2006年11月24日

(i)*(-i)の虚空間について:(i)と(-i)の関係の考察:その2

先の考察で、(i)*(-i)【e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=414738
Theories for the Platonic Synergy Concept. 】を(i)⇔(-i)と表記して、双方向の志向性を考えた。陽の志向性と陰の志向性である。そして、また、牽引と反発を考えた。すると、2×2=4種類の様態があるということになるだろう。とまれ、[(i)⇔(-i)]⇒+1となるだろう。つまり、[(i)⇒(-i)]⇒+1と[(-i)⇒(i)]⇒+1ということであろう。双方向の志向性は、+1なのである。おそらく、正確に言えば、⇔の双方向の均衡において、+1があるのだろう。つまり、双方向とは即非なのだろう。
 さて、問題は、−1の場合である。(i)^2ないし(-i)^2が−1である。原自己の二乗、ないし、原他者の二乗が、−1=自我(近代的自我)である。そして、ここで、私は、感情のことも問題にしたいのである。明らかに、−1=自我は、否定感情ないし反動感情的である(いわゆる、感情的とは、理論的には、否定感情・反動感情的と呼べるだろう)。そして、+1=自己は、肯定感情・能動感情をもっていると言えるだろう。あるいは、零度感情・中立感情をもっているだろう。思うに、知性とは、本来、肯定・能動・零度・中立感情を伴っているだろう。おそらく、共感性とは、この感情と通じているだろう。反感は当然、否定・反動感情である。すると、知性とは、肯定・能動・零度・中立・共感感情をともなうことになるだろう。この感情は、即非関係を維持しようとするものである。否定・反動感情によって、知性が曇らなくなるようにするのである。否定・反動感情は、他者を否定するので、当然、即非を否定することになるのである。それは、(i)*−(-i)⇒−1である。これは、既述済みである。
 問題は、−1と言語の関係である。あるいは、(i)*(-i)ないし(i)⇔(-i)と言語の関係である。あるいは、同一性と言語の関係である。これは、作業仮説であるが、言語は、即非関係から生まれたのではないだろうか。
 問題は、とりわけ、同一性と言語である。即非関係において、例えば、私は山と一如である。私は、山であり、且つ、山ではないという即非事象・現象が発生する。このときの、即非関係の「対象」-iである「山」を主体が志向して、「やま」という音声言語が生じるのであるし、文字化して、「山」となるのではないだろうか。おそらく、音声言語は、エネルゲイアの表出であろう。(i)が(-i)を志向するとき、即非における志向性(双方向の志向性:陽の志向性と陰の志向性)において、対象(-i)が、「やま」ないし「山」と表出されるのである。つまり、即非表出・表現としての言語となるのである。つまり、差異的同一性の表現としての言語である。+1の表現としての言語である。これは、芸術としての、詩としての言語でもある。
 しかし、言語が、近代において変質すると言えよう。つまり、反差異・連続的同一性の言語となると考えられるのである。つまり、−1としての言語である。この変質をどう考えたらいいのか。これは、メディア空間の言語から現象空間の言語への変移とも言えるだろう。つまり、近代以前は、「わたし」即非「山」であるメディア空間言語であったが、近代においては、「わたし」≠「山」の現象言語である。差異共振シナジーが喪失しているのである。詩の喪失、コスモスの喪失である。ここには、即非関係の否定があるのである。マイナスが入ったのである。(i)*-(-i)、あるいは、-(i)*(-i)となったのである。 (i)*(i)ないし(-i)*(-i)の関係である。自尊自大と自虐・卑下である。(ここで、D.H. ロレンスの『死んだ男』の言葉を想起する。贈与は、貪欲の一種であるというような言葉である。)
 これまでの見解では、近代は、差異が原点としているということであるが、差異の新たな活性化としての近代であり、イタリア・ルネサンスにおいて、開花したと考えられるのである。そして、西欧に拡大するのである。差異の活性化としての近代である。そして、哲学として、デカルト哲学が創造されるのである。問題は、明晰性である。デカルトは、明晰な合理性として、即非性を排除して、反差異・連続的同一性を求めたと思えるのである。コギト哲学は、差異の哲学であったが、デカルト合理主義は、反差異の哲学であったと思えるのである。思うに、デカルトは、感情そのものを排除してしまったのである。即非関係は、共感性、一如感情、コスモス感情をもたらすのであるが、即非関係を排除したとき、感情も排除したと言えるだろう。いったい、デカルト合理主義の合理性は何か。それは、反感情的同一性合理性であろう。実は、感情性を排除すること自体が、否定感情的であろう。他者との即非的つながりを切断した同一性は、自尊・自大的同一性である。(これは、遠近法と関係しているだろう。)
