2006年10月13日

検討問題:イエス・キリストとは、何か

可視的なものと、認識が結びついている(ヴィジョンvideoと観念ideaが語源的に一致する)ので、叡知=永遠の真理を可視的にする方法が、常に、人類にとって必要なのであり、それは、秘教・密教・神秘学、哲学、神話、宗教他に伝承されてきたと考えられるのである。プラトンのイデア論は、叡知の世界を知的に説いた、驚異的な理論である。また、仏教も、これに近いのである。人間は、現象界の知覚・認識を基盤とするために、この永遠の叡知を喪失しやすいのである。
 このような観点から、イエス・キリストを見ると、それは、叡知の世界を体現した人物と見ることができるように思える。しかし、その叡知的デモンストレーションが、キリスト教として、ドグマ・教条的に固定されてしまい、叡知性を喪失したと言えるのである。イエス・キリストとは、叡知の体現であると言えるのであり、それは、プラトンのイデア論と同じ真理を伝えていると考えられるのである。だから、キリスト教ではなくて、イエス・キリスト叡知実践論となるべきである。そして、それは、当然、イスラム教とも共通するものであり、万教帰一である。
 ニーチェのキリスト教批判は、宗教・教会としてのキリスト批判であり、イエス・キリスト自身は肯定しているのである。ニーチェが体現したと考えられる差異・特異性・不連続的差異・絶対的差異とは、基本的には、叡知とほぼ等価と言っていいものであり、イエス・キリストとニーチェは、同じ叡知を体現していると極論できるのである。(p.s.  この点は、もう少し丁寧に、精緻に述べるべきであろう。ニーチェが体現したのは、不連続的差異・絶対的差異・特異性そのものと考えられるのである。永遠回帰は、思うに、イデア界への回帰である。親鸞の往相回向であろう。それに対して、イエス・キリストの体現したのは、同様に、不連続的差異・絶対的差異・特異性であると考えられるが、それから、一歩進展して、差異共振シナジー様相をも体現していると思う。その差異共振シナジーは、完全に自由なものではなくて、連続・同一性の構造に囚われていると考えられるのである。差異共振シナジーは、即非の様相・様態であり、「愛」でもあるし、「愛」でもないのである。だから、イエスが説いた「愛」は、差異共振シナジーの叡知からは、連続・同一性へと傾斜していると考えられるのである。以上のように考えると、ニーチェとイエスであるが、不連続的差異性を両者もっているが、徹底しているのは、前者であり、後者は、連続・同一性の構造に囚われていると言えるのである。)
 私は聖霊教(あるいは、地味な野の花教、風の友愛教)を説いているが、これも、結局、叡知のエネルゲイアを説く宗教に過ぎないのであり、叡知普遍教そのものである。結局、ポスト・キリスト教であり、叡知論、プラトニック・シナジー理論の視点に基づき、イエス・キリストをキリスト教から救済することになるのである。仏陀も、プラトンも、イエスも、ゾロアスターも、ムハンマドも、モーゼも、老子も、朱熹も、卑弥呼も、一如である。(p.s. ガンジーも、ジョン・レノン、等々も同じである。また、スピノザやフッサールも、そうだし、D.H.ロレンスも折口信夫もそうである。同一の真理、差異共振シナジーという叡知の光とエネルゲイアを体現していたのである。)

p.s. 思うに、イエス・キリストは、叡知の実践・デモンストレーションであると述べたが、しかし、絶対的なそれではありえないだろう。時代の制約があるのである。だから、イエス・キリストの叡知実践は、一つの実践例として見るべきである。

p.p.s. 結局、差異共振シナジー叡知、メディア・エネルゲイアを、各時代、各場所において、多面的に観察した結果が、諸宗教、諸哲学、諸神話、等と言えるだろう。この叡知界は、通常の論理学や言語では捉えられない世界である。鈴木大拙氏の即非の論理学やウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」(第三の論理学)によって、把捉される世界である。これを、同一性の思考・論理で表現すると、矛盾が起きるのであり、これまで、一神教は、同一性の思考・論理(人格神)で、表現してきたので、混乱しているのである。零度差異共振シナジー界・叡知界・叡知空間を表現するには、差異の思考が必要なのである。プラトニック・シナジー理論は、それを、不連続的差異の共立・共振する世界として、理論化しているのである。

3p.s. 根源的な差異共振シナジー=イデア叡知を、様々な視点から解釈したものが、諸宗教、諸思想・哲学、諸神話・フォークロアであろう。絶対というものはありえないのである。それぞれが、一つの視点に過ぎないだろう。唯一神は、とは、一つの唯一神である。ヤハウェも、アッラーも、差異共振シナジーの一つの解釈である。つまり、諸宗教の相対性が考えられることになる。一神教は、同一性構造の視点に拠ると言えるのである。Kaisetsu氏が以前、宗教の相対性理論が成立について示唆されていたが、確かに、どの宗教で、「神」を「観測」しても、「光速」=真理は一定なのであろう。コ根源の「光」=差異共振シナジーの光・原光を、それなりに、捉えていると言えるのだろう。イデア叡知光を、どの視点からみるのかによって、諸宗教が生じるのである。ここには、宗教の進化論はないのである。宗教の共立があるだけである。相対性宗教論である。
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2006年09月27日

イデア 叡知光と阿弥陀 如来

イデア 叡知光と阿弥陀 如来

テーマ :PLATONIC SOPHIENCE

先に、イデア 叡知光の問題を考察 し、差異面の光と同一性面の光の2つの光の極性があり、併せてイデア 叡知光と考えた。この問題は、実に本質的で、核心的である。

 ここで、基本から考えよう。1/4回転によって、零度差異共振 シナジーが形成される。これは、メディア 界=メディア 平面である。零度差異共振 シナジーは、「発光」していると考えられる。これを、私は、イデア 叡知光と呼んでいるのである。

 しかし、メディア 界=メディア 平面は、主に二つの面をもつ。即ち、不連続 ・差異面(以下、差異面)と連続 ・同一性面(以下、同一性面)をもつ。そして、イデア 叡知光は、この両面性をもつと言えよう。差異面光(以下、差異光)と同一性面光(以下、同一性光)をもつ。つまり、イデア 叡知光は、差異光と同一性光の全く異なる2つの光を帯びることになるのである。そして、差異光は、おそらく、ロレンス 等が言う暗い太陽 dark sun に関係するのではないだろうか。そして、同一性光は、当然ながら、原太陽 光ないし現象光となるだろう。ついでに、ダークエネルギー のことに触れると、それは、差異光ないしイデア 叡知光の物質的エネルギー を問題にしていると言えるのではないだろうか。

 まとめると、イデア 叡知光とは、零度差異共振 シナジーの光であり、それは、差異光と同一性光の両極・対極・極性をもつのである。

 さて、ここで思考 を進展させると、差異面は差異極に、同一性面は同一性極になるのではないだろうか。つまり、ここでは、正に、太極 の極性が形成されているのではないだろうか。(もっとも、これまで、ずっとメディア 界・メディア 平面を陰陽極性で考えてきたのではあるが。)そうならば、メディア 平面は太極 図のようであり、差異光と同一性光との両極の光を発していることになるだろう。つまり、メディア 平面光=イデア 叡知光とは、差異と同一性の対極光であるということになる。(ここで、注意すべきは、同一性とは、疑似同一性であり、本来、連続 性と考えた方が正しいのである。連続 ・同一性志向性である。)つまり、差異/同一性の二重光であるということである。おそらく、この二重性は、混じってはいないのである。つまり、差異光と同一性光とは、混じり合ってはいないのである。あくまで、対極光である。比喩的に言えば、闇と光との対極性がここにはあるのである。黒い光と白い光の対極光である。暗い太陽 と明るい太陽 との二重太陽 なのである。もっとも、太陽 や光は、ここでは、原・プロト の意味 である。現象界や物質のそれと見てはいけない。(何度も言うと、ヌース理論 の根本 的誤謬は、メディア 平面光=イデア 叡知光と光子 というメディア /現象境界=超越同一性構造における「光」=量子とを混同して、同一視している点にある。半田氏がドゥルーズ の差異=微分 を基本にするのもむべなるかな。)

 以上のように考察 すると、イデア 叡知光とは、実に不思議 な光であることがわかる。本体は、零度差異共振 シナジーの光であるが、それは、対極光でもあるのである。一つの光であると同時に、「二つ」の光でもある。しかし、「二つ」とは、いわば、ヴェンダーンタ哲学 の不二一元論の「二つ」である。あるいは、即非の論理 の「二つ」である。二即一である。あるいは、差異即同一性である。

f:id:sophiologist:20051104180951j:image

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Waterland0_002.jpg

 さて、このようにイデア 叡知光を再検討してみると、これは、実に、阿弥陀 如来 の光、とくに、阿弥陀 三尊の様態に関係するように考えられるのである。後者 において、脇侍(きょうじ)として、観音菩薩 、勢至菩薩 をもつが、これは、イデア 叡知光の対極と見ることができるのではないだろうか。両者、「見る」や光に関係するのである。つまり、阿弥陀 如来 とは、イデア 叡知光そのものであり、脇侍の観音菩薩 と勢至菩薩 はその対極光をなしていると見ることができるように推察できるのである。

 さらに思考 を展開すると、古事記 の三柱の神、即ち、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・神産霊神(かみむすひのかみ)とパラレル になりそうである。天之御中主神が、当然、イデア 叡知光である阿弥陀 如来 である。そして、後の二者が陰陽光になる観音菩薩 ・勢至菩薩 に対応すると推察できるのである。つまり、日本の神話 と仏教 思想 とは、イデア 叡知光という共通の根源の光を見ていたことになると考えられるのである。ただ、表現が異なるだけである。万教帰一である。

 そうならば、神仏習合 とは、実に論理 的な宗教 的展開であると言えよう。そして、折口信夫 が、『死者の書』で、山越阿弥陀 の伝統 的な宗教 思想 を復活させたのは、折口自身が、イデア 叡知光を見ていたからであると考えられるのである。

 また、さらに付加すると、空海 の両界曼荼羅 であるが、思うに、大日如来 が、イデア 叡知光であり、金剛界曼荼羅 と胎蔵曼荼羅 が、対極世界を表現しているように思うのである。

 ここには、ゾロアスター教 、仏教 、神道 が一致しているのである。

 ここで、ユダヤ教 やキリスト教 の「光」の問題に触れると、ヤハウェの光ないしキリスト の光はイデア 叡知光の一面、一極の光、即ち、同一性の光に過ぎなかったと思うのである。旧約聖書 の神名は、ヤハウェとエロ ーヒム(神の複数形)の二つがあるのである。これは、推測 するに、イデア 叡知光の対極であると思うのである。ヤハウェが同一性光であり、エロ ーヒムが差異光であると思われるのである。そうすると、ユダヤ ・キリスト教 には、根源のイデア 叡知光が明示ないし顕示されていないように思えるのである。箴言等は、イデア 叡知光の智慧を表現していると思うのである。「光あれ」の光とは、同一性光、即ち、現象光だと思うのである。どうも、ユダヤ ・キリスト教 には、イデア 叡知光が、隠れてしまっているように思えるのである。イデア 叡知光の神が、隠れ、忘却されてしまったように思えるのである。ここで、想起するのは、ハーマン・メルヴィル の名作『モービー・ディック(白鯨 )』である。その中で、パラノイア 的なエイハブ 船長が、セント ・エルモ の火に対して述べる言葉 に、根源的な母なる神が示唆されているのである。父なる神を超えた神である。これこそ、失われたイデア 叡知光の神と考えられるのである。

 やはり、ポスト ・ユダヤ /キリスト教 である。真に正統的な宗教 の復活である。偏頗な宗教 の時代は終焉したのである。そう、メルヴィル において示唆されるゾロアスター教 の光、そして、ニーチェ におけるツァラトゥストラ と永遠回帰 を考えると、結局、

ポスト ・キリスト教 であり、

イデア 叡知光回帰 なのである。

ゾロアスター教 、仏教 、神道 、プラトン 哲学 の復活である。

西洋は滅びたのである。西洋は死んだのである、永遠 に!

p.s. ついでに、伝統 的な三女神(三美神も含めて)であるが、これも、ここでの考え方が適用できるように考えられるのである。例えば、古代ギリシア のエレウシス の秘儀であるが、デーメーテールとは、イデア 叡知光ではないだろうか。そして、復活する娘のコレーとは、対極光(死と生の対極性)を指すと考えられよう。コレーとペルセポネ(冥界の神)は一体である。そう、ペルセポネ(死)とコレー(生)が対極的に一如であろう。

 また、イシス ・オシリス神話 であるが、これも同様に考えられよう。オシリスが死んで、復活するのであるが、オシリスが生死の対極性であり、イシス がイデア 叡知光であろう。

 また、さらに、ユダヤ 神秘思想 のカバラ であるが、その三元的構成は、ここでの考え方で説明できるだろう。中央に対して、両極の柱があるが、それが、対極性であり、中央がイデア 叡知光と考えられよう。

 また、D.H.ロレンス の「王冠」の思想 であるが、父と子の二元 論と、聖霊 による一致であるが、父と子とが対極性であり、聖霊 がイデア 叡知光を指すと考えられるのである。

 結局、すべては、太極 哲学 に表現されているのである。そう、老子 とは何哉(なんぞや)。中国とは何哉。アジア・東洋とは何哉ということになるだろう。

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参考:

阿弥陀 如来

出典: フリー 百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』

(阿弥陀 仏 から転送)

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来迎印の阿弥陀 如来 像(牛久大仏 )

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来迎印の阿弥陀 如来 像(牛久大仏 )

定印の阿弥陀 如来 像(鎌倉大仏 )

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定印の阿弥陀 如来 像(鎌倉大仏 )

鎌倉大仏 の印相

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鎌倉大仏 の印相

阿弥陀 如来 (あみ だにょらい、amitaabha )は、大乗仏教 の如来 の一。阿弥陀 仏・弥陀仏などともいう。

目次

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* 1 概論

* 2 垂迹 神

* 3 日本における主な作例

* 4 関連仏典

* 5 関連宗派

* 6 関連僧侶

* 7 関連項目

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概論

「阿弥陀 」はサンスクリット の「アミターユス(amitaayus)」=「無限 の寿命 をもつもの」、アミターバ(amitaabha)」=「無限 の光をもつもの」音写したもの。意訳して、無量寿仏/無量光仏とも呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。西方にある極楽浄土 という仏国土を持つ。造形化された時は施無畏印・与願印・定印・来迎印を結ぶ。阿弥陀 三尊 として祀られるときは、脇侍に観音菩薩 ・勢至菩薩 を持つ。密教 においては、五仏(五智如来 )の一如来 として尊崇される。

無量寿経 によるとインド 王族の出身だったが、世自在王仏 に出会い 出家 。法蔵 と名乗り、非常に長期間衆生 の救済の思索をめぐらし(五劫 思惟(ごこうしゆい))、浄土 への往生 の手立てを見出し たことにより仏 となった報身 仏。衆生 救済に関して48の願い(四十八願 )を立て、特に浄土教 において第十八願 を「本願 」と呼んで重要 視する。また、現在 も説法をしていると信じられている。

これを語源 とする他力本願 と云う言葉 は、本来の宗教 的な意味 合いを離れて、「ムシのいい、他人への依存 」「無責任 」という意味 でも広く用いられるが、本来は自分自身(自力)の力「のみならず」仏の力,他の人の力(他力)、すなわち縁の力も互いに借りて皆がより良く生きるという意味 である。浄土真宗 においては、煩悩 具足の凡夫は阿弥陀 仏の本願、すなわち他力本願 によって「のみ」往生を遂げることができるとし(絶対他力)、自力は否定されるが、この場合でも「他人依存 」「無責任 」は、言うまでもなく他力本願 とは相容れない概念 である。

チベット仏教 における副法王 パンチェン・ラマ は阿弥陀 如来 の化身とされる。

大乗仏教 で登場した仏尊であり、その起源 はゾロアスター教 に遡り、光明 の最高神アフラ ・マズダー が無量光如来 、無限 時間の神ズルワーン が無量寿如来 として仏教 化されたとする学説もある。また西方極楽浄土は、ゾロアスター教 の起源 であるペルシャ 地方、もしくは肥沃で繁栄した古代 バビロニア 地方が背景になっていると考える少数派の意見 もある。

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垂迹 神

* 熊野権現

* 八幡神

ほか

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日本における主な作例

国宝

* 中尊寺 像 (岩手県西磐井郡平泉町)(金色堂 安置諸仏のうち)

* 高徳院 像 (神奈川県鎌倉市)(鎌倉大仏 )

* 浄土寺 像 (兵庫県小野市)(阿弥陀 三尊像のうち、快慶 作、浄土堂安置)

* 平等院 像 (京都府宇治 市)(定朝 作、鳳凰堂安置)

* 広隆寺 像 (京都市)(講堂安置)

* 仁和寺 像 (京都市)(阿弥陀 三尊像のうち、金堂安置)

* 法界寺 像 (京都市)(阿弥陀 堂安置)

