2006年09月09日

キリスト教を脱構造化する:「光」の連続・同一性自我化としての「イエス・キリスト」批判


キリスト教を脱構造化する:「光」の連続・同一性自我化としての「イエス・キリスト」批判
[ 04:55 ] [ ポスト・キリスト教 ]
[ スライドショウ ] [ 編集 ] [ 削除 ]
『ヨハネの福音書』の冒頭はきわめて興味深い。「初めにロゴスありき」として、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論ddps理論から見ると、「ロゴス」は、メディア界・差異共振シナジー相である。そして、これが、「光」である。しかし、この「光」は、イデア・シナジーである。だから、不可視の「光」である。「闇」である「光」である。現象界の「光」ではないのである。つまり、浄土教の阿弥陀如来の「光」と等価と見ていいだろう。原光・プロトライトである。そして、この「光」が肉体化したのが、「イエス・キリスト」であるが、しかし、これは、おかしいと思うのである。すべては、「光」から生成したのであるから、誰でも、「光」を体現しているはずである。「イエス・キリスト」だけに限定されるものではないのである。凡人や悪人にさえ、「光」は潜在しているのである。そう、悪魔にさえ、「光」は潜在しているだろう。思うに、「光」の顕在をなんらかの精神修練によって実現した人物が「イエス・キリスト」であったろう。これは、「イエス・キリスト」が唯独りということはありえないのである。これは、また、D.H.ロレンスの懐疑であったのであるが。「光」の顕在的体現は、多くの、いわゆる、神秘家に生起したと考えられるのである。やはり、この点が、ドグマティックに考えられるのである。「光」の独占である。これは、不合理である。ここには、「光」の連続・同一性自我化があると思うのである。デカルトのコギトに近いと思う。そう、キリスト教は、「光」、「ロゴス」、コスモスの理(「ダルマ」)を、連続・同一性自我化していると思う。だから、やはり、ポスト・キリスト教として、キリスト教の脱連続・同一性化=不連続的差異化が必要である。
 また、ヨハネの福音書は、父とロゴスとを混同している向きがあると思う。だから、父とは、イデア界である。そして、ロゴスはメディア界である。そして、子(複数)とは、現象界である。そして、聖霊もメディア界である。聖母マリア、聖母子も、メディア界である。これらが、非常に、混乱しているように思えるのである。カオス状態にあるように思えるのである。古代の叡智が、キリスト教によって、カオス状態にされてしまったように思えるのである。狂乱のキリスト教ではないだろうか。狂気の、精神異常の、精神分裂症のキリスト教ではないだろうか。
 聖書は、文学、フィクション、物語として見るといいと思う。しかし、これは、古代の叡智の破壊ではないか。ポスト・キリスト教である。

_____________________________________

English: New American Standard Bible Japanese: JKUG
John 1 [Commentary]
1. In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2. He was in the beginning with God. この言は初めに神と共にあった。
3. All things came into being through Him, and apart from Him nothing came into being that has come into being. すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4. In Him was life, and the life was the Light of men. この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5. The Light shines in the darkness, and the darkness did not comprehend it. 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
6. There came a man sent from God, whose name was John. ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
7. He came as a witness, to testify about the Light, so that all might believe through him. この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
8. He was not the Light, but he came to testify about the Light. 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
9. There was the true Light which, coming into the world, enlightens every man. すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10. He was in the world, and the world was made through Him, and the world did not know Him. 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11. He came to His own, and those who were His own did not receive Him. 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12. But as many as received Him, to them He gave the right to become children of God, even to those who believe in His name, しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
13. who were born, not of blood nor of the will of the flesh nor of the will of man, but of God. それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
14. And the Word became flesh, and dwelt among us, and we saw His glory, glory as of the only begotten from the Father, full of grace and truth. そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
15. John *testified about Him and cried out, saying, "This was He of whom I said, `He who comes after me has a higher rank than I, for He existed before me.' " ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
16. For of His fullness we have all received, and grace upon grace. わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
17. For the Law was given through Moses; grace and truth were realized through Jesus Christ. 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
18. No one has seen God at any time; the only begotten God who is in the bosom of the Father, He has explained Him. 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
19. This is the testimony of John, when the Jews sent to him priests and Levites from Jerusalem to ask him, "Who are you?" さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
20. And he confessed and did not deny, but confessed, "I am not the Christ." すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。
21. They asked him, "What then? Are you Elijah?" And he *said, "I am not." "Are you the Prophet?" And he answered, "No." そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。
22. Then they said to him, "Who are you, so that we may give an answer to those who sent us? What do you say about yourself?" そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。
23. He said, "I am A VOICE OF ONE CRYING IN THE WILDERNESS, `MAKE STRAIGHT THE WAY OF THE LORD,' as Isaiah the prophet said." 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
24. Now they had been sent from the Pharisees. つかわされた人たちは、パリサイ人であった。
25. They asked him, and said to him, "Why then are you baptizing, if you are not the Christ, nor Elijah, nor the Prophet?" 彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
26. John answered them saying, "I baptize in water, but among you stands One whom you do not know. ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
27. "It is He who comes after me, the thong of whose sandal I am not worthy to untie." それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
28. These things took place in Bethany beyond the Jordan, where John was baptizing. これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。
29. The next day he *saw Jesus coming to him and *said, "Behold, the Lamb of God who takes away the sin of the world! その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

