。
 1/4回転の反復によって、垂直に捩れて、Z軸が生まれる。これを時間軸と作業仮説しよう。問題は、発生するシミュラクル螺旋形状運動が、メディア界なのか現象界なのかということである。直観では、メディア界だと思われる。そうならば、現象界はどこに発現(仮現・仮象)するのか。先にも使用したが、Y軸で形成される《有》的差異をメディア差異と呼ぼう。そして、シミュラクルの螺旋は、当然、メディア差異と考えられるのである。ならば、差異1☯差異2の共振連結多様体である。(推測するに、DNAの二重らせんは、これの現象的発現ではないか。)だから、ここに同一性構造を入れれば、現象化の起因となる。差異1☯差異2の螺旋形状があり、この螺旋に差異1=差異2の同一性構造を入れればいいのだろう。私は、これまで、同一性構造は、1/4回転によって発生すると、長い間考えてきたが、どうなのだろうか。ガウス平面での1/4回転の反復には、私の考えるような同一性構造を発生させる1/4回転はないように思えるのだが。
 思うに、Z軸をどう理解するかである。又は、Z軸の発生の力学をどう見るのかである。これは、垂直の捩れによると考えられる。そう、こういうことではないのか。1/4回転によって、Y軸へ不連続的差異が回転移動するが、同時に、Y軸からZ軸への1/4回転が生起するのではないのか。つまり、一つの1/4回転は、ガウス平面に直交するZ軸の生起を意味するということではないのか。即ち、一つの1/4回転とは、二重の1/4回転、立体的1/4回転であると言えるのではないだろうか。これを作業仮説としよう。そして、このZ軸が、同一性構造の軸となるだろう。Y軸において、不連続的差異の共立とメディア化の「矛盾同一」があった。ならば、Z軸においては、メディア化と同一化の「矛盾同一」が存するだろう。なぜなら、Z軸では、(0,0,z)が発生して、イデア界も、メディア界もゼロ化となるからである。このメディア差異のゼロ化が同一性化である。即ち、差異1=差異2の「=」である。
 従来は、Z軸からさらに垂直の捩れを考えて、P軸を考えたのである。これで、4次元になるのである。しかし、この捩れは発生しないように推測されるのである。だから、Z軸の視点の問題となるだろう。Z軸視点から、メディア差異の螺旋形状を見ると、それは、(0,0,z)あるいは、(0,0,t)である。イデア界は完全に消失している。そして、メディア差異の共振極性であるが、それは、同一性と「矛盾同一」していると言えよう。そして、この「矛盾同一」であるが、ここで、否定性が発動していると考えられるのである。なぜなら、ここでは、Y軸上の「矛盾同一」とは異なり、メディア差異の「ゼロ」・「空」(くう)が、無化されるからである。「ゼロ」とは、有と無との中間態であるが、「ゼロ」の「ゼロ」化によって、無化が発生すると考えられるのである。この無化が否定性である。
 では、現象化はどうやって発現するのか。もう、さらなる垂直の捩れはないのである。Z軸は、不連続的差異論の3層構成から見ると、メディア/現象境界・MP境界と考えられる。現象発現力学は何か。ここで発想を変えて、Z軸の現象面を仮定すると、これが、現象界なのではないだろうか。つまり、Z軸、MP境界が現象界ではないのかということが考えられるのである。ここでは、自然現象の生成消滅が見られるだろう。そう、プラトンの洞窟理論から言えば、洞窟のスクリーンが、Z軸・MP境界となるだろう。ものが仮現・仮象(マーヤ)する面である。
 そうすると、現象界とは、メディア差異と同一性の争闘の領域になるだろう。そう、これが、旧約聖書のヤハウェが自然宗教を迫害するに現れているだろうし、今日では、アメリカの覇権主義を考えればいいのである。
このように考えると、現象界とは、Z軸・MP境界そのものの事象であるということとなるだろう。
 では、西欧近代主義・近代合理主義・近代自我主義を考えると、それは同一性構造のメディア差異に対する勝利と言えるのであるが、それはどう説明されるだろうか。Z軸・MP境界では、「矛盾同一」であり、対立物が並存しているはずではないのか。しかし、これは、Y軸でのイデア/メディア境界でのような、ゼロ度の共存性はないのである。なぜならば、ここでは、いわば、弁証法が生起しているのであるからだ。つまり、暴力・権力である。父権暴力である。発生した同一性は、メディア差異を否定して、暴力化するのである。だから、西欧近代主義とは、Z軸・MP境界の帰結であると言えるだろう。
 そうならば、3層構成を少し修正しないといけないだろう。即ち、
1.イデア界/IM境界/2.メディア界/3.MP境界=現象界である。しかしながら、現象界は、Z軸・MP境界の帰結であるから、やはり、別枠にしてもいいと考えられるから、これまで通りの3層構成でいいだろう。ただし、力学構造を変更することになる。即ち、現象界の発現は、メディア界からの1/4回転ではなくて、メディア界自体の展開によると言える。
 結局、1/4回転を考えると、Y軸への1/4回転とZ軸への1/4回転の、二重立体的1/4回転構造があるということになる。結局、複素平面の1/4回転とは、立体的1/4回転であり、これが、メディア界/現象界を発現・仮現させていると言えるのである。
 では、このような視点から、ポストモダン革命を見るとどうなるのだろう。これは、偉大な進化革命であろう。とまれ、この力学の意味は何だろうか。これは、Z軸・MP境界の超克であるが、どうして、そのような事態となったのか。その起因・原動力は何か。それは、人間の心身は、基本的にイデア界/メディア界/現象界の総体であるからであり、当然、「無意識」において、イデア界/メディア界の《力》ないし《エネルゲイア》を感じるものだからではないのか。しかし、どうして、19世紀末から、この《衝動》が強化されたのか。それは、様々な原因があるだろう。近代主義の恐ろしい害悪が出現したこともあるだろう。それは、外的原因であるが、内在的原因があるだろう。特異性の問題もあるし、・・・。いったい何が根源なのか。人間の探求心とも言えるし、・・・。私が推測しているのは、イデア界の回転の動きである。1回の1/4回転で、1サイクルが発生するだろう。そして、2回目の1/4回転で、その1サイクルが閉じるのである。おそらく、現代は、ユダヤ・キリスト教西洋文明のサイクルの終焉期を迎えているのだろう。つまり、ユダヤ・キリスト教西洋文明の1/4回転がイデア界・ガウス平面で起こり、それが、西洋文明を発生させる。しかし、イデア界はさらに回転を続けて、その1サイクルを消滅させると言えるだろう。そして、3回目の1/4回転で、新文明が発生すると言えよう。そして、4回目の1/4回転でそれが消滅する。こう考えると現代は、2回目の1/4回転で、西洋文明の消滅期であると同時に新しい文明の胎動期であると言えるだろう。つまり、3回目の1/4回転が近づいているのである。あるいは、現代は、4回目の1/4回転を終えて、新しい第1回転を迎えつつあるのかもしれない。この点については後で検討したい。
 このように考えると、西洋占星術等の考え、つまり、大プラトン年の考えを想起するのである。432の数に60をかけると、25920年という大プラトン年が出てくる。これを12で割ると、2160年というプラトン月が出てくる。ここで、ヌース理論を参考にすると、円運動1周するのに、25920年かかるとすると、1/4回転は、6480年である。そして、これを、これが、西洋文明の生成消滅のサイクル年だろう。そして、新しい6480年の文明生成消滅の「アイオーン」に入るのだろう。西洋占星術でいう水瓶座の時代とは、これを示唆しているのではないだろうか。これを三等分割すると、2160年で、いわゆる星座の時代である。魚座の時代が、典型的な西洋文明の時代であったのだろうが、しかし、それは、同時に消滅の時代である。その前に牡羊座の時代があり、その前に、牡牛座の時代があった。牡牛座→牡羊座→魚座→水瓶座であるが、これは、母権・女神の時代(農耕)→父権・超越神の時代(遊牧民)→キリスト教の時代(都市文明)→新叡知の時代(新ガイア・コスモス文明)ではないだろうか。結局、偉大なイデア・コスモスの新たな回転・R・Evolutionがやってきたのだろう。これは、政治文化的に言えば、共生の時代であり、小沢一郎が、日本での代表である。小泉首相は、古い代表である。つまり、古い西洋文明現象界の代表である。同一性構造の代表である。ODA ウォッチャーズ氏がいみじくも述べるように、小沢氏の政策は、ポスト・モダン、脱構造主義と呼ぶべきである。(参考:『海舌』「小沢一郎氏は「脱構造主義」或いは「ポスト・モダン」という言葉を使うべきだ。」http://blog.kaisetsu.org/?eid=354882
それは、また、ポスト西洋文明であり、新東洋文明とも言えるだろう。今年は、日本の社会革命の年になると予見したが、そうならないと日本は、断末魔の西洋文明とともに去りぬとなるだろう。また、今年沸騰するフランスの反CPEのデモなど、やはり、根源的には、偉大なイデア・コスモスの回転に拠るのではないだろうか。ただし、主体性が大事である。主体性のはたらきかけがない限り、運動とはならず、古きものとともに、滅びるものとなるのである。日本人の場合が、きわめて、危険なのである。被洗脳羊である。
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2006年04月04日

差異と自我の関係:自我とは何か:自我は永遠不滅である

差異と自我の関係を明確にする必要がある。なぜなら、それは、「魂」の不死の問題に関係するので、きわめて重要だからである。先の考えでは、自我=魂=差異は、永遠不滅であった。そして、それ以前は、魂は、メディア界に、いわば、原型のように残ると考えた。また、それ以前は、魂は崩壊して、ただ、差異・イデアだけが残ると考えた。
 この問題は、霊・スピリットの問題とも関係するのであるが、私は、これまで、霊・スピリットとは、メディア/現象境界、MP境界から、つまり、構造界から見たメディアを霊・スピリットと考えた。即ち、連続的差異を構造で固定したものが霊・スピリットであると考えたし、今もそう考えている。霊・スピリットとは、メディア界の連続的差異を構造化したものと考える。
 さて、本題に戻ると、不連続的差異・イデアは知即存在であり、知性をもっている。それは、超越論的主観性であり、ノエシス/ノエマである。そして、ヌース理論を借りると、双対性、つまり、差異相互の双方向がある。これは、間主観性(相互主観性)と言っていいだろう。即ち、

差異1/⇔/差異2

である。ここでは、境界である/が意味をもつ。即ち、差異1と差異2とは、それぞれ、他者への志向性をもつが、接していないのである。(おそらく、鈴木大拙の《即非》という概念が一番近いかもしれないが、しかし、少し違う。)つまり、不連続な差異であるということである。直立・分立した、絶対的差異であるということである。数学で喩えれば、素数がいいと思われる。だから、
2/⇔/3/⇔/5/⇔・・・⇔/97/⇔・・・である。 
 メディア界では、⇔が、陰陽☯に変わって、差異同士は、共振するのである。2と3、3と5とが共振するのである。これは、ドゥルーズ&ガタリが言う離接に当たるのだろう。ゼロ化によって、2と3が離れつつ、接しているのである。2と3が共鳴すると、おそらく、2×3=6の振動が生まれるのではないだろうか。
 では、イデア界の2/⇔/3は、どういうことなのだろうか。直観で言えば、2は自身が特異性の2であるという知覚をもち、他者が特異性の3であるという認識をもつのではないだろうか。メディア界では、共振して、6の倍数の調和数をもつ。現象界では、同一性が基本となり、2も3も、単なる数に還元されるだろう。自然数や整数の一部となるのだろう。イデア界の自己特異性認識と他者特異性認識とはどういう力学なのだろうか。2がどうして3を認識するのか。2の志向性とはどういうことなのだろうか。私は、イデア界は直観の世界だと考えている。それは、無限速度ないし無時間の世界である。何が無限速度であるのか。志向性が無限速度であるということだろう。つまり、志向性=直観=無限速度・無時間ということだろう。イデアとは、知即存在であるから、知覚・知性をもつが、それは、自己存在知であると同時に、他我存在知であろう。私は、鈴木大拙の即非という概念をここに適用しようとしたが、それは、おおよそ相当するだろう。即非とは、即は=であり、非は≠である。つまり、=&≠である。だから、2=&≠3である。しかし、これは、やはり、正しくない。2=3ではないからだ。ただ、2は、3を直観認識するのであり、それが、2=3のような意識になると考えられる。とまれ、イデア界の直観志向性は、自他同時直観認識をもつと考えよう。そう、2はあたかも自身が3であるかのような他者認識をもつのである。思うに、ひょっとして、イエスが言った、自分のごとく、隣人を愛せよというのは、このイデア界の直観認識を敷延しているのかもしれない。しかし、このイデアの直観認識は、イエスの教えよりは、スピノザの能動的観念に近いだろう。愛というより、直観、認識なのである。勿論、ここには、私がこれまで述べてきた共感性が発生するだろう。この共感性は、メディア界の連続的情感とは異なり、不連続的共感性である。自我と他者とは切断されているのであり、その不連続性における共感性である。メディア界の連続的情感とは、正にべたったとした一体感、情緒的一体感であろう。(後で、この相違について、検討したい。)
 では、イデアの直観志向性=自他同時直観認識を前提として、本件の本論を考察しよう。以上から、自我とは、一つの差異である。例えば、差異5である。あるいは、差異13である。差異素数である。無数の差異素数がある。だから、自我は無数存すると言えるだろう。そして、自我はイデアであるから、永遠不滅である。例えば、「私」・自我は、差異素数11としよう。これが、3回の1/4回転をして、現象化する。つまり、「現世」に誕生するのである。しかし、メディア界的連続化、そして、現象界の同一性化を被っているので、「私」・自我は自身が差異素数11であることに気がつかず(ハイデガーは存在忘却と言ったが、イデア忘却である。そして、プラトンが言うように、想起し、キルケゴールが言うように、反復する。)、差異素数13と共鳴したり、差異素数73と同一であるという錯誤(無明)を犯すのである。
 しかし、経験・教養等を積んで、自身が、差異素数11であることを知る。これが、永劫回帰である。そして、差異素数11は、無数、無限の差異素数と共立していることを直観認識するのである。これが、絶対的永劫回帰である。これは、親鸞で言えば、往相であろう。あるいは、悟りであろう。しかし、ここから、「現世」に言わば、帰還するのである。還相である。ニーチェのツァラトゥストラの下山である。あるいは、禅における瞑想からの回帰であろう。そう、大乗仏教は、ここで、衆生の救済を行ったのである。阿弥陀如来がそうである。アミターヴァとは、無量光であるが、この無量光とは、イデア界の不連続的差異の直観志向性、超越論的主観性の相互性、すなわち、不連続的差異・イデア相互直観志向性、間主観性であろう。キリスト教も本来、大乗仏教と同質であろう。同時代の宗教運動である(もっとも、私は叡知運動を呼びたいが)。イエスは、イデア界を直覚認識した大悟者であり、そのイデア界の教え・叡知を民衆に説いたのであろう。そう、グノーシス主義のイエスが適切であろう(『トマスによる福音書』)。おそらく、そのイエスは、私は神であるとは言わなかっただろう。神の子とは言ったかもしれないが。そう、グノーシス主義のイエス(簡単に、グノーシス・イエスとしよう)は、意識の変容の必要を説いただろうが、信仰せよとはおそらく言わなかったに違いない。信仰を説いたのは、聖パウロである。聖パウロがキリスト教を創作したのである。イエスは、イエス叡知学を説いたはずである。グノーシス・イエスのはずである。
 このグノーシス・イエスに関して、昨今流行の『ダ・ヴィンチ・コード』は叙述しているのだろう。(盗作問題があるが、グノーシス・イエスは、伝統的なものなので、なんらか似てしまうのかもしれない。)また、D.H.ロレンスは、『黙示録論』で、聖書を解体して、それを、意識変容のためのヨガ的、錬金術的書物と見ている。それは、グノーシス・イエスと相応するだろう。意識とは心身であり、心身的技法によって、意識変容を起こすのである。これは、また、東方キリスト教に伝わったものである。ヘシュカズム(ヘシカズム、ヘシュカスム)がそういうものだろう。結局、グノーシス・イエスの叡知学、叡知実践とは、東洋的なのである。アジア的なのである。それが、聖パウロによって、非合理主義にされてしまったと私は考えるのである。
 また、グノーシス・イエスは、最後の審判についてどう考えただろうか。おそらく、意識変容を主に説いて、それによる「神の国」の創造は説いたであろうが、最後の審判はおそらく否定したか、軽視したのではないだろうか。ニーチェに学び、且つ、キリスト教を経験したロレンスが説くように、最後の審判は、ルサンチマンの教えであろう。それは、暴力の教えとなる。
 最後に、今日の考察では、やはり、プラトンの魂の不死説を肯定する結果となったが、では、自我=魂が永遠不滅ならば、どういう意味をもつのか。こうなると、輪廻転生が正しくなる。現世の記憶をもつことになるだろう。だから、前世の記憶となるだろう。そうすると、閻魔大王も復活することになるだろう。そうすると、中世、日本の中世のようになる。『日本霊異記』や『往生要集』のようなことになるだろう。ダンテの『神曲』も復活する。ただし、最後の審判は脱構築されるだろう。当然である。輪廻転生するのであるから。仏陀が輪廻からの解脱を説いたが、それは、どういうことなのか。それは、イデア界に永遠に留まることではなくて、イデア界の叡知を体現して、生きることではないだろうか。正に、大乗仏教である。因みに、華厳経宇宙について言えば、それは、ほぼイデア界の叙述であろう。ただし、調和主義が強すぎると思う。不連続的差異・イデアの共立調和と見るべきだと思う。また、理事無碍、事々無碍であるが、前者は、イデア界と現象界との結合であり、後者は、現象界の事実を特異性として、相互認識することではないだろうか。
 シュタイナーの言う霊・スピリットとは、結局、不連続的差異・イデア・「自我」と見るべきであろう。シュタイナーは、人間の心身を、自我/アストラル体/エーテル体/物質体の四重構造と見たが、不連続的差異論から見ると、自我はイデア界に、アストラル体とエーテル体はメディア界に、物質体は現象界にあるだろう。問題は、アストラル体とエーテル体の区別が、不連続的差異論にはないことになるが、どう考えるべきか。アストラル体とは、チャクラに関係するだろう。それは、心身性であるが、イデア界に通じる領域である。思うに、イデア/メディア境界、IM境界ではないだろうか。エーテル体であるが、それは、「気」であるが、思うに、メディア/現象境界に相当するエネルギーではないだろうか。今、とりあえず、そうしておこう。


