2006年12月21日

二項対立・優劣性の発生原因について:否定原因の飢えと差異共振様相の回帰としてのトランス・モダン

二項対立・優劣性の発生原因について:否定原因の飢えと差異共振様相の回帰としてのトランス・モダン

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

先に、陽主体iによる連続的同一性の優越意識認識は、基盤として、陰他者-iにおける劣等意識があるというようなことを簡単に触れたが、この点について、詳論したい。
 問題は、受動的感覚のことである。また、感覚と感情と意識と認識と知性のことである。ここでは、受動的感覚を考えたい。先ず、心身を根源に置く必要がある。さらに言えば、心身より先に、差異を原根源に考える必要があるだろう。差異とは、この場合、即非関係にある差異である。即非差異ないし対極差異と呼んでおこう。つまり、i*(-i)が原根源にあるということである。自己やその倒錯である自我の起源はこれであると考えられる。
 では、この原自己ないし元自己(元己、元個、原己、原個)の進展のことを考えると、現象界において、この原自己が剥き出しで置かれると考えられる。誕生以前は、子宮内で、差異共振様相であったと考えられる。胎児と母体との差異共振様相である。両者、個でありつつ、同時に共振しているのである。両者の即非・対極関係があるということである。
 しかし、出生後は、新生児は、子宮内とは全く異なる環境に置かれる。子宮内を、メディア環境と呼べるならば、出生後の環境は、当然、現象環境である。この現象環境において、新生児は、メディア環境においてと同様に、最初振舞うだろう。つまり、有り体に言えば、新生児の感覚意識する現象界とは、メディア環境的現象界、あるいは、差異共振的現象界となるのである。そして、これが、「コスモス」である。メディア環境における「コスモス」と現象界における「コスモス」があるのである。前者を即自態とすれば、後者は対自態である。(思うに、空海の両界曼荼羅であるが、金剛界曼荼羅が前者で、胎蔵界曼荼羅とは後者ではないのか。後で、検討。)
 しかしながら、当然、現象界は、メディア環境ではありえないのであり、新生児は、ここで、苦を感じることになるのである。スピノザ的に言えば、悲しみを覚えるのである。これは、イデア力学(イデア科学)的にはどういうことなのであろうか。それは、簡単に考えれば、差異共振性の不成立であり、そのために、原初・無垢の歓喜が、経験の悲しみとなるのであるが、この差異共振性の不成立とは、差異共振性の否定態と言えるのではないだろうか。差異共振性が、肯定態とするならば、その不成立とは、否定態と言えるだろう。差異共振性i*(-i)⇒+1で、この+を肯定態とするならば、不成立は、−1の様態であると言えるだろう。つまり、-{i*(-i)}⇒−1と考えられるのではないだろうか。これは、当然、-(i)*(-i) か、又は、i*-(-i) のことと展開できるだろう。前者が、宗教ないし信仰的様態であり、後者が、自我様態であろう。(思うに、史的に見ると、中世までは、前者の様態が続き、近代は、それが、いわば、反転して、後者の様態になったと言えるのではないだろうか。)
 とまれ、この二つの否定的様態が、進展した現象的様態となるのだろう。つまり、出生後の原初においては、子宮内におけるメディア環境を継続した様態であるが、その後の「経験」によって、新生児は、否定的様態を獲得すると言えるだろう。問題は、この否定的様態への対処法である。このことに関して、確認しておくべき事象は、言語獲得の意義である。ここでは、二通りの言語獲得があると考えられるのである。一つは、差異共振的歓喜ないし共感的言語形成である。「わたし」と他者Aとは、一体である。しかし、同時に、「わたし」は「わたし」であり、他者Aとは異なるのである。正に、即非様態の言語形成があると考えられるのである。他者Aは、「花」となるのである。他方、否定的様態における言語形成があるだろう。「わたし」の差異共振性を否定する対象に対する言語形成である。ここで、自然を考えよう。自然は、「わたし」の食べ物をもたらしてくれる。しかし、あるときは、自然は、無慈悲であり、食べ物を「わたし」に与えない。この場合、自然は、「わたし」にとり、快・不快の対象である。しかしながら、問題は、単純ではない。新生児にとり、自然は、本来、メディア環境である。「わたし」は自然と差異共振様相にあると言えよう。「わたし」と自然との即非・対極様相である。だから、食べ物に取得に関する快・不快の「弁証法」が、「わたし」を絶対的に支配することはないのである。
 とまれ、問題は、言語形成ないし名付けの意義である。他者Xを「何か」Nと呼ぶとき、差異共振環境ならば、他者Xは、主体iにとて、差異共振的他者であり、他者の名前(言語)Nは、差異共振様相を指していることになるだろう。つまり、i*(-i)における-iとしての他者であり、他者の名前Nである。これは、差異共振言語と呼んでいいだろう。つまり、i*(-i)⇒+1の名・言である。+1を確定する言語である。おそらく、この言語がなければ、差異共振様態のままであり、認識には進まないだろう。そう、差異共振様態は、いわば、直観様相なのであり、それだけでは、知的認識にはならないと考えられる。差異共振性に言語を与えることで、+1の認識となると考えられるのである。だから、⇒は、言語構築性を意味していると言えるだろう。だから、+1とは、差異言語であると言えるだろう。