http://unbound.biola.edu/index.cfm?method=unbound.welcome
から
posted by ソフィオロジスト at 07:33| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

近代的自我と言葉の関係:言語とは何か:言語とメディア界の関係について:「初めにロゴスありき」


近代的自我と言葉の関係:言語とは何か:言語とメディア界の関係について:「初めにロゴスありき」
[ 03:18 ] [ 言語と差異 ]
[ スライドショウ ] [ 編集 ] [ 削除 ]
「初めに言葉ありき」とは、あまりに有名なヨハネの福音書の冒頭の言である。しかし、何度も既述したが、原語のギリシア語では、「初めにロゴス(ο λογος)ありき」なのである。「言葉」と「ロゴス」は、一般に、同じものを意味していると考えられている。しかし、誰が見ても、両者、異なるのである。
 英語の欽定聖書やドイツ語のルター訳聖書では、「言葉」と訳(誤訳)されているのである。近代主義とは、精神的には、ここから発したと言ってもいいくらいだと思われるのである。
_______________________________

Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
English: King James Version
German: Luther (1545)
English: New Revised Standard Version


John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.


2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον

The same was in the beginning with God.

Dasselbige war im Anfang bei Gott.

He was in the beginning with God.


3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν

All things were made by him; and without him was not any thing made that was made.

Alle Dinge sind durch dasselbige gemacht, und ohne dasselbige ist nichts gemacht, was gemacht ist.

All things came into being through him, and without him not one thing came into being. What has come into being.


次は仏語版である。

Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
French: Louis Segond (1910)
French Jerusalem Bible
French: Darby


John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος

Au commencement était la Parole, et la Parole était avec Dieu, et la Parole était Dieu.

Au commencement était le Verbe et le Verbe était avec Dieu et le Verbe était Dieu.

¶ Au commencement était la Parole; et la Parole était auprès de Dieu; et la Parole était Dieu.


2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον

Elle était au commencement avec Dieu.

Il était au commencement avec Dieu.

Elle était au commencement auprès de Dieu.


3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν

Toutes choses ont été faites par elle, et rien de ce qui a été fait n'a été fait sans elle.

Tout fut par lui, et sans lui rien ne fut.

Toutes choses furent faites par elle, et sans elle pas une seule chose ne fut faite de ce qui a été fait.

