2005年12月31日

何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのか:過渡期としての近代とポストモダン革命

今、思いつくままに述べるが、この問題は、フッサールが、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で鋭く解明していると言えるだろう。つまり、近代的自然科学の問題である。コペルニクス、ガリレオの問題である。つまり、近代において、古代宇宙論(コスモス論)が崩壊して、太陽中心の宇宙という物質主義的宇宙観が進展したということである。コスモスの崩壊である。ユニヴァースが始まったと言えるだろう。
 とまれ、簡単に言えば、コスモスと叡知が結びついていたが、ユニヴァースは、近代的知性と結びついている。これが、西欧近代が、叡知を失った理由である。コスモスからユニヴァースへの転換である。つまり、これは、叡知的宇宙から物質的宇宙への転換である。この問題は複雑であるが、簡単に言えば、叡知の力の宇宙(コスモス)から物質の力の宇宙(ユニヴァース)へのパラダイム変換したことである。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560024162/250-8960880-5103431
フッサールが、『危機』で述べていることは、このことに関係するだろう。
 わかりやすく言えば、宇宙が、なんらかの「精神性」をもったものから、数量化できる物質だけから構成されるものへの変換である。そして、この結果、近代的科学・唯物論的宇宙観が形成されたのである。これが、西欧近代における、叡知の喪失の事態である。これは、主客二元論と平行し(デカルト)、第3のものを喪失したのである。ただし、事態は、単純ではなくて、近世においては、この物質的理性と神の理性とが、一致していたのであるが、後に、分離して、神の理性が消失するのである(神の死)。つまり、本来は、神の理性と人間の理性とがあったわけであるが、これが、これが、後者中心になり、前者が消失したのある。つまり、三元論から二元論への転換がここにはあるのである。
 これを不連続的差異論から見るならば、メディア界の喪失であろう。イデア界と現象界の二元論となったのである。キリスト教的に言えば、聖霊の喪失であり、父と子の二元論の宗教となったのである。芸術的に言えば、想像力の喪失である。このようなコスモスの崩壊・喪失によって、叡知の伝統が断たれたと考えられるのである。
 しかしながら、この叡知の喪失は、単に否定的なものだけではなかっただろう。これは、デカルト哲学の問題である。ここに近代の意味が集約されるだろう。即ち、コギト主義である。個的合理主義である。近代以前までは、神の理性が、宇宙を説明していたが、コギト主義となって、個から、正確に言えば、個の特異性から、森羅万象を説明しなくてはならなくなったのである。これは、実に、認識の大革命、パラダイムの変換であった。カントが、コペルニクス的転回と自身の哲学を呼んだが、実は、これは、デカルト哲学に発していると言うべきだろう。それまで、神の理性、神の叡知が主導的であったが、コギト革命の結果、コギトが主導的となったのである。そして、このコギト主義に、先に述べた主客二元論、物質主義・唯物論が重なるのである。
 結局、西欧近代における叡知の喪失とは、単に否定的な意味だけでなく、積極的な意味、即ち、コギト主義という意味があったのである。何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのかという問題は、こういう意味をもつのである。これは、人類革命なのである。神の理性、神の叡知から人間の理性、人間の叡知への転換を意味するのである。しかし、これは、根源的次元の喪失をともなったのである。
 整理すると、近代的科学において、神のコスモスから人間のユニヴァースへの転換があり、コスモスの叡知が喪失した。それは、メディア界、想像力の喪失であった。しかし、それは、神の理性から人間・主体の理性・コギトへの転換を意味していたのである。これは、一般性から特異性への転換を意味するのである。つまり、一般的叡知が解体して、特異性が出現し出したのである。不連続的差異論から見ると、イデア界の本来の不連続的差異の特異性が発現し出したのである。進化というよりは、進展である。イデア界の進展としてのコギト革命である。
 結局、叡知の喪失とは、イデア界の必然的進展であり、一種の忘却である。即ち、特異性は、近代的二元論の装いをしたのである。特異性の現象界化の徹底ということである。イデア界の現象界化への徹底である。結局、コギト主義は、イデア界の叡知の必然であったのである。叡知の喪失とは、叡知の展開であったのである。叡知の現象界化、これが、西欧近代における叡知の喪失の意味である。フッサールの自然的態度である。ハイデガーの言う存在忘却にほぼ当たるだろう。つまり、不連続的差異論から見ると、1/4回転によってメディア界が発生し、さらに、1/4回転によって、現象界が発生して、イデア界がすっかり裏返しになり、イデア界を消失するのである。しかし、これは、イデア界自体の発現なのである。自己隠蔽的発現なのである。つまり、イデアの影としての現象・仮象なのである。西欧近代とは、この徹底であるということである。これは、自己否定的発現である。自己否定的同一性である。これは、暴力・権力・破壊・狂気的である、これまで何度も指摘したように。
 結局、西欧近代とは、ニーチェが言うような過渡期であったのである。イデア界の現象界への自己否定的転化の徹底化であったのである。ここでは、積極性と反動性が併存しているのである。
 さて、今やポストモダン革命の真っ直中であるが、結局、何が、近代主義からの転換の駆動力であるのか。私は、何度も、資本主義は、差異から発動していると述べた。コギト主義も差異・特異性によって発動しているのである。つまり、近代とは、不連続的差異・特異性によって駆動されていたのであり、それが、現象界という衣をまとっていたのである。結局、震源である不連続的差異・特異性・イデア界は、近代の枠組・フレームワークを破砕・ブレークせずにはいないということなのである。そして、今日、それが実現して、ポストモダン革命が驚異的に進展しているのである。近代が解体するのは、必然であったのである。それは、過渡期だったのである。近代は意外に短い時代だったと言えよう。16世紀から20世紀にかけての、約4世紀が近代だったのである。
 もう少し、精緻にこのポスト近代革命について見ると、不連続的差異・特異性の駆動としてのコギト主義があり、それが、主客二元論の近代諸科学を生んだのである。しかし、それは、表面的な学に過ぎなかったのである。なぜならば、ベースの不連続的差異・特異性を排斥しているからである。しかし、これは、「自己主張」を当然行い、その結果、近代主義が瓦解するのである。この破壊の獅子吼がニーチェであった。また、先駆として、ブレイク、シュティルナー、ドストエフスキー、キルケゴール等をあげていいだろう。ニーチェの後、フッサールがポスト近代の理論を打ち立てたのである。
 また、物理学は、大天才のアインシュタインによってポスト近代的科学が誕生し、量子力学が決定的にした。そして、世界戦争の大災厄を越えて、フランスで、構造主義革命以後、ポストモダン革命が再燃したと言えるだろう。ポスト構造主義、「ポストモダン」である。そして、冷戦の終焉後、資本主義のグローバリゼーションが発動し、ポストモダン革命が忘失される。しかし、グローバリゼーションは、近代とポストモダンの折衷である。帝国主義性は近代主義であり、新自由主義は、ポストモダン的である。即ち、近代的資本主義のもつ集団的特権性を破壊するのである。これも、不連続的差異・特異性から発動していると考えることができるだろう。結局、ポストモダン革命が資本主義にも進展しているのである。ポストモダン資本主義であるが、これは、不連続的差異的資本主義と言ってもいいだろう。ここでは、資本が不連続的差異化、ミクロ化すると言えよう。そして、ここから、新しい民主主義が創造されるだろう。不連続的差異資本の共立による民主主義である。不連続的差異的資本共立民主主義である。人間は、不連続的差異的資本市民となるだろう。イデア界・メディア界・現象界の循環叡知が、資本となり、社会・世界・自然を環流するだろう。そう、近代の無明を超えた叡知資本主義とも言えるだろう。
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2005年12月30日