* 三千院 像 (京都市左京区)(阿弥陀 三尊像のうち、往生極楽院安置)

* 法隆寺 像 (奈良県生駒郡斑鳩町)(阿弥陀 三尊像のうち、橘夫人厨子安 置)

重要文化財 (国指定)

* 太山寺 像 (神戸市)(阿弥陀 堂安置)

* 圓教寺 像 (兵庫県姫路市)(常行堂安置)

* 知恩院 像 (京都市)(阿弥陀 堂安置)

* 孝恩寺 像 (大阪府貝塚市)

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関連仏典

* 無量寿経

* 観無量寿経

* 阿弥陀 経

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関連宗派

* 融通念仏宗

* 浄土宗

* 浄土真宗

* 時宗

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関連僧侶

* 曇鸞

* 善導

* 良忍

* 法然

* 親鸞

* 蓮如

* 一遍

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関連項目

* 大日如来

* 阿弥陀 信仰

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5 " より作成

カテゴリ : 如来 | 浄土系仏教


注:以上は以下の転載です。

http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20060928


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2006年09月18日

世界の変化について:世界革新の問題:ポスト唯物論・ポスト西洋と超次元的世界観

世界の変化について:世界革新の問題:ポスト唯物論・ポスト西洋と超次元的世界観

テーマ:メタ・モダン進化meta-modern

ブッシュのタカ派的政策の行き詰まり、それへの批判が、USA国内で、高まり、また、ブッシュに同調したブレアが退陣することになり、また、アメリカ主義者の小泉首相も退くことになり、その他、中東問題(ヒズボラの勝利、イランの躍動、他)、ラテン・アメリカの跳ね返し(チャベス、他)等を見て、世界は、いわゆる、多極化へと向かっていると言えるだろう。
 しかし、呑気に、評論家のように言ってはいられないのである。私見では、これは、西洋中心主義の終焉なのである。つまり、西洋文明の終焉なのである。この意味することを、注意深く考察しないといけないのである。
 ここに来て、ポスト構造主義ないしポストモダンが問題にしたことが、真に問題となっていると言えるのである。これは、言い換えると、キリスト教ないしユダヤ・キリスト教的西洋文明の終焉である。これは、近代物質主義を生み出し、現代の狂気的な破局を帰結させているのである。
 これまで、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論(以下、DD/PS理論ないしDDPS理論:a discontinuous difference/platonic synergy theoryの略である)の視点から、メディア/現象境界である超越境界、いわゆる、構造主義の厳然たる構造(超越論的同一性構造)が、西洋文明の土台・根幹・基底であることが判明したのである。ポスト構造主義は、この構造の超克を意図したが、ポストモダン流行時期の優れた思想家であったデリダもドゥルーズも、結局、この構造から、真に脱却できなかったのである。これは、ポストモダン流行以前の、ニーチェ哲学とフッサール現象学を、発展的に継承できなかったことを意味すると考えられるのである。【この問題に関して、ハイデガーの思想が、最高度に有害・害悪であったと考えられるのである。フッサール現象学の画期的独創性(超越論的不連続性)を、ハイデガーの思想は内在的連続性の観念によって、隠蔽してしまったと考えられるのである。このハイデガーの思想が、後のポストモダンの限界を生み出したと言っても過言ではないだろう。】
 結局、政治・経済・社会的世界が、理論の行き詰まりを超えて、大変化しているのが現状であろう。いったい何が起きているのか。それは、構造主義の構造、超越論的同一性構造が、意味をもたない時代に世界が入ったということだろう。つまり、差異が、諸差異が、換言すると、特異性・単独性、即ち、諸不連続的差異が賦活された世界になったということである。これまで、西洋文明、とりわけ、USA中心の構造が支配しているのであるが、この構造主義を打ち破る動きが世界に発生しているのである。政治・経済・社会的実在が、構造主義を超克したのである。そう、多極化とは、理論的には、DDPS化である。そう、近代の同一性中心主義(唯物論、近代的合理主義、近代的自我、プロテスタンティズム)の崩壊・終焉・破滅がここには生起しているのである。ユダヤ・キリスト教的西洋文明の終焉が、今は、実在となったのである。この意味することは、途轍も無い。
 USAに隷従してきた日本は、大破局の危機にあると言わざるを得ないのである。今度の安倍政権は、予想通り、短命であろうが、ポスト安倍が今や核心的問題である。ベスト・チョイスは、小沢政権であろう。それしか、考えられない。そして、おそらく、そう歩むだろう。今や、大陣痛の時代である。日本国民は、大覚醒しないといけない。近代主義の幻想・妄想・狂躁に酔っぱらっていてはいけない。
 とまれ、今や、DDPS理論の時代になったと言えよう。ポスト西洋文明のコスモス文明の時代になったと言えよう。近代主義のドラッグ時代から、いちはやく、衆生はエクソダスしないといけない。

 西洋は死んだ!

参考:「安倍政権が誕生した場合の、その性格予測 ◆これは、日本の正統な保守陣営の再集合政権である。つまり、反小泉であり、アジア主義である。」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=447759
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu of ODA Watchers  『New Platonic Synergy Theory』 
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2006年09月11日

同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象

同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象

テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義

自己愛性人格障害という名称は、生ぬるいと思う。自我狂気病(同一性自我狂気症)と呼ぶのが適切・的確だと思う。現代、この自我狂気病ないし自我精神病が蔓延している。この自我精神病について、再考したい。
 先に、「揺らぎのない芸術は情操を高めない」というタイトルで、記事を引用したが、自我狂気病は、確かに、「揺らぎ」がない。「揺らぎ」とは、本来、メディア界がもたらすものである。だから、これまで、差異(メディア界)を否定・排除・隠蔽する同一性中心自我の様態にぴったりとあてはまると言えよう。
 これまで理論的解明をしてきたが、やはり、この絶対的否定の原因が、よくわからないという思いがするのである。というか、不思議な感じがするのである。
 とまれ、具体的な事象で考えよう。揺らぎの有無が出たので、考えると、現在、流行しているような若者の歌には、揺らぎが欠落している。そう、若者だけでなく、いわゆる、演歌歌手の歌にも、揺らぎが欠けている。いわば、頭だけで歌っているのである。頭とは、この場合、近代的自我の頭と考えられるのである。差異・メディア界の揺らぎがないのである。これは、音楽で言えば、直接的に、響きの質の問題である。響きの質に揺らぎがないということである。共振シナジー相が排除されているということである。
 どうも、何か洗脳されている向きがあるのである。本当の歌を、生産せずに、同一性の似非歌を生産しているのである。これは、当然、同一性の自我を発生させることになる。
 ここには、観念の問題がある。言語観念である。思うに、観念は、二つはある。メディア界的観念と言語観念である。(イデアとは、本来、前者である。これは、ヴィジョンに近い観念と言えよう。また、私が先に、ウィーンフィルとベルリンフィルの相違について述べたが、ここの問題と一致する。)言い換えると、差異観念と同一性観念の違いである。結局、歌の観念が、現代、後者、同一性観念になっているということである。歌の声が、同一性観念になっているということである。これは、結局、貨幣と同じである。
 
ナルシス
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Narcissus.jpg

 同一性自我狂気病は、正に、近代主義の帰結と言えよう。この大本は、プロテスタンティズムと言っていいだろう。また、デカルトのコギトの半面の同一性からである。そう、超越論的同一性なのである。形而上学的同一性なのである。単なる現象界の同一性ではないのである。これこそ、デリダが問題にした「ロゴス中心主義」である。カント哲学の超越論的形式と等しいだろう。超越論的同一性形式と言ってもいいだろう。これは、ヒエラルキー的同一性秩序をもつものである。つまり、同一性が高位・優位にあり、差異が低位・劣位にあるという価値観である。これは、メディア界の対極性・極性を分離二元論にしたものとも言えよう。プラスとマイナスが対極を為していたが、同一性化とは、プラスを優位とし、マイナスを劣位としたのである。しかし、本来両者が極性を為していたのである。例えば、天と地との分離的二元論であるが、本来、天と地とは、対極性で一体のものである。正に、陰陽を形成していたのである。つまり、プラス・エネルギーが作用・作動して、陰陽が分離して、陽が陰に対して、優位に立ったと言えよう。ここで、留意すべきは、陰が否定されたのではなくて、差異が否定されたことである。対極性が否定されたことである。天と地との二元論は、天を優位にしても、地を優位にしても、同形である。ここにあるのは、差異、差異共振、差異極性の否定である。
 しかし、これまで、述べたように、マイナス・エネルギーが作用すると、再び、差異が発動するようになるのである。これは、超越論的領域に起こるのである。つまり、超越論的同一性形式の場に、差異が発生するのである。つまり、それまで、同一性の構造であった場(超越場、内在超越場)に差異の構造が発現するのである。これは、たいへんの事態である。つまり、それまで、アリストテレス的形式論理学の「帝国」に、対極性・即非の論理学・ターシャム・オルガヌムが出現するからである。これは、大事件である。正に、革命的事件である。この差異再発の事件こそ、ポスト近代の事象であると考えられるだろう。当然、自我は、混乱するのである。自我に差異という怪物が急襲したのである。これが、本当のポスト・モダンの意味である。いわゆる、ポストモダンは、真正のポスト・モダンの応急処置のようなものではなかったか。真正ポスト・モダン(ディープ・ポストモダン)とは、ニーチェ哲学のような事態であり、フッサール現象学の探求に存する。
 とまれ、超越論的構造における差異の再出現という大事件によって、近代的自我は混乱、カオスの状態に陥るのである。私見では、これが、「自己愛性人格障害」の本体ではないかと思えるのである。近代的自我、同一性中心自我にとって、在り得ない、不可能な事態が発現したのである。差異の力動、エネルギーが再発動・駆動したのである。この差異の発動が、近代的自我・同一自我に否定されて、反動狂気となっているのである。つまり、差異を否定しようとする憎悪・暴力・攻撃がここにあるのであるし、また、この、正に、反動暴力が、狂気凶暴な傲慢さを発生させていると考えられるのである。即ち、高位・優位の同一性自我は、差異を否定することで、成立・確立するのだが、しかし、ポストモダン事象によって、差異が再発動して、この前提が危うくされているのである。つまり、同一性を否定する差異の事象が再発現したのである。当然、同一性は、この差異を激しく否定する。蛇蝎のごとく、忌み嫌うように憎悪するのである。つまり、ポストモダン事象において、近代的自我は、分裂症、二重人格になるのである。高位・優位の同一性自我と同列の、対等の差異自我が発生するのであるが、前者が後者を否定・排除・隠蔽しようとするのである。そう、抑圧するのである。しかし、自己に存在し、また、進展するものを抑圧するので、当然、病理的になるのである。この差異への抑圧が反動病理になるのであり、これが、「自己愛性人格障害」として発症しているのだと考えられるのである。そして、唯物論的資本主義は、差異知性・差異教養・差異理性を排除しているので(ヴァンダリズム、石原都知事の都立大破壊)、この近代的自我狂気病は、治癒方法を喪失して、蔓延するのである。
 結局、近代的自我が否定した差異を肯定することが治癒につながるのである。そう、先に流行したポストモダンではだめである。DD/PS(DDPS)理論こそ、これを完遂できる理論と考えられるのである。つまり、流行したポストモダンは、DD/PS理論から見ると、メディア界に達したが、イデア界を捉えていないのであり、そのため、同一性構造から真に脱却できなかったのである。いったん、イデア界に達することから、純粋なメディア界に達することができるからである。不連続的差異の共立するイデア界に回帰して、純粋メディア界が生起するのである。これが、純粋ポストモダン、純粋ポスト構造主義である。

p.s. 同一性自我について、新たに考えると、これは、本来、差異自我が、同一性自我へと、いわば、転移ないし投影しているのである。同一性自我の投影像である。神話のナルシスであるが、水面に映る自我像とは、正に、同一性自我像であり、差異自我自身が自身をこれに投影しているのである。つまり、これは、まったく幻想・幻像なのである。差異自我自身が、同一性自我の仮面(パーソナリティ)をつけている、かぶっているからである。差異でありながら、同一性であると過信、盲信、妄信しているのである。つまり、同一性自我は、もともと、幻影・虚偽・虚構・欺瞞・虚栄的なのである。
 プラス・エネルギーの時は、これが、能動的であるからいいが、ポストモダン事象においては、仮面の具合が悪くなるのである。仮面の下の、真相が剥き出しになろうとするのである。仮面破壊が生起するのである。これに対して、同一性自我は、反動的に抑圧するために、病理・狂気的になるのである。「自己愛性人格障害」を哲学するとこうなるだろう。

p.p.s. 極性構造のエネルギーは、言い換えると、欲動・情動・衝動と言えるのではないだろうか。思うに、欲動・欲望とした呼んだ方がいいのかもしれないが。とまれ、作業仮説的に、欲望と呼んでおこう。プラス・エネルギーの場合は、同一性自我欲望である。食欲や性欲や所有欲においても、同一性自我の欲望が入るだろう。例えば、ブランド製品を欲望すると言った場合であるし、高級レストランで食事をするとか、外観の優れた者を性欲の対象にするとかである。そう、資本主義は、この同一性自我欲望と結んでいると言えよう。そのため、同一性欲望を刺激する宣伝に満ちることになるのである。
 とまれ、この同一性自我欲望がプラス・エネルギーであり、暴力である。即ち、

プラス・エネルギー=同一性自我欲望=暴力

となる。これは、また、差異への否定暴力でもある。
 しかし、問題は、マイナス・エネルギーが賦活されたポストモダン事象となる場合である。差異のエネルギーが生成して、同一性自我暴力を解体する方向にはたらくのである。この差異という他者に対して、同一性自我は、反動狂気化するのである。そう、マイナス・エネルギーとは、思うに、差異の欲望であろう。差異であることの欲望である。(ここで、ユング心理学の個性化の概念を想起する。)ここでは、差異への欲動と呼んでもいいように思える。とまれ、ポストモダン事象において、同一性自我欲望と差異自我欲望が衝突することになるのである。しかし、この事象は、超越論的構造、超越論的極性構造で生起しているので、単なる自我意識によっては、どうすることもできないのである。つまり、同一性自我は、ポストモダン事象において、いわば、ほぼ未知の経験をすることになるのである。つまり、同一性自我なので、差異に対する認識が欠落しているということである。このため、差異の欲望に対して、同一性自我は反動的な抑圧的態度をとるのである。というか、衝動的にそうなるのである。差異の欲望エネルギーが発動する。それを肯定的に受容できないので、それを抑圧するが、その抑圧が差異欲望エネルギーを反動化させて、狂気傲慢暴力攻撃衝動とするのである。つまり、同一性自我は、その差異欲望エネルギーを抑圧する態度のために、反動狂気衝動を引き起こすと考えられるのである。この差異欲望エネルギーの抑圧が、同一性自我の狂気的傲慢さを生むと考えられるのである。

3p.s. 以上のように考えると、「自己愛性人格障害」・同一性自我狂気病の原因は、子供の時期の親から見捨てられる経験というトラウマ云々よりは、差異認識の欠落・欠如・欠損によるのではないのかと思えてきたのである。付け加えると、豊かな自然体験のそれである。この場合、自然とは、勿論、農村・漁村・山村等々における自然を含めて、いいのであるし、野趣の残る自然でもいいのである。
 すると、結局、なんらかの差異経験・体験の欠落が考えられるのである。「揺らぎがない」状態とは、正に、このことから発したと考えられるのである。子供たちに、同一性教育をして、差異教育していないのである。狂育である、正に。やはり、戦後唯物科学中心教育の帰結であろう。
 そう、「自己愛性人格障害」・同一性自我狂気病とは、トラウマというよりは、唯物科学教育の産物と見た方がいい。唯物科学とは、正に、同一性自我形式をもつのである。だから、
同一性自我/唯物科学教育が真因である。私は、近代的自我は、現代において、狂気になっていると執拗に論じたが、それは、正鵠を射ていたと言わなくてはならない。

4p.s. 言及するのを忘れていたが、オウム真理教事件であるが、正に、理系出身の青年たちが、多く関与していたことを想起するのである。同一性自我/唯物科学教育(狂育)を彼らは受けてきて、差異教育を受け来なかったため、差異が狂気反動化してしまったと考えられるのである。唯物科学は、悪魔の科学である。これを、明確に、認識しないといけない。真にイデア論に基づく科学が、天使の科学であろう。

DD/PS理論が、ポスト唯物悪魔科学としてのイデア論的天使科学を創造できるだろう。
posted by ソフィオロジスト at 10:46| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月10日