これに対して、否定様態の言語があるだろう。−1の言語である。これは、連続的同一性言語(簡単に、同一性言語)と呼べよう。
 問題は、この同一性言語の力学である。二項対立言語の力学である。ライオンと鹿がいるとしよう。「わたし」にとり、ライオンは「強い」、鹿は「弱い」のである。後者を取って、食べ物にできるのである。狩りを行ない、鹿を仕留めて、「わたし」は勝利することができるのである。ここに強弱ないし優劣の観念の萌芽があるだろう。「わたし」はライオンに対しては弱いが、鹿に対しては強いのである。ラインに対しては、劣等であるが、鹿に対しては、優越するのである。ここにある意識様態の力学は何だろうか。もし、差異共振認識があれば、ライオンと鹿は、自然の両極であり、両者必要なものであり、強弱・優劣の差別は生じないだろう。鹿には、鹿の存在意義があるのである。あえて言えば、「弱い」、「劣等」には、それの積極的意義があるのである。
 では、強弱・優劣の二項対立的価値観はどこから生まれるのだろうか。当然、差異共振的価値観の喪失後である。ライオンと鹿の両面に積極的意義を認める差異共振・共立的価値観の喪失後である。このためには、絶対的二元的区別の世界観が必要だろう。「わたし」と他者とが、絶対的に分離しているという世界観である。
 とまれ、ここで、以前のアポリアにもどると言えよう。結局、差異共振様相を否定する事態とは何なのか、ということになるだろう。ここで、直観で考えよう。それは、差異共振様相を否定する事態とは、孤独である。あるいは、孤立無援の状態である。絶対的孤独である。これは、わかりやすい例をあげれば、飢え、飢渇であろう。自然は、「わたし」に食べ物を与えてくれない。植物は枯れ、雨は降らない。祈っても、食べ物が得られないのである。いわば、差異共振の神に見放された様態である。自然の神に見捨てられた様態である。「わたし」は「わたし」であり、絶対的な「わたし」である。思うに、ここにおいて、一神教が発生があるだろう。絶対的な「わたし」である神である。絶対的な「わたし」を保証する神である。それは、当然、自然を超越した神である。超越神である。否定様態だるから、「わたし」は悲しみの様態にある。つまり、ルサンチマンである。(ニーチェのキリスト教批判が正しいだろう。しかし、ニーチェ自身、旧約聖書を肯定しているので、分裂しているだろう。晩年の「力の意志」の思想は、分裂しているだろう。)ここには、反差異・連続的同一性となった自己即ち、自我があると言えるだろう。ルサンチマンの連続的同一性の主体があるのである。−1である。(ヤハウェとは、この否定様態の名前であろう。ラカンの父の名は、これではないのか。)ここにおいて、他者は否定されるしかないのである。「わたし」は絶対であり、他者は否定されるべきである。「わたし」は自然を超越した存在であり、他者に優越しているのである。これが、優越性の発生の原因であると考えられよう。つまり、絶対的超越性である。そして、これは、差異共振様相の否定態であり、実は、差異共振性を反転的に指示しているのである。つまり、メディア空間を指しているのである。
 思うに、差異共振的現象性は、メディア空間と現象空間が未分化である。つまり、連続化しやすいと言えるだろう。メディア即現象空間だろう。つまり、内在空間である。連続的な差異の共存がここにはあるのである。(ベルクソン/ハイデガー/ドゥルーズ、等)
 しかし、絶対的孤独の絶対的自我によって、すべては、超越的同一性化されるのである。差異共振様相の否定としての超越的絶対的同一性である。−1である。ヤハウェである。ルサンチマンである。専制である。父権制である。
 結局、絶対的孤独による絶対・超越的主体が、優劣的二元論、二項対立の発生であったと考えられるのである。
 しかしながら、これは、差異共振様相の否定態であるから、当然、肯定態に変換しうるのである。否定態から肯定態への転換は、スピノザの能動的観念の発想、フッサール現象学、聖霊主義、仏教、他に見ることができるだろう。しかし、この力学は何か。この肯定力学とは何か。肯定回帰的力学とは何か。キリストは愛を説いたが、もう、愛ではないだろう。否定の否定である。「父」が、新たな「母」になることだろう。新たな差異共振。それは、再び、絶対的孤独から生まれるだろう。以前は、飢え・飢渇から発した。しかし、今度は、それではありえないだろう。近代科学・技術・産業とは、物質的飢渇を満たす方法ではあった。しかし、今や、それは、過飽和である。もっとも、ここで、根本的に考えれば、飢えや飢渇による否定とは、差異共振性に対する否定なのであり、いわば、裏返しの差異共振性なのである。つまり、連続的同一性とは、裏返しの差異共振性なのである。それが、西欧において、帰結的に、近代主義を生んだのであり、今日、ポスト近代主義の事態となっているが、それは、差異共振性への否定の原因であった物質的飢え・飢渇が克服された様態である。つまり、ポスト近代主義とは、差異共振様相を否定した物質的飢え・飢渇が解消された事態を意味しているのであり、それは、当然ながら、差異共振様相の回帰であり、ポスト連続的同一性、ポスト一神教を意味すると考えられるのである。物質的飢え・飢渇の解消は、否定性の解消であり、否定の否定で、肯定が回帰するのである。
posted by ソフィオロジスト at 00:56| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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