《参考》

★即非の論理★
http://www15.ocn.ne.jp/~satori/yogojiten/yogo_047.html

★素数★
2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41, 43, 47, 53, 59, 61, 67, 71, 73, 79, 83, 89, 97…
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%95%B0

★グノーシス主義★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/contents.html

★『トマスによる福音書』★
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061591495/qid=1144081481/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431

★ヘシュカズム★
http://www.mesogeia.net/orthodox/hesychasm.html
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/middle/orth.html
http://www.mikio.wada.catholic.ne.jp/StCatharina.html
http://www.orthodox-jp.com/westjapan/hist14.htm

★『日本霊異記』★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%8F%BE%E5%A0%B1%E5%96%84%E6%82%AA%E9%9C%8A%E7%95%B0%E8%A8%98

★『往生要集』★
「往生要集 おうじょうようしゅう

比叡山横川 (よかわ) の恵心院の僧都 (そうず)源信 が 985 年 (寛和 1) に斤述した書。 3 巻。 〈往生極楽〉に関する経論の要文を集め, 〈往生の業 (ごう) には念仏を本となす〉という思想を明らかにした平安時代の浄土教信仰を代表する著書。 〈それ往生極楽の教行は,濁世末代の目足なり。道俗貴賤,誰か帰せざる者あらん〉に始まる序文が有名で,極楽に往生するためにはただ〈念仏の一門〉あるのみという信念から,一つには自身のため,一つには同行者のため, 112 部,617 文にも及ぶ多数の経論を引用して念仏実践の指南書とした。内容は (1) 厭離穢土 (おんりえど),(2) 欣求 (ごんぐ) 浄土, (3) 極楽証拠,(4) 正修念仏,(5) 助念方法, (6) 別時念仏,(7) 念仏利益 (りやく),(8) 念仏証拠, (9) 往生諸業,(10) 問答料簡 (りようけん) の 10 章 (大文) から成り,第 4,5,6 章が本書の中核部分で,念仏の正しい在り方を説く。ただ源信のいう念仏は,阿弥陀仏の姿形を観察する〈観想〉と,阿弥陀仏の名号をとなえる〈称名〉との両義に用い,どちらかといえば〈観想〉に比重が置かれ,また念仏以外の諸行を否定せず,鎌倉時代の法然,親鸞の浄土教思想に比べて徹底さに欠けるところがあった。

 しかし,本書が後世の浄土教思想・文学・美術等に与えた影響は計り知れないものがあり,もっとも多くの人に読まれた仏書であるといえる。 斤述の翌年,宋の周文徳に付して天台山国清寺へ納められるや,たちまち道俗男女 500 人余りが帰依したと伝える。また日本では平安末期の《扶桑略記》に〈天下に流布せり〉と記すごとく,浄土教の発展に伴って普及し,念仏結社や講会 (こうえ) において本書が読まれ,念仏修行の指針となった。 法然は,本書を披覧して浄土教に入り,さらに本書を手引きとして唐の善導の《観無量寿経疏》をよりどころに浄土宗を開き, 《往生要集釈》など本書の注釈書 4 部を著している。文学では《栄華物語》や《十訓抄》《宝物集》などが本書の中の片言隻句を引用したり,本書に主題を求めている。美術では迎接 (ごうしよう) 形の阿弥陀像や聖衆来迎図 (しようじゆらいごうず) あるいは六道図や地獄変相図などが本書の影響下に成立した。江戸時代から明治の初期にかけて,本書の第 1, 2 章だけがひらがな絵入りでしばしば刊行され,六道の苦しみをいとい離れ,浄土をねがい求める〈厭離穢土〉〈欣求浄土〉の思想は強く人心をとらえ,日本人の心に地獄・極楽の観念を定着させた。
」ネットで@百科

★『神曲』★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2

★華厳経★
http://www.google.co.jp/search?hs=nEm&hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP%3Aofficial&q=%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E7%B5%8C&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja

★シュタイナー★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC
http://members.tripod.com/~kurupira/s_syu.htm

★ヌースとシュタイナー★
http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2006/03/1_c8e3.html
http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2006/03/2_3cc3.html
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2006年03月29日

不連続的差異論関連の読書・文献案内(哲学・思想篇)ver 3

不連続的差異論を理解するための、あるいは、イデア論的思考のための文献リストを作成しました。


プラトン著
『ティマイオス』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000904221/qid=1143437392/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8960880-5103431
『国家』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003360176/qid=1143437442/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003360184/qid=1143437442/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3


アリストテレス著
『心とは何か』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061593633/qid=1143533352/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
『形而上学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003360435/qid=1143533578/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003360443/qid=1143533578/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-8960880-5103431
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0291.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9
http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/philosophia10.htm


空海著
『秘密曼荼羅十住心論』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480770011/qid=1143522396/sr=1-8/ref=sr_1_10_8/250-8960880-5103431
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0750.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7


道元著
『正法眼蔵』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309407196/qid=1143521262/sr=8-4/ref=sr_8_xs_ap_i4_xgl27/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003331907/qid=1143537805/sr=8-12/ref=sr_8_xs_ap_i12_xgl14/250-8960880-5103431
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0988.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%83


スピノザ著
『エチカ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4124006403/qid=1143437799/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003361547/qid=1143437623/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003361555/qid=1143437623/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6


ニーチェ著
『悲劇の誕生』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363914/qid=1143438378/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
『道徳の系譜』、『善悪の彼岸』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363949/qid=1143436980/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480080813/qid=1143436980/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431
『ツァラトゥストラはこう言った』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363922/qid=1143444476/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363930/qid=1143444476/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431
『このようにツァラトゥストラは語った』
http://www.bk1.co.jp/product/161882
http://www.bk1.co.jp/product/161883
『反キリスト者』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480080848/qid=1143442913/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/25 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363949/qid=1143436980/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431 0-8960880-5103431
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1023.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7


南方熊楠著
『南方熊楠コレクション』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309472060/qid=1143534816/sr=1-8/ref=sr_1_10_8/250-8960880-5103431
『森のバロック』中沢新一著
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4796701710/qid=1143537588/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-8960880-5103431
http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/kumagusu/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E7%86%8A%E6%A5%A0


ルドルフ・シュタイナー著
『いかにして超感覚的世界の知覚を獲得するか』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480086641/qid=1143438061/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC


D. H. ロレンス著
『黙示録論』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480088873/qid=1143437903/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
『無意識の幻想』
http://www.bk1.co.jp/product/483403/?partnerid=99easylink
http://ja.wikipedia.org/wiki/D%E3%83%BBH%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9


ホワイトヘッド著
『過程と実在』
http://www.bk1.co.jp/product/312072
http://www.bk1.co.jp/product/411458
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9870631827
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9833995632
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0995.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%98%E3%83%83%E3%83%89


フッサール著
『イデーン』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622019167/qid=1143487609/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622019175/qid=1143487609/sr=1-3/ref=sr_1_10_3/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622019183/qid=1143487609/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
『デカルト的省察』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003364333/ref=pd_sim_dp_3/250-8960880-5103431
『ブリタニカ草稿』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4480088172/reviews/ref=cm_rev_more/250-8960880-5103431#4
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122023394/qid=1143488211/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
『幾何学の起源』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791760344/qid=1143531497/sr=1-20/ref=sr_1_2_20/250-8960880-5103431
『現象学とは何か』新田義弘著
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061590359/qid=1143437137/sr=1-4/ref=sr_1_10_4/250-8960880-5103431
http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jsshama/j/HUA-home.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB


西田幾多郎著
『西田幾多郎哲学論集〈1〉』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003312449/qid=1143520633/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
『西田幾多郎哲学論集〈2〉』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003312457/qid=1143520633/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-8960880-5103431
『西田幾多郎哲学論集〈3〉』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003312465/qid=1143520633/sr=8-3/ref=sr_8_xs_ap_i3_xgl14/250-8960880-5103431
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/guidance/philosophers/nishida_guidance.html
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1086.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E
http://homepage1.nifty.com/office-ebara/philos4.htm
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person182.html


鈴木大拙著
『新編 東洋的な見方』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003332326/ref=pd_sim_dp_2/250-8960880-5103431
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/guidance/philosophers/daisetsu_guidance.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99


九鬼周造著
『いきの構造』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003314611/qid=1143524765/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
『偶然性の問題』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4924520497/qid=1143524765/sr=8-4/ref=sr_8_xs_ap_i4_xgl14/250-8960880-5103431
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/guidance/philosophers/kuki_guidance.html
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0689.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E5%91%A8%E9%80%A0
http://scrapbook.ameba.jp/imossiblity_book/entry-10000828660.html


ジル・ドゥルーズ著
『記号と事件』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309706177/qid=1143436661/sr=1-2/ref=sr_1_2_2/250-8960880-5103431
『ニーチェと哲学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4772000151/qid=1143436847/sr=1-19/ref=sr_1_2_19/250-8960880-5103431
『差異と反復』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309230296/qid=1143437574/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8960880-5103431
『スピノザと表現の問題』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588003216/qid%3D1143443684/250-8960880-5103431
『スピノザー実践の哲学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582764401/ref=pd_bxgy_text_2/250-8960880-5103431
『哲学とは何か』ドゥルーズ&ガタリ著
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309241972/qid=1143444203/sr=1-23/ref=sr_1_2_23/250-8960880-5103431
『原子と分身』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886790070/qid=1143444203/sr=1-28/ref=sr_1_2_28/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA
http://wwwsoc.nii.ac.jp/paj2/thigaki.htm


デリダ著
『声と現象』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480089225/qid=1143531421/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
『グラマトロジーについて』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4329000296/qid=1143531518/sr=1-35/ref=sr_1_2_35/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/432900030X/qid=1143531518/sr=1-36/ref=sr_1_2_36/250-8960880-5103431
『エクリチュールと差異』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588000799/qid=1143531497/sr=1-19/ref=sr_1_2_19/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588000802/qid=1143531835/sr=1-23/ref=sr_1_2_23/250-8960880-5103431 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80


根井康之著
『東西思想の超克』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/454083021X/qid=1143437261/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/250-8960880-5103431
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31487870
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4540041851/reviews/ref=cm_rev_more_2/250-8960880-5103431
http://homepage3.nifty.com/koujisuwa/neweco1.htm
http://homepage1.nifty.com/office-ebara/philos4.htm
http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20050804


井筒俊彦著
『意識と本質』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003318528/qid=1143438810/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
『意識の形而上学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122039029/qid=1143488737/sr=1-6/ref=sr_1_10_6/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92%E4%BF%8A%E5%BD%A6


