2006年04月18日

差異の共立とは何か:東西文明統一とパラモダン・コスモス超文明/新ヘレニズムの誕生

次のODAウォッチャーズ氏の論考は、とても意味深長であるので、この問題に関して検討したい。

「人間の存在認識の多様性と(不連続的差異論上の)メデイア界について」『海舌』http://blog.kaisetsu.org/?eid=363490

結局、Aという命題と非Aという命題が、同時成立する事象をどう見るのかということである。イデア界においては、不連続な差異が共立しているので、まったく問題はない。問題は、メディア界においてである。即ち、心身=メディア界を問題とするとき、差異の相互の関係はどうなるのかということである。差異の共立が成立するならば、どういうものであろうか。
 以下では、西洋文化における視覚優位性が問題となっていたのであるが、それに対して、ODA ウォッチャーズ氏は、メディア界における諸感覚の共立について、述べていたのである。一種共感覚に通じる考察である。とまれ、各差異でありつつ、同時に、各差異ではないという矛盾同一が指摘されているのである。この共立事象は、メディア界を考えると、とりわけ、イデア/メディア境界を考えると、わかりやすいのである。不連続性と連続性が共立しているのである。狭義的には、イデア/メディア境界の事象であるが、広義においては、メディア界の事象と言って間違いないのである。なぜなら、メディア界とは、上端にイデア/現象境界ともち、下端にメディア/現象境界をもっているからである。
 では、なぜ、西洋文化は、視覚優位なのかと、単純に考えると、これは、やはり、西洋文化の根本的二元論によるのではないだろうか。霊肉二元論でもいいし、善悪二元論でもいいし、主客二元論でもいい、心身二元論でもいい。これは、これまでの私の検討から見ると、同一性構造によるのである。つまり、西洋文化・文明において、同一性構造が、他の文化・文明よりも徹底的に作用して、二元論化したと思えるのである。同一性構造とは、差異を徹底して否定して、無化して、同一性で感覚・知覚・認識を満たす構造のことである。これは、弁証法構造とも言える。図式化すると、差異1・同一性・差異2・同一性・差異3・・・・・差異nであり、差異1=差異2=差異3・・・・=差異nとなるのである。これは、自我同一性構造とも呼べるだろう。丁寧に言えば、自我同一性弁証法構造(自同律)と言えるだろう。これは、ユダヤ・キリスト教的構造である。(私見では、古代ギリシアは、基本的には、差異に関わっていた。もっとも、パルメニデスのように不動の一者に関わっていた哲学者もいた。)この自我同一性とは、メディア/現象境界に必然的に発生するものである。1/4回転によって、差異の境界がゼロ化し、さらに、垂直に捩れて、ゼロ度が、ゼロ化されて、無となる。つまり、差異が完全に一体化するのである。このゼロのゼロ=無=差異の否定が同一性構造である。これは、確かに悪魔的である。シュタイナーはこれを、アーリマンと呼んだと考えられるのである。これは、暴力である。二項対立暴力である。西洋文明が本質的にもっている暴力である。アメリカ合衆国国家に如実にある暴力である。覇権暴力である。父権暴力である。戦争の原動力である。 
 視覚優位性と同一性構造の関係であるが、差異の否定性=無=同一性構造が、差異を否定するのであるが、このとき、同一性と差異の間に《距離》が生じるのである。この透き間が消去しようとするのが、視覚なのではないだろうか。では、なぜ、視覚であって、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、等々の諸感覚ではないのか。これは、視覚のもっている特殊性を考えるとわかりやすいだろう。視覚は、主体と対象(客体)との距離を発生させて、主客二元論化するのである。つまり、個体の同一性を確固のものとするのである。他の諸感覚では、同一性ではなくて、他の差異との関係が発生して、同一性が形成されないのである。例えば、触覚を考えればいい。自分の両手を合わせてみれば、どちらが、主体か客体がわからなくなるだろう。同一性構造にとって、視覚が重要なのである。
 では、同一性と視覚との直接的結びつきはないのだろうか。思うに、これは、光と関係しているだろう。メディア界は、光子の領域である。そして、これが、現象化するのであるが、メディア界における光とは、差異のある光である。差異的光子である。これが、現象化すると、差異が同一性によって無化されて、いわば、同一性の光となるのではないだろうか。この同一性の光が、主客二元論の視覚を形成するのではないだろうか。つまり、差異の光ではなくて、同一性の光が、西洋文化・文明における視覚優位性を発生させると考えられるのである。
 もし、そのように考えられるならば、少なくとも二種類の光があることになる。アインシュタインの光とはどちらなのか。思うに、同一性の光を観測しているのではないだろうか。これが、光速度一定となるのではないだろうか。差異の光は、量子力学が扱っているのではないだろうか。確かにそうだろう。2つの光。ここで、飛躍的に言うと、イデア界が黒い光ならば、現象界が白い光ならば、メディア界の光、差異の光とはどう形容できるのか。一面は白い光だが、他の一面は黒い光だろう。白と黒が合わさっている光である。両面的光、ヤヌス的光である。(D.H.ロレンスの、太陽は背を向けているという言葉を想起する。)これは実に不思議な光、二重光であろう。陰影のある光。光と思えば闇であり、闇と思えば光である。少し、真夏の太陽を想起する。つまり、光に闇が透けているし、闇から見ると、底に光が輝いているのである。《ここで、シュタイナーが、青空の青は、闇が光の領域に入った時の色で、夕焼けの赤は、光が闇に入る時のいろであるということを言っていた(?)ことを想起する。》
 とまれ、メディア界の光は、対極的であり、グラデーションのある光ではないだろうか。虹色かもしれないし、さらに、微妙かもしれない。もっとも、陰影多彩である。幻想的な感覚性をもつのではないだろうか。また、ここで、電磁波のスペクトルを想起するのである。黒は紫外線を、白は、赤外線を想起する。この事柄は後で検討しよう。
 二重光の問題に戻ると、量子力学の対象とする差異の光とは、二重光であり、黒い光と白い光である。あるいは、陰陽光と呼んでもいいだろう。直観では、これは、無限速度であり、同時に、光速であろう。先に、非局所性について言及したが、これは、黒い光を考えると、正しいのではないだろうか。否、精緻に考察しよう。イデア界に黒い光、現象界に白い光があるならば、メディア界には、二種類ではなくて、三種類の光があるのではないだろうか。即ち、不連続的差異の光(黒い光)、共振的差異の光(陰陽の光)、同一性の光(白い光)の三種類である。そして、量子力学は、この陰陽の光を対象としているだろう。確かに、一面では、同一性の光を帯びるから、光速度一定であろう。しかし、同時に、差異共立的に、超光速度を帯びるだろう。メディア界は不可分時空間である。ここでは、時空間が揺らいでいるのだろう。光が無限速度になったり、通常の光速度になったり、あるいは、その中間速度になったりするのではないだろうか。ベルの定理、非局所性とは、本当は、メディア界のこの事象を指しているのではないだろうか。
 本件のテーマからずいぶん離れてしまったが、ここで、テーマに即すと、西洋文化・文明において視覚優位性があるのは、同一性の光が支配的だからであるということを、ひとまず、述べておく。そうすると、量子力学を含めてポスト・モダン理論やパラ・モダン理論は、明らかに、脱西洋文化・文明、ポスト西洋文化・文明を説くことになる。それは、「東洋文化・文明」的である。しかし、さらに、超東洋文化・文明も説くだろう。これまでのポスト・モダン理論は、イデア界とメディア界を混同していたのであり、そのため、行き詰まってしまったと考えられるのである。しかし、新ポスト・モダン理論=パラ・モダン理論である不連続的差異論の出現によって、混同・混乱が解消されて、ポスト・モダンの問題が明晰・明確になったのである。つまり、これまでの東洋文化・文明も、古ポスト・モダン理論と同様であったと思われるのである。つまり、差異の連続性までは達したが、不連続性までは、明瞭に達していたなかったと考えられるのである。だから、新ポスト・モダン理論=パラ・モダン(トランス・モダン)理論は、単に東洋文化・文明への回帰ではなくて、それを超えた新東洋文化・文明を説くことになるのである。そして、それは、プラトン主義の創造的発展となるのである。ここで、東洋と西洋とが、創造的に、新たに、合体し、統一するのである。東西統一文化・文明の誕生がここに出現したと言えよう。新地球世界宇宙文化・文明、即ち、新コスモス超文明の誕生である。
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2006年04月15日