 ここで、仮説的に言うと、(i)⇒(-i)の陽の志向性と(i)←(-i)の陰の志向性による双方向志向性があると先に述べたが、デカルト合理主義においては、前者の陽の志向性が中心となり、後者が否定されたのではないだろうか。つまり、陽の志向性に対して、陰の志向性が共立することで、即非関係が生起するが、片方だけでは、即非バランスが崩壊されるだろう。おそらく、両方の志向性の極限として、−1が帰結するのだろう。陽の志向性は、(i)が(-i) となり、陰の志向性においては、(-i)が(i)となるのである。即ち、(-i)*(-i)⇒−1であり、(i)*(i)⇒−1となる。思うに、前者が、近代的自我であり、後者がプロテスタンティズムではないだろうか。
 さて、ここで、言語の問題にもどると、即非言語と反差異的言語であるが、志向性の極限によって、後者が生まれたのである。(i)*(i)と(-i)* (-i)が反差異的同一性の源泉である。だから、問題は、反差異と言語の関係である。ここで、訂正的に考察すると、(i)→(-i)において、(-i) ^2を考えたが、これは、実は、(i)=(-i)という事態(錯誤)であろう。この等号が、反差異的同一性であり、反差異的言語の母体であろう。この反差異的同一性言語を介して、主観は、客観を見ているのである。山は以前は、即非的山であったが、今や、反差異的同一性の山である。
 では、遠近法的距離ないし延長はどう説明できるのだろうか。あるいは、三次元的空間は、どう説明できるのか。確認して考察していくと、即非関係においては、本来、遠近法主義は、生まれない。有限と無限とのパラドクシカルな関係がそこにはある。しかし、反差異的同一性が成立すると、無限が消失する。即非の即がなくなり、非がなくなる。A=A且つA=非Aである即非関係から、A≠非Aとなる。つまり、「わたし」と山は、別々になるということで、もはや、「わたし」と山は、一如になることはないのである。言い換えると、「わたし」と山との間には、反差異的同一性の空間(距離)が発生したということになるだろう。そして、この反差異的同一性空間が、数量化されるわけである。1kmの距離。そして、時間も数量化されるのである。カントの超越論的形式が、この反差異的同一性時空間形式である。ここで、直観で言うと、この同一性は、光速度のことである。なぜならば、あらゆる差異関係において、反差異的同一性が発生するのであるから。例えば、差異1=差異2=差異3=差異4=・・・・・=差異n となり、この等号の同一性空間において、つまり、「わたし」と月との距離における同一性、あるいは、「わたし」とブリュージュとの距離にける同一性、これは、光速しか考えられないだろう。そうすると、−1とは、光速の数ということになるだろう。つまり、1/4回転ならぬ、2/4回転である。(ここで、想起するのは、現象空間は、2回の1/4回転、ないし二種類の1/4回転によって生起すると述べてきたことである。つまり、イデア界から一回の1/4回転で、メディア界が形成されて、第二回目の1/4回転で現象界がされるということである。)
 さて、光速が同一性であるということから、ここで、光の現象に関連して考察する必要があるだろう。有り体に言えば、光とは何かということである。ここでも直観で言えば、光は本来、光でないものである。つまり、光=非光である。そう、即非エネルゲイアの反差異的同一性が光の現象になっているのであるから、本来、差異的同一性の光が存していると考えられるのである。つまり、(i)*(-i)の原光があるはずである。私のこれまでの試論から言うと、これは、宗教的光、例えば、浄土教の光である。阿弥陀如来の光、無量光である。無限の光である。これは、換言すると、陰陽光・太極光であろう。いわば、闇をもった原光と考えられるのである。D.H.ロレンスの黒い太陽、『老子』の玄牝(げんひん)はこれではないだろうか。あるいは、黒い聖母像もこれを指しているのではないだろうか。 ということで、光現象とは、零度差異共振シナジーの原光(玄光?)の同一性現象である。とりわけ、反差異的同一性現象であると言えるように思えるのである。
 では、これを数式化するとどうなるのだろうか。明日野氏の自己認識方程式から考えると、原光=(i)*(-i)⇒+1である。そして、光=(i)* (i)=(-i)*(-i)⇒−1である。ここで、雑駁ではあるが、ダークエネルギーについて言うと、それは、前者に関係するだろう。ただし、正しくは、虚次元・虚空間におけるエネルギー、つまり、虚エネルギーである。つまり、いい足す形になるが、闇があるのである。思うに、(i)⇒(-i)の反差異的同一性が光であり、(-i)⇒(i)の反差異的同一性が闇である。両者は−1で同一となるのである。ただし、方向性が異なるだろう。天から地が光となり、地から天が闇となるのではないだろうか。
 とりあえず、ここで留めたい。
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2006年11月07日