黄金比と不連続的差異論:2:叡知の伝統と西欧近代における喪失

イデア界の「黄金比」・超五芒星形は、比喩的に言えば、王冠であり、指輪であり、聖杯であり、賢者の石等である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Golden_ratio
http://en.wikipedia.org/wiki/Pythagoras
プラトンが善の太陽と言ったものであるが、この場合、太陽は超正五角形なのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Plato
この超正五角形の太陽は、真善美であり、知・力・心である。ニーチェの絶対的不連続性、ツァラトゥストラであり、フッサールの間主観性・相互主観性である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7
http://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Nietzsche
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%81%AF%E3%81%8B%E3%81%8F%E8%AA%9E%E3%82%8A%E3%81%8D
http://en.wikipedia.org/wiki/Thus_Spoke_Zarathustra
http://www.gutenberg.org/dirs/etext05/8zara10.txt
http://www.gutenberg.org/dirs/etext99/spzar10.txt
http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Husserl
スピノザの神である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6
http://en.wikipedia.org/wiki/Baruch_Spinoza
フィリップ・K・ディックのヴァリスである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BBK%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF
http://en.wikipedia.org/wiki/Philip_k_dick
グノーシス主義の至高神であり、
http://en.wikipedia.org/wiki/Gnosticism
アナクサゴラスのヌースであり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9
http://en.wikipedia.org/wiki/Anaxagoras
道教の太極であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
http://en.wikipedia.org/wiki/Taoism
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%A5%B5%E5%9B%B3
朱子学の理気であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%AD%90%E5%AD%A6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%AD%A6
古事記の天之御中主神である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E
また、本来のキリスト教の父である。エックハルトの「無」である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88
http://en.wikipedia.org/wiki/Meister_Eckhart
 思うに、ドゥルーズのような混乱が、叡知に関して、人類史において生じたと考えられる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Deleuze
フィリオクェ(子と共に)もそうである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%AF%E3%82%A7%E5%95%8F%E9%A1%8C
また、ヨハネの福音書で、ロゴスを言葉と訳したのもそうである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8
本来は、「初めにロゴスありき。ロゴスは神と共にありき。そして、ロゴスは神であった。」である。そして、こうすると、ロゴスが、超知・叡知であることがわかるのである。ロゴス=父=「黄金比」である。
 この叡知の混乱は、西欧近代で起こったとほぼ見ていいだろう。あるいは、西方キリスト教会で起こったと。『カラマゾフの兄弟』で、イワン(?)が、カトリック教会を攻撃していたのを想起する。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Brothers_Karamazov
ギリシア正教、東方キリスト教会は、叡知(ソフィア)を継承していたのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Eastern_Orthodox_Church
http://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Orthodoxy
(『罪と罰』のソーニャは、ソフィア(叡知)であろう。)つまり、不連続的差異論的三層性を、「正統」にも残していたのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Crime_and_Punishment
http://en.wikipedia.org/wiki/Fyodor_Dostoevsky
トルストイにも、流れているだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A4
http://en.wikipedia.org/wiki/Leo_Tolstoy
そう、ロシアには、ソフィアの伝統があったのである。ソフィオロジー(叡智学)の伝統があったのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Solovyov_%28philosopher%29
http://en.wikipedia.org/wiki/Sergey_Bulgakov
http://en.wikipedia.org/wiki/Pavel_Florensky
http://en.wikipedia.org/wiki/Nicolas_Berdyaev
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0940262606/250-8960880-5103431
http://72.14.203.104/search?q=cache:daaC_Cm1JH8J:blog.melma.com/00122700/20041103075652+sophiology&hl=ja&lr=lang_ja&client=firefox-a
http://72.14.203.104/search?q=cache:T8RzfbXWt0EJ:blog.melma.com/00122700/20041103073121+sophiology&hl=ja&lr=lang_ja&client=firefox-a
そして、西欧では、神秘主義者が、受け継いでいたのである。シェイクスピアにもあるし、ウィリアム・ブレイクにもあるし、そして、D.H.ロレンスにもある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shakespear
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Blake
http://en.wikipedia.org/wiki/D._H._Lawrence
(イギリスの場合、ジョン・ラスキンにも叡知の伝統が流れていて、その指導性が大きな意味をもっていた。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Ruskin
隠秘学、オカルティズムと不本意に呼ばれている。それは、本当は現実主義なのである。精神分析では、フロイトの枠を越えて、ラカンがこれを感知した。フランスの象徴主義(ボードレール、マラルメ)も感知している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Baudelaire
http://en.wikipedia.org/wiki/St%C3%A9phane_Mallarm%C3%A9
そして、日本では、大江健三郎がこれに気づいている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E
(中沢新一は、ドゥルーズ的であり、また、知性が不合理ないし杜撰である。)
別の稿で、この叡知の喪失の意味について検討したい。