自己愛性人格障害と近代的自我:超越的連続・同一性構造と超次元知的存在の新創世記

自己愛性人格障害と近代的自我:超越的連続・同一性構造と超次元知的存在の新創世記
テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明
自己愛性人格障害や境界性人格障害に関しての説明を少し読んだが、根本において、親から見捨てられる不安から、発症するように思えた。
 以前、近代的自我の発生に関して、「心」の冷暗化を仮説したことがあるが、このような不安は、一種「心」の冷暗化に関係すると言えるだろう。私は、理論的に突き詰めて、では、何故、親、この場合は、母親は、このように子供に依存するのかである。やはり、親自身の問題であり、親の「心」の冷暗化の原因を考えなくてはならない。
 結局、個・自我としての自律の問題である。「我在り」ないし「我思う」の問題である。不連続的差異論dd論から見ると、メディア界の問題である。言い換えると、自我存在の基盤の問題である。
 デカルトは、コギトに基盤を求めたのである。しかし、デカルト哲学の問題は、やはり、メディア界の問題だと思う。コギトは、原点としては、メディア界を含むだろうが、近代的自我となると、メディア界を排除することになるのだ。コギト→近代的自我の移行には、メディア界の排除があるのである。だからこそ、ここには、暴力があるのである。自他への暴力である。そして、ここに、自己愛の問題が発生すると思えるのである。これまで、既述したように、自他の他者・差異の否定・排除・隠蔽である。しかし、これは、極性力学に拠るのであり、必然である。問題になるのは、マイナス・エネルギーが賦活されて、反動化するときである。つまり、賦活される差異を容認しない、反発的な、否定的な姿勢をとるときである。
 問題は、何故、差異を容認しようとしないのかである。確かに、差異は、同一性自我の体系を破壊・解体するのであるから、同一性自我にとって、たいへん不安である。同一性自我である近代的自我自体が、差異を否定しようとするのである。
 現代、自己愛性人格障害が起こるのは、差異を否定する強固な同一性自我が存するからである。私は、近代的自我の反動態として見ているのである。これまで述べたように、「ポストモダン」様相とは、マイナス・エネルギーが賦活され、差異の志向性が発動するので、その発動に対して、同一性自我=近代的自我が、反動的に否定的な反応を起こすのであり、この反動的否定反応こそが、精神病理なのである。
 また、これも既述したように、差異を否定する唯物論文化が主導的なので、差異を肯定する「教養」がないので、差異への受容力がなくなっていることも、一因であると考えられるのである。そう、だから、結局、ポスト・近代主義の発動という実在的な主観・主体的環境における、近代主義の「末期症状」であると見ることができるのである。問題が複雑化しているのは、いわゆる、ポストモダンの運動が挫折したことで、ポスト・近代主義の視点を喪失して、近代からのエクソダスの地平がなくなり、近代主義の反動様態が支配していることである。ポストモダンやポスト構造主義で、夜明けが来たかと思えたが、それは、中途半端な光であり、そのため、真のポスト・近代主義へのブレークスルーにならなかったのである。
 不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の観点から見ると、この近代主義の大反動様態は、理論・知の衰退に大きく存していると思う。有り体に言えば、現代を批判解明し、未来を切り開く理論・知が欠落していることである。これは、明らかに、衰退路線である。
 近代的自我は、無反省のままで、継続していて、自滅へと進んでいるのである。
 そう、まったく、プラトンの洞窟の影像に見入っている反動様態である。狂気ではあるが、妄想狂気(妄狂)自我相である。近代合理主義=唯物論の傲りの結果である。また、カント哲学の限界に拠るとも言えよう。物自体の合理性・ロゴスをカントは理論化できなかったのである。それは、フッサール現象学が行ったのであるが、ハイデガーがそれを後退的に隠蔽してしまったのである。物自体の合理性とは、超越論的主観性、志向性、ノエシス・ノエマ、間主観性、生活世界である。そして、さらに、それを空間化したのは、ウスペンスキーであったのであるが、これらが、アカデミズムにおいて、無視されてしまったのである。というか、哲学分野での、知的劣化・衰退があるのである。
 思えば、デリダやドゥルーズは、後、一歩という境界点で、物自体の世界へとブレークスルーすることができなかったのである。ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、西田幾多郎、鈴木大拙、他の始動的ブレークスルーを継承できなかったのである。そして、また、量子力学も、近代唯物科学の枠に留まったままである。
 結局、これまでの結論を繰り返すしかないが、連続・同一性内在超越構造を徹底して解体する方法しか、真のブレークスルーはありえないのである。ユダヤ・キリスト教、近代的自我、唯物論・唯物科学、ポスト構造主義、資本主義、これらは、この超越論的構造を維持したまままである。

この超越論的連続・同一性構造の解体・破壊にしか、未来は存しないと断言できるのである。

 不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論によって、この
超越論的絶対的差異進化が生起すると言えるのである。これは、東洋も西洋も超越した進化である。

そう、今や、
プラトニック進化が、人類に襲来したのである。これまでの人類は猿人類と退化するだろう。

超次元知的存在の新創世記のエポックである。

NEW GENESIS OF SUPERDIMENSIONAL INTELLIGENT BEINGS

来るべきものが来たのである!!!
posted by ソフィオロジスト at 03:47| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月09日

キリスト教を脱構造化する:「光」の連続・同一性自我化としての「イエス・キリスト」批判


キリスト教を脱構造化する:「光」の連続・同一性自我化としての「イエス・キリスト」批判
[ 04:55 ] [ ポスト・キリスト教 ]
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『ヨハネの福音書』の冒頭はきわめて興味深い。「初めにロゴスありき」として、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論ddps理論から見ると、「ロゴス」は、メディア界・差異共振シナジー相である。そして、これが、「光」である。しかし、この「光」は、イデア・シナジーである。だから、不可視の「光」である。「闇」である「光」である。現象界の「光」ではないのである。つまり、浄土教の阿弥陀如来の「光」と等価と見ていいだろう。原光・プロトライトである。そして、この「光」が肉体化したのが、「イエス・キリスト」であるが、しかし、これは、おかしいと思うのである。すべては、「光」から生成したのであるから、誰でも、「光」を体現しているはずである。「イエス・キリスト」だけに限定されるものではないのである。凡人や悪人にさえ、「光」は潜在しているのである。そう、悪魔にさえ、「光」は潜在しているだろう。思うに、「光」の顕在をなんらかの精神修練によって実現した人物が「イエス・キリスト」であったろう。これは、「イエス・キリスト」が唯独りということはありえないのである。これは、また、D.H.ロレンスの懐疑であったのであるが。「光」の顕在的体現は、多くの、いわゆる、神秘家に生起したと考えられるのである。やはり、この点が、ドグマティックに考えられるのである。「光」の独占である。これは、不合理である。ここには、「光」の連続・同一性自我化があると思うのである。デカルトのコギトに近いと思う。そう、キリスト教は、「光」、「ロゴス」、コスモスの理(「ダルマ」)を、連続・同一性自我化していると思う。だから、やはり、ポスト・キリスト教として、キリスト教の脱連続・同一性化=不連続的差異化が必要である。
 また、ヨハネの福音書は、父とロゴスとを混同している向きがあると思う。だから、父とは、イデア界である。そして、ロゴスはメディア界である。そして、子(複数)とは、現象界である。そして、聖霊もメディア界である。聖母マリア、聖母子も、メディア界である。これらが、非常に、混乱しているように思えるのである。カオス状態にあるように思えるのである。古代の叡智が、キリスト教によって、カオス状態にされてしまったように思えるのである。狂乱のキリスト教ではないだろうか。狂気の、精神異常の、精神分裂症のキリスト教ではないだろうか。
 聖書は、文学、フィクション、物語として見るといいと思う。しかし、これは、古代の叡智の破壊ではないか。ポスト・キリスト教である。

_____________________________________

English: New American Standard Bible Japanese: JKUG
John 1 [Commentary]
1. In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2. He was in the beginning with God. この言は初めに神と共にあった。
3. All things came into being through Him, and apart from Him nothing came into being that has come into being. すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4. In Him was life, and the life was the Light of men. この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5. The Light shines in the darkness, and the darkness did not comprehend it. 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
6. There came a man sent from God, whose name was John. ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
7. He came as a witness, to testify about the Light, so that all might believe through him. この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
8. He was not the Light, but he came to testify about the Light. 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
9. There was the true Light which, coming into the world, enlightens every man. すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10. He was in the world, and the world was made through Him, and the world did not know Him. 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11. He came to His own, and those who were His own did not receive Him. 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12. But as many as received Him, to them He gave the right to become children of God, even to those who believe in His name, しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
13. who were born, not of blood nor of the will of the flesh nor of the will of man, but of God. それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
14. And the Word became flesh, and dwelt among us, and we saw His glory, glory as of the only begotten from the Father, full of grace and truth. そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
15. John *testified about Him and cried out, saying, "This was He of whom I said, `He who comes after me has a higher rank than I, for He existed before me.' " ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
16. For of His fullness we have all received, and grace upon grace. わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
17. For the Law was given through Moses; grace and truth were realized through Jesus Christ. 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
18. No one has seen God at any time; the only begotten God who is in the bosom of the Father, He has explained Him. 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
19. This is the testimony of John, when the Jews sent to him priests and Levites from Jerusalem to ask him, "Who are you?" さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
20. And he confessed and did not deny, but confessed, "I am not the Christ." すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。
21. They asked him, "What then? Are you Elijah?" And he *said, "I am not." "Are you the Prophet?" And he answered, "No." そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。
22. Then they said to him, "Who are you, so that we may give an answer to those who sent us? What do you say about yourself?" そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。
23. He said, "I am A VOICE OF ONE CRYING IN THE WILDERNESS, `MAKE STRAIGHT THE WAY OF THE LORD,' as Isaiah the prophet said." 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
24. Now they had been sent from the Pharisees. つかわされた人たちは、パリサイ人であった。
25. They asked him, and said to him, "Why then are you baptizing, if you are not the Christ, nor Elijah, nor the Prophet?" 彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
26. John answered them saying, "I baptize in water, but among you stands One whom you do not know. ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
27. "It is He who comes after me, the thong of whose sandal I am not worthy to untie." それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
28. These things took place in Bethany beyond the Jordan, where John was baptizing. これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。
29. The next day he *saw Jesus coming to him and *said, "Behold, the Lamb of God who takes away the sin of the world! その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

http://unbound.biola.edu/index.cfm?method=unbound.welcome
から
posted by ソフィオロジスト at 07:33| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

近代的自我と言葉の関係:言語とは何か:言語とメディア界の関係について:「初めにロゴスありき」


近代的自我と言葉の関係:言語とは何か:言語とメディア界の関係について:「初めにロゴスありき」
[ 03:18 ] [ 言語と差異 ]
[ スライドショウ ] [ 編集 ] [ 削除 ]
「初めに言葉ありき」とは、あまりに有名なヨハネの福音書の冒頭の言である。しかし、何度も既述したが、原語のギリシア語では、「初めにロゴス(ο λογος)ありき」なのである。「言葉」と「ロゴス」は、一般に、同じものを意味していると考えられている。しかし、誰が見ても、両者、異なるのである。
 英語の欽定聖書やドイツ語のルター訳聖書では、「言葉」と訳(誤訳)されているのである。近代主義とは、精神的には、ここから発したと言ってもいいくらいだと思われるのである。
_______________________________

Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
English: King James Version
German: Luther (1545)
English: New Revised Standard Version


John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.


2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον

The same was in the beginning with God.

Dasselbige war im Anfang bei Gott.

He was in the beginning with God.


3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν

All things were made by him; and without him was not any thing made that was made.

Alle Dinge sind durch dasselbige gemacht, und ohne dasselbige ist nichts gemacht, was gemacht ist.

All things came into being through him, and without him not one thing came into being. What has come into being.


次は仏語版である。

Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
French: Louis Segond (1910)
French Jerusalem Bible
French: Darby


John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος

Au commencement était la Parole, et la Parole était avec Dieu, et la Parole était Dieu.

Au commencement était le Verbe et le Verbe était avec Dieu et le Verbe était Dieu.

¶ Au commencement était la Parole; et la Parole était auprès de Dieu; et la Parole était Dieu.


2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον

Elle était au commencement avec Dieu.

Il était au commencement avec Dieu.

Elle était au commencement auprès de Dieu.


3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν

Toutes choses ont été faites par elle, et rien de ce qui a été fait n'a été fait sans elle.

Tout fut par lui, et sans lui rien ne fut.

Toutes choses furent faites par elle, et sans elle pas une seule chose ne fut faite de ce qui a été fait.

The Unbound Bible
http://unbound.biola.edu/

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 問題は、連続・同一性自我と言葉・言語の関係である。これまで、既述したように、同一性と言葉・言語とが、いわば、一致・一体化するのである。つまり、同一性自我・近代的自我と言葉・言語とが、結合するのである。この結果生起する同一性言語自我・近代的言語自我(ラカンの象徴界は、言語自我界であり、ここと一致するだろう。)は、差異を否定・排除・隠蔽する様相となっているのである。ここで、差異とは、メディア界・差異共振シナジー相・心身性・精神である。 
 結局、近代合理主義・近代的自我・同一性言語自我とは、差異を排除して成立しているものである。そう、近代的自我とは、言語と結合することで、強固な内在超越論的連続・同一性構造を形成していると言えるだろう。換言すると、プラス・エネルギーと言語とが結合しているのである。この近代的同一性言語は、差別的な言語であり、主体の差異・他者と同時に、外的な差異・他者を差別・排除するのである。思うに、ナショナリズムや宗教はここと結びついているので、暴力・攻撃的に排外的なのである。(参照:石原都知事、小泉首相、等々、国粋主義的ナショナリズムの面々)
 とまれ、言語と一体化している近代的同一性自我についてであるが、それは、独断・独善的自我中心主義である。「自己中」である。自己盲目であり、妄想・妄念・妄言的である、小泉首相のように。
 そう、先に述べたように、内部環境がプラス・エネルギーの場合は、これが、能動的であったと言えようが、今日のような「ポストモダン」状況では、マイナス・エネルギーが賦活・活性化されていると考えられるので、この近代的同一性言語自我は、反動狂気様態になっているのである。
 では、言語と差異との関係を見る必要がある。明らかに、差異は、言語ではない。あえて言えば、差異とはロゴスである。「理」である。ただし、近代合理主義の「理」ではなく、メディア界・差異共振シナジー界の「理」である。これは、心身・精神的「理」である。だから、言語は、これを、直截に把捉できないのである。言語の他者としての差異なのである。だから、ヨハネの福音書の冒頭の「ロゴス」=「理」を、「言葉」・「言語」と訳すのは誤訳であることが、これで証明されたと言えよう。ロゴスと言葉は、まったく別のものであり、メディア界・メディア平面・差異共振シナジー界の「ロゴス」=「理」と、現象界の同一性形式である言語との混同が、西欧近代において形成・確立されたと言えよう。そして、極論すれば、その結果、主体意識において、内在超越意識が喪失されて、現象界中心主義(=唯物論)になったとも言えよう。(この内在超越界の取り戻しは、芸術では、ロマン主義以降の運動、そして、哲学では、スピノザ、カント、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他によって為された。また、日本では、西田幾多郎や鈴木大拙によって為されたと言えよう。私としては、在野の根井康之氏を含めたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10001141893.html
http://shop.ruralnet.or.jp/search_result.php?mode=detail&id=011706&b_no=01_454083021X

 結局、現代において、言語と差異とが矛盾する事態となっているのである。私は、以前、ポストモダンとは、言語からのズレのことを意味するのだと、戯れに、仲間に言ったものである。そう、このズレが、心身・精神性なのである。そして、これを、さらに、不連続化して、差異共振シナジー相の純粋なメディア界・メディア平面が発生しうるのである。
 問題は、どうやって、このズレを気づきさせるのか。ここに大きなポイントがあると言えよう。差異をどうやって、気づきさせるのか。これが、わかれば、精神意識革命が生起するのである。「こころ」と言われているものは、まだ、連続観念をもっているので、危険だと思う。ズレを不連続的単独化する必要があるのである。「犀の角のように唯独り歩め」。そして、このズレの心身性を、不連続化し、また、スピノザの能動的観念化する必要があると思うのである。つまり、差異・心身性という言語からのズレを不連続且つ能動的観念化すること、これで、不連続的差異論精神意識革命が発生するはずである。つまり、不連続的差異的能動的観念論である。これで、心身は、自我は、イデア界に達して、純粋メディア界・差異共振界を形成するのである。
 また、問題は、どうやって、言語とのズレ・差異を発生させるのかということがある。ここにすぐれた芸術の役割があるだろう。すぐれた芸術は、心身・精神・差異を賦活させるのである。バッハ芸術、シューベルト芸術、トルストイ芸術、芭蕉芸術、セザンヌ芸術、D.H.ロレンス芸術、等々である。また、すぐれた哲学もそうである。スピノザ哲学、ニーチェ哲学、フッサール哲学、ウスペンスキー哲学、仏教を含めた東洋哲学、他。精神的点火をもたらす芸術・哲学・思想・宗教が、すべてである。
 また、自然との単独的触れ合いが重要である。自然は、言語とのズレ・差異を、永遠に喚起するだろうから。
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2006年09月03日

