2007年01月04日

認識と身体:ガウス平面上の1/4回転力学に基づく自然・宇宙(コスモス)の歴史・進化

 もう一度、認識と身体について考えたい。先に認識が存在であると述べた。志向性は存在でもあるのである。知即存在である。これは、言い換えると、思惟即延長ではないだろうか。あるいは、精神即身体ではないだろうか。心即身体である。
 しかし、先に、連続的同一性によって、物質化が生起すると考えたのである。心身二元論である。i*(-i)であるが、これは、主体と他者の差異共振シナジー相であるが、主体iは心、他者-iは身体と見てきたのである。つまり、心と身体とが、差異共振シナジー相では、即非様相にあるのである。おそらく正確に言うと、主体iは原心であり、他者-iは原身体であろう。これが、即非結合して心身態(原心身態)を形成しているのである。そして、これが、本来の精神である。精身と言ってもいいくらいだろう。とまれ、心身=精神から、連続的同一性化が発生して、心身二元論が生まれるのである。(宗教観念で言うと、連続的同一性が悪魔であろう。例えば、ゾロアスター教の光のアフラ・マズダは心身・精神であり、闇のアンリ・マンユが連続的同一性である。)
 この連続的同一性により心身二元論が発生し、この心は物質的心であり、身体も、当然、物質的身体である。つまり、根源の心身・精神が否定・排除・隠蔽されているのである。
 では、いったい、このとき、現象とは何なのであろうか。現象化を連続的同一性化と、これまで見たのであるが。現象化とは、同一性化と言えるだろう。イデアから、個体・個物(同一性)が発現するのだから。しかしながら、連続的同一性化と差異的同一性化があるのである。前者が物質的個体であり、後者が精神的個体である。そう、自然は、両者を産出すると言えよう。闇の個体と光の個体を産み出すと言えるだろう。−1と+1である。だから、自然は二重であると言えよう。物質的自然と精神的自然である。シェイクスピアの『リア王』で言えば、リア王の長女・次女ゴネリルとリーガンの自然と末娘コーディリアの自然である。これは一対であると言える。悪と善は一対である。暴力と調和、戦争と平和は一対であると言えるだろう。だから、この点では、ヘラクレイトスの対立と調和の一致の極性思考は正しいと言えよう。闇の自然があり、光の自然があるのである。私が先に美しいと言った、晴れた日の、海に近い川土手の木立のある家の光景であるが、その《光》は、後者であろう。つまり、精神的自然をそこに見いだしていることになるだろう。差異が共振している自然の風景なのである。そう、セザンヌの有名なリンゴの静物画も、差異共振シナジーを表現しているだろう。だから、至高美なのである。
 結局、自然は二面があるのであり、ジキルとハイドであると言えるだろう(もっと、細分化すれば、多重性である)。ユング/ヘッセのアブラクサス(善悪二重神)である。キリスト教は、悪を認めないようにしてきた。それは、善の欠如であると見ようとしたのである。
 また、近代合理主義は、連続的同一性・闇の自然に理性を見いだして、差異的同一性・光/精神の自然を否定してきたのである。つまり、物質的合理性のみを認めて、精神的合理性を排除してきたのである。唯物合理主義である。闇の合理主義、悪魔の合理主義である。
 この自然の二面性について、さらに精査しよう。同一性化は、連続的同一性化と差異的同一性があり、自然は、両者を発現したと言えるだろう。思うに、ここが、ジェンダー・性差と関係するのではないだろうか。連続的同一性化とは男性化であり、差異的同一性化とは女性化ではないだろうか。戦争と平和である。混乱を避ける為に、連続的同一性化を原雄化、差異的同一性化を原雌化と呼ぼう。つまり、自然は、この対を発現すると言えるだろう。これが、単性生殖や処女生殖で意味されていることではないだろうか。自然は、根源的に単性生殖であろう。そして、それが、対の同一性を形成すると言えるだろう。つまり、自然は、連続的同一性・原雄性と差異的同一性・原雌性の対性・極性を発生させるのであり、これが後に分化して、雄・男性と雌・女性になったのではないだろうか。しかし、根源は両極・対極性である。陰陽性である。そう、『老子』では玄牝である。神話で双子の神話や兄弟の神話(ロムスとレムノス、カインとアベル、山幸と海幸、等々)が多くあるのは、この極性の反映であろう。
