2008年01月03日

観るとは何か:眼を介して、心で観る(心観・心眼・霊眼):都市空間視覚と天然自然視覚の分裂から、トランス・モダン視覚へ


田舎(農村地帯)に居ると、空気が澄んでいるので、空や空を背景にするものがよく見えるのである。先ほどは、東京では、不気味に夜に声を聞くことが多い烏であるが、大群が、北から南へと急流に流されるように滑空して飛んでいた。ダイナミックな動きであり、感心した。
 澄んだ西空を見て、思ったのは、肉眼中心で見るのと、肉眼を介して心で見るのとの違いである。前者は自我中心的視覚であり、後者は差異共振・心的視覚であると考えられる。今日一般の日本人の視覚が前者であると思う。近代合理主義・近代的自我の視覚なのである。これは、心の死であり、神の死である。死せる魂である。亡魂である。死んだマグロの眼である。
 後者はいわゆる心眼というものに近いかもしれないが、心眼ほど玄妙なものではなく、もっと平明な、日常的なものでありうると思う。もっとも、心眼と言ってもいいのかもしれない。私としては、心観・心見とか呼びたいのである。(以下、心眼を用いている。)
 先に見た夢の中で、私は道と道の間の公園の樹木に咲く花を心の目で見ていた。心と花が共振してその美に触れていた。どうも、それがいわば予兆であったろう。予知夢である。私の中に、心の目が復活したようである。心観(心眼・心視)である。
 とまれ、この心観・心眼・心視の形成というか復活によって、これまで私が当惑した視覚の問題が解決できたと思う。すなわち、心の目は外的対象と共振するのである。とりわけ、自然と共振して天然美を感受するのである。この体験は、美術・芸術の肝である。美術・芸術の美の根源である。いわゆる、ロマン主義と呼ばれた世界観もこれに拠ると考えられるのである。もっとも、古典主義もやはりベースには、天然美の体験があるとは思うが、それが、自我同一性形式(線形性、シンメトリー等)によって拘束されているのである。
 具体的に言うと、若い日、学生の頃である。夕焼けが、私の意識から遠くへ行ってしまう経験をもった。それまでは、夕焼けと心が結びついていたが、それが、離れて行く、喪失経験をした。そう、私の意識では、この分離経験と一体経験との分裂性が残ったのである。いわば、統合失調症である。これは、文化史的に言えば、未分化的太母文化と父権文化、あるいは、前近代文化と近代文化との分裂様態と言える。そう、私は一種の分裂症であったのだろう。思えば、漱石の『草枕』の冒頭の有名な「智に働けば、角が立つ。情に棹させば流される。」に似たような経験と言えるだろう。そう、漱石も近代主義に拠る分裂に悩んだ天才的知識人である。
 とまれ、私のこれまでの生涯は、この分裂症に悩んできたと言えるかもしれない。しかしながら、今や、私の意識の中には、はっきりと、心が存するのである。そして、感覚を介して、心で知覚することができるのである。そう、脱自我となり、自己形成できたと言えよう。確かに、肉眼は、自我と結びつくが、心眼は自己と結びつく。私は、自我であり、且つ、非自我=自己である。(正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の様相である。)
 まだ、精緻には考察していないが、心の知覚があり、また、肉体的感覚がある。視覚に限定すると、心の視覚(心眼)があり、身体的視覚(肉眼)があるが、心眼(Media Point)が同一性化して、身体的視覚(肉眼)と結びつく。つまり、心眼は肉眼へ同化吸収されて、心眼本来の差異共振性を喪失する。これが、近代的自我の視覚様態である。近代合理主義・唯物論的視覚、冷たく光る不気味な支配せんとする悪霊の眼である。
 しかしながら、心眼(差異)が完全に肉眼(同一性)に吸収されることはできない。心眼が無意識において作用しているのである。だから、近代主義の都市空間を離れて、自然天然空間に置かれると、自然天然空間の光、差異共振的光に晒(さら)されて、心眼が賦活・活性化されるのである。励起されると言ってもいいのかもしれない。そのとき、私の体験では、コスモス(心的宇宙)を感得することが多い。コスモスとは、端的に、Media Pointの経験と言っていいだろう。近代主義の都市空間では、この経験はほとんど閉ざされるが、天然自然空間では、これが生起するのである。
 そう、思えば、学生の時の分裂の悩みはこれで説明できるのである。近代主義の都市空間の視覚と天然自然空間の差異共振的な視覚との分裂である。戦後日本人は、この分裂を無視して前者に同一性化したのである。日本人の心的視覚を捨てて、近代合理主義/近代的自我の視覚を受容したのである。これは、日本の心の死であり、神の死である。日本文化の死である。三島由紀夫の言う「断絃」である。(これは、連合国占領軍と亡国・売国的支配者との野合によると考えられる。小泉路線は、これである。)
 そう、社会的に問題なのは、近代主義的都市空間の視覚が支配的であるとき、天然自然の差異共振的視覚が否定されるのである。だから、本当に心眼をもった人は排除されやすいのである。(イジメの問題はこれが関係することが多いと思う。)東京中心に近代主義的都市空間視覚が支配的なので、これが、日本全体に蔓延する事態になっている。洗脳である。
 とまれ、問題に返ると、近代主義的視覚に対して、心眼があるが、抑圧される。しかるに、今日、心眼である差異エネルギーが賦活されているのである。この点については、これまで、太極原理で説明した。陽極まれば陰に転ずと。
 丁寧に見るなら、これは、自由のエネルギーが陽(同一性)の方向へと展開したが、今や、それが反転して、陰(差異)への方向へと向かっているのではないだろうか。ポスト・モダンである。自由のエネルギーとは、端的には、Media Pointのエネルギーということだろう。【私はイタリア・ルネサンスが新たなMedia Pointの発動と考えているし、プロテスタンティズムも基盤がこれであるが、それが同一性主義(近代合理主義/近代的自我)に傾斜しているのである。つまり、これまで述べてきたように、プロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内在しているということでもある。】
 ということで、自由のエネルギーは陰(差異)へと今や転じているわけであるが、問題は、ポスト・モダン様態になっていることである。つまり、同一性主義の枠組みから脱していないのである。そのために、アイロニカルな没入・反動が起こっているのである。ネオコンや小泉構造改革がそうである。また、私見では、サブプライムローン問題もそうである。過剰な同一性主義、ハイパー・モダンが生じているのである。そして、心の病(私は心病と呼んでいるが)の根因もここにあると考えているのであり、また凶悪犯罪の根因もここにあると考えている。確かに、較差問題が引き金になっているとは考えられるのではあるが。
 この、いわば、私がとりわけ若い頃経験した「分裂症」に今日日本が陥っていると考えられるのである。結局、自由のエネルギーは陰や差異へと向かっているのであり、それを実現するには、ポスト・モダンを越えて、トランス・モダンへと転換する必要があるのである。純粋な差異へと転化しなくてはならないのである。結局、同一性主義から「解脱(げだつ)」して、差異(差異共振性、心)へと回帰する必要があるのである。
 簡単に、この「解脱」の方法を理論的に説明すると、第一歩は、同一性と差異とを不連続化することである(不連続的差異論)。それで、自我同一性と自己差異(特異性)が分離するのである。しかしながら、後者の自己差異とは、実は、差異共振性なのである。これを自己測深して感得する必要がある。そして、また、自我同一性と自己差異とが、Media Point(ガウス平面の原点)において、直交していることを認識する必要がある。即ち、自己差異とは、超越的差異なのであり、高次元的自己なのであるという認識の必要である。そして、最後は、自己主体とは、自己差異が主であり、自我同一性は従であると認識会得し、また、実践することであると思う。差異主同一性従、心主我従である。即ち、差異共振的自己が主であり、同一性自我は従であるということである。これが、心眼の復活をもたらすと思えるのである。
 さて、以上が、日本の復活の哲学的鍵である。不思議なことに、それは、日本の伝統への回帰なのである。それは温故知新であり、また、正確には螺旋的回帰なのである。東洋・日本伝統文化への螺旋的回帰なのである。即ち、西洋文化を経由して、東洋・日本伝統文化へと螺旋的回帰するのである。そして、これが、トランス・モダンである。父権統合型新太母文化である。差異共振文化である。
 思うに、私が心眼を復活させたのであるから、共時的に、多くの人にもこれが起こっていると考えられるのである。Media Resonanceメディア共鳴である。宝瓶宮(ほうへいきゅう)[水瓶座]文化期が胎動しているのである。
 
聴く耳を持つものは聴くがいい。
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2007年11月01日

Media Pointと同一性の関係:プロテスタンティズムにおける超越性と同一性の関係

Media Pointと同一性の関係:プロテスタンティズムにおける超越性と同一性の関係

テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明

本件の問題を最近は追求しているが、既に解決済みと思っていたが、簡単には済まない。結局、Media Pointから差異が同一性へと転換するときの様相の問題である。
 私はイタリア・ルネサンスが差異の発動であり、その後の差異の展開はプロテスタンティズムであると述べた。差異の発動とは、新たなMedia Pointの賦活であると考えられる。超越界=イデア界において、おそらく、新たな回転が生起して、Media Pointが新たに活性化したと考えられる。即ち、Media Point=i*(-i)において、A) i→-iとB) -i→iとが発動したと考えられる。この両面が混淆ないしは未分化様態であったのが、イタリア・ルネサンスであったと思われる。
 私は先に、iが能動性ないしは父権性であり、-iが受動性ないしは母権性ではないかと提示した。これを作業仮説とするなら、Aは、能動性であり、Bは受動性である。そして、iには形相性、-iには質料性を考えると(これも作業仮説)、Aは能動的同一性の形成、Bは受動的身体性の形成を意味するのではないだろうか。
 以上の作業仮説から、次に、プロテスタンティズムを考えると、それは、Aが主導的になったキリスト教であると考えられる。
 問題は、A主導における神性とは何か、である。Media Pointにおける超越的エネルゲイアから、A主導性は駆動されていると考えられる。問題は、Media Pointの超越的エネルゲイア(以下、超越的エネルギー)は、差異共振・差異即非に拠るのであるから、プロテスタンティズムの神性のエネルギーも、それに拠ると考えられる。そう、これまで、私はプロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内包していると述べてきたが、ルネサンスの内包とは、この差異共振・差異即非を意味すると言えよう。
 ということで、プロテスタンティズムはMedia Pointの超越的エネルギーに賦活・駆動されていると考えられる。しかしながら、問題は、A主導的であるということである。これは、差異を否定する同一性衝動であるから、プロテスタンティズムは、自己否定的に発展すると言えよう。差異共振エネルギーに駆動された同一性衝動である。
 そして、近代の進展とともに、近代合理主義と結合して、根源のMedia Point=差異共振エネルギーを喪失していったと考えられる。いわば、プロテスタンティズム近代合理主義の形成である。そして、これに自由主義と民主主義が結合して、西洋近代主義が完成すると言えよう。
 もっとも、自由とは起源的には、ルネサンスのMedia Pointから発しているし、民主主義は、起源的には、絶対王制に対するプロテスタンティズム的市民(資本家を含めた)の権利意識から発したと言えよう。つまり、民主主義は、キリスト教的であるということであり、これは、やはり、ルネサンスをベースにしたプロテスタンティズムの近代的自我意識に基づくと考えられる。
 だから、簡潔に言えば、西洋近代主義はルネサンス/プロテスタンティズムと近代合理主義(近代科学・技術)の結合によると言えるだろう。
 結局、根源のMedia Pointの差異共振エネルギー=超越的エネルギーを近代主義は喪失していくのであるが、その換わりに、いわば、同一性的力動(力学)を強化していくと考えられる。
 これはどういうことなのだろうか。これは、端的に、超越的エネルギーが、同一性エネルギーに転換するということだろう。同一性エネルギーとは、おそらく、物質エネルギーと言っていいのではないだろうか。というか、力である。物質的力に変換するのだと思う。能動的な力ないしは暴力、権力である。
 では、この超越性から同一性への転換において、神性はどうなるのだろうか。そう、同一性への転換において、神性はどうなるのか。初期においては、 Media Pointの差異共振エネルギー=超越的エネルギーが発動しているが、これが、同一性エネルギー=力へ転換するとは、基本的には、根源の神性を喪失するということになる。そして、これが、欧米近代化においって発生したことだろう。
 しかしながら、根源の神性とは、Media Pointの超越的エネルギーのことである。そして、これは、確かに、同一性衝動へと転化したと言えよう。
 だから、問題は、超越的エネルギーと同一性衝動の関係である。前者はすべて後者へと転化したということなのだろうか。それとも、後者においても、前者は残っているのであろうか。
 ここでも直感で考えよう。つまり、根源の超越的エネルギーが、同一性力動に転化されるということは、基本的には、根源の超越的エネルギーは残っているのであるが、それが変質する、変化するということなのである。
 この超越性⇒同一性エネルギー(超越性/同一性エネルギー)がプロテスタンティズム的力動であると考えられる。この超越性⇒同一性の様相がプロテスタンティズム的一神教の様態であると考えられるのである。
 問題は、超越性が同一性へと変換してしまい、Media Pointの差異共振性が喪失されることである。つまり、個人主義化されるが、ここには、差異、差異共振性が喪失されるのである。絶対性があるが、それが、個人主義化すなわち近代的自我化されるのである。そして、これこそ、ハイデガーの本来的存在を意味しよう。そして、また、ニーチェの超人(否定的に見た場合)も意味するだろう。ここには、傍若無人な、非社会的な、そう、ホッブズ的な個人があるのである。シェイクスピアで言えば、『リア王』のエドマンド、ゴネリル、リーガンであろう。
 ユダヤ/キリスト教はプロテスタンティズムに帰結したと言えよう。ここでは、イエス・キリストの本来の教え(差異共振性と考えられる。仏教と同じである。)は喪失されて、ユダヤ/キリスト教的一神教の自我の力学が実現したと言えよう。
 結局、プロテスタンティズムとは、ルネサンスから発して、ルネサンス的差異共振性の否定・排除・隠蔽であるということである。そして、このプロテスタンティズムが資本主義と融合しているのである。つまり、唯一神と資本とが一体化しているのである。これは、いわば、絶対的同一性=資本主義であり、差異=他者を否定する暴力・破壊・悪魔主義と言えるのである。
 ここでは、資本が唯一神であり、資本を妨害する差異は排除されるのである。しかしながら、ユダヤ/キリスト教的資本主義が鈍感にも理解していないことは、資本=同一性は、差異(差異共振性)がなければ、発生しないことである。企業とは、差異共振性がなければ、創造性・協力性がなく、成り立ち行かないのである。
 結局、ここには、暴力・破壊・悪魔的なユダヤ/キリスト教的資本主義の乗り越えとして、差異共振的トランス・キャピタリズムが発現する必然性があると言えよう。トランス・モダン政治経済である。
posted by ソフィオロジスト at 21:19| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月03日

プラトニック・シナジー理論(PS理論)の構成図式

表にしようと思ったが、ブログでは表が出ないので、以下のように、図式化する。

1:超越的差異=差異可能(デュナミス)的志向性(超越界)

        ↓ (プラトン、不連続的差異論)

        ↓

2:差異動態(実現、エネルゲイア)的志向性(フッサール)

        ↓

        ↓

3:Media Point(垂直/水平差異共振性)(鈴木大拙、

        ↓ ウスペンスキー、メルロ=ポンティ)

        ↓

3. 5:脱構造的志向性(ポスト・モダン:デリダ、

        ↓ ドゥルーズ&ガタリ)

        ↓

4:超越論的構造性(超越論的差異→超越論的同一性)

        ↓ (ハイデガーの存在→構造主義)

        ↓

5:連続的同一性(現象界、物質界)

説明すると、2において、フッサールとあるが、それは、完全な意味というよりは、志向性において、差異の志向性を示唆していたという意味である。

 4において、上層が超越論的差異であり、ハイデガーの存在である。そして、下層が構造主義の超越論的同一性構造である。

 そして、狭義のポスト・モダン哲学は、4を超える思想であった。デリダの差延/脱構築は、そのような意欲であった。ドゥルーズ&ガタリは、3と4を融合化してしまった。即ち、連続的差異=微分の思想になり、3と4を切断することができなかった。

 メルロ=ポンティ現象学は、「肉」(=身)において、ほぼMedia Pointを捉えた。可視性が5であり、不可視性が1と2である。

 不連続的差異論は、ほぼ1を発見して、3と4とを切断した。

 そして、プラトニック・シナジー理論(PS理論)は、超越的差異の即非・共振性を発見し、さらに、ガウス平面等を適用した数学化によって数理科学化し、さらには、主導的概念である3のMedia Pointを発見した。

 おそらく、以上の図式でいちばん困難な点は、3の超越論的構造である。ここは、言わば、錯綜している。二重構造になっているのである。また、これまで、多くの天才的哲学者が、乗り越えられなかった領域がここであると言える。広義のポスト・モダンであるシェリング、キルケゴール、ニーチェを考えると、2〜4の混淆した領域で思索していたのであり、不明晰に思考していたのである。(ニーチェは実に後一歩というところで、2と4の間を揺れ動いていたと思う。永遠回帰は、正しくは、輪廻転生とすべきであるが、それを同一性の回帰、超越論的構造の回帰にしてしまったのである。)

 また、ロシアの神秘学者ウスペンスキーであるが、「ターシャム・オルガヌム」の概念によって、ほぼ即非論理を捉えていたと考えられる。それは、1〜3の領域のもつ基本論理と言える。

 さて、鈴木大拙であるが、彼は、いわば、超天才的に、1〜3の論理、即非論理を洞察発見したのである。西田哲学の絶対矛盾的自己同一は、ほぼ、即非論理と同様であったと考えられるが、あまりに彼の言語は晦渋であり、不明瞭である。

 さて、不連続的差異論による4の絶対的乗り越えがなかったら、PS理論は創造されなかったであろう。しかしながら、PS理論は、不連続的差異論からの重大な内包的発展・深化である。Kaisetsu氏による数学化がPS理論を数理化して、自然科学へと架橋を構築して、真に文理融合・統一理論の仮説となったのである。

p.s. 私はレヴィナスをほぼ未読なので、よくわからないがイメージとしては、少なくとも、1〜3の領域に入るだろう。直感では、1と2の中間態であろうか。
posted by ソフィオロジスト at 23:25| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月22日

村上春樹の日本語は機械的で、不自然である。彼の文体は日本語言語意識を破壊する。

村上春樹の『ねじまき鳥クロニカル 第1部 泥棒かささぎ編』を読んでいるが、先に触れたが、声の文体と身体性の希薄さを感じているが、違和感を感じつつ読んでいて、日本語が不自然であると感じた。とりわけ、会話の日本語が不自然であると思った。なにか、機械が話しているような人工的な日本語である。言語機械が話しているようである。日本語の会話の不自然さが、おかしさを直接生んでいる原因だと思った。
 例をあげて実証しよう。次は、加納マルタが主人公の岡田亨に電話してきた場面である。

『十一時に加納マルタから電話がかかってきた。
「もしもし」と僕は受話器をとって言った。
「もしもし」と加納マルタが言った。「そちらは岡田亨様のお宅でしょうか?」
「そうです。岡田亨です」電話の相手が加納マルタであることは最初の声でわかった。
「私は加納マルタと申します。先日は失礼いたしました。ところで本日の午後は何かご予定がおありでしょう?」
 ない、と僕は言った。渡り鳥が抵当用資産を持たないのと同じように、僕も予定というものを持たない。
「それでは本日の一時に妹の加納クレタがお宅にお邪魔します」
「加納クレタ?」と僕は乾いた声で言った。
「妹です。先日写真をお見せしたと思うのですが」と加納マルタは言った。
「ええ、妹さんのことでしたら覚えています。でも-----」
「加納クレタというのが妹の名前なのです。妹が、私の代理としてお宅に伺います。一時でよろしいでしょうか?」
「それはかまいませんが」
「それでは失礼します」と加納マルタは言って電話を切った。
加納クレタ?』 p. 154〜p. 155


一見何の変哲もない、ごく普通のように思える電話での会話である。日本語の文法がおかしいわけではない。しかし、注意するとおかしいのである。以下、私が添削する。


『十一時に加納マルタから電話がかかってきた。
「もしもし」と僕は受話器をとって言った。
「もしもし」と加納マルタが言った。「そちらは岡田亨様のお宅でしょうか?」
「そうです(⇒はい)。岡田亨です(⇒不必要)」電話の相手が加納マルタであることは最初の声でわかった。
「私は加納マルタと申します。先日は失礼いたしました。ところで(⇒ところで、不躾で失礼しますが、あるいは、⇒ところで、突然ですが)本日の午後は何かご予定がおありでしょう?」
 ない(⇒いいえ、ありませんが)、と僕は言った。渡り鳥が抵当用資産を持たないのと同じように、僕も予定というものを持たない(⇒持たなかった)。
「それでは(⇒それでは、まことに突然で、失礼しますが)本日の一時に妹の加納クレタがお宅にお邪魔します(⇒妹の加納クレタをお宅にお邪魔させていただきたいと思っていますが、よろしいでしょうか)」
「加納クレタ?(⇒失礼ですが、加納クレタってどなたでしょうか)」と僕は乾いた声で言った。
「妹です(⇒私の妹です)。先日写真をお見せしたと思うのですが(⇒先日写真でお見せした妹ですが)」と加納マルタは言った。
「ええ、妹さんのことでしたら覚えています。でも-----」
「加納クレタというのが妹の名前なのです(⇒加納クレタというのが妹の名前です)。妹が、私の代理としてお宅に伺います(⇒伺うことになります)。一時でよろしいでしょうか?(⇒一時にお伺いしてよろしいでしょうか?)」
「それはかまいませんが(⇒ええ、かまいませんが)」
「それでは失礼します(⇒それでは、勝手なお願いをして失礼しました。よろしくお願いします)」と加納マルタは言って電話を切った。
加納クレタ?』 p. 154〜p. 155

(⇒・・・)の箇所が私の添削である。ざっと添削したので、完全ではないが、それでも、村上春樹の文体が、不躾な、機械的、無機的な言語であることが理解されるだろう。そう、端的に、敬語が崩壊しているのである。恐ろしい悪魔的な作家である。日本語/日本破壊の国賊である。
posted by ソフィオロジスト at 18:56| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月20日