東京父権的近代主義批判:一神教的父権主義日本と「縄文」的母権主義日本の分裂二重性の超克

東京父権的近代主義批判:一神教的父権主義日本と「縄文」的母権主義日本の分裂二重性の超克

テーマ:ポスト・ニッポン/太陽国ルネサンス

一つ日本社会における問題点を指摘すると、現代日本人の殺伐とした攻撃的な精神性は、上述した超越的同一性構造に拠るとは言えるものの、それだけでは、不十分だと考えられる。現代日本人、とりわけ、東京人の殺伐さは、近代的自我に拠るとは言え、極めて極端なものに思えるのである。つまり、差異の否定・排除・隠蔽の度合が極めて強く、病理的になっているのである。近代的自我そのものが、病的であるが、それが、徹底していると思うのである。近代的自我病理に、東京人が集団的に染まっているように思えるのである。そして、これは、日本人全体に感染するのである。
 この原因は、思うに、東京における生活の、過度の同一性自我意識にあると思う。一種過度の競争心であるが、病的な競争心である。己の差異を忘失しての病理的な競争心である。これが、どこから生まれたのか。つまり、ここには、個がないのである。単に、近代的自我が、個・差異・特異性を暴力的に排除している社会様態がここにはあるのである。
 この問題は、とても本質的な重要さをもっていると思う。何故、東京社会において、近代的自我意識が跋扈して、個・差異・特異性を攻撃的に否定・排除・隠蔽するのか。東京の問題点がある。これは、日本人の個・差異・特異性にも、当然、関係する重大の事柄である。何故、東京社会には、近代的自我、近代的合理主義、近代主義が、跋扈するのか。直観では、マインドコントロール・洗脳があると思う。また、何か、地方出身者の精神の有り様にも関係していると思う。現代、江戸っ子の精神がほぼ消えている。(漱石が『坊ちゃん』で問題化したのは、ここに何か関係するようにも思えるが。)
 とまれ、近代的自我として、攻撃的であること、マッチョ的であることが、東京において、ステータスの有り様となっているのだ。これは、一体どこから生まれたのか。私に言わせれば、このような無粋さ、野蛮さを価値としている起因は何であるのか。ひとことで言えば、ここには、父権主義がある。もっとも、近代的自我が、父権主義的である。いくら、民主主義云々と説いてもそうである。
 何か、東京社会には、根本的な倒錯があるのだ。それは、何か。父権主義と結びついた近代的自我である。これは、欧米の個人主義とは異なるのである。何故なら、欧米は、ルネサンスに発する個人主義・差異主義がベースにあるからである。他方、その反動としてのプロテスタンティズム的同一性自我ある図式である。日本の近代的自我には、このルネサンス的個人主義・差異主義が欠落している。ルネサンスとは、換言すると、母権的個人主義だと、私は考えている。そう、差異共振主義があると思うのである。日本、とりわけ、東京社会には、これが、欠落している。これは、いったい何なのか。狂気の社会なのである。
 考えられるのは、日本の父権主義と欧米の近代的自我主義とが結びついたものが、この東京近代的自我である。では、日本の父権主義とは何だろうか。私は、ここに、日本社会の元凶を見ている。西洋の近代主義も、狂気的ではあるが、日本の父権主義も狂気的である。狂気+狂気の、二重狂気である。私は、以前に、日本の父権的部族主義という考え方をした。これは、先には、豪族主義と呼んだ。(思うに、ヤクザ社会に共通する何かがあるのではないだろうか。)
 この父権的部族主義、豪族主義とは何か。また、病的な競争心とは何か。深い精神病理・社会病理・狂気の病巣がある。差異を徹底して憎悪して排除する「精神」が、東京社会を、支配している。差異への狂気的な憎悪、これは、何か。これが、東京、日本を、狂わせている元凶だと思う。
 ここでは、直観で述べよう。一つは、日本のナショナリズムがあると思う。国学から発するナショナリズムである。これは、連続・同一性主義であり、差異を排除している。一つは、・・・。
 そう、どうも、バビロニア神話他におけるような父権神話と同質の純粋な父権主義があるのではないだろうか。それは、言わば、純粋父権主義、絶対的父権主義である。二項対立暴力である。差異である母権主義を完全否定する父権主義である。どうも、これが、日本社会にあると思う。二年前に、日本の母権主義と父権主義の分裂的二重性について言及した。前者は、「縄文」文化であり、後者は、「天皇族」文化である。そして、これが、不連続であると私が、その時、考えたのである。つまり、差異と同一性との分裂があるということになるだろう。今考えても、日本の社会の歴史は、この母権的差異と父権的同一性の分裂的二重社会の歴史と言えよう。これは、現代においても、まったく変わらない。自民党/公明党は、これを利用しているのである。小泉/安倍自民党は、この二重性に立っているのである。

火焔土器

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Jomon_vessel_3000-2000BC.jpg

 ようやく、見え始めてきたようだ。思うに、日本社会には、ユダヤ・キリスト教と共通するような父権主義をもつ部族(「天孫降臨族」)がある時代に到来して、伝統的であった母権的社会(「縄文」的母権社会)を支配するようになった。しかし、その支配のために、後者の宗教文化を前者は利用したのである。それが、「天皇制」である。「天皇(日御子)」信仰とは、本来、イシス・オシリス宗教、聖母子・聖母マリア信仰、等に通ずる宗教であると考えられる。それを、父権主義が利用して、天皇制に祭り上げたのである。原日本人は、「天孫降臨」父権民族に、いわば、騙されているのである。この構図は、現代の自民党/公明党支配でも、まったく、変わらないと考えられるのである。

王冠型土器

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Oukankeidoki.jpg

 ということで、私が問題にした、日本の父権主義、父権的部族主義とは、純粋・絶対父権主義であったという仮説になったのである。(もっとも、今の段階では、作業仮説であるが。)つまり、ユダヤ・キリスト教的一神教的父権的民族が、古代日本に到来して、強力な父権主義を、世界的に稀な母権社会である日本に、分裂的にもたらしたのである。これが、日本社会の、日本人の、本質的構図・構造であると考えられる。

遮光器型土偶

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:JomonStatue.JPG

 だから、日本近代とは、きわめて、異常な社会なのである。つまり、欧米の父権的近代主義と日本の父権主義を合わせたものであるからである。過剰な父権主義がここには存しているのである。私が、近代的自我の狂気と考えたもの正体がこれである。結局、ハイパー父権主義、ハイパーな近代主義が、現代日本、東京に存しているのである。私が、東京社会の病的な競争心と見たものの根因とはここにあったと考えられるのである。日本的ユダヤ・キリスト教的父権狂気なのである。それがベースとなり、ルネサンス的個人主義、母権的差異主義を除いた、西洋近代的自我が形成されているのである。
エウレカ!!!


注:本稿は「イデア・共振シナジーと歓喜:極性シナジーと能動/反動」http://ameblo.jp/renshi/entry-10016573185.html
の後記p.p.s.を独立させたものです。
posted by ソフィオロジスト at 19:42| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月30日

連続・同一性自我は、何故、全体主義的になるのか:自我絶対的暴力とは内在超越的暴力・狂気である。

連続・同一性自我は、何故、全体主義的になるのか:自我絶対的暴力とは内在超越的暴力・狂気である。
テーマ:差異と同一性
これについては、ある意味では、検討済みではあるが、ここで、明確にしたい。
 連続・同一性自我・近代的自我は、差異・他者を否定・排除する。この否定・排除の暴力の度合いが問題なのである。狂気の暴力である。凶暴性があるのであるが、これは、全体主義的なのである。つまり、自我絶対的なのである。そう、これを問題にしたいのである。自我絶対的な暴力が、ここにはあるのである。この自我絶対的暴力の絶対性がどこから発しているのかである。父権暴力と言ってもいい。アメリカ国家暴力と言ってもいい。
 これは、根本から考えなくてはならない。即ち、極性エネルギーにおいて、プラス・エネルギーが連続・同一性志向性となると、これまで、考えてきた(仮説)。プラス・エネルギーが連続・同一性自我、換言すると、近代的自我を形成すると言える。すると、同一性自我・近代的自我とは、本来、超越的であるのがわかる。つまり、超越次元、コスモス次元から発動しているのであるから。この典型が、ヤハウェである。ヤハウェが、プラス・エネルギーによる連続・同一性自我の典型的表現だと考えられよう。超越神となるのは、正しいのである。不連続的差異論で言うメディア界という内在超越(超越論)界から発しているからである。そう、同一性自我暴力とは、言わば、内在超越的暴力であり、神的暴力なのである。私は、近代的自我を狂気と呼んできたが、ここから見ると、その狂気とは、内在超越的暴力であると解明できるのである。

ancient days

 これで、ようやく、この問題に、究極的に結論が出たような感じがある。近代的自我・近代合理主義について、これまで、おそらく、何百回と議論してきて、それなりに解明を試みてきた。これまでの、結論は、複合的なもので、粗差異とプラス・エネルギーの複合と見てきたのである。これは、これなりに正しいのであるが、ここでの究明によって、これが、内在超越次元の暴力狂気であることが明確になったのである。神的狂気、一神教的狂気、ヤハウェ的狂気ということになったのである。
 近代的自我の暴力・狂気とは、内在超越的・父権一神教的・ヤハウェ的狂気なのである。形而上学的暴力・狂気なのである。近代主義とは、明確に、形而上学的なのである。そう、だから、近代的自我の問題は、通常の理性・知性では解決しないのである。形而上学的事象なので、形而上学的解決が必要なのである。そう、結局、近代主義を形而上学的に解明する必要があるのである。そして、これは、新イデア論である不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論によってこそ、なされ得るのである。なぜなら、現代において、形而上学ないし哲学は、ほぼ壊滅状態であり、近代主義・近代的自我・近代合理主義を、批判的超克ができないからである。

p.s. これで、小泉首相の「狂気」も完璧に説明できるだろう。

p.p.s. 資本主義批判も、この根底から為され得るだろう。交換価値=貨幣経済とは、やはり、この形而上学・内在超越構造(ほぼ、カントの超越論的形式、あるいは、構造主義の構造に相当する)から発しているのであり、この構造を解体しない限り、暴力を振るうと言えよう。結局、資本主義は、この内在超越的暴力・狂気と結びついているのである。この内在超越的連続・同一性構造の脱構造化・解体・「脱構築」が必須である。これによって、差異共振シナジー経済・ポスト資本主義が可能となると考えられるのである。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論が、この革命をもたらすだろう。内在超越論的連続・同一性自我=近代的自我の解体なくして、人類の未来はないだろう。ポスト近代的自我としての差異共振シナジー自我への変容が必須である。人類進化の黎明が、これで、もたらされるだろう。

注:画像The Ancient of Days by William Blakeは、以下からのものです。
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/blake/
WebMuseum
Blake, William
© 14 Oct 2002, Nicolas Pioch - Top - Up - Info
posted by ソフィオロジスト at 03:17| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月18日

資本主義の問題点:投資中心主義批判:投資-復資極性経済:双極資本主義へ向けて

炊事をしているが、誰でもやる人は分かると思うが、後片づけ、汚れた食器を洗う作業が面倒でたいへんなのである。これは、単に物理的な負担だけでなく、精神的負担もある。
 そんなことをいつも感じているのだが、ふと、これは、経済、資本主義に適用できる視点ではないかと思ったのである。つまり、資本主義は、創造的投資を行い、利益を拡大する指向をもつ。これは、いわば、創造的破壊である。そう、投資で、創造するのである。新しい製品、産業、施設、建物、等々を生み出す。しかし、これは、炊事で言えば、おかずを作る、料理するの産出側面であるが、しかしながら、後片づけの側面が欠落しているのである。そう、さまざまなゴミも出るのである。
 これを理論化すると、前者は排他的形成であり、当然、排除されたものがあるのである。つまり、産物と非産物の二元論がここには生じているのである。そして、前者に関心が集中して、後者は無視されるのである。しかし、ゴミが出るし、食器は汚れるのであるから、ゴミを捨てないといけないし、食器を洗い、テーブルをきれいに拭かないといけないし、等の、回帰の側面が必要なのである。これは、「生産」ではなくて、いわば、再構築の側面である。だから、炊事に関して言えば、構築/再構築の極性力学があるのである。極性ダイナミクスである。
 これは、少し考えれば、自然の律動的営為である。つまり、生死の循環である。そう、循環・回帰運動である。サイクルである。私の言いたいことは、リサイクルなのかと言えば、理念的にはそうである。しかし、いわゆる、リサイクルではないことはお分かりになるだろう。通常のリサイクルは、ゴミ、他に限定されるからである。
 私の考えているリサイクルは、経済全体におけるそれである。生産と消費が対にされて論じられるが、それは、私がここで言う極性にはあてはまらない。炊事の視点から見ると、生産と消費は同じ極に属するのである。つまり、生産・消費には、再構築の極・視点が欠落しているのである。生産・消費は構築極なのである。すると、当然、破壊が生じているのである。極性論から言うと、それに見合う再構築・再創造の営為が必要なのである。だから、生産・消費という破壊的創造の経済に対して、再構築・再創造の経済が必要であるということである。
 ここで、資本主義を考えると、それは、自明的に前者である。いわゆる、リサイクルは、前者の枠組みのものに限定されていると言えるだろう。
 ということで、炊事の視点・極性力学から見ると、対資本主義経済が必要である。資本主義をプラス経済とすると、マイナス経済が必要なのである。そして、結局、根本的には、極性経済が必要であるということになるのである。これは、ポスト資本主義であろう。
 では、どうすれば、いいのだろうか。思うに、現在の構築資本を、再構築資本を含む極性資本にすれば、いいのではないだろうか。投資に対する再構築資本が必要とされよう。これは、投資ではなくて、戻資(れいし)、返資(へんし)、復資(ふくし)、元資(げんし)、等である。とりあえず、復資と呼ぶ。結局、投資と復資の極性をもつ経済が必要であると言うことである。極性経済であるが、投資と復資の極性を考えて、極性資本主義ないし双極資本主義と呼べよう。
 後でさらに検討したい。
posted by ソフィオロジスト at 10:57| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月10日

新しい境界へ向けて:差異共振精神界と連続・同一性現象界

新しい境界へ向けて:差異共振精神界と連続・同一性現象界
テーマ:PLATONIC SYNERGY
差異共振コスモスが現象界の根源としてあるし、それは、人間や自然の内在超越次元として潜在していると考えられる。「心」とか、「倫理」、「道徳」は、ここから発して、意識合理化されたものだろう。そう、自然道徳とはあるだろうか。これは微妙である。原道徳・原倫理は、自然発生的であろうが、自然だけでは、道徳・倫理とはならないだろう。そこには、個の意志・意識・認識・知の介入が必要だろう。そう、理念化が必要だろう。精神化である。精神の起源は、自然にあるが、それを、理念化するには、知性が必要である。これが、「人間」の基本であろう。
 思うに、差異共振性だけで、倫理・道徳・精神が生まれるだろうか。否、こう言ってもいい。差異共振性は、倫理・道徳・精神である。しかし、人類の自然過程から、連続・同一性=「無明」・「マーヤー」化が発生して、自我が誕生する。これは、連続・同一性の意識であるから、潜在・内在超越する差異共振性は、連続・同一性化=反動化されるのである。だから、自然発生的には、道徳・倫理はありえないのである。脱連続・同一性=脱自我化したときに、差異共振性=倫理・道徳が生起すると言えよう。経験・教養・知性から、道徳・倫理が生まれるのである。(少女・少年には、道徳・倫理はないのである。現代日本人の大半は、少女・少年並みだろう。参考:『蝿の王』W.ゴールディング作)
 とまれ、私が言いたいのは、以上のことではなくて、差異共振コスモス性と連続・同一性現象性との関係のことである。結局、善とは前者であり、悪とは後者である。(この点で、グノーシス主義は正鵠を射ているだろう。ただし、その二元論は、間違っているとと考えられる。後で、検討したい。)
 問題は、欲望である。差異共振性とは欲望であるのか。あるいは、精神は欲望であるのか。そう、精神も欲望になりうる。上述したように、自我と結びつくと、欲望になる。例えば、「摂理」のように。現象界において、精神は、自我欲望化されているのである。(だから、ほとんどの宗教が胡散臭いのである。カルト化は後一歩であろう。)
 純粋な差異共振性=精神は、欲望ではない。しかし、現象界に生きる生物・生命体として、人間は、欲望に駆動されて生きているのである。他の生物を殺して、生きるのである。あるいは、他の人間の生命・生活・富を奪って生きるのである。餓鬼である。釈迦牟尼は、二千数百年前にこれを直観洞察した。大変に深い、畏るべき直観洞察力である。
 とまれ、生きる上で、差異共振性と欲望を調和させることが「正義」であろう。(ここから、新自由主義批判が出る。)思うに、古代人は、前者を神として、後者をこの世として、捉えて、両者に境界を置いたのではなかっただろうか。結界という発想がそうだろうし、あの世とこの世という二元論もそうだろう。(参考:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%95%8C