半田広宣/砂子岳彦著
『光の箱舟』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198613524/qid=1143438130/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8960880-5103431
http://www.noos.ne.jp/


オスカー・ベッカー著
『ピュタゴラスの現代性』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4875022069/qid%3D1143439529/250-8960880-5103431
『数学的思考』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4875021453/qid%3D1143442355/250-8960880-5103431
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0748.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Oskar_Becker


レヴィナス著
『全体と無限』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003369114/qid=1143524031/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003369122/qid=1143524031/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
『存在の彼方へ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061593838/qid=1143524129/sr=1-4/ref=sr_1_10_4/250-8960880-5103431
『レヴィナス・コレクション』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480084916/qid=1143524129/sr=1-5/ref=sr_1_10_5/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%82%B9


参考:ソーカル事件の元となったポストモダン理論批判の著書

アラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン著
『「知」の欺瞞』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000056786/qid%3D1143443244/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6


p.s. 尚、数学/自然科学篇、政治/経済篇、文学/芸術篇の文献リストも作成したいと思います。

p.p.s. 以下、第3版です。
http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20060331


■参考に関して訂正

訂正しようとしても、四万字の制限を超えてしまうので、ここで訂正します。
《参考:ソーカル事件の元となったポストモダン理論批判の著書》と書きましたが、正しくは、《参考:ソーカル事件の発端となった論文を含むポストモダン理論批判の著書》となります。どうも失礼しました。
posted by ソフィオロジスト at 03:24| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポストモダン理論とソーカル事件:ポストモダニズムと近代主義の衝突:モダンからパラモダンへ

ソーカル事件は、今や、忘失されているというか、日本では、あまり問題にならずに、忘却されたようだ。
 私は、社会的問題になっているときは、距離を置きたいと思い、関知するのを避けた。しかし、今や、「昔」の事件になったので、冷静に考えられるのである。かつては、本をちらと見て、感情的反発だと思ったものだ。しかし、今や、この問題が、重要な意義をもっていることがわかった。これは、近代主義とポスト近代主義との明確な闘争であるのである。近代主義とポスト近代主義とは、二律背反である。あれか、これかの、二者択一しかありえない問題なのである。
 今、ポストモダニズムは、一時の流行として、忘却されているが、しかし、これは、知的革新なのである。ポスト構造主義の不備、そして、日本におけるポストモダニストたちの不首尾によって、ポスト・モダニズムは、敗退した状態にあるのである。それに対して、不連続的差異論やヌース理論は、ポスト・モダニズムを徹底させているのである。つまり、ポスト・モダニズムとは、換言すると、近代的合理主義、近代的二元論的科学主義に対する現代的プラトニズムの絶対的闘争なのである。(ポストモダンという語が、言い古された感じがあるので、パラ・モダンないしパラモダンという語を造語したい。)
 モダンかパラモダンかである。つまり、モダンは、パラモダンを絶対的に否定するし、パラモダンもモダンを絶対的に否定するのである。しかし、問題は、パラモダンはモダンを高次に包摂しているが、モダンはパラモダンを包摂しえないことである。これは、相対性理論が、ニュートン・ガリレオ力学を包摂できることと類似的である。
 結局、モダンは、パラモダンを魔女狩り的に排除・隠滅しようとするのである。これが、ソーカル事件の意味ではないかと考えられるのである。モダンからパラモダン、近代からパラ近代への移行とは、実際、知的革新、知的革命・「進化」の以外のなにものでもない。これは、哲学、物理学、数学、神秘学、芸術等で準備されてきたものであり、不連続的差異論やヌース理論は、この知的跳躍の徹底である。近代主義の崖っぷちから、思い切って、宇宙・コスモスへと命懸けで跳躍することである。
 結局、私が執拗に偏執的に批判してきた近代的狂気とは、パラモダン、パラモダニズム、パラ近代に対する反動なのである。これは、今や、反動的狂気であり、自己中心的に、破壊的になっているのである。大澤真幸氏のアイロニカルな没入も、これに関係するのである。同一性構造の帰結である近代主義、同一性構造をもつユダヤ・キリスト教の帰結である西洋近代主義を、超克しないと、人類には、未来はないのである。パラモダン「大進化」である。PARAMODERN R-EVOLUTION!!! ここにしか、未来はない。

Without paramodern sophia, modern evil regime will ruin us all.
Overcome evil materialistic modernity and we will have paramodern new eden.
Since all modernity has become most evil and devilish,
Time has come for us to break up this darkest hell of modernity.
Let us destroy the craziest ancien regime of modern japan and the westernized world.
Great Cosmos of Supreme Idea is Emergent Inside Us to Create New Heaven and New Earth!!!

なにとぞ、近代的旧体制を破砕せよ!
創造せよ! 不連続的差異の共立するパラモダン世界を!
近代の破壊とパラモダンの創造、これあるのみである!
posted by ソフィオロジスト at 02:59| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月27日

不連続的差異論関連の読書・文献案内(哲学・思想関連)

不連続的差異論を理解するための、あるいは、未来を創るための、文献リストをここに記します。


プラトン著
『ティマイオス』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000904221/qid=1143437392/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8960880-5103431
『国家』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003360176/qid=1143437442/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003360184/qid=1143437442/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431


スピノザ著
『エチカ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4124006403/qid=1143437799/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003361547/qid=1143437623/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003361555/qid=1143437623/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431


ニーチェ著
『悲劇の誕生』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363914/qid=1143438378/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
『道徳の系譜』、『善悪の彼岸』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363949/qid=1143436980/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480080813/qid=1143436980/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431
『ツァラトゥストラはこう言った』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363922/qid=1143444476/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363930/qid=1143444476/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431
『このようにツァラトゥストラは語った』
http://www.bk1.co.jp/product/161882
http://www.bk1.co.jp/product/161883
『反キリスト者』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480080848/qid=1143442913/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/25 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363949/qid=1143436980/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431 0-8960880-5103431
参考:
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1023.html


ジル・ドゥルーズ著
『記号と事件』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309706177/qid=1143436661/sr=1-2/ref=sr_1_2_2/250-8960880-5103431
『ニーチェと哲学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4772000151/qid=1143436847/sr=1-19/ref=sr_1_2_19/250-8960880-5103431
『差異と反復』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309230296/qid=1143437574/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8960880-5103431
『スピノザと表現の問題』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588003216/qid%3D1143443684/250-8960880-5103431
『スピノザー実践の哲学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582764401/ref=pd_bxgy_text_2/250-8960880-5103431
『哲学とは何か』ドゥルーズ&ガタリ著
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309241972/qid=1143444203/sr=1-23/ref=sr_1_2_23/250-8960880-5103431
『原子と分身』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886790070/qid=1143444203/sr=1-28/ref=sr_1_2_28/250-8960880-5103431


フッサール著
『デカルト的省察』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003364333/ref=pd_sim_dp_3/250-8960880-5103431
『ブリタニカ草稿』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4480088172/reviews/ref=cm_rev_more/250-8960880-5103431#4
『現象学とは何か』新田義弘著
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061590359/qid=1143437137/sr=1-4/ref=sr_1_10_4/250-8960880-5103431


D. H. ロレンス著
『黙示録論』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480088873/qid=1143437903/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
『無意識の幻想』
http://www.bk1.co.jp/product/483403/?partnerid=99easylink


根井康之著
『東西思想の超克』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/454083021X/qid=1143437261/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/250-8960880-5103431


井筒俊彦著
『意識と本質』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003318528/qid=1143438810/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431


ルドルフ・シュタイナー著
『いかにして超感覚的世界の知覚を獲得するか』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480086641/qid=1143438061/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431


半田広宣/砂子岳彦著
『光の箱舟』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198613524/qid=1143438130/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8960880-5103431
『2013:シリウス革命』半田広宣著
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4812700272/qid%3D1143441574/250-8960880-5103431


オスカー・ベッカー著
『ピュタゴラスの現代性』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4875022069/qid%3D1143439529/250-8960880-5103431
『数学的思考』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4875021453/qid%3D1143442355/250-8960880-5103431


参考:ソーカル事件の元となったポストモダン理論批判の著書

アラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン著
『「知」の欺瞞』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000056786/qid%3D1143443244/250-8960880-5103431
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2006年03月12日

ユダヤ/キリスト教西洋文明は地球の癌細胞であり、ガイアはイデアコスモス共立資本文化文明へ進化する

先の同一性に関する考察では、ヤハウェ=同一性構造(+の二回目の1/4回転)=アーリマン=ルシファー=ルサンチマン(=西欧近代的自我:この点は、言及しなかった)となったのであるが、つまり、ユダヤ・キリスト教の神は悪魔(ゾロアスター教で言う悪神アンラ・マンユ、グノーシス主義で言う邪悪な創造神デミウルゴスに相当するだろう)であることになったのである(イエス・キリストとは、イデア界と見ないといけない。だから、グノーシス主義のイエスが本来の像に近いと思う)。
 問題は、+の1/4回転の意味である。回転以前の領域、この場合は、メディア界であるが、このメディア界と+1/4回転の関係である。確かに、ここには、抑圧・排除・排斥・隠蔽等の暴力があるが、これは、外在的暴力=内在的暴力である。自己内他者である差異と自己外他者である差異への暴力的排除・排斥である。つまり、+1/4回転の暴力的メカニズムは、同一性による差異への排除・排斥的志向性(暴力・攻撃衝動)をもつ。これは、意志というよりは、衝動であり、言わば、止まらないものなのだろう(父権的暴力であるが、プロテスタンティズムのアメリカ、ユダヤ教のイスラエルは、いわば、国家暴力団である)。
 問題は、この二項対立(二値問題)が、基礎は一元論であるが、事象としては、二元論であることである。即ち、ヤハウェに対して異教・多神教・偶像崇拝(「悪魔崇拝」)があるということである(これは、同一性構造による差異的自然の排除である)。つまり、異教・多神教・偶像崇拝は歴然として存在しているのである。これは、一種倒錯的構造である。ヤハウェは、自己の同一性(アイデンティティ)のために、敵を必要とするのである。異教・多神教・偶像崇拝の存在によって自己確認しているのである。つまり、自律的ではなくて、他律的な神なのである。換言すると、情けない神である。自立していないのである。敵にもたれかかっているのである。いわば、癌細胞である。
 結局、+1/4回転とは、絶対的には、他者である差異を排除していないのである(他者である差異への排除衝動があるのである)。正に、二項対立のヒエラルキー構造(hierarchical binary)ということである。父権制・封建構造である。もし、ここで、ヤハウェが精神ならば、敵は身体である。そして、これは、正に、ポストモダンが問題にしたものである。とりわけ、デリダが問題にしたものである。しかし、この+1/4回転の捩れによる二項対立は、単純に転倒すれば済む問題ではない。何故なら、排除・排斥される差異とは、単に身体性ではなくて、本来は、差異関係であるからである。この場合はメディア界である。差異1☯差異2というメディア界を排斥・隠蔽しているのである。つまり、+1/4回転は、同一性構造を形成するが、そのとき、差異を排斥する形となるが、しかし、正しく言えば、排斥されたのは、差異1☯差異2というメディア界である。だから、同一性である知性・精神に対して、差異を身体とするのは、短絡的である。差異は、メディア界である。つまり、心身界である。また、これは、量子・素粒子界である。
 ポストモダン理論は、メディア界を掬い上げたと言えよう。脱構築とは、同一性の解体である。また、ドゥルーズの差異哲学も、同一性の解体である。しかし、そこで停滞してしまい、袋小路となり、衰退したと言えよう。とまれ、脱同一性構造としてポストモダン、ポスト構造主義があり、差異としてのメディア界を肯定したことになるのである(しかし、身体論は短絡的である。心身論が正しい)。そして、これは、死のエネルギーの賦活である(ここで、先に述べた現代の精神・社会病理は、この賦活された死のエネルギーを同一性・二項対立構造が反動的に抑圧・排斥することから発生するとまとめることができる)。
 現代をポストモダン・エラないしポストモダン・エポックと呼ぼう。しかし、これまでのポストモダン理論(ポスト構造主義も含める)は、中途半端であった、あるいは混乱・混濁していたのである。とりわけ、ドゥルーズ&ガタリの理論がそうである。なぜなら、メディア界には、イデア界が内在するからである。このイデア界とメディア界とを区別する必要があるのである。それが、これまで、不明確・不明晰・不分明であったのである。換言すると、メディア界の相補性の力学にイデア界が巻き込まれていたことになる。これは、ドゥルーズの差異哲学に顕著であると思われる。不連続的差異(特異性、単独性、絶対的差異 singularity)と連続的差異(微分=差異)の混同である。半田広宣氏は、不連続的差異の直立と表現されていたが、この直立性が問題にされないといけないのである。思うに、最初の1/4回転において、この直立がいわば排除されるのだろう。そして、ゼロ化による連続化が発生するのである。この直立とは、メディア界(メディア平面、内在平面)に直交するのではないだろうか。便宜的に、イデア界をX軸、メディア界をY軸、現象界をZ軸にすれば、確かに、イデア界はメディア界に直交しているのである(本当は、メディア界・メディア平面は、Y軸とZ軸が形成する平面だろう)。おそらく、イデア界において、理念である点としての無数の不連続的差異があり、それが、直立且つ共立しているのであり、それが、最初の1/4回転によって、ゼロ化して、連続化し、不連続的差異相互で、相補性を形成するということだろう。ドゥルーズ自身は、直立のことを知らないのではなかったが、それと連続的差異との区別を明確に理論化しなかった。そのために、内在平面は、イデア界とメディア界との混淆したものになっているのである。思うに、ドゥルーズ&ガタリは、共立平面・存立平面のことを述べていたが、これと内在平面との分明があいまいなのである。共立平面・存立平面がイデア界で、内在平面をメディア界とすれば、明確・明快・明晰になると考えられるのである。彼らの最後のコラボレーションである『哲学とは何か』は、この混同が生じている。(ドゥルーズとガタリのコラボレーションであるが、どうもドゥルーズ自身にとって、認識が混濁してしまった面があったのではないだろうか。ガタリはニーチェ嫌いであったのである。どうも、ニーチェ的な特異性・単独性の面が、共作において、排斥されてしまったのかもしれない。)
 以上から、ポストモダンは、メディア界そしてイデア界を内在しているものであることがわかった。現在におけるポストモダン「革命」の問題は、メディア界からイデア界への前進・進展である。不連続的差異論はこれを説いているのである。ポスト・ポストモダンないしディー・ポストモダン・脱ポストモダン depostmodern、あるいは、ラディカル・ポストモダン、根源的ポストモダン、不連続的ポストモダン等と呼べるだろう。ポストモダン・エラ、ポストモダン・エポックの死のエネルギーは、イデア界を志向しているのである。特異性・単独性・不連続的差異の直立的共立を志向しているのである。再イデア界化、イデア界への回帰、永遠回帰である。そして、これは、ポスト西洋文明、ポスト・ユダヤ/キリスト教的西洋文明、即ち、新しいイデア・コスモス地球文明を意味する。
 現代、ユダヤ・キリスト教西洋文明の反動的死のエネルギーによる同一性構造が暴虐を振るっている。それに対して、能動的死のエネルギーによるイデア界への回帰志向が世界的に発動していると考えられるのである。このコスモス史的闘争が、《ハルマゲドン》というか《逆ハルマゲドン》である。逆黙示録的終末論があるのである。ヨハネ黙示録のキリストとは、ヤハウェであり、悪魔である。だから、アンチ・キリストとは、アンチ・ヤハウェ、アンチ・悪魔であり、《超人》である。不連続的差異人間である。コスモス人である。homo cosmicoである。資本主義は、コスモス的資本主義となるだろう。不連続的差異の直立・共立を志向するコスモス経済である。資本は、共立資本となるだろう。資本主義が同一性(交換価値)によって支配されているものなら、これは、不連続的差異の直立・共立によって志向される経済であるから、脱資本主義、ポスト資本主義である。コスモス共立資本経済である。