なぜ、「自己」は、差異を否定した自我 であろうとするのか。

自己→他者というのが自己の差異の様相である。換言すると、志向性である。しかるに、自己は、他者を否定して、自己同一性即ち、自我 であろうとするのである。本来、自己即非 他者であるにもかかわらず。つまり、自己と他者との差異共振 シナジー様相であるにもかかわらず、これを否定して、反差異的同一性である自我 であろうとするのである。これで、独立した個人と考えるのである(倒錯)。

 ここには、自己内界の他者の否定があるので、自我 は、いわば、自己否定 の様態にあるのである。ヘーゲル 的に言えば、自己疎外の様態にあるのが自我 、とりわけ、近代的自我 である。自我 とは、倒錯であり、自己独立を錯覚 しているのである。一人称 自己認識 方程式を使用すれば、(i)*(-i)⇒+1に対して、(i)*-(-i)⇒−1が自我 倒錯の数式である。自己同一性とは、この場合、(i)のことではないだろうか。-iである他者を否定して、自己同一を形成し、自我 、自我 倒錯となるのである。以上は、これまで確認されてきたことである。では、本稿のテーマ である差異否定の原因・理由・起源 について、あらためて、考察 しよう。

 (i)*(-i)であるが、これは、メディア 空間である。内在超越的なメディア 空間(差異・共振 ・シナジー空間)である。これは、現象的には、身心空間である。あるいは、精神 空間である。精神 内には、「魂」ないし「心魂」があるのである。これは、感受性、共感性 と呼ぶことができるだろう。いわゆる、心とは、ほぼこれを指すと言ってもいいだろう。あるいは、ロマン主義 の説く想像 力の源泉と考えることもできる。【思うに、耽美 主義は、特に、フランス耽美 主義は、一種アイロニカルな没入によって、自我 主義、反差異的同一性に陥っているのである。世俗のブルジョワ 的俗物 性を憎み美的 世界に耽溺するのであるが、しかし、それは、同時に他者を喪失 するので、(i)*-(-i)⇒−1になっているのである。正に、デカダン の倒錯の世界に陥っていると考えられるのである。ユイスマンス の『さかしま』は、タイトル から象徴的である。】即ち、(i)*(-i)とは、感受性、精神 的感受性を意味 すると考えられるのである。これは、実に霊妙であり、また精妙なものであり、いわば、宗教 、芸術 、詩、等の根源というべき源泉である。当然、これは、繊細であり、傷つき易いものである。受苦性、ヴァルナラビリティである。しかし、忘れられているが、力の源泉である。活力・活動・「エネルギー 」の源泉であると考えられるのである。特異性、単独性、不連続的差異 性である。自己特異性と呼べるものである。