不連続的差異と素粒子:ポスト量子力学とポスト大乗仏教:新イデア宇宙ポスト文明に向けて

不連続的差異と素粒子:ポスト量子力学とポスト大乗仏教:新イデア宇宙ポスト文明に向けて

不連続的差異・イデアの垂直/水平十字志向性強度とは、ミクロの黒い光たち、ミクロの玄光たちであり、そのデュナミス/エネルゲイアの発動である1/4回転によって、原初的光=素粒子・量子(=メディア)時空間を発生させる。聖書の光あれである。エローヒームによる光の創造である。1/4回転事象において、イデア界のイデアの境界が、ゼロ・空化するのであり、イデア1とイデア2が、言わば、接するのである。この時、ゼロ度共鳴・共振が発生する。これが、素粒子・量子の生成を意味するだろう。即ち、共振するイデア・「ネットワーク」の生成である。(思うに、華厳経宇宙は、このメディア宇宙ではないだろうか。)つまり、ゼロ度となることで、イデア同士が共振して、振動・共振粒子が発生して、それが、波動となるということだろう。即ち、不連続的差異であるイデアが共振して、素粒子・量子となるということだろう。即ち、この共振する不連続的差異=イデアが、粒子即波動ということである。問題は、この粒子即波動の意味である。
 問題は、ベルの定理、非局所性にある。粒子即波動で考えると、無限距離を、超光速で、粒子即波動が移動する事態となる。これは、矛盾である。問題点は、観測の意味にあるのだろう。観測によって、量子の位置が決まったり、速度が決まったりするが、そこでは、ハイゼンベルグの不確定性原理がはたらく。しかし、この事象は、現象界(近代主義的自然科学)からの観測を介入させるから、発生すると考えられるのである。考えれば、量子の存するメディア界においては、粒子即波動であり、不確定なことはなにもない。例えば、ある量子q1があるとしよう。これは、メディア界においては、粒子p1であり、且つ、波動w1である。即ち、量子q1=粒子p1即波動w1である。
 しかるに、これを、現象界(粒子と波動を分離する二元論的近代主義的自然科学)の観点から見ると、量子を、粒子か、波動に分離させてしまうのである。もともと、粒子即波動である量子を、粒子と波動に分離するのは、誤りである。メディア界の次元を、現象界の次元から把捉するのは、誤謬である。例えば、光子である量子を、2つのスリットに通す周知の実験を行なったとき、スリットを通った光子が一個観測される。そして、どちらのスリットを通ったのかということになるのである。これは、愚問である。なぜなら、量子は、粒子即波動であり、波動自体が粒子であるのだから。光子は、両方のスリットを通ったのである。一個の光子が2つのスリットを通ったのである。これを、確率とするのは、誤りである。
 非局所性の問題に返ると、その問題が生じるのは、今述べたことに関わる。即ち、不確定な量子が、例えば、地球からアンドロメダ星雲の距離に存しているが、それが、観測によって、一瞬のうちに収束して、粒子として、確定されるのであり、この距離を量子が超光速で移動したことになるのである。しかし、これは、誤りである。不確定な量子とは、現象界の観測から考えられたものに過ぎず、実際は、確定した量子が存在しているのである。一瞬のうちに、超光速で移動するのではないのである。量子は、メディア界の事象として把捉しなくてはならない。
 イデア界をガウス平面として、X軸・実軸をイデア軸、Y軸・虚軸をメディア軸、それらに直交するZ軸を現象軸と作業仮説すると、メディア界は、Y軸―Z軸平面となるだろう。そして、この平面から、空間/時間4次元の現象界(仮象界)が発現(仮現)するのである。量子力学は、メディア界の量子の確定の事象を、現象界から観測して、不確定の事象として把捉するのである。つまり、現象軸Z軸の同一性構造によって、主客二元論の近代主義的自然科学が発生して、それは、共振イデアである量子を、物質化して、延長の時間・空間次元に置くのである。そのため、非局所性となった量子が、言わば、超光速で、粒子に収束することになるのである。換言すると、非局所性とは、もともと、メディア界の事象である量子・素粒子(素粒子の方が的確であろうから、これから、素粒子とする)を、現象界・時間/空間4次元の視点からの観測から発生すると言えるだろう。現象界の観測から不確定となるに過ぎない。すると、ここで、非局所性の考え方が崩壊するのである。また、量子力学自体も、崩壊するだろう。素粒子を不可分時空間であるメディア界での事象と見る科学が必要となるのである。それは、メディア界的物理学である。イデア論的物理学である。
 ここで、光子について考えてみると、それは、本来、無限速度であろう。なぜなら、イデア界の事象であるし、また、時空間そのものであるからである。問題は、光速の問題である。相対性理論の問題である。直観で言うと、現象軸Z軸の同一性が、主客二元論的時空間=現象界を発現させるのであり、この同一性構造形式が、光速を発生させているのではないのか。つまり、現象軸の同一性構造形式が、素粒子・光子を測定して、光速度を観測しているのだろう。つまり、現象界=同一性構造の枠から素粒子・メディア界を観測すると、光速度一定という事態となるのだろう。つまり、光子は、もともと、無限速度である。というか、不可分時空間事象であるから、無時間・無空間である。だから、光子、素粒子を記述するには、メディア界の科学が必要であり、それは、虚軸であるY軸と現象軸であるZ軸との複素平面となるだろう。ODA ウォッチャーズ氏の『不連続的差異研究』の座標はそのように見ることができるだろう。また、ヌース理論のヌース界もそのように捉えることができるように思えるのである。
 考察をイデア界へと進展させると、そこは、完全なイデアの領域である。もはや、共振によるイデアのネットワークは存していない。ただ、「超越論的主観性」による「間主観性」があるのみである。不連続的差異であるイデア、不連続的イデアの共立空間があるのみである。それは、黒いイデアたちである。ここが、究極の世界・玄界・叡知界である。このイデア界・ガウス平面における不連続な黒いイデアたちの永遠回帰がここにはあるだけである。「至高天」である。双対的生成消滅が反復されるのである。地球や宇宙を生成消滅させるのである。ゲーテの『ファウスト』の「母の国」であり、折口信夫の「常世」であり、ケルト神話の他界である。死者たちの住み処・冥界即ち浄土・天国である。ここでは、最後の審判はありえない。一神教はまがい物である。ただただ、永劫回帰である。絶対的永劫回帰である。ここでは、無数・無限の自我たちが存するのである。無数・無限の「わたし」たちが存するのである。そして、おそらく、「対話」していているのである。ポリフォニー的に対話しているのである。これこそ、コスモスの音楽であろう。モーツァルトの音楽であろう。円空のいう「法の御音」であろう。D.H.ロレンスが、「馬で去った女」で表現したコスモスの妙音であろう。コズミック・ハーモニーである。
 では、これは、メディア界の音ではないのかという疑問が起こるだろう。確かに、メディア界の共振するイデアの音楽があるだろう。しかし、これは、純粋な音楽ではないだろう。つまり、不連続的イデアが、ここでは、その純粋性を喪失して、いわば、協和音となっているからである。ゼロ化によって、共振的連続化が生起して、イデアは、言わば、不純になっているのである。だから、メディア界の音楽とは、濁った音楽であると言えよう。
 ここで、禅の瞑想について言うと、それは、イデア界へと心身を回帰させることだろう。つまり、空(くう)とは、イデア界のことである。しかし、大乗仏教の問題は、メディア界的矛盾同一とイデア界的絶対的差異の共立性とを混同していると考えられる点である。ちょうど、ドゥルーズ哲学の問題点と重なると言えよう。
 結局、ポスト量子力学、ポスト大乗仏教である。つまり、ポスト西洋文明、ポスト東洋文明であり、新イデア・コスモス文光の誕生である。
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2006年04月07日

何回の1/4回転によって現象が生まれるのか:ガウス平面の回転について:西洋文明の消滅期に臨んで

複素平面での1/4回転と不連続的差異論の3層構成との整合性が、私の考えにおける、現時点での、いちばんの難点、難問である。
 先の考察から、問題点は、現象界が発現するのに、1/4回転は何回必要なのかということである。1回?、2回?、3回?・・・。あるいは、観点を変えて、メディア界から現象界が生じるのは、どういう力学によるのか。後者を検討した方が、適切なのかもしれない。
 メディア界は、いわば、多様体の世界である。生成変化の世界である。不連続性と連続性が共存しているとも言える。これは、問題ない。しかし、これが、現象化することは、どういうことなのか。私見では、同一性の構造の力学がはたらいているということである。ならば、メディア界から同一性の発生を解明しないといけない。一番簡単に、図式化して考えよう。

