2007年03月24日

メディア・ポイントMePoの構成の試論:即非的一性としてのMePoと実数軸上の相剋・相生分極性

メディア・ポイントMePoの構成の試論:即非的一性としてのMePoと実数軸上の相剋・相生分極性

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

この問題は、最高の難問の一つであるし、また、プラトニック・シナジー理論PS理論における最核心の問題であり、最重要な問題であると言える。

先に、いろいろ思考実験したが、今一つ不明瞭であるから、さらにここで検討を続けたい。

虚数軸と実数軸との交点であるメディア・ポイントMedia Point(以下、MePo)性質については、ほぼ解明されたと言っていいが、残る問題は、Mepoの構成・構築・構造性の解明である。

超越的差異性と現象的同一性との交点の構成はいかなるものなのであろうか。

異質なもの、不連続なもの同士の交点ないし交叉(交差)とはどういうことなのか。

これまでの大半の哲学・理論の失敗は、両者を連続概念で結びつけてしまったことである。これについては、多く述べたのでここでは省略する。

ここでも直観で述べよう。

超越的差異i*(-i)は、MePoにおいて、現象化するが、現象化とは基本的には、同一性化である。だから、現象同一性化と言ってもいい。

そして、意識において、同一性が支配するが、内的身体において、いわば、潜在意識として、差異=特異性=差異共振性が存してる。これは、いわば、暗い意識である。dark consciousnessである。

意識は、外界の光に応じて、同一性認識を構築する。このとき、言語的認識が同一性認識の道具となる。

しかし、内的身体にある潜在意識は、まだ、不分明である。これは、内観によって、省察を受けないと暗いままで、いわば、分裂したままである(思うに、二重人格の隠れた人格は、この潜在意識と関係しているだろう。これについて説明すると長くなるので、簡単に言うと、これは、同一性意識とりわけ連続的同一性自我意識によって否定された差異意識であるが、否定されているので、反逆的になっていると思われる。

また、デカルトのコギトは、内観による認識、自己認識ではないだろうか。これを、連続的同一性自我認識とすると、近代的自我認識となってしまう。コギトは、複雑であり、本来、内観的自己認識と見るべきであろう。)

内的身体にある特異性が、個におけるMePoであると言っていいだろう。

では、どうして、現象的同一性の世界にあって、超越性と結びつくMePoが個内に存するのだろうか。

一般に、自我認識(連続的同一性自我認識)は、特異性を否定・排除・隠蔽して、忘却しているのである。とりわけ、男性の認識においてそうである。

先に、MePoの1/4回転(スピン)を考えたが、そう考えると、超越的MePoの存在の説明が難しくなるので、そう考えない方が、現象界における超越的MePoの存在は説明できると考えられる。

MePoは、虚数軸のゼロ・ポイントであるし、同時に、実数軸のゼロ・ポイントである。

だから、MePoにおいて、虚数的超越性と実数的同一性が即非的に共存・共立・並立していると考えられよう。

これが、先にも述べたが、最高の微妙さ、いわば、最奥義、最秘儀、最妙味である。奥の院である。

そう、即非的一(いつ)としてMePoを考えるべきだと思う。一如ではなくて、一と見るべきである。

即非的一ないし即非一としてのMePoである。

即ち、MePoとは、超越的差異=虚数軸的差異であると同時に、現象的同一性=実数軸的同一性であるとということである。

そう、絶対矛盾的自己同一としてのMePoである。

即非的一としての、いわば、不思議があるのであり、それが、同一性論理、同一性意識を混乱させると言っていいだろう。

内的身体に特異性としてMePoは存しているのであるが、同一性意識である自我は、これを否定・無視して、同一性に連続化するのである。

そう、特異性と同一性とは矛盾するので、意識は分裂するのである。これは、人間意識の絶対的分裂性と言えるだろう。

この特異性と同一性の分裂であるが、両者は、相克の関係にあると考えられるのである。特異性は同一性を否定し、同一性は特異性を否定するのである。この両者の相克様態が意識内において存すると言えよう(とりわけ、男性の意識においてあると言えよう。女性は、思うに、特異性のエネルギーをもって、同一性を生成変化させるように思われる。)。

この相剋過程において、一般には、同一性が特異性を否定すると言えよう。

そして、これが、連続的同一性自我意識となるのであり、さらには、近代的自我となるのである。

ここで整理すると、MePoは、本来、即非的一の様相をもつのであるが、現象化において、特異性と同一性との相剋的分裂様態が発生すると考えられる。

さらに整理すると、MePoが特異性(特異点)であり、結局、MePoと同一性が相剋様態にあると言えよう。

言い換えると、即非的一と同一性との相剋様態が生起するということである。

思うに、哲学(洋の東西を問わず)は、この相剋様態の解決のために形成されたと考えていいだろう。ただし、東洋哲学は、大乗仏教等によって、即非的一を根本にして、同一性の理論を論破していたといえよう。

しかるに、西洋哲学は、同一性が中心となり、同一性によって、解決しようと努力したと言えよう。ヘーゲル哲学は、即非的一を同一性(=「理性」)に組み込む為に、弁証法を構築したのである。

西洋哲学のおいて、即非的一に近づいた、ないし、達した者は、シェリング、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他の少数者であり、彼らの創造性を、その後の者は、同一性への反動に陥り、理解できなかった。日本では、鈴木大拙を初め、西田幾多郎、九鬼周造、他によって、即非的一の哲学が構築されたのである。

