2006年10月13日

検討問題:イエス・キリストとは、何か

可視的なものと、認識が結びついている(ヴィジョンvideoと観念ideaが語源的に一致する)ので、叡知=永遠の真理を可視的にする方法が、常に、人類にとって必要なのであり、それは、秘教・密教・神秘学、哲学、神話、宗教他に伝承されてきたと考えられるのである。プラトンのイデア論は、叡知の世界を知的に説いた、驚異的な理論である。また、仏教も、これに近いのである。人間は、現象界の知覚・認識を基盤とするために、この永遠の叡知を喪失しやすいのである。
 このような観点から、イエス・キリストを見ると、それは、叡知の世界を体現した人物と見ることができるように思える。しかし、その叡知的デモンストレーションが、キリスト教として、ドグマ・教条的に固定されてしまい、叡知性を喪失したと言えるのである。イエス・キリストとは、叡知の体現であると言えるのであり、それは、プラトンのイデア論と同じ真理を伝えていると考えられるのである。だから、キリスト教ではなくて、イエス・キリスト叡知実践論となるべきである。そして、それは、当然、イスラム教とも共通するものであり、万教帰一である。
 ニーチェのキリスト教批判は、宗教・教会としてのキリスト批判であり、イエス・キリスト自身は肯定しているのである。ニーチェが体現したと考えられる差異・特異性・不連続的差異・絶対的差異とは、基本的には、叡知とほぼ等価と言っていいものであり、イエス・キリストとニーチェは、同じ叡知を体現していると極論できるのである。(p.s.  この点は、もう少し丁寧に、精緻に述べるべきであろう。ニーチェが体現したのは、不連続的差異・絶対的差異・特異性そのものと考えられるのである。永遠回帰は、思うに、イデア界への回帰である。親鸞の往相回向であろう。それに対して、イエス・キリストの体現したのは、同様に、不連続的差異・絶対的差異・特異性であると考えられるが、それから、一歩進展して、差異共振シナジー様相をも体現していると思う。その差異共振シナジーは、完全に自由なものではなくて、連続・同一性の構造に囚われていると考えられるのである。差異共振シナジーは、即非の様相・様態であり、「愛」でもあるし、「愛」でもないのである。だから、イエスが説いた「愛」は、差異共振シナジーの叡知からは、連続・同一性へと傾斜していると考えられるのである。以上のように考えると、ニーチェとイエスであるが、不連続的差異性を両者もっているが、徹底しているのは、前者であり、後者は、連続・同一性の構造に囚われていると言えるのである。)
 私は聖霊教(あるいは、地味な野の花教、風の友愛教)を説いているが、これも、結局、叡知のエネルゲイアを説く宗教に過ぎないのであり、叡知普遍教そのものである。結局、ポスト・キリスト教であり、叡知論、プラトニック・シナジー理論の視点に基づき、イエス・キリストをキリスト教から救済することになるのである。仏陀も、プラトンも、イエスも、ゾロアスターも、ムハンマドも、モーゼも、老子も、朱熹も、卑弥呼も、一如である。(p.s. ガンジーも、ジョン・レノン、等々も同じである。また、スピノザやフッサールも、そうだし、D.H.ロレンスも折口信夫もそうである。同一の真理、差異共振シナジーという叡知の光とエネルゲイアを体現していたのである。)

p.s. 思うに、イエス・キリストは、叡知の実践・デモンストレーションであると述べたが、しかし、絶対的なそれではありえないだろう。時代の制約があるのである。だから、イエス・キリストの叡知実践は、一つの実践例として見るべきである。

p.p.s. 結局、差異共振シナジー叡知、メディア・エネルゲイアを、各時代、各場所において、多面的に観察した結果が、諸宗教、諸哲学、諸神話、等と言えるだろう。この叡知界は、通常の論理学や言語では捉えられない世界である。鈴木大拙氏の即非の論理学やウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」(第三の論理学)によって、把捉される世界である。これを、同一性の思考・論理で表現すると、矛盾が起きるのであり、これまで、一神教は、同一性の思考・論理(人格神)で、表現してきたので、混乱しているのである。零度差異共振シナジー界・叡知界・叡知空間を表現するには、差異の思考が必要なのである。プラトニック・シナジー理論は、それを、不連続的差異の共立・共振する世界として、理論化しているのである。

3p.s. 根源的な差異共振シナジー=イデア叡知を、様々な視点から解釈したものが、諸宗教、諸思想・哲学、諸神話・フォークロアであろう。絶対というものはありえないのである。それぞれが、一つの視点に過ぎないだろう。唯一神は、とは、一つの唯一神である。ヤハウェも、アッラーも、差異共振シナジーの一つの解釈である。つまり、諸宗教の相対性が考えられることになる。一神教は、同一性構造の視点に拠ると言えるのである。Kaisetsu氏が以前、宗教の相対性理論が成立について示唆されていたが、確かに、どの宗教で、「神」を「観測」しても、「光速」=真理は一定なのであろう。コ根源の「光」=差異共振シナジーの光・原光を、それなりに、捉えていると言えるのだろう。イデア叡知光を、どの視点からみるのかによって、諸宗教が生じるのである。ここには、宗教の進化論はないのである。宗教の共立があるだけである。相対性宗教論である。
posted by ソフィオロジスト at 01:23| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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