2006年07月31日

連続・同一性自然過程とポスト人類精神革命の理論としての不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論

連続・同一性自然過程とポスト人類精神革命の理論としての不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論
テーマ:新イデア・共振シナジー理論
Mon, July 31, 2006 14:44:30
以下は、次のブログの部分を独立させたものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10015284984.html
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連続・同一性(と連続・同一性中心主義)の形成を連続・同一性自然過程と、先に呼んだが、それは、当然、ファシズム・全体主義形成過程とも言えるのである。サル社会で、ボス中心のピラミッド社会が形成されるというのは、この連続・同一性自然過程の表出ではないだろうか。もし、そうなら、人間社会は、サル社会と類似していると言えよう。深く、猿の遺伝子を継承しているのではないだろうか。(では、人間の遺伝子とは何か。)
 当然、人間社会は、連続・同一性(主義)自然過程から脱却するものでなくてはならないはずである。もし、進化があるなら、その方向にあるはずである。
 不連続的差異論は、本当に画期的な、否、超革命的な、超進化(精神進化)的な、理論であると思うが(理解している人は、どれほどいるだろうか)、それは、脱連続・同一性自然過程である人類進化・生命進化に役立つだろう。(インテリジェント・デザイン論・ID理論があるが、ここでの「進化」とは、内的デザインの進展ということになろう。)そう、ポスト・「サル/人類」進化の理論である。

 p.s. 父権主義・西洋文明・近代主義、等の地球・人類に破壊的なものがどうして存在するのかという疑問に対して、この視点から答えられるように思う。おそらく、現人類は、サルと超・ポスト人類との中間の、過渡期の、架橋的生命体なのである。そのために、サル社会の連続・同一性自然過程=父権制・原ファシズム・全体主義を内包しているのである。これが、現代の桎梏なのである。このため、戦争、暴力、自然破壊、不正、不平等、等が理不尽に為されるのである。サル遺伝子、サルの遺産が、現人類を、狂気にしているのである。
 不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論は、明らかに、ポスト・人類革命の超理論である。私は、理論誕生直後、直観の狂喜・情熱のままに、
最勝超至高不連続的差異論と呼んだものである。
 耳あるものは、傾聴するといい。


参照:
サル目
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E7%9B%AE

ゴリラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%A9

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本ブログの後記:

上記の仮説が正しいならば、ユダヤ/キリスト教とは何か。とりわけ、ユダヤ一神教とは何かという疑問が起こる。それは、サル人類(現人類のことである、勿論)の遺伝子の反動的発露ではないのか。超越神とは、サル人類神である。しかし、問題は、二重構造である。超越神ヤハウェとは、サルのボスと超人類の「超越性」との中間態と考えられるように思うのである。だとすれば、正に、サル人類宗教・神学である。中間神学である。反動的な面と進歩的な面があるだろう。そして、キリスト教が成立する。これも、ユダヤ教と同じく、中間的なものであるが、人間において超越性(イエス・キリストの体現した精神:本当は、仏教・プラトン主義・グノーシス主義的イエスの精神である。p.s. 後で、グノーシス主義の問題を検討したい。)を説いている点で、ユダヤ教より、進歩していると言えよう。
 このサル人類的一神教神学がベースになって、西洋文明、とりわけ、プロテスタンティズム西洋文明が成立したのである。問題は、サル的父権制が桎梏となり、全体主義的に地球・自然・人類を破滅の過程に陥れていることである。超人類の精神能力である、超越性(超越論性:差異共振性)が、反動暴力・狂気化しているのである。まったき倒錯の様態にある。
 結局、父権一神教とは、超人類進化のための、サル人類史の最終段階であると見られよう。サル人類史の終末なのである。黙示録的時代であるが、それも、いわば、ポスト黙示録的黙示録的時代である。即ち、ポスト一神教的黙示録の時代であるということである。新コスモスの新時代(新アイオーン)の開始である。
 これは、イエスの救済(イエスを救済すること)を意味するだろう。救世主を救済することになるのである。イエス・キリストは、本来、超人類、超サル人類進化の方向性を説いた人物と考えられるのであるが、それが、サル人類神学に利用されてしまったのである。そう、D.H.ロレンスが、『死んだ男』で、イエス・キリストを救済することを表明しているのである。新コスモス・超人類進化を説くポスト・イエスにイエス・キリストが変容したのである。(ロレンスは、ニーチェを進展的に継承する大天才である。文学は、20世紀後半以降、反動・停滞・衰退しているだろう。)
 付け加えると、イタリア・ルネサンスとは、超人類進化の、古代ギリシアに続く第二の烽火であったが、プロテスタンティズムの反動に隠蔽されてしまった。しかし、今や、第三の烽火として、新プラトン・シナジー理論が、決定的に、出現したと言えよう。
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2006年07月30日

