2011年11月01日

エネルギーと物質:media pointの非可逆性:脱西欧・media point epoch

エネルギーと物質:media pointの非可逆性:脱西欧・media point epoch
テーマ:media point
PS理論では、宇宙は凹(−1)が起源であり、そこから陰陽エネルギー(氣)が創出されると考える。
 そして、陰陽エネルギー(以下、エネルギーと簡略化)は、media point変換によって、物質を発生させる。
 問題はmedia pointの物質発出機構、物質発出メカニズムである。
 エネルギーはmedia pointの実軸において、量子化されると考えられる。そう、ここに量子力学の領域があるだろう。
 問題はエネルギーとこの量子メカニズムの関係である。これは⇒の起点と終点で把捉できるだろう。先に指摘したように起点と終点は不連続であり、非可逆的である。ここに、宇宙創造の一つのエッセンスがあると言えよう。エネルギー⇒物質である。(E⇒mc^2であり、E=mc^2は誤りだ。思うに、ここに後の量子力学の壮大な誤謬の原点がある。)
 問題は量子メカニズムである。そのエネルギー/物質変換メカニズムにおいて、量子とはいったい何であるか。
 そう、量子とはエネルギーの物質的投影である。(あえて言えば、幻影、仮象、仮構である。)つまり、量子メカニズムはエネルギー機序の物質的仮構である。
 量子メカニズムを応用することは、宇宙創造の機序・秩序に介入することになる。言い換えると、量子力学以前において存在した宇宙創造の機序・秩序(「コスモス」)とは別の機制をもたらすことになるのである。
 ある意味で脱自然化である。人工的「自然」創造である。先に述べたように、有機体的宇宙・自然創造とは異質な「創造」が加わったのである。人類は第二の創造神になったと言ってもいい。
 しかしながら、この第二の創造は大根源(大母源)から発していないので、無機的なのである。一般的には有機体的宇宙・自然とは相容れない。端的に、それに対して破壊的だ。
 また、その操作が利己主義、自我中心主義に基づくならば、当然、悪魔的なものとなるのである。そして、それが現代において現実化したのである。(思うに、量子力学の誕生をもって、あるいは、20世紀初期ないし前期をもって脱近代の時代、トランス・モダンの時代の始まりと見るべきだろう。あるいは、ポスト・ヒューマンの時代の。別の命名もあるが。)
 そして、原発爆発による放射能汚染はその帰結である。
 問題は第二の創造のテクノロジーをもった人類の知性にある。知性が利己主義、自我中心主義に基づくならば、これによる悪魔的破壊は拡大して、人類は滅びるだろう。
 知性が凹iをベースとする精神性に基づくならば、第二の創造は積極的なものとなる。ここが核心的ポイントである。
 このような視点から、飯山一郎氏が提唱する、光合成細菌による放射能汚染の浄化作用とは何を意味するのだろうか。(参照:『光合成細菌』で放射能浄化!  http://grnba.com/iiyama/hikari.html )一般的には、自然、人間とは相容れない人工的な放射能であるが、自然の、原始的細菌がそれと適合して、放射能を無害に変換するのである。
 ここには放射能、正確には、放射線存在の問題がある。飯山氏が説くように、原始的には、光合成細菌が放射線を吸収する宇宙・自然のメカニズムがあったのである。光合成細菌にとっては、放射線は異質なものではないのである。
 故に、ここで上述の脱自然の視点は変更されなくてはならない。確かに、第二の創造は一般的には脱自然化であるが、原始的な光合成細菌にとってはそうではないのである。「自然」に適合するのである。
 ここで自然とは何かの問題が提起される。あるいは自然的進化、宇宙的進化の問題。
 そう、進化が正確な問題である。即ち、地球の原始的状態においては、生命体と放射能とは適合していた。しかし、その後の進化過程へ経て、高度な生命体は放射能とは不適応になっていったのである。言い換えると、光合成細菌のレベルを「脱ぎ捨てて」進化が進展したのである。(進化を低レベルを脱ぎ捨てるプロセスと見ることができよう。超剋である。)
 だから、進化の絶対的差異があるのであり、進化は非連続的段階をもつ。(プロセスという用語はあまり適切ではない。)だから、この点から上記の脱自然化は説くことができるのである。
  結局、量子力学的変革によって、人類は脱近代化、脱自然化したのであり、それまでの進化が終わったと言えるのである。そして、進化の初期段階に戻らないといけないような事態が生じたのである。生命体的にはそうなのである。
 しかしながら、知性においては、上述したように、精神の進展が必要になるのである。利己主義、自我中心主義となった知性を乗り越える精神的知性の陶冶・涵養が必要になったのである。
 これは取りも直さず、東洋的知性ないしは非西洋文明的知性への回帰を意味するのである。
 西洋文明、とりわけ、近代西洋文明は利己主義、自我中心主義へと強く傾斜して、その物質文明をもって悪魔的に破壊的になったのである。
 霊学のシュタイナーは「自我」ichの重要性を説くが、実は、問題は個、差異、絶対的他者、絶対的差異である。
 イタリア・ルネサンスはその発芽であると考えられる。しかしながら、西欧(追記:西洋では間違いなので、上述の西洋云々は訂正されなくてはならない)は自我、凸iに傾斜しているために、個=差異が利己主義、自我中心主義へと発展したのである。
 (だから、以前提唱したトランス・モダンという視点はあえて言えば、間違いなのである。モダンは二種類あったのであり、それが混淆・混合されて、曖昧になってしまったのが実態である。そう、トランス西欧というのが的確である。トランス・ウェストである。脱西欧である。)
 結局、知性の東洋回帰、精神化とは脱西欧化ということになる。脱欧入亜である。
 最後に、脱西欧化と量子力学の「脱近代」の関係をさらに考えると、結局、共通点はmedia pointであるのが了解される。
 西欧は知性のmedia pointを喪失したのであり、また、量子力学は自然におけるmedia pointのエネルギー様態の発見であるから、脱西欧と量子力学的「脱近代」は共通するのである。
 だから、今日、現代はmedia pointの時代、エポックと言えるのである。それは同時に、マニ教新時代でもある。
posted by ソフィオロジスト at 11:05| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | PS理論:プラトニック・シナジー理論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月03日

