2005年05月08日

役人・官僚的形式主義について

先の指摘は、やや不整合であったので、ここで、再考する。メディア界のゆらぎを起点にしよう。すなわち、差異と同一性の相補性がある。そして、ここには、極性をもつ強度の「力学」がある。プラス強度は連続的同一性へと向かい、マイナス強度は不連続的差異性へと指向する。問題は、近代以降である。ここでは、基本的には、個が主体なのである。哲学・思想的にはデカルトが出発点である。しかし、経済・文化的には、イタリア・ルネッサンスが震源である。そして、宗教改革は、反動であるが、個的なものをそれなりに取り込んだ、内包したものである。つまり、プロテスタンティズムは、反動的近代主義であるということである。あるいは、父権的近代主義と言えるだろう。
 さて、以上を基礎として、本件を考えると、形式主義とは、メディア界のプラス強度中心の「精神」であるとわかるだろう。この問題点は、メディア界にあるマイナス強度である不連続的差異への指向を無視しがちであるということである。もう少し丁寧に見よう。メディア界は極性強度によって揺らいでいる。ある意味で分裂的事態・事象である。多種多様であったり、一であったり、不思議で、謎めいている。芸術家は主にこれを表現する。とまれ、個とは、ここから発する。ここが基点である。心身性と言っていい。そして、デカルトのコギトもこの意味であり、観念的合理主義に傾いたのをスピノザが批判したと思うが、原点は同じである。
 このメディア界は万人に共通である。ただ、ここの解釈が個々によって異なるために、権力・暴力や民主主義・共存性等の相違が生まれるのである。形式主義は明らかに、前者である。形式的利己主義と言ってもいい。では、この解釈の相違は何であろうか。普通の人は、ある意味でバランスよく知的形成をするだろう。差異と連続的同一性の均衡である。もっとも、確かに平凡ではあるが。しかし、官僚や役人の精神構造は、そうではなくて、差異を排出隠蔽するように連続的同一性である形式主義に傾く。先に、強度が劣弱であることが原因であると言ったが、ここではそれを措いて、次のように考えよう。ある人物において、プラス強度とマイナス強度があるが、前者が優位にあり、後者が劣位にあるとしよう。すると、当然、前者中心となる。しかし、科学的に見れば、優劣に関係なく、そこには、両者が存在している。だから、いくら形式主義が優位にあっても、差異性を否定できないはずである。つまり、誠実であれば、劣位の差異にも意識が向かうはずである。そう、きっと劣等感をもつだろう。すると、あるタイプの人物は、それがコンプレックスとなって、優越しようとして、優位の形式主義をより強化するだろう。つまり、形式主義をもって支配的になろうとするのだろう。そう、誠実な人間であれば、自分の劣位を認めて、それを補うように努力するだろうし、自分の足りないものをもつ人間を尊敬するだろう。これが本来の人間のあり方というものである。しかし、不誠実な人間がいて、劣等感コンプレックスから優越感をもつ形式主義へと転換すると言えよう。ここには、病理がある。事実を認めないという病理がある。非科学的な精神態度である。卑しさといってもいい。虚栄心と言ってもいい。(ニーチェ/ロレンスはこれを徹底的に憎み、反発した。)この病理的転換に関して、一ついえるのは、ここには、社会的価値観の崩壊という文脈があるだろうということである。つまり、転換期にこのような形式主義的精神が生じるということである。つまり、価値観の崩壊があって、そこから、この卑しさ、虚栄心が生まれると言えるだろう。あるいは、その価値観崩壊の隙を見て、野心的になり、形式主義化すると言えるだろう。だから、野放図とも言える。広義の教育の問題でもある。形式主義とは、また、二項対立主義である。単純に白黒と分けるのである。言語で言えば、含意・含蓄を排除して、観念的知性だけを求めるのである。どうも、日本を見ると、戦後教育に問題があり、失敗したと思う。「教養」を排除してしまったのである。私は大正教養主義を想起して、教養という言葉に抵抗があるが、「教養」を排除したことが、確かに、この形式主義的官僚・役人を生んでしまった要因の一つだと思う。俗物的官僚・役人ということである。
 もう少し、観点を変えて考えよう。精神分析では、去勢コンプレックスを契機として、自我形成を考えている。つまり、ジェンダーの問題が入っているのである。思うに、差異を肯定するとは、ある意味で女性的である。そう、マイナス強度を、私は以前、女性の強度と考えた。つまり、こういうことだろう。メディア界において強度の極性的相補性があるのであり、そこは、いわば女性性と男性性とが相補的に併存しているのである。すなわち、個とは、両性的なのである、本来。両性的強度である。このバランスがあってメディア界の強度が本来生きるのであるし、健全である。しかし、連続的同一性へ傾くという病理的事態が起きたのである。これは、異常な事態である。これによって暴力・権力が発生したと言えるのだから。これは、一神教の発生と言えるだろう。ここでは、仮定的に言うが、たぶん、一神教=連続的同一性=形式主義の必然性があったのである。これは、思うに、構造主義革命だろう。それまで、差異中心でばらばらであった世界が、構造的に統一されたのである。そして、今、この後遺症に悩まされているのである。今や、差異が必要なのであるから。統一はもはや不要である。国家共同体ではなくて、連差異経済・文化・社会が必要なのである。官僚・役人ははっきり言って邪魔者なのである。そして、それに寄生する政治屋も不要である。そう、一神教・連続的同一性・形式主義の大反動である。旧体制である。大阻害要因である。ポスト役人・官僚主義である。結局、不連続的差異である市民衆の時代である。連差異の時代である。
posted by ソフィオロジスト at 14:57| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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