 とまれ、太古においては、極性バランスがあったと考えられるのである。それが、神話では、女神の神話で表現されているものだろう(シュメール神話、クレタ神話、女媧・伏儀の神話、イザナミ・イザナギの神話、等々)。そう、闇と光のバランスが取れていたと考えられるのである。思うに、女性の方が、男性よりも、このバランスが取れていたと思われるのである。男性は、やはり、連続的同一性・闇・暴力・物質へ傾斜しているのであり、狩猟に向いていたであろう。そして、智慧・叡知は、女性のものであったであろう(魔女、巫女、等々)。つまり、ソフィア(智慧)は、女性形であるからである。
 しかし、人類史において、このバランスが崩れて、連続的同一性が特化される時代が来たのである。父権制である。また、一神教である。国家である。これをどう見るのかが、決定的ポイントである。つまり、極性バランスが崩れるという力学が発生したのである。思うに、これは、自然の二元化の徹底化であろう。連続的同一性と差異的同一性の極性から二項対立・二元論へと徹底化したと見るのが正しいだろう。分極化から分化である。即非から二元論へである。東洋から西洋へである。
 この二元論的徹底化であるが、この根因・起因は何なのだろうか。私はやはり、第二段階ないし第二回目の1/4回転を仮定したくなるのである。第一段階ないし第一回目の1/4回転で、零度の様相が発生するが、これが、差異共振シナジー様相を形成したと思うのである。そして、これが、プラスとマイナスの均衡を形成したと思うのである。つまり、陰陽性である。即非性である。しかし、第二段階・第二回目の1/4回転(i^2)で−1となるが、これが、連続的同一性の志向性を発生させたのではないだろうか。そして、これこそ、父権・一神教・国家化だと思えるのである。極性思考が破壊・解体されて、二項対立・二元論となったのである。
 この考えをさらに展開すると、第三段階・第三回目の1/4回転(i^3)が生起して、新たな零度が発生するだろう。これは、新たな差異共振シナジー様相の発生と言えるだろう。これは、父権制・一神教・国家の崩壊であろう。そして、これは、新しい母権制・多神教・共振政体(連合という言葉は語弊があるので使用しない)の発生であろう。
 このようにガウス平面での1/4回転力学を想定すると、うまく説明がつくと考えられるのである。
 では、このガウス平面(イデア・現象界)1/4回転論理で、近代主義とトランス・モダンを見るとどういうことになるだろうか。やはり、プロト・モダン、ルネサンスを考えなくてはならないだろう。これは、本来、新たな差異共振シナジーの時代の発現だと思うのである。だから、第三段階・第三回目の1/4回転による零度差異共振シナジーのエポックと考えられるのである。しかしながら、西欧ないし欧米において、連続的同一性化が強化・特化されてしまったのである。近代合理主義、近代的自我、唯物科学・技術・産業の発展である。この差異共振シナジーの歪曲・捩じ曲げをどう見たらいいのだろうか。思うに、これは、一種反動的進展と見るべきだと思うのである。差異の発動がルネサンスで起こった(正確に言うと、中世から個の志向性が欧州では生じていたのである。12世紀ルネサンスもあるのである。また、toxandoria氏がドゥンス・スコトゥスの個の哲学を述べている。)のであるが、すぐに、キリスト教的な、父権的な反動が起こり、近代主義という反動が勃発したのだと思う。そう、近代主義とは、プロト・モダンの差異主義に対する連続的同一性志向による反動であると考えられるのである。反動であるからこそ、非合理・暴力・狂気的なのである。西欧・欧米の理不尽な帝国主義、植民地主義、世界大戦等々を見よ(現代のイラク戦争が最たるものであるが)。また、だから、その帰結であると考えられる現代日本の近代主義の連続的同一性自我の狂気があると言えるだろう。