尚、以上は、以下の考察における追記p.s.を独立させたものです。

「同一性に関する諸問題:同一性構造とメディア界から、不連続的差異のイデア界へと参入する」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10010013089.html
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2006年03月10日

同一性、ルサンチマン、近代的自我:同一性構造と差異的他者:特異性・不連続的差異進化へ向けて

メディア界からの1/4回転で、現象界が生じる。このとき、メディア界のもっていた相補性☯が隠蔽されて、同一性が生じるのである。それが、現象界の意味であり、近代的自我とはその究極的な形式だと考えられるのである。
 意識の問題をここでは考えないといけないが、メディア界において、差異1☯差異2ないし差異1⇔差異2というように双方向性がある。ヌース理論では、双対性と呼ばれるものである。この☯、⇔、双対性が排斥されて、現象界自我が生起するのである。図式化すれば、差異1=差異2である。この変換構造をどう形式化できるだろうか。これは、メディア/現象境界の構造の問題である。この境界、MP境界は、簡単に記号化すれば、☯/=である。メディア界の相補性の極性が、現象化する際、消失無化されるのである。換言すると、ゼロ化から無化である。メディア界においては、自己である差異1にとって、他者である差異2は、無くてはならないものであった。つまり、対極性・極性における他者・他極としての差異2であったから、その差異性が絶対に必須であったのである。しかし、さらに1/4回転したとき、無化が生じる。そのとき、極性が消失して、志向性は差異性ではなくて、同一性となると考えられよう。ゼロ化の志向性は極性ないし極性的差異性、相補性的差異性である。それが、無化の志向性となるのが、現象化である。極性がなくなり、差異性がなくなり、真の他者がなくなる。その替わりに、同一性化した他者が存するのである。あるいは、当為としての同一性の他者と言ってもいいだろう。これが、ドゥルーズが述べた構造としての他者であると考えられる。ここでは、ゆらぎが排除されている。完全なる二項対立、二元論の世界である。差異1=差異2である。半田氏が、ラカンの鏡像段階に言及して述べていた同一性がここで発生しているのであるが、私としては、鏡像段階という概念を使用せずに説明したいのである。自己である差異1が他者である差異2と等価になる。これまで、志向性は、差異的であったが、現象化においては、志向性は同一性的、同一化的である(id化である)。ここでは、イデア界にあった境界が完全に消失・無化されているのである。不連続的差異の完全な転倒である。ここでは、無という同一性が支配的である。そう、これは、本来、非存在なものであり、いわば、幽霊なのであるが、現存在していると見えるのである。(ここで、ウィリアム・ブレイクが、悟性機能を幽霊 spectreと呼んでいたのを想起する。)
 とまれ、この無=同一性の発生によって、差異1は差異2となり、差異2も差異2となるように強いられるのである。ここには、同一性の暴力があるのである。そして、意識が志向性であるならば、ここでは、志向性は無=同一性になっているのであるから、同一性の意識がここにある。これが、自我、とりわけ、近代的自我である。
 では、どうして、これが、二項対立、二元論となるのだろうか。ここは、旧約聖書のヤハウェを想起するといいだろう。ヤハウェは、イスラエルの民が、自分の命ずるところを聞かず、偶像崇拝を続けるので、復讐心に燃えて、異教を暴力的に排除しようとするのである。この異教排除が、二項対立、二元論と同型であると言えよう。超越一神であるヤハウェは、多神教を排除するのである。【ここで、興味深いのは、神はエローヒーム(複数)という名をもっていたことである。これは、思うに、ヤハウェの影である。つまり、メディア界における自分がそれであり、それを、いわば、異教へと投影して、攻撃していると考えられよう。】このヤハウェが同一性の起源であると言えるだろう。これは、異教=差異を排除しないではいないのである。ここで、実に興味深い、意義深いことは、同一性の力学・暴力は、当為でしかないことである。つまり、差異は、差異として、現象界に存在していることである。これは、最高度に喜ばしいことである。救い、「福音」である。
 ここで、もう一度、現象化の図式を考えよう。メディア/現象境界は、差異1☯差異2/差異1=差異2であり、現象化とは、差異1=差異2である。つまり、差異1・同一性・差異2である(・を無点としよう。)。即ち、見ての通り、差異が存在しているのであり、ただ、同一性が差異を同一性へと還元しようとする力学・暴力・当為をここに見なくてはならないということである。これが、二項対立、二元論なのである。そして、西洋近代において、これが、徹底したと言えるのである。いわゆる、近代的自我、近代的合理主義である。西洋の資本主義、植民地主義、帝国主義、オリエンタリズム、等々の権力・暴力・戦争主義の起源はここにあると言えるだろう。そう、ユダヤ・キリスト教的超越的同一性の帰結である。
 差異抑圧・排斥・排除・差別・隠蔽の力学は、西洋文明に内在しているのである。というか、ユダヤ・キリスト教的西洋文明に内在しているのである。アメリカ政府が世界に、身勝手に、おせっかいに、内政干渉的に、似非民主主義を押しつけるのも、この同一性暴力力学構造のためと言えよう。
 さて、結局、現象界、現象化においても、差異が存在していることがわかったのである。これはどういうことであろうか。それを検討する前に、本テーマのルサンチマンとの関係に触れよう。私はこれまで、ルサンチマンを、イデア界の共立共感性が否定された場合に発生すると考えたのである。しかし、以上の考察から、そうではなく、同一性構造からルサンチマンが発生すると考えた方が、合理論的である。同一性の意識が、差異である他者を意識したときに、生起するのが、ルサンチマン(嫉み、憾み、怨恨等)である。差異である他者が優れていればいるほど、同一性の自我はルサンチマンを感ずるのであり、その優れた差異である他者を排除しようと暴力を振るうのである。(だから、西洋のオリエンタリズムも、優れた他者である日本文明やイスラム文明等を排除しようとするのだろう。日本人よ、心して読め。)ここで、文化人類学者ルネ・ジラールの模倣欲望を想起するが、それは、正しい学説である。他者を模倣し横取りするというのは、正に、同一性の自我意識の態度であるからである。また、ラカンの鏡像段階の説であるが、これも同一性の構造の視点から説明できるだろう。
 さて、現象界においても差異が存在することの意味を考察しよう。この差異とは何であろうか。差異1・同一性・差異2の差異1と差異2である。これは、単純に見て、現象界において、差異と同一性とが並存しているということである。つまり、差異と同一性との分裂状態にあるのが、自我であると言えるだろう。これは、基本的には、誰もが感じるものである。他の誰でも無い「わたし」(差異)が存在し、また、同時に、他の人と同様に、働いて金を稼がなくてはならない「わたし」(同一性)が存在する。極く当たり前のことであるが、これが基本である。結局、資本主義においては、後者が主体になってしまう傾向があり、前者を抑圧し、忘失してしまうのである。それが、衆愚・愚民を産み出すのであるが。しかしながら、それは、近代的資本主義においてであった。今日、ポストモダン・エイジにあっては、前者の差異としての「わたし」の創造的発展が、資本主義に合致するようになっているのである。つまり、資本主義のポストモダン的転換があると見るべきである。(これは、私見では、ポスト資本主義である。差異共立共創資本経済である。)
 では、この差異は何であろうか。端的に言えば、私がこれまで述べてきた特異性であろう。私は、特異性が現象界においても存在していると、不連続的差異論の最初の時点から述べてきたのである。つまり、イデア界の不連続的差異=特異性が、現象界の差異として内在し、なんらか意識されているのである。換言すれば、現象界の差異とは特異性であり、特異性と同一性が現象界に存在しているということである。これが、現象界における差異の存在の意味である。結局、特異性(単独性)と同一性との闘いが現象界において発生するのである。これが、権力との闘いである。権力とは、同一性の原理にほかならない。
 ということで、解明されたとしよう。結局、ポストモダンとは、結局、特異性(単独性)を支点にした思想であることがわかるのである。いわゆる、相対主義は、付属する事柄に過ぎない。あるいは、イデア界的である特異性を志向する過程において生起する対極性・相補性であると言えよう。デリダの脱構築主義は、とりわけ、この相対主義、相補性に存すると言えるだろう。また、ドゥルーズ哲学の場合は、特異性をはっきり意識していたが、特異性(不連続的差異)と連続的差異との区別が為されず、混同していた面が強いと考えられるのである。この混同・混淆の原因は、メディア界自体ないしイデア/メディア境界にあると考えられる。つまり、ドゥルーズ自身、その領域で考えていたために、未分化となったと思われるのである。もっとも、ドゥルーズ自身、本来、三層性をもっていたのであるが、それが、充分に展開されなかった点もあるのである。やはり、ドゥルーズ自身、十分に、特異性の不連続性を理解していなかったのではないだろうか。自我において、個において、特異性とは、直接的には、直截には、心身領域、メディア界に存するのである。そこは、不連続性と連続性とが混淆・「習合」しているのである。だから、一般に特異性は、純粋に不連続化されずに、連続化作用を被ってしまうと考えられるのである。これが、ドゥルーズ&ガタリの説く再領土化に相応するだろう。つまり、斬新で、創造的であったもの、脱領土化したものが、いわば、必然的に反動化するのである。それは、メディア/現象境界の同一性の構造に支配されるからだと考えられるのである。連続性を否定しない限り、差異は、メディア界から現象界へと変換して、同一性の構造に陥るのである。そう、思うに、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」、あるいは、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論(プレモダン/モダン/ポストモダン、共同体/近代/ポストモダン、原理主義/近代/リバタリアニズム)であるが、その理由として、今あげたことが考えられるだろう。つまり、この三幅対論は、差異連続主義のものであり、この連続性がある限り、両端は一致してしまうと言えるのである。この袋小路、アポリアから脱出するには、連続性の絶対的切断、絶対的不連続化が必要なのである、その理論を不連続的差異論は提起しているのである。そして、それの意味することは、イデア界の肯定である。つまり、プラトン・ルネサンスである。プラトン主義、プラトニズムの勝利である。近代は、ユダヤ・キリスト教的西洋文明は終焉したのである。ここで、新しいミクロコスモスの世界文明の時代が開けたと言えよう。
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2006年03月07日

メディア・エネルギーとイデア界:黙示録的終末論的現代と新コスモス文明夜明け前

死のエネルギーとイデア界の関係を述べたが、この辺りの問題はきわめて意義深い事柄であり、まだ不明な箇所がある。だから、本件について、より精緻に検討したいと思う。
 《心》とは何であるのか。《無意識》・《潜在意識》をも《心》に入れるならば、《心》とは正確に言えば、《心身》になると考えられる。思惟=心、延長=身体とするならば、メディア界において、思惟☯延長(思惟∞延長、思惟⇔延長)であるから、メディア界自体が《心身》と言える。これは、単に《心》でも、単に《身体》でもない相補性の領域である。今日、身体論が流行しているが、その身体とは、《心身》ないし《身心》と呼ぶのが的確・正確である。
 では、本件の問題を考えると、メディア・エネルギーとは、《心身》エネルギーであり、《心》の側面と《身体》の側面をもっている。スピノザ哲学で言えば、《心》という属性と《身体》という属性をもっているということになる。そして、スピノザの説く歓喜の情であるが、それを、私は、イデア界の共立共感性の情と考えたのであるが、この歓喜の情と《心身》はどう関係するのだろうか。結局、感情とは何かという問題でもある。
 ここで、少し作業仮説しよう。この問題の領域はイデア/メディア境界である。

                      《心》
                      /
1.イデア界・2.《IM境界・チャクラ》・3.《心身態=メディア》
                      \ 
                      《身体》

