2007年08月20日

身体の潜在意識と心の顕在意識:量子的身体意識と心的意識:永遠の生々流転するMedia Point

たまたま、テレビをつけたら、筋肉についての番組で、貧乏ゆすりにも意味があることを述べていた。ちらとしか見なかったので、よくわからないが、思いついたことは、「物質」は、感覚をもっているということである。
 不随意筋というものがあるし、また、身体を見れば、さまざまな部位や全体で、「無意識」に身体が活動して、生命を維持しているのがわかる。私は、この身体の「無意識」を問題にしたいのである。
 思えば、鬼才、夢野久作の『ドグラ・マグラ』で、脳中心論に対して、全細胞論を提起している。脳は、電話交換台に過ぎず、主人は全細胞であるということである。これは、私が考えたい、身体の「無意識」に通じるだろう。とまれ、ここでは、『ドグラ・マグラ』についてはこれ以上、述べない。
 深層心理学が、主に心や精神を扱い、身体については、疎かにしているのは、きわめて不十分だと思う。また、ヨガのように、チャクラを活性化させるというのも、身体の無意識の一面を扱っているだけではないかという感じがある。
 私は、身体の物質的過程を身体の「無意識」によるものとして捉えたいのである。これまでの考え方に拠れば、量子があり、これが、「意識」をもっていると考えられる。即ち、量子意識があるということであるが、これは、識閾があり、無意識領域に身体の「無意識」があり、また、ヨガのチャクラのような「意識」が潜在しているのではないだろうか。(p.s. 「気」も、一般には、身体の「無意識」に入るが、訓練によって、識閾を超えて、意識化されるということになるが、しかしながら、すべて意識化されるということではないのではないか。)そして、意識領域には、当然、通常の感覚・知覚・認識の意識が顕在している。
 言い換えると、「意識」は、量子的潜在領域と量子的顕在領域があり、境界によって隔てられているということである。深層心理学は前者の領域に踏み込もうとしたが、充分には、測深できていないと考えられる。
 思うに、禅仏教は、この量子的潜在意識に、瞑想を通して、触れる一種のテクニックであろう。空は、量子的潜在意識のことを意味しているだろう。また、阿頼耶識という考えも、この量子的潜在意識のある階層を捉えたものではないだろうか。
 私は、ここでは、身体の「無意識」に拘るのである。つまり、身体の量子的潜在意識である。内臓を働かせる身体の「無意識」(以下、量子的意識ないしは量子意識)があり、それが、通常の顕在意識にとっては、ブラックボックスのようになって、作用していることになるだろう。
 血液の「意識」があり、ホルモンの「意識」があり、栄養の「意識」等々があるだろう。これらは、基本は量子的意識であるが、この場合、より的確に言えば、分子的意識だろう。
 では、これらの量子ないしは分子的意識と通常の顕在意識はどう関係しているのだろうか。今日は、ストレスの問題、心因性の問題がはっきりとしている。哲学では、心身論である。
 ここで、スピノザ哲学を考えると、それは、身体性に注目した哲学であり、心身平行論を立てたのであるが、精神の感情と身体との平行性に注目したものであるから、今日の心身論を先取りしているだろう。
 とまれ、量子/分子的潜在意識と顕在意識の関係はどういうものなのかである。PS理論から見ると、Media Pointでの差異共振性が重要なポイントである。主体と他者との共振性が基本である。これは、思うに、潜在意識と顕在意識の両領域において、共通するのではないかと思われるのである。差異と差異とが共振して、エネルギーが放出される。そして、身体的回路が機能する。つまり、身体共振回路である。
 そして、顕在意識においては、差異と同一性との両面が生起する。問題はストレスである。自己にとって、好ましくない、不快な事態が生じる。このストレスの負荷とは何だろうか。
 不快なものとは、主体の何に「被害」をもたらすのだろうか。端的に、精神・心に害をもたらすと言えよう。困難な仕事を生じたとき、他者に侮辱されたとき、暴力をふるわれたとき、人生がうまくいかないとき、等々あるだろう。
 スピノザ的に言えば、悲しみがもたらされたときである。端的に、苦がもたらされたときである。苦痛・苦悩でストレスが生じるのである。
 では、苦・苦痛・苦悩・苦悶等々とは、主体の心の様相をどう変えるのか。これは単純に、肯定様態があり、否定様態があると言えるだろう。肯定様態とは、主体の心が、歓喜に満たされているときである。では、歓喜とは何か。それは、心のもつ欲求が満足されるときに生起する心的様態であろう。(では、欲望とは何だろうか。それは、身体的ではないのか。食欲、性欲、物欲等々とあるが、それは、心と関係しないのか。この点は後で検討したい。)
 主体の心の欲求が満足するときに、歓喜があり、それが否定されるときに、苦が生じるだろう。人間には、自尊心があり、主体の心の権利がある。心的権利である。それが肯定されれば、歓喜となるし、それが否定されれば、苦となる。心的権利には、当然、自由等の民主主義的権利が入るだろう。
 この心的欲求や心的権利が否定されるときの苦とは、心に損害を与えていると言えよう。心痛である。これは、顕在意識的である。しかしながら、ストレスであるから、当然、身体へも影響するのであるが、心と身体とはどう関係しているのだろう。
 そう、心的感受性があり、それの苦が、身体へと影響するということだろう。ここで、自己認識方程式を使用すると、i*(-i)⇒+1の左辺を敷延して、iを心、-iを他者ないしは身体としよう。すると、i←(-i)が他者ないしは身体から主体への影響となるだろう。