さて、MePoの構成・構築・構造をここで整理すると、それは、端的に、超越性と現象性との即非的一の構成をもつということであり、現象化によって生起した同一性は、特異性=MePoとは、相剋様態にあるということである。

補足すると、同一性と特異性との相剋様態とは、主に男性意識において顕著であり、女性意識においては、本来、相生的であると考えられる。

つまり、女性意識の方が、両者が共生・共存的であると考えられる。

何故ならば、これまで、述べたように、男性は、同一性に傾斜しているのであり、女性は、そのような傾斜がなく、特異性(差異)と同一性の均衡性を本来もっていると考えられるからである。

つまり、男性意識は、i*-(-i)⇒-1となり、女性意識は、i*(-i)⇒+1となるということである。

-1とは原-他者-iの否定があるのであり、+1とは、原-他者の肯定があるのである。

つまり、

-1は、同一性⇒同一性⇒同一性⇒・・・

+1は、同一性⇒差異⇒同一性⇒差異⇒・・・

となると考えられる。

だから、MePoを起点として、男性は、実数軸の左辺(左脳:ヴィジョン的叡知)へ、女性は、実数軸の右辺(右脳:言語的同一性)へと分岐するのだろう。また、MePo自体は、脳梁として見ることができるだろう。

ということで、さらに、MePoの構成を整理すると、超越性(天上性)と現象性(地上性)の即非的一の様相をもち、それが、個における内的身体である特異性(霊性=大地性)を形成している。そして、同一性に傾斜すると、特異性と同一性の相剋様態が生起して、⇒-1となり、実数軸の左辺へと展開する。そして、特異性と同一性との均衡がある場合、特異性と同一性は相生的であり、⇒+1となり、実数軸の右辺へと展開する。前者が男性(左脳)であり、後者が女性(右脳)である。

とまれ、簡潔に言うと、MePoとは、虚数軸と実数軸の交差における即非的一の点、即非的ゼロ・ポイント、即非的原点、即非的核点と言えよう。

おそらく、アリステレスや古代ギリシア人の言ったアルケー(本体)とは、MePoのことを指していると思う。プラトンのイデアもほぼ、MePoと考えていいだろう。有名なコーラであるが、それは、MePoの即非的一性を、より実数軸性で考えた空間ではないだろうか。だから、形相に近いのであるが、形相のような形而下的なものに限定されない。

結局、メディア・ポイントMedia Point(MePo)とは、虚数軸・超越性・天上性と実数軸・現象性・地上性との即非的一性の構成をもち、個における内的身体(霊性=大地性)において特異性となる。現象化=同一性化において、同一性に傾斜する場合は、特異性=差異と同一性が相剋様態となり、⇒-1(連続的同一性)となり、実数軸上の左辺へと展開し、特異性と同一性が均衡する場合は、特異性=差異と同一性が相生様態となり、⇒+1(差異・特異性的同一性)となり、実数軸上の右辺へと展開する。前者が男性性(左脳:言語的同一性)であり、後者が女性性(右脳:ヴィジョン的叡知)である。また、MePoは、物質的には、脳梁であろう。


参考:
アルケー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

アルケー(ギリシア語 :αρχη arkhē)とは、「はじめ・原初・根源 」等のことであり、哲学 用語としては「万物の根源」また「根源的原理」を指す。宇宙 の神的・神話 的な起原である。

[編集 ] 概説

主にミレトス学派 の自然哲学 で議論された。古代ギリシア のアナクシマンドロス がはじめてアルケーの語を用いたとされる。またアリストテレス はその著書『形而上学 』において、哲学 の祖はミレトス のタレース であり、彼は、万物の根源(アルケー)を水 であるとしたと記している。

それ以外にも、ヘラクレイトス は火 を、ピュタゴラス は数 をアルケーとし、エンペドクレース は土 ・水 ・火 ・空気 の四大 からなるリゾーマタ、デモクリトス はアトモス (不可分体)こそがアルケーであるとした。アナクシマンドロスは、無限定者(アペイロン 、en:Apeiron )がアルケーであると考えた。

[編集 ] キリスト教でのアルケー

『新約聖書 』の『ヨハネによる福音書 』は、その冒頭に、コイネーギリシア語 で、「 Εν αρχηι ην ο λογοs (En arkhēi ēn ho logos、エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス)」と記されているが、代表的なラテン語 訳である『ウルガータ聖書 』では、この部分を、「 In principio erat verbum 」と訳している。「 principium 」(principio は、この語の与格 形)はラテン語では、「はじめ」という意味以外に、「原理」という意味があり、ここよりアルケーへの問いは、「世界 の根源 原理 」としての神 への問いとして中世のスコラ哲学 に引き継がれた。

なお、アルケーという言葉のギリシア語での対語は、「テロス」(τελος,telos)であり、テロスは「終わり・目標・完成」というような意味を持つ。『新約聖書・福音書』において、イエズス は、「わたしはアルパであり、オメガである」と述べたと記されているが、アルパ(Α)とオメガ(Ω)は、ギリシア語アルファベットでの最初と最後の字母である。

従って、イエズスは「わたしはアルケーでありテロスである」と述べたとも解釈される。イエズスはギリシア語で語ったのではなく、アラム語 かヘブライ語 で言葉を述べた筈で、ヘブライ文字 だと、最初と最後の字母は、アレプとタウとなり、これはギリシア語のアルケーとテロスの頭文字に対応する。
執筆の途中です この「アルケー」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています。(ウィキポータル 哲学 )
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%BC " より作成