イデア界:差異1⊕差異2(差異1⇔差異2)

メディア界:差異1☯差異2

現象界:差異1=差異2

☯から=への変容の力学をどう見るのかである。
 その前に、ここで説明すると、ドゥルーズ&ガタリの内在平面ないし存立平面とは、メディア界のことだと考えられる。差異が、《離接》している。鈴木大拙の用語では、《即非》である。これは、1回目の1/4回転によってもたらされるだろう。そして、イデア界・複素平面に直交するZ軸を時間軸としよう。これで、単純に、らせん的形状が発生すると言えるだろう。問題は、ゼロ化である。ゼロ化は、Y軸で発生すると考え、X軸でゼロ化が解消すると考えてきた。しかし、問題は《視点》である。最初の1/4回転は、X軸上から見ると、ゼロである。そして、2回目の1/4回転では、Y軸上から見ると、ゼロである。以下同様である。つまり、X軸視点とY軸視点が交互に入れ替わって、ゼロ化が発生して、螺旋形状運動が発生すると言えるだろう。だから、奇数回の1/4回転は、X軸視点、偶数回のそれは、Y軸視点となる。思うに、この2つの視点は、不連続的差異・イデアのもつ垂直/水平志向性によるのではないだろうか。即ち、第1回転では、不連続的差異・イデアの水平的志向性の視点から見ると、ゼロ化・ゼロ度となり、第2回転では、不連続的差異・イデアの垂直的志向性の視点から見ると、ゼロ化・ゼロ度となるのではないのか。不連続的差異・イデアの垂直/水平十字志向性がポイントとなる。 
 この点を精緻に考えてみよう。X軸では垂直志向性と水平志向性があるが、それが、1/4回転して、Y軸上に移動するが、そのとき、X軸上での垂直志向性は、逆に、水平志向性になり、水平志向性が垂直志向性になると言えるだろう。つまり、十字志向性が逆転するのである。X軸では、+の垂直志向性と−の水平志向性がある。これが、1/4回転して、−の垂直志向性と−の水平志向性となるだろう。これが、第1回転である。そして、第2回転の結果、−の垂直志向性と+の水平志向性が生まれる。そして、第3回転では、+の垂直志向性と+の水平志向性がある。そして、第4回転・1回転では、回帰して、+の垂直志向性と −水平志向性がある。図式化しよう。

ゼロ回転:+X軸の垂直/水平志向性:+、−
第1回転:+Y軸の垂直/水平志向性:−、−
第2回転:−X軸の垂直/水平志向性:−、+
第3回転:−Y軸の垂直/水平志向性:+、+
第4回転:+X軸の垂直/水平志向性:+、−   (1回転)

