2006年09月27日

イデア 叡知光と阿弥陀 如来

イデア 叡知光と阿弥陀 如来

テーマ :PLATONIC SOPHIENCE

先に、イデア 叡知光の問題を考察 し、差異面の光と同一性面の光の2つの光の極性があり、併せてイデア 叡知光と考えた。この問題は、実に本質的で、核心的である。

 ここで、基本から考えよう。1/4回転によって、零度差異共振 シナジーが形成される。これは、メディア 界=メディア 平面である。零度差異共振 シナジーは、「発光」していると考えられる。これを、私は、イデア 叡知光と呼んでいるのである。

 しかし、メディア 界=メディア 平面は、主に二つの面をもつ。即ち、不連続 ・差異面(以下、差異面)と連続 ・同一性面(以下、同一性面)をもつ。そして、イデア 叡知光は、この両面性をもつと言えよう。差異面光(以下、差異光)と同一性面光(以下、同一性光)をもつ。つまり、イデア 叡知光は、差異光と同一性光の全く異なる2つの光を帯びることになるのである。そして、差異光は、おそらく、ロレンス 等が言う暗い太陽 dark sun に関係するのではないだろうか。そして、同一性光は、当然ながら、原太陽 光ないし現象光となるだろう。ついでに、ダークエネルギー のことに触れると、それは、差異光ないしイデア 叡知光の物質的エネルギー を問題にしていると言えるのではないだろうか。

 まとめると、イデア 叡知光とは、零度差異共振 シナジーの光であり、それは、差異光と同一性光の両極・対極・極性をもつのである。

 さて、ここで思考 を進展させると、差異面は差異極に、同一性面は同一性極になるのではないだろうか。つまり、ここでは、正に、太極 の極性が形成されているのではないだろうか。(もっとも、これまで、ずっとメディア 界・メディア 平面を陰陽極性で考えてきたのではあるが。)そうならば、メディア 平面は太極 図のようであり、差異光と同一性光との両極の光を発していることになるだろう。つまり、メディア 平面光=イデア 叡知光とは、差異と同一性の対極光であるということになる。(ここで、注意すべきは、同一性とは、疑似同一性であり、本来、連続 性と考えた方が正しいのである。連続 ・同一性志向性である。)つまり、差異/同一性の二重光であるということである。おそらく、この二重性は、混じってはいないのである。つまり、差異光と同一性光とは、混じり合ってはいないのである。あくまで、対極光である。比喩的に言えば、闇と光との対極性がここにはあるのである。黒い光と白い光の対極光である。暗い太陽 と明るい太陽 との二重太陽 なのである。もっとも、太陽 や光は、ここでは、原・プロト の意味 である。現象界や物質のそれと見てはいけない。(何度も言うと、ヌース理論 の根本 的誤謬は、メディア 平面光=イデア 叡知光と光子 というメディア /現象境界=超越同一性構造における「光」=量子とを混同して、同一視している点にある。半田氏がドゥルーズ の差異=微分 を基本にするのもむべなるかな。)

 以上のように考察 すると、イデア 叡知光とは、実に不思議 な光であることがわかる。本体は、零度差異共振 シナジーの光であるが、それは、対極光でもあるのである。一つの光であると同時に、「二つ」の光でもある。しかし、「二つ」とは、いわば、ヴェンダーンタ哲学 の不二一元論の「二つ」である。あるいは、即非の論理 の「二つ」である。二即一である。あるいは、差異即同一性である。

f:id:sophiologist:20051104180951j:image

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Waterland0_002.jpg

 さて、このようにイデア 叡知光を再検討してみると、これは、実に、阿弥陀 如来 の光、とくに、阿弥陀 三尊の様態に関係するように考えられるのである。後者 において、脇侍(きょうじ)として、観音菩薩 、勢至菩薩 をもつが、これは、イデア 叡知光の対極と見ることができるのではないだろうか。両者、「見る」や光に関係するのである。つまり、阿弥陀 如来 とは、イデア 叡知光そのものであり、脇侍の観音菩薩 と勢至菩薩 はその対極光をなしていると見ることができるように推察できるのである。

 さらに思考 を展開すると、古事記 の三柱の神、即ち、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・神産霊神(かみむすひのかみ)とパラレル になりそうである。天之御中主神が、当然、イデア 叡知光である阿弥陀 如来 である。そして、後の二者が陰陽光になる観音菩薩 ・勢至菩薩 に対応すると推察できるのである。つまり、日本の神話 と仏教 思想 とは、イデア 叡知光という共通の根源の光を見ていたことになると考えられるのである。ただ、表現が異なるだけである。万教帰一である。