カテゴリ : ギリシア哲学 | 形而上学 | 哲学関連のスタブ項目


テーマ:メディア・ポイントMedia Point
この問題は、最高の難問の一つであるし、また、プラトニック・シナジー理論PS理論における最核心の問題であり、最重要な問題であると言える。

先に、いろいろ思考実験したが、今一つ不明瞭であるから、さらにここで検討を続けたい。

虚数軸と実数軸との交点であるメディア・ポイントMedia Point(以下、MePo)性質については、ほぼ解明されたと言っていいが、残る問題は、Mepoの構成・構築・構造性の解明である。

超越的差異性と現象的同一性との交点の構成はいかなるものなのであろうか。

異質なもの、不連続なもの同士の交点ないし交叉(交差)とはどういうことなのか。

これまでの大半の哲学・理論の失敗は、両者を連続概念で結びつけてしまったことである。これについては、多く述べたのでここでは省略する。

ここでも直観で述べよう。

超越的差異i*(-i)は、MePoにおいて、現象化するが、現象化とは基本的には、同一性化である。だから、現象同一性化と言ってもいい。

そして、意識において、同一性が支配するが、内的身体において、いわば、潜在意識として、差異=特異性=差異共振性が存してる。これは、いわば、暗い意識である。dark consciousnessである。

意識は、外界の光に応じて、同一性認識を構築する。このとき、言語的認識が同一性認識の道具となる。

しかし、内的身体にある潜在意識は、まだ、不分明である。これは、内観によって、省察を受けないと暗いままで、いわば、分裂したままである(思うに、二重人格の隠れた人格は、この潜在意識と関係しているだろう。これについて説明すると長くなるので、簡単に言うと、これは、同一性意識とりわけ連続的同一性自我意識によって否定された差異意識であるが、否定されているので、反逆的になっていると思われる。

また、デカルトのコギトは、内観による認識、自己認識ではないだろうか。これを、連続的同一性自我認識とすると、近代的自我認識となってしまう。コギトは、複雑であり、本来、内観的自己認識と見るべきであろう。)

内的身体にある特異性が、個におけるMePoであると言っていいだろう。

では、どうして、現象的同一性の世界にあって、超越性と結びつくMePoが個内に存するのだろうか。

一般に、自我認識(連続的同一性自我認識)は、特異性を否定・排除・隠蔽して、忘却しているのである。とりわけ、男性の認識においてそうである。

先に、MePoの1/4回転(スピン)を考えたが、そう考えると、超越的MePoの存在の説明が難しくなるので、そう考えない方が、現象界における超越的MePoの存在は説明できると考えられる。

MePoは、虚数軸のゼロ・ポイントであるし、同時に、実数軸のゼロ・ポイントである。

だから、MePoにおいて、虚数的超越性と実数的同一性が即非的に共存・共立・並立していると考えられよう。

これが、先にも述べたが、最高の微妙さ、いわば、最奥義、最秘儀、最妙味である。奥の院である。

そう、即非的一(いつ)としてMePoを考えるべきだと思う。一如ではなくて、一と見るべきである。

即非的一ないし即非一としてのMePoである。

即ち、MePoとは、超越的差異=虚数軸的差異であると同時に、現象的同一性=実数軸的同一性であるとということである。

そう、絶対矛盾的自己同一としてのMePoである。

即非的一としての、いわば、不思議があるのであり、それが、同一性論理、同一性意識を混乱させると言っていいだろう。

内的身体に特異性としてMePoは存しているのであるが、同一性意識である自我は、これを否定・無視して、同一性に連続化するのである。

そう、特異性と同一性とは矛盾するので、意識は分裂するのである。これは、人間意識の絶対的分裂性と言えるだろう。

この特異性と同一性の分裂であるが、両者は、相克の関係にあると考えられるのである。特異性は同一性を否定し、同一性は特異性を否定するのである。この両者の相克様態が意識内において存すると言えよう(とりわけ、男性の意識においてあると言えよう。女性は、思うに、特異性のエネルギーをもって、同一性を生成変化させるように思われる。)。

この相剋過程において、一般には、同一性が特異性を否定すると言えよう。

そして、これが、連続的同一性自我意識となるのであり、さらには、近代的自我となるのである。

ここで整理すると、MePoは、本来、即非的一の様相をもつのであるが、現象化において、特異性と同一性との相剋的分裂様態が発生すると考えられる。

さらに整理すると、MePoが特異性(特異点)であり、結局、MePoと同一性が相剋様態にあると言えよう。

言い換えると、即非的一と同一性との相剋様態が生起するということである。

思うに、哲学(洋の東西を問わず)は、この相剋様態の解決のために形成されたと考えていいだろう。ただし、東洋哲学は、大乗仏教等によって、即非的一を根本にして、同一性の理論を論破していたといえよう。

しかるに、西洋哲学は、同一性が中心となり、同一性によって、解決しようと努力したと言えよう。ヘーゲル哲学は、即非的一を同一性(=「理性」)に組み込む為に、弁証法を構築したのである。

西洋哲学のおいて、即非的一に近づいた、ないし、達した者は、シェリング、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他の少数者であり、彼らの創造性を、その後の者は、同一性への反動に陥り、理解できなかった。日本では、鈴木大拙を初め、西田幾多郎、九鬼周造、他によって、即非的一の哲学が構築されたのである。