さて、ゼロ化の問題であるが、+X軸において、不連続的差異は水平共立している。しかし、+Y軸においては、不連続的差異の水平共立が解消して、ゼロ化が生起している。しかし、垂直共立は生起しているのである。このことを、+X軸で考えると、垂直共立はゼロ度であり、水平共立は言わば、+である。このことから考えると、これまで、イデア界と呼んだものは、不連続的差異の偶数回転、メディア界は奇数回の回転に関係しそうである。つまり、イデア界とメディア界の交互変換が複素平面にはあることになるだろう。イデア/メディア/イデア/メディア/・・・である。
I/M/I/M/・・・である。しかしながら、これだと、イデア界とメディア界の質的区別がなくなるだろう。イデア界ないしメディア界の変容だけがあるだけとなるだろう。だから、不連続的差異の垂直/水平十字志向性と、不連続的差異の存立性ないし共立性については、区別する必要があるのではないだろうか。後者、存立・共立性は、X軸の事象であると限定すべきなのではないだろうか。そして、Y軸へ回転移動したとき、この存立・共立性が解消して、メディア界的《離接》・《即非》・《絶対矛盾的自己同一》が発生するのではないだろうか。ならば、I/M/I/M/・・・交互変換とは、無(空)と有との交互過程となろう。即ち、無/有/無/有/・・・である。そして、「原軸」の−X軸の不連続的差異・イデアを考慮すると、これは、双対的過程である。双対的生成消滅過程である。
 そうすると、やはり、メディア界的螺旋運動は、言わば、破線的螺旋運動となる。しかし、《差延》が発生するため、連続化のシミュラクルが発現(仮現・仮象)すると言えよう。以上のように作業仮説的に前提を確かにしたので、いよいよ所期の目標である。現象化について検討しよう。
 1/4回転の反復によって、垂直に捩れて、Z軸が生まれる。これを時間軸と作業仮説しよう。問題は、発生するシミュラクル螺旋形状運動が、メディア界なのか現象界なのかということである。直観では、メディア界だと思われる。そうならば、現象界はどこに発現(仮現・仮象)するのか。先にも使用したが、Y軸で形成される《有》的差異をメディア差異と呼ぼう。そして、シミュラクルの螺旋は、当然、メディア差異と考えられるのである。ならば、差異1☯差異2の共振連結多様体である。(推測するに、DNAの二重らせんは、これの現象的発現ではないか。)だから、ここに同一性構造を入れれば、現象化の起因となる。差異1☯差異2の螺旋形状があり、この螺旋に差異1=差異2の同一性構造を入れればいいのだろう。私は、これまで、同一性構造は、1/4回転によって発生すると、長い間考えてきたが、どうなのだろうか。ガウス平面での1/4回転の反復には、私の考えるような同一性構造を発生させる1/4回転はないように思えるのだが。
 思うに、Z軸をどう理解するかである。又は、Z軸の発生の力学をどう見るのかである。これは、垂直の捩れによると考えられる。そう、こういうことではないのか。1/4回転によって、Y軸へ不連続的差異が回転移動するが、同時に、Y軸からZ軸への1/4回転が生起するのではないのか。つまり、一つの1/4回転は、ガウス平面に直交するZ軸の生起を意味するということではないのか。即ち、一つの1/4回転とは、二重の1/4回転、立体的1/4回転であると言えるのではないだろうか。これを作業仮説としよう。そして、このZ軸が、同一性構造の軸となるだろう。Y軸において、不連続的差異の共立とメディア化の「矛盾同一」があった。ならば、Z軸においては、メディア化と同一化の「矛盾同一」が存するだろう。なぜなら、Z軸では、(0,0,z)が発生して、イデア界も、メディア界もゼロ化となるからである。このメディア差異のゼロ化が同一性化である。即ち、差異1=差異2の「=」である。
 従来は、Z軸からさらに垂直の捩れを考えて、P軸を考えたのである。これで、4次元になるのである。しかし、この捩れは発生しないように推測されるのである。だから、Z軸の視点の問題となるだろう。Z軸視点から、メディア差異の螺旋形状を見ると、それは、(0,0,z)あるいは、(0,0,t)である。イデア界は完全に消失している。そして、メディア差異の共振極性であるが、それは、同一性と「矛盾同一」していると言えよう。そして、この「矛盾同一」であるが、ここで、否定性が発動していると考えられるのである。なぜなら、ここでは、Y軸上の「矛盾同一」とは異なり、メディア差異の「ゼロ」・「空」(くう)が、無化されるからである。「ゼロ」とは、有と無との中間態であるが、「ゼロ」の「ゼロ」化によって、無化が発生すると考えられるのである。この無化が否定性である。
 では、現象化はどうやって発現するのか。もう、さらなる垂直の捩れはないのである。Z軸は、不連続的差異論の3層構成から見ると、メディア/現象境界・MP境界と考えられる。現象発現力学は何か。ここで発想を変えて、Z軸の現象面を仮定すると、これが、現象界なのではないだろうか。つまり、Z軸、MP境界が現象界ではないのかということが考えられるのである。ここでは、自然現象の生成消滅が見られるだろう。そう、プラトンの洞窟理論から言えば、洞窟のスクリーンが、Z軸・MP境界となるだろう。ものが仮現・仮象(マーヤ)する面である。
 そうすると、現象界とは、メディア差異と同一性の争闘の領域になるだろう。そう、これが、旧約聖書のヤハウェが自然宗教を迫害するに現れているだろうし、今日では、アメリカの覇権主義を考えればいいのである。
このように考えると、現象界とは、Z軸・MP境界そのものの事象であるということとなるだろう。