p.s. ゲーテやシュティルナーに関しては、きわめて批判的である。なぜなら、両者とも、イデア界を感知していたが、それを直視することを回避しているからである。前者は、本当の闇に達していないと思う。悲劇的要素が足りないと思うのである。だから、光が弱いのである。後者は、先にも触れたが、メディア界からイデア界を見ているのであり、不連続的差異が、霊・スピリットになっているのである。シュティルナーは確かに、叡知の伝統に触れてはいたが、言葉(=メディア界)から、叡知(=イデア=ロゴス)を捉えようとするという西欧近代主義の倒錯に陥っているのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC
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2005年12月29日

黄金比と不連続的差異論

知・叡知の普遍空間の創造へ:事象共通平面の構築
2005-12-29-Thu CATEGORY: 不連続的差異論
様々な分野、領域に渡る考察や引用を行ってきて、だんだん、様々な(different)異質なもの、不連続的差異が、1つの知的空間に嵌まるような感じがしてきたのである。おそらく、不連続的差異の共通・普遍空間と言っていいだろう。イデア界・メディア界・現象界が共立するような超空間が形成され出したと言えよう。これは、意外に、三つ巴の文様が表現していることではないか。ボロメオの輪・結び目のような感じにも思えるが、それよりは、もっとシンプルだと思う。三層平面と言っていいようにも思える。というか、三層でもないのである。華厳経の事事無碍に近いと思うのである。つまり、イデア界の事象も事であり、メディア界の事象も事であり、現象界の事象も事であり、三者、事であることで、共通である。だから、事象共通平面、事象共通空間と言ってもいいのかもしれない。 
 後で、もう少し考えたい。
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黄金比と不連続的差異論:1
2005-12-29-Thu CATEGORY: 不連続的差異論
黄金比の問題は、難問なので、もっと準備を行う必要があるが、ここで、簡単に、今イメージしていることを述べよう。
 物理学の4つの力と地水火風をアナロジー的に対応させることは、とり合えず、見合わせた方がいいだろう。それよりは、不連続的差異論から考えられる垂直・水平の4つの力との関連を考えた方がいいだろう。
 ここで、直観から述べていこう。イデア界は、即の世界であり、多数・無数の不連続的差異が、境界を隔てて、即「一」の状態にある。鈴木大拙の用語で言えば、即非である。あるいは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一である。もっとも、この用語は、メディア界にもあてはまるのである。思うに、西田哲学の用語は、メディア界に限定した方がいいだろう。イデア界の即一・即非とは、メディア界の様態の矛盾的同一ではなくて、共立的同一、共立的一である。多が多のまま、一になるのである。
 とまれ、イデア界において、垂直対極(2つ)、水平対極(2つ)、そして、総合力(1つ)の5つの力・虚力が考えられると思う。この5つの力が、いわば、共立しているのである。それは、共立均衡となるのではないだろうか。5であるから、正五角形が発生するのではないだろうか。(イデア界の秘数は、5ないし3であろう。三位一体は、ここから来るのではないか。あるいは、三神性。)これを作業仮説として、イデア界の原正五角形ないし原五芒星形(アーキペンタグラム)としよう。つまり、イデア界は、多数・無数の不連続的差異が、原正五角形を構成しているということになる。これは、イデア界自体が、正五角形ないし五芒星形を構成しているということになるだろう。簡単に言えば、イデア界は、超五芒星形であるということである。超黄金比を成しているということである。これが、超光速なのである。超五芒星形が超光なのである。
 これが、1/4回転して、メディア界を形成するが、当然、メディア界は、黄金比のエッセンスをもって、垂直に捩れるだろう。つまり、黄金比らせん形成である。そして、これが、現象化して、森羅万象の様々なラセン形状・造形を発生させるのである。
 では、これを物理学で考えるとどうなのだろうか。イデア界には、5つの力・虚力があるのであるから、物理学も、4つの力ではなくて、5つの力を想定、前提しなくてはならないだろう。そして、5番目の力とは、当然、総合的な力であり、全体的均衡力である。そして、これが、最近注目され始めたダークエネルギーではないだろうか。ダーク力、暗黒力である。4つの力+暗黒力の5つの力で、不連続的差異論の原5元論に対応することになるだろう。そして、原五芒星形・原正五角形・原正十二面体が、宇宙・コスモスを貫徹しているということになるだろう。結局、ピタゴラス派、ピュタゴラス派のルネサンスである。あるいは、プラトン/ピタゴラス派・ルネサンスである。また、占術も新たに考え直されることとなるだろう。どうやら、現代は、古代ギリシア/イタリア・ルネサンスのスーパー・スーパー・ルネサンスの時代に突入したようである。ポスト・キリスト教的西洋文明である。
 ところで、不連続的差異論の三層界を数で表記すると、5/5/4あるいは、1/5/4あるいは、3/5/4となるだろう。14,10又は12となる。