さて、MePoの構成・構築・構造をここで整理すると、それは、端的に、超越性と現象性との即非的一の構成をもつということであり、現象化によって生起した同一性は、特異性=MePoとは、相剋様態にあるということである。

補足すると、同一性と特異性との相剋様態とは、主に男性意識において顕著であり、女性意識においては、本来、相生的であると考えられる。

つまり、女性意識の方が、両者が共生・共存的であると考えられる。

何故ならば、これまで、述べたように、男性は、同一性に傾斜しているのであり、女性は、そのような傾斜がなく、特異性(差異)と同一性の均衡性を本来もっていると考えられるからである。

つまり、男性意識は、i*-(-i)⇒-1となり、女性意識は、i*(-i)⇒+1となるということである。

-1とは原-他者-iの否定があるのであり、+1とは、原-他者の肯定があるのである。

つまり、

-1は、同一性⇒同一性⇒同一性⇒・・・

+1は、同一性⇒差異⇒同一性⇒差異⇒・・・

となると考えられる。

だから、MePoを起点として、男性は、実数軸の左辺(左脳:ヴィジョン的叡知)へ、女性は、実数軸の右辺(右脳:言語的同一性)へと分岐するのだろう。また、MePo自体は、脳梁として見ることができるだろう。

ということで、さらに、MePoの構成を整理すると、超越性(天上性)と現象性(地上性)の即非的一の様相をもち、それが、個における内的身体である特異性(霊性=大地性)を形成している。そして、同一性に傾斜すると、特異性と同一性の相剋様態が生起して、⇒-1となり、実数軸の左辺へと展開する。そして、特異性と同一性との均衡がある場合、特異性と同一性は相生的であり、⇒+1となり、実数軸の右辺へと展開する。前者が男性(左脳)であり、後者が女性(右脳)である。

とまれ、簡潔に言うと、MePoとは、虚数軸と実数軸の交差における即非的一の点、即非的ゼロ・ポイント、即非的原点、即非的核点と言えよう。

おそらく、アリステレスや古代ギリシア人の言ったアルケー(本体)とは、MePoのことを指していると思う。プラトンのイデアもほぼ、MePoと考えていいだろう。有名なコーラであるが、それは、MePoの即非的一性を、より実数軸性で考えた空間ではないだろうか。だから、形相に近いのであるが、形相のような形而下的なものに限定されない。

結局、メディア・ポイントMedia Point(MePo)とは、虚数軸・超越性・天上性と実数軸・現象性・地上性との即非的一性の構成をもち、個における内的身体(霊性=大地性)において特異性となる。現象化=同一性化において、同一性に傾斜する場合は、特異性=差異と同一性が相剋様態となり、⇒-1(連続的同一性)となり、実数軸上の左辺へと展開し、特異性と同一性が均衡する場合は、特異性=差異と同一性が相生様態となり、⇒+1(差異・特異性的同一性)となり、実数軸上の右辺へと展開する。前者が男性性(左脳:言語的同一性)であり、後者が女性性(右脳:ヴィジョン的叡知)である。また、MePoは、物質的には、脳梁であろう。


参考:
アルケー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

アルケー(ギリシア語 :αρχη arkhē)とは、「はじめ・原初・根源 」等のことであり、哲学 用語としては「万物の根源」また「根源的原理」を指す。宇宙 の神的・神話 的な起原である。

[編集 ] 概説

主にミレトス学派 の自然哲学 で議論された。古代ギリシア のアナクシマンドロス がはじめてアルケーの語を用いたとされる。またアリストテレス はその著書『形而上学 』において、哲学 の祖はミレトス のタレース であり、彼は、万物の根源(アルケー)を水 であるとしたと記している。

それ以外にも、ヘラクレイトス は火 を、ピュタゴラス は数 をアルケーとし、エンペドクレース は土 ・水 ・火 ・空気 の四大 からなるリゾーマタ、デモクリトス はアトモス (不可分体)こそがアルケーであるとした。アナクシマンドロスは、無限定者(アペイロン 、en:Apeiron )がアルケーであると考えた。

[編集 ] キリスト教でのアルケー

『新約聖書 』の『ヨハネによる福音書 』は、その冒頭に、コイネーギリシア語 で、「 Εν αρχηι ην ο λογοs (En arkhēi ēn ho logos、エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス)」と記されているが、代表的なラテン語 訳である『ウルガータ聖書 』では、この部分を、「 In principio erat verbum 」と訳している。「 principium 」(principio は、この語の与格 形)はラテン語では、「はじめ」という意味以外に、「原理」という意味があり、ここよりアルケーへの問いは、「世界 の根源 原理 」としての神 への問いとして中世のスコラ哲学 に引き継がれた。

なお、アルケーという言葉のギリシア語での対語は、「テロス」(τελος,telos)であり、テロスは「終わり・目標・完成」というような意味を持つ。『新約聖書・福音書』において、イエズス は、「わたしはアルパであり、オメガである」と述べたと記されているが、アルパ(Α)とオメガ(Ω)は、ギリシア語アルファベットでの最初と最後の字母である。

従って、イエズスは「わたしはアルケーでありテロスである」と述べたとも解釈される。イエズスはギリシア語で語ったのではなく、アラム語 かヘブライ語 で言葉を述べた筈で、ヘブライ文字 だと、最初と最後の字母は、アレプとタウとなり、これはギリシア語のアルケーとテロスの頭文字に対応する。
執筆の途中です この「アルケー」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています。(ウィキポータル 哲学 )
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2007年03月09日