観るとは何か:眼を介して、心で観る(心観・心眼・霊眼):都市空間視覚と天然自然視覚の分裂から、トランス・モダン視覚へ


田舎(農村地帯)に居ると、空気が澄んでいるので、空や空を背景にするものがよく見えるのである。先ほどは、東京では、不気味に夜に声を聞くことが多い烏であるが、大群が、北から南へと急流に流されるように滑空して飛んでいた。ダイナミックな動きであり、感心した。
 澄んだ西空を見て、思ったのは、肉眼中心で見るのと、肉眼を介して心で見るのとの違いである。前者は自我中心的視覚であり、後者は差異共振・心的視覚であると考えられる。今日一般の日本人の視覚が前者であると思う。近代合理主義・近代的自我の視覚なのである。これは、心の死であり、神の死である。死せる魂である。亡魂である。死んだマグロの眼である。
 後者はいわゆる心眼というものに近いかもしれないが、心眼ほど玄妙なものではなく、もっと平明な、日常的なものでありうると思う。もっとも、心眼と言ってもいいのかもしれない。私としては、心観・心見とか呼びたいのである。(以下、心眼を用いている。)
 先に見た夢の中で、私は道と道の間の公園の樹木に咲く花を心の目で見ていた。心と花が共振してその美に触れていた。どうも、それがいわば予兆であったろう。予知夢である。私の中に、心の目が復活したようである。心観(心眼・心視)である。
 とまれ、この心観・心眼・心視の形成というか復活によって、これまで私が当惑した視覚の問題が解決できたと思う。すなわち、心の目は外的対象と共振するのである。とりわけ、自然と共振して天然美を感受するのである。この体験は、美術・芸術の肝である。美術・芸術の美の根源である。いわゆる、ロマン主義と呼ばれた世界観もこれに拠ると考えられるのである。もっとも、古典主義もやはりベースには、天然美の体験があるとは思うが、それが、自我同一性形式(線形性、シンメトリー等)によって拘束されているのである。
 具体的に言うと、若い日、学生の頃である。夕焼けが、私の意識から遠くへ行ってしまう経験をもった。それまでは、夕焼けと心が結びついていたが、それが、離れて行く、喪失経験をした。そう、私の意識では、この分離経験と一体経験との分裂性が残ったのである。いわば、統合失調症である。これは、文化史的に言えば、未分化的太母文化と父権文化、あるいは、前近代文化と近代文化との分裂様態と言える。そう、私は一種の分裂症であったのだろう。思えば、漱石の『草枕』の冒頭の有名な「智に働けば、角が立つ。情に棹させば流される。」に似たような経験と言えるだろう。そう、漱石も近代主義に拠る分裂に悩んだ天才的知識人である。
 とまれ、私のこれまでの生涯は、この分裂症に悩んできたと言えるかもしれない。しかしながら、今や、私の意識の中には、はっきりと、心が存するのである。そして、感覚を介して、心で知覚することができるのである。そう、脱自我となり、自己形成できたと言えよう。確かに、肉眼は、自我と結びつくが、心眼は自己と結びつく。私は、自我であり、且つ、非自我=自己である。(正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の様相である。)
 まだ、精緻には考察していないが、心の知覚があり、また、肉体的感覚がある。視覚に限定すると、心の視覚(心眼)があり、身体的視覚(肉眼)があるが、心眼(Media Point)が同一性化して、身体的視覚(肉眼)と結びつく。つまり、心眼は肉眼へ同化吸収されて、心眼本来の差異共振性を喪失する。これが、近代的自我の視覚様態である。近代合理主義・唯物論的視覚、冷たく光る不気味な支配せんとする悪霊の眼である。
 しかしながら、心眼(差異)が完全に肉眼(同一性)に吸収されることはできない。心眼が無意識において作用しているのである。だから、近代主義の都市空間を離れて、自然天然空間に置かれると、自然天然空間の光、差異共振的光に晒(さら)されて、心眼が賦活・活性化されるのである。励起されると言ってもいいのかもしれない。そのとき、私の体験では、コスモス(心的宇宙)を感得することが多い。コスモスとは、端的に、Media Pointの経験と言っていいだろう。近代主義の都市空間では、この経験はほとんど閉ざされるが、天然自然空間では、これが生起するのである。
 そう、思えば、学生の時の分裂の悩みはこれで説明できるのである。近代主義の都市空間の視覚と天然自然空間の差異共振的な視覚との分裂である。戦後日本人は、この分裂を無視して前者に同一性化したのである。日本人の心的視覚を捨てて、近代合理主義/近代的自我の視覚を受容したのである。これは、日本の心の死であり、神の死である。日本文化の死である。三島由紀夫の言う「断絃」である。(これは、連合国占領軍と亡国・売国的支配者との野合によると考えられる。小泉路線は、これである。)
 そう、社会的に問題なのは、近代主義的都市空間の視覚が支配的であるとき、天然自然の差異共振的視覚が否定されるのである。だから、本当に心眼をもった人は排除されやすいのである。(イジメの問題はこれが関係することが多いと思う。)東京中心に近代主義的都市空間視覚が支配的なので、これが、日本全体に蔓延する事態になっている。洗脳である。
 とまれ、問題に返ると、近代主義的視覚に対して、心眼があるが、抑圧される。しかるに、今日、心眼である差異エネルギーが賦活されているのである。この点については、これまで、太極原理で説明した。陽極まれば陰に転ずと。
 丁寧に見るなら、これは、自由のエネルギーが陽(同一性)の方向へと展開したが、今や、それが反転して、陰(差異)への方向へと向かっているのではないだろうか。ポスト・モダンである。自由のエネルギーとは、端的には、Media Pointのエネルギーということだろう。【私はイタリア・ルネサンスが新たなMedia Pointの発動と考えているし、プロテスタンティズムも基盤がこれであるが、それが同一性主義(近代合理主義/近代的自我)に傾斜しているのである。つまり、これまで述べてきたように、プロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内在しているということでもある。】
 ということで、自由のエネルギーは陰(差異)へと今や転じているわけであるが、問題は、ポスト・モダン様態になっていることである。つまり、同一性主義の枠組みから脱していないのである。そのために、アイロニカルな没入・反動が起こっているのである。ネオコンや小泉構造改革がそうである。また、私見では、サブプライムローン問題もそうである。過剰な同一性主義、ハイパー・モダンが生じているのである。そして、心の病(私は心病と呼んでいるが)の根因もここにあると考えているのであり、また凶悪犯罪の根因もここにあると考えている。確かに、較差問題が引き金になっているとは考えられるのではあるが。
 この、いわば、私がとりわけ若い頃経験した「分裂症」に今日日本が陥っていると考えられるのである。結局、自由のエネルギーは陰や差異へと向かっているのであり、それを実現するには、ポスト・モダンを越えて、トランス・モダンへと転換する必要があるのである。純粋な差異へと転化しなくてはならないのである。結局、同一性主義から「解脱(げだつ)」して、差異(差異共振性、心)へと回帰する必要があるのである。
 簡単に、この「解脱」の方法を理論的に説明すると、第一歩は、同一性と差異とを不連続化することである(不連続的差異論)。それで、自我同一性と自己差異(特異性)が分離するのである。しかしながら、後者の自己差異とは、実は、差異共振性なのである。これを自己測深して感得する必要がある。そして、また、自我同一性と自己差異とが、Media Point(ガウス平面の原点)において、直交していることを認識する必要がある。即ち、自己差異とは、超越的差異なのであり、高次元的自己なのであるという認識の必要である。そして、最後は、自己主体とは、自己差異が主であり、自我同一性は従であると認識会得し、また、実践することであると思う。差異主同一性従、心主我従である。即ち、差異共振的自己が主であり、同一性自我は従であるということである。これが、心眼の復活をもたらすと思えるのである。
 さて、以上が、日本の復活の哲学的鍵である。不思議なことに、それは、日本の伝統への回帰なのである。それは温故知新であり、また、正確には螺旋的回帰なのである。東洋・日本伝統文化への螺旋的回帰なのである。即ち、西洋文化を経由して、東洋・日本伝統文化へと螺旋的回帰するのである。そして、これが、トランス・モダンである。父権統合型新太母文化である。差異共振文化である。
 思うに、私が心眼を復活させたのであるから、共時的に、多くの人にもこれが起こっていると考えられるのである。Media Resonanceメディア共鳴である。宝瓶宮(ほうへいきゅう)[水瓶座]文化期が胎動しているのである。
 