参考
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity221.html
http://www.google.co.jp/search?q=%EF%BC%94%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%8A%9B&start=0&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP:official
http://www.geocities.jp/timstjp/bb1-dark-enargy.htm
http://ameblo.jp/renshi/entry-10007521097.html
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黄金比とメディア界
2005-12-29-Thu CATEGORY: 不連続的差異論
黄金比とメディア界:五芒星形と聖数5

思うに、黄金比は、メディア界の比率=理性と考えるべきではないだろうか。五芒星形、正五角形が、ピタゴラス派のシンボルとされたのは、メディア界のエネルギーと関係するだろう。即ち、メディア界は、4つの力の不可分一体の第5のエネルギー(ダークエネルギー)を帯びると考えられるからだ。ここで、アナロジー的に考えると、人間の手であるが、親指が他の指に対して、特殊である。英語には、親指は指ではなくて、thumbである。親指に当たるのが、第5のエネルギーではないだろうか。
 とまれ、差異・ゼロ度のメディア界は、相対性理論・量子力学の世界であり、ダークエネルギーの世界であり、そして、幾何学的には、五芒星形や正五角形と関連する領域と言えるのはないだろうか。(現象界は4の世界であろう。ならば、世界全体は5+4+1=10の世界ではないか。イデア界に1という数を当てるのは、それは、多元的であるが、一つの即の世界ということから考えられる。)ピタゴラス派にとって五芒星形ないし正五角形がシンボルとなったのは、それが、メディア界の幾何学であるからではないだろうか。4つの力ではなくて、5つの力があるのである。ダークエネルギーがあるのである。あるいは、ダークマターがあるのである。これは、五芒星形に関するラセンを形成するのだろう。そして、これが、現象界の基本の形状・原形なのだろう。(参照:「フィボナッチ数列(Fn+1=Fn+Fn-1)と,黄金分割(χ2−χ−1=0)と,等角らせん(指数関数y=eχ)が同じことの証明」
http://www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/fibonatti.shtml