身体の潜在意識と心の顕在意識:量子的身体意識と心的意識:永遠の生々流転するMedia Point

たまたま、テレビをつけたら、筋肉についての番組で、貧乏ゆすりにも意味があることを述べていた。ちらとしか見なかったので、よくわからないが、思いついたことは、「物質」は、感覚をもっているということである。
 不随意筋というものがあるし、また、身体を見れば、さまざまな部位や全体で、「無意識」に身体が活動して、生命を維持しているのがわかる。私は、この身体の「無意識」を問題にしたいのである。
 思えば、鬼才、夢野久作の『ドグラ・マグラ』で、脳中心論に対して、全細胞論を提起している。脳は、電話交換台に過ぎず、主人は全細胞であるということである。これは、私が考えたい、身体の「無意識」に通じるだろう。とまれ、ここでは、『ドグラ・マグラ』についてはこれ以上、述べない。
 深層心理学が、主に心や精神を扱い、身体については、疎かにしているのは、きわめて不十分だと思う。また、ヨガのように、チャクラを活性化させるというのも、身体の無意識の一面を扱っているだけではないかという感じがある。
 私は、身体の物質的過程を身体の「無意識」によるものとして捉えたいのである。これまでの考え方に拠れば、量子があり、これが、「意識」をもっていると考えられる。即ち、量子意識があるということであるが、これは、識閾があり、無意識領域に身体の「無意識」があり、また、ヨガのチャクラのような「意識」が潜在しているのではないだろうか。(p.s. 「気」も、一般には、身体の「無意識」に入るが、訓練によって、識閾を超えて、意識化されるということになるが、しかしながら、すべて意識化されるということではないのではないか。)そして、意識領域には、当然、通常の感覚・知覚・認識の意識が顕在している。
 言い換えると、「意識」は、量子的潜在領域と量子的顕在領域があり、境界によって隔てられているということである。深層心理学は前者の領域に踏み込もうとしたが、充分には、測深できていないと考えられる。
 思うに、禅仏教は、この量子的潜在意識に、瞑想を通して、触れる一種のテクニックであろう。空は、量子的潜在意識のことを意味しているだろう。また、阿頼耶識という考えも、この量子的潜在意識のある階層を捉えたものではないだろうか。
 私は、ここでは、身体の「無意識」に拘るのである。つまり、身体の量子的潜在意識である。内臓を働かせる身体の「無意識」(以下、量子的意識ないしは量子意識)があり、それが、通常の顕在意識にとっては、ブラックボックスのようになって、作用していることになるだろう。
 血液の「意識」があり、ホルモンの「意識」があり、栄養の「意識」等々があるだろう。これらは、基本は量子的意識であるが、この場合、より的確に言えば、分子的意識だろう。
 では、これらの量子ないしは分子的意識と通常の顕在意識はどう関係しているのだろうか。今日は、ストレスの問題、心因性の問題がはっきりとしている。哲学では、心身論である。
 ここで、スピノザ哲学を考えると、それは、身体性に注目した哲学であり、心身平行論を立てたのであるが、精神の感情と身体との平行性に注目したものであるから、今日の心身論を先取りしているだろう。
 とまれ、量子/分子的潜在意識と顕在意識の関係はどういうものなのかである。PS理論から見ると、Media Pointでの差異共振性が重要なポイントである。主体と他者との共振性が基本である。これは、思うに、潜在意識と顕在意識の両領域において、共通するのではないかと思われるのである。差異と差異とが共振して、エネルギーが放出される。そして、身体的回路が機能する。つまり、身体共振回路である。
 そして、顕在意識においては、差異と同一性との両面が生起する。問題はストレスである。自己にとって、好ましくない、不快な事態が生じる。このストレスの負荷とは何だろうか。
 不快なものとは、主体の何に「被害」をもたらすのだろうか。端的に、精神・心に害をもたらすと言えよう。困難な仕事を生じたとき、他者に侮辱されたとき、暴力をふるわれたとき、人生がうまくいかないとき、等々あるだろう。
 スピノザ的に言えば、悲しみがもたらされたときである。端的に、苦がもたらされたときである。苦痛・苦悩でストレスが生じるのである。
 では、苦・苦痛・苦悩・苦悶等々とは、主体の心の様相をどう変えるのか。これは単純に、肯定様態があり、否定様態があると言えるだろう。肯定様態とは、主体の心が、歓喜に満たされているときである。では、歓喜とは何か。それは、心のもつ欲求が満足されるときに生起する心的様態であろう。(では、欲望とは何だろうか。それは、身体的ではないのか。食欲、性欲、物欲等々とあるが、それは、心と関係しないのか。この点は後で検討したい。)
 主体の心の欲求が満足するときに、歓喜があり、それが否定されるときに、苦が生じるだろう。人間には、自尊心があり、主体の心の権利がある。心的権利である。それが肯定されれば、歓喜となるし、それが否定されれば、苦となる。心的権利には、当然、自由等の民主主義的権利が入るだろう。
 この心的欲求や心的権利が否定されるときの苦とは、心に損害を与えていると言えよう。心痛である。これは、顕在意識的である。しかしながら、ストレスであるから、当然、身体へも影響するのであるが、心と身体とはどう関係しているのだろう。
 そう、心的感受性があり、それの苦が、身体へと影響するということだろう。ここで、自己認識方程式を使用すると、i*(-i)⇒+1の左辺を敷延して、iを心、-iを他者ないしは身体としよう。すると、i←(-i)が他者ないしは身体から主体への影響となるだろう。
 共振性において、歓喜があるとするならば、他者ないしは身体から同一性を強いられるというのは、苦である。すると、感受性とは、iと-iとの間に存すると言えるだろう。それは、Media Pointではないだろうか。
 このMedia Pointへの損害がストレスということだろう。そして、Media Pointこそが、心と身体をつなぐ領域ではないだろうか。つまり、心のMedia Pointがあり、身体・物質(量子)のMedia Pointがあり、それらは、共振的一致しているのではないだろうか。Kaisetsu氏のメディア共鳴が存しているのではないだろうか。
 言い換えると、Media Pointにおいて、心と身体とが共振的一致しているということではないだろうか。心のエネルゲイア(エネルギー)があり、身体のエネルゲイア(エネルギー)があり、それらが、Media Pointで、交叉・交流ないしは相互変換しているのではないだろうか。
 以上のように、作業仮説的ではあるが、考えられるならば、心因=ストレスが身体へ影響することは、合理・整合的に説明できるだろう。 Media Pointにおいて、エネルゲイア(エネルギー)の質的変換によって、心因が、身体・物質(量子/分子)的結果をもたらすと言えるだろう。
 これは、また、逆も言えるだろうが、識閾があるから、自覚症状がないということが当然考えられるのである。
 よく「霊能者」が病気を当てるようなことが主張されるが、思うに、「霊」というものを、量子/分子的意識と考えるならば、それは極めて特異ではあるが、考えられることである。つまり、「霊能者」ではなくて、量子意識者と考えればいいのである。量子意識者は、身体の量子状態を察知して、そこで、異常を発見するということになるだろう。
 ここから敷延すると、霊視というのも、量子意識的視覚と言えるだろうし、予言というものの、量子意識によって量子状態を認識して、「予言」しているということになるのではないだろう。「予言」は、一種「預言」である。つまり、ある人間の量子意識には、その人の無意識的意向があり、それを認識することで、その人が近未来的にどう行動するか認識できるということではないだろうか。
 この考えを更に敷延して、輪廻転生問題を考えるとどうだろうか。前世はどうであったとか、来世はどうであるかとかはどう説明できるだろうか。
 これは、阿頼耶識の問題にも関係するだろう。この問題は、端的に、人間とは何か、心とは何か、身体とは何か、存在とは何か、生とは何か、死とは何か、等々という根本的問題である。
 量子意識を想定すると、それは、虚界と実界との境界にある意識、Media Pointの意識である。それは、いわば、未来と過去との狭間にある意識である。未来は虚界から来るだろうし、過去は実界にあるだろう。とまれ、量子意識は、過去と未来の意識をもっている。これは、思うに、前世や来世ではなくて、個の無意識・潜在意識ではないだろうか。自己の過去の無意識があり、そして、未来への無意識がある。過去的量子意識と未来的量子意識である。これが、前世や来世になっているのではないだろうか。
 問題は、量子意識・Media Point意識の意味である。つまり、問題の核心は、ここには、イデアが潜在していることである。永遠普遍がここに潜在していることである。それをイデア遺伝子と呼んでもいいのかもしれない。あるいは、差異遺伝子である。
 私は、今の感じでは、思いつきでは、Media Pointとは、一種永遠的なのではないかということである。あるいは、生々流転する永遠である。
 完全なる永遠は、イデア界・虚界であるが、これは、涅槃であり、死の世界である。しかしながら、Media Pointは、イデア的でありながら、エネルゲイアをもち、生成消滅を反復するのではないか。
 ここが最大のポイントである。そう、Media Pointが阿頼耶識なのではないか。つまり、今、私がイメージしているのは、Media Pointの量子意識があり、それが、同一性化して現象世界が形成している。しかし、現象世界は、端的に、仮象(マーヤ)である。本体は、少なくとも、 Media Pointだと思うのである。(ハイデガー現象学ならば、存在である。)
 しかしながら、Media Pointは、エネルゲイア(エネルギー)であるから、生成消滅ないしは生々流転するのである(ヘラクレイトス)。しかし、このエネルゲイア(エネルギー)は、根源的イデア界・虚界によって、永遠補給されるのではないのか。
 ここがポイントである。つまり、先にも述べたように、反復がここで発生するのではないのかということである。一つのエネルゲイアのサイクルがあり、そして、新たなエネルゲイアのサイクルが生起する。正に、生々流転である。これが、輪廻転生の本来の意味ではないのか。
 では、もしそうならば、阿頼耶識という考えはどう理論化できるだろうか。生々流転を認めたとしても、量子意識の記憶・記録・蓄積はどう説明できるのだろうか。
 思うに、顕在意識における知覚や認識の本体とは、差異であり、Media Pointであろう。心、魂、精神、霊魂等と言うと、唯心論的なので、誤解を生むので、量子意識であると言おう。量子意識が知覚や認識の本体であるということになろう。
 現象世界において、個体は、世界を感覚し、知覚し、認識するが、それは、量子意識が差異/同一性の様態において、そうしていると言えよう。例えば、花を感覚し、知覚し、認識するとしよう。これは、主体の同一性志向性において、把握しているのである。ここでは、光を媒介としているから、花の光が主体に影響しているのである。(もっとも、主体の内的な同一性志向性の光もあるだろう。両者の交叉があるが、この点は、ここでは置いておく。)
 光や主体の認識が、主体のMedia Pointに影響をもたらすだろう。簡単に言えば、波動によって、Media Pointが影響されるだろう。つまり、外界的様態がMedia Pointの様態に記憶されることになるのではないのか。
 問題は、そのMedia Pointの様態が消滅するのではないのかという疑問が浮かぶことである。つまり、永遠に記憶されるのではなく、一つのサイクルで終了して、次のサイクルはリセットされるのではないのかという疑問が生じるのである。
 これは、微妙な問題である。量子意識が普遍であるならば、記憶は普遍である。量子意識が一回のサイクルで消滅するならば、記憶は一時的である。輪廻転生はない。
 ここで少し発想を変えて、Media Pointのカスタマイズ化というようなことが考えられるならば、記憶の普遍はあり得るだろう。Media Pointのカスタマイズ化とは何か。それは、Media Pointの質的差異化である。
 とまれ、もう一度、考え直そう。Media Pointは生々流転する永遠ではないかと上述した。エネルゲイア(エネルギー)は、現象化して、消尽すると言えよう。しかしながら、Media Pointのエネルゲイア自体は残っているのではないか。生成流転するのは端的に現象である。そして、現象の核心であるMedia Pointは、いわば、不滅の核ではないのか。
 ここは確かに微妙な点である。とまれ、現象を認識するとはどういうことなのか。あるいは、現象を経験するとはどういうことなのか。現象を認識したり、経験するのは、本来、Media Pointにおいてである。一般には、Media Pointからの同一性志向ないしは同一性構造によって支配されているので、同一性的経験となるのである(無明)。
 しかしながら、同一性は、Media Pointの一つの側面であるから、Media Pointが記憶しているはずである。量子意識の記憶である。おそらく、量子意識の波動の変容・変質である。波動の変容・変質とは、エネルゲイアの変容・変質ではないのか。そう、量子意識の波形というものを考えると、波形変化があると思うのである。
 波形変化とは何だろうか。これは、Media Pointの変容を意味するのではないだろうか。
 今、壁にぶつかっている原因は、Media Pointに普遍性を見ることと、Media Pointに単に一時的な生成消滅を見ることの齟齬にある。後者の考えは単純なので、結局、前者が可なのか、不可なのかである。私のイメージでは、 Media Pointに何らかの原型性が見られる。その原型性が考えられるならば、普遍性はあるのであり、輪廻転生も生起するのである。
 こういうことではないだろうか。Media Pointにおいて、差異が連続化するときに、同一性の現象が発生する。ここにおいて、エネルギーが放出される。生成消滅するのは、当然、現象である。エネルギーも生成消滅する。しかしながら、本体のMedia Pointにおいては、いわば、永遠の振動があるのではないのか。
 不連続な即非差異があり、それが連続化し、エネルギーを放出する。しかし、連続化ないしは同一性化とは、現象化ではあるとは言え、Media Pointにおいては、不連続性と連続性が併存しているのであり、連続性という顕在面において、現象が形成しているのである。つまり、私が言いたいのは、連続性の潜在面があるのではないのかということである。簡単に言えば、連続性という面があるとして、表面として現象面があり、裏面としてMedia Point面があるということである。これは、Media Pointの側から見れば、表面として連続的Media Point面と、裏面としての現象面があるということである。
 そして、現象面としての連続性は、確かに、生成消滅すると考えられるが、Media Point面の連続性は、生成消滅せずに、現象の記憶を保持するのではないだろうか。
 もしそう考えられるならば、Media Pointの潜在性は、永遠的であろうし、輪廻転生するだろう。そして、これが、仏教・唯識論の阿頼耶識となるだろう。カルマ(業識)はあるのである。
 だいぶ長くもなったので、今はここで留めたい。
 
参考:阿頼耶識
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki08.html
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%A4%CD%EA%CC%ED%BC%B1
http://digitalword.seesaa.net/article/21897058.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
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2007年03月24日

メディア・ポイントMePoの構成の試論:即非的一性としてのMePoと実数軸上の相剋・相生分極性

メディア・ポイントMePoの構成の試論:即非的一性としてのMePoと実数軸上の相剋・相生分極性

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

この問題は、最高の難問の一つであるし、また、プラトニック・シナジー理論PS理論における最核心の問題であり、最重要な問題であると言える。

先に、いろいろ思考実験したが、今一つ不明瞭であるから、さらにここで検討を続けたい。

虚数軸と実数軸との交点であるメディア・ポイントMedia Point(以下、MePo)性質については、ほぼ解明されたと言っていいが、残る問題は、Mepoの構成・構築・構造性の解明である。

超越的差異性と現象的同一性との交点の構成はいかなるものなのであろうか。

異質なもの、不連続なもの同士の交点ないし交叉(交差)とはどういうことなのか。

これまでの大半の哲学・理論の失敗は、両者を連続概念で結びつけてしまったことである。これについては、多く述べたのでここでは省略する。

ここでも直観で述べよう。

超越的差異i*(-i)は、MePoにおいて、現象化するが、現象化とは基本的には、同一性化である。だから、現象同一性化と言ってもいい。

そして、意識において、同一性が支配するが、内的身体において、いわば、潜在意識として、差異=特異性=差異共振性が存してる。これは、いわば、暗い意識である。dark consciousnessである。

意識は、外界の光に応じて、同一性認識を構築する。このとき、言語的認識が同一性認識の道具となる。

しかし、内的身体にある潜在意識は、まだ、不分明である。これは、内観によって、省察を受けないと暗いままで、いわば、分裂したままである(思うに、二重人格の隠れた人格は、この潜在意識と関係しているだろう。これについて説明すると長くなるので、簡単に言うと、これは、同一性意識とりわけ連続的同一性自我意識によって否定された差異意識であるが、否定されているので、反逆的になっていると思われる。

また、デカルトのコギトは、内観による認識、自己認識ではないだろうか。これを、連続的同一性自我認識とすると、近代的自我認識となってしまう。コギトは、複雑であり、本来、内観的自己認識と見るべきであろう。)

内的身体にある特異性が、個におけるMePoであると言っていいだろう。

では、どうして、現象的同一性の世界にあって、超越性と結びつくMePoが個内に存するのだろうか。

一般に、自我認識(連続的同一性自我認識)は、特異性を否定・排除・隠蔽して、忘却しているのである。とりわけ、男性の認識においてそうである。

先に、MePoの1/4回転(スピン)を考えたが、そう考えると、超越的MePoの存在の説明が難しくなるので、そう考えない方が、現象界における超越的MePoの存在は説明できると考えられる。

MePoは、虚数軸のゼロ・ポイントであるし、同時に、実数軸のゼロ・ポイントである。

だから、MePoにおいて、虚数的超越性と実数的同一性が即非的に共存・共立・並立していると考えられよう。

これが、先にも述べたが、最高の微妙さ、いわば、最奥義、最秘儀、最妙味である。奥の院である。

そう、即非的一(いつ)としてMePoを考えるべきだと思う。一如ではなくて、一と見るべきである。

即非的一ないし即非一としてのMePoである。

即ち、MePoとは、超越的差異=虚数軸的差異であると同時に、現象的同一性=実数軸的同一性であるとということである。

そう、絶対矛盾的自己同一としてのMePoである。

即非的一としての、いわば、不思議があるのであり、それが、同一性論理、同一性意識を混乱させると言っていいだろう。

内的身体に特異性としてMePoは存しているのであるが、同一性意識である自我は、これを否定・無視して、同一性に連続化するのである。

そう、特異性と同一性とは矛盾するので、意識は分裂するのである。これは、人間意識の絶対的分裂性と言えるだろう。

この特異性と同一性の分裂であるが、両者は、相克の関係にあると考えられるのである。特異性は同一性を否定し、同一性は特異性を否定するのである。この両者の相克様態が意識内において存すると言えよう(とりわけ、男性の意識においてあると言えよう。女性は、思うに、特異性のエネルギーをもって、同一性を生成変化させるように思われる。)。

この相剋過程において、一般には、同一性が特異性を否定すると言えよう。

そして、これが、連続的同一性自我意識となるのであり、さらには、近代的自我となるのである。

ここで整理すると、MePoは、本来、即非的一の様相をもつのであるが、現象化において、特異性と同一性との相剋的分裂様態が発生すると考えられる。

さらに整理すると、MePoが特異性(特異点)であり、結局、MePoと同一性が相剋様態にあると言えよう。

言い換えると、即非的一と同一性との相剋様態が生起するということである。

思うに、哲学(洋の東西を問わず)は、この相剋様態の解決のために形成されたと考えていいだろう。ただし、東洋哲学は、大乗仏教等によって、即非的一を根本にして、同一性の理論を論破していたといえよう。

しかるに、西洋哲学は、同一性が中心となり、同一性によって、解決しようと努力したと言えよう。ヘーゲル哲学は、即非的一を同一性(=「理性」)に組み込む為に、弁証法を構築したのである。

西洋哲学のおいて、即非的一に近づいた、ないし、達した者は、シェリング、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他の少数者であり、彼らの創造性を、その後の者は、同一性への反動に陥り、理解できなかった。日本では、鈴木大拙を初め、西田幾多郎、九鬼周造、他によって、即非的一の哲学が構築されたのである。

さて、MePoの構成・構築・構造をここで整理すると、それは、端的に、超越性と現象性との即非的一の構成をもつということであり、現象化によって生起した同一性は、特異性=MePoとは、相剋様態にあるということである。

補足すると、同一性と特異性との相剋様態とは、主に男性意識において顕著であり、女性意識においては、本来、相生的であると考えられる。

つまり、女性意識の方が、両者が共生・共存的であると考えられる。

何故ならば、これまで、述べたように、男性は、同一性に傾斜しているのであり、女性は、そのような傾斜がなく、特異性(差異)と同一性の均衡性を本来もっていると考えられるからである。

つまり、男性意識は、i*-(-i)⇒-1となり、女性意識は、i*(-i)⇒+1となるということである。

-1とは原-他者-iの否定があるのであり、+1とは、原-他者の肯定があるのである。

つまり、

-1は、同一性⇒同一性⇒同一性⇒・・・

+1は、同一性⇒差異⇒同一性⇒差異⇒・・・

となると考えられる。

だから、MePoを起点として、男性は、実数軸の左辺(左脳:ヴィジョン的叡知)へ、女性は、実数軸の右辺(右脳:言語的同一性)へと分岐するのだろう。また、MePo自体は、脳梁として見ることができるだろう。

ということで、さらに、MePoの構成を整理すると、超越性(天上性)と現象性(地上性)の即非的一の様相をもち、それが、個における内的身体である特異性(霊性=大地性)を形成している。そして、同一性に傾斜すると、特異性と同一性の相剋様態が生起して、⇒-1となり、実数軸の左辺へと展開する。そして、特異性と同一性との均衡がある場合、特異性と同一性は相生的であり、⇒+1となり、実数軸の右辺へと展開する。前者が男性(左脳)であり、後者が女性(右脳)である。

とまれ、簡潔に言うと、MePoとは、虚数軸と実数軸の交差における即非的一の点、即非的ゼロ・ポイント、即非的原点、即非的核点と言えよう。

おそらく、アリステレスや古代ギリシア人の言ったアルケー(本体)とは、MePoのことを指していると思う。プラトンのイデアもほぼ、MePoと考えていいだろう。有名なコーラであるが、それは、MePoの即非的一性を、より実数軸性で考えた空間ではないだろうか。だから、形相に近いのであるが、形相のような形而下的なものに限定されない。

結局、メディア・ポイントMedia Point(MePo)とは、虚数軸・超越性・天上性と実数軸・現象性・地上性との即非的一性の構成をもち、個における内的身体(霊性=大地性)において特異性となる。現象化=同一性化において、同一性に傾斜する場合は、特異性=差異と同一性が相剋様態となり、⇒-1(連続的同一性)となり、実数軸上の左辺へと展開し、特異性と同一性が均衡する場合は、特異性=差異と同一性が相生様態となり、⇒+1(差異・特異性的同一性)となり、実数軸上の右辺へと展開する。前者が男性性(左脳:言語的同一性)であり、後者が女性性(右脳:ヴィジョン的叡知)である。また、MePoは、物質的には、脳梁であろう。


参考:
アルケー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

アルケー(ギリシア語 :αρχη arkhē)とは、「はじめ・原初・根源 」等のことであり、哲学 用語としては「万物の根源」また「根源的原理」を指す。宇宙 の神的・神話 的な起原である。

[編集 ] 概説

主にミレトス学派 の自然哲学 で議論された。古代ギリシア のアナクシマンドロス がはじめてアルケーの語を用いたとされる。またアリストテレス はその著書『形而上学 』において、哲学 の祖はミレトス のタレース であり、彼は、万物の根源(アルケー)を水 であるとしたと記している。

それ以外にも、ヘラクレイトス は火 を、ピュタゴラス は数 をアルケーとし、エンペドクレース は土 ・水 ・火 ・空気 の四大 からなるリゾーマタ、デモクリトス はアトモス (不可分体)こそがアルケーであるとした。アナクシマンドロスは、無限定者(アペイロン 、en:Apeiron )がアルケーであると考えた。

[編集 ] キリスト教でのアルケー

『新約聖書 』の『ヨハネによる福音書 』は、その冒頭に、コイネーギリシア語 で、「 Εν αρχηι ην ο λογοs (En arkhēi ēn ho logos、エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス)」と記されているが、代表的なラテン語 訳である『ウルガータ聖書 』では、この部分を、「 In principio erat verbum 」と訳している。「 principium 」(principio は、この語の与格 形)はラテン語では、「はじめ」という意味以外に、「原理」という意味があり、ここよりアルケーへの問いは、「世界 の根源 原理 」としての神 への問いとして中世のスコラ哲学 に引き継がれた。