零度差異共振とは何か:差異と同一性の関係性についての考察

零度差異共振とは何か:差異と同一性の関係性についての考察

これは、例えば、差異(不連続的差異)1と差異2とが、零度で、共振するということであり、このとき、差異1と差異2とは接していると同時に、接していないという、相反した事象にあるのである。これは、鈴木大拙の即非の論理の事象であると言える。後に、ドゥルーズ&ガタリが、離接という概念を提起したが、同じ意味のものであると考えられる。有り体にいえば、後者は二番煎じである。
 この共振事象ないし共振シナジー事象は、きわめて、不思議なものである。現象界の二項対立的論理を超越した論理である。差異1=差異2、且つ、差異1≠差異2である。イデア界からの順序に即せば、差異1≠差異2、且つ、差異1=差異2である。換言すると、差異1=非差異1である。A=~Aである。これが、差異共振事象の本性・実体であり、差異共立とも呼んでいいのであるが、イデア界の差異共立と混同してはいけない。後者においては、零度共振はなく、境界に隔てられた絶対的差異の共立があるだけである。混乱を避けるために、イデア界の差異事象を、差異分立と呼んでもいいだろう。
 さて、差異共振事象であるが、一方、即ち、差異共振界(=メディア界)のイデア極においては、差異分立性があり、他方、現象極には、差異連続・同一性(明快にするため、差異同一性と呼びたい)があると言えよう。だから、差異共振界(略して、差共界)では、差異分立性と差異同一性との矛盾事象が生起していると換言できる。前者を特異性・単独性と呼ぶことができるし、後者は単に同一性と呼ぶことができるだろう。特異性と同一性との矛盾共立が生起しているのである。因みに、ドゥルーズ哲学は、この矛盾共立を直接反映した哲学であると言えるのである。即ち、特異性としての差異と微分としての差異とを含んだ差異哲学なのである。しかし、これまで、言い尽くしたように、両者を混同しているのである。この混同が、差共界の矛盾共立・矛盾同一の直接的反映を意味しよう。わかりやすく言えば、差共界の矛盾同一事象に没入しているのが、ドゥルーズ差異哲学であると言えよう。没入しているので、自身が揺れ動いているのが、自覚できないのである。そのために、差共界の、謂わば、自然過程に陥っているのである。即ち、連続・同一性過程である。【ここで、想起したのであるが、ヌース理論は、正に、「精神」の連続・同一性化の理論なのであるが、差共界のもつ連続・同一性自然過程に没入しているのではないかと思ったのである。おそらく、そうであろう。素朴な差共界の様態は、連続・同一性への自然過程であると考えられる。そして、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」であるが、これもこの事象を説いていると考えられる。】
 ということで、差共界について、整理する必要があるだろう。不連続的差異論は、差異の根本・基本的な不連続性を発見した、ないし、仮説するものであり、差異の不連続化によって、不連続的差異の共立するイデア界が発見できたと考えられるのである。それまでは、差共界の自然過程のままに、連続・同一性に拘束されていたのであり、反動化が免れなかったのである。差異の不連続化、即ち、差共界の不連続化によって、この連続・同一性化=反動化の拘束から脱却できたと言えるのである。(言い換えると、真の社会革命が可能になったのである。)連続・同一性の束縛を切断したのである。即ち、不連続的差異の共立するイデア界に回帰することにより、差共界の連続・同一性の桎梏・束縛・拘束・規定・構造(カントの超越論的形式)を解体・破壊・解消して、差共界を変容したと言えるのである。差共界の変容とは、何か。不連続的差異化、イデア界への回帰による差共界の変容とは何か。それは、連続・同一性自然過程を解体・脱構造化したことである。それは、また、連続・同一性である自我の解体・破壊・脱構造化と言えるだろう。自我が、とりわけ、近代自我が、仮象・仮構であることを明らかにしたのである。「わたし」とは、自我ではなくて、差異・特異性であること、そして、根本的には、不連続的差異、絶対的差異であることが、判明したと言えよう。自我が、差異・不連続的差異に還元されたのである。イデア界に回帰したのである。
 その結果の差共界の変容とは何か。連続・同一性化が解体されて、今や自我が消滅したのではないだろうか。つまり、連続・同一性過程において、自我、とりわけ、近代自我が成立するのであるが、連続・同一性過程が解体されたとなると、差共界は、もはや、連続・同一性過程を形成しなくなるのである。即ち、連続・同一性自然過程から解放された差共界の成立・形成・創造である。これが、差共界の変容・変成である。連続・同一性の現象界からの解放である。連続・同一性の「力」からの解放である。そして、差異共振シナジー・エネルギーの解放であろう。差異共振エネルギーが、これまで、連続・同一性を形成する「力」になっていたのだが、それが、それから解放されて、純粋な差異共振シナジー・エネルギーとなるということである。完全な零度共振が可能になるということだろう。即非論理の貫徹がここに発生すると言えよう。差異共振シナジー世界が、いわば、現象化すると言えるだろう。
 では、不連続的差異化以前において、連続・同一性自然過程の「力」とはいったい何なのであろうか。私の直観では、捩れを感じさせるのである。差異否定の「力」である。連続・同一性の極において、おそらく、言語化が発生するのである。そして、連続・同一性が、謂わば、固定・固着・凝固するのである(連続・同一性中心主義の成立)。この連続・同一性極の言語的石化によって、連続・同一性中心主義=自我中心主義が発生すると言えるだろう。そして、これが、差異・他者を否定・抑圧・排除・排斥・排出・隠蔽すると考えられるのである。暴力の誕生である。父権制暴力の誕生である。戦争の誕生である。帝国主義の誕生である。(そして、現代、西洋文明として、この父権的暴力の帰結を迎えているのである。)結局、連続・同一性自然過程の「力」とは、連続・同一性のエネルギーの言語的固定であった。
 では、不連続的差異論/差異共振シナジー理論(新プラトン・シナジー理論)によって、純粋な差異共振シナジー・エネルギーが解放されることは何を意味するのか。当然、帝国主義の解体、国家主義の解体、自我中心主義の解体、等である。一つの人類史、父権的人類史の終焉である。ポスト人類史、ポスト父権的人類史、ポスト西洋文明である。当然、ポスト一神教である。ポスト資本主義である。新コスモス文明への駆動と言えよう。そう、純粋・純正差異零度共振シナジー・エネルギーとは、新コスモス・エネルギーと言えよう。
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2006年07月25日