聴く耳を持つものは聴くがいい。
posted by ソフィオロジスト at 00:30| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月01日

Media Pointと同一性の関係:プロテスタンティズムにおける超越性と同一性の関係

Media Pointと同一性の関係:プロテスタンティズムにおける超越性と同一性の関係

テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明

本件の問題を最近は追求しているが、既に解決済みと思っていたが、簡単には済まない。結局、Media Pointから差異が同一性へと転換するときの様相の問題である。
 私はイタリア・ルネサンスが差異の発動であり、その後の差異の展開はプロテスタンティズムであると述べた。差異の発動とは、新たなMedia Pointの賦活であると考えられる。超越界=イデア界において、おそらく、新たな回転が生起して、Media Pointが新たに活性化したと考えられる。即ち、Media Point=i*(-i)において、A) i→-iとB) -i→iとが発動したと考えられる。この両面が混淆ないしは未分化様態であったのが、イタリア・ルネサンスであったと思われる。
 私は先に、iが能動性ないしは父権性であり、-iが受動性ないしは母権性ではないかと提示した。これを作業仮説とするなら、Aは、能動性であり、Bは受動性である。そして、iには形相性、-iには質料性を考えると(これも作業仮説)、Aは能動的同一性の形成、Bは受動的身体性の形成を意味するのではないだろうか。
 以上の作業仮説から、次に、プロテスタンティズムを考えると、それは、Aが主導的になったキリスト教であると考えられる。
 問題は、A主導における神性とは何か、である。Media Pointにおける超越的エネルゲイアから、A主導性は駆動されていると考えられる。問題は、Media Pointの超越的エネルゲイア(以下、超越的エネルギー)は、差異共振・差異即非に拠るのであるから、プロテスタンティズムの神性のエネルギーも、それに拠ると考えられる。そう、これまで、私はプロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内包していると述べてきたが、ルネサンスの内包とは、この差異共振・差異即非を意味すると言えよう。
 ということで、プロテスタンティズムはMedia Pointの超越的エネルギーに賦活・駆動されていると考えられる。しかしながら、問題は、A主導的であるということである。これは、差異を否定する同一性衝動であるから、プロテスタンティズムは、自己否定的に発展すると言えよう。差異共振エネルギーに駆動された同一性衝動である。
 そして、近代の進展とともに、近代合理主義と結合して、根源のMedia Point=差異共振エネルギーを喪失していったと考えられる。いわば、プロテスタンティズム近代合理主義の形成である。そして、これに自由主義と民主主義が結合して、西洋近代主義が完成すると言えよう。
 もっとも、自由とは起源的には、ルネサンスのMedia Pointから発しているし、民主主義は、起源的には、絶対王制に対するプロテスタンティズム的市民(資本家を含めた)の権利意識から発したと言えよう。つまり、民主主義は、キリスト教的であるということであり、これは、やはり、ルネサンスをベースにしたプロテスタンティズムの近代的自我意識に基づくと考えられる。
 だから、簡潔に言えば、西洋近代主義はルネサンス/プロテスタンティズムと近代合理主義(近代科学・技術)の結合によると言えるだろう。
 結局、根源のMedia Pointの差異共振エネルギー=超越的エネルギーを近代主義は喪失していくのであるが、その換わりに、いわば、同一性的力動(力学)を強化していくと考えられる。
 これはどういうことなのだろうか。これは、端的に、超越的エネルギーが、同一性エネルギーに転換するということだろう。同一性エネルギーとは、おそらく、物質エネルギーと言っていいのではないだろうか。というか、力である。物質的力に変換するのだと思う。能動的な力ないしは暴力、権力である。
 では、この超越性から同一性への転換において、神性はどうなるのだろうか。そう、同一性への転換において、神性はどうなるのか。初期においては、 Media Pointの差異共振エネルギー=超越的エネルギーが発動しているが、これが、同一性エネルギー=力へ転換するとは、基本的には、根源の神性を喪失するということになる。そして、これが、欧米近代化においって発生したことだろう。
 しかしながら、根源の神性とは、Media Pointの超越的エネルギーのことである。そして、これは、確かに、同一性衝動へと転化したと言えよう。
 だから、問題は、超越的エネルギーと同一性衝動の関係である。前者はすべて後者へと転化したということなのだろうか。それとも、後者においても、前者は残っているのであろうか。
 ここでも直感で考えよう。つまり、根源の超越的エネルギーが、同一性力動に転化されるということは、基本的には、根源の超越的エネルギーは残っているのであるが、それが変質する、変化するということなのである。
 この超越性⇒同一性エネルギー(超越性/同一性エネルギー)がプロテスタンティズム的力動であると考えられる。この超越性⇒同一性の様相がプロテスタンティズム的一神教の様態であると考えられるのである。
 問題は、超越性が同一性へと変換してしまい、Media Pointの差異共振性が喪失されることである。つまり、個人主義化されるが、ここには、差異、差異共振性が喪失されるのである。絶対性があるが、それが、個人主義化すなわち近代的自我化されるのである。そして、これこそ、ハイデガーの本来的存在を意味しよう。そして、また、ニーチェの超人(否定的に見た場合)も意味するだろう。ここには、傍若無人な、非社会的な、そう、ホッブズ的な個人があるのである。シェイクスピアで言えば、『リア王』のエドマンド、ゴネリル、リーガンであろう。
 ユダヤ/キリスト教はプロテスタンティズムに帰結したと言えよう。ここでは、イエス・キリストの本来の教え(差異共振性と考えられる。仏教と同じである。)は喪失されて、ユダヤ/キリスト教的一神教の自我の力学が実現したと言えよう。
 結局、プロテスタンティズムとは、ルネサンスから発して、ルネサンス的差異共振性の否定・排除・隠蔽であるということである。そして、このプロテスタンティズムが資本主義と融合しているのである。つまり、唯一神と資本とが一体化しているのである。これは、いわば、絶対的同一性=資本主義であり、差異=他者を否定する暴力・破壊・悪魔主義と言えるのである。
 ここでは、資本が唯一神であり、資本を妨害する差異は排除されるのである。しかしながら、ユダヤ/キリスト教的資本主義が鈍感にも理解していないことは、資本=同一性は、差異(差異共振性)がなければ、発生しないことである。企業とは、差異共振性がなければ、創造性・協力性がなく、成り立ち行かないのである。
 結局、ここには、暴力・破壊・悪魔的なユダヤ/キリスト教的資本主義の乗り越えとして、差異共振的トランス・キャピタリズムが発現する必然性があると言えよう。トランス・モダン政治経済である。
posted by ソフィオロジスト at 21:19| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月03日

プラトニック・シナジー理論(PS理論)の構成図式

表にしようと思ったが、ブログでは表が出ないので、以下のように、図式化する。

1:超越的差異=差異可能(デュナミス)的志向性(超越界)

        ↓ (プラトン、不連続的差異論)

        ↓

2:差異動態(実現、エネルゲイア)的志向性(フッサール)

        ↓

        ↓

3:Media Point(垂直/水平差異共振性)(鈴木大拙、

        ↓ ウスペンスキー、メルロ=ポンティ)

        ↓

3. 5:脱構造的志向性(ポスト・モダン:デリダ、

        ↓ ドゥルーズ&ガタリ)

        ↓

4:超越論的構造性(超越論的差異→超越論的同一性)

        ↓ (ハイデガーの存在→構造主義)

        ↓

5:連続的同一性(現象界、物質界)

説明すると、2において、フッサールとあるが、それは、完全な意味というよりは、志向性において、差異の志向性を示唆していたという意味である。

 4において、上層が超越論的差異であり、ハイデガーの存在である。そして、下層が構造主義の超越論的同一性構造である。

 そして、狭義のポスト・モダン哲学は、4を超える思想であった。デリダの差延/脱構築は、そのような意欲であった。ドゥルーズ&ガタリは、3と4を融合化してしまった。即ち、連続的差異=微分の思想になり、3と4を切断することができなかった。

 メルロ=ポンティ現象学は、「肉」(=身)において、ほぼMedia Pointを捉えた。可視性が5であり、不可視性が1と2である。

 不連続的差異論は、ほぼ1を発見して、3と4とを切断した。

 そして、プラトニック・シナジー理論(PS理論)は、超越的差異の即非・共振性を発見し、さらに、ガウス平面等を適用した数学化によって数理科学化し、さらには、主導的概念である3のMedia Pointを発見した。