 思うに、この5とは、根源的には、イデア界の不連続的差異の「力」に発するのではないだろうか。即ち、不連続的差異の総合力である虚力と、垂直・水平の2つの極性の四元力があり、1+4=5ということではないだろうか。つまり、イデア界の元5が、メディア界の5となるのではないか。イデア5→ メディア5である。ならば、イデア界も5に関わる幾何学があるのではないだろうか。正多面体・プラトン立体とは、メディア5であろう。イデア5とは、ピラミッド体・三角錐かもしれない。黄金分割ピラミッドという考えもある。(参照:
http://www.google.co.jp/search?hs=q76&hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP%3Aofficial&q=%E9%BB%84%E9%87%91%E5%88%86%E5%89%B2%E3%83%94%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
) 
 とまれ、黄金比が、宇宙・世界の構造の原理・基本的比率・理性かもしれない。それは、聖数・秘数5の世界である。中世のキリスト教宇宙観では、占星術の4つの星座(ペテロ、パウロ、マタイ、ヨハネ)とキリストないし聖母のセットとなっているから、これも、5である。
 さて、ここで、宗教・神秘的に考えると、根源は、イデア界とメディア界の二種類・二元性・二重性があるのである。これは、いわば、光と影であろう。D.H.ロレンスが、キリスト教の神に換わる暗黒の神dark godを唱えたり、あるいは、暗黒の太陽dark sunと言ったりしたが、暗黒とは、このイデア/メディアの二重性に関係するだろう。否、正確に言えば、三重性である。イデア/メディア/現象の三重性である。この三重性を、プラトンは、『国家』の有名な洞窟の比喩で指摘していると考えられる。善の太陽が、イデア界であり、洞窟内の人形がメディアで、影絵が現象である。だから、暗黒と言ったときは、二重である。
 問題は、やはり、イデア/メディアの関係である。ロレンスのcosmosは、基本的には、メディア界であろう。しかし、『死んだ男』では、明らかに、不連続的差異の共立(イデア界)が表現されているのである。だから、イデア・メディア境界、IM境界が問題となっているのである。この両義性が問題となるのである。暗黒と言ったとき、この境界が問題となっているのだろう。連続と不連続とが、混淆しているのである。ここで、また、宗教や神話が生まれるのである。連続・同一性的にイデア界を解釈するのである。複雑なのは、光が、メディアであることである。そして、それは、メディア界の一部に過ぎないのである。光は暗いと言っていいのである。暗黒の太陽があるのである。陰陽二重相補性である。しかし、本当は、それを突き抜けないといけない。そこは、超光=超闇の世界であろう。無量光であろう。仏陀の光はこれを意味するだろう。後光、後背、白毫の光。ゾロアスター教も、原神道もここから発しているだろう。聖書も本来、ここから発してるだろう。「光あれ」。
 すると、この原光とダークエネルギーの問題があるだろう。直観では、ダークエネルギーは、根源光の背中である。ここで、根源の太陽は背中を見せているというロレンスの言が意味をもつだろう。そう、暗黒の太陽とは、実は、根源の太陽を指していると考えられるだろう。だから、やはり、cosmos は、イデア界をも指すと考えられる。
 結局、イデア・メディア境界が大きな意味をもつと言えよう。不連続的cosmosと連続的cosmosの混淆があるのである。そして、この混淆哲学がドゥルーズ哲学である。まとめると、光と影の問題は、三重である。イデア界の光の影がメディア界で、メディア界の影が現象界である。だから、現象界は影の影である。夢のまた夢である。ウパニシャッド哲学では、ビシュヌの見る夢が、ブラフマンであり、ブラフマンの夢がインドラである。これを借りると、ビシュヌ=イデア界、ブラフマン=メディア界、インドラ=現象界だろう。(参照:
http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-7.htm

 とまれ、5という数が、イデア界とメディア界に共通するのだろう。聖数5である。3という数は、5の単純化であると言えよう。また、思うに、占星術や占いとは、メディア界宇宙の智であろう。

pentagram
http://en.wikipedia.org/wiki/Pentagram


p.s. イデア界の根源的太陽=太陰のイメージとしては、原点(0,0)を中心に、プラスのx座標とマイナスのx座標が均衡を取っているもので、そして、x−y座標で、円を描くのである。プラトンは、円が、理性の形と考えていた。(楕円の問題もあるが、これは新たに考えよう。ケプラーとも関係する。)思うに、イデア界=ガウス平面の円が、イデア界の根源的太陽=太陰ではないだろうか。そして、この太陽・太陰の影が、メディア界のダークエネルギー、いわば、ダークコスモス(暗黒宇宙)と考えられるだろう。イデア・メディア境界のスリット、孔、亀裂から、イデア界の太陽・太陰の超光が漏れると言えるのではないだろうか。そして、この漏れた光が、ダークエネルギーであり、現宇宙を構成しているのではないだろうか。つまり、暗いエネルギーから、銀河や諸星雲や太陽系等々が浮かび上がっているのである。D.H.ロレンスの『死んだ男』の暗黒の薔薇の宇宙とは、この暗いエネルギー、ダークエネルギーを表現・表象していると考えられる。
 暗いエネルギー、ダークエネルギーのもつ五芒星形のラセンが、現宇宙の基盤にあるのだろう。この暗い薔薇宇宙を、今、物理学は明らかにしつつあると言えよう。しかし、これは、まだ、根源の太陽・太陰の背中に過ぎないのである。暗い薔薇宇宙、暗黒薔薇宇宙を越えて、イデア界の太陽・太陰に達しないといけないのである。仏教や神秘思想での「無」とは、ここを指しているのではないだろうか。「空」は、メディア界であろう。だから、無/空/色というような三層構造があるのではないだろうか。仏陀は、空を説き、空の彼岸の無を説いたのであろう。
 とまれ、イデア界において、多元的無数の不連続的差異の「即非」的共立が、超光=超闇の状態なのだろう。根源的ヴィジョンは、ここから発しているのだろう。プラトンは、ここを視たのであろう。プラスx座標を光、マイナスx座標を闇とすれば、光と闇が均衡している世界であろう。根源的陰陽、超陰陽の世界であろう。根源的二元論であろう。根源的対極性の世界であろう。