近代主義の彼岸とイデア界:近代主義という大無明とトランス・モダンという新大妙光

近代主義の彼岸とイデア界:近代主義という大無明とトランス・モダンという新大妙光

テーマ:日本再生復興計画

九鬼周造の『偶然性の問題・文芸論』の「情緒の系図」にある和歌や九鬼の分析を読むと、現代の日本が何を喪失したのか、直観的にわかる。

先に、メディア・ポイントMPを近代主義は喪失したと述べたが、正に、そのことが直観されるのである。

「教養」の喪失と言ってもいいのだが。

教養とは、自我から自己・個への成就のための知であろう。

近代主義は、自我主義であり、自己・個を否定するのである。

現代日本の惨状の原因は、ここにあると言っても過言ではない。

PS理論的に言えば、メディア・ポイントの不連続性・超越性の様相、即ち、イデア界の否定が根因としてあるのである。

形而上学や宗教や芸術等は、このイデア様相を志向してきたのであるが、これが、戦後教育、唯物科学教育によって否定されてきたのである。

思えば、私も、完全に唯物科学教育を受けて、主観性の発展を自己否定してきたのである。

私は、ロマン主義と唯物科学の矛盾に、思えば、長い間、悩んできた。ロマン主義は、神秘主義やオカルティズムにも通じるものであるが、イギリス・ロマン主義は、啓蒙主義との関係が深いのである。

思えば、唯物科学の物質主義のフレームワークをどう突破するかが問題であったのである。近代合理主義は、物質的合理主義を前提としているから、それを超越する発想をあざ笑う(あざ笑った)のである。

そう、唯物科学の反動として、神秘主義やオカルティズムやニューエイジ・ニューサイエンスの動きがあったと言えよう。しかし、それらは、反動性を強くもっている。

ポスト・モダンは、確かに、近代を乗り越える処方箋をもたらすように見えた。しかしながら、それも、軽薄に終わった。

私は、三島由紀夫のファンではないが、彼の最高のものは、「文化防衛論」だと思っている。戦後日本への憂国の現われとして、「どこかで断絃の時があったのだ」という一言が鋭く私を刺し貫いた。

「断絃の時」なのである。これは、今や、メディア・ポイントの喪失ないし隠蔽として、理論化できるのである。

そして、本稿の冒頭にもなるのである。そして、この問題は、現代日本で先鋭化しているが、世界全体における問題でもあると言えよう。イデア界・叡知界の喪失なのである。

宗教的次元の喪失と言ってもいいのだが、宗教は、一般に非合理主義の態度を取るので、批判知性を喪失する傾向にあるので、強く主張はしない。宗教を哲学化するとイデア論になると思うのである。この宗教の知性・叡知・合理化が実に根本的に重要なのである。

PS理論は、これを為すものである。

九鬼周造の『偶然性の問題』は、形而上学と経験論とを併せ、重ねて、論じた卓抜した哲学書である。形而上学は、イデア論となるしかないと思うのである。

ここで、飛躍するが、思うに、問題は、ロゴス論にあったと思うのである。あるいは、理性論である。西洋哲学では、理性、知性、悟性、等の区別が実に曖昧である。

この混乱は、ロゴス論にあると思うのである。

ロゴスは、古代ギリシア哲学の用語である。それが、ヨハネの福音書の冒頭に使用されたのである。「初めに、ロゴスありき」である。これを、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と誤訳した。

確かに、ロゴスと言葉は、重なる側面もあるが、一致しない。

そう、ロゴスとは、大乗仏教の法(ダルマ)とほぼ等しいと思うのである。

西洋哲学は、理性を比率等として考えたのである。ratioである。

そう、理とは何か、である。

理はロゴスや法と等しいであろう。

そして、直観では、これは、叡知と等しいのである。

すべては、形而上学的智である。

これを、西洋哲学は、言語化していくのである。

ロゴス=言語の方法である。

ソクラテス/プラトンで言えば、対話術(これが、「弁証法」の原義である)である。ここに、西洋哲学、西洋叡知学のエッセンスがあると言えよう。

無知の知、あるいは、クザーヌスの「知性ある無知」である。

そう、プラトンとアリストテレスの分裂にすべての元凶があると言えよう。プラトンは、形而上学的現象学を説いたのであり、考えれば、現象学の始祖とも言えるのである。そして、アリストテレスは、近代科学の始祖とも言えよう。

この二元論に現代西洋文明の超危機の根因があると言えよう。

いったい何が問題なのか。

これは中世の普遍論争に見ることができるが、私見では、一般性と普遍性の鳥違いが問題なのである。

これは実に単純なことなので、これを錯誤した人類史とは何か、と思わざるを得ない。

即ち、一般性は言語形式であり、普遍性は言語形式を超えた形而上学的真理である。この両者を西洋哲学は、ロゴスや理性や知性や悟性と呼んできたのである。これが大混乱の起源であると思う。

近代主義、近代合理主義、近代的自我の「狂気」の根因がここにあるのである。

結局、個物・個体のhaecceity(個体原理)に普遍性があるのであり、それが、形而上学的普遍性に通じるのである。これは、一見逆説的であるが、そうなのである。

九鬼哲学では、偶然性である。

西洋哲学の観念論は、一般性=言語形式=観念=ロゴス=理性と捉えて、形而上学的叡知を完全に外したのである。カントの純粋理性批判は、この理性と形而上学的叡知との混濁である。