差異共振シナジー・宇宙(コスモス)について:人類史の終焉と超宇宙神時代

現代の自然科学・工学技術は、唯物主義に基づいている。すなわち、現象は、物質であると考えているのである。そして、精神や生命等を、物質から説明しようとしている。たとえば、遺伝子は、DNAに集合体であるゲノムに存すると考えているし、また、精神現象を、脳の物質現象として、捉えようとしている。《ヌース理論は、精神を、量子現象として、捉えようとしている。量子は、霊と等価になるだろう。なぜなら、霊とは、精神を、連続・同一形式によって捉えたものだからであり、量子とは、イデア・シナジー(差異共振シナジー)=精神を連続・同一性形式で捉えたものと考えられるから、霊=量子となるのである。中沢新一の霊的唯物論と一致すると言えよう。》
 しかし、唯物論的自然科学・工学技術とは、カント哲学が明らかにしたように、超越論的形式=主観性に規定されているのであり、いわゆる、物自体、言い換えられば、自然自体を把捉していない、主観形式に限定された世界観である。近代主義的自然観である。
 これに対して、プラトニック・シナジー理論は、不連続的差異論をベースにした、新たなイデア論であり、イデア論的科学(イデア・シナジー・サイエンス)、イデア論的技術(イデア・シナジー・テクノロジー)、その他を目指していると言えよう。これによれば、現象は、イデア・シナジーの発現ないし仮象である。すなわち、差異イデア共振シナジー現象である。つまり、現象は、イデア共振シナジーが本体であるということであり、物質とは、イデア共振シナジー現象の同一性化であると言えるのである。換言すると、物質主義的自然科学は、イデア共振シナジー現象の同一性的表面のみを捉えているのであり、差異的本体を捉えていないということができるのである。すなわち、イデア的真実在を捉えていないということである。正に、表層・皮相科学である。
 これは、端的に言うと、どういうことであろうか。それは、差異共振シナジーという事象事実を取り逃がしているということである。より明快に言えば、差異共振という事象事実を看過しているということである。より平明に言えば、差異調和という事象によって、全宇宙が成り立っているという事実を見逃しているということである。差異のハーモニーによって、全宇宙は成立しているという事象事実の見落としである。これが、全宇宙の真実・真相・真理である。(華厳経は正しいのである。また、欧州の古代・中世の知の伝統における、コズミック・ハーモニーの思想(宇宙的調和観)は、正しいのである。)
 これは何を意味しているのか。差異共振調和を否定する現代の人類の社会は、宇宙の根本的法則を踏みにじっている、違反している、否定しているということである。そう、今や、地球世界は全宇宙のガン細胞となっていると言えよう。全宇宙・コスモスの調和を乱す地球・人類の存在は、全宇宙にとり、ゆゆしきものであろう。宇宙・コスモスの真理に違反して、宇宙・コスモスを阻害していると言えよう。
 もう少し、詳しく見ると、差異共振エネルギーが本体としてあり、それが現象しているのであるから、現象の本体・真実在は、差異共振エネルギーないし差異共振シナジー・エネルギーである。しかし、今日・現代の地球・人類の意識・生活様態は、差異共振シナジー・エネルギーを否定・排除・排出・隠蔽するものである。すなわち、自然破壊のような外的な破壊以外に、内的な破壊が行われているのである。内的エネルギーの枯渇が、人類に起こっているのである。当然、精神・肉体の病気になるだろうし、また、創造も枯渇するのであるし、戦争が、常態となるだろう。つまり、人類壊死である。古木に栄養が行き渡らなくなるような事態になっているのである。栄養源に対して自閉しているのである。そう、地球人類衰退・滅亡の過程になっていると言えるのである。そして、差異共振シナジー・エネルギーを新たに導入するポスト人類・超人類が、出現しつつあると思えるのである。
 そして、経済的には、ポスト資本主義として、差異共振シナジー経済が生まれるだろう。差異共振シナジー宇宙・コスモスに接続するスーパー・エポックとなったと言えよう。人類史の終焉・終末である。
新アポカリプスである。新コスモスの超時代である。スピノザ/カント/ヘルダーリン/フッサール/D. H. ロレンスの時代である。ポスト・キリスト教/大乗仏教&コスモス・ルネサンスである。差異共振シナジー・コスモスのエネルギーが参入する超時代である。大宇宙・超宇宙ルネサンスである。差異共振シナジー宇宙が、今や、顕現するのである。
超宇宙神の時代である。
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2006年07月23日

思考実験:虚軸と空間次元の問題:イデア軸ーメディア軸ー現象軸ー物質軸四次元空間・時空間の成立

作業仮説として、軸上に、無数の不連続的差異(=イデア:以下、差異)があり、それらが、1/4回転を行なうことで、私たちが見る現象界を発現させているとしよう。そこで、前提として、ガウス平面=複素平面(X軸・実軸とY軸・虚軸の直交する平面)をイデア界とする。
 X軸は、差異(=原イデア)が境界を隔てて、共立している。そして、1/4回転して、Y軸・虚軸に移行すると、X軸から見ると、差異は、ゼロ度上に存するのであり、これが、零度差異共振シナジーを発生されると考える。そして、このときに、原エネルギーが発生して、垂直に捩れると考える。即ち、XY平面に直交するZ軸を考える。Z軸も虚軸である。思うに、1/4回転した差異は、どこに存するのかと考えると、それは、原点をO(オー)とすると、例えば、差異1(x1、0,0)は、零度差異1(0,y1、z1)の位置にあるのではないだろうか。(差異1をD1,零度差異1をφD1と表記する。)零度差異1は、Y軸・虚軸とZ軸・虚軸の成分、即ち、y1とz1をそれぞれもっている。零度差異1は、一方では、Y軸の視点、他方では、Z軸の視点をもつと言えよう。
 ここで、重要な作業仮説を述べると、軸視点が、重層化されるというものである。つまり、例えば、零度差異1は、X軸、Y軸、Z軸の三つの軸視点を重層化した三重視点をもつということになる。ここで、X軸を不連続軸(又は、イデア軸、原軸)、Y軸を共振軸(又は、メディア軸、シナジー軸)、Z軸を連続軸(又は、連続・同一性軸、現象軸)と、そして、Y軸とZ軸の平面をメディア平面ないし差異共振シナジー平面と呼ぶことにする。
 零度差異1(φD1)は、メディア平面、差異共振シナジー平面に存すると言える。そして、Y軸視点からは、零度差異1は、連続・同一性的差異に見えるはずである。即ち、現象として見えるはずである。これが、自我ならば、現象の個体として見えるはずであるし、零度差異2を見るならば、例えば、コーヒーカップの現象、山の現象が見えるはずである。しかし、これは、Z軸・虚軸の視点現象である。
 しかし、零度差異は、メディア平面、差異共振シナジー平面に存するので、単なる現象以上のものとして、知覚されうるのである。例えば、私が、先に述べたが山と私との共振コスモス現象であるが、それは、Y軸・虚軸から見た零度差異であると言えるだろう。あるいは、Y軸・虚軸を含めたZ軸・虚軸の視点から見た場合である。つまり、メディア平面・差異共振シナジー平面上にある零度差異を観照しているということである。
 問題は、次元である。ここでも作業仮説であるが、軸・視点を次元とカウントするということである。すると、零度差異は、三次元空間ないし三次元時空間になるだろう。(時間の問題であるが、それは、今は、時間と空間は一如であると考えることにする。)
 しかし、Y軸・虚軸・共振軸は、X軸・実軸・不連続軸やZ軸・虚軸・連続軸(現象軸)に比べて、不可視になりやすいと考えられるので、この現象は、二次元空間(時空間)になりやすいのではないだろうか。つまり、共振コスモス空間(時空間)が、見えにくくなると考えられるのである。なぜならば、X軸は実軸であるから、実体が明快だと思われるし、また、Z軸は、現象軸なので、幻像が明確に生起しているに対して、Y軸・虚軸では、不連続性と連続性とが、即非様相で、揺らいでいて、中間的過程で、明確な形象をとっていないと考えられるからである。
 以上で、三次元空間(時空間)を説明できたが、では、四次元空間(時空間)はどうやって説明できるだろうか。これは、これまで、述べてきた、言語観念化による連続・同一性中心主義を考慮することで、説明できるように思える。この連続・同一性中心主義の軸・F軸(THE FOURTH AXIS)を作業仮説しよう。これを二項対立軸、主客分離軸、近代主義軸、物質軸と呼ぶことができるだろう。簡単に物質軸と呼ぶとわかりやすいだろう。F軸・物質軸において、現象は、物質化されると言える。だから、この軸の次元を入れると、四次元空間(時空間)が成立することになる。但し、上述したように、Y軸・虚軸・共振軸が不可視になりやすいので、この空間は、三次元空間(時空間)に見えやすいと言える。とりわけ、物質軸が成立すると、それのもつ同一性中心主義は、差異共振シナジー領域を否定・排除する傾向があるので、なおさら、三次元空間(時空間)に見えると言えるだろう。
 これで、本稿の論考を終えたこととする。
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2006年07月16日