 そうならば、神仏習合 とは、実に論理 的な宗教 的展開であると言えよう。そして、折口信夫 が、『死者の書』で、山越阿弥陀 の伝統 的な宗教 思想 を復活させたのは、折口自身が、イデア 叡知光を見ていたからであると考えられるのである。

 また、さらに付加すると、空海 の両界曼荼羅 であるが、思うに、大日如来 が、イデア 叡知光であり、金剛界曼荼羅 と胎蔵曼荼羅 が、対極世界を表現しているように思うのである。

 ここには、ゾロアスター教 、仏教 、神道 が一致しているのである。

 ここで、ユダヤ教 やキリスト教 の「光」の問題に触れると、ヤハウェの光ないしキリスト の光はイデア 叡知光の一面、一極の光、即ち、同一性の光に過ぎなかったと思うのである。旧約聖書 の神名は、ヤハウェとエロ ーヒム(神の複数形)の二つがあるのである。これは、推測 するに、イデア 叡知光の対極であると思うのである。ヤハウェが同一性光であり、エロ ーヒムが差異光であると思われるのである。そうすると、ユダヤ ・キリスト教 には、根源のイデア 叡知光が明示ないし顕示されていないように思えるのである。箴言等は、イデア 叡知光の智慧を表現していると思うのである。「光あれ」の光とは、同一性光、即ち、現象光だと思うのである。どうも、ユダヤ ・キリスト教 には、イデア 叡知光が、隠れてしまっているように思えるのである。イデア 叡知光の神が、隠れ、忘却されてしまったように思えるのである。ここで、想起するのは、ハーマン・メルヴィル の名作『モービー・ディック(白鯨 )』である。その中で、パラノイア 的なエイハブ 船長が、セント ・エルモ の火に対して述べる言葉 に、根源的な母なる神が示唆されているのである。父なる神を超えた神である。これこそ、失われたイデア 叡知光の神と考えられるのである。

 やはり、ポスト ・ユダヤ /キリスト教 である。真に正統的な宗教 の復活である。偏頗な宗教 の時代は終焉したのである。そう、メルヴィル において示唆されるゾロアスター教 の光、そして、ニーチェ におけるツァラトゥストラ と永遠回帰 を考えると、結局、

ポスト ・キリスト教 であり、

イデア 叡知光回帰 なのである。

ゾロアスター教 、仏教 、神道 、プラトン 哲学 の復活である。

西洋は滅びたのである。西洋は死んだのである、永遠 に!

p.s. ついでに、伝統 的な三女神(三美神も含めて)であるが、これも、ここでの考え方が適用できるように考えられるのである。例えば、古代ギリシア のエレウシス の秘儀であるが、デーメーテールとは、イデア 叡知光ではないだろうか。そして、復活する娘のコレーとは、対極光(死と生の対極性)を指すと考えられよう。コレーとペルセポネ(冥界の神)は一体である。そう、ペルセポネ(死)とコレー(生)が対極的に一如であろう。

 また、イシス ・オシリス神話 であるが、これも同様に考えられよう。オシリスが死んで、復活するのであるが、オシリスが生死の対極性であり、イシス がイデア 叡知光であろう。

 また、さらに、ユダヤ 神秘思想 のカバラ であるが、その三元的構成は、ここでの考え方で説明できるだろう。中央に対して、両極の柱があるが、それが、対極性であり、中央がイデア 叡知光と考えられよう。

 また、D.H.ロレンス の「王冠」の思想 であるが、父と子の二元 論と、聖霊 による一致であるが、父と子とが対極性であり、聖霊 がイデア 叡知光を指すと考えられるのである。

 結局、すべては、太極 哲学 に表現されているのである。そう、老子 とは何哉(なんぞや)。中国とは何哉。アジア・東洋とは何哉ということになるだろう。

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参考:

阿弥陀 如来

出典: フリー 百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』

(阿弥陀 仏 から転送)

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来迎印の阿弥陀 如来 像(牛久大仏 )

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来迎印の阿弥陀 如来 像(牛久大仏 )

定印の阿弥陀 如来 像(鎌倉大仏 )

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定印の阿弥陀 如来 像(鎌倉大仏 )