そして、この頂点的帰結がヘーゲル哲学である。

そして、これが、マルクス主義やファシズム=国家社会主義を生んだと言える。現代日本はこの最大・最悪の帰結である。

この一般性と普遍性との混同であるが、結局、個物・個体と一般性が結合(野合)してしまったのである。これが、近代合理主義を生んだのである。

そう、この原因は、アリストテレス哲学にあると言えよう。個物・個体の形相を、イデア界ではなくて、現象・物質的経験界に求めたからである。

個物・個体の形相は、イデア界にあると見るが正しいのである。そして、このイデア界的形相が普遍性なのである。

つまり、内在的超越的形相=イデアが普遍性なのであり、一般性は、単に言語形式に過ぎないのである。

ここで、東洋について言うと、大乗仏教という真に偉大な叡知・思想があったため、知性において形而上学性を保持したのである。大大乗仏教である。

つまり、西洋哲学的見地から言うと、東洋哲学は、イデア論を基礎的に保持しているのである。ということは、逆に言えば、プラトン哲学の東洋性なのである。プラトン哲学は東洋哲学と言うべきなのである。対話術も、東洋性ではないのか。

とまれ、大乗仏教哲学をもつ東洋思想は、初めから、形而上学的知性、叡知学であったのである。

そして、この帰結が鈴木大拙の即非の論理であり、九鬼周造の偶然性の論理であると言えるだろう。(西田哲学も、一つの帰結であるが、彼の言語表現に問題はあるだろう。思うに、どうも、連続性と不連続性との混乱があるように思えるのである。)

日本は、東洋哲学をもち、その上で、西洋哲学を移入し、その結晶が両者の思想・哲学であり、世界に誇るべき成果である。

しかし、日本は、西洋コンプレックスのために、正しい自己評価ができないできてしまったのである。

物質文明へのコンプレックスである。

確かに、世界は、地球は、西洋近代物質主義暴力・狂気文明に侵略されたのである。

そして、その惨状が今も続いているのである。人類終末期を迎えているのである。

さて、問題は、日本である。なぜ、自己を見失ったのか。持論では、排仏毀釈にある。国家神道にある。ここで、日本は、思想的バランスを喪失したのである。

国学は、キリスト教の影響を受けているのである。それは、一神教的志向をもっているのである。これが、他者を喪失させたと思われるのである。

では、なぜ、一神教は他者を喪失させるのか。

一神教は、結局、自我を肯定してしまうからである。自我と唯一神とを一体化させてしまうのである。確かに、本来、一神教の神は形而上学的次元、イデア界的次元に存している。そして、この次元は、自我からは超越した次元である。

しかし、いかに、自我から超越した次元とは言え、唯一神の同一性は、自我の同一性と連続化してしまうのである。凡人・愚者の有り様である。

結局、自我即唯一神となるのである。これが、狂気なのである。

これが、近代的自我である。

自我が普遍性となれば、当然、他者はなくなるのである。

これが、狂気・暴力を生むのである。

確かに、キリスト教等、一神教は、本来的には、優れた宗教であるが、しかし、自我と結びやすい宗教であることは否定できないだろう。

「主」という主語が、他者である述語を支配してしまうのである。

「主」という超越的同一性が、他者・差異を否定しまうのである。

PS理論は、「主」の超越的同一性を否定・無化するものである。

その代わりに、イデアである差異即非様相を置くものである。ここには、差異的同一性があるのであり、自己と他者との共振シナジー様相があるのである。

そう、一神教的「主」が、ここでは、解体して、他者との対話を永遠継続しているのである。

そうすると、一神教とは何か、ということになるだろう。

これまで私が述べてきたことは、それは、自我に傾斜しているということである。あるいは、父権主義であるということである。

「主」・唯一神の「我」とは何か。それは、自我であるのか。「復讐するは我にあり」。もし、イデアが神ならば、それは、「我」になるだろうか。

それは、元知と元身体との即非関係である。あるいは、元自己と元他者との即非関係である。そのイデア・叡知を「我」と言うのだろうか。それは、「我」、「自我」ではありえないだろう。それは、少なくとも、元個、元自己である。あるいは、元自他である。元・我ー汝である。根源的複数である。

だから、やはり、一神教は自我に傾斜している邪教ではないだろうか。
posted by ソフィオロジスト at 19:48| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月08日

形相の問題:イデア的形相、又は、内在的超越的形象:虚MP⇒実MPの形相変換力学構造について

形相の問題:イデア的形相、又は、内在的超越的形象:虚MP⇒実MPの形相変換力学構造について

テーマ:プラトニック・シナジー理論

イデアの結界―西欧的感性のかたち (単行本)
田淵 安一 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%B5%90%E7%95%8C%E2%80%95%E8%A5%BF%E6%AC%A7%E7%9A%84%E6%84%9F%E6%80%A7%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A1-%E7%94%B0%E6%B7%B5-%E5%AE%89%E4%B8%80/dp/4409040294
を拾い読みして、形相の問題も未解決であると思った。