2のイデア/メディア境界IM境界に《チャクラ》があるとしよう。通俗に、心と言われるものはこの《チャクラ》の一つであろう。さて、感情とは、3の《心身態》の性質の一つであろう。例えば、いわゆる喜怒哀楽とは、この《心身態》の様態であろう。しかし、イデア界の共立共感的歓喜の領域は、純粋には、3ではないだろう。それは、2の領域に存すると思うのである。そして、これが、3の領域に接しているのである。イデア界の共立性が、2において、共立共感歓喜の情になるのだと思う。これは、根源的情、原情と言ってもいいものだろう。この歓喜原情が、通常の感情である3の《心身態》に作用するのである。精神性、精神的感情とは、2と3との接点に発生すると言えるだろう。
 では、ここで、メディア・エネルギーを考えてみると、3の《心身態》のエネルギーである。しかし、3は2を介して1のイデア界とつながっているのである。問題は、2と3との接点の様相である。もし、この様相が否定的であると、つまり、イデア界とメディア界とが、背反的であるときは、例えば、共立歓喜原情に対して、ルサンチマン的感情が支配的であるときは、どういうことになるのだろうか。そのときは、1と2とが連携していないから、イデア界の《力》が、メディア界に流入せず、メディア界=《心身態》は、否定的なエネルギーが支配的である。問題は複雑である。ルサンチマンと死のエネルギーの関係を明快にしないといけない。ルサンチマンは、共立歓喜原情が、冷暗・暗黒化して、《心身態》が否定化されたものである。それに対して、死のエネルギーとは、《心身態》=メディア・エネルギーが、マイナスの状態になっているものである。プラスのメディア・エネルギーが生のエネルギーであり、現象界へと転化するものである。それに対して、死のエネルギーとは、現象界から再びメディア界へ、さらには、イデア界へと回帰させるエネルギーである。これは、解体、脱構築のエネルギーでもある。これは、純粋なものとしては、ルサンチマンとは無関係である。ルサンチマンとは、生のエネルギーにより関係するものであろう。憎しみ・憎悪となったプラスのメディア・エネルギーであろう。それと、現象界の二項対立的近代的自我と結びつくと、利己主義的な凄まじい、獰猛な破壊力となるのである。
 だから、ルサンチマンと死のエネルギーを見ると、両者、異質のものであるが、攻撃・破壊性が共通であるので、混同されやすいだろう。問題は、ポストモダン時代である現代である。ポストモダンは、死のエネルギーの時代である。近代主義がすべて解体していく時代であるが、この死のエネルギーの攻撃・破壊エネルギーとルサンチマンが結合する可能性がここにあるのである。これこそ、最も恐ろしい事態と言えよう。明らかに強度の精神病理がここにある。どうも、ホリエモンの場合がこれであったのではないかと思われるのである。また、現代日本の若い世代が、このような病理を抱えているのではないかと思われるのである。ルサンチマン+死のエネルギーである。おそらく、これが、去年の衆院選挙で、自虐自滅的に小泉一派を選択させたのだろう。現代は、確かに一種黙示録的終末論的時代である。《ハルマゲドン》の時代である。アメリカはもとよりその傾向が強いし、イラン、イラクを含めてイスラム圏でもその傾向が強いだろう。グローバルな黙示録的終末論的時代である。そう、西洋文明が来るところまで来たのである。同一性構造暴力文明である西洋文明のどん詰まりに来たのである。新東洋文明・新地球文明の前夜である。夜明け前である。
黙示録論
 さて、ルサンチマンと死のエネルギーを区別することができたので、先に述べた、イデア界の共立共感歓喜原情と死のエネルギーとを、能動的観念を形成することを介して、結合させて、秩序創造的エネルギー・コスモス創造エネルギーに変容させるという未来創造をさらに構造分析すると、イデア界の共立共感歓喜原情と能動的観念がいっしょになると、イデア界の共立共感歓喜倫理理性になり、また、死のエネルギーは、もともと、イデア界を志向しているので、このイデア界的《理性》と結合して、秩序創造エネルギーはきわめて建設的なものとなると考えられるのである。黙示録的終末論的ルサンチマン/死のエネルギーと未来秩序・コスモス創造エネルギーはきわめて対称的である。暗黒と光明である。そう正に、ゾロアスター教的宇宙的世界観となる。西洋文明が悪神アンラ・マンユであり、新東洋文明が善神アフラ・マズダーである。ブッシュや小泉は当然、悪魔の一味である。
 とまれ、2.IM境界・《チャクラ》において、イデア界的共立共感歓喜倫理理性秩序構築・コスモス創造エネルギー(エネルゲイア)が発生して、世界を一新更新することになるのである。これが、イデア界コスモスの《摂理》・《法則》である。新しい太陽が昇ることになるのである。

Listen, Earth People!
A Wholly New Sun Will Rise Soon!
So Cautiously Prepare For the Day!

参考:「死の欲動」
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060114
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4409310062/qid=1141709258/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-7564220-6771446

ゾロアスター教:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99

『黙示録論』D.H.ロレンス著 ちくま学芸文庫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480088873/qid=1141731234/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-7564220-6771446
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2006年03月04日

ジル・ドゥルーズ著「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」:ポストモダン・ポスト資本主義へ向けて

これは、ミシェル・トゥルニエ著『フライデー、あるいは太平洋の冥界』に対するドゥルーズによる書評であるが、哲学的分析であり、ドゥルーズ哲学のエッセンスがあると言えるだろう。主著『差異と反復』の大部の書を読むのは大変であるが、エッセンスを知りたいという人は、60ページに満たないこの小著を読むことを奨めたい。
 さて、ここで問題になっている世界観を簡単に記すのに留めたい。

1)他者の構造の世界(可能性の世界):同一性の世界である。構造主義の世界である。日常の世界と言っていいだろう。
2)分身・天空的イマージュ群の世界
3)解放された純粋な《諸元素》の世界:あらゆるものの直立、表面の直立:他者の消滅

この三つの世界があるが、2と3とは、他者なき世界、別の他者の世界、あるいは、《倒錯者的構造》の世界である。不連続的差異論の視点から見ると、

1)現象界とメディア/現象境界(構造):同一性
2)メディア界:相補性
3)イデア界;共立性:共直立性

となるだろう。この図式は、ドゥルーズの差異哲学が、本来何を志向していたのか明確になる。私が以前述べたが、ドゥルーズの差異哲学の主旨は、3にあったのである。ただし、ここでのような2と3の領域の区別が、他では、あいまいになるように思えるのである。この書評は、1967年の出されたものであり、ガタリとのコラボレーションが為される以前の著作である。そして、ここでは、多元論が明快に現れている。ガタリとの共作によって、明確な多元論が現れたと思ったが、それ以前にドゥルーズは自身で、多元論を構築していたのである。
 さて、このドゥルーズの脱構造論を、経済論に適用できるだろう。資本主義は、一般に、経済を1の世界に閉じ込めてしまうものである。たとえば、ポストモダンが、2の解放(脱領土化)であっても、それが、いわば、反動化して、1への閉ざされるのである(再領土化:これは、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」を説明するだろう)。ドゥルーズは、3への変換・究極的脱構造化を述べているのだから、経済も3の世界へと変換されるべきであるということになるだろう。これは、私が、提唱するポストモダンの《イデア》化の必要ということと一致する。どうも、ドゥルーズは、自分の開拓した前線を、後に閉ざしてしまった観がある。この小著でははっきりと、3の根源的世界を述べているのに、その後の大著では、この点があいまいになった嫌いがあると思う。思うに、ドゥルーズ自身が混乱したのではないだろうか。
 とまれ、これで、ポストモダン資本主義の方向が明確になったと言えよう。ホリエモンや短絡的な新自由主義のようにしてはいけないのである。時価総額は、1の世界である。また、市場原理は、2から1への再領土化の方向に転化するだろう。ポストモダン革命とは、2の世界が発動したことである。しかし、知覚の形態が、明晰になっていないから、1の形式にもどってしまうのでる。つまり、相補性が同一性にもどってしまうのである。ポストモダン資本主義ないしポストモダン経済とは、1の世界の構築へと向かうことが必然であると考えられるのである。そのことが、ドゥルーズの論理で裏付けられるのである。解放された《諸元素》の世界へとポストモダン経済へ進展すべきなのである。それは、イデア界としてのポストモダン経済である。これは、確かに、ポスト資本主義になるだろうし、また、私が、何度も述べているルネサンス的資本主義の進展であると言えよう。
 後で、ポストモダン・ポスト資本主義について検討したい。

参考1:
ミシェル・トゥルニエの『フライデー、あるいは太平洋の冥界』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000028642/qid=1141458380/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/249-3508088-664352
「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」『原子と分身』所収
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886790070/qid%3D1141457934/249-3508088-664352

参考2:不連続的差異論(はてなダイアリー)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db%cf%c0?kid=98880

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2006年03月03日

ヌース理論と不連続的差異論:ヌース理論の提唱者半田広宣氏と理論的交換をする

ヌース理論と不連続的差異論:ヌース理論の提唱者半田広宣氏と理論的交換をする


■はじめまして

はじめまして。
ヌース理論なるやや怪しげな宇宙論を展開しております半田と申します。
ヌース理論を検討問題として取り上げていただき、ありがとうございます。不連続的差異論、まだ,全部ではありませんが、大変、興味深く拝見させていただきました。
カバーされている範囲も広大で、とても野心的な思考の試みだと感じます。
いろいろと教えられるところも多く、持論を展開していく上でも大変,参考になります。時折、質問等もさせていただくかもしれません。そのときは何とぞ宜しくお願いいたします。
半田広宣 (2006-02-23 02:22:08)

■こちらこそよろしくお願いします

『光の箱舟』を少しずつ読んでいます。数学イデア論的発想で、とても、興味を引かれます。不連続的差異論は、数学に関しては、ODA ウォッチャーズ氏に負っていますので、
『不連続的差異論研究』をご覧ください。http://blog.discontinuousdifference.org/
哲学的には、ドゥルーズ哲学を、不連続性の視点から、批判的に進展させたつもりです。その後、ヌース理論に接しましたが、まだ、不連続的差異論の初期段階であったので、深くは認識する準備はできていませんでした。しかし、今は、不連続的差異論も、かなり、進展しましたので、ヌース理論を深く知り、不連続的差異論との比較論をしてみたいと思っています。こちらこそ、よろしくお願いします。
sophio renshi (2006-02-23 09:53:15)

■不連続的差異というタームに関して

不連続的差異論入門に目を通させていただきました。ドゥルーズ哲学の批判的乗り越えというのは極めてエクサイティングな試みですね。まだ全貌を把握しておりませんので、とんちんかんな質問になるやもしれませんが、大枠のところで一つ質問させて下さい。

「不連続的差異論」の不連続的差異という(理念)が持つ性格についてです。ドゥルーズは確か「差異と反復」の「理念」の章において、理念は〈差異化=微分化〉と〈異化=分化〉を共役的な関係に持つ、と明記していたような記憶があるのですが、ここで言われている不連続的差異とは、上の共役関係を分け隔てている差異とは違うものなのでしょうか。また、ドゥルーズはこうした理念の潜在的様態と顕在的様態にも触れ、その差異についても言及していたような記憶があります。ひょっとすると、不連続的差異とはその差異のことではないのかなっ、とも思ったりもしたのですが、見当違いでしょうか。宜しくお願いいたします。
半田広宣 (2006-02-23 14:48:59)

■核心的な問いだと思います:その1

半田様

どうもご高覧いただきありがとうございます。いただいた質問は、正に、不連続的差異論とドゥルーズ哲学とを分けるポイントにかかわります。おっしゃるとおり、差異化=微分化と異化=分化(これは、積分だと思います。あるいは、現象化です。)は共役関係と見ていいと思います。
「不連続的差異論入門」では、この部分を、ベルクソンやハイデガーに通じる部分と考えています。言い換えると、ドゥルーズが、かれらから継承した内容だと思っています。
 しかし、不連続的差異とは、その共役関係を分け隔てている差異ではありません。後者は、強いて言えば、不連続的差異論のメディア界と現象界との境界に当たるでしょう。
 不連続的差異とは、ドゥルーズのその部分ではなくて、ドゥルーズがニーチェから受け継いだと考えられる特異性(singularity)を指しています。ここのところは、いちばんのポイントだと考えています。簡単に言いますと、私見では、ドゥルーズ哲学は、一方では、ベルクソン、ハイデガーの「差異」を、他方ではニーチェの「差異」(=特異性・単独性)を同時に継承していて、「差異」哲学を構築していると思います。しかし、不連続的差異とは、後者のことであり、前者とはまったくべつのものと考えています。そして、後者の領域をイデア界と、前者の領域をメディア界と名づけました。ここが、不連続的差異論の核心のひとつだと思っています。
 私見では、ドゥルーズは両者を混同していると見て、両者を分離しました。これは、おわかりだと思いますが、樫村晴香氏の「ドゥルーズのどこがまちがっているか」というドゥルーズ批判に対する批判として、考えられたものです。樫村氏の論文がなければ、また、不連続性という視点がなければ、決して考え付かなかったと思います。
sophio renshi (2006-02-24 00:34:22)

■核心的な問いだと思います:その2

ところで、話が変わりますが、『光の箱舟』を読み進めています。よくわからない部分がありますが、急にわかる方が無理であり、わかる範囲で、理解していっています。五次元の二重性が興味深いものがあります。不連続的差異論で言うと、それは、メディア界に相当するように思われます。私の考えでは、「メディア」とは、思惟であり、延長です。スピノザの心身平行論の領域だと思っています。興味深いのは、ヌース理論は、思惟と延長とを質的に異なったものと見て、重ねている点です。これについては、わたしなりに、これから考えてみたいと思っています。

p.s. 第3章まで、拝読しました。とても、すばらしいと思います。不連続的差異論に通ずる考え方だと思います。ψ1〜ψ2の「物自体」ですが、それは、不連続的差異論のイデア界に相当するのではと思いました。読むのが愉しみです。
sophio renshi (2006-02-24 00:46:45)

■了解しました。

なるぼと、永遠回帰的なものの反復、反復不可能なるもの反復の方向性を明瞭に指し示すということですね。確かにベルクソンの差異には否定的なもの(現象的なもの)に従属した差異というイメージがあり、ニーチェの差異には肯定の対象たる差異そのものへの復元というイメージがあります。この対峙は、そのまま先日質問させていただきました差異の〈潜在的様態/顕在的様態〉の関係でもあると考えているのですが、確かにドゥルーズはそれらの差異については明確にはのべていませんね。了解しました。ありがとうございます。

ということは、わたくしの拙いイメージとしましては、

・イデアの潜在的様態=メディア界
・イデアの顕在的様態=イデア界

というような配置になりますが、このような解釈で宜しいでしょうか。
半田広宣 (2006-02-25 16:42:14)

■現象界/メディア界の幾何学的関係?