 つまり、(i)*(-i)とは、ニーチェ がディオニュソス 的なものと呼んだものの源泉であると考えられるのである。端的に言えば、ディオニュソス である。(ニーチェ の『悲劇の誕生 』をなぞれば、ディオニュソス 的な古代ギリシア 人は、(i)*(-i)の精神 をもっていたと言える。)受苦と力の源泉としての(i)*(-i)である。

 しかるに、人間 は一般に受苦を恐れるから、これをガードして、いわば、蓋をするのである。隠すのである。隠すとは、無いこととすることであり、否定である。即ち、他者を否定することであるから、(i)*-(-i)⇒−1である。(i)*-(-i)= (i)*(i)という自己同一性ないし自己二重性が形成されるのである。これは、他者の位置に自己を置いているのであるから、二重人格 となっているだろう。ジキルとハイドである。つまり、最初の(i)がジキル博士 (善人の仮面 であろう)で、後者 の(i)がハイド氏(悪人)である。なぜなら、-iという倒立像を隠蔽しているからである。倒立像を隠蔽して、自己像を投影 しているのである。

 この自己同一性=自我 の徹底化が、近代的自我 であり、ここから、近代的合理主義や唯物論 が発生するのではないだろうか。そう、これが、近代主義の原型である。結局、差異否定、自己同一性の志向性の原因とは、受苦への反感・反発・反動 にあったのである。そして、他者を否定する反動 ・暴力 ・倒錯・欺瞞的な自我 になったのである。反差異同一性=自我 =近代的画一性=全体主義 が支配するのである。他者を否定すること、これは、非合理主義、非「科学 」主義である。つまり、不思議 なことに、近代科学 は非合理主義、非「科学 」主義なのである。反差異同一性量=「物質」を対象としているからである。あるいは、反差異(連続 )同一性量=「物質」的科学 と言えるだろう。このように見ると、ニーチェ が近代科学 を忌み嫌った理由がわかるだろう。つまり、受苦=力=ディオニュソス を回避した科学 であるからである。有り体に言えば、弱者 (「賤民」)の科学 なのである。また、フッサール が『ヨーロッパ 諸学(諸科学 )と超越論的現象学 』で、近代科学 を批判したのも理解できるのである。他者を否定した科学 がここにあるのである。「卑怯者」の科学 である。また、カント の『純粋理性批判 』が、理性のアンチノミー を説くのもわかるのである。理性は、正に、差異ないし(i)*(-i)の理性であり、即非 理性なのであるからである。そして、後に、ウスペンスキー がカント 哲学 を発展させる形で書いた、アカデミズム からは黙殺されている『ターシャム・オルガヌム 』も理解できるのである。

 さて、このように見ると、「物質」とは何か、という問題への解答が出るだろう。以上は、人間 の志向性を考えたものだが、それを他の現象にも適用できると仮定すれば、「物質」とは、反差異的同一性とその数量化である。現象の差異を否定した現象同一性の数量化されたものである。あるいは、現象の質を否定された数量的同一性である。つまり、「物質」とは、現象の反差異的同一性数量面に過ぎないのである。現象の差異的同一性=質性を捨象した抽象である。そう、受苦=力=差異を否定した連続 的同一性、これが悪魔 なのである。そう、劣弱さである。劣弱さが、悪魔 なのである。怯惰である。

 視点を換えれば、無知 である。無明である。智慧・叡智の喪失 である。智慧なき状態である。もし、差異共振 シナジーの智慧やその社会 があれば、精神 の弱者 も、それなりに悟ることができるだろう。思うに、大乗仏教 の衆生 の救済とは、そのような意味 があったのだろう。また、イエス の活動も本来それであたのだろう。神の国 とは、差異共振 シナジー空間のことと考えられるからである。また、スピノザ 哲学 の意味 もこれである。他者を能動的把捉すること、これで、(i)*(-i)⇒+1が形成されるのである。
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2006年11月02日