 おそらく、以上の図式でいちばん困難な点は、3の超越論的構造である。ここは、言わば、錯綜している。二重構造になっているのである。また、これまで、多くの天才的哲学者が、乗り越えられなかった領域がここであると言える。広義のポスト・モダンであるシェリング、キルケゴール、ニーチェを考えると、2〜4の混淆した領域で思索していたのであり、不明晰に思考していたのである。(ニーチェは実に後一歩というところで、2と4の間を揺れ動いていたと思う。永遠回帰は、正しくは、輪廻転生とすべきであるが、それを同一性の回帰、超越論的構造の回帰にしてしまったのである。)

 また、ロシアの神秘学者ウスペンスキーであるが、「ターシャム・オルガヌム」の概念によって、ほぼ即非論理を捉えていたと考えられる。それは、1〜3の領域のもつ基本論理と言える。

 さて、鈴木大拙であるが、彼は、いわば、超天才的に、1〜3の論理、即非論理を洞察発見したのである。西田哲学の絶対矛盾的自己同一は、ほぼ、即非論理と同様であったと考えられるが、あまりに彼の言語は晦渋であり、不明瞭である。

 さて、不連続的差異論による4の絶対的乗り越えがなかったら、PS理論は創造されなかったであろう。しかしながら、PS理論は、不連続的差異論からの重大な内包的発展・深化である。Kaisetsu氏による数学化がPS理論を数理化して、自然科学へと架橋を構築して、真に文理融合・統一理論の仮説となったのである。

p.s. 私はレヴィナスをほぼ未読なので、よくわからないがイメージとしては、少なくとも、1〜3の領域に入るだろう。直感では、1と2の中間態であろうか。
posted by ソフィオロジスト at 23:25| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月22日

村上春樹の日本語は機械的で、不自然である。彼の文体は日本語言語意識を破壊する。

村上春樹の『ねじまき鳥クロニカル 第1部 泥棒かささぎ編』を読んでいるが、先に触れたが、声の文体と身体性の希薄さを感じているが、違和感を感じつつ読んでいて、日本語が不自然であると感じた。とりわけ、会話の日本語が不自然であると思った。なにか、機械が話しているような人工的な日本語である。言語機械が話しているようである。日本語の会話の不自然さが、おかしさを直接生んでいる原因だと思った。
 例をあげて実証しよう。次は、加納マルタが主人公の岡田亨に電話してきた場面である。

『十一時に加納マルタから電話がかかってきた。
「もしもし」と僕は受話器をとって言った。
「もしもし」と加納マルタが言った。「そちらは岡田亨様のお宅でしょうか?」
「そうです。岡田亨です」電話の相手が加納マルタであることは最初の声でわかった。
「私は加納マルタと申します。先日は失礼いたしました。ところで本日の午後は何かご予定がおありでしょう?」
 ない、と僕は言った。渡り鳥が抵当用資産を持たないのと同じように、僕も予定というものを持たない。
「それでは本日の一時に妹の加納クレタがお宅にお邪魔します」
「加納クレタ?」と僕は乾いた声で言った。
「妹です。先日写真をお見せしたと思うのですが」と加納マルタは言った。
「ええ、妹さんのことでしたら覚えています。でも-----」
「加納クレタというのが妹の名前なのです。妹が、私の代理としてお宅に伺います。一時でよろしいでしょうか?」
「それはかまいませんが」
「それでは失礼します」と加納マルタは言って電話を切った。
加納クレタ?』 p. 154〜p. 155


一見何の変哲もない、ごく普通のように思える電話での会話である。日本語の文法がおかしいわけではない。しかし、注意するとおかしいのである。以下、私が添削する。


『十一時に加納マルタから電話がかかってきた。
「もしもし」と僕は受話器をとって言った。
「もしもし」と加納マルタが言った。「そちらは岡田亨様のお宅でしょうか?」
「そうです(⇒はい)。岡田亨です(⇒不必要)」電話の相手が加納マルタであることは最初の声でわかった。
「私は加納マルタと申します。先日は失礼いたしました。ところで(⇒ところで、不躾で失礼しますが、あるいは、⇒ところで、突然ですが)本日の午後は何かご予定がおありでしょう?」
 ない(⇒いいえ、ありませんが)、と僕は言った。渡り鳥が抵当用資産を持たないのと同じように、僕も予定というものを持たない(⇒持たなかった)。
「それでは(⇒それでは、まことに突然で、失礼しますが)本日の一時に妹の加納クレタがお宅にお邪魔します(⇒妹の加納クレタをお宅にお邪魔させていただきたいと思っていますが、よろしいでしょうか)」
「加納クレタ?(⇒失礼ですが、加納クレタってどなたでしょうか)」と僕は乾いた声で言った。
「妹です(⇒私の妹です)。先日写真をお見せしたと思うのですが(⇒先日写真でお見せした妹ですが)」と加納マルタは言った。
「ええ、妹さんのことでしたら覚えています。でも-----」
「加納クレタというのが妹の名前なのです(⇒加納クレタというのが妹の名前です)。妹が、私の代理としてお宅に伺います(⇒伺うことになります)。一時でよろしいでしょうか?(⇒一時にお伺いしてよろしいでしょうか?)」
「それはかまいませんが(⇒ええ、かまいませんが)」
「それでは失礼します(⇒それでは、勝手なお願いをして失礼しました。よろしくお願いします)」と加納マルタは言って電話を切った。
加納クレタ?』 p. 154〜p. 155

(⇒・・・)の箇所が私の添削である。ざっと添削したので、完全ではないが、それでも、村上春樹の文体が、不躾な、機械的、無機的な言語であることが理解されるだろう。そう、端的に、敬語が崩壊しているのである。恐ろしい悪魔的な作家である。日本語/日本破壊の国賊である。
posted by ソフィオロジスト at 18:56| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月20日