「光の箱船」はもう5年も前のヌース理論の内容なので、ちょっと赤面ものの部分もあります(^^)。現在は、数理物理的な構成も当時よりは、かなりしっかりしたものとなっています。不連続的差異論においてもイデア界と複素平面の関係が重視視されいるようですが、ヌース理論の方もスタンスはよく似ています。

ベルクソンの差異に関して言えば、当時、キュビスムの理論的リーダーであったJ・メッツァンジェなる人物が、キュビスムの絵画理論の裏付けをベルクソンに依頼したという話を聞いたことがあります。4次元と4次元時空という二つの異なる4次元をメディア界〈差異化-微分化〉と現象界〈異化-分化〉の基本的な配置と見なし、その共役性そのものの観察視点の運動を(ドゥルーズのいうex- plicate)をゲージ対称性の拡張構造と見ているのがヌース理論の基本アイデアです。
半田広宣 (2006-02-25 16:59:34)

■「イデア」の潜在的様態/顕在的様態

半田様

本件は、とても微妙なところがある問題だと思っています。不連続的差異論は、三層論で、現象界の超越論界として、メディア界があります。これは、ドゥルーズ&ガタリの内在平面と通じると思っています。そして、イデア界は、メディア界の超越論的領域だと考えています。
しかし、これは、私の直観ですが、このイデア界は、同時に、現象界においては、特異性として、いわば顕在しているのです。ですから、現象界に対して、二重の潜在界がありますが、根源的な差異・イデアの世界は、現象界に直截的に存するというものです。その点では、ご指摘のように、「・イデアの潜在的様態=メディア界
・イデアの顕在的様態=イデア界」と言えるのかもしれません。答えになっているか、恐縮です。
sophio (2006-02-26 14:43:08)

■「共役性そのものの観察視点の運動」というヌース理論の基本アイデア

これは、よくわかります。これは、ベルクソン・ハイデガー・ドゥルーズ的「差異」理論に、ゲージ理論を結合したものですね。この点での解明は、すばらしいと思います。
 不連続的差異論は、この連続的な「差異」とは別に、不連続な「差異」、特異性・単独性singularityを提起しています。これは、先に言いましたように、(キルケゴール・)ニーチェ/ドゥルーズの「差異」を純化したもので、これとガウス平面と結びつけています。この点のさらなる解明・理論化が必要だと思っています。
sophio (2006-02-26 15:07:18)

注:
以上は、http://ameblo.jp/renshi/entry-10009244583.html
のブログのコメントです。
__________________________________

■現象界・メディア界・イデア界の意味が分かりかけてきました。………1

 少しづつですが、不連続的差異論で使用されている、現象界、メディア界、イデア界の三層が織りなす関係性をヌース理論の構造論とすり合わせることができるようになってきました。不連続的差異論によってなされている既存の哲学・思想のクリアなマッピング作業がヌース理論の構造イメージを膨らます上で大変、役立っております。ありがとうございます。

 さて、メディア界=連続的差異で、イデア界=不連続的差異という言質について思ったことを一言述べさせていただきます。
 ヌース理論では、イデア界への侵入は思考と物質の一致によって果たされるものと考え、素粒子空間の構造をメディア世界の空間構造として捉えています。この構造はいわゆる西田哲学における場所の論理が働くところでもあり、この場所性は形而上学的伝統に従えば、あのプラトンが語ったコーラ(永遠の女/受容器)に相当するものではないかと思います。古代哲学的に言えば、ヌース(旋回的知性)が創造した世界を模造(現象世界)としてどこが孕むのか、という、その場の問題です。当然、この場は知覚=実在とするバークレーの観念論的位置を規定するものでもあるでしょうし、フッサール風にいうならば、現象化することの空無(メディア界においては現象化についてはいかなる言及もできないという意味です)を包括する超越論的主観性の位置をその臨界点として所持するような場の構成になっているはずです。この臨界点に至って、不連続的差異論が問題としている単独性が俊立し、ニーチェ的な永遠回帰の反復がイデアとして到来するという筋書きになっているのではないかと考えています。
半田広宣 (2006-03-01 18:16:40)

■現象界・メディア界・イデア界の意味が分かりかけてきました。………2

1より続き) その意味で言えば、メディア界とはイデア界を発芽させる意味での原-母胎空間と言えるような存在でもあり、ドゥルーズ=ガタリが「アンチ・オイデイプス」で取り上げた歴史における無意識機械の3段階的発展もメディア界の成長過程として捉えるのが自然なように思えます。

 「光の箱船」で着手したのは、まずはこのメディア界の構造性をトポロジーとして明確にしたいというものでした。その意味では構造主義が取り組んで来た人間の無意識構造をより具体的に指し示すことが目的だったと言ってよいと思います。ここではantares氏がhttp://ameblo.jp/renshi/entry- 10009447218.htmlで指摘されていた通り、ポストモダン、ポスト構造主義における連続的差異の範囲にある理論であることは否めません。

 ヌース理論の今後のシナリオとしては、素粒子空間とメディア界のトポロジー構造の対応関係を明らかにさせた後は、元素的世界へとその考察を進める予定でいます。いみじくもドゥルーズが「原子と分身」で語っていたように、絶対的な差異が直立していく世界は元素的なものの生成と一致するというのがヌース理論の考え方です。そうした意味で、ヌース理論の場合も、潜在的イデア=素粒子構造、顕在的イデア=元素構造という目安を持っています。
半田広宣 (2006-03-01 18:17:34)

■ヌース理論と不連続的差異論:1

半田様

どうも、丁寧なコメントありがとうございます。
1のコメントは、実に慧眼だと思います。私は、プラトンのコーラをどこに位置づけるべきか、ずっと悩んできました。直観では、メディア界ですが、イデア/メディア境界に限定したい気もあり、ゆらいでいましたが、メディア界とした方が明確だと思いますし、西田哲学の場所の論理も、確かに、メディア界にすれば、明快だと納得しました。コーラと同様に、イデア/メディア境界にしようか考えていました。もっとも、メディア界は、両義的ですから、コーラも場所の論理も、メディア界と考えればいいのだと思いました。
 さて、『ヌース(旋回的知性)』は、発想が、不連続的差異=イデアとまったく同じ考え方だと思いますが、1の後半の「古代哲学的に言えば、ヌース(旋回的知性)が創造した世界を模造(現象世界)としてどこが孕むのか、という、その場の問題です。」のところは、直観ではよくわかります。ここは、微妙ですが、簡単に言えば、メディア界です。そして、「この臨界点に至って、不連続的差異論が問題としている単独性が俊立し、ニーチェ的な永遠回帰の反復がイデアとして到来するという筋書きになっているのではないかと考えています。」の箇所ですが、これは、私がこれまで、考えたことがなかったアイデアで、新鮮です。すぐ答えられませんが、私のイメージでは、単独性は、不連続的差異そのものであり、また、イデア界そのものであり、それは、位置としては、イデア/メディア境界にありますから、果たして、「臨界点」にあるのかどうかは、考えたことはありません。しかし、私の考えでは、現象界においても、単独性=特異性=不連続的差異性は「顕在」しています。つまり、特異性/相補性/同一性という三重構造をもって個として「顕在」しています。結局、メディア界において、三重構造があるのですから、「臨界点」に単独性=特異性が俊立すると言えるのかもしれません。この点は後で検討したいと思います。(私が勘違いしているのかしれません。)
 
sophio (2006-03-02 23:00:24)

■ヌース理論と不連続的差異論:2

2のコメントですが、「絶対的な差異が直立していく世界は元素的なものの生成と一致するというのがヌース理論の考え方」はまったく不連続的差異論と共通だと思います。
 ODA ウォッチャーズ氏との合作である不連続的差異論に、深い理解を示された方は半田様が初めてではないかと思います。そして、この度、ヌース理論の目標が不連続的差異論と同じものであることがわかりました。これから、ヌース理論がイデア界をどのように数学的に整合化していくのかたいへん愉しみであります。どうも、たいへん有意義なコメントをありがとうございました。半田様とのコメントの交換をまとめて、ブログ上に掲載して、多くの人に、ヌース理論と不連続的差異論との関係ならびに両者の世界観を知るきっかけになればと思います。
sophio (2006-03-02 23:01:58)

■ヌース理論と不連続的差異論:3

半田様

「フッサール風にいうならば、現象化することの空無(メディア界においては現象化についてはいかなる言及もできないという意味です)を包括する超越論的主観性の位置をその臨界点として所持するような場の構成になっているはずです。この臨界点に至って、不連続的差異論が問題としている単独性が俊立し、ニーチェ的な永遠回帰の反復がイデアとして到来するという筋書きになっているのではないか」の箇所をやはり勘違いしたようです。「臨界点」を、イデア/メディア境界ととれば、正に半田様のおっしゃる通りです。「この臨界点に至って、不連続的差異論が問題としている単独性が俊立し、ニーチェ的な永遠回帰の反復がイデアとして到来する」、この言葉は、正鵠を射ていると思います。私がいつも考えている単独性=特異性であります。
 不連続的差異論の真の理解者ができました。これからもよろしくお願いします。
sophio (2006-03-02 23:51:56)


注:
以上は、
http://ameblo.jp/renshi/entry-10009608973.html
のブログのコメントです。
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2006年03月02日

日本国民の覚醒を促す、森田実氏の日本救国の闘争宣言だ!!! これは、武士道の森田実氏の日本救国の炯眼の言葉である。 _____________________________

日本国民の覚醒を促す、森田実氏の日本救国の闘争宣言だ!!!

これは、武士道の森田実氏の日本救国の炯眼の言葉である。
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2006.3.1
2006年森田実政治日誌[115]

小泉首相は直ちに辞職せよ!/小泉構造改革は日本社会を崩壊させる

【『月刊日本』3月号インタビュー記事】



 万死に値する小泉・竹中コンビ



 ―― 小泉政権の推し進めてきた「構造改革」でインターネット社会が急速に進展しましたが、そのアダ花ともいうべきライブドアの堀江貴文容疑者が証券取引法違反容疑で逮捕されました。ホリエモン逮捕で、小泉改革の陰の部分が一気に噴出した感があります。
 森田 ホリエモンを生み出したのは、実は小泉「構造改革」です。小泉政権が推進してきた構造改革路線は、今回のホリエモンの逮捕によって正当性を失った、ということです。
 小泉純一郎首相、竹中平蔵経済財政・郵政民営化担当大臣、武部勤幹事長らが、逮捕されたライブドアの堀江容疑者を昨年の総選挙に立候補させ、応援しましたが、これが小泉政権の本質を象徴的にあらわしています。
 東京地検特捜部が堀江容疑者を逮捕しましたが、この容疑者を小泉首相と竹中大臣、さらに与党の幹事長が積極的に構造改革の旗手として推薦・応援していた。この責任は大変重く、内閣総辞職に値することだと思います。
 ―― 小泉首相ら政府与党幹部は、「ライブドアの実態がわからなかった」などと弁解しています。 森田 証券取引法違反という容疑は総選挙の1年前のことですから、あらゆる情報を収集分析できる立場にある官邸が何も知らなかったということはあり得ません。ホリエモンのやっていることは怪しいと、匂いでわかったはずです。
 ライブドアが市場原理主義を振りかざして、ニッポン放送やフジテレビの買収を仕掛けていた頃から、私はこの人物はおかしいと睨んで、株価を意図的につり上げて違法なことをやっているのではないかと、マスコミを通じて何度も警告してきました。この問題は私だけではなく、多くの評論家も指摘していました。
 そんな人物を政府与党の幹部がこぞって応援し、国会議員にしようとした責任は非常に重大です。
 しかも重要なことは、ニッポン放送株の買い占めが時間外に行われたことで、これは証券取引法に照らして明白な違法行為です。百歩譲っても、道義的に許されざる行為です。その張本人を小泉首相、竹中経済財政政策担当大臣らが擁護し、選挙の応援をしたのです。違法行為、百歩譲っても、道義的に許されざる行為を最高権力者が擁護したということは、許されざることだと思う。
 小泉首相は「事件と選挙応援は別問題だ」と言い逃れをし、さらには「メディアがホリエモンを持ち上げた。逮捕されると、手のひらを返すのはどうか」と、逆にメディア批判を展開しました。国家指導者として、あまりに姑息な対応であり、情けないほどの卑しさだと思いますす。
 こうして儲けるためには法を曲げ、時には法に違反してもいいという無責任な風潮や論理が蔓延していますが、このままでは日本の秩序は崩壊してしまいます。この一点で、小泉内閣は総辞職に値すると私は考えます。
 ―― 自民党はホリエモンを亀井静香さんの選挙区へ刺客として送り込みました。この時、森田さんは「堀江のような男を国会議員にしてはならない」と演説されましたが、このホリエモンを精力的に応援したのが竹中大臣だった。彼は「小泉首相とホリエモン、そして竹中のコンビが、小泉改革を実現する」と叫んでいたにもかかわらず、マスコミの竹中批判の声は小さい。
 森田 おっしゃるとおり、竹中大臣の責任が最も重いと思います。彼は5年間弱の小泉政権で、むしろ小泉首相を引っ張る形で、一貫して金融自由化を推進してきた人物です。ライブドアの主たる業務は金融です。政府の金融問題に関する最高責任者が、ライブドアの支援者という存在ですから、ライブドアはいわば政府が国家保証したようなのです。
 竹中大臣の果たした役割は大変悪質です。彼は政府保証をして株価をつり上げ、大儲したあげく、食い逃げするのを黙認した。竹中大臣の罪は万死に値します。これは、武部幹事長と同等に扱うべきではない。もっとずっと深刻な問題なのです。



 平成版大政翼賛体制を可能にした電通の巨大な影響力



 ―― しかし、野党の竹中追及はきわめて弱い。また、どういうわけか、マスコミも竹中大臣に対しては腰が引けている。
 小泉政権の5年間、マスコミはワンフレーズの小泉言語の幻惑されて、政権批判を避けてきました。とくに昨年の郵政解散をめぐっては、郵政民営化の問題点を指摘した自民党の良識派を徹底して批判し、マスコミから干し上げましたね。
 森田 小泉応援団は、テレビをはじめとするマスコミでした。マスコミは権力者に都合の悪いことは報道しなかった。いわば、テレビ局は「権力の手先」になってしまった。テレビ局も新聞社も上層部が大体において政府に抑えられしまったのです。
 私は昨年の総選挙の前後、テレビで評論活動をしましたが、某テレビ局は、それまで私が一人で解説していた番組に自局の解説者を出演させ、敢えて私の発言を否定するコメントさせるなど、意図的に私の発言を邪魔しようとした。他のテレビ局もほとんど録画取材で、テレビ局の都合の悪い部分、つまり小泉批判の部分をカットして、放映する。テレビ局は完全に小泉政権の手先になってしまいました。テレビ局およびその政治部記者がほとんど権力の「お庭番」になってしまった。実に残念なことです。
 マスコミが報道姿勢を曲げた重要な原因の一つに、「広告」という要素があります。テレビ局は民放の場合、100%広告収入に頼っています。このテレビ局や新聞の広告収入に絶大な影響力をもっているのが、広告代理店最大手の電通です。新聞社の収入も、いまや購読料よりも広告料に比重が移っています。テレビや新聞が広告収入に依存する割合が大きくなった分だけ、電通が強大な影響力を行使するようになってきたのです。 ―― これまで電通を論じることはタブー視されてきました。「電通を批判したら、テレビや大新聞に登場できない」と言われてきましたが、森田さんは敢えて電通を批判しておられます。
 森田 すべてのマスコミは電通の軍門に下ったということです。「電通に睨まれたらオシマイだ」という状況下で、小泉政権は電通と手を組んだのです。小泉政権―電通―大新聞―テレビが一体になった「平成版大政翼賛体制」を可能にしたのは、電通の巨大な影響力です。
 この電通は実は、アメリカ共和党系の広告会社と提携しており、日本政府―アメリカ―電通が一体となって、日本のマスコミをコントロールしているといっても過言ではありません。アメリカは日本のマスコミを使って小泉政権を支え、小泉政権によって日本国民の富をかき集めてアメリカに流し込む、こうした役割を小泉政権に果たさせているのです。
 こうして、小泉政権は巧妙にメディア戦略を駆使しながら、公明党や官僚をも取り込み、「平成版大政翼賛体制」をつくって、国民を収奪しています。これが小泉政権の本質なのです。