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先にあげた『黄金比はすべてを美しくするか:最も謎めいた「比率」をめぐる数学物語』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4152086912/qid=1135595885/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/250-8960880-5103431
(マリオ・リヴィオ著 早川書房:これだけの知見が含まれていて、本体2000円は、安い。コストパフォーマンスが高いと言えよう。)の大半を読んだが、これは読んでためになった本である。しかし、訳が、少し練れていない、ぎこちない日本語で、少し読みにくいのが残念である。とまれ、たいへん、よく調べてある、博学の著であり、素人には少し難しいところがあるが、中味が詰まっている。本書で、国際ピタゴラス賞、ペアノ賞をとったと書いてあるが、それは、賞にとっても名誉であろう。とにかく、黄金比が身近になったと言える。一番、面白かったのは、ペンローズ・タイルが黄金比に関係していること、また、フラクタルにも通じることを述べている個所である。
 やはり、黄金比は、メディア界の核心にある比率=「理性」と見ていいのではと感じた。差異・φ(ゼロ度)・差異=差異・φ(ファイ)・差異とやはりなるように思われるのだが。φ(ファイ)は、プランク定数等の自然定数に近いのではないだろうか。
 問題は、その意味合いである。イデア界からメディア界への変換において、φがはたらくことになるのだが、この意味は何か、である。おそらく、本来、プラトン立体、正多面体の問題を含めて、検討しなくてはならないのであろうが、ここでは、ざっと述べると、1/4回転したときに、垂直方向に捩れるが、この捩れに黄金比が発生するということではないだろうか。問題は、何故、これが、黄金比になるのかということである。直観で言えば、ここで、プラトンとペンローズの考えがポイントになると思う。1/4回転で、垂直に捩れるときに、平面や立体が発生するだろう。それらは、連続的差異の平面、立体であろう。この連続化を可能にするのが、黄金比ではないかと思うのである。本来、不連続な差異が境界を隔てて共存しているのであるが、それらが、ゼロ度で連続化するのであり、その連続構造の形相が黄金比ではないかと思われるのである。(ひょっとしたら、メディア・現象境界の構造かもしれないが、これは置いておく。)思うに、yーz軸で、メディア界平面を形成すると考えてもいいのではないだろうか。そうならば、メディア平面が、例えば、ペンローズ・タイルのようになるのではないだろうか。あるいは、エッシャーの連続パターンになるのではないだろうか。
 直観では、黄金比は、1/4回転、不連続性を隠蔽しているのである。この調和は、不連続の調和を隠しているのである。そう、ゼロ度になったことで、比率が可能になるのである。通約不可能性(共約不可能性)があるが、しかし、比率は比率で、連続性である。通約不可能性が、不連続性、虚数/複素数、イデア界の名残ではないだろか。そう、不連続性/黄金比/連続性ではないだろうか。
 さて、問題は、五芒星形ないし正五角形、あるいは、聖数5である。これが謎である。不連続的差異論から、メディア界の力は、4+1の力であることがわかる。ダークエネルギーが入るのである。もし、第5がダークネルぎーならば、どうして、それが、五芒星形、正五角形と関係するのだろううか。ここでも、想像であるが、イデア界自体が、五芒星形、正五角形、5と関係しているのではないだろうか。以前、半分冗談で、太陽系は差異5として、想像したことがあるが。思うに、イデア界は絶対均等ないし均衡の原空間である。差異1、差異2、差異3、・・・差異nが、不連続に、共立しているのであるが、±水平、 ±垂直、全体の計5つの力がはたらいていると考えられないか。この5つは、バランスで、五等分割されるのではないのか。つまり、イデア界に原五芒星計ないし原正五角形を想定するのである。そして、これが、1/4回転で、メディア界平面を形成して、五芒星形、正五角形を形成するのではないだろうか。ダークエネルギーの五芒星形・正五角形である。
 また、後で、再検討したい。
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不連続的差異論
2005-12-24-Sat CATEGORY: 統一理論
ガウス平面で、x軸を1/4回転させると、y軸と同化する。これは、z軸を考えると、(0,0、z)であり、これが、おそらく、現象界であろう。ここで、球座標を考えてもいいのかもしれない。宇宙は、球座標となる。
 問題は、時空四次元性である。私の直観では、時間が、空間の三次元性を創造するのである。思うに、z軸は、時空軸ではないだろうか。そして、これが、垂直に捩れて、現象界を形成するのではないか。これが、時空四次元ではないだろうか。xーyーzの三次元に対して、現象は、x−y−z−p(phenomena)の四次元として、発現するのではないだろうか。
 さて、x軸の1/4回転の意味をさらに展開させると、これは、プラスのx座標とマイナスのx座標があり、プラスのy座標とマイナスのy座標ができる。これが、メディア界の対極性を意味するのではないだろうか。陰陽である。極性である。そして、このメディア界の対極性のエネルギーが、ダークエネルギーだろう。つまり、これまで、プラスのy座標、「光」、「重力」しか見てこなかったのである。しかし、マイナスのy座標である、反「光」、反「重力」を考慮することで、超対称性が成立するのではないだろうか。思うに、反「光」、反「重力」が、暗黒物質、ダークマターではないだろうか。そして、y座標全体が、暗黒エネルギー、ダークエネルギーではないだろうか。そうならば、古代中国の道教は、まったく正しいのである。また、朱子学もほぼ正しいのである。ただ、理気説において、イデア界とメディア界を混同しているのと考えられるのである。ならば、易経もほぼ正しいと言えるだろう。八卦は正しいと言えるだろう。2の6乗=64は、RNAに関するコドンの数である。(参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86
)ならば、占いも、ほぼ正しいと言えるだろう。それは、メディア界の智であろう。
 結局、残った問題は、イデア界のことである。それは、超知性、超智性であろう。ここでは、万知帰一であろう。力は知である。知即存在である。スピノザの神である。フッサールの超越論的主観性ないし志向性である。イデアである。超知性としてのイデア界である。これを、神と呼んだのは、理解されることである。全知全能的である。しかし、これを、一神教的に解釈するのは、擬人化であろう。また、不連続的差異の多元界としてイデア界であるから、一元化するのは、誤謬である。一義性ならば、正しいのである。そう、SF作家のフィリップ・K・ディックのヴァリスの方が、超越唯一神より、適切であろう。結局、一神教とは、多元的なイデア界を、連続・同一性である現象界の視点から解釈しているのであると考えられる。
 最後に、4という数であるが、これは、基本的には、不連続的差異の垂直・水平相補性の直交性から発したものではないだろうか。ここには、弱い力と強い力、重力と電磁気力のペアがあるのではないだろうか。地水火風の四大もこれと重なるだろう。仏教の五大(地水火風空)、五輪であるが、これは、メディア界全体、ダークエネルギーを指しているのだろう。空海の「五大にみな響きあり」は、暗黒エネルギーのことだろう。(参照:
http://www.eel.co.jp/03_near/01_sei
gowchannel/
now_events/0807mikyo.html
)量子論である。そう、ダークエネルギーの振動を、空海は、響きと呼んでいるのだろう。また、円空の「法の御音」も、このことだろう。西洋文化で言う、天空の音楽もこのことであろう。D.H.ロレンスのコスモスの音楽もこれであろう。しかし、このダークエネルギーの「音楽」、ミューズとは、実は、イデア界の根源の「音楽」に通じているはずである。イギリス・ロマン主義の詩人のジョン・キーツは、「耳に聞こえない音楽」と表現したが、それは、イデア界の「音楽」のことであろう。
 結局、コスモスとは何かである。それは、メディア界の「宇宙」であると同時に、イデア界の「宇宙」であろう。空海の両界曼荼羅はこのことを意味しているのではないか。金剛界がイデア界のコスモスであり、胎蔵界がメディア界のコスモスだろう。
 さらに言えば、古事記の三柱の神・「造化の三神」であるが、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは、正にイデア界であり、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)は、メディア界の対極性を意味しているのではないか。