連続的差異と同一性:近代の終焉と新東洋文明

今は、簡単に触れるに留めるが、私が問題にしたいのは、先に述べた不連続的同一性と連続的同一性の問題である。領域で言えば、メディア/現象境界の事象である。これは、正確には、不連続的差異論の問題であるが。同一性の問題に関して、重要な問題なので、精緻に考察したい。
 端的に言えば、差異=微分の連続体・積分に基づく同一性と不連続的差異の同一性(特異性の同一性)の問題である。もっとも、これは、不連続的差異論の成立の基礎になった問題で済んでいるものではあるが、近代科学の問題に関係するので、ここで取りあげるのである。ここで、図式化すれば、☯→=が、メディア界から現象界への図式図である。Kaisetsu氏の自己認識方程式を使用すれば、(i)・(-i) ⇒1である(この記号の方が、内在超越性ないし超越次元性を提示できるので、的確である。もっとも、Kaisetsu氏は、一人称と限定して、厳密化しているが。)。差異=微分ないし連続的差異という虚構・仮構は、☯ないし(i)・(-i)という事象を認識せずに、連続同一性とその集合を意味するのである。連続同一性を、ci(continuous identity)とすれば、ciの連続・集合体として根源界があることになるのである。ci, ci, ci, ・・・ci が、連続同一性集合体である。そして、これを積分したものが現象的同一性である。∫ciである。ここでは、連続同一性のciが共通単位となったいるのである。
 しかし、☯ないし(i)・(-i)という事象においては、当然、ciは存しないのであり、差異1☯差異2☯・・・☯差異n(思うに、差異1(i)・(-i)差異2(i)・(-i)・・・(i)・(-i)差異nと表現できるのではないか)が存在しているのであり、ここにあるのは、個々別々の不連続的差異の極性共立即ち即非である。どこにも、ciは存しないのである。ただし、即非的同一性が形成されるだろう。→=ないし⇒1である。これを私は、先に不連続的同一性と呼んだのである、ciが連続的同一性であるのに対して。
 フッサール現象学にも通じるが、近代科学は、ciをベースにして、それを数量形式=「物質」形式化して成立しているのであり、☯ないし(i)・(-i)という事象、あるいは、志向性を認識していず、無視している結果になっているのである。結局、差異=微分=連続的同一性=「物質」形式が、近代科学、唯物科学の基礎・基盤・大前提なのである。
 問題は同一性である。近代科学の同一性(ヘーゲルの観念形式)だと、個物・個体は、一般的個体になり、特異性を喪失しているのである(参考:ヘーゲル哲学:個別性は一般性である。)。ここでは、唯名論的個物・個体が、実念論的観念と一致するのである。これは、まったくの画一性、機械的同一性である。この連続的同一性が、近代的現代を支配しているのである。資本主義も、連続的同一性資本主義なのである(有り体に言えば、金融資本主義である)。そして、これを、フッサールは晩年の『ヨーロッパ諸学(諸科学)の危機と超越論的現象学』で説明していると考えられるのである。
 私が言いたいのは、事象は、不連続的同一性、特異性的同一性であるのに、それを、連続的同一性であると誤解していることである。これは、フッサールの『危機』を不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の視点から言い換えたものである。つまり、現象という事象としての「もの」は、不連続的同一性=特異性的同一性であるにもかかわらず、近代的人間は、それを、連続的同一性として誤謬して見ているということである。つまり、近代科学幻想で、現象を見ているのであり、真の現象事象を看過されているということなのである。生活世界は、この真の現象事象を経験したものにほかならないだろう。近代主義は、連続的同一性幻想・妄想・狂信なのである。
 今や、近代は、完全に、終焉したのである。これが、ポスト西欧近代主義ないしポスト近代西欧主義である。では、いったい何が、ここで、出現したのだろうか。コスモス、プラトニック・シナジー界、メディア界、「玄牝」・太極(陰陽太陽)、等が出現しているのである。新たに、古代、東洋、アジア、母権制が復活しているのである。新しい古代ー東洋ーアジアー母権制である。新しいコスモス、新しいガイアである。新しい多神教である。新しいイシス・オシリスである。私は、
新東洋文明と呼びたい。
posted by ソフィオロジスト at 02:24| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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