光の利己的欲望:差異共振という玄光を否定・排除した連続・同一性中心主義という光悪魔

今は簡単に触れるが、どうして、連続・同一性主義自我は、他者を否定して、自尊感情を高める快感をもつのか。問題は、この自尊快感の発生の原因である。これは、攻撃的快感でもある。感情が、観念と癒着・融合している状態である。自己陶酔ではあるのだが。
 先に、連続・同一性が、言語と結びつき、差異共振の闇を排除するという一神教/父権制/近代自我の構造を提示した。これを光の欲望を呼んだ。これは、視覚的同一性中心主義自我意識と、無意識となった身体との分離とも言えよう。西欧近代は、前者中心の世界観であり、後者が忌避・排除されたのである。現代日本は、この究極的な帰結のようなところがあるのである。欧米は、前者的ではあるが、後者を何らかの形で保持しているように思えるのである。とまれ、この2項対立構造については、既述済みであるが、再度検討して、確認を新たにしよう。
 もともとは、差異共振と連続・同一性は、メディア界においては、いわば、メダルの両面である。だから、2項対立していはいないのである。闇と光の両面である。しかし、光が言語と結びついて、とりわけ、文字言語・表音言語と結びついて、2項対立が発生すると考えられるのである。その理由は、言語と結びついた連続・同一性は、差異共振性から切断されるからと考えられる。即ち、言語と結びついたときに、それは、いわば、モナド化されると思うのである。例えば、現象視覚において、山を知覚していたとき、山という連続・同一性は、他者と差異共振するコスモス・自然・宇宙の一部であったと考えられるのである。(これは、多くの詩人が表現することである。)これは、母権文化の知覚であると考えられる。陰陽対極性は、この文化哲学であると考えられよう。
 しかしながら、象形・表意文字の「山」、表音文字の「やま」が使用されると、それは、差異共振のコスモスから切断されるのである。「山」は、まだ、現象視覚性が残存しているので、差異共振コスモスとの結びつきが比較的残りやすいと言えようが、「やま」ないしyamaになると、結びつきから離れて、独立する傾向をもつと言えるだろう。つまり、連続・同一性が差異共振性から分離・切断されて、抽象文字的連続・同一性となったと言えよう。この分離・切断の意味するものを考察しないといけない。ここには、差異共振性に対する否定があり、連続・同一性の独立化、言わば、独立自我化が生起しているといえるだろう。そう、原コギトの成立と言えるかもしれない。この差異共振性の否定と独立自我化が、連続・同一性を連続・同一性中心主義へと相転移するものと言えよう。これが、原一神教・原父権制・原近代自我の発生であろう。(現代文明とは、この抽象文字人類革命の帰結であると言えよう。差異共振性というコスモス・自然宇宙から切り離されて、グローバル資本主義・科学技術文明を、性懲りもなく、自殺自滅的に、「発展」し続けているのである。これは、もはや、発展ではなくて、滅亡過程と言うべきであろう。終局相であろう。)
 とまれ、これで、本稿の問題を解いたこととしよう。私が既述したように、連続・同一性中心主義とは、連続・同一性と言語、とりわけて、表音文字との結合によって生まれたのである。それは、自我・悪魔性の誕生である。光である悪魔であり、ここで、真の光である差異共振性が闇=悪魔にされたのである。価値転倒・倒錯が発生したのである。これは、キリスト教に完全に顕在したものである。光が闇とされ、闇が光とされたのである。キリスト教の光は、反復するが、悪魔の光であり、闇である。かつて、10代の学生の頃、私は、「光は暗く、闇は明るい」と言ったのである。
 現代日本の闇は、正に、この連続・同一性中心主義という光の闇である。これは、光悪魔である。たいへん、危険なものである。しかしながら、不連続的差異論/プラトン的シナジー理論によって、この光悪魔の闇が暴れて、真の光への方向が啓かれたといえよう。初めに玄光あり、そして、それは、光であった。
posted by ソフィオロジスト at 23:40| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月15日