 今日、多極化路線であるが、これは、実は、近代主義という反動の崩壊であり、否定されてきたプロト・モダンの発展を意味すると言えるのである。私はトランス・モダンと呼んでいるが、これは、プロト・モダンの真の進展の意味をもつと考えられるのである。そう、toxandoria氏が新たなユマニスムに言及されていたが、それは、正鵠を射ているだろう。ルネサンスが回帰しているのである。そして、現代、ポスト・反動近代/トランス・モダンの時代であるが、これは、ネオ・ルネサンスの時代とも言えるのであるが、結局、意味されているのは、連続的同一性志向性の解体・瓦解であるということであり、父権制・一神教・国家の解体・崩壊であり、一切の近代主義の解体・崩壊・瓦解なのである。差異共振シナジー精神が顕在化したのである。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論は、この歴史の進展・進化と平行した理論であると言えるのである。
 現代日本は、ここから見てわかるように、反動近代主義体制であり、大反動状態となっているのであり、亡国の危機なのである。差異共振シナジー/プラトニック・シナジイー理論路線へと至急に切り替える必要があるのである。
 差異共振シナジー様相化という世界進化、世界相転移の様態に、地球・宇宙/コスモスはあると言えるのだろう。英語では、様変わりをsea changeというが、これは、cosmos changeないしparadigm changeである。
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2007年01月03日

精神と物質 5:光、認識、現象・物質化とは何か:その2:プラトニック・シナジー・サイエンスの成立

精神と物質 5:光、認識、現象・物質化とは何か:その2:プラトニック・シナジー・サイエンスの成立

ここでは、主に、本テーマの光について検討したい。
 先の考察(精神と物質 4)から、連続エネルギーが連続的認識と物質化をもたらすと言えるだろう。人間以外の存在は、差異共振シナジー性が未分化(未成熟)であると仮説したのである。
 では、光をどう把捉したらいいだろうか。ここで、一つの作業仮説を立てて思考実験したい。光は、連続化しないという作業仮説である。つまり、光は、差異共振シナジー様相のまま、剥き出しであるということである。つまり、光においては、共振空間、虚次元空間そのままであるということである。つまり、永遠空間のままであるということである。ここには、本来、現象界の連続時空間の尺度は適用できないはずである。しかし、人間の知覚・認識・観測装置は、連続的同一性形式である(カントの超越論的形式)。ここに光を観測するときの根本・原理的矛盾があると言えるだろう。無限速度であるものを、有限連続時空間形式・尺度で観測するとは、完全な齟齬があるのである。これは、結局、結局、唯物科学の問題・限界である。
 とまれ、光の観測に関する脱近代科学(トランス・モダン・サイエンス)の第一歩は、当然、アインシュタインの相対性理論である。光速度一定とは、結局、有限時空連続態の固定枠から見た無限速度の光の速度ではないのか。マイケルソン&モーレーの実験は、エーテルを否定したのである。つまり、連続的媒体の否定である。とりあえず、そういうこととしよう。
 さらに、量子力学になるとこのことがさらに明瞭になると考えられるのである。光は差異共振シナジー様相ないし事象である(作業仮説)。ここには、差異とその零度共振シナジーが成立しているのである。それを、連続的時空間的に観測すると、粒子と波動の二重性をもつということになるのである。あるいは、両者の相補性を説くのである。また、非局所性が成立するのである。
 粒子について言えば、それは、唯物的アトム主義から発生していると言えるだろう。そして、波動は、粒子の振動ということで考えているのだろう。つまり、唯物科学観に拠るのである。しかるに、差異共振シナジー様相が量子の真相であると作業仮説から敷延できるのである。ここは、きわめて重要なポイントで、両者を絶対に混同してはならないことをいくら強調しても強調し過ぎることはないだろう。差異共振シナジー様相とはイデア様相であり、量子とは、それを物質科学から観測した像、連続的同一性像に過ぎないということである。