 共振性において、歓喜があるとするならば、他者ないしは身体から同一性を強いられるというのは、苦である。すると、感受性とは、iと-iとの間に存すると言えるだろう。それは、Media Pointではないだろうか。
 このMedia Pointへの損害がストレスということだろう。そして、Media Pointこそが、心と身体をつなぐ領域ではないだろうか。つまり、心のMedia Pointがあり、身体・物質(量子)のMedia Pointがあり、それらは、共振的一致しているのではないだろうか。Kaisetsu氏のメディア共鳴が存しているのではないだろうか。
 言い換えると、Media Pointにおいて、心と身体とが共振的一致しているということではないだろうか。心のエネルゲイア(エネルギー)があり、身体のエネルゲイア(エネルギー)があり、それらが、Media Pointで、交叉・交流ないしは相互変換しているのではないだろうか。
 以上のように、作業仮説的ではあるが、考えられるならば、心因=ストレスが身体へ影響することは、合理・整合的に説明できるだろう。 Media Pointにおいて、エネルゲイア(エネルギー)の質的変換によって、心因が、身体・物質(量子/分子)的結果をもたらすと言えるだろう。
 これは、また、逆も言えるだろうが、識閾があるから、自覚症状がないということが当然考えられるのである。
 よく「霊能者」が病気を当てるようなことが主張されるが、思うに、「霊」というものを、量子/分子的意識と考えるならば、それは極めて特異ではあるが、考えられることである。つまり、「霊能者」ではなくて、量子意識者と考えればいいのである。量子意識者は、身体の量子状態を察知して、そこで、異常を発見するということになるだろう。
 ここから敷延すると、霊視というのも、量子意識的視覚と言えるだろうし、予言というものの、量子意識によって量子状態を認識して、「予言」しているということになるのではないだろう。「予言」は、一種「預言」である。つまり、ある人間の量子意識には、その人の無意識的意向があり、それを認識することで、その人が近未来的にどう行動するか認識できるということではないだろうか。
 この考えを更に敷延して、輪廻転生問題を考えるとどうだろうか。前世はどうであったとか、来世はどうであるかとかはどう説明できるだろうか。
 これは、阿頼耶識の問題にも関係するだろう。この問題は、端的に、人間とは何か、心とは何か、身体とは何か、存在とは何か、生とは何か、死とは何か、等々という根本的問題である。
 量子意識を想定すると、それは、虚界と実界との境界にある意識、Media Pointの意識である。それは、いわば、未来と過去との狭間にある意識である。未来は虚界から来るだろうし、過去は実界にあるだろう。とまれ、量子意識は、過去と未来の意識をもっている。これは、思うに、前世や来世ではなくて、個の無意識・潜在意識ではないだろうか。自己の過去の無意識があり、そして、未来への無意識がある。過去的量子意識と未来的量子意識である。これが、前世や来世になっているのではないだろうか。
 問題は、量子意識・Media Point意識の意味である。つまり、問題の核心は、ここには、イデアが潜在していることである。永遠普遍がここに潜在していることである。それをイデア遺伝子と呼んでもいいのかもしれない。あるいは、差異遺伝子である。
 私は、今の感じでは、思いつきでは、Media Pointとは、一種永遠的なのではないかということである。あるいは、生々流転する永遠である。
 完全なる永遠は、イデア界・虚界であるが、これは、涅槃であり、死の世界である。しかしながら、Media Pointは、イデア的でありながら、エネルゲイアをもち、生成消滅を反復するのではないか。
 ここが最大のポイントである。そう、Media Pointが阿頼耶識なのではないか。つまり、今、私がイメージしているのは、Media Pointの量子意識があり、それが、同一性化して現象世界が形成している。しかし、現象世界は、端的に、仮象(マーヤ)である。本体は、少なくとも、 Media Pointだと思うのである。(ハイデガー現象学ならば、存在である。)
 しかしながら、Media Pointは、エネルゲイア(エネルギー)であるから、生成消滅ないしは生々流転するのである(ヘラクレイトス)。しかし、このエネルゲイア(エネルギー)は、根源的イデア界・虚界によって、永遠補給されるのではないのか。
 ここがポイントである。つまり、先にも述べたように、反復がここで発生するのではないのかということである。一つのエネルゲイアのサイクルがあり、そして、新たなエネルゲイアのサイクルが生起する。正に、生々流転である。これが、輪廻転生の本来の意味ではないのか。
 では、もしそうならば、阿頼耶識という考えはどう理論化できるだろうか。生々流転を認めたとしても、量子意識の記憶・記録・蓄積はどう説明できるのだろうか。
 思うに、顕在意識における知覚や認識の本体とは、差異であり、Media Pointであろう。心、魂、精神、霊魂等と言うと、唯心論的なので、誤解を生むので、量子意識であると言おう。量子意識が知覚や認識の本体であるということになろう。