オカルティズム批判:オカルティズムは、連続・同一性=ファシズム・全体主義思想の一つである

オカルティズム批判:オカルティズムは、連続・同一性=ファシズム・全体主義思想の一つである

ルドルフ・シュタイナーは、シュタイナー学校の創始者として有名であるが、しかし、プラトン・シナジー新論から見ると、たいへん、危険である。それは、新興宗教と同じである。霊感商法的になるだろう。なぜなら、霊主体従だからである。精神ではなくて、霊を主体にしているからである。精神とは、心身・魂の知性のことである。霊は、精神を連続・同一性の観念から見たものである。つまり、唯物論と同型である。換言すると、唯物論と相補性をなすものである。現象を唯物論で見たとき、メディア界が神秘主義的に発現するのである。この神秘主義性に、観念の枠を与えて、霊・スピリットが想定するのである。ここには、精神の弱さがあるのである。唯物論の反動としてのオカルティズムがあるのである。カント以前である。
 もう少し説明すると、近代合理主義によって、心身性が排除されて、潜在意識となる。即ち、近代合理主義/潜在意識という二元論が近代主義において生じるのである。例えば、近代合理主義とロマン主義の対立というような形をとるのである。(近代とは、プロトモダンが本来なのであり、近代主義とは、反動態である。)この潜在意識を、オカルティズムは、霊・スピリットとして現象化するのである。ここがポイントである。潜在意識の現象化である。即ち、潜在意識に、現象界の視点である連続・同一性の枠・構造を与えるのである。ここには、倒錯があるのである。連続・同一性の形式とは物質形式・唯物論形式である。これを、潜在意識(心身意識)に当てはめるのは、当然、カテゴリー・エラーであるし、虚偽、本当の狂気である。これは、近代合理主義信仰の倒錯である。近代合理主義を、潜在意識にまで、適用するという、ハイパー近代合理主義なのである。これが、正に、ルドルフ・シュタイナーの霊学・人智学である。また、半田広宣氏のヌース理論も、同様である。ハイパー近代合理主義信仰・崇拝である。(こう考えると、ヌース理論が、量子力学等を偏重する理由が了解できるだろう。)即ち、近代合理主義・唯物論化された潜在意識・心身意識が霊・スピリットなのである。これは、似非実在である。妄念・妄想・邪念・狂気である。だから、当然、邪悪なのであるから、社会に対する害悪である。哲学的には、差異が、連続・同一性化されているのであり、ファシズム・全体主義的である。(近代合理主義もファシズム・全体主義的であるが、西洋の場合、基礎に個・差異があるので、ファシズム・全体主義への根強い批判がありうる。)
 とまれ、ポスト・オカルティズム、ポスト・霊学ということで、差異、それも、純粋差異、不連続的差異、特異性差異、単独的差異、絶対的差異を取り戻さないといけない。これは、実に、イデアの純粋世界・真世界なのである。イデアと霊・スピリットとはまったく似て非なるものである。霊・スピリットとは、唯物論的神秘主義(参照:中沢新一の霊的唯物論)であり、イデアの唯物論的大曲解・ねじ曲げ・歪曲化である。ロゴスに対する、いわば、大犯罪である。極悪である。極刑に値するのである。
 イデアを正視しないといけない。イデアのロゴスを取りださないといけない。イデア・ロゴス・ソフィアである。イデア・レゾナンス・シナジー・コスモスが、原現象である。プラトンで言えば、コーラである。コーラ・コスモスである。
 とまれ、イデア・シナジーが心身・潜在意識を形成しているのである。そして、いわゆる、意識とは、作業仮説として、イデア・シナジーの意識ではないだろうか。そして、身体とは、イデア・シナジーの身体ではないだろうか。フッサール理論を用いると、ノエシス/ノエマというイデアのシナジーが、心身である。つまり、ノエイス/ノエマの共振多層重層シナジーが、心身ではないだろうか。そして、ここから、ノエシスが特化して、意識・思惟・知性・認識・知覚となり、また、ノエマが特化して身体・延長・存在となっているのではないだろうか。本来、イデア・シナジーにおいては、ノエシス/ノエマ=心身=潜在意識である。しかし、これが、現象界においては、二元論的に分離するように発現するのである。ここでは、視覚的知性が、二元論分離仮象の契機である。光が契機である。しかしながら、光は微妙な現象である。光は、イデア・シナジーそのものであると言えるのであるからである。原光・純光である。この原光・純光が、光現象となっているのである。そして、二元論分離を発現するのである。光現象・二元論分離現象とは、連続・同一性的仮象であり、原光・純光の仮象としての光が現象していると言えるだろう。つまり、光とは、太陽光とは、仮象スクリーン・マーヤーである。その真実在は、原光・純光なのである。つまり、「阿弥陀如来」である原光・純光を光と見ていることになる。(因みに、光子とは、原光・純光を仮象物質スクリーンを介して仮想したものである。)
 問題は、いわゆる近代自我と光との関係である。あるいは、原光と光との関係である。この問題に関しては、まだ結論が出ていない。即ち、単純に、流出的に、原光から光が仮現するのか、それとも、否定・排除的(内的抑圧隠蔽的)に、原光から光が発現するのか。(この問題は後で、再検討したい。)
 本論に戻ると、ノエシスとノエマが二元論的に分離して、心身二元論、思惟と延長の二元論が発生するのであある。しかし、イデア・シナジー界においては、ノエシス即ノエマであろう。即非でもないだろう。思惟即延長である。知即存在である。即非は、差異と差異との関係で発生するものである。
 結局、知性となったノエシスと身体となったノエマとを再統一する必要があるのである。それは、知性の身体化であり、身体の知性化である。しかしながら、ポイントは、知性であろう。なぜならば、基本的には、ノエシス/ノエマとは、知的存在であり、知主存在従であるからである。知が先行していて、結果、存在が帰結するのであるから。ノエシス→ノエマ、知→存在なのである。だから、知性の身体化/身体の知性化において、主体は、知性に置くべきなのである。これによって、イデア・シナジー=心身性を意識化できるようになるのである。超知性化と言ってもいいだろう。そう、超越内在(超内)論的知性形成である。これが、イデア・シナジー知性である。あるいは、イデア知性である。あるいは、プロトモダン知性である。プロトモダン合理主義である。これは、身体ともにある知性であり、知性とともにある身体である。そして、超知性がそれを包摂するのである。
 ここで、自我を考えると、それは何か。近代合理主義においては、近代自我=連続・同一性自我によって所有された身体があるが、この近代自我を不連続的差異化することで、イデア・シナジー的特異性意識になるのでないだろうか。思うに、自我は、知存在になるのである。知身体と言ってもいいだろう。自我が知身体へと変容するのである。
 さて、最後に、途中で置いておいた問題、原光と光の変換力学について考察しよう。これは、カントの超越論的形式に関わる問題である。あるいは、アインシュタインの相対性理論に関わる問題である。数学の問題でもある。近代合理主義は、現象を、連続・同一性の数量に変換したのである。そして、近代科学・技術・資本主義が発達するのである。この連続・同一性がカントの超越論的形式に相当しよう。これは、差異=微分→積分と等価である。