 ということで、差異共振シナジー様相i*(-i)における差異を物質化して、粒子ないし微粒子としているのであり、シナジー様相を物質化して、波動として観測していると考えられるのである。しかし、差異共振シナジー様相であるから、差異とシナジー相は分離できないない不可分なものなのである。即非態である。相補性とは、この即非態を物質科学的に説明する概念であると言えるだろう。また、非局所性であるが、それは、当然ながら、差異共振シナジー様相の無限空間を指していると考えられるのである。
 以上簡単であるが、ポスト唯物科学、ポスト相対性理論、ポスト量子力学、トランス・モダン・サイエンスとして、プラトニック・シナジー・サイエンスPlatonic Synergy Scienceが成立すると考えられるのである。
 そう、私が先に、心眼で捉えた光は、即非態であると言ったが、それが、この論考により、解明されたと言えよう。光は、即非態・即非相として剥き出しであるということである。太陽光即お天道様即大日如来即阿弥陀如来即天照即アポロ即アフラ・マズダである。
 では、ニーチェが唱えたディオニュソスとアポロとはどう捉えたらいいのだろうか。そう、同じものであろう。差異共振シナジーによる差異的同一性がアポロで、シナジー様態がディオニュソスだろう。そして、これは、両者でコスモスである。そう、D.H.ロレンス等、多くの作家、芸術家、詩人が説いたコスモスとは、このアポロ且つディオニュソスとしての差異共振シナジー様相のことであろう。光の「浄土」である。古代人、中世人、ルネサンス人等は、まったく正しかったのである。近代人が狂っているのである。

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精神と物質 4:光、認識、現象・物質化とは何か

この問題は、プラトニック・シナジー理論の根幹の一つであろう。おそらく、これから、思考実験が何度も繰り返されることだろうが、近代的自我の検討の反復のようなことはないことを望んでいる(おそらく、そんなことはないだろう。近代的自我、近代合理主義の解明は、もっとも難しかったものであると考えられる。)
 先ず、認識と連続的同一性と物質化について整理しよう。私の仮説は、認識即存在である。志向性が存在を形成するというものである。これは、フッサール現象学の中に、ハイデガーの存在論を包摂させていると言えるだろう。
 だから、連続的同一性志向性は、連続的現象・存在の形成である。この連続現象体は、当然、心身をもっている。つまり、知覚をもち、身体をもっている。これは、当然、人間だけでなく、動物・植物にも当てはまるし、また、奇妙に、怪しく感じられるかもしれないが、鉱物・無機物にも、当てはまると思える。つまり、鉱物・無機物にも、なんらかの知覚と身体を想定するのである。(これについては、別のところで検討したい。)
 シロクマは、シロクマの知覚をもち、身体をもっているし、スズメは、スズメのそれらをもっている。これは、異論がないだろう。これらの知覚/身体は、連続的知覚/身体と呼ぶことができるだろう。
 問題は、即非態とこの連続的知覚/身体との関係である。これまで、人間以外の動物・植物(・鉱物)には、即非態・差異共振シナジー態DRSを認めなかったが、ここで、考え直したい。一般的に、動物には、「母性本能」が強いと言えるだろうし、正しくは、言わば、「親(おや)性本能」・「母父性本能?」が強いのだろう。これをどう見るかである。これは、差異共振シナジー動態ではないのか。今、言えることは、それは、差異共振シナジー動態に何らかの関係をもっているということであろう。しかし、そのものとは言えないだろう。何故なら、差異共振シナジー様相とは、認識、自己認識を意味するからである。動物には、自己認識はなく、ただ、本能として、差異共振シナジー様相に似た結果が発現するということのように思えるのである。そう、思うに、動物の場合は、差異共振シナジー様相まではいかなくて、主客と他者とが未分化のように考えられるのである。猫は、主客と他者とが未分化であると思うのである。だから、動物には、差異共振シナジー様相は存在しないと考えることができるだろう。ただ、未分化的な相関的な様相はあるとは言えるのである。(思うに、ペットを飼うというのは、疑似差異共振シナジー様態を味わっているのではないだろうか。)