 ブッシュのポチに成り下がった小泉政権



 ―― 「光と陰」が、流行の言葉になっています。
 森田 私に言わせれば、「光と陰」ではなく、構造改革を標榜してきた小泉政権は実は「暗黒社会」を日本にもたらしたのです。 光が当たっているのは大資本家やライブドアなど、「国民の大部分が貧困化してもよい。われわれだけが金儲けすればよい」と考えている連中だけです。彼らはリストラやマネーゲームで利益を上げ、大儲けしています。しかし、彼らは愛国心を失った、自分さえよければいいという連中です。大部分の国民は日陰に放置されたままです。
 ここで私が強調したいのは、小泉政権になって一番儲けているのは、アメリカだということです。小泉政権は日本国民の富をアメリカに移転する仕掛けを完成させ、アメリカに貢献してきたのです。
 ―― 「対米隷属政権」の小泉政権は、完全にブッシュのポチに成り下がったということですね。
 森田 そのとおりです。
 アメリカは冷戦時代に、ソビエト連邦に勝つために軍事力を拡大し、同時に国民の支持を得るために巨額の減税をしました。軍事費拡大と巨額の減税で、アメリカの財政は破綻寸前になりました。本来であれば、アメリカは自国民から税金を集めて、自国の国家戦略を遂行すべきです。ところが、レーガン政権はアメリカ国民に減税をする一方、軍事力を急速に拡大した結果、巨額の双子の赤字が出しました。
 実は、この赤字の穴埋めをしたのが日本なのです。
 中曾根政権下の1985年9月22日の「プラザ合意」で、対米従属の第一歩を踏み出しました。プラザ合意で急速な円高になった日本は、ドルを遮二無二買いました。そのドルでアメリカ国債を買った結果、日本の巨額な金融資産はアメリカに流出してしまった。アメリカ政府は「日本の安全はアメリカが保障している」と、このカネを返すつもりはありません。90年代後半期に訪米した橋本首相は「米国債を売ろうという誘惑にかられる時がある」と述べて、アメリカの怒りを買った橋本政権は吹っ飛ばされてしまいました。
 90年代初めにクリントン政権が登場して、「年次改革要望書」が出されれるようになりました。郵政民営化はこの「年次改革要望書」の中で、アメリカが執拗に要求していた問題なのです。クリントン政権下で一時は持ち直すかに見えたアメリカの双子の赤字は、ブッシュ政権になって再び急増して、アメリカの財政は破綻寸前です。そこで郵貯・簡保の350兆円の金融資産をアメリカに移転させ、赤字を埋めようようというのが郵政民営化の本質なのです。つまりアメリカの財政赤字を日本の金融資産で補填させようというのです。
 アメリカは、日本の金融資産による米国財政の赤字補填を露骨にやらずに、「年次改革要望書」という形で日本の構造改革を誘導しようとしました。それが小泉政権のいう「官から民へ」というスローガンで進められた郵政民営化なのです。民営化すれば、自由競争で強い者が勝つのは当然です。このアメリカの遠謀深慮が功を奏して昨年8〜9月に、ついに小泉首相が郵政クーデターをやったというわけです。
 07年10月に郵政公社が完全に民営化するや否や、外資が民営化した会社を買収して、日本人が営々として貯めた富がアメリカに流出することは目に見えています。
 ―― このまま小泉路線が続けば、日本の富は枯渇し、スッテンテンになってしまいますね。
 森田 日本は搾り取るだけ搾り取られて、2015年あるいは2020年頃にはボロボロになる。その時、アメリカはインドと中国を新しいパートナーにするでしょう。アメリカは、こうしたことを見通して、渡り鳥のように次の目標を設定して飛び立つ準備をしているのです。
 小泉首相は唯々諾々と、このアメリカの戦略に従っている。これが小泉政権の本質だと私は見ています。



 小泉構造改革で地域社会は死んだ 



 ――― 小泉構造改革の陰で全国の地方社会が疲弊したと聞きますが、実態は?
 森田 小泉首相は「三位一体改革」と称して、全国の地方自治体に対する補助金を大幅にカットしています。地方の公共事業もどんどん減らしています。公共事業と自治体に対する予算削減額は年間約6兆円に上っています。アメリカに巨額の資産を流出させていながら、地方からは搾り取っている。だから地方はもうカラカラになって、悲惨なものです。
 国庫補助金や公共事業を削減すれば、、公共事業でやってきた地域社会はどんどん疲弊しており、災害が起こっても復興事業を行えない状態になっています。それほど日本の地域社会はガタガタになっているんです。
 政府は「景気は回復した」と言っていますが、地方に行くと、「どこの国のこと?」という感じです。最近、帯広に行きましたが、町は閑散としており、地域経済はメチャメチャだそうです。熊本でも「東京が景気がいいそうだが、この景気が熊本にくるには10年ぐらいかかりますかね」と言っており、地方経済は大袈裟に言えば絶望的です。
 このように小泉構造改革の陰で全国の地方社会が疲弊し、賃金がどんどん下がって、平均年収200万円を割るなど、貧困化が急速に進んでいます。
 さらに小泉政権は政府系金融機関の整理統合を進め、中小零細企業向けの金融機関をなくそうとしています。この結果、今後、中小零細企業の倒産が増大する可能性があります。実はアメリカでは、行き過ぎた自由競争の結果、中小零細企業の倒産が相次ぎ、健全なアメリカ社会と構成していた中間層が崩壊してしまいました。小泉政権の構造改革の名の下に、日本でも健全な中産階級が崩壊するのは目前です。
 行き過ぎた小泉構造改革が作り出した社会の歪みを是正することが、ポスト小泉政権の喫緊の課題です。そのためには経済成長によって全国民の生活レベルを上げる政策をとり、全国民が希望を持てる世の中にすることです。



 正常な判断能力を失った小泉首相



 森田 小泉構造改革は社会的・経済的強者だけに躍進のチャンスを与えました。地域で見ると、東京を繁栄させ、地方を切り捨てただけです。大工業を栄えさ、中小零細企業を衰退させました。国民は少数の成功者と、大多数の不成功者に分かれました。
 つまり小泉改革は強者に光をもたらす反面で、弱者を陰の地帯に放置したのです。
 しかも小泉首相が悪質なのは、マスコミを使って「改革だ。改革だ」と煽りたて、地域社会は火が消えたようになってしまったことです。この結果、生活保護者世帯が急増し、大衆の貧困化がすごい勢いで進んでおり、少数のホリエモンのような、どう考えてもまともな商売ではない手馴れた連中だけが儲かっています。
 去る2月1日の参院予算委員会で小泉首相は「格差は悪いことではない」と答弁しましたが、私はこの答弁は開き直りの暴言であり、内閣総辞職に値するものだと思います。
 さらに小泉首相は「成功者を妬んだり、能力ある者の足を引っ張ったりする風潮」を非難していますが、内閣総理大臣たる者は、このような国民を馬鹿にするような発言は厳に慎むべきだと思います。小泉首相はもはや正常な判断能力を失ったのではないかと思うほどです。9月の任期を待つことなく、いますぐにでも辞任すべきだと思います。
 前述のように、日本の巨額の国富をアメリカに移転させ、その結果、日本の中小零細企業をいじめ、地方を切り捨てて、中産階級を崩壊させてしまいました。小泉首相がやってきたことは、自民党を潰すことではなく、日本社会を潰すことだったのです。
 私は、小泉政権の5年間は「罪と罰」だと思います。「罪」多き者は「罰」を受けなければならないのです。



 日本のマスメディアはインチキだ



 ―― それにしても、マスコミは堕落、腐敗しましたね。
 森田 私は占領下の日本を知っていますが、この7年弱の占領期間中に日本のマスコミは完全にアメリカに骨を抜かれてしまった。終戦後、私のいた日本評論社は『日本評論』という総合雑誌を出版していましが、占領政策批判の記事を掲載したとたん、即刻発行禁止処分を受けました。当時の総合雑誌『改造』も占領政策批判をして同様に発行禁止にされ、結局倒産してしまいました。占領軍は、表向き民主主義を推進・擁護していましたが、裏へ回ると、アメリカや占領政策を批判をするものは容赦なく潰してきたのです。
 ―― 占領軍はプレス・コードを発令し、憲法で禁止さていた検閲を実施しました。

 森田 彼らの巧妙なところは事前検閲をし、検閲事態を闇の中に隠してしまったことです。当時の新聞社はそれに脅えて、「占領軍に睨まれたら終わりだ」「アメリカ批判さえしなかったら生き延びられる」ということで、批判精神を放棄してしまいました。マスコミは、アメリカを批判をせず、ゴマすりをし、さらにはアメリカ賛美の宣伝だけを報道するようになってしまった。これを私は自分で体験してきたからこそ、よく知っています。
 かつて江藤淳さんが、著書『閉ざされた言語空間』の中で、アメリカの資料を駆使してこのことを実証的に検証しています。
 ―― 彼ら大新聞は占領軍に協力して検閲をし、国民の「知る権利」を奪ってきた。しかし、いまだに彼らは自己批判していません。自分たちの都合のいい時だけ、国民の「知る権利」を主張していますが、これは許せない。
 森田 日本のマスメディアはインチキです。自分たちは格好のいことを主張しながら、肝心のアメリカには腰が引け、ゴマばかりすっています。戦後はアメリカで教育を受けた新聞社の編集者・記者が増えて、アメリカの徹底批判を避け、アメリカは日本よりすぐれた国だという幻想を振りまいているのです。アメリカ賛美がマスコミの役割になってしまっているのです。日本のマスコミはこういう状況に置かれてしまい、正当なる批判精神を失ってしまいました。真実を報道するという姿勢すら失ってしまったのです。
 とくに小泉政権になってから、権力によるマスコミの完全支配が確立しました。これに、電通が加わることで、二重三重に小泉政権によるマスコミの支配が確立してしまったのです。そして不思議なことは、誇り高いはずのマスコミ言論人が、権力に唯々諾々と従っていることです。ここが、問題なのです。



 日本人よ、独立心を取り戻せ!



 ―― 最近の日本人には、独立国として生きていく気概が希薄になってしまったのでしょうか。
 森田 日本は独自の歴史・伝統・文化をもった人口1億2700万人の大国です。日本は独立自尊の国家として生きていくしか進路はありません。ところが、私が講演で全国各地に行くと、まったく異人種かと思うような人が時々いるのです。彼らはこう言うのです。「われわれ日本をアメリカの51番目の州にしてもらい、アメリカに全部面倒見てもらった方がいい」
「アメリカ市民として日本人に選挙権を与えてもらえれば、日本人を大統領に選べるチャンスがある」
 はじめは冗談かと思いましたが、そうではないのです。日本国民たる者は独立国日本として生きていくという気概をもっているものだと思ったら、こういう人が出てきたのですから、恐ろしい時代です。
 これは、長年にわたる日米同盟の宣伝のために日本人が独立心を失い、独立国家としての気概を失ってしまったからです。国連加盟国に中で、独立国として生きていくという気概・精神を失ってしまった国は他にあるのだろうかと思うと、情けない。かつてのソビエト連邦下の東欧衛星諸国は傀儡政権でしたが、彼らは厳しい統制下でも民族自決の気概を燃やし、国家独立の機会を虎視眈々と狙っていました。
 1億2700万人の人口を擁する大国の国民のなかから、「アメリカの一員にしてもらいたい」「植民地になってもいい」などと言う者が現れるほど、情けない国になってしまったのか、と言いたくなります。小泉政権になってから、そういう人が増えてきた。実に痛恨の極みです。
 ―― いまの政治家に何を期待しますか。
 森田 私は政界、官界、経済界、マスコミ界の指導者の能力が低く、時代とともに低下していることを本当に残念に思います。とくに政治指導層の力量の低さは深刻です。最近の政治家について言えば、政治能力は20〜30年前までの政治家に比べて著しく低下しています。30年ほど前の政治家には、第1次大戦、第2次大戦を体験した人も多く、高い政治能力をもつ人が多かったと思います。いまの政治家はもっと自己研鑽に励むべきです。
 それらの政治家と今の政治家の違いの一つは、昔の政治家が 「よく考えた」のに対して、いまの政治家はあまり考えません。日本の国のことを真剣に考えない政治家が増えています。古代の政治家キケロは「生きることということは考えることである」と言いましたが、最近の政治家は自分の頭で考えることをしない。もっと考えてほしいと思う。
 もう一つは、昔は長期的に物事を考える政治家が多かったが、いまはほとんどいません。孔子は「遠慮なければ近憂あり」(長い将来のことを考えないでいると、近くでよくないことが起こる)と言いましたが、日本の最近の指導者は遠い将来のことをあまり考えません。
 概していまの政治指導者には、国家の長期戦略がありません。アメリカが日本の基本方針を決定し、日本政府はそれをそのまま実行するというのが実態です。長期的視点に基づく戦略・戦術思考がないから、国際情勢の精密な分析ができない。国際情勢の見方・判断をアメリカに頼りきっています。また彼らは日本自体のことをも真剣に調査・研究していない。日本の指導層は、孫子のいう「彼」も「己」も知らない状態にある。これでは、うまくゆくはずがない。このことを自覚し、反省する必要がありますね。
 私も73歳になりましたが、小泉のような人物に日本を蹂躙され、アメリカの従属国にさせられたままでは、静かにあの世へ行くというわけにはいきません。
 私は最後のご奉公として、「老人パワー立ち上がれ!」「植民地日本を子孫に残せるか」と、立派な独立国としての日本を残すために、残されたパワーを炸裂させようじゃないかと、全国各地で呼びかけているのです。
【以上は『月刊日本』3月号に掲載されたインタビュー記事です。同誌編集部の承諾をいただき掲載しました】