 ここでも、直観に基づいて述べよう。連続・同一性=数量が物質の単位である。つまり、現象対象に対して、近代合理主義・近代自我は、連続・同一性=数量を適用して、現象世界を「合理」化するのである。そして、この近代科学の合理主義に対して、フッサールは、危機を覚えて、現象学を創造するのである。
 問題は、現象世界である。近代合理主義自我は、現象世界を、連続・同一性=数量形式の体系・システムと見る。それは、また、連続・同一性=数量=近代自我の世界である。ここでは、特異性は消されている。(そう、ここは、近代合理主義というファシズム=全体主義の世界である。小泉政権がこれである。)特異性・不連続的差異・絶対的差異・単独的差異の抹消された、同質性・画一性・一般形式の世界である。ここには、明らかに、反動暴力があるのである。特異性を抹消・隠滅している暴力があるのである。(ここで、私は、ジョージ・オーウェルの『1984年』の情報隠滅・捏造作業等を想起している。)
 即ち、連続・同一性には、特異性に対する暴力が如実に存在しているのである。では、現象世界について考察しよう。現象世界の連続・同一性数量・数式を適用するのが、近代合理主義・近代自我・近代科学技術・近代資本主義である。そして、現象世界を連続・同一性のシステムに変換するのである。これが、近代的世界観である。ということは、現象世界自体は、連続・同一性ではないということになるだろう。連続・同一性の構造を現象世界は、いわば、人間から付与されたのである。この主観的形式が、カントの超越論的形式だと考えられるのである。そして、これは、言語形式と深く結びついているだろう。なぜなら、言語形式は、現象を連続・同一性である一般観念形式へと記号化されたものだからである。貨幣も同様である。
 ここで、明確に言えば、現象世界とは、本来、特異性の世界なのである。(私自身は、常に、現象個体は特異性であると考えているのである。)そして、フッサールの説く生活世界とは、この特異性の現象世界のことであろう。つまり、イデア・シナジーの世界である。ということは、現象界は本来、イデア・シナジーの世界であるが、それを近代自我は、連続・同一性システムの世界に変換しているのである。ということは、差異共振界の直截的発露、流出としての現象界が本来あるということである。共振の終点としての現象である。
 しかし、それに対して、連続・同一性的「現象界」があるのである。それは、近代自我の「現象界」である。一体、この連続・同一性はどこから発したのだろうか。イデア・シナジー、差異共振の流出としての現象は、連続・同一性をもたない。そう、連続性はあるが、それは、特異性の連続性である。差異共振の連続性である。
 結局、同一性はどこから生まれたのだろうか。それは、形相から生まれと思われる。形相自体は、不連続的差異論でいうメディア界の現象面にある連続様態、即ち、超越論的原型から生まれたと考えられるのである。即ち、超越論的形式から現象的形式としての形相=同一性が生まれたと言えよう。そして、近代主義とは、この同一性の数量化を意味するのである。つまり、連続・同一性とは、既に、アリストテレス哲学に存在していたのである。だから、近代合理主義が生まれるには、これを数量化する必要があったのである。つまり、アリストテレス哲学と数学の結合、これが、近代主義を生んだと言えよう。そして、これが、物理学を初め、近代自然科学として展開するのである。また、同時に、実験を提示しなくては不十分である。実験が、連続・同一性の物質主義を確証していったと言えるのであるから。
 とまれ、形相と数量と実験の結合、これが、連続・同一性の数量=物質を生んだのである。
 さて、ここで、形相について言及すると、それは、超越論的形式から現象化したものである。根源は、超越論界、不連続的差異論のメディア界に存する。しかし、これは、メディア界の連続面・現象面にある。だから、ここにおいては、それは、イデア面と分離していないのである。即ち、イデア・シナジー性をもつ原型である。そして、これが、このまま、現象化して、特異性の現象となるのである。
 では、超越論的原型がどうして連続・同一性の形相へと変換されるのか。ここに、もっとも重大な転換の一つがあると言えよう。形式の、超越論界から現象界への転換である。超越論界(=イデア・シナジー界=メディア界)には、差異共振性がある。そして、超越論界の形式を形相化するには、この差異共振性を否定・排除する必要があるのである。ここが、一番のポイントである。思うに、問題は、連続・同一性ではないのかもしれない。問題は、連続・同一性中心主義だと考えられるよう。例えば、私の使用するコーヒーカップは、特異性でありつつも、コーヒーカップという連続・同一性である。ここでは、特異性と連続・同一性が矛盾せずに、併存しているのである。特異性→連続・同一性である。
 しかるに、連続・同一性中心主義になると、特異性を排除するのである。これは、いったい、どういう事態なのだろうか。何故、特異性・不連続的差異性を否定・排除するのか。
 思うに、作業仮説であるが、光と関係する。差異共振シナジーにおいて原光が生まれる。そして、それが、連続化するときに、原型が生まれる。これは、ほぼ現象界の光をもつ連続・同一性である。つまり、このときに、視覚が生まれているのである。視覚と連続・同一性との相互関係があるのである。しかし、差異共振シナジー界=メディア界においては、闇と光が不可分一体である。つまり、原光=闇と光とが一如である。しかし、視覚/連続・同一性が言語習得と結びつくと、視覚/連続・同一性/言語=光は、闇と分離する傾向をもつだろう。つまり、光の欲望が発生して、それが、闇を排斥するようになるのだろう。これが、連続・同一性中心主義の発生、一神教の発生、父権主義の発生であろう。差異共振シナジーの闇は忌み嫌われて、否定・排除されるのである。これが、西欧近代自我合理主義である。換言すると、原光→ 光が、「断絃」されて、原光と光が分離されるのである。闇と光の分離である。ゾロアスター教の発生である。そして、ここから、ユダヤ教、キリスト教と続くのである。イスラム教は、差異共振性への揺り戻しを含むと思うが、基盤は、やはり、分離である。
 結局、不連続的差異論/プラトン・シナジー理論は、この闇と光の分離を、イデア・レゾナンス・シナジー・フィールドの発見によって、解消して、新たに、結合・融合・一体化したと言えよう。新東洋哲学である。ル・ルネサンス=プロトモダンの新生である。そう、ここでは、闇と光が一体となっている。闇から光が生まれのである。原光=闇から光が生まれるのである。そして、闇は光であり、光は闇である。これは、私の直観にぴったりである。キリスト教の闇を照らす光という二元論とはまったく別である。キリスト教の光とは、闇から分離した光であり、連続・同一性中心主義の光、悪魔の光なのである。
 初めに闇ありき、そして、光が生まれた。また、闇の前に原闇があった。それは、無である。 
posted by ソフィオロジスト at 19:57| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月09日