身体の潜在意識と心の顕在意識:量子的身体意識と心的意識:永遠の生々流転するMedia Point

たまたま、テレビをつけたら、筋肉についての番組で、貧乏ゆすりにも意味があることを述べていた。ちらとしか見なかったので、よくわからないが、思いついたことは、「物質」は、感覚をもっているということである。
 不随意筋というものがあるし、また、身体を見れば、さまざまな部位や全体で、「無意識」に身体が活動して、生命を維持しているのがわかる。私は、この身体の「無意識」を問題にしたいのである。
 思えば、鬼才、夢野久作の『ドグラ・マグラ』で、脳中心論に対して、全細胞論を提起している。脳は、電話交換台に過ぎず、主人は全細胞であるということである。これは、私が考えたい、身体の「無意識」に通じるだろう。とまれ、ここでは、『ドグラ・マグラ』についてはこれ以上、述べない。
 深層心理学が、主に心や精神を扱い、身体については、疎かにしているのは、きわめて不十分だと思う。また、ヨガのように、チャクラを活性化させるというのも、身体の無意識の一面を扱っているだけではないかという感じがある。
 私は、身体の物質的過程を身体の「無意識」によるものとして捉えたいのである。これまでの考え方に拠れば、量子があり、これが、「意識」をもっていると考えられる。即ち、量子意識があるということであるが、これは、識閾があり、無意識領域に身体の「無意識」があり、また、ヨガのチャクラのような「意識」が潜在しているのではないだろうか。(p.s. 「気」も、一般には、身体の「無意識」に入るが、訓練によって、識閾を超えて、意識化されるということになるが、しかしながら、すべて意識化されるということではないのではないか。)そして、意識領域には、当然、通常の感覚・知覚・認識の意識が顕在している。
 言い換えると、「意識」は、量子的潜在領域と量子的顕在領域があり、境界によって隔てられているということである。深層心理学は前者の領域に踏み込もうとしたが、充分には、測深できていないと考えられる。
 思うに、禅仏教は、この量子的潜在意識に、瞑想を通して、触れる一種のテクニックであろう。空は、量子的潜在意識のことを意味しているだろう。また、阿頼耶識という考えも、この量子的潜在意識のある階層を捉えたものではないだろうか。
 私は、ここでは、身体の「無意識」に拘るのである。つまり、身体の量子的潜在意識である。内臓を働かせる身体の「無意識」(以下、量子的意識ないしは量子意識)があり、それが、通常の顕在意識にとっては、ブラックボックスのようになって、作用していることになるだろう。
 血液の「意識」があり、ホルモンの「意識」があり、栄養の「意識」等々があるだろう。これらは、基本は量子的意識であるが、この場合、より的確に言えば、分子的意識だろう。
 では、これらの量子ないしは分子的意識と通常の顕在意識はどう関係しているのだろうか。今日は、ストレスの問題、心因性の問題がはっきりとしている。哲学では、心身論である。
 ここで、スピノザ哲学を考えると、それは、身体性に注目した哲学であり、心身平行論を立てたのであるが、精神の感情と身体との平行性に注目したものであるから、今日の心身論を先取りしているだろう。
 とまれ、量子/分子的潜在意識と顕在意識の関係はどういうものなのかである。PS理論から見ると、Media Pointでの差異共振性が重要なポイントである。主体と他者との共振性が基本である。これは、思うに、潜在意識と顕在意識の両領域において、共通するのではないかと思われるのである。差異と差異とが共振して、エネルギーが放出される。そして、身体的回路が機能する。つまり、身体共振回路である。
 そして、顕在意識においては、差異と同一性との両面が生起する。問題はストレスである。自己にとって、好ましくない、不快な事態が生じる。このストレスの負荷とは何だろうか。
 不快なものとは、主体の何に「被害」をもたらすのだろうか。端的に、精神・心に害をもたらすと言えよう。困難な仕事を生じたとき、他者に侮辱されたとき、暴力をふるわれたとき、人生がうまくいかないとき、等々あるだろう。
 スピノザ的に言えば、悲しみがもたらされたときである。端的に、苦がもたらされたときである。苦痛・苦悩でストレスが生じるのである。
 では、苦・苦痛・苦悩・苦悶等々とは、主体の心の様相をどう変えるのか。これは単純に、肯定様態があり、否定様態があると言えるだろう。肯定様態とは、主体の心が、歓喜に満たされているときである。では、歓喜とは何か。それは、心のもつ欲求が満足されるときに生起する心的様態であろう。(では、欲望とは何だろうか。それは、身体的ではないのか。食欲、性欲、物欲等々とあるが、それは、心と関係しないのか。この点は後で検討したい。)
 主体の心の欲求が満足するときに、歓喜があり、それが否定されるときに、苦が生じるだろう。人間には、自尊心があり、主体の心の権利がある。心的権利である。それが肯定されれば、歓喜となるし、それが否定されれば、苦となる。心的権利には、当然、自由等の民主主義的権利が入るだろう。