 では、この未分化な主客連続化の様態をどう定式化するのか。内在的連続化の記号を〜とすれば、i~(-i)と記述できるのではないだろうか。暫定的にそうしておきたい。
 では、人間の場合について、本テーマを追求して行こう。問題は、即非態と連続的同一性態との関係構造である。(明瞭にするため、即非態を共振態ないしシナジー態、そして、連続的同一性態を連続態ないし同一性態と呼んでもいいだろう。態の替わりに、相でもいいだろう。共振相・シナジー相、連続相・同一性相である。)
 人間が出生して、現象・物質化するとき、共振相が、連続相に転化する。虚次元・虚軸から実次元・実軸へと変換する。このとき、帰結的には(終局態・エンテレケイア)、連続態・同一性態としての人間が発生する。しかし、実際のところ、共振相が完全に連続相になったのではなくて、生成過程にあると考えられるのである。つまり、連続相への生成過程としての人間整形である。端的に言えば、言語獲得である。つまり、出生後、新生児は、言葉を憶えることになるのである。勿論、それ以前に、身体知覚経験が研ぎ澄まされるのであるが。
 結局、出生後、連続相への生成過程であるから、共振相/連続相の二重構成をもつと言えよう。あるいは、共振相⇒連続相のプロセスである。これは、連続的同一性志向性と呼んだものである。そして、成長し、言語獲得するときに、このプロセスは、共振相を否定して、連続相中心・優勢になると考えられるのである。つまり、主体/他者の関係で言うと、主体が他者を連続化して、他者を支配しようとする傾斜である。そして、これが、自我形成である。そして、この帰結として近代的自我が成立する。
 問題は、この連続相形成過程における共振相の意味合いである。当然、連続相形成過程においては、共振相は、連続エネルギーへと転換している。つまり、共振相潜在態(デュナミス)が連続相現実態(エネルゲイア)へと転換しているのである。だから、共振相自体としては、認識されずに、連続相・同一性相認識・自我認識を形成されると言える。
 では、問題は、共振相は、連続エネルギーへの転換で消滅する、又は、消費されるのかということである。ここで、作業仮説するのであるが、共振相は原則として零度であるから、連続エネルギーをプラスのエネルギーとすると、保存則的には、マイナスのエネルギーが作動するはずである。これは、比喩的には、潮の満ち引きのようなものであろう。つまり、連続相化に対して、脱連続相化のエネルギーが作用すると思われるのである。図式化すれば、
主体→他者、i→-i(→は連続相化)から、主体←他者、i←-iへの「相転移」ではないだろうか。これは、これまで、他者の同一性化と見たが、そうではなくて、共振相への回帰と考えられるのである。(先に、優越/劣等の二項対立について述べたが、それは、連続相化で十分説明がつくだろう。即ち、主体→他者の連続相化とは、他者を同一性化することであり、そこには、他者の力を受容するので、感受性的には、優劣感情が発生すると言えるだろう。)つまり、連続エネルギーのカウンターとして、脱連続・共振エネルギーが発動するのではないかと考えられるのである。これを仮説として、検討を進めよう。