近代主義世界観は、この「正義」の実現に失敗した。確かに、民主主義的理念があり、自由主義・個人主義・資本主義理念がある。しかし、両者、精神と欲望は、調和せずに、後者が前者を蹂躙しているのが現状・実情である。だから、私は、新たな境界が必要ではないのか思ったのである。両者の境界が確定していないために、後者が前者を蹂躙すると考えられるのである。
 では、新しい境界とはどういうことなのだろうか。ここで、もう少し、連続・同一性現象=欲望の構造について考えよう。これは、五感の欲望構造から発しているだろう。つまり、同一性の欲望である。五感で知覚したものを欲望するメカニズムが、現象界にはあるだろう。おいしい食べ物がある。それを見て食欲が湧く。それを欲しいと思う。そのたえには、買うか、盗むかである。そして、後者は、犯罪であるから、止めて、前者を選ぶとすると、その反復のために、貯蓄が必要である。これは、同一性の蓄積である。おそらく、貯蓄には、同一性の理念がある。つまり、同一性の構造である。これは、カントの超越論的形式と等価であろう。つまり、欲望構造形式である。おそらく、ここにゲシュタルトが存している。原型である。例えば、花を見て、美しいと感じるが、その花のゲシュタルトが、ここにあるだろう。性欲のゲシュタルトもここにあるだろう。
 不連続的差異論から言うと、メディア/現象境界の現象面にこの欲望構造=ゲシュタルトがあることになる。つまり、連続・同一性現象欲望原型構造である。(思うに、唯識論の阿頼耶識とは、ここに存するのではないだろうか。また、精神分析の無意識もここのことを言っているのではないだろうか。精神分析の無意識は浅いのである。)有り体に言えば、色欲・無明・自我・無知・戦争の構造である。(プラトン哲学や仏教、等は、ここから脱却するための叡知を説いてきた。)自然過程では、ここに陥るのである。
 結局、精神と現象とのバランスをどうとるのかである。現代は近代唯物論のために、精神が物質の派生物のように思われている。結局、近代主義は、二元論であるが、唯物論的二元論で、帰結的に、物質一元論である。そのために、本当の二元論が喪失されていると言えよう。精神と現象との二元論の喪失なのである。この二元論があれば、新たな境界が可能となるだろう。そして、このためには、新プラトン・ルネサンス=新イデア論が必要であると考えられるのである。正確に言うと、イデア論は、イデア一元論である。しかし、これは、精神と現象との二元論を発生させると言えよう。しかし、精神/現象の二元論とは、実は、内在超越論のことである。だから、二元論というのは、一種議論の都合のことである。
 結局、新イデア論(プラトニック・シナジー理論・PS理論)によって、精神と現象との二元論が発生して、新たな境界が生まれるだろう。差異共振性という精神と連続・同一性である現象との境界である。
 そうすると、どういうことになるだろう。それは、前者と後者との別々の構築が必要であるということになるだろう。差異共振世界の構築であり、連続・同一性世界の構築である。そして、前者が主となり、後者が従となるだろう。精神主現象従である。この主従の二元論が必要なのである。
 では、具体的にはどうなるのだろうか。それは、差異共振生活と現象生活との共立であろう。現代は、後者中心で、前者が損なわれているのである。というか、否定・排除・隠蔽されているのである。生涯教育というのは、前者になるのである。しかし、資本主義生活は、後者中心で、前者が欠落しているのである。思うに、資本主義の富を前者のために活用する必要があるのである。つまり、精神社会のために富を消費するのである。能動的消費である。このためには、知のコペルニクス的転回・パラダイム転換が必要である。新プラトン・ルネサンスである。新イデア論の顕現である。
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2006年08月05日

差異共振界と現象界の関係構造に関する一試論

差異共振界と現象界の関係構造に関する一試論
テーマ:新イデア・共振シナジー理論
差異共振シナジー界が現象化するのであり、この現象界において、多様な物体が運動したり、生成消滅したりしているのである。この現象時空間の、これらの運動や生成は一体どういう構造をもっているのだろうか。
 差異共振界は差異と差異が零度即非的な連結をしているのであるが、このとき、エネルゲイアが発生する。差異と差異との共振エネルゲイアである。これが、現象化して、運動や生成となるのだろう。
 問題は、次元である。差異共振界の何次元だろうか。それを、思考実験的に、二次元ないし三次元としよう。ところで、元々、差異は何次元をもっているのか。最初はX軸で一次元のように思えるが、ガウス平面をイデア界とすると、二次元である。複素平面的二次元である。ならば、差異共振界(メディア界)は、垂直に捩れるので、三次元である。XYZ三次元である。
 この差異共振三次元が、コスモスである。実際のところ、共振軸であるY軸が不可視になっているのではないだろうか。つまり、XZ平面が現象面になっているのではないだろうか。(因みに、ドゥルーズ&ガタリの内在平面ないし存立・共立平面とは、YZ平面ではないだろうか。)
 そして、現象界時空四次元であるが、それは、第四の軸・F軸が生起するのである。それで、空間三次元となる。時間軸は、ほぼ、Y軸と見ていいだろう。(今の私見では、時間軸は、仮構の軸だと思う。Y軸は共振軸と考えるのがいいと思われるのであるが。p.s. 時間軸であるが、やはり、仮象(虚構)軸のように思えるのである。思うに、Z軸において、時間と空間の同一性が形成されるように思えるのである。つまり、時間と空間は対になっていると思うのである。)即ち、XZFの三次元空間である。
 F軸をどう考えたらいいのだろうか。Z軸が現象面軸ならば、F軸は現象同一性軸ではないだろうか。なぜなら、Z軸は、差異共振界の縁・周辺であるからである。つまり、メディア/現象境界なのである。
 これで、XZFの現象三次元空間が考えられた。この三次元空間で、「わたし」Aが原点(0,0,0)に居るとして、他者Bが、(0,0,1)の座標に居て、速度αで、X軸と平行に+の方向に移動しているとしよう。時間をt とすると、t 時間後には、他者Bは、(αt、0,1)の位置に移動していることになる。
 では、「わたし」Aと他者Bの差異共振界の「位置」について考えよう。Z軸から垂直に捩れて、F軸が発生すると考えると、他者Bは、元々は、Z軸上に存した。即ち、他者Bは、(0,1)にあった。Y軸を入れると、(0,0,1)である。あるいは、共振軸を位置を考えると、(0,1,0)に存してたと居えよう。さらに、イデア軸(X軸・実軸)上の位置を考えると、(1,0,0)に存したと言えるだろう。
 とまれ、差異共振界での事象を考えると、Y軸上の「わたし」Aと他者Bは、零度共振して、AとBの極性化ないし即非化が生じる。そして、Z軸上でのAとBとは、同一性のAとBとの関係である。おそらく、Y軸を、イデア/メディア境界、Z軸をメディア/現象境界と言えるだろう。そして、YZ平面が、メディア平面・共振シナジー平面である。
 しかしながら、Z軸上のAとBは完全に二元論的に分離しているわけではないだろう。なぜなら、それは、差異共振界の現象界に対する境界・縁にあるから、いわば、共振性を潜在させているだろうからである。
 では、現象界でのBの移動とは何か。それは、それほど、重要な問題ではないだろう。なぜなら、それは、単純に、現象界でのBの移動に過ぎないからである。現象三次元空間ないし四次元時空間での移動に過ぎないのである。そう、問題は、移動の原動力である。例えば、車で移動したという場合は、ガソリンの燃焼が、運動力に変換されて、移動したのであるから、燃焼によるエネルギーや力が問題であある。しかし、これも、同様に重要な問題ではないだろう。
 結局、現象界での、AとBとの関係が重要である。Bが、X軸と平行に移動したとしても、AとBとは、共振性を潜在させていると見ることができるのではないだろうか。XZFの現象三次元空間ないし四次元時空間においても、存在は、共振性を潜在させていると推測されるのである。つまり、Y軸・共振軸・コスモス軸・精神軸を潜在させていると思うのである。あるいは、YZ平面ないしXYZ立体を潜在させていると。
 【ここで、ついでながら言うと、これは思考実験であるが、XYZ座標において、メディア球が発生しているのではないだろうかと思われるのである。あるいは、共振シナジー球と呼べるように思えるのである。つまり、例えば、XYZ座標で言えば、(1,0,0)は、1/4回転で、((0,1,0)となり、また、垂直化して、(0,0,1)と「回転」する。この移動が瞬間的、無時間的なように思えるのである。つまり、(1,0,0)と(0,0,1)が同時生起するということである。そして、これは、メディア球ないしメディア球面(シナジー球ないしシナジー球面)のどこ位置でも同様なように思えるのである。つまり、この球面においては完全に非局所性が成立しているのである。量子力学の非局所性とは、この球面上の同時存在性を指しているのではないだろうか。】
 結局、現象次元XZF空間は、XYZ次元を潜在させていると言えるのではないだろうか。もっと明快に言えば、Y次元である。結局、これを幾何学的にどう捉えるのだろうか。思うに、現象三次元空間に、虚空間・虚次元を加えればいいのではないだろうか。そう、正に、虚軸としてのY軸である。これで、四次元時空間が考えられるのである。

p.s. 最後の問題は、正しく答えられていない。現象三次元空間ないし現象四次元時空間に対して、虚次元であるY軸、Y次元は、具体的にどのように位置しているのかという問題が残っているのである。
 先には、内在超越的に、垂直に捩れた次元にあるとは述べた。結局、Y次元の潜在のあり方である。
 有り体に言えば、Y次元とは、「心」ないし「精神」の次元である。つまり、「わたし」の「心」・「精神」の次元が、Y次元である。これは、幾何学的にはどういうことなのだろうか。XZFの現象次元において、「心」・「精神」の次元はどこに位置するのだろうか。それは、感覚的に言えば、現象面ないし現象界の「背後」に存するのではないだろうか。例えば、今、「わたし」は眼前にこんもりとして木立を見ているとすると、そのこんもりとした木立の「背後」に、「精神」の次元があることになる。正確に言えば、こんもりとした木立の内在超越次元に潜在していることになる。あるいは、重層的に、折り畳まれているというように言えるのかもしれない。
 今、ふと思ったのであるが、「わたし」という視点は、重層化した視点ではないかということである。「わたし」は、空間三次元を占めるだけでなく、精神次元も占めているのである。つまり、XZF三次元に「わたし」が位置するだけでなく、この位置において、同時に、精神次元Y次元を併存させているということである。スピノザ哲学的である。延長の属性と思惟の属性の心身平行論である。そう、確かに、延長三次元に併存して思惟一次元があるように思える。両者が重なっていると考えられるのである。この延長と思惟(空間と精神)の平行的二重性を、どう見るのかである。
 私見では、身体空間に精神が存するのである。つまり、三次元空間を占める身体に精神が内在しているのである。つまり、身体次元が精神次元であるということになる。ここで、空間と身体とを区別する必要があるだろう。空間次元にある身体次元は、同時に、精神次元を内包しているということである。これは、デカルトは当然ながらも、スピノザが考えなかった視点である。
 空間にある身体とは何かということになるだろう。これは点ではありえない。身体は、身体で、三次元空間であると同時に、精神次元である。これは、内在超越次元である。思うに、知覚次元において、三次元空間を想定するのであるが、知覚次元は、同時に、精神次元を内包しているだろう。ということは、知覚次元自体が、三次元空間+精神次元を内包しているということである。この知覚次元から三次元空間を抽象しているのである。そして、その空間抽象から、精神次元が捨象されているわけである。近代主義二元論的抽象である。
 知覚次元ないし知覚コスモスがあるのであり、ここを出発点にすべきであろう。知覚現象があるが、ここに、三次元空間と精神次元が、いわば、融合している、一如であるのである。そう、知覚現象次元とは、差異/同一性共存次元ではないだろうか。つまり、差異共振次元ではないだろうか。ただし、現象的側面が強いのである。即ち、知覚現象次元とは、YZ平面内在的Z軸的である。否、簡単に、YZ平面次元と言ってもいいのかもしれない。というか、知覚現象次元とは、XYZ次元であり、それにXZF次元が折り畳まれている言えるのかもしれない。つまり、知覚現象次元とは、XYZF四次元であり、空間現象的には、XZF三次元を知覚しているのであり、そこには、Y次元が不可視であるが、身体/精神的には、Y次元は直覚できているということではないだろうか。Y次元が、フッサールの超越論的主観性ないし間主観性の次元にほぼ相当するのではないだろうか。というか、XYZF四次元・知覚現象次元が、超越論的主観性・間主観性ではないだろうか。
 とまれ、近代主義は、知覚現象次元を、空間三次元/精神次元、延長/思惟、客体/主体という形式で、絶対的に二元論化してしまい、前者を唯物論化し、さらに、後者をも唯物論で説明しようとしているということである。プロトモダンの知覚現象次元を回復する必要があるのである。ここに哲学・科学認識論上の大問題であると言えよう。これは、当然、生活はもとより、芸術・文化の問題でもある。
 結局、知覚現象次元とは、本来、空間次元と精神次元とが即非的な現象次元であることであり、近代主義的な二元論化は、一つの見方に過ぎないということである。
 だから、空間次元は、精神次元を内包しているのであり、また、精神次元も空間次元を内包しているという、相補性の関係があるだろう。即非・極性関係である。これを、精神・空間極性関係と、とりあえず、呼ぼう(即非関係、相補関係等呼べるだろう)。だから、空間三次元は単なる抽象であり、実際からは離れているのである。(カントの超越論的形式という主観形式論であるが、それも、おかしいだろう。それは、近代主義化した知覚現象次元を前提とした考えであるからである。)思うに、知覚現象とは空間・精神現象、あるいは、時空間・精神現象である。(どうも、空間・精神現象と呼ぶ方が的確のように思えるのである。なぜなら、時間とは、精神の展開のように思えるからである。だから、空間・精神時間現象となろう。)
 だから、知覚現象を次元化するのは、本当は、微妙な難しいことである。とまれ、次元化すると、空間軸と精神時間軸が、少なくとも必要になるだろう。空間三次元軸と精神時間一次元軸である。そして、後者は、内在超越軸であろう。前者は、表面軸である。知覚現象の空間表面の三次元軸と、内在超越一次元軸との、四次元軸が必要であることになる。内在超越次元である精神時間次元であるが、それは、確かに、第四次元となるのではあるが、空間表象はできないのではないだろうか。数学的には、虚次元、虚軸であろう。つまり、三つの実軸(空間三次元)と一つの虚軸(時間軸:正確には、精神時間軸)による四次元時空間ではないだろうか。おそらく、三つの実軸は、複素平面を内在超越的に内包していることになるだろう。つまり、複素平面が共通になるだろう。そして、複素平面が、精神時間次元である。空間実軸三次元+精神時間虚軸一次元の知覚現象四次元である。差異共振シナジー界を考えると、当然、それは、精神時間虚軸一次元が基軸になるだろう。これが、コスモスの基軸である。
 思うに、近代というエポックは複雑化していて、本来、ルネサンスのプロトモダンが原点としてあるが、プロテスタンティズム/近代合理主義的反動によって、近代主義となる。そして、それへの反動として、ロマン主義、神秘学、生の哲学、現象学、実存主義、構造主義、等々が生まれたのである。しかし、プロトモダンは、もともと、空間/精神時間現象を対象としていたのである。即ち、新たな差異の発動、差異共振シナジーのエネルゲイアが発現する知覚現象が主体であったと考えられるのである。
 ここで、最後に付け加えると、現象、生命、人間を考えると、それらは、正に、空間/精神時間現象である。物質とは、その現象を、空間・時間同一性形式で切り取った、抽象化したものと考えられるのである。空間/精神時間現象を認識しないといけない。それは、差異共振シナジー的空間・精神時間現象である。現象を唯物論から救済しないといけない。差異共振シナジー現象として現象を把捉しないといけないのである。差異共振シナジー事象が、同時に、精神時間虚次元であり、空間三次元であるのであり、両者は即非・極性・相補関係にあると考えられるのである。
 結局、新プラトン・シナジー理論は、不連続的差異イデア論という新たなイデア論によって、現今の唯物論的自然科学を超克する新しいイデア論的サイエンスを提起していると言えるだろう。
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2006年08月03日