なお、アルケーという言葉のギリシア語での対語は、「テロス」(τελος,telos)であり、テロスは「終わり・目標・完成」というような意味を持つ。『新約聖書・福音書』において、イエズス は、「わたしはアルパであり、オメガである」と述べたと記されているが、アルパ(Α)とオメガ(Ω)は、ギリシア語アルファベットでの最初と最後の字母である。

従って、イエズスは「わたしはアルケーでありテロスである」と述べたとも解釈される。イエズスはギリシア語で語ったのではなく、アラム語 かヘブライ語 で言葉を述べた筈で、ヘブライ文字 だと、最初と最後の字母は、アレプとタウとなり、これはギリシア語のアルケーとテロスの頭文字に対応する。
執筆の途中です この「アルケー」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています。(ウィキポータル 哲学 )
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カテゴリ : ギリシア哲学 | 形而上学 | 哲学関連のスタブ項目


テーマ:メディア・ポイントMedia Point
この問題は、最高の難問の一つであるし、また、プラトニック・シナジー理論PS理論における最核心の問題であり、最重要な問題であると言える。

先に、いろいろ思考実験したが、今一つ不明瞭であるから、さらにここで検討を続けたい。

虚数軸と実数軸との交点であるメディア・ポイントMedia Point(以下、MePo)性質については、ほぼ解明されたと言っていいが、残る問題は、Mepoの構成・構築・構造性の解明である。

超越的差異性と現象的同一性との交点の構成はいかなるものなのであろうか。

異質なもの、不連続なもの同士の交点ないし交叉(交差)とはどういうことなのか。

これまでの大半の哲学・理論の失敗は、両者を連続概念で結びつけてしまったことである。これについては、多く述べたのでここでは省略する。

ここでも直観で述べよう。

超越的差異i*(-i)は、MePoにおいて、現象化するが、現象化とは基本的には、同一性化である。だから、現象同一性化と言ってもいい。

そして、意識において、同一性が支配するが、内的身体において、いわば、潜在意識として、差異=特異性=差異共振性が存してる。これは、いわば、暗い意識である。dark consciousnessである。

意識は、外界の光に応じて、同一性認識を構築する。このとき、言語的認識が同一性認識の道具となる。

しかし、内的身体にある潜在意識は、まだ、不分明である。これは、内観によって、省察を受けないと暗いままで、いわば、分裂したままである(思うに、二重人格の隠れた人格は、この潜在意識と関係しているだろう。これについて説明すると長くなるので、簡単に言うと、これは、同一性意識とりわけ連続的同一性自我意識によって否定された差異意識であるが、否定されているので、反逆的になっていると思われる。

また、デカルトのコギトは、内観による認識、自己認識ではないだろうか。これを、連続的同一性自我認識とすると、近代的自我認識となってしまう。コギトは、複雑であり、本来、内観的自己認識と見るべきであろう。)

内的身体にある特異性が、個におけるMePoであると言っていいだろう。

では、どうして、現象的同一性の世界にあって、超越性と結びつくMePoが個内に存するのだろうか。

一般に、自我認識(連続的同一性自我認識)は、特異性を否定・排除・隠蔽して、忘却しているのである。とりわけ、男性の認識においてそうである。

先に、MePoの1/4回転(スピン)を考えたが、そう考えると、超越的MePoの存在の説明が難しくなるので、そう考えない方が、現象界における超越的MePoの存在は説明できると考えられる。

MePoは、虚数軸のゼロ・ポイントであるし、同時に、実数軸のゼロ・ポイントである。

だから、MePoにおいて、虚数的超越性と実数的同一性が即非的に共存・共立・並立していると考えられよう。

これが、先にも述べたが、最高の微妙さ、いわば、最奥義、最秘儀、最妙味である。奥の院である。

そう、即非的一(いつ)としてMePoを考えるべきだと思う。一如ではなくて、一と見るべきである。

即非的一ないし即非一としてのMePoである。

即ち、MePoとは、超越的差異=虚数軸的差異であると同時に、現象的同一性=実数軸的同一性であるとということである。

そう、絶対矛盾的自己同一としてのMePoである。

即非的一としての、いわば、不思議があるのであり、それが、同一性論理、同一性意識を混乱させると言っていいだろう。

内的身体に特異性としてMePoは存しているのであるが、同一性意識である自我は、これを否定・無視して、同一性に連続化するのである。

そう、特異性と同一性とは矛盾するので、意識は分裂するのである。これは、人間意識の絶対的分裂性と言えるだろう。

この特異性と同一性の分裂であるが、両者は、相克の関係にあると考えられるのである。特異性は同一性を否定し、同一性は特異性を否定するのである。この両者の相克様態が意識内において存すると言えよう(とりわけ、男性の意識においてあると言えよう。女性は、思うに、特異性のエネルギーをもって、同一性を生成変化させるように思われる。)。

この相剋過程において、一般には、同一性が特異性を否定すると言えよう。

そして、これが、連続的同一性自我意識となるのであり、さらには、近代的自我となるのである。

ここで整理すると、MePoは、本来、即非的一の様相をもつのであるが、現象化において、特異性と同一性との相剋的分裂様態が発生すると考えられる。

さらに整理すると、MePoが特異性(特異点)であり、結局、MePoと同一性が相剋様態にあると言えよう。

言い換えると、即非的一と同一性との相剋様態が生起するということである。

思うに、哲学(洋の東西を問わず)は、この相剋様態の解決のために形成されたと考えていいだろう。ただし、東洋哲学は、大乗仏教等によって、即非的一を根本にして、同一性の理論を論破していたといえよう。

しかるに、西洋哲学は、同一性が中心となり、同一性によって、解決しようと努力したと言えよう。ヘーゲル哲学は、即非的一を同一性(=「理性」)に組み込む為に、弁証法を構築したのである。

西洋哲学のおいて、即非的一に近づいた、ないし、達した者は、シェリング、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他の少数者であり、彼らの創造性を、その後の者は、同一性への反動に陥り、理解できなかった。日本では、鈴木大拙を初め、西田幾多郎、九鬼周造、他によって、即非的一の哲学が構築されたのである。

さて、MePoの構成・構築・構造をここで整理すると、それは、端的に、超越性と現象性との即非的一の構成をもつということであり、現象化によって生起した同一性は、特異性=MePoとは、相剋様態にあるということである。

補足すると、同一性と特異性との相剋様態とは、主に男性意識において顕著であり、女性意識においては、本来、相生的であると考えられる。

つまり、女性意識の方が、両者が共生・共存的であると考えられる。

何故ならば、これまで、述べたように、男性は、同一性に傾斜しているのであり、女性は、そのような傾斜がなく、特異性(差異)と同一性の均衡性を本来もっていると考えられるからである。

つまり、男性意識は、i*-(-i)⇒-1となり、女性意識は、i*(-i)⇒+1となるということである。

-1とは原-他者-iの否定があるのであり、+1とは、原-他者の肯定があるのである。

つまり、

-1は、同一性⇒同一性⇒同一性⇒・・・

+1は、同一性⇒差異⇒同一性⇒差異⇒・・・

となると考えられる。

だから、MePoを起点として、男性は、実数軸の左辺(左脳:ヴィジョン的叡知)へ、女性は、実数軸の右辺(右脳:言語的同一性)へと分岐するのだろう。また、MePo自体は、脳梁として見ることができるだろう。

ということで、さらに、MePoの構成を整理すると、超越性(天上性)と現象性(地上性)の即非的一の様相をもち、それが、個における内的身体である特異性(霊性=大地性)を形成している。そして、同一性に傾斜すると、特異性と同一性の相剋様態が生起して、⇒-1となり、実数軸の左辺へと展開する。そして、特異性と同一性との均衡がある場合、特異性と同一性は相生的であり、⇒+1となり、実数軸の右辺へと展開する。前者が男性(左脳)であり、後者が女性(右脳)である。

とまれ、簡潔に言うと、MePoとは、虚数軸と実数軸の交差における即非的一の点、即非的ゼロ・ポイント、即非的原点、即非的核点と言えよう。

おそらく、アリステレスや古代ギリシア人の言ったアルケー(本体)とは、MePoのことを指していると思う。プラトンのイデアもほぼ、MePoと考えていいだろう。有名なコーラであるが、それは、MePoの即非的一性を、より実数軸性で考えた空間ではないだろうか。だから、形相に近いのであるが、形相のような形而下的なものに限定されない。

結局、メディア・ポイントMedia Point(MePo)とは、虚数軸・超越性・天上性と実数軸・現象性・地上性との即非的一性の構成をもち、個における内的身体(霊性=大地性)において特異性となる。現象化=同一性化において、同一性に傾斜する場合は、特異性=差異と同一性が相剋様態となり、⇒-1(連続的同一性)となり、実数軸上の左辺へと展開し、特異性と同一性が均衡する場合は、特異性=差異と同一性が相生様態となり、⇒+1(差異・特異性的同一性)となり、実数軸上の右辺へと展開する。前者が男性性(左脳:言語的同一性)であり、後者が女性性(右脳:ヴィジョン的叡知)である。また、MePoは、物質的には、脳梁であろう。


参考:
アルケー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

アルケー(ギリシア語 :αρχη arkhē)とは、「はじめ・原初・根源 」等のことであり、哲学 用語としては「万物の根源」また「根源的原理」を指す。宇宙 の神的・神話 的な起原である。

[編集 ] 概説

主にミレトス学派 の自然哲学 で議論された。古代ギリシア のアナクシマンドロス がはじめてアルケーの語を用いたとされる。またアリストテレス はその著書『形而上学 』において、哲学 の祖はミレトス のタレース であり、彼は、万物の根源(アルケー)を水 であるとしたと記している。

それ以外にも、ヘラクレイトス は火 を、ピュタゴラス は数 をアルケーとし、エンペドクレース は土 ・水 ・火 ・空気 の四大 からなるリゾーマタ、デモクリトス はアトモス (不可分体)こそがアルケーであるとした。アナクシマンドロスは、無限定者(アペイロン 、en:Apeiron )がアルケーであると考えた。

[編集 ] キリスト教でのアルケー

『新約聖書 』の『ヨハネによる福音書 』は、その冒頭に、コイネーギリシア語 で、「 Εν αρχηι ην ο λογοs (En arkhēi ēn ho logos、エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス)」と記されているが、代表的なラテン語 訳である『ウルガータ聖書 』では、この部分を、「 In principio erat verbum 」と訳している。「 principium 」(principio は、この語の与格 形)はラテン語では、「はじめ」という意味以外に、「原理」という意味があり、ここよりアルケーへの問いは、「世界 の根源 原理 」としての神 への問いとして中世のスコラ哲学 に引き継がれた。

なお、アルケーという言葉のギリシア語での対語は、「テロス」(τελος,telos)であり、テロスは「終わり・目標・完成」というような意味を持つ。『新約聖書・福音書』において、イエズス は、「わたしはアルパであり、オメガである」と述べたと記されているが、アルパ(Α)とオメガ(Ω)は、ギリシア語アルファベットでの最初と最後の字母である。

従って、イエズスは「わたしはアルケーでありテロスである」と述べたとも解釈される。イエズスはギリシア語で語ったのではなく、アラム語 かヘブライ語 で言葉を述べた筈で、ヘブライ文字 だと、最初と最後の字母は、アレプとタウとなり、これはギリシア語のアルケーとテロスの頭文字に対応する。
執筆の途中です この「アルケー」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています。(ウィキポータル 哲学 )
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カテゴリ : ギリシア哲学 | 形而上学 | 哲学関連のスタブ項目

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2007年03月09日

近代主義の彼岸とイデア界:近代主義という大無明とトランス・モダンという新大妙光

近代主義の彼岸とイデア界:近代主義という大無明とトランス・モダンという新大妙光

テーマ:日本再生復興計画

九鬼周造の『偶然性の問題・文芸論』の「情緒の系図」にある和歌や九鬼の分析を読むと、現代の日本が何を喪失したのか、直観的にわかる。

先に、メディア・ポイントMPを近代主義は喪失したと述べたが、正に、そのことが直観されるのである。

「教養」の喪失と言ってもいいのだが。

教養とは、自我から自己・個への成就のための知であろう。

近代主義は、自我主義であり、自己・個を否定するのである。

現代日本の惨状の原因は、ここにあると言っても過言ではない。

PS理論的に言えば、メディア・ポイントの不連続性・超越性の様相、即ち、イデア界の否定が根因としてあるのである。

形而上学や宗教や芸術等は、このイデア様相を志向してきたのであるが、これが、戦後教育、唯物科学教育によって否定されてきたのである。

思えば、私も、完全に唯物科学教育を受けて、主観性の発展を自己否定してきたのである。

私は、ロマン主義と唯物科学の矛盾に、思えば、長い間、悩んできた。ロマン主義は、神秘主義やオカルティズムにも通じるものであるが、イギリス・ロマン主義は、啓蒙主義との関係が深いのである。

思えば、唯物科学の物質主義のフレームワークをどう突破するかが問題であったのである。近代合理主義は、物質的合理主義を前提としているから、それを超越する発想をあざ笑う(あざ笑った)のである。

そう、唯物科学の反動として、神秘主義やオカルティズムやニューエイジ・ニューサイエンスの動きがあったと言えよう。しかし、それらは、反動性を強くもっている。

ポスト・モダンは、確かに、近代を乗り越える処方箋をもたらすように見えた。しかしながら、それも、軽薄に終わった。

私は、三島由紀夫のファンではないが、彼の最高のものは、「文化防衛論」だと思っている。戦後日本への憂国の現われとして、「どこかで断絃の時があったのだ」という一言が鋭く私を刺し貫いた。

「断絃の時」なのである。これは、今や、メディア・ポイントの喪失ないし隠蔽として、理論化できるのである。

そして、本稿の冒頭にもなるのである。そして、この問題は、現代日本で先鋭化しているが、世界全体における問題でもあると言えよう。イデア界・叡知界の喪失なのである。

宗教的次元の喪失と言ってもいいのだが、宗教は、一般に非合理主義の態度を取るので、批判知性を喪失する傾向にあるので、強く主張はしない。宗教を哲学化するとイデア論になると思うのである。この宗教の知性・叡知・合理化が実に根本的に重要なのである。

PS理論は、これを為すものである。

九鬼周造の『偶然性の問題』は、形而上学と経験論とを併せ、重ねて、論じた卓抜した哲学書である。形而上学は、イデア論となるしかないと思うのである。

ここで、飛躍するが、思うに、問題は、ロゴス論にあったと思うのである。あるいは、理性論である。西洋哲学では、理性、知性、悟性、等の区別が実に曖昧である。

この混乱は、ロゴス論にあると思うのである。

ロゴスは、古代ギリシア哲学の用語である。それが、ヨハネの福音書の冒頭に使用されたのである。「初めに、ロゴスありき」である。これを、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と誤訳した。

確かに、ロゴスと言葉は、重なる側面もあるが、一致しない。

そう、ロゴスとは、大乗仏教の法(ダルマ)とほぼ等しいと思うのである。

西洋哲学は、理性を比率等として考えたのである。ratioである。

そう、理とは何か、である。

理はロゴスや法と等しいであろう。

そして、直観では、これは、叡知と等しいのである。

すべては、形而上学的智である。

これを、西洋哲学は、言語化していくのである。

ロゴス=言語の方法である。

ソクラテス/プラトンで言えば、対話術(これが、「弁証法」の原義である)である。ここに、西洋哲学、西洋叡知学のエッセンスがあると言えよう。

無知の知、あるいは、クザーヌスの「知性ある無知」である。

そう、プラトンとアリストテレスの分裂にすべての元凶があると言えよう。プラトンは、形而上学的現象学を説いたのであり、考えれば、現象学の始祖とも言えるのである。そして、アリストテレスは、近代科学の始祖とも言えよう。

この二元論に現代西洋文明の超危機の根因があると言えよう。

いったい何が問題なのか。

これは中世の普遍論争に見ることができるが、私見では、一般性と普遍性の鳥違いが問題なのである。

これは実に単純なことなので、これを錯誤した人類史とは何か、と思わざるを得ない。

即ち、一般性は言語形式であり、普遍性は言語形式を超えた形而上学的真理である。この両者を西洋哲学は、ロゴスや理性や知性や悟性と呼んできたのである。これが大混乱の起源であると思う。

近代主義、近代合理主義、近代的自我の「狂気」の根因がここにあるのである。

結局、個物・個体のhaecceity(個体原理)に普遍性があるのであり、それが、形而上学的普遍性に通じるのである。これは、一見逆説的であるが、そうなのである。

九鬼哲学では、偶然性である。

西洋哲学の観念論は、一般性=言語形式=観念=ロゴス=理性と捉えて、形而上学的叡知を完全に外したのである。カントの純粋理性批判は、この理性と形而上学的叡知との混濁である。

そして、この頂点的帰結がヘーゲル哲学である。

そして、これが、マルクス主義やファシズム=国家社会主義を生んだと言える。現代日本はこの最大・最悪の帰結である。

この一般性と普遍性との混同であるが、結局、個物・個体と一般性が結合(野合)してしまったのである。これが、近代合理主義を生んだのである。

そう、この原因は、アリストテレス哲学にあると言えよう。個物・個体の形相を、イデア界ではなくて、現象・物質的経験界に求めたからである。

個物・個体の形相は、イデア界にあると見るが正しいのである。そして、このイデア界的形相が普遍性なのである。

つまり、内在的超越的形相=イデアが普遍性なのであり、一般性は、単に言語形式に過ぎないのである。

ここで、東洋について言うと、大乗仏教という真に偉大な叡知・思想があったため、知性において形而上学性を保持したのである。大大乗仏教である。

つまり、西洋哲学的見地から言うと、東洋哲学は、イデア論を基礎的に保持しているのである。ということは、逆に言えば、プラトン哲学の東洋性なのである。プラトン哲学は東洋哲学と言うべきなのである。対話術も、東洋性ではないのか。

とまれ、大乗仏教哲学をもつ東洋思想は、初めから、形而上学的知性、叡知学であったのである。

そして、この帰結が鈴木大拙の即非の論理であり、九鬼周造の偶然性の論理であると言えるだろう。(西田哲学も、一つの帰結であるが、彼の言語表現に問題はあるだろう。思うに、どうも、連続性と不連続性との混乱があるように思えるのである。)

日本は、東洋哲学をもち、その上で、西洋哲学を移入し、その結晶が両者の思想・哲学であり、世界に誇るべき成果である。

しかし、日本は、西洋コンプレックスのために、正しい自己評価ができないできてしまったのである。

物質文明へのコンプレックスである。

確かに、世界は、地球は、西洋近代物質主義暴力・狂気文明に侵略されたのである。

そして、その惨状が今も続いているのである。人類終末期を迎えているのである。

さて、問題は、日本である。なぜ、自己を見失ったのか。持論では、排仏毀釈にある。国家神道にある。ここで、日本は、思想的バランスを喪失したのである。

国学は、キリスト教の影響を受けているのである。それは、一神教的志向をもっているのである。これが、他者を喪失させたと思われるのである。

では、なぜ、一神教は他者を喪失させるのか。

一神教は、結局、自我を肯定してしまうからである。自我と唯一神とを一体化させてしまうのである。確かに、本来、一神教の神は形而上学的次元、イデア界的次元に存している。そして、この次元は、自我からは超越した次元である。

しかし、いかに、自我から超越した次元とは言え、唯一神の同一性は、自我の同一性と連続化してしまうのである。凡人・愚者の有り様である。

結局、自我即唯一神となるのである。これが、狂気なのである。

これが、近代的自我である。

自我が普遍性となれば、当然、他者はなくなるのである。

これが、狂気・暴力を生むのである。

確かに、キリスト教等、一神教は、本来的には、優れた宗教であるが、しかし、自我と結びやすい宗教であることは否定できないだろう。

「主」という主語が、他者である述語を支配してしまうのである。

「主」という超越的同一性が、他者・差異を否定しまうのである。

PS理論は、「主」の超越的同一性を否定・無化するものである。

その代わりに、イデアである差異即非様相を置くものである。ここには、差異的同一性があるのであり、自己と他者との共振シナジー様相があるのである。

そう、一神教的「主」が、ここでは、解体して、他者との対話を永遠継続しているのである。

そうすると、一神教とは何か、ということになるだろう。

これまで私が述べてきたことは、それは、自我に傾斜しているということである。あるいは、父権主義であるということである。

「主」・唯一神の「我」とは何か。それは、自我であるのか。「復讐するは我にあり」。もし、イデアが神ならば、それは、「我」になるだろうか。

それは、元知と元身体との即非関係である。あるいは、元自己と元他者との即非関係である。そのイデア・叡知を「我」と言うのだろうか。それは、「我」、「自我」ではありえないだろう。それは、少なくとも、元個、元自己である。あるいは、元自他である。元・我ー汝である。根源的複数である。

だから、やはり、一神教は自我に傾斜している邪教ではないだろうか。
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2007年03月08日

形相の問題:イデア的形相、又は、内在的超越的形象:虚MP⇒実MPの形相変換力学構造について

形相の問題:イデア的形相、又は、内在的超越的形象:虚MP⇒実MPの形相変換力学構造について

テーマ:プラトニック・シナジー理論

イデアの結界―西欧的感性のかたち (単行本)
田淵 安一 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%B5%90%E7%95%8C%E2%80%95%E8%A5%BF%E6%AC%A7%E7%9A%84%E6%84%9F%E6%80%A7%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A1-%E7%94%B0%E6%B7%B5-%E5%AE%89%E4%B8%80/dp/4409040294
を拾い読みして、形相の問題も未解決であると思った。

著者は、プラトンのイデアとアリストテレスの形相に関連して、ネオプラトニストのプロチノスのイデア的形相のようなものを説いている。

これは、内在的超越形式というものではないだろうか。

簡単に言うと、超越論的(内在的超越的)形態・形象である。

この空間を求めたいのである。

プラトンのイデアは、一面として、この元形態・形象性をもっている。

先に、形態に関しては、対称性の破れで説明できると考えたが。

直観で言えば、メディア・ポイントがこの超越論的形態の空間であろう。

例えば、朝顔の元形態はここにあるということになる。

思うに、種子・種ないし卵、あるいは、遺伝子やゲノムという形態の起源は、メディア・ポイントMPではないだろうか。MPは、確かに、イデア界的即非様相が「縮限」される空間のように思えるのである。

元形態が、いわば、折り込まれる、折り畳まれるのがメディア・ポイントであり、その現象態が、種子、卵、遺伝子、等々ではないか。

i*(-i)⇒+1は、このことも表象しているのではないだろうか。iが元雄であり、-iが元雌であり、*がメディア・ポイントであり、受精・生殖等を意味するのではないか。

さて、問題は、元形態である。ここでは、限定して、簡単に考えたい。すなわち、たとえば、花の元形態、馬の元形態、木の元形態、等について解明したいのである。

これは、プラトンのイデアの一様相である。

ここで、上述した著書で引用されているヒルデガルド・フォン・ビンゲンの言葉を引用しよう。

《その形は、神の予定知が、時間が存在するより以前に非肉体性のうちに熟視されたものです。まことに、鏡のまえに置かれたすべての物がそこに自らを映すのとおなじく、神の創造物のすべては、聖なる神性のみ胸に、非時間性のなかにおいて姿を現わすものなのです。・・・光線が被造物の形を照らしだすとおなじく、神の純粋なる予定知は、被造物の形を肉体が包むそのまえに熟視されるのです。ということは、それぞれの物は神の御予定にしたがって、肉化に先立ち、予定知のただなかにおいて似像として燦然と輝いているのです。」pp. 96~97