 現象世界において、個体は、世界を感覚し、知覚し、認識するが、それは、量子意識が差異/同一性の様態において、そうしていると言えよう。例えば、花を感覚し、知覚し、認識するとしよう。これは、主体の同一性志向性において、把握しているのである。ここでは、光を媒介としているから、花の光が主体に影響しているのである。(もっとも、主体の内的な同一性志向性の光もあるだろう。両者の交叉があるが、この点は、ここでは置いておく。)
 光や主体の認識が、主体のMedia Pointに影響をもたらすだろう。簡単に言えば、波動によって、Media Pointが影響されるだろう。つまり、外界的様態がMedia Pointの様態に記憶されることになるのではないのか。
 問題は、そのMedia Pointの様態が消滅するのではないのかという疑問が浮かぶことである。つまり、永遠に記憶されるのではなく、一つのサイクルで終了して、次のサイクルはリセットされるのではないのかという疑問が生じるのである。
 これは、微妙な問題である。量子意識が普遍であるならば、記憶は普遍である。量子意識が一回のサイクルで消滅するならば、記憶は一時的である。輪廻転生はない。
 ここで少し発想を変えて、Media Pointのカスタマイズ化というようなことが考えられるならば、記憶の普遍はあり得るだろう。Media Pointのカスタマイズ化とは何か。それは、Media Pointの質的差異化である。
 とまれ、もう一度、考え直そう。Media Pointは生々流転する永遠ではないかと上述した。エネルゲイア(エネルギー)は、現象化して、消尽すると言えよう。しかしながら、Media Pointのエネルゲイア自体は残っているのではないか。生成流転するのは端的に現象である。そして、現象の核心であるMedia Pointは、いわば、不滅の核ではないのか。
 ここは確かに微妙な点である。とまれ、現象を認識するとはどういうことなのか。あるいは、現象を経験するとはどういうことなのか。現象を認識したり、経験するのは、本来、Media Pointにおいてである。一般には、Media Pointからの同一性志向ないしは同一性構造によって支配されているので、同一性的経験となるのである(無明)。
 しかしながら、同一性は、Media Pointの一つの側面であるから、Media Pointが記憶しているはずである。量子意識の記憶である。おそらく、量子意識の波動の変容・変質である。波動の変容・変質とは、エネルゲイアの変容・変質ではないのか。そう、量子意識の波形というものを考えると、波形変化があると思うのである。
 波形変化とは何だろうか。これは、Media Pointの変容を意味するのではないだろうか。
 今、壁にぶつかっている原因は、Media Pointに普遍性を見ることと、Media Pointに単に一時的な生成消滅を見ることの齟齬にある。後者の考えは単純なので、結局、前者が可なのか、不可なのかである。私のイメージでは、 Media Pointに何らかの原型性が見られる。その原型性が考えられるならば、普遍性はあるのであり、輪廻転生も生起するのである。
 こういうことではないだろうか。Media Pointにおいて、差異が連続化するときに、同一性の現象が発生する。ここにおいて、エネルギーが放出される。生成消滅するのは、当然、現象である。エネルギーも生成消滅する。しかしながら、本体のMedia Pointにおいては、いわば、永遠の振動があるのではないのか。
 不連続な即非差異があり、それが連続化し、エネルギーを放出する。しかし、連続化ないしは同一性化とは、現象化ではあるとは言え、Media Pointにおいては、不連続性と連続性が併存しているのであり、連続性という顕在面において、現象が形成しているのである。つまり、私が言いたいのは、連続性の潜在面があるのではないのかということである。簡単に言えば、連続性という面があるとして、表面として現象面があり、裏面としてMedia Point面があるということである。これは、Media Pointの側から見れば、表面として連続的Media Point面と、裏面としての現象面があるということである。
 そして、現象面としての連続性は、確かに、生成消滅すると考えられるが、Media Point面の連続性は、生成消滅せずに、現象の記憶を保持するのではないだろうか。
 もしそう考えられるならば、Media Pointの潜在性は、永遠的であろうし、輪廻転生するだろう。そして、これが、仏教・唯識論の阿頼耶識となるだろう。カルマ(業識)はあるのである。
 だいぶ長くもなったので、今はここで留めたい。
 
参考:阿頼耶識
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki08.html
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%A4%CD%EA%CC%ED%BC%B1
http://digitalword.seesaa.net/article/21897058.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
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posted by ソフィオロジスト at 20:07| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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