 では、西欧近代主義・近代合理主義・近代自我主義を考えると、それは同一性構造のメディア差異に対する勝利と言えるのであるが、それはどう説明されるだろうか。Z軸・MP境界では、「矛盾同一」であり、対立物が並存しているはずではないのか。しかし、これは、Y軸でのイデア/メディア境界でのような、ゼロ度の共存性はないのである。なぜならば、ここでは、いわば、弁証法が生起しているのであるからだ。つまり、暴力・権力である。父権暴力である。発生した同一性は、メディア差異を否定して、暴力化するのである。だから、西欧近代主義とは、Z軸・MP境界の帰結であると言えるだろう。
 そうならば、3層構成を少し修正しないといけないだろう。即ち、
1.イデア界/IM境界/2.メディア界/3.MP境界=現象界である。しかしながら、現象界は、Z軸・MP境界の帰結であるから、やはり、別枠にしてもいいと考えられるから、これまで通りの3層構成でいいだろう。ただし、力学構造を変更することになる。即ち、現象界の発現は、メディア界からの1/4回転ではなくて、メディア界自体の展開によると言える。
 結局、1/4回転を考えると、Y軸への1/4回転とZ軸への1/4回転の、二重立体的1/4回転構造があるということになる。結局、複素平面の1/4回転とは、立体的1/4回転であり、これが、メディア界/現象界を発現・仮現させていると言えるのである。
 では、このような視点から、ポストモダン革命を見るとどうなるのだろう。これは、偉大な進化革命であろう。とまれ、この力学の意味は何だろうか。これは、Z軸・MP境界の超克であるが、どうして、そのような事態となったのか。その起因・原動力は何か。それは、人間の心身は、基本的にイデア界/メディア界/現象界の総体であるからであり、当然、「無意識」において、イデア界/メディア界の《力》ないし《エネルゲイア》を感じるものだからではないのか。しかし、どうして、19世紀末から、この《衝動》が強化されたのか。それは、様々な原因があるだろう。近代主義の恐ろしい害悪が出現したこともあるだろう。それは、外的原因であるが、内在的原因があるだろう。特異性の問題もあるし、・・・。いったい何が根源なのか。人間の探求心とも言えるし、・・・。私が推測しているのは、イデア界の回転の動きである。1回の1/4回転で、1サイクルが発生するだろう。そして、2回目の1/4回転で、その1サイクルが閉じるのである。おそらく、現代は、ユダヤ・キリスト教西洋文明のサイクルの終焉期を迎えているのだろう。つまり、ユダヤ・キリスト教西洋文明の1/4回転がイデア界・ガウス平面で起こり、それが、西洋文明を発生させる。しかし、イデア界はさらに回転を続けて、その1サイクルを消滅させると言えるだろう。そして、3回目の1/4回転で、新文明が発生すると言えよう。そして、4回目の1/4回転でそれが消滅する。こう考えると現代は、2回目の1/4回転で、西洋文明の消滅期であると同時に新しい文明の胎動期であると言えるだろう。つまり、3回目の1/4回転が近づいているのである。あるいは、現代は、4回目の1/4回転を終えて、新しい第1回転を迎えつつあるのかもしれない。この点については後で検討したい。
 このように考えると、西洋占星術等の考え、つまり、大プラトン年の考えを想起するのである。432の数に60をかけると、25920年という大プラトン年が出てくる。これを12で割ると、2160年というプラトン月が出てくる。ここで、ヌース理論を参考にすると、円運動1周するのに、25920年かかるとすると、1/4回転は、6480年である。そして、これを、これが、西洋文明の生成消滅のサイクル年だろう。そして、新しい6480年の文明生成消滅の「アイオーン」に入るのだろう。西洋占星術でいう水瓶座の時代とは、これを示唆しているのではないだろうか。これを三等分割すると、2160年で、いわゆる星座の時代である。魚座の時代が、典型的な西洋文明の時代であったのだろうが、しかし、それは、同時に消滅の時代である。その前に牡羊座の時代があり、その前に、牡牛座の時代があった。牡牛座→牡羊座→魚座→水瓶座であるが、これは、母権・女神の時代(農耕)→父権・超越神の時代(遊牧民)→キリスト教の時代(都市文明)→新叡知の時代(新ガイア・コスモス文明)ではないだろうか。結局、偉大なイデア・コスモスの新たな回転・R・Evolutionがやってきたのだろう。これは、政治文化的に言えば、共生の時代であり、小沢一郎が、日本での代表である。小泉首相は、古い代表である。つまり、古い西洋文明現象界の代表である。同一性構造の代表である。ODA ウォッチャーズ氏がいみじくも述べるように、小沢氏の政策は、ポスト・モダン、脱構造主義と呼ぶべきである。(参考:『海舌』「小沢一郎氏は「脱構造主義」或いは「ポスト・モダン」という言葉を使うべきだ。」http://blog.kaisetsu.org/?eid=354882
それは、また、ポスト西洋文明であり、新東洋文明とも言えるだろう。今年は、日本の社会革命の年になると予見したが、そうならないと日本は、断末魔の西洋文明とともに去りぬとなるだろう。また、今年沸騰するフランスの反CPEのデモなど、やはり、根源的には、偉大なイデア・コスモスの回転に拠るのではないだろうか。ただし、主体性が大事である。主体性のはたらきかけがない限り、運動とはならず、古きものとともに、滅びるものとなるのである。日本人の場合が、きわめて、危険なのである。被洗脳羊である。
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2006年04月04日