「予定知」とは摂理providenceということであろう。

この箇所において、元形態の問題点は、神が熟視する元形態であるということである。当然、神と元形態はことなっているのであるが、神の内部に元形態があるのである。「被造物の形を肉体が包むそのまえ」という点について言うと、「肉体がつつむ」とは現象化である。だから、現象化あるいは物質化以前に、元形態があるということで、PS理論的には、元形態空間は、メディア・ポイントではないかと思われるのである。

しかしながら、問題は、メディア・ポイントから実数軸上への展開である現象化の構造である。

先に、+1ないし⇒+1がメディア界ではないか、また、-1ないし⇒-1が現象界ではないかと示唆した。

これらをどう整理するのかである。

端的に言えば、元形態空間は、メディア・ポイントなのか、+1なのか、それとも、メディア・ポイントから+1の過程、等にあるのかである。

思うに、実数軸は、これまで、現象界と考えたのだから、+1が元形態空間とするのは、明らかに、不合理である。

少し議論が外れるが、メディア・ポイントと+1について考察すると、不連続的差異論におけるメディア界に相当するのがメディア・ポイントであると言えよう。だから、先に、+1をメディア界と考えようとしたのは、誤りである。ただし、+1は、メディア・ポイントとの関係が、-1よりも強いと思われる。というか、メディア・ポイントは、エネルギー変換点である。ここで、イデア・エネルギー(元エネルギー)が、同一性エネルギーへと変換されるのである。ここに分極化があり、+1の同一性エネルギー(差異的同一性エネルギー)と-1の同一性エネルギー(連続的同一性エネルギー)へと分化(分相化)すると考えられるのである。

差異即非様相から同一性様相への変換点がメディア・ポイント(メディア界)であり、ここにおいて、既に、元形態が生成していると言えよう。

というか、実際は、精妙である。すなわち、メディア・ポイントの二相性に注意しないといけない。虚数軸上のメディア・ポイントと実数軸上のメディア・ポイントを理論的に区別する必要があると考えられる。

前者を、とりあえず、虚メディア・ポイント(虚MP)、後者を実メディア・ポイント(実MP)と呼び、区別したい(MP・0iとMP・0?)。

思うに、虚MPと実MPとの重なりの様相に重要な問題があると言えよう。また、それらと±1の関連の問題がある。

とまれ、虚MPは、イデア界にあり、思うに、これが、元形態空間ではないのか。ここに超越的形相(いわば、エイドスeidos)があるのではないのか。そう考えると、本件の問題が解明されることになるだろう。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの言葉にある「被造物の形」は、虚MPに存しているということになるだろうし、「神のみ胸」とは、イデア界で、虚数軸空間のことであると言えよう。確かに、虚数軸上に虚MPは存するのである。

すると、虚MPから実MPへの変換が《天地創造》ということになるだろう。「光あれ」である。(因みに、ハイドンのオラトリオ『天地創造』を聴いていたのである。偶然の一致であるが、思うに、天地創造のことが無意識にあったので、この曲を選択したのかもしれない。)

では、虚MPから実MPへの変換とは何か。それは、既述済であるが、同一性化である。現象化である。おそらく、単純に物質化とは言えないと思う。なぜなら、+1が精神ないし自己であり、-1が物質ないし自我であると考えられるからである。つまり、同一性化とは、+1の精神・自己化と-1の物質・自我化の両面・両義性があると考えられるのである。

いろいろ細かな問題があるが、それは置いて、ここでは、同一性化の力学構造を考えたい。虚MPから実MPへの変換力学構造を考えたいのである。

思うに、虚MPにおいて、元形態があるならば、それは、ここには、元1の形態があるということではないのか。つまり、元±1の形態ないし元形態があるということではないだろうか。

そうならば、元±1としての虚MPであろう。では、実MPとの関係はどうなのかである。思うに、実MPは、種子、卵、遺伝子等であろう。だから、元±1としての虚MPと見ていいだろう。(メルロ・ポンティは、身体的現象学において、虚MPと実MPを混合していると思うのである。)

問題は、やはり、虚MP(iMP)と実MP(rMP)との変換構造である。

この変換力学とは何か。

やはり、回転ではないだろうか。ベクトルiとベクトル-iとの1/4回転が発生して、±1が生起するのではないだろうか。

つまり、iMP⇒rMPの⇒とは1/4回転を意味するということになる。

つまり、イデア界的内在的エネルギーによって、iMP⇒rMPの変換が生起するということになる。この点は再考したい。

とまれ、以上から、元形態は、iMPにあることになった。ここが、イデア的形相(エイドス)の空間ということになった。(今、地震がある。14:06pm)

ついでに、プラトンのいうコーラのことを考えると、それは、いわば、形態発生空間であるから、端的に言えば、MPのことであり、より精緻に言えば、iMP⇒rMPのことであると言えよう。

さらに言えば、プラトンのいうイデアとは、以前述べたように、少なくとも二種類あるのである。それは、差異共振シナジーとしてのイデアである。それは、 i*(-i)としてのイデアである。もう一つは、ここで述べた元形態としてのイデア(エイドス)である。すなわち、iMPとしてのイデアである。

さらに展開して、アリストテレスの形相についていうと、それは、iMPを否定して、rMPだけを取りだしたものであろう。rMPは確かに、個物・個体内的元形態と考えられるのである。

PS理論は、フッサール現象学の意味において、超越論的理論であるから、内在的超越性としての「イデア」を現象における分有として見ている。それは、私の言葉では、特異性である。九鬼哲学の言葉では、偶然性である。ドゥンス・スコトゥスでは、存在の一義性である。スコラ哲学のhaecceityである。ライプニッツのモナドである。

内在的超越性において、内在性とはrMPであり、超越性がiMPであると言えよう。因みに、ポスト・モダンないしポスト構造主義の誤りは、両者を混同したことになる。典型がドゥルーズであり、フッサールの超越性を否定して、内在性に限定してしまったのである。また、デリダについて言うと、彼の誤りは、ドゥルーズの正反対で、超越性のみを肯定して内在性をロゴス中心主義として否定したことにあろうだろう。言い換えると、デリダ(初期デリダ)は、同一性をロゴス中心主義として否定して、超越性のみを肯定して、それを示唆・暗示するしかないという袋小路に陥ったのである。
 
即ち、デリダは、同一性には、連続的同一性と差異的同一性の二つがあることを知らずに、すべて同一性を否定したために、いわば、不可知論に陥ったのである。それで、あのようなエッセイ的な論述となったと言えよう。

ドゥルーズは、差異を内在性に見て、デリダは差異を超越性に見たのである。両者、正反対で、また、一面的であった。両者とも、フッサールを把捉できなかったと言えよう。やはり、繰り返すが、ハイデガーによるフッサール現象学破壊が要因だと思うのである。ハイデガーの理論は、超越性を否定した内在性の理論なのであるからである。

以上の解明を簡単にまとめると、PS理論において、メディア・ポイントMP空間に虚MP(iMP)から実MP(rMP)への変換力学構造を見て、元形態が虚MPにあり、それが、実MPへと変換されて、現象化が生起すると考えたのである。実MPは、具体的には、種子、卵、遺伝子等々である。言い換えると、プラトンのイデアがより明確化されたのである。差異共振シナジーとしてのイデアと元形態(エイドス)としてのイデアを分明できたのである。

ついでながら、PS理論は、西洋哲学における二元論的分裂、プラトン的観念論とアリストテレス的実在論を形態論的に統一したと言えよう。既に、この統一は、一般理論的には為されていたのではあるが。

最後に、敷延して言うと、素粒子や量子であるが、それは、ここでの形態論が適用できると思われるのである。即ち、元素粒子ないし元量子は、虚MP にあり、それが、観測においては、実MPに空間化されると思うのである。真空というは、実MPであろう。量子力学は、虚MPを見ていないと考えられるのである。唯物論なので、イデア界の虚MP空間に進展できないのである。それで、非局所性の問題等があると思うのである。有り体に言えば、元素粒子、元量子とは、虚MPにおける差異共振シナジー=イデアなのである。差異即非共振シナジー=イデアなのである。虚MPにおける元粒子・即非・元波動のイデアが元素粒子・元量子と考えられるのである。

これが、実MPにおいては、粒子と波動との相補性として理解されていると思うのである。つまり、物質論的に、「素粒子」と「量子」は、一方では、粒子であり、他方では、波動であるということである。

しかしながら、「素粒子」や「量子」の実体は、虚MPの差異即非イデアである。無時間的イデア界にある「素粒子」や「量子」、即ち、元素粒子、元量子を素粒子論や量子論は唯物論に囚われているので、認識理解できないと考えられるのである。

わかりやすく言うと、素粒子や量子は、虚MP⇒実MPの変換力学構造における、イデアの影像であると考えられる。
posted by ソフィオロジスト at 15:44| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月27日

メルロ=ポンティの身体論について:連続的身体と超越的身体

『メルロ=ポンティ 可逆性』を拾い読みしているが、ここで、乱暴だが、直観で、メルロ=ポンティの思想を考えてみたい。

 リヴァーシブルな「襞」や両義性という用語が、裏表紙に書かれている。これは、PS理論から見ると、実にわかりやすいことである。

 これは、i*(-i)の即非事相を、メディア・ポイントの連続面で捉えた観念用語であろう。

 メルロ=ポンティの身体とは、メディア・ポイントの連続的身体面であるように思える。ここでは、対立であり、且つ、一如(いちにょ)であるという事相が発生する。しかし、力点は、後者の一如・一体性にあるように思える。だから、メディア・ポイントの連続面の思考であると思えるのである。

 問題は、身体性である。なぜ、身体論なのか。それは、思うに、先に、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と言ったことと関係するように思えるのである。

 近代合理主義は、元知中心主義であり、個体において、元身体を排除しているのである。この排除は、単に、元身体の排除だけでなく、元知・即非・元身体という超越的差異共振性(霊性)を排除しているのである。そして、近代主義が飽和状態になると、否定された元身体が反動して発動するが、それと同時に、超越的差異共振性も発動するようになると考えられるのである。

 この観点から見ると、メルロ=ポンティの身体論は、身体的連続的同一性と超越的差異共振性との混淆であるように思えるのである。そう、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と同質であると思えるのである。

 ここには、身体的連続的同一性と超越的即非性との未分化的混淆があると考えられるのである。身体的連続性は感覚的であり、超越的即非性は思想・観念的である。思うに、前者が文学的レトリックとなり、後者が理論的考察となり、混淆して、あのような文体を生んでいるように思えるのである。

 だから、ポスト・モダン的なのである、メルロ=ポンティは。そう、作家に近い表現であると言えよう。

 私の言葉で言えば、内身体性や大地性なのである。ここに、超越性が内在(内蔵)するのである(参照:如来蔵)。思うに、メルロ=ポンティは、明確に、内身体性=大地性を捉えていない。外在的身体と未分化である。外在的身体は連続性を発生させるのである。内身体性と外在的身体性との未分化混淆様態において、メルロ=ポンティは、思考しているのである。

 内身体性は、不連続なのである。だから、思うに、メルロ=ポンティは、超越的即非性に達するまで、後一歩であったと思うのである。

 フッサールは大天才だから、初めから、超越性(イデア)に達していた。しかし、一般には、身体において、超越性は始動すると考えられるのである。そのとき、連続性と不連続性の混淆様態になるのである。この様態にメルロ=ポンティは留まったように思えるのである。

 思うに、身体とは何だろうか。大乗仏教、とりわけ、『大乗起信論』は鋭敏である。それは、阿頼耶識(あらやしき)と如来蔵(にょらいぞう)である。しかし、前者は連続態と不連続態の中間混淆態である。後者が、超越的身体であると思う。

 ついでながら、差異共振シナジー通貨制度としての銀本位制であるが、現代の通貨制度が完全に連続性であるのに対して、不連続性の通貨制度であると思うのである。なぜなら、銀という個物は、特異性であるからである。特異性は、不連続性であるからである。また、それは、超越的身体である。超越的身体の通貨制度としての銀本位制である。

参考:
モーリス・メルロー=ポンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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メルロー=ポンティ
メルロー=ポンティ

モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908年3月14日 - 1961年5月4日)は、フランスの哲学者。現象学を学び、その発展に尽くした。

彼の哲学は「両義性の哲学」「身体性の哲学」「知覚の優位性の哲学」と呼ばれ、従来対立するものと看做されてきた概念の<自己のの概念>と<対象の概念>を、知覚における認識の生成にまで掘り下げた指摘をしている。例えば、「枯れ木」があるとします。子供の頃(最初に見た時)は、「枯れ木」という存在を眼で見て、「枯れ木」は<名前のない現象として>知っていますが、「枯れ木」という言葉(記号)を知って初めて、恒常的に認識出来るのですね。そして、「枯れ木」という現象が「枯れ木」というものの(同一言語下で)共通した認識を得るのですね。

≪それは、「枯れ木」を含む場景を見て知っていたが、「枯れ木」という言葉を知らなかったので、「枯れ木」を知らなかった。≫という言葉に理解を求めたい。

また、精神と身体というデカルト以来の対立も、知覚の次元に掘り下げて指摘し、私の身体が<対象になるか><自己自身になるか>は、「どちらかであるとはいえない。つまり、両義的である。」とした。一つの対象認識に<精神の中のものであるか><対象の中のものであるか>という二極対立を超え、私の身体のリアリティは、<どちらともいえない>。しかし、それは無自覚な<曖昧性>のうちにあるのではなく、明確に表現された時に<両義性>を持つとした。そして、その状態が、<私という世界認識><根源的な世界認識>であるとした。そこには、既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察なのですね。それは、論理実証主義哲学、分析哲学、プラグマティズムなどの<言語が知られている次元>からの哲学に厳しい指摘をしたといえる。そこには多くの哲学の垣根を越える試みが見られ、また、異文化理解や芸術、看護学などに大きな影響を与えた。

また、そういう知覚の優位性からの、新しい存在論の試みが『見えるもの見えないもの』で見られる。しかし、彼の絶筆が『見えるもの見えないもの』であるので、志途中での彼の死は、惜しまれるものである。しかしながら、後世の哲学者による彼の思考の継承は、誤謬の修正から真理の起源まで幅広く影響を与えるものである。

[編集] 邦訳主要著作

・『知覚の現象学』 中島盛夫訳 (叢書ウニベルシタス) 法政大学出版局

・『意味と無意味』 永戸多喜雄訳 国文社

・『ヒューマニズムとテロル』改訂版 森本和夫訳 現代思潮社

・『知覚の本性初期論文集』 加賀野井秀一編訳 (叢書ウニベルシタス) 法政大学出版局

・『見えるものと見えざるもの』 クロード・ルフォール編/中島盛夫監訳(叢書ウニベルシタス)法政大学出版局

・『行動の構造』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1964)

・『眼と精神』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1966)

・『知覚の現象学1』 竹内芳郎・小木貞孝共訳 みすず書房 (1967)

・『知覚の現象学2』 竹内芳郎・木田元・宮本忠雄共訳 みすず書房 (1974)

・『シーニュ1』 竹内芳郎監訳 みすず書房 (1969)

・『シーニュ2』 竹内芳郎監訳 みすず書房 (1970)

・『弁証法の冒険』 滝浦静雄・木田元・田島節夫・市川浩共訳 みすず書房 (1972)

・『言語と自然』コレージュ・ド・フランス講義要録 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1979)

・『世界の散文』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1979)

・『見えるものと見えないもの』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1989)

・『メルローポンティの研究ノート』新しい存在論の輪郭 菊川忠夫編訳 御茶の水書房(1981)

[編集] 関連図書

・『現象学』 ジャン・フランソワ・リオタール著 高橋允昭訳 文庫クセジュ 白水社 (1965)

・『現代フランスの哲学』実存主義・現象学・構造主義 ピエール・トロティニョン著 田島節夫訳 文庫クセジュ 白水社 (1969) 

・『現象学』 木田元著 岩波新書 (1970)

・『現象学』 新田義弘著 岩波全書 (1978)

・『メルローポンティの哲学と現代社会』(上・下) L・スパーリング著 菊川忠夫訳 御茶の水書房 (1981-1982)

・『知の最前線』 現代フランスの哲学 ヴァンサン・デコンブ著 高橋允昭訳 TBSブリタニカ(1983)

・『メルローポンティの思想』 木田元著 岩波書店 (1984)

・『現象学の射程』 フッサールとメルローポンティー 水野和久著 勁草書房 (1992)

・『「自分」と「他人」をどうみるか』 滝浦静雄著 NHKブックス (1992)

・『メルローポンティ』 可逆性 鷲田清一著 講談社 (1997)

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3" より作成

カテゴリ: フランスの哲学者 | 現象学 | 身体論 | 1908年生 | 1961年没
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2007年01月04日

認識と身体:ガウス平面上の1/4回転力学に基づく自然・宇宙(コスモス)の歴史・進化

 もう一度、認識と身体について考えたい。先に認識が存在であると述べた。志向性は存在でもあるのである。知即存在である。これは、言い換えると、思惟即延長ではないだろうか。あるいは、精神即身体ではないだろうか。心即身体である。
 しかし、先に、連続的同一性によって、物質化が生起すると考えたのである。心身二元論である。i*(-i)であるが、これは、主体と他者の差異共振シナジー相であるが、主体iは心、他者-iは身体と見てきたのである。つまり、心と身体とが、差異共振シナジー相では、即非様相にあるのである。おそらく正確に言うと、主体iは原心であり、他者-iは原身体であろう。これが、即非結合して心身態(原心身態)を形成しているのである。そして、これが、本来の精神である。精身と言ってもいいくらいだろう。とまれ、心身=精神から、連続的同一性化が発生して、心身二元論が生まれるのである。(宗教観念で言うと、連続的同一性が悪魔であろう。例えば、ゾロアスター教の光のアフラ・マズダは心身・精神であり、闇のアンリ・マンユが連続的同一性である。)
 この連続的同一性により心身二元論が発生し、この心は物質的心であり、身体も、当然、物質的身体である。つまり、根源の心身・精神が否定・排除・隠蔽されているのである。
 では、いったい、このとき、現象とは何なのであろうか。現象化を連続的同一性化と、これまで見たのであるが。現象化とは、同一性化と言えるだろう。イデアから、個体・個物(同一性)が発現するのだから。しかしながら、連続的同一性化と差異的同一性化があるのである。前者が物質的個体であり、後者が精神的個体である。そう、自然は、両者を産出すると言えよう。闇の個体と光の個体を産み出すと言えるだろう。−1と+1である。だから、自然は二重であると言えよう。物質的自然と精神的自然である。シェイクスピアの『リア王』で言えば、リア王の長女・次女ゴネリルとリーガンの自然と末娘コーディリアの自然である。これは一対であると言える。悪と善は一対である。暴力と調和、戦争と平和は一対であると言えるだろう。だから、この点では、ヘラクレイトスの対立と調和の一致の極性思考は正しいと言えよう。闇の自然があり、光の自然があるのである。私が先に美しいと言った、晴れた日の、海に近い川土手の木立のある家の光景であるが、その《光》は、後者であろう。つまり、精神的自然をそこに見いだしていることになるだろう。差異が共振している自然の風景なのである。そう、セザンヌの有名なリンゴの静物画も、差異共振シナジーを表現しているだろう。だから、至高美なのである。
 結局、自然は二面があるのであり、ジキルとハイドであると言えるだろう(もっと、細分化すれば、多重性である)。ユング/ヘッセのアブラクサス(善悪二重神)である。キリスト教は、悪を認めないようにしてきた。それは、善の欠如であると見ようとしたのである。
 また、近代合理主義は、連続的同一性・闇の自然に理性を見いだして、差異的同一性・光/精神の自然を否定してきたのである。つまり、物質的合理性のみを認めて、精神的合理性を排除してきたのである。唯物合理主義である。闇の合理主義、悪魔の合理主義である。
 この自然の二面性について、さらに精査しよう。同一性化は、連続的同一性化と差異的同一性があり、自然は、両者を発現したと言えるだろう。思うに、ここが、ジェンダー・性差と関係するのではないだろうか。連続的同一性化とは男性化であり、差異的同一性化とは女性化ではないだろうか。戦争と平和である。混乱を避ける為に、連続的同一性化を原雄化、差異的同一性化を原雌化と呼ぼう。つまり、自然は、この対を発現すると言えるだろう。これが、単性生殖や処女生殖で意味されていることではないだろうか。自然は、根源的に単性生殖であろう。そして、それが、対の同一性を形成すると言えるだろう。つまり、自然は、連続的同一性・原雄性と差異的同一性・原雌性の対性・極性を発生させるのであり、これが後に分化して、雄・男性と雌・女性になったのではないだろうか。しかし、根源は両極・対極性である。陰陽性である。そう、『老子』では玄牝である。神話で双子の神話や兄弟の神話(ロムスとレムノス、カインとアベル、山幸と海幸、等々)が多くあるのは、この極性の反映であろう。
 とまれ、太古においては、極性バランスがあったと考えられるのである。それが、神話では、女神の神話で表現されているものだろう(シュメール神話、クレタ神話、女媧・伏儀の神話、イザナミ・イザナギの神話、等々)。そう、闇と光のバランスが取れていたと考えられるのである。思うに、女性の方が、男性よりも、このバランスが取れていたと思われるのである。男性は、やはり、連続的同一性・闇・暴力・物質へ傾斜しているのであり、狩猟に向いていたであろう。そして、智慧・叡知は、女性のものであったであろう(魔女、巫女、等々)。つまり、ソフィア(智慧)は、女性形であるからである。
 しかし、人類史において、このバランスが崩れて、連続的同一性が特化される時代が来たのである。父権制である。また、一神教である。国家である。これをどう見るのかが、決定的ポイントである。つまり、極性バランスが崩れるという力学が発生したのである。思うに、これは、自然の二元化の徹底化であろう。連続的同一性と差異的同一性の極性から二項対立・二元論へと徹底化したと見るのが正しいだろう。分極化から分化である。即非から二元論へである。東洋から西洋へである。
 この二元論的徹底化であるが、この根因・起因は何なのだろうか。私はやはり、第二段階ないし第二回目の1/4回転を仮定したくなるのである。第一段階ないし第一回目の1/4回転で、零度の様相が発生するが、これが、差異共振シナジー様相を形成したと思うのである。そして、これが、プラスとマイナスの均衡を形成したと思うのである。つまり、陰陽性である。即非性である。しかし、第二段階・第二回目の1/4回転(i^2)で−1となるが、これが、連続的同一性の志向性を発生させたのではないだろうか。そして、これこそ、父権・一神教・国家化だと思えるのである。極性思考が破壊・解体されて、二項対立・二元論となったのである。
 この考えをさらに展開すると、第三段階・第三回目の1/4回転(i^3)が生起して、新たな零度が発生するだろう。これは、新たな差異共振シナジー様相の発生と言えるだろう。これは、父権制・一神教・国家の崩壊であろう。そして、これは、新しい母権制・多神教・共振政体(連合という言葉は語弊があるので使用しない)の発生であろう。
 このようにガウス平面での1/4回転力学を想定すると、うまく説明がつくと考えられるのである。
 では、このガウス平面(イデア・現象界)1/4回転論理で、近代主義とトランス・モダンを見るとどういうことになるだろうか。やはり、プロト・モダン、ルネサンスを考えなくてはならないだろう。これは、本来、新たな差異共振シナジーの時代の発現だと思うのである。だから、第三段階・第三回目の1/4回転による零度差異共振シナジーのエポックと考えられるのである。しかしながら、西欧ないし欧米において、連続的同一性化が強化・特化されてしまったのである。近代合理主義、近代的自我、唯物科学・技術・産業の発展である。この差異共振シナジーの歪曲・捩じ曲げをどう見たらいいのだろうか。思うに、これは、一種反動的進展と見るべきだと思うのである。差異の発動がルネサンスで起こった(正確に言うと、中世から個の志向性が欧州では生じていたのである。12世紀ルネサンスもあるのである。また、toxandoria氏がドゥンス・スコトゥスの個の哲学を述べている。)のであるが、すぐに、キリスト教的な、父権的な反動が起こり、近代主義という反動が勃発したのだと思う。そう、近代主義とは、プロト・モダンの差異主義に対する連続的同一性志向による反動であると考えられるのである。反動であるからこそ、非合理・暴力・狂気的なのである。西欧・欧米の理不尽な帝国主義、植民地主義、世界大戦等々を見よ(現代のイラク戦争が最たるものであるが)。また、だから、その帰結であると考えられる現代日本の近代主義の連続的同一性自我の狂気があると言えるだろう。
 今日、多極化路線であるが、これは、実は、近代主義という反動の崩壊であり、否定されてきたプロト・モダンの発展を意味すると言えるのである。私はトランス・モダンと呼んでいるが、これは、プロト・モダンの真の進展の意味をもつと考えられるのである。そう、toxandoria氏が新たなユマニスムに言及されていたが、それは、正鵠を射ているだろう。ルネサンスが回帰しているのである。そして、現代、ポスト・反動近代/トランス・モダンの時代であるが、これは、ネオ・ルネサンスの時代とも言えるのであるが、結局、意味されているのは、連続的同一性志向性の解体・瓦解であるということであり、父権制・一神教・国家の解体・崩壊であり、一切の近代主義の解体・崩壊・瓦解なのである。差異共振シナジー精神が顕在化したのである。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論は、この歴史の進展・進化と平行した理論であると言えるのである。
 現代日本は、ここから見てわかるように、反動近代主義体制であり、大反動状態となっているのであり、亡国の危機なのである。差異共振シナジー/プラトニック・シナジイー理論路線へと至急に切り替える必要があるのである。
 差異共振シナジー様相化という世界進化、世界相転移の様態に、地球・宇宙/コスモスはあると言えるのだろう。英語では、様変わりをsea changeというが、これは、cosmos changeないしparadigm changeである。
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2007年01月03日