近代的自我と差異:同一性志向性・投影による主客分化現象化

近代的自我と差異:同一性志向性・投影による主客分化現象化
テーマ:差異と同一性
差異を否定・排除する近代的自我は、差異を差異として見ずに、差異に同一性を当てているのであるが、逆に言えば、差異の存在は前提となっているのである。差異の存在を、否定・排除したいので、同一性を押し付ける(暴力)のである。だから、近代的自我は、同一性の脅迫観念をもっていることになる。カント哲学で言えば、物自体を否定・排除する超越論的形式の自我である。物自体は前提であるが、それを、否定・排除するのである。弁証法的自我である。
 物自体とは、差異共振シナジー世界(=メディア界)である。これを同一性で占めよう(「占領」しよう)とするのは、エゴイズム、暴力、権力であるが、アイロニカルに、同一性は、差異の位置に同一化しているのである。つまり、同一性は、差異を否定・排除する正にその時に差異の位置に同一化していると考えられるのである。だから、差異否定・排除(・隠蔽)とは、差異への譲歩の面があると言えるだろう。同一性は同一性だけでは成立しないのである。差異の位置を同一性が占めることで、同一性を確認するのである。もし、同一性自体に自律的な意味があるならば、それは、差異の位置を占める必要はないはずである。差異は差異、同一性は同一性であるからである。
 ということは、とりもなおさず、同一性がいかがわしいものであることを証するだろう。同一性の母体・基礎・基盤は、差異なのであると言えるだろう。差異の変形としての同一性であり、この出自を見えなくさせるために、差異の位置を占めるのだろう。差異は脅威なのである。
 思うに、この差異の位置の僭越的占領とは、現象の見えに関わっているように見えるのである。同一性が同一性にこだわるのは、現象的見え(=見栄)のためだと思われるのである。つまり、現象的見えと同一化しているために、自我は、差異を否定・排除するのである。つまり、本来、主体の投影である現象(客体現象)と、自我は同一化しているのであり、この現象同一性化が中心となり、差異を否定・排除するのである。ここで、ラカンの精神分析の鏡像段階を想起するのであるが、現象の見え(視覚的現象)に同一化する主体がここにはあるだろう。ここでは、転倒があるのである。フッサール哲学的に言えば、ノエマを、現象的見えに変換しているのである。本来、「心象」であるものを、外界化しているのである。ここには、ノエマを、「外界」へと同一性化的に投影している主体があるのである。
 問題は、この投影する主体である。内的視覚像(ヴィジョン?、イデア?)を投影=「外界」・「客体」・「対象」化する主体の問題である。この投影「事象」の力学構造が問題である。本来、差異、差異共振性とともにある同一性=内的視覚像であるはずであるが、それが、「外界」化されるのである。おそらく、「外界」とは、仮想・仮構・虚構的仮象なのである。正に、プラトンの洞窟の比喩における洞窟のスクリーンである。「外界」とは影絵であり、本体は、光の前の「人形」である。この比喩を継続すれば、光とは、差異共振シナジーであり、人形とは、内的視覚像・心象・ノエマであろう。
 投影「事象」が問題なのである。それは、本来の光源を忘却して、内的ヴィジョンを「外的」ヴィジョンと錯誤することである。これは、いったい何が原因なのか。そもそも、「内的」という考え方も、本来的ではない。それは、内部と外部の分離によって形成される見方であるからである。内と外との分離の発生が、根源の問題である。
 新プラトン・シナジー理論(以下、プラトン・シナジー理論)に拠れば、零度差異共振シナジー世界の発生によって、原現象が生起したと考えられる。差異1と差異2とが零度共振して、連結するのである。差異が本来もっているノエシス/ノエマは、このとき、対自化される。即ち、差異1のノエシス1/ノエマ1と差異2のノエシス2/ノエマ2とが共振して、ノエマ1には、差異2が反映・反照されると言えよう。そう、問題の核心は、この差異零度共振における反映・反照である。この反映・反照は、即自的なノエマとは異なり、明らかに、対自的なノエマとなっているのである。この対自的ノエマを、連続・同一性化することが、投影ではないか。零度差異共振世界(=メディア界)において、差異共振シナジーによって、ノエマが相互に対自化される。この対自的ノエマの連結体として、差異共振シナジー世界があるだろう。
 思うに、ここにおいて、原内部/原外部の区分が発生しているのではないだろうか。即自的ノエマと対自的ノエマの「差異」がある。前者が原内部となり、後者が原外部となるのではないだろうか。しかしながら、差異共振反映においては、内部/外部の分化はない。しかし、連続・同一性過程になると、対自的ノエマ=共振反映が、同一性化されるようになる。差異共振シナジー様相に過ぎないものが、連続・同一性として、仮現・仮象するのである。差異共振シナジー様相とは、「光」とともにある対自的ノエマの様相であろう。「光」と、「影」としての対自的ノエマが共立しているのだろう。「光」が背景で、「影」が原現象と言ってもいいかもしれない。ここでは、まだ、内外分離はない。連続・同一性の過程に入ることで、それが始まると言えよう。
 問題は、「光」とともにある差異共振像(対自的ノエマ)、「光」と「影」との相補的原像が、内外・主客分離するという「力学」である。ここで、ヘーゲルの疎外という用語が想起される。確かに、ここでは、なんらかの疎外が生起するだろう。連続・同一性過程は、差異共振像を排斥するようになる。即ち、対自的ノエマ・差異共振像が、連続・同一性にとり、否定・排除される対象となると考えられる。
 では、連続・同一性とはどうやって発生するのだろうか。何だろうか。その構造は何なのだろうか。差異1=差異2の等号が連続・同一性であると言える。ここで、即非の論理を考えると、差異1=差異2且つ差異1≠差異2であるが、後者の≠が喪失されるのが、連続・同一性事象であると言えよう。換言すると、即非の論理の事象、即ち、差異共振事象の内の、差異不等号性が消去されて、差異が等号化される。即ち、差異共振性自体が、いわば、差異連続・同一性に変換されると言えよう。差異連続・同一性とは、数学で言えば、微分のことである。差異=微分のことである。これは、同一性暴力である。
 さて、この差異連続・同一性が差異共振性を否定・排除・隠蔽するのであるが、冒頭でも述べたが、前者は、後者の位置を占めているのである。つまり、ノエマ、対自的ノエマの位置を、差異連続・同一性は占めているのである。本来、差異、差異共振性である事象を、差異連続・同一性として、錯誤するのである。
 では、差異連続・同一性は、対自的ノエマの位置にあるのであるが、仮象としては、どういうように見える(現象する)のであろうか。差異共振事象とは他者である差異への志向性的共振性である。しかし、差異連続・同一性とは、差異志向性を消去して、いわば、同一性志向性へと変換すると言えないだろうか。そう、作業仮説しよう。換言すれば、差異共振性を同一性志向性へと変換することである。思うに、この同一性志向性が投影ではないだろうか。差異連続・同一性が差異の位置を占めるのであるが、この「占領」が、同一性志向性ではないだろうか。差異連続・同一性が差異自体へと投影する同一性志向性、これが、外界や内界の分離・分化を発生しているのではないのか。図式化すれば、

A. 差異連続同一性→B. 差異自体

この→が、同一性志向性、同一性投影であり、ここで、AからBへの同一性投影が、現象化ではないだろうか。つまり、Aが内界・内部・主体であり、Bが外界・外部・客体へと転換するのではないだろうか。つまり、同一性志向性・投影が主客二元論的現象(仮象)を発生させるのではないだろうか。これも作業仮説としよう。そして、この徹底化というか、物質主義的徹底化が、近代的合理主義だと考えられよう。
 そして、この同一性志向性・投影による現象化が、時空間世界の仮象化である。さらに、作業仮説であるが、同一性志向性・投影が、時空間形式構造、即ち、カントの超越論的形式構造ではないだろうか。そして、これが、アインシュタインの相対性理論の光速度一定の公理に結晶しているのではないだろうか。簡単に言えば、同一性構造形式が、光速度一定ということである。また、E=mc^2 とは、同一性志向性・投影のもつエネルギー公式ではないだろうか。(ここで、ヌース理論を想起するが、それは、まったくの同一性現象を説明しようとしている理論もどきであり、差異自体をまったく排除している。だから、やはり、ヘーゲル主義なのである。国家主義=全体主義・ファシズムなのである。また、イデア論ではありえない。なぜなら、同一性=物質が単位であるからである。似非イデア論であり、唯物論である。ヌースは物質のことである。だから、ヌース理論とは、大変な食わせ物である。詐欺・ペテンである。物質をヌースと呼んでいる思想・哲学的詐欺・ペテンである。哲学的には、追放されるべきであるし、また、自然科学的にも、問題があるだろう。半田氏に一番欠落しているものは、物事の基本的定義や意味である。これを完全無視しているので、不合理・非合理・妄想・狂気に陥っているのである。たとえば、水は液体である。液体は、流動的である。これが、意味である。半田氏は、水という現象を、イデア自体と考えているのである。水はイデア・シナジー事象ではあるが、イデア自体ではないのである。)
 ということで、差異連続・同一性志向性・投影の構造形式が主客二元論の「現象」を仮現していることがわかったとしよう。では、次の問題は、やはり、「光」の問題である。同一性志向性・投影は「光」の「現象」を生むのであるから。端的に言えば、差異共振性と「光」の関係が問題である。
 差異共振シナジー事象は「光」事象であるが、それは、いわば、原光事象であろう。差異共振シナジーは原光事象である。それを差異連続・同一性が光現象に変換するのではないだろうか。即ち、差異共振シナジー事象は原光事象そのものであり、差異は共振して、原光事象となっていると考えられるだろう。このときの、いわば、共振的ノエマが「影」であるが、これは、いわば、「光」=原光の中の「影」であろう。
 とまれ、問題は、原光と光の関係である。差異共振志向性が原光であるとすれば、同一性志向性が光である。換言すると、差異の光と同一性の光があるのである。太極の光と連続・同一性の光である。プラトンの光とニュートンの光である。無限速度の光と有限速度の光である。前時空間の光と時空間の光である。
 ここで整理すると、時間とは、同一性志向性エネルギーのことであり、空間とは、同一性志向性によって派生する同一性と同一性との距離、即ち、延長のことであろう。だから、差異の光の《場》(=原・前時空間)には、差異共振シナジー・原エネルギーがあるということになるのではないだろうか。これが、原光である。思うに、無限の原エネルギーではないだろうか。イデア・シナジー・「エネルギー」である。そして、同一性志向性=光=エネルギーとは、これを、同一性構造に拘束・抑圧していると考えられるだろう。差異共振シナジーの無限・原エネルギーを、同一性の有限・エネルギーに、言わば、「縮約・縮小」、「変圧」しているのである。これが、現象太陽であろう。だから、現象太陽の「裏面」(つまり、内在的超越的次元)には、差異の太陽が存していることになろう。そして、これが、コスモスであろう。現象宇宙のことではない。即ち、差異の太陽=コスモスである。そして、これが、原太陽系であろう。だから、差異の太陽=コスモス=原太陽系である。
 この差異の太陽が、D.H.ロレンスの説くdark sunであろう。そして、神話では、イシスであろう。同一性の太陽がオシリスであろう。そして、プラトンの洞窟の外部にある太陽=善のイデアも、差異の太陽のことだと考えられるのである。
 さて、さらに、問題は、この差異の太陽の根源の原イデアの存するイデア界のことである。おそらく、アリストテレスのデュナミスの用語を当てるといいだろう。ここで、整理するために、図式化すると、

1.イデア界・不連続的差異共立界・デュナミス:「玄無」
     ↓

2.メディア界・差異共振シナジー界・エネルゲイア:「黒い太陽」
     ↓

3.現象界・エンテレケイア・同一性エネルギー:「白い太陽」

ではないだろうか。とまれ、エネルギーの問題がここにはあるだろう。E=mc^2の問題である。これは、3の同一性エネルギーの記述であろう。では、2のエネルゲイアの記述はどうなるのか。これまでの思考実験では、エネルゲイアをXとすれば、Xi=mc^2であるから、X=mc^2/i である。後でさらに検討を続けたい。
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2006年08月02日

プロトモダンとモダンとプラトン・ルネサンス:思想的人類史からの視点

プロトモダンとモダンとプラトン・ルネサンス:思想的人類史からの視点
テーマ:新イデア・共振シナジー理論
A) 紀元前7〜5世紀前後の哲学・宗教・思想的創造と紀元前後の大乗仏教と「キリスト教」の創造。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9
http://en.wikipedia.org/wiki/Pre-Socratic

B) 14世紀〜16世紀のイタリア・ルネサンスと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9
1900年前後数十年の知の変革

AとB、それぞれにおいて、始動と発展が考えられるならば、両時期、500年前後のスパンがある。このような巨視的な歴史観で見ると、1900年も2000年もそれほど変わらない。現代、21世紀(2006年)は、イタリア・ルネサンス革命(プロトモダン・原近代革命)の発展段階であると見ることも可能である。釈迦牟尼に対する大乗仏教と相似に、ルネサンスに対するXが考えられるだろう。とりあえず、Xをプラトン・ルネサンス(又は、コスモス・ルネサンス)と呼ぼう。現代は、理論的には、プラトン・ルネサンスの最中となる。プラトン・ルネサンスは、私見では、ロマン主義が始点となっている。つまり、フランス革命と連動しているが、1800年前後である。これは、イタリア・ルネサンスから5〜3世紀経っている。そして、超人類の先駆ニーチェが19世紀後半、絶対的差異(不連続的差異)として、出現する。そして、20世紀に入り、爆発的に、創造の時代となる(哲学では、フッサール現象学が生まれる)。しかし、二度の世界大戦の後、近代合理主義、資本主義が支配的になる。20世紀後半、1968年の五月革命とポスト・モダン運動が起こる。しかし、1990年代以降のグローバリゼーションにより、思想的停滞・衰退が起きる。2001年911事件。アメリカでは、ブッシュ大統領、日本では、小泉首相が、新自由主義を唱える。
 思想的に見ると、明らかに、反動化している。ルネサンスのプロトモダン精神の喪失であり、プロテスタンティズム精神が主導的である。一神教的反動である。プロトモダンが、反動プロトモダンになっているのだ。「近代」とは、明らかに、分裂・矛盾した時代である。二重構造である。即ち、プロトモダン革新主義とモダン反動主義の二重構造である。プロトモダンは、モダンの反動性を批判するが、モダンのもつ唯物論的科学・技術の知識は、唯物論という枠組みにおいては、評価するが、モダンは、プロトモダンを否定・抑圧・排除・隠蔽する。確かに、プロトモダンは、「ポスト・モダン」、トランス・モダン、スーパー・モダン等の様態を取るだろうが、これは、モダンから見た場合である。
 とまれ、不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論は、プロトモダンの停滞・後退の状況において、プロトモダンの「進化」だと思う。ブレークスルーだと考えられるのである。モダン反動路線の破壊であり、プラトン・ルネサンスの開花と見られるだろう。
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2006年07月31日

連続・同一性自然過程とポスト人類精神革命の理論としての不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論

連続・同一性自然過程とポスト人類精神革命の理論としての不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論
テーマ:新イデア・共振シナジー理論
Mon, July 31, 2006 14:44:30
以下は、次のブログの部分を独立させたものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10015284984.html
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連続・同一性(と連続・同一性中心主義)の形成を連続・同一性自然過程と、先に呼んだが、それは、当然、ファシズム・全体主義形成過程とも言えるのである。サル社会で、ボス中心のピラミッド社会が形成されるというのは、この連続・同一性自然過程の表出ではないだろうか。もし、そうなら、人間社会は、サル社会と類似していると言えよう。深く、猿の遺伝子を継承しているのではないだろうか。(では、人間の遺伝子とは何か。)
 当然、人間社会は、連続・同一性(主義)自然過程から脱却するものでなくてはならないはずである。もし、進化があるなら、その方向にあるはずである。
 不連続的差異論は、本当に画期的な、否、超革命的な、超進化(精神進化)的な、理論であると思うが(理解している人は、どれほどいるだろうか)、それは、脱連続・同一性自然過程である人類進化・生命進化に役立つだろう。(インテリジェント・デザイン論・ID理論があるが、ここでの「進化」とは、内的デザインの進展ということになろう。)そう、ポスト・「サル/人類」進化の理論である。

 p.s. 父権主義・西洋文明・近代主義、等の地球・人類に破壊的なものがどうして存在するのかという疑問に対して、この視点から答えられるように思う。おそらく、現人類は、サルと超・ポスト人類との中間の、過渡期の、架橋的生命体なのである。そのために、サル社会の連続・同一性自然過程=父権制・原ファシズム・全体主義を内包しているのである。これが、現代の桎梏なのである。このため、戦争、暴力、自然破壊、不正、不平等、等が理不尽に為されるのである。サル遺伝子、サルの遺産が、現人類を、狂気にしているのである。
 不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論は、明らかに、ポスト・人類革命の超理論である。私は、理論誕生直後、直観の狂喜・情熱のままに、
最勝超至高不連続的差異論と呼んだものである。
 耳あるものは、傾聴するといい。


参照:
サル目
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E7%9B%AE

ゴリラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%A9

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本ブログの後記:

上記の仮説が正しいならば、ユダヤ/キリスト教とは何か。とりわけ、ユダヤ一神教とは何かという疑問が起こる。それは、サル人類(現人類のことである、勿論)の遺伝子の反動的発露ではないのか。超越神とは、サル人類神である。しかし、問題は、二重構造である。超越神ヤハウェとは、サルのボスと超人類の「超越性」との中間態と考えられるように思うのである。だとすれば、正に、サル人類宗教・神学である。中間神学である。反動的な面と進歩的な面があるだろう。そして、キリスト教が成立する。これも、ユダヤ教と同じく、中間的なものであるが、人間において超越性(イエス・キリストの体現した精神:本当は、仏教・プラトン主義・グノーシス主義的イエスの精神である。p.s. 後で、グノーシス主義の問題を検討したい。)を説いている点で、ユダヤ教より、進歩していると言えよう。
 このサル人類的一神教神学がベースになって、西洋文明、とりわけ、プロテスタンティズム西洋文明が成立したのである。問題は、サル的父権制が桎梏となり、全体主義的に地球・自然・人類を破滅の過程に陥れていることである。超人類の精神能力である、超越性(超越論性:差異共振性)が、反動暴力・狂気化しているのである。まったき倒錯の様態にある。
 結局、父権一神教とは、超人類進化のための、サル人類史の最終段階であると見られよう。サル人類史の終末なのである。黙示録的時代であるが、それも、いわば、ポスト黙示録的黙示録的時代である。即ち、ポスト一神教的黙示録の時代であるということである。新コスモスの新時代(新アイオーン)の開始である。
 これは、イエスの救済(イエスを救済すること)を意味するだろう。救世主を救済することになるのである。イエス・キリストは、本来、超人類、超サル人類進化の方向性を説いた人物と考えられるのであるが、それが、サル人類神学に利用されてしまったのである。そう、D.H.ロレンスが、『死んだ男』で、イエス・キリストを救済することを表明しているのである。新コスモス・超人類進化を説くポスト・イエスにイエス・キリストが変容したのである。(ロレンスは、ニーチェを進展的に継承する大天才である。文学は、20世紀後半以降、反動・停滞・衰退しているだろう。)
 付け加えると、イタリア・ルネサンスとは、超人類進化の、古代ギリシアに続く第二の烽火であったが、プロテスタンティズムの反動に隠蔽されてしまった。しかし、今や、第三の烽火として、新プラトン・シナジー理論が、決定的に、出現したと言えよう。
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2006年07月30日

零度差異共振とは何か:差異と同一性の関係性についての考察

零度差異共振とは何か:差異と同一性の関係性についての考察

これは、例えば、差異(不連続的差異)1と差異2とが、零度で、共振するということであり、このとき、差異1と差異2とは接していると同時に、接していないという、相反した事象にあるのである。これは、鈴木大拙の即非の論理の事象であると言える。後に、ドゥルーズ&ガタリが、離接という概念を提起したが、同じ意味のものであると考えられる。有り体にいえば、後者は二番煎じである。
 この共振事象ないし共振シナジー事象は、きわめて、不思議なものである。現象界の二項対立的論理を超越した論理である。差異1=差異2、且つ、差異1≠差異2である。イデア界からの順序に即せば、差異1≠差異2、且つ、差異1=差異2である。換言すると、差異1=非差異1である。A=~Aである。これが、差異共振事象の本性・実体であり、差異共立とも呼んでいいのであるが、イデア界の差異共立と混同してはいけない。後者においては、零度共振はなく、境界に隔てられた絶対的差異の共立があるだけである。混乱を避けるために、イデア界の差異事象を、差異分立と呼んでもいいだろう。
 さて、差異共振事象であるが、一方、即ち、差異共振界(=メディア界)のイデア極においては、差異分立性があり、他方、現象極には、差異連続・同一性(明快にするため、差異同一性と呼びたい)があると言えよう。だから、差異共振界(略して、差共界)では、差異分立性と差異同一性との矛盾事象が生起していると換言できる。前者を特異性・単独性と呼ぶことができるし、後者は単に同一性と呼ぶことができるだろう。特異性と同一性との矛盾共立が生起しているのである。因みに、ドゥルーズ哲学は、この矛盾共立を直接反映した哲学であると言えるのである。即ち、特異性としての差異と微分としての差異とを含んだ差異哲学なのである。しかし、これまで、言い尽くしたように、両者を混同しているのである。この混同が、差共界の矛盾共立・矛盾同一の直接的反映を意味しよう。わかりやすく言えば、差共界の矛盾同一事象に没入しているのが、ドゥルーズ差異哲学であると言えよう。没入しているので、自身が揺れ動いているのが、自覚できないのである。そのために、差共界の、謂わば、自然過程に陥っているのである。即ち、連続・同一性過程である。【ここで、想起したのであるが、ヌース理論は、正に、「精神」の連続・同一性化の理論なのであるが、差共界のもつ連続・同一性自然過程に没入しているのではないかと思ったのである。おそらく、そうであろう。素朴な差共界の様態は、連続・同一性への自然過程であると考えられる。そして、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」であるが、これもこの事象を説いていると考えられる。】
 ということで、差共界について、整理する必要があるだろう。不連続的差異論は、差異の根本・基本的な不連続性を発見した、ないし、仮説するものであり、差異の不連続化によって、不連続的差異の共立するイデア界が発見できたと考えられるのである。それまでは、差共界の自然過程のままに、連続・同一性に拘束されていたのであり、反動化が免れなかったのである。差異の不連続化、即ち、差共界の不連続化によって、この連続・同一性化=反動化の拘束から脱却できたと言えるのである。(言い換えると、真の社会革命が可能になったのである。)連続・同一性の束縛を切断したのである。即ち、不連続的差異の共立するイデア界に回帰することにより、差共界の連続・同一性の桎梏・束縛・拘束・規定・構造(カントの超越論的形式)を解体・破壊・解消して、差共界を変容したと言えるのである。差共界の変容とは、何か。不連続的差異化、イデア界への回帰による差共界の変容とは何か。それは、連続・同一性自然過程を解体・脱構造化したことである。それは、また、連続・同一性である自我の解体・破壊・脱構造化と言えるだろう。自我が、とりわけ、近代自我が、仮象・仮構であることを明らかにしたのである。「わたし」とは、自我ではなくて、差異・特異性であること、そして、根本的には、不連続的差異、絶対的差異であることが、判明したと言えよう。自我が、差異・不連続的差異に還元されたのである。イデア界に回帰したのである。
 その結果の差共界の変容とは何か。連続・同一性化が解体されて、今や自我が消滅したのではないだろうか。つまり、連続・同一性過程において、自我、とりわけ、近代自我が成立するのであるが、連続・同一性過程が解体されたとなると、差共界は、もはや、連続・同一性過程を形成しなくなるのである。即ち、連続・同一性自然過程から解放された差共界の成立・形成・創造である。これが、差共界の変容・変成である。連続・同一性の現象界からの解放である。連続・同一性の「力」からの解放である。そして、差異共振シナジー・エネルギーの解放であろう。差異共振エネルギーが、これまで、連続・同一性を形成する「力」になっていたのだが、それが、それから解放されて、純粋な差異共振シナジー・エネルギーとなるということである。完全な零度共振が可能になるということだろう。即非論理の貫徹がここに発生すると言えよう。差異共振シナジー世界が、いわば、現象化すると言えるだろう。
 では、不連続的差異化以前において、連続・同一性自然過程の「力」とはいったい何なのであろうか。私の直観では、捩れを感じさせるのである。差異否定の「力」である。連続・同一性の極において、おそらく、言語化が発生するのである。そして、連続・同一性が、謂わば、固定・固着・凝固するのである(連続・同一性中心主義の成立)。この連続・同一性極の言語的石化によって、連続・同一性中心主義=自我中心主義が発生すると言えるだろう。そして、これが、差異・他者を否定・抑圧・排除・排斥・排出・隠蔽すると考えられるのである。暴力の誕生である。父権制暴力の誕生である。戦争の誕生である。帝国主義の誕生である。(そして、現代、西洋文明として、この父権的暴力の帰結を迎えているのである。)結局、連続・同一性自然過程の「力」とは、連続・同一性のエネルギーの言語的固定であった。
 では、不連続的差異論/差異共振シナジー理論(新プラトン・シナジー理論)によって、純粋な差異共振シナジー・エネルギーが解放されることは何を意味するのか。当然、帝国主義の解体、国家主義の解体、自我中心主義の解体、等である。一つの人類史、父権的人類史の終焉である。ポスト人類史、ポスト父権的人類史、ポスト西洋文明である。当然、ポスト一神教である。ポスト資本主義である。新コスモス文明への駆動と言えよう。そう、純粋・純正差異零度共振シナジー・エネルギーとは、新コスモス・エネルギーと言えよう。
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2006年07月25日

差異共振シナジー・宇宙(コスモス)について:人類史の終焉と超宇宙神時代

現代の自然科学・工学技術は、唯物主義に基づいている。すなわち、現象は、物質であると考えているのである。そして、精神や生命等を、物質から説明しようとしている。たとえば、遺伝子は、DNAに集合体であるゲノムに存すると考えているし、また、精神現象を、脳の物質現象として、捉えようとしている。《ヌース理論は、精神を、量子現象として、捉えようとしている。量子は、霊と等価になるだろう。なぜなら、霊とは、精神を、連続・同一形式によって捉えたものだからであり、量子とは、イデア・シナジー(差異共振シナジー)=精神を連続・同一性形式で捉えたものと考えられるから、霊=量子となるのである。中沢新一の霊的唯物論と一致すると言えよう。》
 しかし、唯物論的自然科学・工学技術とは、カント哲学が明らかにしたように、超越論的形式=主観性に規定されているのであり、いわゆる、物自体、言い換えられば、自然自体を把捉していない、主観形式に限定された世界観である。近代主義的自然観である。
 これに対して、プラトニック・シナジー理論は、不連続的差異論をベースにした、新たなイデア論であり、イデア論的科学(イデア・シナジー・サイエンス)、イデア論的技術(イデア・シナジー・テクノロジー)、その他を目指していると言えよう。これによれば、現象は、イデア・シナジーの発現ないし仮象である。すなわち、差異イデア共振シナジー現象である。つまり、現象は、イデア共振シナジーが本体であるということであり、物質とは、イデア共振シナジー現象の同一性化であると言えるのである。換言すると、物質主義的自然科学は、イデア共振シナジー現象の同一性的表面のみを捉えているのであり、差異的本体を捉えていないということができるのである。すなわち、イデア的真実在を捉えていないということである。正に、表層・皮相科学である。
 これは、端的に言うと、どういうことであろうか。それは、差異共振シナジーという事象事実を取り逃がしているということである。より明快に言えば、差異共振という事象事実を看過しているということである。より平明に言えば、差異調和という事象によって、全宇宙が成り立っているという事実を見逃しているということである。差異のハーモニーによって、全宇宙は成立しているという事象事実の見落としである。これが、全宇宙の真実・真相・真理である。(華厳経は正しいのである。また、欧州の古代・中世の知の伝統における、コズミック・ハーモニーの思想(宇宙的調和観)は、正しいのである。)
 これは何を意味しているのか。差異共振調和を否定する現代の人類の社会は、宇宙の根本的法則を踏みにじっている、違反している、否定しているということである。そう、今や、地球世界は全宇宙のガン細胞となっていると言えよう。全宇宙・コスモスの調和を乱す地球・人類の存在は、全宇宙にとり、ゆゆしきものであろう。宇宙・コスモスの真理に違反して、宇宙・コスモスを阻害していると言えよう。
 もう少し、詳しく見ると、差異共振エネルギーが本体としてあり、それが現象しているのであるから、現象の本体・真実在は、差異共振エネルギーないし差異共振シナジー・エネルギーである。しかし、今日・現代の地球・人類の意識・生活様態は、差異共振シナジー・エネルギーを否定・排除・排出・隠蔽するものである。すなわち、自然破壊のような外的な破壊以外に、内的な破壊が行われているのである。内的エネルギーの枯渇が、人類に起こっているのである。当然、精神・肉体の病気になるだろうし、また、創造も枯渇するのであるし、戦争が、常態となるだろう。つまり、人類壊死である。古木に栄養が行き渡らなくなるような事態になっているのである。栄養源に対して自閉しているのである。そう、地球人類衰退・滅亡の過程になっていると言えるのである。そして、差異共振シナジー・エネルギーを新たに導入するポスト人類・超人類が、出現しつつあると思えるのである。
 そして、経済的には、ポスト資本主義として、差異共振シナジー経済が生まれるだろう。差異共振シナジー宇宙・コスモスに接続するスーパー・エポックとなったと言えよう。人類史の終焉・終末である。
新アポカリプスである。新コスモスの超時代である。スピノザ/カント/ヘルダーリン/フッサール/D. H. ロレンスの時代である。ポスト・キリスト教/大乗仏教&コスモス・ルネサンスである。差異共振シナジー・コスモスのエネルギーが参入する超時代である。大宇宙・超宇宙ルネサンスである。差異共振シナジー宇宙が、今や、顕現するのである。
超宇宙神の時代である。
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2006年07月23日

思考実験:虚軸と空間次元の問題:イデア軸ーメディア軸ー現象軸ー物質軸四次元空間・時空間の成立

作業仮説として、軸上に、無数の不連続的差異(=イデア:以下、差異)があり、それらが、1/4回転を行なうことで、私たちが見る現象界を発現させているとしよう。そこで、前提として、ガウス平面=複素平面(X軸・実軸とY軸・虚軸の直交する平面)をイデア界とする。
 X軸は、差異(=原イデア)が境界を隔てて、共立している。そして、1/4回転して、Y軸・虚軸に移行すると、X軸から見ると、差異は、ゼロ度上に存するのであり、これが、零度差異共振シナジーを発生されると考える。そして、このときに、原エネルギーが発生して、垂直に捩れると考える。即ち、XY平面に直交するZ軸を考える。Z軸も虚軸である。思うに、1/4回転した差異は、どこに存するのかと考えると、それは、原点をO(オー)とすると、例えば、差異1(x1、0,0)は、零度差異1(0,y1、z1)の位置にあるのではないだろうか。(差異1をD1,零度差異1をφD1と表記する。)零度差異1は、Y軸・虚軸とZ軸・虚軸の成分、即ち、y1とz1をそれぞれもっている。零度差異1は、一方では、Y軸の視点、他方では、Z軸の視点をもつと言えよう。
 ここで、重要な作業仮説を述べると、軸視点が、重層化されるというものである。つまり、例えば、零度差異1は、X軸、Y軸、Z軸の三つの軸視点を重層化した三重視点をもつということになる。ここで、X軸を不連続軸(又は、イデア軸、原軸)、Y軸を共振軸(又は、メディア軸、シナジー軸)、Z軸を連続軸(又は、連続・同一性軸、現象軸)と、そして、Y軸とZ軸の平面をメディア平面ないし差異共振シナジー平面と呼ぶことにする。
 零度差異1(φD1)は、メディア平面、差異共振シナジー平面に存すると言える。そして、Y軸視点からは、零度差異1は、連続・同一性的差異に見えるはずである。即ち、現象として見えるはずである。これが、自我ならば、現象の個体として見えるはずであるし、零度差異2を見るならば、例えば、コーヒーカップの現象、山の現象が見えるはずである。しかし、これは、Z軸・虚軸の視点現象である。
 しかし、零度差異は、メディア平面、差異共振シナジー平面に存するので、単なる現象以上のものとして、知覚されうるのである。例えば、私が、先に述べたが山と私との共振コスモス現象であるが、それは、Y軸・虚軸から見た零度差異であると言えるだろう。あるいは、Y軸・虚軸を含めたZ軸・虚軸の視点から見た場合である。つまり、メディア平面・差異共振シナジー平面上にある零度差異を観照しているということである。
 問題は、次元である。ここでも作業仮説であるが、軸・視点を次元とカウントするということである。すると、零度差異は、三次元空間ないし三次元時空間になるだろう。(時間の問題であるが、それは、今は、時間と空間は一如であると考えることにする。)
 しかし、Y軸・虚軸・共振軸は、X軸・実軸・不連続軸やZ軸・虚軸・連続軸(現象軸)に比べて、不可視になりやすいと考えられるので、この現象は、二次元空間(時空間)になりやすいのではないだろうか。つまり、共振コスモス空間(時空間)が、見えにくくなると考えられるのである。なぜならば、X軸は実軸であるから、実体が明快だと思われるし、また、Z軸は、現象軸なので、幻像が明確に生起しているに対して、Y軸・虚軸では、不連続性と連続性とが、即非様相で、揺らいでいて、中間的過程で、明確な形象をとっていないと考えられるからである。
 以上で、三次元空間(時空間)を説明できたが、では、四次元空間(時空間)はどうやって説明できるだろうか。これは、これまで、述べてきた、言語観念化による連続・同一性中心主義を考慮することで、説明できるように思える。この連続・同一性中心主義の軸・F軸(THE FOURTH AXIS)を作業仮説しよう。これを二項対立軸、主客分離軸、近代主義軸、物質軸と呼ぶことができるだろう。簡単に物質軸と呼ぶとわかりやすいだろう。F軸・物質軸において、現象は、物質化されると言える。だから、この軸の次元を入れると、四次元空間(時空間)が成立することになる。但し、上述したように、Y軸・虚軸・共振軸が不可視になりやすいので、この空間は、三次元空間(時空間)に見えやすいと言える。とりわけ、物質軸が成立すると、それのもつ同一性中心主義は、差異共振シナジー領域を否定・排除する傾向があるので、なおさら、三次元空間(時空間)に見えると言えるだろう。
 これで、本稿の論考を終えたこととする。
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2006年07月16日