著者は、プラトンのイデアとアリストテレスの形相に関連して、ネオプラトニストのプロチノスのイデア的形相のようなものを説いている。

これは、内在的超越形式というものではないだろうか。

簡単に言うと、超越論的(内在的超越的)形態・形象である。

この空間を求めたいのである。

プラトンのイデアは、一面として、この元形態・形象性をもっている。

先に、形態に関しては、対称性の破れで説明できると考えたが。

直観で言えば、メディア・ポイントがこの超越論的形態の空間であろう。

例えば、朝顔の元形態はここにあるということになる。

思うに、種子・種ないし卵、あるいは、遺伝子やゲノムという形態の起源は、メディア・ポイントMPではないだろうか。MPは、確かに、イデア界的即非様相が「縮限」される空間のように思えるのである。

元形態が、いわば、折り込まれる、折り畳まれるのがメディア・ポイントであり、その現象態が、種子、卵、遺伝子、等々ではないか。

i*(-i)⇒+1は、このことも表象しているのではないだろうか。iが元雄であり、-iが元雌であり、*がメディア・ポイントであり、受精・生殖等を意味するのではないか。

さて、問題は、元形態である。ここでは、限定して、簡単に考えたい。すなわち、たとえば、花の元形態、馬の元形態、木の元形態、等について解明したいのである。

これは、プラトンのイデアの一様相である。

ここで、上述した著書で引用されているヒルデガルド・フォン・ビンゲンの言葉を引用しよう。

《その形は、神の予定知が、時間が存在するより以前に非肉体性のうちに熟視されたものです。まことに、鏡のまえに置かれたすべての物がそこに自らを映すのとおなじく、神の創造物のすべては、聖なる神性のみ胸に、非時間性のなかにおいて姿を現わすものなのです。・・・光線が被造物の形を照らしだすとおなじく、神の純粋なる予定知は、被造物の形を肉体が包むそのまえに熟視されるのです。ということは、それぞれの物は神の御予定にしたがって、肉化に先立ち、予定知のただなかにおいて似像として燦然と輝いているのです。」pp. 96~97

「予定知」とは摂理providenceということであろう。

この箇所において、元形態の問題点は、神が熟視する元形態であるということである。当然、神と元形態はことなっているのであるが、神の内部に元形態があるのである。「被造物の形を肉体が包むそのまえ」という点について言うと、「肉体がつつむ」とは現象化である。だから、現象化あるいは物質化以前に、元形態があるということで、PS理論的には、元形態空間は、メディア・ポイントではないかと思われるのである。

しかしながら、問題は、メディア・ポイントから実数軸上への展開である現象化の構造である。

先に、+1ないし⇒+1がメディア界ではないか、また、-1ないし⇒-1が現象界ではないかと示唆した。

これらをどう整理するのかである。

端的に言えば、元形態空間は、メディア・ポイントなのか、+1なのか、それとも、メディア・ポイントから+1の過程、等にあるのかである。

思うに、実数軸は、これまで、現象界と考えたのだから、+1が元形態空間とするのは、明らかに、不合理である。

少し議論が外れるが、メディア・ポイントと+1について考察すると、不連続的差異論におけるメディア界に相当するのがメディア・ポイントであると言えよう。だから、先に、+1をメディア界と考えようとしたのは、誤りである。ただし、+1は、メディア・ポイントとの関係が、-1よりも強いと思われる。というか、メディア・ポイントは、エネルギー変換点である。ここで、イデア・エネルギー(元エネルギー)が、同一性エネルギーへと変換されるのである。ここに分極化があり、+1の同一性エネルギー(差異的同一性エネルギー)と-1の同一性エネルギー(連続的同一性エネルギー)へと分化(分相化)すると考えられるのである。

差異即非様相から同一性様相への変換点がメディア・ポイント(メディア界)であり、ここにおいて、既に、元形態が生成していると言えよう。

というか、実際は、精妙である。すなわち、メディア・ポイントの二相性に注意しないといけない。虚数軸上のメディア・ポイントと実数軸上のメディア・ポイントを理論的に区別する必要があると考えられる。

前者を、とりあえず、虚メディア・ポイント(虚MP)、後者を実メディア・ポイント(実MP)と呼び、区別したい(MP・0iとMP・0?)。

思うに、虚MPと実MPとの重なりの様相に重要な問題があると言えよう。また、それらと±1の関連の問題がある。

とまれ、虚MPは、イデア界にあり、思うに、これが、元形態空間ではないのか。ここに超越的形相(いわば、エイドスeidos)があるのではないのか。そう考えると、本件の問題が解明されることになるだろう。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの言葉にある「被造物の形」は、虚MPに存しているということになるだろうし、「神のみ胸」とは、イデア界で、虚数軸空間のことであると言えよう。確かに、虚数軸上に虚MPは存するのである。

すると、虚MPから実MPへの変換が《天地創造》ということになるだろう。「光あれ」である。(因みに、ハイドンのオラトリオ『天地創造』を聴いていたのである。偶然の一致であるが、思うに、天地創造のことが無意識にあったので、この曲を選択したのかもしれない。)

では、虚MPから実MPへの変換とは何か。それは、既述済であるが、同一性化である。現象化である。おそらく、単純に物質化とは言えないと思う。なぜなら、+1が精神ないし自己であり、-1が物質ないし自我であると考えられるからである。つまり、同一性化とは、+1の精神・自己化と-1の物質・自我化の両面・両義性があると考えられるのである。