精神と物質 5:光、認識、現象・物質化とは何か:その2:プラトニック・シナジー・サイエンスの成立

精神と物質 5:光、認識、現象・物質化とは何か:その2:プラトニック・シナジー・サイエンスの成立

ここでは、主に、本テーマの光について検討したい。
 先の考察(精神と物質 4)から、連続エネルギーが連続的認識と物質化をもたらすと言えるだろう。人間以外の存在は、差異共振シナジー性が未分化(未成熟)であると仮説したのである。
 では、光をどう把捉したらいいだろうか。ここで、一つの作業仮説を立てて思考実験したい。光は、連続化しないという作業仮説である。つまり、光は、差異共振シナジー様相のまま、剥き出しであるということである。つまり、光においては、共振空間、虚次元空間そのままであるということである。つまり、永遠空間のままであるということである。ここには、本来、現象界の連続時空間の尺度は適用できないはずである。しかし、人間の知覚・認識・観測装置は、連続的同一性形式である(カントの超越論的形式)。ここに光を観測するときの根本・原理的矛盾があると言えるだろう。無限速度であるものを、有限連続時空間形式・尺度で観測するとは、完全な齟齬があるのである。これは、結局、結局、唯物科学の問題・限界である。
 とまれ、光の観測に関する脱近代科学(トランス・モダン・サイエンス)の第一歩は、当然、アインシュタインの相対性理論である。光速度一定とは、結局、有限時空連続態の固定枠から見た無限速度の光の速度ではないのか。マイケルソン&モーレーの実験は、エーテルを否定したのである。つまり、連続的媒体の否定である。とりあえず、そういうこととしよう。
 さらに、量子力学になるとこのことがさらに明瞭になると考えられるのである。光は差異共振シナジー様相ないし事象である(作業仮説)。ここには、差異とその零度共振シナジーが成立しているのである。それを、連続的時空間的に観測すると、粒子と波動の二重性をもつということになるのである。あるいは、両者の相補性を説くのである。また、非局所性が成立するのである。
 粒子について言えば、それは、唯物的アトム主義から発生していると言えるだろう。そして、波動は、粒子の振動ということで考えているのだろう。つまり、唯物科学観に拠るのである。しかるに、差異共振シナジー様相が量子の真相であると作業仮説から敷延できるのである。ここは、きわめて重要なポイントで、両者を絶対に混同してはならないことをいくら強調しても強調し過ぎることはないだろう。差異共振シナジー様相とはイデア様相であり、量子とは、それを物質科学から観測した像、連続的同一性像に過ぎないということである。
 ということで、差異共振シナジー様相i*(-i)における差異を物質化して、粒子ないし微粒子としているのであり、シナジー様相を物質化して、波動として観測していると考えられるのである。しかし、差異共振シナジー様相であるから、差異とシナジー相は分離できないない不可分なものなのである。即非態である。相補性とは、この即非態を物質科学的に説明する概念であると言えるだろう。また、非局所性であるが、それは、当然ながら、差異共振シナジー様相の無限空間を指していると考えられるのである。
 以上簡単であるが、ポスト唯物科学、ポスト相対性理論、ポスト量子力学、トランス・モダン・サイエンスとして、プラトニック・シナジー・サイエンスPlatonic Synergy Scienceが成立すると考えられるのである。
 そう、私が先に、心眼で捉えた光は、即非態であると言ったが、それが、この論考により、解明されたと言えよう。光は、即非態・即非相として剥き出しであるということである。太陽光即お天道様即大日如来即阿弥陀如来即天照即アポロ即アフラ・マズダである。
 では、ニーチェが唱えたディオニュソスとアポロとはどう捉えたらいいのだろうか。そう、同じものであろう。差異共振シナジーによる差異的同一性がアポロで、シナジー様態がディオニュソスだろう。そして、これは、両者でコスモスである。そう、D.H.ロレンス等、多くの作家、芸術家、詩人が説いたコスモスとは、このアポロ且つディオニュソスとしての差異共振シナジー様相のことであろう。光の「浄土」である。古代人、中世人、ルネサンス人等は、まったく正しかったのである。近代人が狂っているのである。

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精神と物質 4:光、認識、現象・物質化とは何か

この問題は、プラトニック・シナジー理論の根幹の一つであろう。おそらく、これから、思考実験が何度も繰り返されることだろうが、近代的自我の検討の反復のようなことはないことを望んでいる(おそらく、そんなことはないだろう。近代的自我、近代合理主義の解明は、もっとも難しかったものであると考えられる。)
 先ず、認識と連続的同一性と物質化について整理しよう。私の仮説は、認識即存在である。志向性が存在を形成するというものである。これは、フッサール現象学の中に、ハイデガーの存在論を包摂させていると言えるだろう。
 だから、連続的同一性志向性は、連続的現象・存在の形成である。この連続現象体は、当然、心身をもっている。つまり、知覚をもち、身体をもっている。これは、当然、人間だけでなく、動物・植物にも当てはまるし、また、奇妙に、怪しく感じられるかもしれないが、鉱物・無機物にも、当てはまると思える。つまり、鉱物・無機物にも、なんらかの知覚と身体を想定するのである。(これについては、別のところで検討したい。)
 シロクマは、シロクマの知覚をもち、身体をもっているし、スズメは、スズメのそれらをもっている。これは、異論がないだろう。これらの知覚/身体は、連続的知覚/身体と呼ぶことができるだろう。
 問題は、即非態とこの連続的知覚/身体との関係である。これまで、人間以外の動物・植物(・鉱物)には、即非態・差異共振シナジー態DRSを認めなかったが、ここで、考え直したい。一般的に、動物には、「母性本能」が強いと言えるだろうし、正しくは、言わば、「親(おや)性本能」・「母父性本能?」が強いのだろう。これをどう見るかである。これは、差異共振シナジー動態ではないのか。今、言えることは、それは、差異共振シナジー動態に何らかの関係をもっているということであろう。しかし、そのものとは言えないだろう。何故なら、差異共振シナジー様相とは、認識、自己認識を意味するからである。動物には、自己認識はなく、ただ、本能として、差異共振シナジー様相に似た結果が発現するということのように思えるのである。そう、思うに、動物の場合は、差異共振シナジー様相まではいかなくて、主客と他者とが未分化のように考えられるのである。猫は、主客と他者とが未分化であると思うのである。だから、動物には、差異共振シナジー様相は存在しないと考えることができるだろう。ただ、未分化的な相関的な様相はあるとは言えるのである。(思うに、ペットを飼うというのは、疑似差異共振シナジー様態を味わっているのではないだろうか。)
 では、この未分化な主客連続化の様態をどう定式化するのか。内在的連続化の記号を〜とすれば、i~(-i)と記述できるのではないだろうか。暫定的にそうしておきたい。
 では、人間の場合について、本テーマを追求して行こう。問題は、即非態と連続的同一性態との関係構造である。(明瞭にするため、即非態を共振態ないしシナジー態、そして、連続的同一性態を連続態ないし同一性態と呼んでもいいだろう。態の替わりに、相でもいいだろう。共振相・シナジー相、連続相・同一性相である。)
 人間が出生して、現象・物質化するとき、共振相が、連続相に転化する。虚次元・虚軸から実次元・実軸へと変換する。このとき、帰結的には(終局態・エンテレケイア)、連続態・同一性態としての人間が発生する。しかし、実際のところ、共振相が完全に連続相になったのではなくて、生成過程にあると考えられるのである。つまり、連続相への生成過程としての人間整形である。端的に言えば、言語獲得である。つまり、出生後、新生児は、言葉を憶えることになるのである。勿論、それ以前に、身体知覚経験が研ぎ澄まされるのであるが。
 結局、出生後、連続相への生成過程であるから、共振相/連続相の二重構成をもつと言えよう。あるいは、共振相⇒連続相のプロセスである。これは、連続的同一性志向性と呼んだものである。そして、成長し、言語獲得するときに、このプロセスは、共振相を否定して、連続相中心・優勢になると考えられるのである。つまり、主体/他者の関係で言うと、主体が他者を連続化して、他者を支配しようとする傾斜である。そして、これが、自我形成である。そして、この帰結として近代的自我が成立する。
 問題は、この連続相形成過程における共振相の意味合いである。当然、連続相形成過程においては、共振相は、連続エネルギーへと転換している。つまり、共振相潜在態(デュナミス)が連続相現実態(エネルゲイア)へと転換しているのである。だから、共振相自体としては、認識されずに、連続相・同一性相認識・自我認識を形成されると言える。
 では、問題は、共振相は、連続エネルギーへの転換で消滅する、又は、消費されるのかということである。ここで、作業仮説するのであるが、共振相は原則として零度であるから、連続エネルギーをプラスのエネルギーとすると、保存則的には、マイナスのエネルギーが作動するはずである。これは、比喩的には、潮の満ち引きのようなものであろう。つまり、連続相化に対して、脱連続相化のエネルギーが作用すると思われるのである。図式化すれば、
主体→他者、i→-i(→は連続相化)から、主体←他者、i←-iへの「相転移」ではないだろうか。これは、これまで、他者の同一性化と見たが、そうではなくて、共振相への回帰と考えられるのである。(先に、優越/劣等の二項対立について述べたが、それは、連続相化で十分説明がつくだろう。即ち、主体→他者の連続相化とは、他者を同一性化することであり、そこには、他者の力を受容するので、感受性的には、優劣感情が発生すると言えるだろう。)つまり、連続エネルギーのカウンターとして、脱連続・共振エネルギーが発動するのではないかと考えられるのである。これを仮説として、検討を進めよう。
 だから、結局、人間の認識においては、連続相・同一性認識と共振相・差異認識が併存することになると言えよう。そう、より正しく言えば、自然発生的には、両者が未分化として、あるいは、連続態として、併存している、ないし、混合していると考えられるのである。なぜ、未分化・連続態かと言うと、脱連続・共振エネルギー(差異エネルギー)とは、連続相・同一性認識の内に、内部に、発生するからだと考えられるのである。ここは、正に、不連続的差異論のブレークスルーの領域である。連続相・同一性相認識において、脱連続・共振相・差異認識が発生するので、両者が、未分化・連続化しているのである。言い換えると、両者が弁証法関係・否定関係にあるのである。そして、フランスのポスト・モダン、乃至、ポスト構造主義とは、この両者の未分化・連続態から脱出できなかったと言えるのである(後期デリダは除く)。つまり、差異の連続化、連続的差異=微分をここに仮説してしまうのである。また、大澤真幸氏のアイロニカルな没入もこの未分化・連続態で説明がつくのである。ここにあるのは、反動形式なのである。連続・同一性相という構造の彼岸は、差異ではなくて、未分化・混淆界であったのである。即ち、メディア/現象境界である。これが、ポスト・モダンの領域なのである。
 さて、ということで、脱連続・共振エネルギーが発動するが、それが、連続相・同一性相認識と未分化・連続態を形成するというポスト・モダンの様相を確認した。ここで、先に進む前に、近代的自我の反動様態について触れておくと、それは、ポスト・モダン様態になったときの反動態であると考えられるのである。連続相・同一性相・自我認識が中心化して、脱連続・共振エネルギーを否定・排除・隠蔽するのである。これは、暴力且つ狂気なのである。精神病化である。今日の自己愛性人格障害は、これで説明がつくだろうし、また、パラノイア化や統合失調症(「精神分裂症」)もこれで、おおよそ、説明がつくだろう。
 ここで、不連続的差異論のブレークスルーに関係するが、それは、以上の未分化・連続態を切断して、共振エネルギーを不連続化し、独立させたのである。連続相・同一性相とは不連続な、差異共振シナジー様相、差異共振シナジー相認識、即非認識、共振認識を確認したのである。これはどういう力学なのだろうか。完全な脱連続化である。そう、内在的超越化である。虚次元・虚空間化である。そして、それを明日野氏は、卓越的に、i*(-i)⇒+1と簡潔簡明に数式化したのである。これは、差異的同一性の公式とも言えるのである。そして、これこそ、差異共振シナジー様相と連続的同一性様態との共生・棲み分けである。ここには、差異共振シナジー的合理性、連続的同一性合理性の共創・共存があるのである。共生・共立である。簡単に言えば、差異理性と同一性理性との不連続な共立である。(カントは、この内在的超越的差異理性を捉えることができずに、物自体としたと言えよう。あるいは、実践理性としたのである。フッサールはこれを志向性や間主観性として把捉したと言えよう。)
 では、これはいったい何を意味するのか。零度への回帰、永遠回帰、内在的超越界への回帰とは何を意味するのか。結果的には、連続化の終焉である。自我、近代的自我の終焉である。近代合理主義の終焉である。モダンの終焉である。ポスト・モダンの超克でもあるトランス・モダンの開始である。人類のリセットである。これまで、宗教や神秘主義の領域であったものが、合理化されたのである。というか、宗教や神秘主義の純粋化と言ってもいいのである。これまで、それらは、連続態によって、反動化していたのであるから、プラトニック・シナジー理論によって、純粋化したのである。超宗教・超神秘主義でもあるのである。(これは、諸宗教の反動暴力性を解除して、共生的宗教へと変容させると考えられるのである。)
 そう、これは、やはり、一つのサイクルの終焉と見るべきではないのか。即非態から連続エネルギーが発生して、また、脱連続エネルギーが発生する。その終局が、零度への回帰である。私は、これをずっと西洋文明の終焉と見ているのである。あるいは、一神教・父権的文明の終焉と見ているのである。そういうことだと思う。エネルギー力学からそう言えると思うのである。
 さて、序論的部分を含み説明が長くなったので、本テーマの一つの光については別稿で論じたい。
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2006年12月31日

精神と物質:差異共振認識/連続同一性認識の二重構造の人間

これまで、自己認識方程式i*(-i)⇒+1を、作業仮説的に転用して、存在方程式として使用している。そして、左辺にフッサール現象学の志向性を見ているが、また、志向性は、不連続的差異論から連続的同一性の志向性であると、これまで、また、作業仮説にして、考察・検討を続けている。そして、この連続的同一性志向性を、現実態(エネルゲイア)、即ち、エネルギーと考えている。つまり、認識/存在方程式の左辺i*(-i)を可能態(デュナミス)=潜在態(ポテンシャル・エネルギー)と見て、この賦活・活性化を現実態(エネルゲイア)と考えているのである。
 そして、連続的同一性志向性=現実態(エネルゲイア)=エネルギーが、現象・物質化であると、これも、作業仮説しているのである。自己認識・存在方程式の左辺i*(-i)は、即非態、対極(太極)態であり、デュナミスであり、零度エネルギーである。これは、虚エネルギーである。【問題は、連続的同一性志向性エネルギーをどう考えるかである。これを実エネルギーとしていいのか。それとも、虚エネルギーの変容と見るべきなのか。ここでは、第2段階の1/4回転が生起すると考えているのである。だから、連続的同一性志向性エネルギーとは、次元変換エネルギーでもあることになるのである。垂直の捩れをもたらすエネルギーである。そして、これは、現象・物質を発現するのである。だから、単純に見ると、これは物質エネルギーとなるだろう。ここは実に微妙な領域である。即非態は可能態・潜在態・零度エネルギーである。これが、第2段階の1/4回転で、連続的同一性エネルギーに転化するのである。このエネルギーの解釈は2通りある。一つは、虚エネルギーに属するというもので、一つは、実エネルギーに属するというものである。ここでは、実エネルギーに属するものとして考察していきたい。つまり、虚エネルギーから、次元変換を介して、実エネルギーに転換したとここでは考えたい。】この虚エネルギーが次元変換して、実エネルギーとしての連続的同一性志向性エネルギーになって、現象・物質が発現すると考えられるのである。以上が、これまでの検討の簡単な整理である。結局、認識即存在なのである。だから、現象界は、認識即存在に満ちていることになるだろう。換言すると、物質的認識・存在に満ちているということである。つまり、唯物現象界である。
 とまれ、ここで、心身二元論を考えよう。以上のように考えると、心即身体となるはずである。そして、これが、一般に生命体・生物の様態ではないだろうか。そう、動物の場合、心即身体が本能として作用していると言えるだろう。
 しかし、人間の場合は、これに当てはまらないと言えるだろう。認識と存在が即ではなくて、ズレ・間(あいだ)・亀裂、即ち、差異があると言えよう。つまり、動物や植物の場合は、認識即存在であるが、人間の場合は、認識即非存在である。確かに、動物・植物の場合、根源は、人間と同様に、即非態である。即ち、i*(-i)であると考えられる。しかしながら、連続的同一性化して、i→-(-i)となり、連続的同一性存在となる。いわば、動物・植物の「自我」になるのである。しかしながら、人間の場合は、連続的同一性志向性の結果は同じであるが、しかし、根源がおそらく異なるのである。即非態が動物・植物と異なるのである。この問題ついては、認識と連続的同一性の問題として考察していきたい。
 何故、人間において、他の生物と比べて、認識、意識、知が顕著なのだろうか。ゲノムを見たとき、生物間では、それほど相違がないように見えるのであるが、この明白な違いは何か。ここで、作業仮説というか、思考実験をするのであるが、問題の起因は、やはり、メディア界(メディア内在超越空間:メディア内超空間)にあると推測される。メディア界は、

差異1:差異2:差異3:・・・:差異n (:は即非共振の記号)

と図式化され、即非共振している様相である。問題は、この諸差異、複数差異の、連結である。例えば、差異1と差異2が連続化するとしよう。しかし、この連続化に対して、差異3がそれを認識するとしよう。すると、差異3:(差異1=差異2)という図式となるだろう。(尚、=は連続化である。)この考え方を敷延すると、差異全体の即非総体があり、それに対して、差異の連続化=現象化という事態があり、いわば、即非認識様相と差異連続様態の二重性・二層性がここに想定できないのかと思われるのである。端的に言えば、メディア界と現象界の二重・二層性である。原認識界/現象界(認識=存在)の二重・二層性である。ここで、二点について、説明しないといけない。一つは、メディア界のもつ認識性についてであり、一つは、人間と他の生物の違いについてである。
 先ず、メディア界の認識性についてであるが、これは、永遠界であり、いわば、全知の世界である。ここでは、志向性は、連続的同一性ではなくて、差異共振的志向性であり、差異と差異は相互に他者を理解しているのである。では、このメディア界の認識とは、存在とどう関係するのだろうか。ここでは、知即存在である。だから、現象界の認識=存在と似ているのである。しかし、質が異なると考えられるのである。メディア界の認識とは、差異共振認識であるのに対して、現象界の認識とは、連続的同一性認識であるのである。そして、また、メディア界は、永遠界であり、また、無限界であるから、現象界の時空性は超越しているのである。いわば、超時空としてのメディア界・メディア空間なのである。ということで、メディア界的認識は、超時空的認識、差異共振的認識であることがわかった。
 次に、人間と他の生物の相違であるが、人間は、メディア界認識を他の生物に比べて、決定的に恵まれているのである。つまり、一般に生物では、メディア界から現象界への転化の場合、差異の連続化が発現して、生命体となり、差異自体は、いわば、連続的同一性に同化され、飲み込まれているのである。しかし、人間においては、メディア界が過剰に存しているのであり、差異が連続・現象化しても、すべて差異が連続・現象化するのではなく、連続・現象化されない差異(メディア界・差異共振界・即非態)が賦活されているのである。この連続・現象化されない差異が、人間の認識衝動であると思われるのである(作業仮説)。そうすると、この連続・現象化されない、不連続的差異の共振作用の動態を表す用語が必要なように思われるのである。零度エネルギーでいいのかもしれない。あるいは、虚エネルギー。とまれ、認識エネルギーを意味する用語が必要なのである。確かに、連続的同一性志向性エネルギーは、認識即存在であるが、それは連続性認識エネルギーなので、ここには当てはまらないのである。つまり、差異認識エネルギーの用語が必要なのである。あるいは、即非認識エネルギーの用語である。
 少し角度を変えて見ると、連続性認識エネルギーは身体・肉体になるのである。人体である。そして、十分に言うなら、連続性認識をもった身体・肉体である。これは、動物的身体である。しかるに、この動物的身体を形成しない不連続性認識のエネルギーが人間にはあると考えられるのである。そして、これが、人間本来の認識衝動であると考えられるのである。創造衝動、宗教衝動、芸術衝動も、この認識衝動に入ると考えられる。これが、人間を他の生物から区別するメルクマールと言えよう。そして、これを精神と呼んでいいのである。私が心身体と呼んだものも、ここに入ると言えよう。そう、人が「愛」と呼ぶのは、やはり、ここを指していると見るべきである。しかし、「愛」とは、実は、連続性とつながっているので、不適切であると私は考えている。共振倫理、共倫とでも言うべきではないかと思われるのである。共感性と呼んだものも、ここを指すのである。また、私がリリシズムと呼ぶものもここを指しているのである。(現代のポップスは、このリリシズムが消えている。連続性・自我の似非音楽になっているのである。)とまれ、差異即非認識動態を意味する用語として、シナジーないしシネルゲイアを暫定的にあげておきたい(日本語では、共振態か?)。すると、人間は、シナジーとエネルギーの二重ダイナミクスをもつのである。そして、これは、シナジー認識/エネルギー認識の二重性である。
 以上から、人間の特異性、即ち、差異認識性と連続性、あるいは、シナジーとエネルギー、共振態と連続態の二重・二層性が明らかになった。これは、伝統哲学では、無限と有限、永遠と時間、等々のパラドクスとして延べられてきたものである。キルケゴールがこれを的確に把捉していると言える。そして、ジョルダーノ・ブルーノも、その内在超越的一性の哲学で、これを説いていると考えられよう。
 最後に、以上の視点から、近代化について考察してみよう。直観で言えば、近代主義は、以上の二重性認識の混同があるのである。即ち、差異共振認識と差異連続認識の二つが本来あるのに、近代は、後者の認識を前者にも適用して、結局、連続認識中心主義になり、差異共振認識を否定・排除・隠蔽したのである。これが、近代合理主義であり、唯物科学主義である。近代の「理性」とは、連続的同一性の「理性」に過ぎず、また、カントの超越論的形式に過ぎず、結局、それをヘーゲルが手品的に、精神の衣装を与えて、弁証法的合理化したのである。ヘーゲルの精神とは、差異共振認識衝動を連続化して、それを連続認識に統一したものと考えられる。それは、反動的全体主義認識である。ファシズムである。そう、ナチズムの思想的淵源は、ヘーゲルだろう。
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2006年12月21日