鎌倉大仏 の印相

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鎌倉大仏 の印相

阿弥陀 如来 (あみ だにょらい、amitaabha )は、大乗仏教 の如来 の一。阿弥陀 仏・弥陀仏などともいう。

目次

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* 1 概論

* 2 垂迹 神

* 3 日本における主な作例

* 4 関連仏典

* 5 関連宗派

* 6 関連僧侶

* 7 関連項目

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概論

「阿弥陀 」はサンスクリット の「アミターユス(amitaayus)」=「無限 の寿命 をもつもの」、アミターバ(amitaabha)」=「無限 の光をもつもの」音写したもの。意訳して、無量寿仏/無量光仏とも呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。西方にある極楽浄土 という仏国土を持つ。造形化された時は施無畏印・与願印・定印・来迎印を結ぶ。阿弥陀 三尊 として祀られるときは、脇侍に観音菩薩 ・勢至菩薩 を持つ。密教 においては、五仏(五智如来 )の一如来 として尊崇される。

無量寿経 によるとインド 王族の出身だったが、世自在王仏 に出会い 出家 。法蔵 と名乗り、非常に長期間衆生 の救済の思索をめぐらし(五劫 思惟(ごこうしゆい))、浄土 への往生 の手立てを見出し たことにより仏 となった報身 仏。衆生 救済に関して48の願い(四十八願 )を立て、特に浄土教 において第十八願 を「本願 」と呼んで重要 視する。また、現在 も説法をしていると信じられている。

これを語源 とする他力本願 と云う言葉 は、本来の宗教 的な意味 合いを離れて、「ムシのいい、他人への依存 」「無責任 」という意味 でも広く用いられるが、本来は自分自身(自力)の力「のみならず」仏の力,他の人の力(他力)、すなわち縁の力も互いに借りて皆がより良く生きるという意味 である。浄土真宗 においては、煩悩 具足の凡夫は阿弥陀 仏の本願、すなわち他力本願 によって「のみ」往生を遂げることができるとし(絶対他力)、自力は否定されるが、この場合でも「他人依存 」「無責任 」は、言うまでもなく他力本願 とは相容れない概念 である。

チベット仏教 における副法王 パンチェン・ラマ は阿弥陀 如来 の化身とされる。

大乗仏教 で登場した仏尊であり、その起源 はゾロアスター教 に遡り、光明 の最高神アフラ ・マズダー が無量光如来 、無限 時間の神ズルワーン が無量寿如来 として仏教 化されたとする学説もある。また西方極楽浄土は、ゾロアスター教 の起源 であるペルシャ 地方、もしくは肥沃で繁栄した古代 バビロニア 地方が背景になっていると考える少数派の意見 もある。

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垂迹 神

* 熊野権現

* 八幡神

ほか

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日本における主な作例

国宝

* 中尊寺 像 (岩手県西磐井郡平泉町)(金色堂 安置諸仏のうち)

* 高徳院 像 (神奈川県鎌倉市)(鎌倉大仏 )

* 浄土寺 像 (兵庫県小野市)(阿弥陀 三尊像のうち、快慶 作、浄土堂安置)

* 平等院 像 (京都府宇治 市)(定朝 作、鳳凰堂安置)

* 広隆寺 像 (京都市)(講堂安置)

* 仁和寺 像 (京都市)(阿弥陀 三尊像のうち、金堂安置)

* 法界寺 像 (京都市)(阿弥陀 堂安置)

* 三千院 像 (京都市左京区)(阿弥陀 三尊像のうち、往生極楽院安置)

* 法隆寺 像 (奈良県生駒郡斑鳩町)(阿弥陀 三尊像のうち、橘夫人厨子安 置)

重要文化財 (国指定)

* 太山寺 像 (神戸市)(阿弥陀 堂安置)

* 圓教寺 像 (兵庫県姫路市)(常行堂安置)

* 知恩院 像 (京都市)(阿弥陀 堂安置)

* 孝恩寺 像 (大阪府貝塚市)

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関連仏典

* 無量寿経

* 観無量寿経

* 阿弥陀 経

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関連宗派

* 融通念仏宗

* 浄土宗

* 浄土真宗

* 時宗

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関連僧侶

* 曇鸞

* 善導

* 良忍

* 法然

* 親鸞

* 蓮如

* 一遍

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関連項目

* 大日如来

* 阿弥陀 信仰

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5 " より作成

カテゴリ : 如来 | 浄土系仏教


注:以上は以下の転載です。

http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20060928


posted by ソフィオロジスト at 22:20| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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