 この心的欲求や心的権利が否定されるときの苦とは、心に損害を与えていると言えよう。心痛である。これは、顕在意識的である。しかしながら、ストレスであるから、当然、身体へも影響するのであるが、心と身体とはどう関係しているのだろう。
 そう、心的感受性があり、それの苦が、身体へと影響するということだろう。ここで、自己認識方程式を使用すると、i*(-i)⇒+1の左辺を敷延して、iを心、-iを他者ないしは身体としよう。すると、i←(-i)が他者ないしは身体から主体への影響となるだろう。
 共振性において、歓喜があるとするならば、他者ないしは身体から同一性を強いられるというのは、苦である。すると、感受性とは、iと-iとの間に存すると言えるだろう。それは、Media Pointではないだろうか。
 このMedia Pointへの損害がストレスということだろう。そして、Media Pointこそが、心と身体をつなぐ領域ではないだろうか。つまり、心のMedia Pointがあり、身体・物質(量子)のMedia Pointがあり、それらは、共振的一致しているのではないだろうか。Kaisetsu氏のメディア共鳴が存しているのではないだろうか。
 言い換えると、Media Pointにおいて、心と身体とが共振的一致しているということではないだろうか。心のエネルゲイア(エネルギー)があり、身体のエネルゲイア(エネルギー)があり、それらが、Media Pointで、交叉・交流ないしは相互変換しているのではないだろうか。
 以上のように、作業仮説的ではあるが、考えられるならば、心因=ストレスが身体へ影響することは、合理・整合的に説明できるだろう。 Media Pointにおいて、エネルゲイア(エネルギー)の質的変換によって、心因が、身体・物質(量子/分子)的結果をもたらすと言えるだろう。
 これは、また、逆も言えるだろうが、識閾があるから、自覚症状がないということが当然考えられるのである。
 よく「霊能者」が病気を当てるようなことが主張されるが、思うに、「霊」というものを、量子/分子的意識と考えるならば、それは極めて特異ではあるが、考えられることである。つまり、「霊能者」ではなくて、量子意識者と考えればいいのである。量子意識者は、身体の量子状態を察知して、そこで、異常を発見するということになるだろう。
 ここから敷延すると、霊視というのも、量子意識的視覚と言えるだろうし、予言というものの、量子意識によって量子状態を認識して、「予言」しているということになるのではないだろう。「予言」は、一種「預言」である。つまり、ある人間の量子意識には、その人の無意識的意向があり、それを認識することで、その人が近未来的にどう行動するか認識できるということではないだろうか。
 この考えを更に敷延して、輪廻転生問題を考えるとどうだろうか。前世はどうであったとか、来世はどうであるかとかはどう説明できるだろうか。
 これは、阿頼耶識の問題にも関係するだろう。この問題は、端的に、人間とは何か、心とは何か、身体とは何か、存在とは何か、生とは何か、死とは何か、等々という根本的問題である。
 量子意識を想定すると、それは、虚界と実界との境界にある意識、Media Pointの意識である。それは、いわば、未来と過去との狭間にある意識である。未来は虚界から来るだろうし、過去は実界にあるだろう。とまれ、量子意識は、過去と未来の意識をもっている。これは、思うに、前世や来世ではなくて、個の無意識・潜在意識ではないだろうか。自己の過去の無意識があり、そして、未来への無意識がある。過去的量子意識と未来的量子意識である。これが、前世や来世になっているのではないだろうか。
 問題は、量子意識・Media Point意識の意味である。つまり、問題の核心は、ここには、イデアが潜在していることである。永遠普遍がここに潜在していることである。それをイデア遺伝子と呼んでもいいのかもしれない。あるいは、差異遺伝子である。
 私は、今の感じでは、思いつきでは、Media Pointとは、一種永遠的なのではないかということである。あるいは、生々流転する永遠である。
 完全なる永遠は、イデア界・虚界であるが、これは、涅槃であり、死の世界である。しかしながら、Media Pointは、イデア的でありながら、エネルゲイアをもち、生成消滅を反復するのではないか。
 ここが最大のポイントである。そう、Media Pointが阿頼耶識なのではないか。つまり、今、私がイメージしているのは、Media Pointの量子意識があり、それが、同一性化して現象世界が形成している。しかし、現象世界は、端的に、仮象(マーヤ)である。本体は、少なくとも、 Media Pointだと思うのである。(ハイデガー現象学ならば、存在である。)
 しかしながら、Media Pointは、エネルゲイア(エネルギー)であるから、生成消滅ないしは生々流転するのである(ヘラクレイトス)。しかし、このエネルゲイア(エネルギー)は、根源的イデア界・虚界によって、永遠補給されるのではないのか。
 ここがポイントである。つまり、先にも述べたように、反復がここで発生するのではないのかということである。一つのエネルゲイアのサイクルがあり、そして、新たなエネルゲイアのサイクルが生起する。正に、生々流転である。これが、輪廻転生の本来の意味ではないのか。