二項対立・優劣性の発生原因について:否定原因の飢えと差異共振様相の回帰としてのトランス・モダン

二項対立・優劣性の発生原因について:否定原因の飢えと差異共振様相の回帰としてのトランス・モダン

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

先に、陽主体iによる連続的同一性の優越意識認識は、基盤として、陰他者-iにおける劣等意識があるというようなことを簡単に触れたが、この点について、詳論したい。
 問題は、受動的感覚のことである。また、感覚と感情と意識と認識と知性のことである。ここでは、受動的感覚を考えたい。先ず、心身を根源に置く必要がある。さらに言えば、心身より先に、差異を原根源に考える必要があるだろう。差異とは、この場合、即非関係にある差異である。即非差異ないし対極差異と呼んでおこう。つまり、i*(-i)が原根源にあるということである。自己やその倒錯である自我の起源はこれであると考えられる。
 では、この原自己ないし元自己(元己、元個、原己、原個)の進展のことを考えると、現象界において、この原自己が剥き出しで置かれると考えられる。誕生以前は、子宮内で、差異共振様相であったと考えられる。胎児と母体との差異共振様相である。両者、個でありつつ、同時に共振しているのである。両者の即非・対極関係があるということである。
 しかし、出生後は、新生児は、子宮内とは全く異なる環境に置かれる。子宮内を、メディア環境と呼べるならば、出生後の環境は、当然、現象環境である。この現象環境において、新生児は、メディア環境においてと同様に、最初振舞うだろう。つまり、有り体に言えば、新生児の感覚意識する現象界とは、メディア環境的現象界、あるいは、差異共振的現象界となるのである。そして、これが、「コスモス」である。メディア環境における「コスモス」と現象界における「コスモス」があるのである。前者を即自態とすれば、後者は対自態である。(思うに、空海の両界曼荼羅であるが、金剛界曼荼羅が前者で、胎蔵界曼荼羅とは後者ではないのか。後で、検討。)
 しかしながら、当然、現象界は、メディア環境ではありえないのであり、新生児は、ここで、苦を感じることになるのである。スピノザ的に言えば、悲しみを覚えるのである。これは、イデア力学(イデア科学)的にはどういうことなのであろうか。それは、簡単に考えれば、差異共振性の不成立であり、そのために、原初・無垢の歓喜が、経験の悲しみとなるのであるが、この差異共振性の不成立とは、差異共振性の否定態と言えるのではないだろうか。差異共振性が、肯定態とするならば、その不成立とは、否定態と言えるだろう。差異共振性i*(-i)⇒+1で、この+を肯定態とするならば、不成立は、−1の様態であると言えるだろう。つまり、-{i*(-i)}⇒−1と考えられるのではないだろうか。これは、当然、-(i)*(-i) か、又は、i*-(-i) のことと展開できるだろう。前者が、宗教ないし信仰的様態であり、後者が、自我様態であろう。(思うに、史的に見ると、中世までは、前者の様態が続き、近代は、それが、いわば、反転して、後者の様態になったと言えるのではないだろうか。)
 とまれ、この二つの否定的様態が、進展した現象的様態となるのだろう。つまり、出生後の原初においては、子宮内におけるメディア環境を継続した様態であるが、その後の「経験」によって、新生児は、否定的様態を獲得すると言えるだろう。問題は、この否定的様態への対処法である。このことに関して、確認しておくべき事象は、言語獲得の意義である。ここでは、二通りの言語獲得があると考えられるのである。一つは、差異共振的歓喜ないし共感的言語形成である。「わたし」と他者Aとは、一体である。しかし、同時に、「わたし」は「わたし」であり、他者Aとは異なるのである。正に、即非様態の言語形成があると考えられるのである。他者Aは、「花」となるのである。他方、否定的様態における言語形成があるだろう。「わたし」の差異共振性を否定する対象に対する言語形成である。ここで、自然を考えよう。自然は、「わたし」の食べ物をもたらしてくれる。しかし、あるときは、自然は、無慈悲であり、食べ物を「わたし」に与えない。この場合、自然は、「わたし」にとり、快・不快の対象である。しかしながら、問題は、単純ではない。新生児にとり、自然は、本来、メディア環境である。「わたし」は自然と差異共振様相にあると言えよう。「わたし」と自然との即非・対極様相である。だから、食べ物に取得に関する快・不快の「弁証法」が、「わたし」を絶対的に支配することはないのである。
 とまれ、問題は、言語形成ないし名付けの意義である。他者Xを「何か」Nと呼ぶとき、差異共振環境ならば、他者Xは、主体iにとて、差異共振的他者であり、他者の名前(言語)Nは、差異共振様相を指していることになるだろう。つまり、i*(-i)における-iとしての他者であり、他者の名前Nである。これは、差異共振言語と呼んでいいだろう。つまり、i*(-i)⇒+1の名・言である。+1を確定する言語である。おそらく、この言語がなければ、差異共振様態のままであり、認識には進まないだろう。そう、差異共振様態は、いわば、直観様相なのであり、それだけでは、知的認識にはならないと考えられる。差異共振性に言語を与えることで、+1の認識となると考えられるのである。だから、⇒は、言語構築性を意味していると言えるだろう。だから、+1とは、差異言語であると言えるだろう。
これに対して、否定様態の言語があるだろう。−1の言語である。これは、連続的同一性言語(簡単に、同一性言語)と呼べよう。
 問題は、この同一性言語の力学である。二項対立言語の力学である。ライオンと鹿がいるとしよう。「わたし」にとり、ライオンは「強い」、鹿は「弱い」のである。後者を取って、食べ物にできるのである。狩りを行ない、鹿を仕留めて、「わたし」は勝利することができるのである。ここに強弱ないし優劣の観念の萌芽があるだろう。「わたし」はライオンに対しては弱いが、鹿に対しては強いのである。ラインに対しては、劣等であるが、鹿に対しては、優越するのである。ここにある意識様態の力学は何だろうか。もし、差異共振認識があれば、ライオンと鹿は、自然の両極であり、両者必要なものであり、強弱・優劣の差別は生じないだろう。鹿には、鹿の存在意義があるのである。あえて言えば、「弱い」、「劣等」には、それの積極的意義があるのである。
 では、強弱・優劣の二項対立的価値観はどこから生まれるのだろうか。当然、差異共振的価値観の喪失後である。ライオンと鹿の両面に積極的意義を認める差異共振・共立的価値観の喪失後である。このためには、絶対的二元的区別の世界観が必要だろう。「わたし」と他者とが、絶対的に分離しているという世界観である。
 とまれ、ここで、以前のアポリアにもどると言えよう。結局、差異共振様相を否定する事態とは何なのか、ということになるだろう。ここで、直観で考えよう。それは、差異共振様相を否定する事態とは、孤独である。あるいは、孤立無援の状態である。絶対的孤独である。これは、わかりやすい例をあげれば、飢え、飢渇であろう。自然は、「わたし」に食べ物を与えてくれない。植物は枯れ、雨は降らない。祈っても、食べ物が得られないのである。いわば、差異共振の神に見放された様態である。自然の神に見捨てられた様態である。「わたし」は「わたし」であり、絶対的な「わたし」である。思うに、ここにおいて、一神教が発生があるだろう。絶対的な「わたし」である神である。絶対的な「わたし」を保証する神である。それは、当然、自然を超越した神である。超越神である。否定様態だるから、「わたし」は悲しみの様態にある。つまり、ルサンチマンである。(ニーチェのキリスト教批判が正しいだろう。しかし、ニーチェ自身、旧約聖書を肯定しているので、分裂しているだろう。晩年の「力の意志」の思想は、分裂しているだろう。)ここには、反差異・連続的同一性となった自己即ち、自我があると言えるだろう。ルサンチマンの連続的同一性の主体があるのである。−1である。(ヤハウェとは、この否定様態の名前であろう。ラカンの父の名は、これではないのか。)ここにおいて、他者は否定されるしかないのである。「わたし」は絶対であり、他者は否定されるべきである。「わたし」は自然を超越した存在であり、他者に優越しているのである。これが、優越性の発生の原因であると考えられよう。つまり、絶対的超越性である。そして、これは、差異共振様相の否定態であり、実は、差異共振性を反転的に指示しているのである。つまり、メディア空間を指しているのである。
 思うに、差異共振的現象性は、メディア空間と現象空間が未分化である。つまり、連続化しやすいと言えるだろう。メディア即現象空間だろう。つまり、内在空間である。連続的な差異の共存がここにはあるのである。(ベルクソン/ハイデガー/ドゥルーズ、等)
 しかし、絶対的孤独の絶対的自我によって、すべては、超越的同一性化されるのである。差異共振様相の否定としての超越的絶対的同一性である。−1である。ヤハウェである。ルサンチマンである。専制である。父権制である。
 結局、絶対的孤独による絶対・超越的主体が、優劣的二元論、二項対立の発生であったと考えられるのである。
 しかしながら、これは、差異共振様相の否定態であるから、当然、肯定態に変換しうるのである。否定態から肯定態への転換は、スピノザの能動的観念の発想、フッサール現象学、聖霊主義、仏教、他に見ることができるだろう。しかし、この力学は何か。この肯定力学とは何か。肯定回帰的力学とは何か。キリストは愛を説いたが、もう、愛ではないだろう。否定の否定である。「父」が、新たな「母」になることだろう。新たな差異共振。それは、再び、絶対的孤独から生まれるだろう。以前は、飢え・飢渇から発した。しかし、今度は、それではありえないだろう。近代科学・技術・産業とは、物質的飢渇を満たす方法ではあった。しかし、今や、それは、過飽和である。もっとも、ここで、根本的に考えれば、飢えや飢渇による否定とは、差異共振性に対する否定なのであり、いわば、裏返しの差異共振性なのである。つまり、連続的同一性とは、裏返しの差異共振性なのである。それが、西欧において、帰結的に、近代主義を生んだのであり、今日、ポスト近代主義の事態となっているが、それは、差異共振性への否定の原因であった物質的飢え・飢渇が克服された様態である。つまり、ポスト近代主義とは、差異共振様相を否定した物質的飢え・飢渇が解消された事態を意味しているのであり、それは、当然ながら、差異共振様相の回帰であり、ポスト連続的同一性、ポスト一神教を意味すると考えられるのである。物質的飢え・飢渇の解消は、否定性の解消であり、否定の否定で、肯定が回帰するのである。
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2006年12月03日

ジキル博士/ハイド氏の構造を解明する:光認識の盲目性と仏教という最初期ポスト・モダン哲学

ジキル博士/ハイド氏の構造を解明する:光認識の盲目性と仏教という最初期ポスト・モダン哲学

テーマ:超東西・コスモス・ニューポストモダン文明

以下の記事を参考にして、ジキル博士/ハイド氏の構造をプラトニック・シナジー理論から解明しよう。ジキル博士の内面とは、-(-i)であるが、この意味は何だろうか。つまり、最初の−の意味である。これは、当然、自己投影の−である。しかし、これは、隠蔽であるから、(-i)自体は存在しているのである。つまり、iである自己と(-i)の他者とが、完全に乖離・分裂しているということであろう。つまり、i/(-i)である(ここで、/は乖離・分離・分裂を意味する)。これが、ジキル博士/ハイド氏の数哲理構造であると言えよう。また、流行の自己愛性人格障害もこれで解明できよう。
 では、精緻に見ると、どこにハイド氏が存するのだろうか。それは、自己投影ないし反差異・連続的同一性であるi→(-i)に存するだろう。つまり、陽意識・認識=+エネルゲイアである。しかし、陰意識・認識=−エネルゲイアが存するはずである。即ち、(-i)→iである。結局、陽意識の−1と陰意識の −1の2つの−1が存するだろう。前者は、押しつけ・暴力である。そして、後者は、影・シャドウであろう。だから、ハイド氏は、後者である。ジキル氏の影・シャドウであるから。すると、前者が押しつけ・暴力であると言ったのを修正しないといけないだろう。確かに、前者は、押しつけ・暴力であるが、それは、作用・能動である。後者の力を取り込めば、対極化されて、自己認識+1が形成される端緒となるだろう。問題は、後者をまったく否定した場合である。
 ここで、精密に見ると、+エネルゲイアと−エネルゲイアは同時発生であると言える。連続的同一性化(陽認識)と他者的同一性化(陰認識)が同時発生するのである。思うに、自己投影とは、この同時発生の事象・様態ではないだろうか。自己即他者である。(思うに、愛とはこのことではないか。)思うに、これは、実に不思議な事象・様態であろう。自己と他者が実際は、乖離・分裂しながら、自己即他者と錯誤されるのであるから。
 とまれ、押しつけ・暴力(いじめ)の問題を考えると、それは、この±エネルゲイアの様態ではないだろうか。より正確に言えば、両者の並存様態であろう。+エネルゲイアの連続的同一性と−エネルゲイアの他者的同一性が並立していると思えるのである。さらに正しく言えば、+エネルゲイアが−エネルゲイアを隠蔽しているのだろう。ここで、視覚的認識の問題があるのである。視覚的認識は、+エネルゲイアの認識であり、−エネルゲイアの他者的同一性の認識に対してブラインドになると考えられるのである。つまり、光認識には、闇認識はできないということである。反差異・連続的同一性認識は、言語観念認識を形成するだろう。ある対象は、「リンゴ」と呼ばれる。これは、リンゴという現象個体、視覚的個体による言語観念認識である。つまり、ここでは、唯名論と実念論は同一である。−エネルゲイアの認識は、いわば、身体的認識、身心的認識を必要とすると考えられるのである。視覚的同一性と身体的同一性の相違があるだろう。視覚空間の「リンゴ」と身体空間の「リンゴ」では異なるのである(ついでに言えば、セザンヌの静物画は、後者を表現・描出しているのだろう)。光と闇、光と影である。光と闇、光と影を併せ持って、真如となると考えられるのであるが、光認識・視覚認識は、闇認識・身体認識を隠蔽してしまうのである。なんらかの原因・理由で、光認識・視覚認識が強化されると、闇認識・身体認識が看過され、無視され、さらには、無化・否定化・排除化されるのである。これが、近代合理主義・近代的自我の様態である。これが、また、遠近法空間を形成するのである。つまり、三次元空間を形成するのである(時間を加えて、四次元時空間であるが、時間空間が不可視なのである)。
 この排除された身体認識・陰認識・−エネルゲイアであるが、これは、認識されないので、非合理衝動つまり狂気になると考えられるのである。だから、この否定・排除・隠蔽された身体認識が、暴力を狂気的なものにするのである。陽認識は、単に暴力であろうが、否定された陰認識は、非合理衝動・狂気となり、狂気的暴力を反復強迫させるようになると考えられるのである。これが、ハイド氏であろう。悪魔と言ってもいいのである。私が近代的自我は狂気であると言ったことである。そして、自己愛性人格障害も、これで説明ができるだろう。つまり、近代主義の帰結としての精神病理なのである。
 では、ここで、「なんらかの原因・理由で、光認識・視覚認識が強化されると」と述べたときの、「なんらかの原因・理由」を考えてみよう。これは、既述の事柄であるが、再確認しよう。一つは、私の仮説であるが、男性は、光認識・視覚認識・陽認識に傾斜しているということである。つまり、+エネルゲイアが−エネルゲイアよりも強化されているのが男性であると私は考えるのである。おそらく、これは、奇形と言えるのかもしれない。それに対して、女性は、逆に傾斜しているのではないだろうか。つまり、−エネルゲイアの傾斜が強いということである。一種、性差である。この対極的傾斜のため、男性は、連続的同一性暴力を狂気化するのである。これが、戦争であろう。そして、女性は、他者的同一性暴力を狂気化するのである。これが、ヒステリーやオカルト主義であろう。とまれ、実害としては、当然、前者の方がはるかに巨大である。
 これが一つの原因・理由である。しかし、この性差的傾斜仮説以外を考えると、民族的傾斜仮説が考えられそうである。ここで、想起するのが、ニーチェの有名なアポロ(美術)とディオニュソス(音楽)の区別である。これを借りれば、アポロ的民族とディオニュソス的民族があることになる。そして、古代ギリシア人は、両民族の混淆であると考えられる。そして、これは、文化史的には、インド・ヨーロッパ語族・父権的民族と古ヨーロッパ民族・母権的民族との混淆であると言えるだろう。神話学的には、軍神アレス(マルス)と美神アフロディーテ(ヴィーナス)で代表されるだろう。宗教的には、一神教と多神教であろう。
 ここで、アポロ的とは、古典的芸術を考えるべきである。シンメトリカルな、幾何学的に均整の取れた美学を考えるべきである。古代ギリシアの壺を考えるといいだろう。現象リアリズムである。
 さて、そうすると、アポロ的なもの、即ち、反差異・連続的同一性に傾斜した民族が、光認識・視覚認識を強化したと言えるだろう。これが、二番目に考えられる原因・理由である。
 そして、三つ目は、キリスト教である。光の宗教としてのキリスト教である。本来、この光は、原光としての光であるが、善悪二元論から、闇を激烈に排除する結果、陰認識を排除してしまったのではないだろうか。これは、一神教の問題と言っていいだろう。多神教を否定した一神教は、偶像崇拝、感覚像を否定するのである。これは、身体否定と言っていいだろう。身体と他者と陰認識が結びついているのであるから、当然、陰認識が排除されるのである。つまり、一神教は精神と身体ないし自己と他者という次元において、前者の精神・自己を中心化して、後者を否定・排除するのである。結局、陽認識中心・主導となり、陰認識は否定・排除・隠蔽されるのである。
 ということで、1)性差、2)民族差、3)宗教差の三点を原因・理由としてあげた。さらに考えてみよう。
 思うに、認識の根本問題があると思う。フッサールに倣い、志向性を認識の根源的様相と考えよう。つまり、自己→他者、自己から他者への志向性、これが、根源的認識様相である。問題は、他者である。これは、本来、自己内の他者の認識、つまり、垂直的認識であるが、これが、自己外の他者の認識、つまり、水平的認識に変化するのである。垂直的志向性が初めにあり、次に、水平的志向性があることになる。垂直志向性においては、精神と身体とが一如である。つまり、ここでは、まだ、差異的同一性が保持されているのである。+1があるのである。しかるに、自己外認識、自己外の他者認識、水平認識に移ると、外的他者は、内的他者とは異質なのが認識されるのである。おそらく、最初は、内的他者に対するのと同様に、外的他者にも遇したであろう。つまり、差異共振的関係を投影するだろう。しかるに、外的他者は、それを跳ね返してくるのである。このとき、認識主体は、共感から反感へと転化するのである。このとき、主体の認識は、即非的なものから、主客二元論的なものに変換すると考えられるのである。つまり、主体Aと客体Bにおいて、A≠Bが成立し、A=B且つA≠Bという即非・対極共振関係が消滅するのである。コスモスの消滅である。これが、四つ目の原因・理由であるが、おそらく、これが、いちばん根本・基本的なものであろう。
 さて、では、問題は、外的他者の跳ね返しとそれによる反感化の問題を考えよう。主体は、即非的視線を外的他者に投影するとしよう。しかし、外的他者は、それに対して、反差異・連続的同一性の視線や言動を返すのである。これは、何か。思うに、原始時代、太古、人類は、狩猟採集生活において、動物を狩るが、基本は、差異共振シナジーがあるから、殺した動物を祭るだろう。これが、例えば、アイヌのイオマンテに儀礼に残ったものであろう。人類と動物ないし生物は同類なのである。熊=人である。
 しかし、この差異共振シナジー社会が崩壊するときがくる。それは、反差異・連続的同一性=自我の社会が到来するときである。簡単に言えば、国家社会の誕生であろう。それ以前の部族社会では、部族長中心の「王権社会」であり、国家はないだろう。自我の誕生が国家の誕生と通じるだろう。これは、文化史的には、父権主義の誕生である。神話学的には、父権神話、龍退治をもつ神話である。この点では、ユング心理学が詳しいだろう。龍とは、差異共振シナジー様相と考えられるのである。これを、排除するのが父権神話であり、父権主義・国家であると考えられよう。
 では、これは何を意味するのか。外的他者の乖離的対象化であろう。これは、当然、内的な他者との乖離でもあるだろう。つまり、主体内部には、本来、差異共振シナジー性が存するのであるが、それを否定するようにして、外的対象を自己から乖離するのであるから。つまり、精神と身体との乖離である。心身二元論の形成である。
 さらに突き詰めると、主客分離とは何なのか。ここで、もう一度、原点に返ろう。志向性である。陽の志向性である。自己→他者である。i→(-i)である。これは、光の志向性である。光認識である。視覚認識である。それに対して、(-i)→iは、闇の志向性、闇認識である。身体認識である。光認識とは、自己投影である。つまり、反差異・連続的同一性認識である。これは、内的世界ではなく、外的世界の認識である。そう、内的世界から外的世界へと認識が向かったときが、光認識であろう。このとき当然、闇認識は隠れるのである。排除されるのである。身体認識は排除されるのである。これが、発達すると、自我拡大であり、傲慢・自己盲目である。ヒュブリスである。おそらく、聖書に出て来る悪魔のルシファー(ラテン語では、原義は光を帯びたもの)は、これを意味するように思われるのである。
 すると、問題は、外的認識にあると言えよう。視覚認識である。しかし、私は、二つの視覚認識があると考える。外的視覚認識と内的視覚認識である。私がヴィジョンと呼ぶのは、当然、後者である。また、イマジネーションや直観と言うのも、後者である。だから、ここで、問題になっているのは、外的視覚認識である。陽認識である。おそらく、内から外へと転換するときに、精神位相が変換するのである。垂直から水平変換するときに位相が変化するのである。つまり、思うに、差異共振位相から反差異・連続的同一性位相へと変換するのである。おそらく、初めは、差異共振的に外界認識するはずであるが、これが、反差異的になるのである。何故だろうか。ここに光や現象の意味の問題があるだろう。原光は、差異共振シナジー事象であるが、これが、光現象となるときは、反差異的になると思えるのである。つまり、i→(-i)が光現象だと思えるのである。つまり、連続的同一性化が光現象だと思えるのである。そして、光認識は、当然、反差異・連続的同一性認識であると考えられるのである。闇認識、身体認識がなければ、原光の差異共振シナジー認識は形成されないだろう。(内省・瞑想や禅やヨガ等は、この闇認識、身体認識の形成方法であろう。正確に言えば、陽認識と闇認識の均衡認識形成であろう。)
 ということで、志向性の帰結(エンテレケイア・終局態)として、反差異・連続的同一性認識・現象が生起すると考えられるのである。それに対して、東洋哲学は、これを解体する認識を初期から形成したのである。闇認識・身体認識の形成方法を形成したのである。とりわけ、仏教哲学である。これは、どういうことだろうか。どうして、東洋・アジアは、光認識に対する闇認識を形成できたのだろうか。ここに仏陀の大天才・超天才性があると言えよう。彼は、目を内化したのである。志向性を再び、内的に変えたのである。回帰である。そして、調和を取ったのである。(仏陀は、人類最初のポスト・モダン哲学を説いた人物とも言えるだろう。)どうして、これが可能になったのだろうか。必然的に人間認識は、反差異・連続的同一性認識となり、差異・他者を排除するようになるのである。無明である。どうやって、闇認識に気がつくのか。(-i)→iの−エネルゲイアは常にあるのであるが。悟りはどうやってやってくるのか。そう、仏陀の内面には、おそらく、差異共振シナジーのエネルゲイアが潜在していたはずである。それが、外的現象を見て、苦しんだはずである。苦界の現世を見たのである。病苦する人間界を見て、仏陀は差異共振化したのである。深い、本質的な苦に仏陀は囚われたのである。そして、座禅して、瞑想して、解脱し、開悟・悟達したのである。空認識である。それは、差異共振界の認識である。自我の執着、つまり、連続性からの脱却にこそ、救いがあったのである。
 これはどういうことなのだろうか。瞑想によって、外的視覚認識を断ち、内的認識、身体認識へと仏陀は向かったと言えよう。フッサール的に言えば、現象学的還元によって、志向性という空を発見したのだろう。色即是空・空即是色とは、正に、i*(-i)⇒+1であろう。つまり、仏陀は、外的視覚認識を断ち、それによって闇認識、−エネルゲイアを把捉したのであると考えられる。おそらく、魔境がやってくるのである。闇認識は、過剰になると−1となり、邪道・魔道となるのである。つまり、(-i)→iは、自己を否定して、他者的同一性になるのである。(どうも、イエス・キリストは、このような様相に思えるが。)悪魔の誘惑がこれであろう。(オウム真理教や新興宗教の問題もこれであろう。)つまり、闇認識に没入した場合、自己が喪失されて、他者に帰依するのである。しかし、自己は隠蔽されるのであり、連続的同一性である自我は残るのである。やはり、−1の位相である。
 仏陀の反転によって、自己認識方法が誕生したのである。ここで、簡単に整理すると、光認識は、闇を排除するので、反差異・連続的同一性認識となるということである。つまり、必然的に、人間の認識は、光認識に達するので、闇認識を喪失する必然性があると考えられるということである。光の盲点、光の闇があるのである。つまり、光とはヴェールであり、闇を覆って、闇を見えなくさせているのである。ヴェールされた現象veiled phenomenaなのである。(参照:unveiled Isis。イシスは、やはり、差異共振シナジー事象、即ち、原光・玄光である。)光は人間を盲(めしい)にするのである。正に、無明である。無知である。これは、たいへんなアイロニー、パラドックスである。根源的転倒・倒錯性である。これで、本件の解明が済んだとしよう。
 さて、ここで、人類文明のことを考えると、おそらく、かつては、差異共振シナジー文明が普遍的であったに違いない。しかし、あるとき、陽認識・光認識に傾斜する事態となり、バランスが崩れたのである。しかし、人類は、天才たちが、叡知を形成して、差異共振シナジー位相を保持することを説いてきたのであり、仏陀に至っては、座禅・瞑想という身体的方法を発見したのである。(もっとも、これはヨガの発展と言えるだろう。)しかし、西洋文明は、この叡知を破壊する形で、光認識中心の近代主義を形成したのである。つまり、悪魔的文明を形成したのである。これは、人類史における驚天動地の事態である。人類絶滅の危機である。この原因は以上で述べたことの綜合で説明がつくだろう。大危機・超危機である。そして、東西の偉大な天才たちが、この人類の最大の危機(と言っていいだろう)に対して、「処方箋」を提示してきたのである。そして、20世紀後半にポスト・モダンが生起する。これは、光認識の解体であり、西洋文明の乗り越えを意図したものであるが、連続性の観念が強固であり、きわめて、不十分なものであった。この点は既述済みなのでここでは詳論しない。しかし、この不備を乗り越えて、不連続的差異論が生まれ、そして、それの進展であるプラトニック・シナジー理論が創造されて、ポスト・モダン、つまりポスト・オクシデント(ポスト西洋文明)の理論が真に結実したのである。これは、超東西文明の理論であり、新世界文明の理論となると考えられるのである。新ヘレニズムの理論と言ってもいいだろう。人類文明の、いわば、鬼っ子である西洋文明を乗り越える理論がようやく誕生・創造されたのである。確かに、一つの人類史の終焉である。新たな人類史が始まるのである。新コスモス人類史が始まるのである。
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■今の日本はハイド氏に変身したジキル博士のような世界