参照:天之御中主神
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E5%A4%A9%E4%B
9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E
7%A5%9E
http://www.google.co.jp/search?q=
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9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B
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lang_ja&ie=ut
f-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls
=org.mozilla
:ja-JP:official
http://www.loops.jp/~asukaclub/
kami/kami_001.html





内在的イデア界と現象の光

なぜ、人間は、光に救いを感じるのだろうか。大江健三郎の傑作『万延元年のフットボール』の冒頭は、正にそうである。私は、闇が光に変容すると直観する。思うに、現象の光を通して、介して、人間は、イデア界の光を直感しているのではないだろうか。初日の出、ご来光、大日如来、ヒミコ、日御子、天照、ひじり、お水取り、お天道様、日=火=緋、等々。日の本、元、基は、イデア界の太陽であり、それを、人は、直感するのだ。個に内在するイデア界が、現象界の光を介して(光はメディアである)、イデア界の太陽を求めるのだ。現象界の太陽とは、実は、イデア界の太陽の影、影像、陰影であり、そのスクリーンを介して、根源のイデア界=超太陽を郷愁するのだろう。ゾロアスター教は正しいのである。日本の宗教も本来は、ゾロアスター教と共通であろう。
 イデア界の超太陽とは、大宇宙の根源の超太陽であろう。



イデア界の虚力とは、直観智であろう。

私は、イデア界=直観力、メディア界=想像力、現象界=物質力と、先に考えた。思うに、イデア界は、即の世界である。イデア界の差異の境界の虚力とは、無限速度の直観智ということができるだろう。フッサールの間主観性、相互主観性とは、このことだろう。インテレクトとは、本来、直観力のことであった。つまり、知性とは、直観力、直観智のことであった。それが、理性と入れ違ったのである。理性は、比率のことである。それは、メディア界の知性ではないだろうか。用語の混乱があるのだ。カントの純粋理性とは、直観智と比率智とのハイブリッドであろう。
 とまれ、直観智が、近代主義で、排斥、排出されたのである。直観智をもつ、天才たちが、近代において、狂人、精神病者とされたのである。実は、近代主義者こそ、狂人・精神病人・愚人であったのである。
posted by ソフィオロジスト at 18:41| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月24日