 だから、結局、人間の認識においては、連続相・同一性認識と共振相・差異認識が併存することになると言えよう。そう、より正しく言えば、自然発生的には、両者が未分化として、あるいは、連続態として、併存している、ないし、混合していると考えられるのである。なぜ、未分化・連続態かと言うと、脱連続・共振エネルギー(差異エネルギー)とは、連続相・同一性認識の内に、内部に、発生するからだと考えられるのである。ここは、正に、不連続的差異論のブレークスルーの領域である。連続相・同一性相認識において、脱連続・共振相・差異認識が発生するので、両者が、未分化・連続化しているのである。言い換えると、両者が弁証法関係・否定関係にあるのである。そして、フランスのポスト・モダン、乃至、ポスト構造主義とは、この両者の未分化・連続態から脱出できなかったと言えるのである(後期デリダは除く)。つまり、差異の連続化、連続的差異=微分をここに仮説してしまうのである。また、大澤真幸氏のアイロニカルな没入もこの未分化・連続態で説明がつくのである。ここにあるのは、反動形式なのである。連続・同一性相という構造の彼岸は、差異ではなくて、未分化・混淆界であったのである。即ち、メディア/現象境界である。これが、ポスト・モダンの領域なのである。
 さて、ということで、脱連続・共振エネルギーが発動するが、それが、連続相・同一性相認識と未分化・連続態を形成するというポスト・モダンの様相を確認した。ここで、先に進む前に、近代的自我の反動様態について触れておくと、それは、ポスト・モダン様態になったときの反動態であると考えられるのである。連続相・同一性相・自我認識が中心化して、脱連続・共振エネルギーを否定・排除・隠蔽するのである。これは、暴力且つ狂気なのである。精神病化である。今日の自己愛性人格障害は、これで説明がつくだろうし、また、パラノイア化や統合失調症(「精神分裂症」)もこれで、おおよそ、説明がつくだろう。
 ここで、不連続的差異論のブレークスルーに関係するが、それは、以上の未分化・連続態を切断して、共振エネルギーを不連続化し、独立させたのである。連続相・同一性相とは不連続な、差異共振シナジー様相、差異共振シナジー相認識、即非認識、共振認識を確認したのである。これはどういう力学なのだろうか。完全な脱連続化である。そう、内在的超越化である。虚次元・虚空間化である。そして、それを明日野氏は、卓越的に、i*(-i)⇒+1と簡潔簡明に数式化したのである。これは、差異的同一性の公式とも言えるのである。そして、これこそ、差異共振シナジー様相と連続的同一性様態との共生・棲み分けである。ここには、差異共振シナジー的合理性、連続的同一性合理性の共創・共存があるのである。共生・共立である。簡単に言えば、差異理性と同一性理性との不連続な共立である。(カントは、この内在的超越的差異理性を捉えることができずに、物自体としたと言えよう。あるいは、実践理性としたのである。フッサールはこれを志向性や間主観性として把捉したと言えよう。)
 では、これはいったい何を意味するのか。零度への回帰、永遠回帰、内在的超越界への回帰とは何を意味するのか。結果的には、連続化の終焉である。自我、近代的自我の終焉である。近代合理主義の終焉である。モダンの終焉である。ポスト・モダンの超克でもあるトランス・モダンの開始である。人類のリセットである。これまで、宗教や神秘主義の領域であったものが、合理化されたのである。というか、宗教や神秘主義の純粋化と言ってもいいのである。これまで、それらは、連続態によって、反動化していたのであるから、プラトニック・シナジー理論によって、純粋化したのである。超宗教・超神秘主義でもあるのである。(これは、諸宗教の反動暴力性を解除して、共生的宗教へと変容させると考えられるのである。)
 そう、これは、やはり、一つのサイクルの終焉と見るべきではないのか。即非態から連続エネルギーが発生して、また、脱連続エネルギーが発生する。その終局が、零度への回帰である。私は、これをずっと西洋文明の終焉と見ているのである。あるいは、一神教・父権的文明の終焉と見ているのである。そういうことだと思う。エネルギー力学からそう言えると思うのである。
 さて、序論的部分を含み説明が長くなったので、本テーマの一つの光については別稿で論じたい。
posted by ソフィオロジスト at 02:29| 東京 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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