かの有名なスティーブンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』のハイド氏のように、夜になると抑圧された無意識が悪の化身に変身して、色と欲を楽しみ、結果的に殺人等の邪悪な事件を起こしてしまう。この小説は、人間の「こころ」の仕組みを見事に描いている。社会生活で人格者であっても、潜在意識の奥深くで、「無意識」が奇妙で邪悪な欲望を隠し持っていたりする。屋外を散歩すると、私たちの身体に張り付くように「影」ができているが、日常に於いて私たちはそのことをほとんど意識していない。



私たちは、日の当たる都合のいい自分の姿だけを自分だと思い、当然のごとく自分を良い人間だと信じて疑わない。自分の影の部分、認めたくない欠点やコンプレックスは抑圧されて、「無意識」という影の部分に追いやってしまっている。その結果として、日の当たる意識の部分には上ってこなくなってしまう。もちろんこれらの邪悪なよからぬものが、「無意識」のまま抑圧され続けている限り問題はない。



私たち人間の「こころ」が、いつも健全であり続けるには、邪悪な「無意識」を抑圧し続けるための強い意志が必要となってくる。この意志のパワーが鍛えられていないと、ある日突然、このよからぬものが意識に昇ってきて、私たちの「こころ」を乗っ取ってしまう。「こころ」を乗っ取られてしまった私たちは、突然人が変わったように道徳やルールをどんどん無視して、社会のタブーである犯罪や殺人を犯すようになり、精神的な荒廃化現象が一気に表面化する流れになってしまう。

http://www.chibalab.com/news_otoshiana/documents/060810.htm
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2006年11月24日

(i)*(-i)の虚空間について:(i)と(-i)の関係の考察:その2

先の考察で、(i)*(-i)【e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=414738
Theories for the Platonic Synergy Concept. 】を(i)⇔(-i)と表記して、双方向の志向性を考えた。陽の志向性と陰の志向性である。そして、また、牽引と反発を考えた。すると、2×2=4種類の様態があるということになるだろう。とまれ、[(i)⇔(-i)]⇒+1となるだろう。つまり、[(i)⇒(-i)]⇒+1と[(-i)⇒(i)]⇒+1ということであろう。双方向の志向性は、+1なのである。おそらく、正確に言えば、⇔の双方向の均衡において、+1があるのだろう。つまり、双方向とは即非なのだろう。
 さて、問題は、−1の場合である。(i)^2ないし(-i)^2が−1である。原自己の二乗、ないし、原他者の二乗が、−1=自我(近代的自我)である。そして、ここで、私は、感情のことも問題にしたいのである。明らかに、−1=自我は、否定感情ないし反動感情的である(いわゆる、感情的とは、理論的には、否定感情・反動感情的と呼べるだろう)。そして、+1=自己は、肯定感情・能動感情をもっていると言えるだろう。あるいは、零度感情・中立感情をもっているだろう。思うに、知性とは、本来、肯定・能動・零度・中立感情を伴っているだろう。おそらく、共感性とは、この感情と通じているだろう。反感は当然、否定・反動感情である。すると、知性とは、肯定・能動・零度・中立・共感感情をともなうことになるだろう。この感情は、即非関係を維持しようとするものである。否定・反動感情によって、知性が曇らなくなるようにするのである。否定・反動感情は、他者を否定するので、当然、即非を否定することになるのである。それは、(i)*−(-i)⇒−1である。これは、既述済みである。
 問題は、−1と言語の関係である。あるいは、(i)*(-i)ないし(i)⇔(-i)と言語の関係である。あるいは、同一性と言語の関係である。これは、作業仮説であるが、言語は、即非関係から生まれたのではないだろうか。
 問題は、とりわけ、同一性と言語である。即非関係において、例えば、私は山と一如である。私は、山であり、且つ、山ではないという即非事象・現象が発生する。このときの、即非関係の「対象」-iである「山」を主体が志向して、「やま」という音声言語が生じるのであるし、文字化して、「山」となるのではないだろうか。おそらく、音声言語は、エネルゲイアの表出であろう。(i)が(-i)を志向するとき、即非における志向性(双方向の志向性:陽の志向性と陰の志向性)において、対象(-i)が、「やま」ないし「山」と表出されるのである。つまり、即非表出・表現としての言語となるのである。つまり、差異的同一性の表現としての言語である。+1の表現としての言語である。これは、芸術としての、詩としての言語でもある。
 しかし、言語が、近代において変質すると言えよう。つまり、反差異・連続的同一性の言語となると考えられるのである。つまり、−1としての言語である。この変質をどう考えたらいいのか。これは、メディア空間の言語から現象空間の言語への変移とも言えるだろう。つまり、近代以前は、「わたし」即非「山」であるメディア空間言語であったが、近代においては、「わたし」≠「山」の現象言語である。差異共振シナジーが喪失しているのである。詩の喪失、コスモスの喪失である。ここには、即非関係の否定があるのである。マイナスが入ったのである。(i)*-(-i)、あるいは、-(i)*(-i)となったのである。 (i)*(i)ないし(-i)*(-i)の関係である。自尊自大と自虐・卑下である。(ここで、D.H. ロレンスの『死んだ男』の言葉を想起する。贈与は、貪欲の一種であるというような言葉である。)
 これまでの見解では、近代は、差異が原点としているということであるが、差異の新たな活性化としての近代であり、イタリア・ルネサンスにおいて、開花したと考えられるのである。そして、西欧に拡大するのである。差異の活性化としての近代である。そして、哲学として、デカルト哲学が創造されるのである。問題は、明晰性である。デカルトは、明晰な合理性として、即非性を排除して、反差異・連続的同一性を求めたと思えるのである。コギト哲学は、差異の哲学であったが、デカルト合理主義は、反差異の哲学であったと思えるのである。思うに、デカルトは、感情そのものを排除してしまったのである。即非関係は、共感性、一如感情、コスモス感情をもたらすのであるが、即非関係を排除したとき、感情も排除したと言えるだろう。いったい、デカルト合理主義の合理性は何か。それは、反感情的同一性合理性であろう。実は、感情性を排除すること自体が、否定感情的であろう。他者との即非的つながりを切断した同一性は、自尊・自大的同一性である。(これは、遠近法と関係しているだろう。)
 ここで、仮説的に言うと、(i)⇒(-i)の陽の志向性と(i)←(-i)の陰の志向性による双方向志向性があると先に述べたが、デカルト合理主義においては、前者の陽の志向性が中心となり、後者が否定されたのではないだろうか。つまり、陽の志向性に対して、陰の志向性が共立することで、即非関係が生起するが、片方だけでは、即非バランスが崩壊されるだろう。おそらく、両方の志向性の極限として、−1が帰結するのだろう。陽の志向性は、(i)が(-i) となり、陰の志向性においては、(-i)が(i)となるのである。即ち、(-i)*(-i)⇒−1であり、(i)*(i)⇒−1となる。思うに、前者が、近代的自我であり、後者がプロテスタンティズムではないだろうか。
 さて、ここで、言語の問題にもどると、即非言語と反差異的言語であるが、志向性の極限によって、後者が生まれたのである。(i)*(i)と(-i)* (-i)が反差異的同一性の源泉である。だから、問題は、反差異と言語の関係である。ここで、訂正的に考察すると、(i)→(-i)において、(-i) ^2を考えたが、これは、実は、(i)=(-i)という事態(錯誤)であろう。この等号が、反差異的同一性であり、反差異的言語の母体であろう。この反差異的同一性言語を介して、主観は、客観を見ているのである。山は以前は、即非的山であったが、今や、反差異的同一性の山である。
 では、遠近法的距離ないし延長はどう説明できるのだろうか。あるいは、三次元的空間は、どう説明できるのか。確認して考察していくと、即非関係においては、本来、遠近法主義は、生まれない。有限と無限とのパラドクシカルな関係がそこにはある。しかし、反差異的同一性が成立すると、無限が消失する。即非の即がなくなり、非がなくなる。A=A且つA=非Aである即非関係から、A≠非Aとなる。つまり、「わたし」と山は、別々になるということで、もはや、「わたし」と山は、一如になることはないのである。言い換えると、「わたし」と山との間には、反差異的同一性の空間(距離)が発生したということになるだろう。そして、この反差異的同一性空間が、数量化されるわけである。1kmの距離。そして、時間も数量化されるのである。カントの超越論的形式が、この反差異的同一性時空間形式である。ここで、直観で言うと、この同一性は、光速度のことである。なぜならば、あらゆる差異関係において、反差異的同一性が発生するのであるから。例えば、差異1=差異2=差異3=差異4=・・・・・=差異n となり、この等号の同一性空間において、つまり、「わたし」と月との距離における同一性、あるいは、「わたし」とブリュージュとの距離にける同一性、これは、光速しか考えられないだろう。そうすると、−1とは、光速の数ということになるだろう。つまり、1/4回転ならぬ、2/4回転である。(ここで、想起するのは、現象空間は、2回の1/4回転、ないし二種類の1/4回転によって生起すると述べてきたことである。つまり、イデア界から一回の1/4回転で、メディア界が形成されて、第二回目の1/4回転で現象界がされるということである。)
 さて、光速が同一性であるということから、ここで、光の現象に関連して考察する必要があるだろう。有り体に言えば、光とは何かということである。ここでも直観で言えば、光は本来、光でないものである。つまり、光=非光である。そう、即非エネルゲイアの反差異的同一性が光の現象になっているのであるから、本来、差異的同一性の光が存していると考えられるのである。つまり、(i)*(-i)の原光があるはずである。私のこれまでの試論から言うと、これは、宗教的光、例えば、浄土教の光である。阿弥陀如来の光、無量光である。無限の光である。これは、換言すると、陰陽光・太極光であろう。いわば、闇をもった原光と考えられるのである。D.H.ロレンスの黒い太陽、『老子』の玄牝(げんひん)はこれではないだろうか。あるいは、黒い聖母像もこれを指しているのではないだろうか。 ということで、光現象とは、零度差異共振シナジーの原光(玄光?)の同一性現象である。とりわけ、反差異的同一性現象であると言えるように思えるのである。
 では、これを数式化するとどうなるのだろうか。明日野氏の自己認識方程式から考えると、原光=(i)*(-i)⇒+1である。そして、光=(i)* (i)=(-i)*(-i)⇒−1である。ここで、雑駁ではあるが、ダークエネルギーについて言うと、それは、前者に関係するだろう。ただし、正しくは、虚次元・虚空間におけるエネルギー、つまり、虚エネルギーである。つまり、いい足す形になるが、闇があるのである。思うに、(i)⇒(-i)の反差異的同一性が光であり、(-i)⇒(i)の反差異的同一性が闇である。両者は−1で同一となるのである。ただし、方向性が異なるだろう。天から地が光となり、地から天が闇となるのではないだろうか。
 とりあえず、ここで留めたい。
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2006年11月07日

なぜ、「自己」は、差異を否定した自我 であろうとするのか。

自己→他者というのが自己の差異の様相である。換言すると、志向性である。しかるに、自己は、他者を否定して、自己同一性即ち、自我 であろうとするのである。本来、自己即非 他者であるにもかかわらず。つまり、自己と他者との差異共振 シナジー様相であるにもかかわらず、これを否定して、反差異的同一性である自我 であろうとするのである。これで、独立した個人と考えるのである(倒錯)。

 ここには、自己内界の他者の否定があるので、自我 は、いわば、自己否定 の様態にあるのである。ヘーゲル 的に言えば、自己疎外の様態にあるのが自我 、とりわけ、近代的自我 である。自我 とは、倒錯であり、自己独立を錯覚 しているのである。一人称 自己認識 方程式を使用すれば、(i)*(-i)⇒+1に対して、(i)*-(-i)⇒−1が自我 倒錯の数式である。自己同一性とは、この場合、(i)のことではないだろうか。-iである他者を否定して、自己同一を形成し、自我 、自我 倒錯となるのである。以上は、これまで確認されてきたことである。では、本稿のテーマ である差異否定の原因・理由・起源 について、あらためて、考察 しよう。

 (i)*(-i)であるが、これは、メディア 空間である。内在超越的なメディア 空間(差異・共振 ・シナジー空間)である。これは、現象的には、身心空間である。あるいは、精神 空間である。精神 内には、「魂」ないし「心魂」があるのである。これは、感受性、共感性 と呼ぶことができるだろう。いわゆる、心とは、ほぼこれを指すと言ってもいいだろう。あるいは、ロマン主義 の説く想像 力の源泉と考えることもできる。【思うに、耽美 主義は、特に、フランス耽美 主義は、一種アイロニカルな没入によって、自我 主義、反差異的同一性に陥っているのである。世俗のブルジョワ 的俗物 性を憎み美的 世界に耽溺するのであるが、しかし、それは、同時に他者を喪失 するので、(i)*-(-i)⇒−1になっているのである。正に、デカダン の倒錯の世界に陥っていると考えられるのである。ユイスマンス の『さかしま』は、タイトル から象徴的である。】即ち、(i)*(-i)とは、感受性、精神 的感受性を意味 すると考えられるのである。これは、実に霊妙であり、また精妙なものであり、いわば、宗教 、芸術 、詩、等の根源というべき源泉である。当然、これは、繊細であり、傷つき易いものである。受苦性、ヴァルナラビリティである。しかし、忘れられているが、力の源泉である。活力・活動・「エネルギー 」の源泉であると考えられるのである。特異性、単独性、不連続的差異 性である。自己特異性と呼べるものである。

 つまり、(i)*(-i)とは、ニーチェ がディオニュソス 的なものと呼んだものの源泉であると考えられるのである。端的に言えば、ディオニュソス である。(ニーチェ の『悲劇の誕生 』をなぞれば、ディオニュソス 的な古代ギリシア 人は、(i)*(-i)の精神 をもっていたと言える。)受苦と力の源泉としての(i)*(-i)である。

 しかるに、人間 は一般に受苦を恐れるから、これをガードして、いわば、蓋をするのである。隠すのである。隠すとは、無いこととすることであり、否定である。即ち、他者を否定することであるから、(i)*-(-i)⇒−1である。(i)*-(-i)= (i)*(i)という自己同一性ないし自己二重性が形成されるのである。これは、他者の位置に自己を置いているのであるから、二重人格 となっているだろう。ジキルとハイドである。つまり、最初の(i)がジキル博士 (善人の仮面 であろう)で、後者 の(i)がハイド氏(悪人)である。なぜなら、-iという倒立像を隠蔽しているからである。倒立像を隠蔽して、自己像を投影 しているのである。

 この自己同一性=自我 の徹底化が、近代的自我 であり、ここから、近代的合理主義や唯物論 が発生するのではないだろうか。そう、これが、近代主義の原型である。結局、差異否定、自己同一性の志向性の原因とは、受苦への反感・反発・反動 にあったのである。そして、他者を否定する反動 ・暴力 ・倒錯・欺瞞的な自我 になったのである。反差異同一性=自我 =近代的画一性=全体主義 が支配するのである。他者を否定すること、これは、非合理主義、非「科学 」主義である。つまり、不思議 なことに、近代科学 は非合理主義、非「科学 」主義なのである。反差異同一性量=「物質」を対象としているからである。あるいは、反差異(連続 )同一性量=「物質」的科学 と言えるだろう。このように見ると、ニーチェ が近代科学 を忌み嫌った理由がわかるだろう。つまり、受苦=力=ディオニュソス を回避した科学 であるからである。有り体に言えば、弱者 (「賤民」)の科学 なのである。また、フッサール が『ヨーロッパ 諸学(諸科学 )と超越論的現象学 』で、近代科学 を批判したのも理解できるのである。他者を否定した科学 がここにあるのである。「卑怯者」の科学 である。また、カント の『純粋理性批判 』が、理性のアンチノミー を説くのもわかるのである。理性は、正に、差異ないし(i)*(-i)の理性であり、即非 理性なのであるからである。そして、後に、ウスペンスキー がカント 哲学 を発展させる形で書いた、アカデミズム からは黙殺されている『ターシャム・オルガヌム 』も理解できるのである。

 さて、このように見ると、「物質」とは何か、という問題への解答が出るだろう。以上は、人間 の志向性を考えたものだが、それを他の現象にも適用できると仮定すれば、「物質」とは、反差異的同一性とその数量化である。現象の差異を否定した現象同一性の数量化されたものである。あるいは、現象の質を否定された数量的同一性である。つまり、「物質」とは、現象の反差異的同一性数量面に過ぎないのである。現象の差異的同一性=質性を捨象した抽象である。そう、受苦=力=差異を否定した連続 的同一性、これが悪魔 なのである。そう、劣弱さである。劣弱さが、悪魔 なのである。怯惰である。

 視点を換えれば、無知 である。無明である。智慧・叡智の喪失 である。智慧なき状態である。もし、差異共振 シナジーの智慧やその社会 があれば、精神 の弱者 も、それなりに悟ることができるだろう。思うに、大乗仏教 の衆生 の救済とは、そのような意味 があったのだろう。また、イエス の活動も本来それであたのだろう。神の国 とは、差異共振 シナジー空間のことと考えられるからである。また、スピノザ 哲学 の意味 もこれである。他者を能動的把捉すること、これで、(i)*(-i)⇒+1が形成されるのである。
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2006年11月02日