差異と自我の関係:自我とは何か:自我は永遠不滅である

差異と自我の関係を明確にする必要がある。なぜなら、それは、「魂」の不死の問題に関係するので、きわめて重要だからである。先の考えでは、自我=魂=差異は、永遠不滅であった。そして、それ以前は、魂は、メディア界に、いわば、原型のように残ると考えた。また、それ以前は、魂は崩壊して、ただ、差異・イデアだけが残ると考えた。
 この問題は、霊・スピリットの問題とも関係するのであるが、私は、これまで、霊・スピリットとは、メディア/現象境界、MP境界から、つまり、構造界から見たメディアを霊・スピリットと考えた。即ち、連続的差異を構造で固定したものが霊・スピリットであると考えたし、今もそう考えている。霊・スピリットとは、メディア界の連続的差異を構造化したものと考える。
 さて、本題に戻ると、不連続的差異・イデアは知即存在であり、知性をもっている。それは、超越論的主観性であり、ノエシス/ノエマである。そして、ヌース理論を借りると、双対性、つまり、差異相互の双方向がある。これは、間主観性(相互主観性)と言っていいだろう。即ち、

差異1/⇔/差異2

である。ここでは、境界である/が意味をもつ。即ち、差異1と差異2とは、それぞれ、他者への志向性をもつが、接していないのである。(おそらく、鈴木大拙の《即非》という概念が一番近いかもしれないが、しかし、少し違う。)つまり、不連続な差異であるということである。直立・分立した、絶対的差異であるということである。数学で喩えれば、素数がいいと思われる。だから、
2/⇔/3/⇔/5/⇔・・・⇔/97/⇔・・・である。 
 メディア界では、⇔が、陰陽☯に変わって、差異同士は、共振するのである。2と3、3と5とが共振するのである。これは、ドゥルーズ&ガタリが言う離接に当たるのだろう。ゼロ化によって、2と3が離れつつ、接しているのである。2と3が共鳴すると、おそらく、2×3=6の振動が生まれるのではないだろうか。
 では、イデア界の2/⇔/3は、どういうことなのだろうか。直観で言えば、2は自身が特異性の2であるという知覚をもち、他者が特異性の3であるという認識をもつのではないだろうか。メディア界では、共振して、6の倍数の調和数をもつ。現象界では、同一性が基本となり、2も3も、単なる数に還元されるだろう。自然数や整数の一部となるのだろう。イデア界の自己特異性認識と他者特異性認識とはどういう力学なのだろうか。2がどうして3を認識するのか。2の志向性とはどういうことなのだろうか。私は、イデア界は直観の世界だと考えている。それは、無限速度ないし無時間の世界である。何が無限速度であるのか。志向性が無限速度であるということだろう。つまり、志向性=直観=無限速度・無時間ということだろう。イデアとは、知即存在であるから、知覚・知性をもつが、それは、自己存在知であると同時に、他我存在知であろう。私は、鈴木大拙の即非という概念をここに適用しようとしたが、それは、おおよそ相当するだろう。即非とは、即は=であり、非は≠である。つまり、=&≠である。だから、2=&≠3である。しかし、これは、やはり、正しくない。2=3ではないからだ。ただ、2は、3を直観認識するのであり、それが、2=3のような意識になると考えられる。とまれ、イデア界の直観志向性は、自他同時直観認識をもつと考えよう。そう、2はあたかも自身が3であるかのような他者認識をもつのである。思うに、ひょっとして、イエスが言った、自分のごとく、隣人を愛せよというのは、このイデア界の直観認識を敷延しているのかもしれない。しかし、このイデアの直観認識は、イエスの教えよりは、スピノザの能動的観念に近いだろう。愛というより、直観、認識なのである。勿論、ここには、私がこれまで述べてきた共感性が発生するだろう。この共感性は、メディア界の連続的情感とは異なり、不連続的共感性である。自我と他者とは切断されているのであり、その不連続性における共感性である。メディア界の連続的情感とは、正にべたったとした一体感、情緒的一体感であろう。(後で、この相違について、検討したい。)
 では、イデアの直観志向性=自他同時直観認識を前提として、本件の本論を考察しよう。以上から、自我とは、一つの差異である。例えば、差異5である。あるいは、差異13である。差異素数である。無数の差異素数がある。だから、自我は無数存すると言えるだろう。そして、自我はイデアであるから、永遠不滅である。例えば、「私」・自我は、差異素数11としよう。これが、3回の1/4回転をして、現象化する。つまり、「現世」に誕生するのである。しかし、メディア界的連続化、そして、現象界の同一性化を被っているので、「私」・自我は自身が差異素数11であることに気がつかず(ハイデガーは存在忘却と言ったが、イデア忘却である。そして、プラトンが言うように、想起し、キルケゴールが言うように、反復する。)、差異素数13と共鳴したり、差異素数73と同一であるという錯誤(無明)を犯すのである。