光の利己的欲望:差異共振という玄光を否定・排除した連続・同一性中心主義という光悪魔

今は簡単に触れるが、どうして、連続・同一性主義自我は、他者を否定して、自尊感情を高める快感をもつのか。問題は、この自尊快感の発生の原因である。これは、攻撃的快感でもある。感情が、観念と癒着・融合している状態である。自己陶酔ではあるのだが。
 先に、連続・同一性が、言語と結びつき、差異共振の闇を排除するという一神教/父権制/近代自我の構造を提示した。これを光の欲望を呼んだ。これは、視覚的同一性中心主義自我意識と、無意識となった身体との分離とも言えよう。西欧近代は、前者中心の世界観であり、後者が忌避・排除されたのである。現代日本は、この究極的な帰結のようなところがあるのである。欧米は、前者的ではあるが、後者を何らかの形で保持しているように思えるのである。とまれ、この2項対立構造については、既述済みであるが、再度検討して、確認を新たにしよう。
 もともとは、差異共振と連続・同一性は、メディア界においては、いわば、メダルの両面である。だから、2項対立していはいないのである。闇と光の両面である。しかし、光が言語と結びついて、とりわけ、文字言語・表音言語と結びついて、2項対立が発生すると考えられるのである。その理由は、言語と結びついた連続・同一性は、差異共振性から切断されるからと考えられる。即ち、言語と結びついたときに、それは、いわば、モナド化されると思うのである。例えば、現象視覚において、山を知覚していたとき、山という連続・同一性は、他者と差異共振するコスモス・自然・宇宙の一部であったと考えられるのである。(これは、多くの詩人が表現することである。)これは、母権文化の知覚であると考えられる。陰陽対極性は、この文化哲学であると考えられよう。
 しかしながら、象形・表意文字の「山」、表音文字の「やま」が使用されると、それは、差異共振のコスモスから切断されるのである。「山」は、まだ、現象視覚性が残存しているので、差異共振コスモスとの結びつきが比較的残りやすいと言えようが、「やま」ないしyamaになると、結びつきから離れて、独立する傾向をもつと言えるだろう。つまり、連続・同一性が差異共振性から分離・切断されて、抽象文字的連続・同一性となったと言えよう。この分離・切断の意味するものを考察しないといけない。ここには、差異共振性に対する否定があり、連続・同一性の独立化、言わば、独立自我化が生起しているといえるだろう。そう、原コギトの成立と言えるかもしれない。この差異共振性の否定と独立自我化が、連続・同一性を連続・同一性中心主義へと相転移するものと言えよう。これが、原一神教・原父権制・原近代自我の発生であろう。(現代文明とは、この抽象文字人類革命の帰結であると言えよう。差異共振性というコスモス・自然宇宙から切り離されて、グローバル資本主義・科学技術文明を、性懲りもなく、自殺自滅的に、「発展」し続けているのである。これは、もはや、発展ではなくて、滅亡過程と言うべきであろう。終局相であろう。)
 とまれ、これで、本稿の問題を解いたこととしよう。私が既述したように、連続・同一性中心主義とは、連続・同一性と言語、とりわけて、表音文字との結合によって生まれたのである。それは、自我・悪魔性の誕生である。光である悪魔であり、ここで、真の光である差異共振性が闇=悪魔にされたのである。価値転倒・倒錯が発生したのである。これは、キリスト教に完全に顕在したものである。光が闇とされ、闇が光とされたのである。キリスト教の光は、反復するが、悪魔の光であり、闇である。かつて、10代の学生の頃、私は、「光は暗く、闇は明るい」と言ったのである。
 現代日本の闇は、正に、この連続・同一性中心主義という光の闇である。これは、光悪魔である。たいへん、危険なものである。しかしながら、不連続的差異論/プラトン的シナジー理論によって、この光悪魔の闇が暴れて、真の光への方向が啓かれたといえよう。初めに玄光あり、そして、それは、光であった。
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2006年07月15日

オカルティズム批判:オカルティズムは、連続・同一性=ファシズム・全体主義思想の一つである

オカルティズム批判:オカルティズムは、連続・同一性=ファシズム・全体主義思想の一つである

ルドルフ・シュタイナーは、シュタイナー学校の創始者として有名であるが、しかし、プラトン・シナジー新論から見ると、たいへん、危険である。それは、新興宗教と同じである。霊感商法的になるだろう。なぜなら、霊主体従だからである。精神ではなくて、霊を主体にしているからである。精神とは、心身・魂の知性のことである。霊は、精神を連続・同一性の観念から見たものである。つまり、唯物論と同型である。換言すると、唯物論と相補性をなすものである。現象を唯物論で見たとき、メディア界が神秘主義的に発現するのである。この神秘主義性に、観念の枠を与えて、霊・スピリットが想定するのである。ここには、精神の弱さがあるのである。唯物論の反動としてのオカルティズムがあるのである。カント以前である。
 もう少し説明すると、近代合理主義によって、心身性が排除されて、潜在意識となる。即ち、近代合理主義/潜在意識という二元論が近代主義において生じるのである。例えば、近代合理主義とロマン主義の対立というような形をとるのである。(近代とは、プロトモダンが本来なのであり、近代主義とは、反動態である。)この潜在意識を、オカルティズムは、霊・スピリットとして現象化するのである。ここがポイントである。潜在意識の現象化である。即ち、潜在意識に、現象界の視点である連続・同一性の枠・構造を与えるのである。ここには、倒錯があるのである。連続・同一性の形式とは物質形式・唯物論形式である。これを、潜在意識(心身意識)に当てはめるのは、当然、カテゴリー・エラーであるし、虚偽、本当の狂気である。これは、近代合理主義信仰の倒錯である。近代合理主義を、潜在意識にまで、適用するという、ハイパー近代合理主義なのである。これが、正に、ルドルフ・シュタイナーの霊学・人智学である。また、半田広宣氏のヌース理論も、同様である。ハイパー近代合理主義信仰・崇拝である。(こう考えると、ヌース理論が、量子力学等を偏重する理由が了解できるだろう。)即ち、近代合理主義・唯物論化された潜在意識・心身意識が霊・スピリットなのである。これは、似非実在である。妄念・妄想・邪念・狂気である。だから、当然、邪悪なのであるから、社会に対する害悪である。哲学的には、差異が、連続・同一性化されているのであり、ファシズム・全体主義的である。(近代合理主義もファシズム・全体主義的であるが、西洋の場合、基礎に個・差異があるので、ファシズム・全体主義への根強い批判がありうる。)
 とまれ、ポスト・オカルティズム、ポスト・霊学ということで、差異、それも、純粋差異、不連続的差異、特異性差異、単独的差異、絶対的差異を取り戻さないといけない。これは、実に、イデアの純粋世界・真世界なのである。イデアと霊・スピリットとはまったく似て非なるものである。霊・スピリットとは、唯物論的神秘主義(参照:中沢新一の霊的唯物論)であり、イデアの唯物論的大曲解・ねじ曲げ・歪曲化である。ロゴスに対する、いわば、大犯罪である。極悪である。極刑に値するのである。
 イデアを正視しないといけない。イデアのロゴスを取りださないといけない。イデア・ロゴス・ソフィアである。イデア・レゾナンス・シナジー・コスモスが、原現象である。プラトンで言えば、コーラである。コーラ・コスモスである。
 とまれ、イデア・シナジーが心身・潜在意識を形成しているのである。そして、いわゆる、意識とは、作業仮説として、イデア・シナジーの意識ではないだろうか。そして、身体とは、イデア・シナジーの身体ではないだろうか。フッサール理論を用いると、ノエシス/ノエマというイデアのシナジーが、心身である。つまり、ノエイス/ノエマの共振多層重層シナジーが、心身ではないだろうか。そして、ここから、ノエシスが特化して、意識・思惟・知性・認識・知覚となり、また、ノエマが特化して身体・延長・存在となっているのではないだろうか。本来、イデア・シナジーにおいては、ノエシス/ノエマ=心身=潜在意識である。しかし、これが、現象界においては、二元論的に分離するように発現するのである。ここでは、視覚的知性が、二元論分離仮象の契機である。光が契機である。しかしながら、光は微妙な現象である。光は、イデア・シナジーそのものであると言えるのであるからである。原光・純光である。この原光・純光が、光現象となっているのである。そして、二元論分離を発現するのである。光現象・二元論分離現象とは、連続・同一性的仮象であり、原光・純光の仮象としての光が現象していると言えるだろう。つまり、光とは、太陽光とは、仮象スクリーン・マーヤーである。その真実在は、原光・純光なのである。つまり、「阿弥陀如来」である原光・純光を光と見ていることになる。(因みに、光子とは、原光・純光を仮象物質スクリーンを介して仮想したものである。)
 問題は、いわゆる近代自我と光との関係である。あるいは、原光と光との関係である。この問題に関しては、まだ結論が出ていない。即ち、単純に、流出的に、原光から光が仮現するのか、それとも、否定・排除的(内的抑圧隠蔽的)に、原光から光が発現するのか。(この問題は後で、再検討したい。)
 本論に戻ると、ノエシスとノエマが二元論的に分離して、心身二元論、思惟と延長の二元論が発生するのであある。しかし、イデア・シナジー界においては、ノエシス即ノエマであろう。即非でもないだろう。思惟即延長である。知即存在である。即非は、差異と差異との関係で発生するものである。
 結局、知性となったノエシスと身体となったノエマとを再統一する必要があるのである。それは、知性の身体化であり、身体の知性化である。しかしながら、ポイントは、知性であろう。なぜならば、基本的には、ノエシス/ノエマとは、知的存在であり、知主存在従であるからである。知が先行していて、結果、存在が帰結するのであるから。ノエシス→ノエマ、知→存在なのである。だから、知性の身体化/身体の知性化において、主体は、知性に置くべきなのである。これによって、イデア・シナジー=心身性を意識化できるようになるのである。超知性化と言ってもいいだろう。そう、超越内在(超内)論的知性形成である。これが、イデア・シナジー知性である。あるいは、イデア知性である。あるいは、プロトモダン知性である。プロトモダン合理主義である。これは、身体ともにある知性であり、知性とともにある身体である。そして、超知性がそれを包摂するのである。
 ここで、自我を考えると、それは何か。近代合理主義においては、近代自我=連続・同一性自我によって所有された身体があるが、この近代自我を不連続的差異化することで、イデア・シナジー的特異性意識になるのでないだろうか。思うに、自我は、知存在になるのである。知身体と言ってもいいだろう。自我が知身体へと変容するのである。
 さて、最後に、途中で置いておいた問題、原光と光の変換力学について考察しよう。これは、カントの超越論的形式に関わる問題である。あるいは、アインシュタインの相対性理論に関わる問題である。数学の問題でもある。近代合理主義は、現象を、連続・同一性の数量に変換したのである。そして、近代科学・技術・資本主義が発達するのである。この連続・同一性がカントの超越論的形式に相当しよう。これは、差異=微分→積分と等価である。
 ここでも、直観に基づいて述べよう。連続・同一性=数量が物質の単位である。つまり、現象対象に対して、近代合理主義・近代自我は、連続・同一性=数量を適用して、現象世界を「合理」化するのである。そして、この近代科学の合理主義に対して、フッサールは、危機を覚えて、現象学を創造するのである。
 問題は、現象世界である。近代合理主義自我は、現象世界を、連続・同一性=数量形式の体系・システムと見る。それは、また、連続・同一性=数量=近代自我の世界である。ここでは、特異性は消されている。(そう、ここは、近代合理主義というファシズム=全体主義の世界である。小泉政権がこれである。)特異性・不連続的差異・絶対的差異・単独的差異の抹消された、同質性・画一性・一般形式の世界である。ここには、明らかに、反動暴力があるのである。特異性を抹消・隠滅している暴力があるのである。(ここで、私は、ジョージ・オーウェルの『1984年』の情報隠滅・捏造作業等を想起している。)
 即ち、連続・同一性には、特異性に対する暴力が如実に存在しているのである。では、現象世界について考察しよう。現象世界の連続・同一性数量・数式を適用するのが、近代合理主義・近代自我・近代科学技術・近代資本主義である。そして、現象世界を連続・同一性のシステムに変換するのである。これが、近代的世界観である。ということは、現象世界自体は、連続・同一性ではないということになるだろう。連続・同一性の構造を現象世界は、いわば、人間から付与されたのである。この主観的形式が、カントの超越論的形式だと考えられるのである。そして、これは、言語形式と深く結びついているだろう。なぜなら、言語形式は、現象を連続・同一性である一般観念形式へと記号化されたものだからである。貨幣も同様である。
 ここで、明確に言えば、現象世界とは、本来、特異性の世界なのである。(私自身は、常に、現象個体は特異性であると考えているのである。)そして、フッサールの説く生活世界とは、この特異性の現象世界のことであろう。つまり、イデア・シナジーの世界である。ということは、現象界は本来、イデア・シナジーの世界であるが、それを近代自我は、連続・同一性システムの世界に変換しているのである。ということは、差異共振界の直截的発露、流出としての現象界が本来あるということである。共振の終点としての現象である。
 しかし、それに対して、連続・同一性的「現象界」があるのである。それは、近代自我の「現象界」である。一体、この連続・同一性はどこから発したのだろうか。イデア・シナジー、差異共振の流出としての現象は、連続・同一性をもたない。そう、連続性はあるが、それは、特異性の連続性である。差異共振の連続性である。
 結局、同一性はどこから生まれたのだろうか。それは、形相から生まれと思われる。形相自体は、不連続的差異論でいうメディア界の現象面にある連続様態、即ち、超越論的原型から生まれたと考えられるのである。即ち、超越論的形式から現象的形式としての形相=同一性が生まれたと言えよう。そして、近代主義とは、この同一性の数量化を意味するのである。つまり、連続・同一性とは、既に、アリストテレス哲学に存在していたのである。だから、近代合理主義が生まれるには、これを数量化する必要があったのである。つまり、アリストテレス哲学と数学の結合、これが、近代主義を生んだと言えよう。そして、これが、物理学を初め、近代自然科学として展開するのである。また、同時に、実験を提示しなくては不十分である。実験が、連続・同一性の物質主義を確証していったと言えるのであるから。
 とまれ、形相と数量と実験の結合、これが、連続・同一性の数量=物質を生んだのである。
 さて、ここで、形相について言及すると、それは、超越論的形式から現象化したものである。根源は、超越論界、不連続的差異論のメディア界に存する。しかし、これは、メディア界の連続面・現象面にある。だから、ここにおいては、それは、イデア面と分離していないのである。即ち、イデア・シナジー性をもつ原型である。そして、これが、このまま、現象化して、特異性の現象となるのである。
 では、超越論的原型がどうして連続・同一性の形相へと変換されるのか。ここに、もっとも重大な転換の一つがあると言えよう。形式の、超越論界から現象界への転換である。超越論界(=イデア・シナジー界=メディア界)には、差異共振性がある。そして、超越論界の形式を形相化するには、この差異共振性を否定・排除する必要があるのである。ここが、一番のポイントである。思うに、問題は、連続・同一性ではないのかもしれない。問題は、連続・同一性中心主義だと考えられるよう。例えば、私の使用するコーヒーカップは、特異性でありつつも、コーヒーカップという連続・同一性である。ここでは、特異性と連続・同一性が矛盾せずに、併存しているのである。特異性→連続・同一性である。
 しかるに、連続・同一性中心主義になると、特異性を排除するのである。これは、いったい、どういう事態なのだろうか。何故、特異性・不連続的差異性を否定・排除するのか。
 思うに、作業仮説であるが、光と関係する。差異共振シナジーにおいて原光が生まれる。そして、それが、連続化するときに、原型が生まれる。これは、ほぼ現象界の光をもつ連続・同一性である。つまり、このときに、視覚が生まれているのである。視覚と連続・同一性との相互関係があるのである。しかし、差異共振シナジー界=メディア界においては、闇と光が不可分一体である。つまり、原光=闇と光とが一如である。しかし、視覚/連続・同一性が言語習得と結びつくと、視覚/連続・同一性/言語=光は、闇と分離する傾向をもつだろう。つまり、光の欲望が発生して、それが、闇を排斥するようになるのだろう。これが、連続・同一性中心主義の発生、一神教の発生、父権主義の発生であろう。差異共振シナジーの闇は忌み嫌われて、否定・排除されるのである。これが、西欧近代自我合理主義である。換言すると、原光→ 光が、「断絃」されて、原光と光が分離されるのである。闇と光の分離である。ゾロアスター教の発生である。そして、ここから、ユダヤ教、キリスト教と続くのである。イスラム教は、差異共振性への揺り戻しを含むと思うが、基盤は、やはり、分離である。
 結局、不連続的差異論/プラトン・シナジー理論は、この闇と光の分離を、イデア・レゾナンス・シナジー・フィールドの発見によって、解消して、新たに、結合・融合・一体化したと言えよう。新東洋哲学である。ル・ルネサンス=プロトモダンの新生である。そう、ここでは、闇と光が一体となっている。闇から光が生まれのである。原光=闇から光が生まれるのである。そして、闇は光であり、光は闇である。これは、私の直観にぴったりである。キリスト教の闇を照らす光という二元論とはまったく別である。キリスト教の光とは、闇から分離した光であり、連続・同一性中心主義の光、悪魔の光なのである。
 初めに闇ありき、そして、光が生まれた。また、闇の前に原闇があった。それは、無である。 
posted by ソフィオロジスト at 19:57| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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