連続的差異と同一性:近代の終焉と新東洋文明

今は、簡単に触れるに留めるが、私が問題にしたいのは、先に述べた不連続的同一性と連続的同一性の問題である。領域で言えば、メディア/現象境界の事象である。これは、正確には、不連続的差異論の問題であるが。同一性の問題に関して、重要な問題なので、精緻に考察したい。
 端的に言えば、差異=微分の連続体・積分に基づく同一性と不連続的差異の同一性(特異性の同一性)の問題である。もっとも、これは、不連続的差異論の成立の基礎になった問題で済んでいるものではあるが、近代科学の問題に関係するので、ここで取りあげるのである。ここで、図式化すれば、☯→=が、メディア界から現象界への図式図である。Kaisetsu氏の自己認識方程式を使用すれば、(i)・(-i) ⇒1である(この記号の方が、内在超越性ないし超越次元性を提示できるので、的確である。もっとも、Kaisetsu氏は、一人称と限定して、厳密化しているが。)。差異=微分ないし連続的差異という虚構・仮構は、☯ないし(i)・(-i)という事象を認識せずに、連続同一性とその集合を意味するのである。連続同一性を、ci(continuous identity)とすれば、ciの連続・集合体として根源界があることになるのである。ci, ci, ci, ・・・ci が、連続同一性集合体である。そして、これを積分したものが現象的同一性である。∫ciである。ここでは、連続同一性のciが共通単位となったいるのである。
 しかし、☯ないし(i)・(-i)という事象においては、当然、ciは存しないのであり、差異1☯差異2☯・・・☯差異n(思うに、差異1(i)・(-i)差異2(i)・(-i)・・・(i)・(-i)差異nと表現できるのではないか)が存在しているのであり、ここにあるのは、個々別々の不連続的差異の極性共立即ち即非である。どこにも、ciは存しないのである。ただし、即非的同一性が形成されるだろう。→=ないし⇒1である。これを私は、先に不連続的同一性と呼んだのである、ciが連続的同一性であるのに対して。
 フッサール現象学にも通じるが、近代科学は、ciをベースにして、それを数量形式=「物質」形式化して成立しているのであり、☯ないし(i)・(-i)という事象、あるいは、志向性を認識していず、無視している結果になっているのである。結局、差異=微分=連続的同一性=「物質」形式が、近代科学、唯物科学の基礎・基盤・大前提なのである。
 問題は同一性である。近代科学の同一性(ヘーゲルの観念形式)だと、個物・個体は、一般的個体になり、特異性を喪失しているのである(参考:ヘーゲル哲学:個別性は一般性である。)。ここでは、唯名論的個物・個体が、実念論的観念と一致するのである。これは、まったくの画一性、機械的同一性である。この連続的同一性が、近代的現代を支配しているのである。資本主義も、連続的同一性資本主義なのである(有り体に言えば、金融資本主義である)。そして、これを、フッサールは晩年の『ヨーロッパ諸学(諸科学)の危機と超越論的現象学』で説明していると考えられるのである。
 私が言いたいのは、事象は、不連続的同一性、特異性的同一性であるのに、それを、連続的同一性であると誤解していることである。これは、フッサールの『危機』を不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の視点から言い換えたものである。つまり、現象という事象としての「もの」は、不連続的同一性=特異性的同一性であるにもかかわらず、近代的人間は、それを、連続的同一性として誤謬して見ているということである。つまり、近代科学幻想で、現象を見ているのであり、真の現象事象を看過されているということなのである。生活世界は、この真の現象事象を経験したものにほかならないだろう。近代主義は、連続的同一性幻想・妄想・狂信なのである。
 今や、近代は、完全に、終焉したのである。これが、ポスト西欧近代主義ないしポスト近代西欧主義である。では、いったい何が、ここで、出現したのだろうか。コスモス、プラトニック・シナジー界、メディア界、「玄牝」・太極(陰陽太陽)、等が出現しているのである。新たに、古代、東洋、アジア、母権制が復活しているのである。新しい古代ー東洋ーアジアー母権制である。新しいコスモス、新しいガイアである。新しい多神教である。新しいイシス・オシリスである。私は、
新東洋文明と呼びたい。
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2006年10月30日

(i)・(-i)というプラトニック・シナジー界の内包する意味:イデア界の位置づけと二つの同一性

テーマ:プラトニック・シナジー理論

先にKaisetsu氏が提起された自己認識方程式、即ち、(i)・(-i)⇒1は、オイラーの等式や黄金比、等に匹敵する、否、それ以上の根源的方程式・公式のように思える(p.s. 即ち、大発見である)。とりわけ、(i)・ (-i)の部分である。これは、不連続的差異論のメディア界を指すが、プラトニック・シナジー理論では、零度差異共振シナジー界、即ち、プラトニック・シナジー界を意味する数式であると考えられる。換言すると、ここに、プラトニック・シナジー理論のエッセンスが凝縮されていると言っても言い過ぎではない。
 私は、ここから、不連続的差異論のイデア界との関係、あるいは、空間、時空間の問題を考察したいと思っている。イデア界との関係は、用語の問題が少しある。プラトンのイデアとは、ほぼ、プラトニック・シナジー界の「イデア」であると思えるのである。だから、区別するために、「メディア」という用語を使うべきかもしれないが、これも、混乱させる恐れがあるのである。
 とまれ、たとえば、プラトン的に、花のイデアとは、プラトニック・シナジー界に存すると言えるのである。花のイデアとは、デュナミスであり、また、エネルゲイアである。(ちなみに、アリストテレス哲学の問題は、超越次元を無視しているところである。プラトンの超越次元を、プラトニック・シナジー理論では、虚軸を、無視しているのである。)そして、花のイデアのあるプラトニック・シナジー界とは、プラトンのコーラ(形態形成場と考えられる)に相当するし、西田哲学の場所も、ここに相当するだろう。また、当然、鈴木大拙の即非論理学の位置(トポス)もここである。(思うに、ドゥルーズ&ガタリは、離接という概念を提起したが、それは、とりもなおさず、即非の論理のことである。しかし、彼らの不十分さは、離接を内在平面に置いていることである。内在平面とは、プラトニック・シナジー理論から言うと、プラトニック・シナジー空間、即ち、メディア空間の連続・同一性平面である。差異=微分空間である。これは、即非空間ではないのである。ところで、今思ったのは、同一性と連続的差異とは異なるのではないかということである。これについては、後ほど検討したい。)
 では、イデア界とは、プラトニック・シナジー理論から見たら、どう位置づけられるのだろうか。Kaisetsu氏のガウス平面的プラトニック・シナジー理論から見ると、虚軸が、プラトニック・シナジー界であり、実軸が現象界(「現実」界)であり、現象界を空間三次元とすると、虚軸が時間軸であり、それで、時空四次元が形成される。いわば、プラトニック・シナジー四次元時空間である。
 では、イデア界を付け加えるには、どう考えたらいいのだろうか。これまでの考え方では、イデア界のX軸の1/4回転で、メディア界のY軸が形成されると考えてきた。しかし、今では、X軸実軸は、現象界のことになっているのである。私は、先に二種類の1/4回転があるだろうと述べた。第一番目の1/4回転が、イデア界からメディア界を形成し、第二番目の1/4回転が、現象界を形成するという考え方である。そうすると、第五次元以上を考えることになる。作業仮説的に、プロトX軸、原X軸を考えれば、それが、イデア界になるだろう。あるいは、X軸をイデア界、Y軸をプラトニック・シナジー界、Z軸を現象界として考えることができるのではないだろうか。そうすると、プラトニック・シナジー界(メディア界)と現象界は、Y軸とZ軸との関係になると考えられる。
 ならば、イデア界は、X軸であり、XY平面とYZ平面の二つのガウス平面が生起するのではないだろうか。用語・概念の問題であるが、プラトニック・シナジー平面(メディア平面)は、YZ平面であり、イデア平面はXY平面になるのではないだろうか。
 とまれ、この空間視点から、上記した同一性と差異=微分の問題を考えると、思うに、同一性ないし連続・同一性とは、Z軸上の実数であろう。しかし、差異=微分の考え方とは、虚軸Y軸の即非論理を認識せずに、虚軸Y軸に連続的差異を想定していると言えるだろう。つまり、虚軸Y軸と実軸・現象軸・Z軸との直交関係を否定して、両者を一様のものとしているのである。つまり、虚軸と実軸の不連続性ないし内在超越性を認識せずに、連続・内在性を見ているのである。つまり、連続的差異の展開としての同一性である。連続的差異とは、内在平面に存すると、ドゥルーズは考えているのである。だから、この視点の同一性とは、連続的差異的同一性である。
 しかるに、プラトニック・シナジー理論における同一性とは、(i)・(-i)の即非的極性における同一性であるから、不連続的差異的同一性なのである。私が眼前に見るリンゴは、不連続的差異的同一性、あるいは、特異性的同一性のリンゴなのである。これを連続的差異的同一性のリンゴと見たら、唯物論である。唯物科学・量子論的リンゴとなるだろう。両同一性は、似て非なるものである。簡単に表記すれば、連続的同一性と不連続的同一性である。これは、まったく別のものである。どうも西洋哲学ないし哲学一般は、両者を区別して来なかったように思える。唯名論と実念論の問題、即ち、個物と観念の問題、あるいは、アリストテレス哲学とプラトン哲学の問題、唯物論と観念論の問題、等々。この問題は、現象界と超現象界の問題に還元することができるだろう。つまり、二項対立、二元論なのである、現象界主義か超現象界主義か、の問題にされてしまったのである。個物かイデアか、ということになるのである。ヘーゲルは、これを統一しようとして、弁証法を構築する。しかし、それは、連続的差異=観念の統一仮説であり、一般形式理論なのである。ヘーゲルは、個物は、同一性であるとして、この同一性観念から統一を志向するのである。しかし、この同一性は、不連続的同一性ではなくて、連続的同一性である。特異性が喪失されているのである。(特異性は、キルケゴールが宗教批判として展開することになった。)
 連続的差異論とは、言い換えると、アトム論である。現象の個体・個物の根源要素として「アトム」を考え、これが、連続して個体・個物が形成されるという考えである。単位の連続的集合としての個体・個物である。そして、この連続論においては、唯物論も観念論も同形である。連続的形式が共通なのである。つまり、唯物論とは、個物の連続的形式として物質を考えるのであり、観念論とは、個物の超次元としての連続的形式としての観念を想定するのである。つまり、西洋哲学は、特異性ないし単独性を看過しているのであり、これに対する批判が、キルケゴール、ニーチェ、フッサールによってなされたと言える。東洋からの批判者としては、鈴木大拙や西田幾多郎がいるのである。また、ロシア(ロシアは、ユーラシアと見ないといけないだろう)からは、ウスペンスキーが出たのである(『地下生活者の日記』のドストエフスキーも、これに近いだろうが、ドストエフスキーの発想は、シュティルナーの唯一者と共通すると考えられるのである。つまり、一見単独者であるが、それは、エゴイストである。つまり、(i)・(i)=−1と思われる。後で検討。)
 そして、フランス・ポストモダン(このように言えば、ポスト・モダンの用語はプラトニック・シナジー理論の発見の後でも、使用できる)は、これを発展するはずであった。とりわけ、ジル・ドゥルーズは、特異性singularityに注目して、差異哲学の創造を目指したのである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論の成立の経緯からわかるように、ドゥルーズの差異理論は、たいへんな誤謬を犯していたのである。ポスト・ヘーゲル、即ち、ポスト・モダンという思想環境にありながらも、ドゥルーズは、連続的差異、即ち、ヘーゲルに戻るという反動行為を犯してしまったのである。そう、ドゥルーズ理論は、大反動であり、際物理論である。非常にたちが悪いのである。なぜなら、特異性singularityと言いながらも、連続的差異(差異=微分)を主張しているからである。これは、虚偽的誤謬である。ペテンである。
 さて、本論にもどると、結局、西洋哲学は、連続的形式に拘束されていたが、ポスト・ヘーゲル=ポスト・モダンとして、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、鈴木大拙、西田幾多郎、ウスペンスキーらが出現して、不連続論を提出し、ポスト・モダン環境を構築したのである。しかし、これは、フランス・ポスト・モダンという大反動によって、目隠しされてしまったのである。日本においては、フランス・ポスト・モダンを信奉する唯物論的知識人たちによって、ポスト・モダン環境が排除・隠蔽されてしまったのである。(私見では、真正なポスト・モダンに近づいたのは、柄谷行人であろう。しかし、彼は、唯物論者で、差異・「イデア」を把捉・理解できなかったのである。また、中沢新一であるが、彼は、ドゥルーズ主義者であり、似非理論家である。)そう、ポスト・モダンは、フランス知識人によって、葬られてしまったのである。似非ポスト・モダンであったのである。
 とまれ、プラトニック・シナジー理論は、ポスト・モダンの本流を復活させて、進展させたのであり、これは、連続的差異論を批判・否定して、不連続的差異である特異性のイデア論の創造的発見である。だから、本論にもどると、二つの同一性があるのであり、これを区別しないといけないのである。不連続的同一性と連続的同一性である。数式化すると、(i)・(-i)⇒1という同一性と(i)・(-i)=1という同一性である。このように考えて、先の私の考察の複雑さ、微妙さがわかるのである。具体的に言えば、眼前の柿一個であるが、これは、正しくは、不連続的同一性である現象、(i)・(-i)⇒1である。これに対して、それを連続的同一性である現象、(i)・(-i)=1と見れば、仮象である。
 さて、このよう現象同一性を見ると、プラトンのイデア論はどうなるのだろうか。現象界はイデア界の仮象であると考えているのである。(i)・(-i)から見れば、確かに1という同一性は仮象になるだろう。しかし、(i)・ (-i)⇒1から見たときは、どうだろうか。⇒1は、仮象なのだろうか。1は仮象ではなく現象である。本象であろう。思うに、ここには、プラトンのイデア論とプラトニック・シナジー理論の差異があるのではないだろうか。前者は、現象仮象論であるのに対して、後者は現象本象論である。眼前のリンゴ一個の同一性は否定すべくもないのである。これを仮象としたら、生活は成り立たないのである。この点についは、後でさらに検討したい。
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2006年10月22日

《神》について:《神》は《存在》するが、近代主義は殺神を行った:《神》の復活

初めに、コトバありき、とは、あまりに有名なヨハネの福音書の冒頭言。しかし、原語のギリシア語では、コトバではなく、ロゴスであった。私見では、ロゴスとは、正に、《理》である。ダルマ(法)である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29
そして、プラトニック・シナジー理論(簡略して、シナジー理論)では、これは、差異共振シナジー・フィールドないしメディア・スペース(コスモス)である。そして、これが、主観的には、《神》となるのである。結局、正に、「初めに、《神》ありき」である。そして、この《神》を多様多元的に表象してきたと言えるのである。《神》も、一つの表象ではあるが。
 しかるに、西欧近代は、神殺しを行ったのである。西欧近代において、どうして神殺し、殺神を行ったのか。これは、経緯が複雑であるが、結局、これまで、論考してきたように、西洋文明、ユダヤ・キリスト教文明自体が、神殺しに帰結にしたと言えるだろう。つまり、ユダヤ・キリスト教は、連続・同一性の視点の傾斜をもっているので、それが、古代ギリシアの理性主義と結びついて、神殺しに帰結したと言えよう。ニーチェの「神は死んだ」は、ニーチェが神を殺したのではなくて、西欧、近代西欧が神を殺したということを意味しよう。
 ポスト近代主義とは、だから、神の復活なのである。D.H.ロレンスは、「知られざる神」unknown Godに言及した。これは、西洋という文脈で見ないといけない。「知られざる神」とは、東洋では、「知られた神」だと私は考える。ロゴス=ダルマの神である。それは、差異共振シナジー・フィールド=メディア・スペースの神である。アジアの神である。ヒンドゥー教の神であり、ゾロアスター教の神であり、仏教の空であり、道教のタオであり、朱子学の神であり、神道の神(「カムイ」)であり、(アメリカ大陸をユーラシアの延長と見て、)ネイティブ・アメリカンのグレート・スピリットであり、・・・、思うに、ヤハウェの母体の神でもある。神話学者のジョセフ・キャンベルが説いた「神の仮面」の神である。カントの物自体と言ってもいいだろう。スピノザの神(即自然)でもある。
 現代日本を見ると、近代西欧を模倣して、喪神である。亡神である。

今や、差異共振シナジー神がやってきたのだ。

普遍神の復活である。

唯物論は滅びたのである。
当然、唯物科学も滅びたのである。

ポスト西洋文明である。

新アジア・世界文明の時代である。
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2006年10月14日

イエス・キリストについて:プラトニスト・イエスと聖パウロのキリスト教:ポスト・キリスト教の新世界

テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明

ここで、「神」をプラトニック・シナジー理論から理論化しておくと、イデア界の神とメディア界の神の二種類があると以前述べたが、前者はカオスに、後者はコスモスに相当するだろう。しかし、このカオスはコスモスを生む秩序性をもっているのである。いわば、カオスからコスモスへである。カオスとしての神は、コスモスとしての神を発現するので、また、後者が、直接、人間に関係すると考えられるので、ここでは、メディア界の神に限定したい。つまり、差異共振シナジー様態全体としての神である。そして、このエネルゲイアの神を、これまで、多様に表現してきたのである。多神教であれ、一神教であれ、汎神論であれ、アニミズムであれ、・・・。すべて、神の仮面である。万教帰一である。
 では、この観点から、即ち、相対的多元論の観点から、イエス・キリストを見るとどうなのだろうか。やはり、キリストも、神の一面に過ぎないのである。では、どういう一面なのだろうか。私の直観では、イエスは、差異共振シナジーをそれなりに体現していた人物である。共振シナジー叡知を体現していた人物である。つまり、プラトニストである。しかし、純粋なプラトニストではないように思えるのである。混濁したプラトニストのように思えるのである。どういうことかと言えば、イエスには、連続・同一性の構造が残存していたと思えるのである。つまり、自我の構造がイエスにはあったと思うのである。つまり、差異と同一性の矛盾がイエスには、あったと思うのである。だから、意外に、デカルトに似た人物であったように思えるのである。
 同一性・自我があったからこそ、「汝(自我)自身の如く、隣人を愛せよ」になるのだと思う。純正なプラトニストならば、純粋な差異共振シナジーを体現する人物ならば、「愛」を説教せずに、自己認識の必要を説くだろう、仏教のように。どうも、俗物性があったように思えるのである。イエスには、虚栄心があったように思えるのである。そう、おそらく、イエスは、善と悪との混淆である。メディア/現象境界の両義神である。おそらく、分裂症的な人格をもっていたと思う。一方では、差異共振シナジー的エネルゲイアをもっていたが、それが、連続・同一性志向性によって捩じ曲げられていると思う。本来は、差異共振シナジー的共感性を説くべきであるのに、自我的隣人愛を説いているのであるから。やはり、聖霊教の方が、はるかに、イエス教よりも、優れていると思うのである。イエス・キリストは、神の連続・同一性の仮面をもっていたと言えると思う。

p.s. 以上述べことを、別の角度から見ると、「イエス」を少なくとも二人に分けて見るべきと考えられるのである。これまで、私は、キリスト教のイエスとグノーシス主義のイエスの二人に分けてきたのである。イエス二分説を、以上の視点から、展開すると、一人はプラトニストとしてのイエスであり、一人はキリスト教のイエスということになる。換言すると、叡知論のイエスとユダヤ/キリスト教のイエスである。
 プラトニズムないし叡知主義のイエスは、上記した差異共振シナジーを体現した人物であり、『トマスの福音書』のイエス(グノーシス主義のイエス)に近い。それに対して、キリスト教のイエスは、連続・同一性を帯びた教祖である。これは、悪魔的である。
 だから、イエス像は、根本的に異なる二人の人物の像が重なっていることになるように思えるのである。これをどう見るのか、である。聖パウロの問題がある。ニーチェが指摘したように、聖パウロがキリスト教のプロデューサーであろう。そして、ギリシア教父たちは、その路線にはあるとは言え、ロゴスの受肉としてイエス・キリストを捉えたことを考えると、彼らは、プラトニストとして、叡知主義者として、考えていたように思えるのである。信仰の対象としてのイエス像を形成したのは、聖パウロであろう。思うに、聖パウロは自身の宗教体験によって、イエス・キリスト像を形成して、教祖に仕立て上げたのだろう。聖パウロには、ニーチェが批判するように、「賎民」の本能、信仰という本能があったのだろう。そのために、プラトニスト、叡知主義者のイエスを、全く異質な、キリスト教の創始者に捩じ曲げてしまったと思えるのである。聖パウロの創作としてのキリスト教である。
 このようにニーチェの大天才的な洞察も、上述のイエス二分説の一つの有力な根拠になるだろう。そのように考えると、西洋史/世界史は、超錯誤の上に形成されたと言わざるを得ないだろう。ニーチェが神の死を説いたとされるのは、正しいのである。神、ユダヤ・キリスト教の神とは何であったのか。プラトニスト・叡知主義者のイエスは、おそらく、宗教を廃棄したはずである。ユダヤ教を廃棄して、イデア叡知を説いたはずである。プラトニズムの継承者としてのイエスである。しかるに、反動が起こったのである。ユダヤ教的反動として、聖パウロが、言わば、立ち上がったのである。(思うに、これは、イタリア・ルネサンスに対する、プロテスタンティズムの反動に、類似するだろう。)この聖パウロの反動によって、プラトニスト・イエスの叡知は、かき消されたのである。ここに、証拠隠滅、焚書、魔女狩り等の超恐怖のキリスト教の歴史が始まったのである。真のイエスは、抹殺されたのである。そして、救世主イエスが誕生したのである。大捏造としてのキリスト教と言えるだろう。だから、イエスの復活とは、プラトニスト・イエスの復活でなくてはならない。ここで、想起するのは、D.H.ロレンスが『死んだ男』で表わした復活したイエスである。それは、キリスト教の教えを否定する「死んだ男」・「救世主」である。それは、復活した「オシリス」である。そして、その作品には、コスモスの不可視の薔薇が描かれている。それは、正に、差異共振シナジー界である。だから、復活した「オシリス」・「死んだ男」とは、プラトニストのイエスである。そう、だから、ニーチェを継ぐD.H.ロレンスは、真のイエスを復活させていたと言えるのである。

D. H. Lawrence: Dying Game 1922-1930

ニーチェ/ロレンスこそ、真のイエス/プラトニスト・イエスを復活させたのである。ここで、超虚偽・超欺瞞のキリスト教的西洋史は終焉するのである。ポスト・キリスト教、ポスト・ユダヤ/キリスト教としての新しい世界史が始まるのである。そう、プラトニズムの新世界史、新人類史、新地球史、新宇宙史、新コスモス史が始まるのである。

p.p.s. 以上において、信仰・宗教と叡知・認識との二項対立的に区別しているが、私が否定しているのは、非合理主義としての信仰・宗教である。イデア叡知とは、ロゴスである。(もっとも、即非としてのロゴスであるが。)イデア叡知に基づいた信仰・宗教は肯定するし、それは、真正・正統である。しかし、単なる信仰主義・宗教主義は、否定されなくてはならないのである。不合理ゆえに我信ずという立場があるが、神は不合理ではないのである。即非という特異な合理性をもっているのである。

3p.s. 端的に言えば、有り体に言えば、キリスト教信仰は、自我信仰であるから、私は否定するのである。しかし、聖霊教・地味な野の花教・風の友愛教は、自我ではなくて、差異共振シナジー様相を信仰しているので、これは、肯定できるのである。これは、合理性の有無とも関係するのである。
posted by ソフィオロジスト at 14:28| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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