 しかし、経験・教養等を積んで、自身が、差異素数11であることを知る。これが、永劫回帰である。そして、差異素数11は、無数、無限の差異素数と共立していることを直観認識するのである。これが、絶対的永劫回帰である。これは、親鸞で言えば、往相であろう。あるいは、悟りであろう。しかし、ここから、「現世」に言わば、帰還するのである。還相である。ニーチェのツァラトゥストラの下山である。あるいは、禅における瞑想からの回帰であろう。そう、大乗仏教は、ここで、衆生の救済を行ったのである。阿弥陀如来がそうである。アミターヴァとは、無量光であるが、この無量光とは、イデア界の不連続的差異の直観志向性、超越論的主観性の相互性、すなわち、不連続的差異・イデア相互直観志向性、間主観性であろう。キリスト教も本来、大乗仏教と同質であろう。同時代の宗教運動である(もっとも、私は叡知運動を呼びたいが)。イエスは、イデア界を直覚認識した大悟者であり、そのイデア界の教え・叡知を民衆に説いたのであろう。そう、グノーシス主義のイエスが適切であろう(『トマスによる福音書』)。おそらく、そのイエスは、私は神であるとは言わなかっただろう。神の子とは言ったかもしれないが。そう、グノーシス主義のイエス(簡単に、グノーシス・イエスとしよう)は、意識の変容の必要を説いただろうが、信仰せよとはおそらく言わなかったに違いない。信仰を説いたのは、聖パウロである。聖パウロがキリスト教を創作したのである。イエスは、イエス叡知学を説いたはずである。グノーシス・イエスのはずである。
 このグノーシス・イエスに関して、昨今流行の『ダ・ヴィンチ・コード』は叙述しているのだろう。(盗作問題があるが、グノーシス・イエスは、伝統的なものなので、なんらか似てしまうのかもしれない。)また、D.H.ロレンスは、『黙示録論』で、聖書を解体して、それを、意識変容のためのヨガ的、錬金術的書物と見ている。それは、グノーシス・イエスと相応するだろう。意識とは心身であり、心身的技法によって、意識変容を起こすのである。これは、また、東方キリスト教に伝わったものである。ヘシュカズム(ヘシカズム、ヘシュカスム)がそういうものだろう。結局、グノーシス・イエスの叡知学、叡知実践とは、東洋的なのである。アジア的なのである。それが、聖パウロによって、非合理主義にされてしまったと私は考えるのである。
 また、グノーシス・イエスは、最後の審判についてどう考えただろうか。おそらく、意識変容を主に説いて、それによる「神の国」の創造は説いたであろうが、最後の審判はおそらく否定したか、軽視したのではないだろうか。ニーチェに学び、且つ、キリスト教を経験したロレンスが説くように、最後の審判は、ルサンチマンの教えであろう。それは、暴力の教えとなる。
 最後に、今日の考察では、やはり、プラトンの魂の不死説を肯定する結果となったが、では、自我=魂が永遠不滅ならば、どういう意味をもつのか。こうなると、輪廻転生が正しくなる。現世の記憶をもつことになるだろう。だから、前世の記憶となるだろう。そうすると、閻魔大王も復活することになるだろう。そうすると、中世、日本の中世のようになる。『日本霊異記』や『往生要集』のようなことになるだろう。ダンテの『神曲』も復活する。ただし、最後の審判は脱構築されるだろう。当然である。輪廻転生するのであるから。仏陀が輪廻からの解脱を説いたが、それは、どういうことなのか。それは、イデア界に永遠に留まることではなくて、イデア界の叡知を体現して、生きることではないだろうか。正に、大乗仏教である。因みに、華厳経宇宙について言えば、それは、ほぼイデア界の叙述であろう。ただし、調和主義が強すぎると思う。不連続的差異・イデアの共立調和と見るべきだと思う。また、理事無碍、事々無碍であるが、前者は、イデア界と現象界との結合であり、後者は、現象界の事実を特異性として、相互認識することではないだろうか。
 シュタイナーの言う霊・スピリットとは、結局、不連続的差異・イデア・「自我」と見るべきであろう。シュタイナーは、人間の心身を、自我/アストラル体/エーテル体/物質体の四重構造と見たが、不連続的差異論から見ると、自我はイデア界に、アストラル体とエーテル体はメディア界に、物質体は現象界にあるだろう。問題は、アストラル体とエーテル体の区別が、不連続的差異論にはないことになるが、どう考えるべきか。アストラル体とは、チャクラに関係するだろう。それは、心身性であるが、イデア界に通じる領域である。思うに、イデア/メディア境界、IM境界ではないだろうか。エーテル体であるが、それは、「気」であるが、思うに、メディア/現象境界に相当するエネルギーではないだろうか。今、とりあえず、そうしておこう。