 では、もしそうならば、阿頼耶識という考えはどう理論化できるだろうか。生々流転を認めたとしても、量子意識の記憶・記録・蓄積はどう説明できるのだろうか。
 思うに、顕在意識における知覚や認識の本体とは、差異であり、Media Pointであろう。心、魂、精神、霊魂等と言うと、唯心論的なので、誤解を生むので、量子意識であると言おう。量子意識が知覚や認識の本体であるということになろう。
 現象世界において、個体は、世界を感覚し、知覚し、認識するが、それは、量子意識が差異/同一性の様態において、そうしていると言えよう。例えば、花を感覚し、知覚し、認識するとしよう。これは、主体の同一性志向性において、把握しているのである。ここでは、光を媒介としているから、花の光が主体に影響しているのである。(もっとも、主体の内的な同一性志向性の光もあるだろう。両者の交叉があるが、この点は、ここでは置いておく。)
 光や主体の認識が、主体のMedia Pointに影響をもたらすだろう。簡単に言えば、波動によって、Media Pointが影響されるだろう。つまり、外界的様態がMedia Pointの様態に記憶されることになるのではないのか。
 問題は、そのMedia Pointの様態が消滅するのではないのかという疑問が浮かぶことである。つまり、永遠に記憶されるのではなく、一つのサイクルで終了して、次のサイクルはリセットされるのではないのかという疑問が生じるのである。
 これは、微妙な問題である。量子意識が普遍であるならば、記憶は普遍である。量子意識が一回のサイクルで消滅するならば、記憶は一時的である。輪廻転生はない。
 ここで少し発想を変えて、Media Pointのカスタマイズ化というようなことが考えられるならば、記憶の普遍はあり得るだろう。Media Pointのカスタマイズ化とは何か。それは、Media Pointの質的差異化である。
 とまれ、もう一度、考え直そう。Media Pointは生々流転する永遠ではないかと上述した。エネルゲイア(エネルギー)は、現象化して、消尽すると言えよう。しかしながら、Media Pointのエネルゲイア自体は残っているのではないか。生成流転するのは端的に現象である。そして、現象の核心であるMedia Pointは、いわば、不滅の核ではないのか。
 ここは確かに微妙な点である。とまれ、現象を認識するとはどういうことなのか。あるいは、現象を経験するとはどういうことなのか。現象を認識したり、経験するのは、本来、Media Pointにおいてである。一般には、Media Pointからの同一性志向ないしは同一性構造によって支配されているので、同一性的経験となるのである(無明)。
 しかしながら、同一性は、Media Pointの一つの側面であるから、Media Pointが記憶しているはずである。量子意識の記憶である。おそらく、量子意識の波動の変容・変質である。波動の変容・変質とは、エネルゲイアの変容・変質ではないのか。そう、量子意識の波形というものを考えると、波形変化があると思うのである。
 波形変化とは何だろうか。これは、Media Pointの変容を意味するのではないだろうか。
 今、壁にぶつかっている原因は、Media Pointに普遍性を見ることと、Media Pointに単に一時的な生成消滅を見ることの齟齬にある。後者の考えは単純なので、結局、前者が可なのか、不可なのかである。私のイメージでは、 Media Pointに何らかの原型性が見られる。その原型性が考えられるならば、普遍性はあるのであり、輪廻転生も生起するのである。
 こういうことではないだろうか。Media Pointにおいて、差異が連続化するときに、同一性の現象が発生する。ここにおいて、エネルギーが放出される。生成消滅するのは、当然、現象である。エネルギーも生成消滅する。しかしながら、本体のMedia Pointにおいては、いわば、永遠の振動があるのではないのか。
 不連続な即非差異があり、それが連続化し、エネルギーを放出する。しかし、連続化ないしは同一性化とは、現象化ではあるとは言え、Media Pointにおいては、不連続性と連続性が併存しているのであり、連続性という顕在面において、現象が形成しているのである。つまり、私が言いたいのは、連続性の潜在面があるのではないのかということである。簡単に言えば、連続性という面があるとして、表面として現象面があり、裏面としてMedia Point面があるということである。これは、Media Pointの側から見れば、表面として連続的Media Point面と、裏面としての現象面があるということである。
 そして、現象面としての連続性は、確かに、生成消滅すると考えられるが、Media Point面の連続性は、生成消滅せずに、現象の記憶を保持するのではないだろうか。
 もしそう考えられるならば、Media Pointの潜在性は、永遠的であろうし、輪廻転生するだろう。そして、これが、仏教・唯識論の阿頼耶識となるだろう。カルマ(業識)はあるのである。
 だいぶ長くもなったので、今はここで留めたい。
 