いろいろ細かな問題があるが、それは置いて、ここでは、同一性化の力学構造を考えたい。虚MPから実MPへの変換力学構造を考えたいのである。

思うに、虚MPにおいて、元形態があるならば、それは、ここには、元1の形態があるということではないのか。つまり、元±1の形態ないし元形態があるということではないだろうか。

そうならば、元±1としての虚MPであろう。では、実MPとの関係はどうなのかである。思うに、実MPは、種子、卵、遺伝子等であろう。だから、元±1としての虚MPと見ていいだろう。(メルロ・ポンティは、身体的現象学において、虚MPと実MPを混合していると思うのである。)

問題は、やはり、虚MP(iMP)と実MP(rMP)との変換構造である。

この変換力学とは何か。

やはり、回転ではないだろうか。ベクトルiとベクトル-iとの1/4回転が発生して、±1が生起するのではないだろうか。

つまり、iMP⇒rMPの⇒とは1/4回転を意味するということになる。

つまり、イデア界的内在的エネルギーによって、iMP⇒rMPの変換が生起するということになる。この点は再考したい。

とまれ、以上から、元形態は、iMPにあることになった。ここが、イデア的形相(エイドス)の空間ということになった。(今、地震がある。14:06pm)

ついでに、プラトンのいうコーラのことを考えると、それは、いわば、形態発生空間であるから、端的に言えば、MPのことであり、より精緻に言えば、iMP⇒rMPのことであると言えよう。

さらに言えば、プラトンのいうイデアとは、以前述べたように、少なくとも二種類あるのである。それは、差異共振シナジーとしてのイデアである。それは、 i*(-i)としてのイデアである。もう一つは、ここで述べた元形態としてのイデア(エイドス)である。すなわち、iMPとしてのイデアである。

さらに展開して、アリストテレスの形相についていうと、それは、iMPを否定して、rMPだけを取りだしたものであろう。rMPは確かに、個物・個体内的元形態と考えられるのである。

PS理論は、フッサール現象学の意味において、超越論的理論であるから、内在的超越性としての「イデア」を現象における分有として見ている。それは、私の言葉では、特異性である。九鬼哲学の言葉では、偶然性である。ドゥンス・スコトゥスでは、存在の一義性である。スコラ哲学のhaecceityである。ライプニッツのモナドである。

内在的超越性において、内在性とはrMPであり、超越性がiMPであると言えよう。因みに、ポスト・モダンないしポスト構造主義の誤りは、両者を混同したことになる。典型がドゥルーズであり、フッサールの超越性を否定して、内在性に限定してしまったのである。また、デリダについて言うと、彼の誤りは、ドゥルーズの正反対で、超越性のみを肯定して内在性をロゴス中心主義として否定したことにあろうだろう。言い換えると、デリダ(初期デリダ)は、同一性をロゴス中心主義として否定して、超越性のみを肯定して、それを示唆・暗示するしかないという袋小路に陥ったのである。
 
即ち、デリダは、同一性には、連続的同一性と差異的同一性の二つがあることを知らずに、すべて同一性を否定したために、いわば、不可知論に陥ったのである。それで、あのようなエッセイ的な論述となったと言えよう。

ドゥルーズは、差異を内在性に見て、デリダは差異を超越性に見たのである。両者、正反対で、また、一面的であった。両者とも、フッサールを把捉できなかったと言えよう。やはり、繰り返すが、ハイデガーによるフッサール現象学破壊が要因だと思うのである。ハイデガーの理論は、超越性を否定した内在性の理論なのであるからである。

以上の解明を簡単にまとめると、PS理論において、メディア・ポイントMP空間に虚MP(iMP)から実MP(rMP)への変換力学構造を見て、元形態が虚MPにあり、それが、実MPへと変換されて、現象化が生起すると考えたのである。実MPは、具体的には、種子、卵、遺伝子等々である。言い換えると、プラトンのイデアがより明確化されたのである。差異共振シナジーとしてのイデアと元形態(エイドス)としてのイデアを分明できたのである。

ついでながら、PS理論は、西洋哲学における二元論的分裂、プラトン的観念論とアリストテレス的実在論を形態論的に統一したと言えよう。既に、この統一は、一般理論的には為されていたのではあるが。

最後に、敷延して言うと、素粒子や量子であるが、それは、ここでの形態論が適用できると思われるのである。即ち、元素粒子ないし元量子は、虚MP にあり、それが、観測においては、実MPに空間化されると思うのである。真空というは、実MPであろう。量子力学は、虚MPを見ていないと考えられるのである。唯物論なので、イデア界の虚MP空間に進展できないのである。それで、非局所性の問題等があると思うのである。有り体に言えば、元素粒子、元量子とは、虚MPにおける差異共振シナジー=イデアなのである。差異即非共振シナジー=イデアなのである。虚MPにおける元粒子・即非・元波動のイデアが元素粒子・元量子と考えられるのである。

これが、実MPにおいては、粒子と波動との相補性として理解されていると思うのである。つまり、物質論的に、「素粒子」と「量子」は、一方では、粒子であり、他方では、波動であるということである。

しかしながら、「素粒子」や「量子」の実体は、虚MPの差異即非イデアである。無時間的イデア界にある「素粒子」や「量子」、即ち、元素粒子、元量子を素粒子論や量子論は唯物論に囚われているので、認識理解できないと考えられるのである。

わかりやすく言うと、素粒子や量子は、虚MP⇒実MPの変換力学構造における、イデアの影像であると考えられる。
posted by ソフィオロジスト at 15:44| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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