《参考》

★即非の論理★
http://www15.ocn.ne.jp/~satori/yogojiten/yogo_047.html

★素数★
2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41, 43, 47, 53, 59, 61, 67, 71, 73, 79, 83, 89, 97…
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%95%B0

★グノーシス主義★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/contents.html

★『トマスによる福音書』★
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061591495/qid=1144081481/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431

★ヘシュカズム★
http://www.mesogeia.net/orthodox/hesychasm.html
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/middle/orth.html
http://www.mikio.wada.catholic.ne.jp/StCatharina.html
http://www.orthodox-jp.com/westjapan/hist14.htm

★『日本霊異記』★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%8F%BE%E5%A0%B1%E5%96%84%E6%82%AA%E9%9C%8A%E7%95%B0%E8%A8%98

★『往生要集』★
「往生要集 おうじょうようしゅう

比叡山横川 (よかわ) の恵心院の僧都 (そうず)源信 が 985 年 (寛和 1) に斤述した書。 3 巻。 〈往生極楽〉に関する経論の要文を集め, 〈往生の業 (ごう) には念仏を本となす〉という思想を明らかにした平安時代の浄土教信仰を代表する著書。 〈それ往生極楽の教行は,濁世末代の目足なり。道俗貴賤,誰か帰せざる者あらん〉に始まる序文が有名で,極楽に往生するためにはただ〈念仏の一門〉あるのみという信念から,一つには自身のため,一つには同行者のため, 112 部,617 文にも及ぶ多数の経論を引用して念仏実践の指南書とした。内容は (1) 厭離穢土 (おんりえど),(2) 欣求 (ごんぐ) 浄土, (3) 極楽証拠,(4) 正修念仏,(5) 助念方法, (6) 別時念仏,(7) 念仏利益 (りやく),(8) 念仏証拠, (9) 往生諸業,(10) 問答料簡 (りようけん) の 10 章 (大文) から成り,第 4,5,6 章が本書の中核部分で,念仏の正しい在り方を説く。ただ源信のいう念仏は,阿弥陀仏の姿形を観察する〈観想〉と,阿弥陀仏の名号をとなえる〈称名〉との両義に用い,どちらかといえば〈観想〉に比重が置かれ,また念仏以外の諸行を否定せず,鎌倉時代の法然,親鸞の浄土教思想に比べて徹底さに欠けるところがあった。

 しかし,本書が後世の浄土教思想・文学・美術等に与えた影響は計り知れないものがあり,もっとも多くの人に読まれた仏書であるといえる。 斤述の翌年,宋の周文徳に付して天台山国清寺へ納められるや,たちまち道俗男女 500 人余りが帰依したと伝える。また日本では平安末期の《扶桑略記》に〈天下に流布せり〉と記すごとく,浄土教の発展に伴って普及し,念仏結社や講会 (こうえ) において本書が読まれ,念仏修行の指針となった。 法然は,本書を披覧して浄土教に入り,さらに本書を手引きとして唐の善導の《観無量寿経疏》をよりどころに浄土宗を開き, 《往生要集釈》など本書の注釈書 4 部を著している。文学では《栄華物語》や《十訓抄》《宝物集》などが本書の中の片言隻句を引用したり,本書に主題を求めている。美術では迎接 (ごうしよう) 形の阿弥陀像や聖衆来迎図 (しようじゆらいごうず) あるいは六道図や地獄変相図などが本書の影響下に成立した。江戸時代から明治の初期にかけて,本書の第 1, 2 章だけがひらがな絵入りでしばしば刊行され,六道の苦しみをいとい離れ,浄土をねがい求める〈厭離穢土〉〈欣求浄土〉の思想は強く人心をとらえ,日本人の心に地獄・極楽の観念を定着させた。
」ネットで@百科

★『神曲』★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2

★華厳経★
http://www.google.co.jp/search?hs=nEm&hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP%3Aofficial&q=%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E7%B5%8C&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja

★シュタイナー★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC
http://members.tripod.com/~kurupira/s_syu.htm

★ヌースとシュタイナー★
http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2006/03/1_c8e3.html
http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2006/03/2_3cc3.html
posted by ソフィオロジスト at 03:11| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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