The Unbound Bible
http://unbound.biola.edu/

_______________________________

 問題は、連続・同一性自我と言葉・言語の関係である。これまで、既述したように、同一性と言葉・言語とが、いわば、一致・一体化するのである。つまり、同一性自我・近代的自我と言葉・言語とが、結合するのである。この結果生起する同一性言語自我・近代的言語自我(ラカンの象徴界は、言語自我界であり、ここと一致するだろう。)は、差異を否定・排除・隠蔽する様相となっているのである。ここで、差異とは、メディア界・差異共振シナジー相・心身性・精神である。 
 結局、近代合理主義・近代的自我・同一性言語自我とは、差異を排除して成立しているものである。そう、近代的自我とは、言語と結合することで、強固な内在超越論的連続・同一性構造を形成していると言えるだろう。換言すると、プラス・エネルギーと言語とが結合しているのである。この近代的同一性言語は、差別的な言語であり、主体の差異・他者と同時に、外的な差異・他者を差別・排除するのである。思うに、ナショナリズムや宗教はここと結びついているので、暴力・攻撃的に排外的なのである。(参照:石原都知事、小泉首相、等々、国粋主義的ナショナリズムの面々)
 とまれ、言語と一体化している近代的同一性自我についてであるが、それは、独断・独善的自我中心主義である。「自己中」である。自己盲目であり、妄想・妄念・妄言的である、小泉首相のように。
 そう、先に述べたように、内部環境がプラス・エネルギーの場合は、これが、能動的であったと言えようが、今日のような「ポストモダン」状況では、マイナス・エネルギーが賦活・活性化されていると考えられるので、この近代的同一性言語自我は、反動狂気様態になっているのである。
 では、言語と差異との関係を見る必要がある。明らかに、差異は、言語ではない。あえて言えば、差異とはロゴスである。「理」である。ただし、近代合理主義の「理」ではなく、メディア界・差異共振シナジー界の「理」である。これは、心身・精神的「理」である。だから、言語は、これを、直截に把捉できないのである。言語の他者としての差異なのである。だから、ヨハネの福音書の冒頭の「ロゴス」=「理」を、「言葉」・「言語」と訳すのは誤訳であることが、これで証明されたと言えよう。ロゴスと言葉は、まったく別のものであり、メディア界・メディア平面・差異共振シナジー界の「ロゴス」=「理」と、現象界の同一性形式である言語との混同が、西欧近代において形成・確立されたと言えよう。そして、極論すれば、その結果、主体意識において、内在超越意識が喪失されて、現象界中心主義(=唯物論)になったとも言えよう。(この内在超越界の取り戻しは、芸術では、ロマン主義以降の運動、そして、哲学では、スピノザ、カント、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他によって為された。また、日本では、西田幾多郎や鈴木大拙によって為されたと言えよう。私としては、在野の根井康之氏を含めたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10001141893.html
http://shop.ruralnet.or.jp/search_result.php?mode=detail&id=011706&b_no=01_454083021X

 結局、現代において、言語と差異とが矛盾する事態となっているのである。私は、以前、ポストモダンとは、言語からのズレのことを意味するのだと、戯れに、仲間に言ったものである。そう、このズレが、心身・精神性なのである。そして、これを、さらに、不連続化して、差異共振シナジー相の純粋なメディア界・メディア平面が発生しうるのである。
 問題は、どうやって、このズレを気づきさせるのか。ここに大きなポイントがあると言えよう。差異をどうやって、気づきさせるのか。これが、わかれば、精神意識革命が生起するのである。「こころ」と言われているものは、まだ、連続観念をもっているので、危険だと思う。ズレを不連続的単独化する必要があるのである。「犀の角のように唯独り歩め」。そして、このズレの心身性を、不連続化し、また、スピノザの能動的観念化する必要があると思うのである。つまり、差異・心身性という言語からのズレを不連続且つ能動的観念化すること、これで、不連続的差異論精神意識革命が発生するはずである。つまり、不連続的差異的能動的観念論である。これで、心身は、自我は、イデア界に達して、純粋メディア界・差異共振界を形成するのである。
 また、問題は、どうやって、言語とのズレ・差異を発生させるのかということがある。ここにすぐれた芸術の役割があるだろう。すぐれた芸術は、心身・精神・差異を賦活させるのである。バッハ芸術、シューベルト芸術、トルストイ芸術、芭蕉芸術、セザンヌ芸術、D.H.ロレンス芸術、等々である。また、すぐれた哲学もそうである。スピノザ哲学、ニーチェ哲学、フッサール哲学、ウスペンスキー哲学、仏教を含めた東洋哲学、他。精神的点火をもたらす芸術・哲学・思想・宗教が、すべてである。
 また、自然との単独的触れ合いが重要である。自然は、言語とのズレ・差異を、永遠に喚起するだろうから。
posted by ソフィオロジスト at 07:32| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。