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2006年02月26日

イデア界と現象界の関係:不連続的差異と特異性

ヌース理論を提唱されている半田氏からのコメントがヒントとなって、不連続的差異論におけるイデア界と現象界との関係を明確・明瞭化する必要があると感じた。
 不連続的差異論は、ドゥルーズの差異理論におけるニーチェ(とキルケゴール)の特異性・単独性singularityの差異概念をベースにしているイデア論である。そして、私の直観では、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界に存するのである。これをどのように説明できるのだろうか。これは、デカルト哲学によって説明できるのではないだろうか。周知のコギト・エルゴ・スムであるが、これは、ドゥルーズが説くようにコギトとスムの間に亀裂・分裂、即ち差異を見るべきだろう。そして、この差異ないし矛盾・分裂におけるスム(存在)が個の特異性・単独性の基盤であると思われるのである。(ところで、近代主義の「狂気」とは、現象界の自我、即ち近代的自我におけるスム=特異性・単独性が捩れにあるのではないだろうか。)つまり、デカルト哲学のコギト/スムの差異が、現象界の個ないし自我において、特異性・単独性を内在させていると考えることができるのである。だから、イデア界に特異性・単独性が存するだけでなく、現象界にも存するという命題が証明されるのである。(デカルト哲学の問題は先にも触れたが、メディア界が排斥されたことである。このために、デカルトは、近代的合理主義の始祖ともなったのである。そして、排斥されたメディア界は、スピノザが掬い上げて、いわゆる心身並行論を打ち立てて、ポストモダンやポスト構造主義の先駆となったと考えられるのである。)
 さらに、この特異性(・単独性)=スムの問題について検討したい。先に私は、特異性は、不連続的差異そのものというよりは、不連続的差異の共立態総体ではないかと述べた。図式記号で言えば、dd1、dd2、dd3、・・・ddn(ddとはdiscrete or discontinuous differenceの略で、不連続的差異を意味する)というような個々の不連続的差異ではなくて、dd1/dd2/dd3/・・・/ddnではないかということである。つまり、イデア界総体である。なぜ、個々の不連続的差異ではなくて、イデア界総体が特異性となるのかと言うと、イデア/メディア境界(メディア界のイデア面ないしイデア界のメディア面)においては、不連続的差異は、個々としてというよりは、総体として存していると考えられるからである。
 ということで、特異性とはイデア界のことであるということとなった。だから、イデア界が現象界の個・自我において、内在し、いわば、半田氏が指摘するように顕在化しているのである。問題は、この内在しているイデア界が、個・自我において、どのように把握されるのかということである。イデア界は換言すれば、コスモスである。そして、特異性とはミクロコスモスである。だから、特異性・存在(スム)において、ミクロコスモスとマクロコスモスとの連結が生じているのである。この点では、神秘家は正しい。宮沢賢治は正しい。そして、D.H.ロレンスのコスモス論も正しい(キリスト教の崩壊である)。しかしながら、イデア界はデュナミス、「バッテリー」であるから、当然、エネルゲイア・メディア・エネルギー化するのである。イデア・メディア的エネルギー(簡単に、イデア・エネルギーと呼ぼう)となるのである(思うに、東方キリスト教で、神のエネルゲイアと呼ぶものがこれに当たるのではないだろうか)。このイデア・エネルギーが問題なのである。イデア界がデュナミス・特異性として存するときは、現象界の自我・個は、差異共立主義である。即ち、他者を特異性として見て、差異共立志向をもつのである。つまり、他者をも自己と同等のイデア界的存在として見るのである。(問題は、それは、理念・理論的態度であるが、実際は、他者は、多種多様であり、愚人、悪人、狂人でいっぱいである。だから、それに対しては、戦闘的ないし矯正的になるのが正しいのである。差異共立性とは、イデア界的特異性的差異共立性と見るのが正しいだろう。)
 しかし、イデア界がデュナミスではなくて、エネルゲイア・エネルギーとなったときは、そのようにはならないのである。つまり、差異共立主義から、自己絶対主義、自己尊大・傲慢化、権力・暴力化になるのである。思うに、アナキストのシュティルナーの唯一者は、そのようなもののように思える。そう、政治的にはファシズム化であろう。(D.H.ロレンスも、一時、そのように傾いた時期があったし、ニーチェも晩年において、「力への意志」でそのようになったと思うのである。)つまり、《力》の問題がここにはあるのである。
 では、何故、イデア界=特異性は、メディア・エネルギー化すると、権力化するのか。それは、必然なのか。つまり、本来、差異共立性であるイデア界はメディア界化すると、反動化して、自己権力化するという事態は、必然なのかという問題である。思うに、実際、メディア界においては、イデア界=特異性とメディア・エネルギーの反動性との両義性が生起していると思われるのである。つまり、両者のゆらぎが、メディア界に発生していると思うのである。即ち、dd1/dd2/・・・/dd3とdd1〜dd2〜・・・〜ddとの揺らぎである。そして、後者は、現象界のdd1−dd2−・・・ddnの同一性と連続するのである。
 ここで、2回の1/4回転の捩れを考慮すべきである。イデア界において、1/4回転から、メディア界が発生するが、それは、境界においては、イデア界とメディア界が併存している。しかし、2回目の1/4回転において、メディア界から現象界が発生するとき、その捩れにおいて、イデア界=特異性がまったく暗在・潜在・排斥・隠蔽化されると言えるだろう。つまり、現象界化において、イデア界は完全に隠蔽されるのである。現象界化において、直前のメディア界が隠蔽化されるだけでなくて、本源のイデア界が完全に隠蔽される(忘却される)事態が生起するのである。二重の隠蔽構造があるのである。しかし、1/4回転は、固定したものではなくて、さらなる回転、回転の持続が考えられるから、隠蔽は絶対的なものではありえないのである。つまり、現象界においても、なんらかの揺らぎが発生するのである。それは、メディア界と現象界との境界の揺らぎであろうし、さらには、イデア界とメディア界との境界の揺らぎであろう。二重の揺らぎの発生が考えられるのである。(芸術家や宗教家、哲学者や数学者は、この揺らぎが出発点であろうし、庶民の習俗・祭礼もここを無意識の基盤としているだろう。これは、コスモスの分節と関係しているのだろう。参考:二十四節気)
 以上の考察から、本論に戻ると、メディア・エネルギー化とは、必然的に反動化するのかという問いであるが、それへの答えは、否である。メディア界において、イデア界=特異性とメディア界=エネルギーとの極性が発生しているからである。そして、イデア界=特異性が正当に作動するならば、エネルギーは、反動化せずに、積極・能動的なものとなる。スピノザが述べた能動的観念による身体の活動的エネルギーとは、この積極・能動的エネルギーと関係しよう。ここで、図式的に整理しよう。

1.イデア界=特異性⇔2.メディア界=エネルギー⇔3.現象界=自我同一性(利己主義)

メディア界という中間態において、イデア界への志向と現象界への志向の極性・両義性があり、後者が主導的になると、メディア・エネルギーが反動化するのであり、前者が主導的になると、積極・能動化すると考えられるのである。ここで、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論と「アイロニカルな没入」論を想起するのは、適切であろう。つまり、ポストモダンがプレモダンに、リバタリアニズムが原理主義にアイロニカルに転化する事態のことであるが、それは、このメディア・エネルギーの反動化として理解することができるだろう。即ち、ポストモダンは、メディア界、《メディア》のエネルギーの発動・開放であるが、それが、現象界的志向が主導的だと反動化するということである。つまり、日本の場合は、戦後の似非アメリカ的近代主義によって、唯物主義/拝金主義という現象界的志向が主導的であるから、《メディア》の開放であるポストモダンは反動化するのである。小泉「改革」がそうである。そして、ライブドアもそうである。(ホリエモンの場合は、事情が少し複雑である。私見では、彼は、特異性をもっていたのである。しかし、それが、やはり、現象界的主導性のために、大反動化したのである。特異性があるゆえに、彼の反動は、超反動性と言えるように思うのである。一種精神分裂病的状態に彼は陥ったと思うのである。彼の言動から判断するとそのように思えるのである。つまり、特異性は、イデア界であるから、理想性をもつ。それが、ホリエモンの反逆的理想主義となったといえよう。即ち、老害の日本社会主義への反逆として、みんなが情報を共有してつながる社会への理想主義をもった。しかし、彼は、バブル以降の現象界的志向・拝金主義に染まっていたのである。だから、《メディア》の開放、メディア・エネルギーが大反動化・超反動化して、利己主義的に底無しに暗黒化したのだと思うのである。)
 以上の考察から、《力》の問題が明晰になったであろう。簡単・簡潔に言えば、《メディア》がイデア的志向性をもつのか、現象的志向性をもつのかが、《力》の様相を決定するということである。 前者ならば差異共立的志向性をもち、後者ならば反動・権力的利己主義的志向性をもつということである。これまで、何度も述べてきたように、現代資本主義、ポストモダン資本主義、差異資本主義は、イデア界的志向性をもつべきなのである。つまり、差異共立共創主義化すべきなのである。これで、ポスト資本主義となるのではないだろうか。(この点について、別に論考したい。)この点で一言付加すれば、資本主義は、利益追求を一つの本質意義であるから、現象界性を否定することは当然できない。問題は、ポストモダン資本主義は、イデア界的志向性を明確化しつつ、現象界的志向性を保持しなくてはならないということである。
 さて、最後に、不連続的差異と特異性の問題を考察したい。結局、両者はつながりがあるものの別の概念であるということになったであろう。多数・無数の不連続的差異の共立態としてのイデア界が特異性となるのである。もっとも、イデア界即特異性ではなく、イデア/メディア境界におけるイデア界が特異性であるということである。そして、この反動化は、きわめて危険であり、いわば、「超越神」化、即ち、専制・独裁化するだろう。全体主義やファシズムの危険があるのである。
 さて、これまで、不連続的差異としての《個》ということを言ってきたが、それは、ここでの検討から、不正確であったと言えるのではないだろうか。この問題は以前に解決したつもりではあったので、もう一度考察しよう。特異性とは、不連続的差異の共立態であるイデア界であることとなった。では、不連続的差異の共立態と不連続的差異とはどう関係しているのかということが問題となる。《個》において、イデア/メディア境界において、特異性が生起している。それは、積極・能動的な様相において、多数・無数の不連続的差異の共立態の発出である。すると、《個》において、その共立態の志向性ないしデュナミス・可能態が発出していると言えるだろう。つまり、共立態のイデア・エネルギーがそこに発出・発動していると見ることができる。このイデア・エネルギーは、不連続的差異の共立態をヴィジョンとしてもつ静かな精緻微細な知的志向性をもつイデア・エネルギーである。正に、イデア界のエネルギーである。だから、ここには、不連続的差異性の直観があると言っていいだろう。この直観が、現象界において、他者に適用されると言えるだろう。つまり、イデア界を現象界に重ねるのである。イデア界の不連続的差異という理念点を、現象界へ重ねるということである。これで、イデア界と現象界が一つの平面となるのである。しかし、この適用は合理論的なのだろうか。つまり、イデア界の不連続的差異を現象界の個に適用する根拠は何かということである。視点を換えて、個とは何かと問おう。個体とは何か。根本から考えると、イデア界において、1/4回転で、ゼロ化が発生する。このとき発生するメディア界は、ゼロ化の連結を帯び、不連続的差異が共鳴して連結するのである。つまり、不連続的差異は連続的差異へと変換・変形するのである。このとき、入れ子的な構造が生起すると考えられるのである。この入れ子構造は、フラクタル構造で呼べるだろう。つまり、メディア界において、不連続的差異がゼロ化して、入れ子・フラクタル構造を形成すると考えられるのである。この構造が、いわば、メディア構造が個体の原型であろう。そして、これが、さらに1/4回転して、現象的個体として発現・現出すると言えよう。だから、《個》とは、個体とは、本来、イデア界を内在しているのである。イデア界のゼロ化的変形としての《個》であると言えるのである。そう考えると、ここで提起した問題、即ち、不連続的差異を現象界の個体に適用する合理論的根拠は何であるのかという問題は、悪い問いではないかと思われてくるのである。そうではなくて、不連続的差異の共立態としてのイデア・エネルギーが特異性としてあり、それは、他者をも基本的に特異性として見るということではないか。つまり、特異性として、《個》が存するのであるから、当然、他者をも特異性の《個》として見るということではないか。すると、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界にも存するという私の直観は、不連続的差異の現象界への適用に拠るのではなくて、内在する特異性自体による特異性の共立性への志向性に拠ると言わなくてはならないだろう。特異性の民主主義的志向なのである。特異性の共民志向である。結局、不連続的差異の共立態であるイデア界のイデア・エネルギーである特異性が、他者を特異性として志向するという出来事が現象界に発生するということである。簡単に言えば、イデア界の可能態として、個体・他者を見るという志向性が根源的合理論的志向があるということである。つまり、他者とは、潜在したイデア界なのである。
 長くなったが、もう一点、不連続的差異と特異性について述べると、個々の不連続的差異というイデアは、それ自体で、特異性と言えるだろう。だから、不連続的差異の共立態としての特異性とは区別されなくてはならない。不連続的差異としての特異性を、とりあえず、ミクロ特異性と呼び、不連続的差異の共立態としての特異性を、マクロ特異性と呼んでおこう。即ち、ミクロ特異性の共立態としてマクロ特異性があり、これが、《個》となるのである。そして、伝統的には、《個》とは、ミクロコスモスである。ならば、《個》=ミクロコスモスとは、ミクロ特異性の共立態であるマクロ特異性を超越論的に内在していることになる。そして、イデア界の発現である、地球を含めた現象界である大宇宙マクロコスモスとは、《個》=ミクロコスモスに内在するマクロ特異性であるイデア界において、《個》=ミクロコスモスと一致すると言えるだろう。即ち、《個》=ミクロコスモスと大宇宙マクロコスモスとは、イデア界という共通の根源的基盤において、一致するということである。即ち、イデア界という根源界において、神秘学のミクロコスモス=マクロコスモスという概念は、正しいと言えるのである。
 そこからの問題は、マクロコスモスとしての現象界を、イデア界の倒錯した現象界である人間界に、イデア界的共立性をもたらすこと、現象・人間界をイデア界的に変容することではないだろうか。
 思うに、何故、イデア界が初めからイデア界的な現象界を創造しなかったかと言えば、それは、イデア界のもつ「歴史」性によるのだろう。それを進化と呼んでいいのだろうか。進展ないし高転ではないだろうか。イデア界の回転が螺旋的回帰・永遠回帰運動を生むのだろう。螺旋的進展化が、螺旋的イデア界史が、あるのではないだろうか。そう、《個》ミクロコスモスの、イデア的マクロコスモス化が、人間現象の目的なのだろう。《個》ミクロコスモスとして、共立して、マクロコスモスをイデア界的な共立態へと変容させることが、人間・人類のエンテレイケイア(終局態)なのだろう。
posted by ソフィオロジスト at 23:28| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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