思考実験:イデア界の座標・幾何学、あるいは、虚軸と実軸の問題:イデア界・ガウス平面の太極力学論

虚軸Y軸を、時間軸・シナジー軸・メディア軸としよう。そして、これが、前後の軸である。これは、遠近法の軸でもある。思うに、1/4回転で、Y軸へ経てZ軸が出現するとしよう。即ち、X軸とZ軸の関係がここに生じる。これは、プラスZ軸である。
 そう、ここで、イデアの極性を考えた方がいい。プラスX軸とマイナスX軸である。プラスX軸は、プラスY軸→プラスZ軸、マイナスX軸は、マイナスY軸 →マイナスZ軸ではないのか。つまり、プラス軸の1/4回転は、プラス軸へと捩れ、マイナス軸の1/4回転は、マイナス軸へと捩れるのではないだろうか。それとも、プラス軸へ捩れるのだろうか。思うに、これは、プラスX軸の1/4回転においても、問題である。結局、プラスとマイナスの両方の捩れが生じるとしよう。即ち、±Z軸への捩れである。
 問題は、Z軸の意味である。これを高さ/深さの軸としよう。そして、X軸を左右の軸としよう。これは、ヌース理論と類似する。しかし、半田氏は、近代は、垂直に降下すると述べていた。しかし、近代は、ないし、プロト近代は、高さ/深さではなくて、前後・奥行きの方向に関係すると考えられるのである。そして、思うに、20世紀初期の「四次元」指向は、半田氏が述べていたようにアインシュタインの相対性理論の時空四次元で落ち着いてしまったのだろう。つまり、Y軸・虚軸の次元の探究が止まってしまったと言えるだろう。問題は、虚軸、虚次元の問題が消失してしまったことである。現代のあらゆる領域における閉塞は、ここに根因があるだろう。虚次元の喪失である。あるいは、イデア次元(正しくは、差異共振次元)の喪失である。
 ここで、直観で考察しよう。差異共振シナジー界(略して、シナジー界)は、Y軸の方向にあるはずであるが、それが、前後軸・奥行き軸となっている。音で言えば、ステレオ・立体音響となっているのだろう。しかし、これが、もはや、共振していず、連続・同一性化しているのである。実軸化しているのである。これは、光=視覚のもっている連続・同一性化によるのではないだろうか。どうやったら、虚次元・シナジー次元を取り戻すことが出来るのか。あるいは、イマジネーション・ヴィジョン次元を取り戻せるのか。それは、一つは、視覚の身体化ないし身心化によってであろう。あるいは、視覚の触覚化と言ってもいいだろう。視覚のコスモス化とも言えよう。(そう、宮崎駿の「絵」には、視覚的コスモス性があると思う。)視覚の差異化でもある。知性・意識の身体化でもある。これは、幾何学的には何を意味するのだろうか。これは、マイナス軸を肯定することのように思える。即ち、プラスX、Y、Z軸に対して、マイナスX、Y、Z軸を肯定すること。右に対して左、前に対して後、上に対して下の方向である。即ち、太極・対極性の力学である。思うに、プラス方向が光の方向ならば、マイナス方向は闇の方向ではないのか。ここで、KAISETSU氏の光の陰陽極性論を想起する。わかりやすいのが、上下方向である。上は天の方向であり、下は地の方向である。それぞれ、精神と身体の方向と言えよう。しかし、近代主義は、プラス方向(陽方向)の展開・発展であり、それで、閉塞したと言えよう。そう、プラス・エネルギーの展開であったと言えるだろう。それに対して、マイナス・エネルギーの展開が抑圧されたのである。プラス・エネルギーが連続・同一性の方向ならば、マイナス・エネルギーは、差異の方向ではないのか。おそらく、そうだろう。プラス方向は連続・同一性の方向で、マイナス方向が差異の方向ではないのか。思うに、イデア界=ガウス平面の太極(対極・双極)性があるのである。それは、連続・同一性と差異性との極性である。あるいは、光と闇の極性である。あるいは、知と存在との極性である。思惟と延長との極性である。父権と母権との極性である。オシリスとイシスとの極性である。太陽と月との極性である。いちおう、そう仮定しよう。東洋はこの極性の文化・社会を伝統的にはもっていたのに対して、西洋・西欧は、プラス・エネルギー、プラス方向、プラス極性中心の文化・文明であったと言えよう。なぜ、そうなったのか。なぜ、光中心となり、闇が排除されたのか。思うに、イデア界=ガウス平面自体の極性力学があるのだろう。イデア界自体の揺らぎ・揺動があるのではないのか。即ち、プラスへと傾いたり、マイナスへと傾いたりするのではないだろうか。そうならば、西洋文明とは、プラス極へと傾いた極相と言えるだろう。しかし、イデア界の極性力学は当然、揺り戻しがあるのだから、マイナス極へと戻るはずである。これが、ポスト西洋文明の力動であろう。つまり、差異化が発動するのである。プラスへと傾いたイデア界が、マイナスへと回帰するのである。思うに、これは、3/4回転ではないだろうか。最初の1/4回転で、プラス・エネルギーが発動した。そして、2/4回転で、それが、閉塞するのではないのか。そして、新たな1/4回転即ち3/4回転がマイナスX軸から生じる。左方である。これが、マイナスY軸へと移動するのである。これが、後方である。そう、これは、マイナスZ軸を形成するのではないだろうか。つまり、下方である。