不連続的差異論

ガウス平面で、x軸を1/4回転させると、y軸と同化する。これは、z軸を考えると、(0,0、z)であり、これが、おそらく、現象界であろう。ここで、球座標を考えてもいいのかもしれない。宇宙は、球座標となる。
 問題は、時空四次元性である。私の直観では、時間が、空間の三次元性を創造するのである。思うに、z軸は、時空軸ではないだろうか。そして、これが、垂直に捩れて、現象界を形成するのではないか。これが、時空四次元ではないだろうか。xーyーzの三次元に対して、現象は、x−y−z−p(phenomena)の四次元として、発現するのではないだろうか。
 さて、x軸の1/4回転の意味をさらに展開させると、これは、プラスのx座標とマイナスのx座標があり、プラスのy座標とマイナスのy座標ができる。これが、メディア界の対極性を意味するのではないだろうか。陰陽である。極性である。そして、このメディア界の対極性のエネルギーが、ダークエネルギーだろう。つまり、これまで、プラスのy座標、「光」、「重力」しか見てこなかったのである。しかし、マイナスのy座標である、反「光」、反「重力」を考慮することで、超対称性が成立するのではないだろうか。思うに、反「光」、反「重力」が、暗黒物質、ダークマターではないだろうか。そして、y座標全体が、暗黒エネルギー、ダークエネルギーではないだろうか。そうならば、古代中国の道教は、まったく正しいのである。また、朱子学もほぼ正しいのである。ただ、理気説において、イデア界とメディア界を混同しているのと考えられるのである。ならば、易経もほぼ正しいと言えるだろう。八卦は正しいと言えるだろう。2の6乗=64は、RNAに関するコドンの数である。(参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86
)ならば、占いも、ほぼ正しいと言えるだろう。それは、メディア界の智であろう。
 結局、残った問題は、イデア界のことである。それは、超知性、超智性であろう。ここでは、万知帰一であろう。力は知である。知即存在である。スピノザの神である。フッサールの超越論的主観性ないし志向性である。イデアである。超知性としてのイデア界である。これを、神と呼んだのは、理解されることである。全知全能的である。しかし、これを、一神教的に解釈するのは、擬人化であろう。また、不連続的差異の多元界としてイデア界であるから、一元化するのは、誤謬である。一義性ならば、正しいのである。そう、SF作家のフィリップ・K・ディックのヴァリスの方が、超越唯一神より、適切であろう。結局、一神教とは、多元的なイデア界を、連続・同一性である現象界の視点から解釈しているのであると考えられる。
 最後に、4という数であるが、これは、基本的には、不連続的差異の垂直・水平相補性の直交性から発したものではないだろうか。ここには、弱い力と強い力、重力と電磁気力のペアがあるのではないだろうか。地水火風の四大もこれと重なるだろう。仏教の五大(地水火風空)、五輪であるが、これは、メディア界全体、ダークエネルギーを指しているのだろう。空海の「五大にみな響きあり」は、暗黒エネルギーのことだろう。(参照:
http://www.eel.co.jp/03_near/01_seigowchannel/now_events/0807mikyo.html
)量子論である。そう、ダークエネルギーの振動を、空海は、響きと呼んでいるのだろう。また、円空の「法の御音」も、このことだろう。西洋文化で言う、天空の音楽もこのことであろう。D.H.ロレンスのコスモスの音楽もこれであろう。しかし、このダークエネルギーの「音楽」、ミューズとは、実は、イデア界の根源の「音楽」に通じているはずである。イギリス・ロマン主義の詩人のジョン・キーツは、「耳に聞こえない音楽」と表現したが、それは、イデア界の「音楽」のことであろう。
 結局、コスモスとは何かである。それは、メディア界の「宇宙」であると同時に、イデア界の「宇宙」であろう。空海の両界曼荼羅はこのことを意味しているのではないか。金剛界がイデア界のコスモスであり、胎蔵界がメディア界のコスモスだろう。
 さらに言えば、古事記の三柱の神・「造化の三神」であるが、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは、正にイデア界であり、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)は、メディア界の対極性を意味しているのではないか。

参照:天之御中主神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E
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内在的イデア界と現象の光

なぜ、人間は、光に救いを感じるのだろうか。大江健三郎の傑作『万延元年のフットボール』の冒頭は、正にそうである。私は、闇が光に変容すると直観する。思うに、現象の光を通して、介して、人間は、イデア界の光を直感しているのではないだろうか。初日の出、ご来光、大日如来、ヒミコ、日御子、天照、ひじり、お水取り、お天道様、日=火=緋、等々。日の本、元、基は、イデア界の太陽であり、それを、人は、直感するのだ。個に内在するイデア界が、現象界の光を介して(光はメディアである)、イデア界の太陽を求めるのだ。現象界の太陽とは、実は、イデア界の太陽の影、影像、陰影であり、そのスクリーンを介して、根源のイデア界=超太陽を郷愁するのだろう。ゾロアスター教は正しいのである。日本の宗教も本来は、ゾロアスター教と共通であろう。
 イデア界の超太陽とは、大宇宙の根源の超太陽であろう。



イデア界の虚力とは、直観智であろう。

私は、イデア界=直観力、メディア界=想像力、現象界=物質力と、先に考えた。思うに、イデア界は、即の世界である。イデア界の差異の境界の虚力とは、無限速度の直観智ということができるだろう。フッサールの間主観性、相互主観性とは、このことだろう。インテレクトとは、本来、直観力のことであった。つまり、知性とは、直観力、直観智のことであった。それが、理性と入れ違ったのである。理性は、比率のことである。それは、メディア界の知性ではないだろうか。用語の混乱があるのだ。カントの純粋理性とは、直観智と比率智とのハイブリッドであろう。
 とまれ、直観智が、近代主義で、排斥、排出されたのである。直観智をもつ、天才たちが、近代において、狂人、精神病者とされたのである。実は、近代主義者こそ、狂人・精神病人・愚人であったのである。
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