 そう、即ち、西洋文明の場合、プラスX軸へとイデア界の虚力が作動し、プラス展開を行なう。そして、徹底的に、光=同一性化がなされる。しかし、プラス極へと達したイデア界の虚力は、今度は、マイナス極へと向かう。原点へと向かう。これが、3/4回転を発生させるのではないのか。そして、思うに、プロトモダンとは、この意味ではなかったのか。つまり、マイナス化がプロトモダンの力動ではなかったのか。しかるに、プラスとマイナスの二元論的分離になってしまったのではないのか。もともと、西洋文明のもっているプラス化に対して、プロトモダンは、マイナス化を意味したが、西洋文明のプラス化の強固さによって、マイナス化が中途半端で終わったのではないのか。それが、近代主客二元論ではないのか。あるいは、唯物論的合理主義ではないのか。心身の二元論化ではないのか。そう、プロトモダンは、マイナス方向へ向かったのであろうが、プラス反動(プロテスタンティズム)で、中和してしまったのではないのか。西洋文明のもっているプラス力で、マイナス力が抑圧されてしまったのではないのか。結局、思うに、西欧近代主義とは、プラス化(産業化・近代合理主義化とマイナス化(ロマン主義、ニーチェ哲学、現象学、モダン・アート等)を平行的に生んだと言えよう。そして、今日、前者がグローバリゼーションで支配的なのである。マイナス化をさらに作動させなくてはならないのに、プラス化が主導的なのである。(現代日本は、とりわけてそうだろう。)不連続的差異論は、このような状況で、誕生した。それは、プラス化の連続・同一性化を切断して、差異共振シナジー性を回復したのである。つまり、純粋な、絶対的なマイナス性を取り戻したといえよう。即ち、プロトモダンの回帰である。マイナス化の復活である。これは、思うに、3/4回転である。3/4回転を実現したのである。1/4回転のプラス化の反動性を乗り越えて、マイナス化を実現したのである。これは、結局、プラスとマイナスの極性バランスの実現であろう。そう、太極図が新たに実現したのである。太極の結晶が回帰したのである。太極が永遠回帰したのである。これは、新東洋文明と言えるだろう。というか、新東アジア文化の創造と言えるだろう。
 ということで、不連続的差異論/新プラトニック・シナジー理論は、イデア界の太極性を復活回帰させたと言えよう。プロトモダンの完成でもある。ここで、占星術のことを言うならば、やはり、宝瓶宮(水瓶座)のエポックなのだろう。キリスト教的西洋文明が白羊宮から双魚宮への移行・相転移であるとすれば、プロトモダン・新東アジア文明は、双魚宮から宝瓶宮への移行・相転移であるだろう。そう、ルドルフ・シュタイナーの占星術は間違っているのだ。やはり、キリスト教に囚われているのだ。伝統的な占星術が説くように、春分点は、宝瓶宮へと移動しているのだ。しかし、思うに、この占星術宇宙とは、イデア界的コスモスと見るべきだと思う。外宇宙の事象ではありえない。内宇宙の事象である。内在的宇宙の事象である。イデア論的占星術については、後で検討したい。
 とまれ、簡単にまとめると、イデア界・ガウス平面の太極的極性力学があるという仮説をここで提示したのである。

p.s. 一点確認しておくと、イデア界・複素平面の実軸X軸において、+X軸の方向に、イデア界の「虚力」、即ち、プラスの虚力が作用したときに、1/4回転が発生するのであり、そのプラスの虚力がプラス極に達した後は、《力》は、反転して、原点の方向、マイナス極の方向へと移動する。即ち、マイナスの虚力になる。思うに、原点(0,0)へと向かうことは、2/4回転ではないだろうか。そして、《力》が原点に達してから、マイナスX軸、マイナスX極へと移動するときが、3/4回転と考えられるのである。そして、それが、マイナス極に達した後、再度、原点(0,0)へと逆反転する。これが、4/4回転と考えられる。この原イデアの《力》の極性力学=円運動(プラトンの説)が、螺旋を形成すると考えられる。螺旋は、プラスの原イデアとマイナスの原イデアの双極性があり、プラス・マイナスの二重螺旋になると考えられよう。これが、女媧と伏儀の二重螺旋であり、また、DNAのそれを、また、外宇宙の渦巻星雲を現象させるのだろう。また、思うに、易経の八卦の2^3×2^3は、イデア面、メディア面、現象面の三重性の陰陽性を意味しているのではないか。また、太陽系であるが、これは、螺旋形状の横断面ではないのか。太陽系は螺旋形を描いてるのではないのか。
 後で、五芒星(ペンタグラム)と陰陽五行について検討したい。ここで、簡単に予見を言えば、これは、空海の言った「五大(地水火風空)の響きあり」の、五大に重なるだろう。つまり、十字の頂点数プラス中心数、即ち、4+1=5ではないだろうか。十字架に全体の一が入って、正五角形になったのではないのか。
posted by ソフィオロジスト at 12:04| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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