参考:阿頼耶識
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki08.html
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%A4%CD%EA%CC%ED%BC%B1
http://digitalword.seesaa.net/article/21897058.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
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2007年03月24日

メディア・ポイントMePoの構成の試論:即非的一性としてのMePoと実数軸上の相剋・相生分極性

メディア・ポイントMePoの構成の試論:即非的一性としてのMePoと実数軸上の相剋・相生分極性

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

この問題は、最高の難問の一つであるし、また、プラトニック・シナジー理論PS理論における最核心の問題であり、最重要な問題であると言える。

先に、いろいろ思考実験したが、今一つ不明瞭であるから、さらにここで検討を続けたい。

虚数軸と実数軸との交点であるメディア・ポイントMedia Point(以下、MePo)性質については、ほぼ解明されたと言っていいが、残る問題は、Mepoの構成・構築・構造性の解明である。

超越的差異性と現象的同一性との交点の構成はいかなるものなのであろうか。

異質なもの、不連続なもの同士の交点ないし交叉(交差)とはどういうことなのか。

これまでの大半の哲学・理論の失敗は、両者を連続概念で結びつけてしまったことである。これについては、多く述べたのでここでは省略する。

ここでも直観で述べよう。

超越的差異i*(-i)は、MePoにおいて、現象化するが、現象化とは基本的には、同一性化である。だから、現象同一性化と言ってもいい。

そして、意識において、同一性が支配するが、内的身体において、いわば、潜在意識として、差異=特異性=差異共振性が存してる。これは、いわば、暗い意識である。dark consciousnessである。

意識は、外界の光に応じて、同一性認識を構築する。このとき、言語的認識が同一性認識の道具となる。

しかし、内的身体にある潜在意識は、まだ、不分明である。これは、内観によって、省察を受けないと暗いままで、いわば、分裂したままである(思うに、二重人格の隠れた人格は、この潜在意識と関係しているだろう。これについて説明すると長くなるので、簡単に言うと、これは、同一性意識とりわけ連続的同一性自我意識によって否定された差異意識であるが、否定されているので、反逆的になっていると思われる。

また、デカルトのコギトは、内観による認識、自己認識ではないだろうか。これを、連続的同一性自我認識とすると、近代的自我認識となってしまう。コギトは、複雑であり、本来、内観的自己認識と見るべきであろう。)

内的身体にある特異性が、個におけるMePoであると言っていいだろう。

では、どうして、現象的同一性の世界にあって、超越性と結びつくMePoが個内に存するのだろうか。

一般に、自我認識(連続的同一性自我認識)は、特異性を否定・排除・隠蔽して、忘却しているのである。とりわけ、男性の認識においてそうである。

先に、MePoの1/4回転(スピン)を考えたが、そう考えると、超越的MePoの存在の説明が難しくなるので、そう考えない方が、現象界における超越的MePoの存在は説明できると考えられる。

MePoは、虚数軸のゼロ・ポイントであるし、同時に、実数軸のゼロ・ポイントである。

だから、MePoにおいて、虚数的超越性と実数的同一性が即非的に共存・共立・並立していると考えられよう。

これが、先にも述べたが、最高の微妙さ、いわば、最奥義、最秘儀、最妙味である。奥の院である。

そう、即非的一(いつ)としてMePoを考えるべきだと思う。一如ではなくて、一と見るべきである。

即非的一ないし即非一としてのMePoである。

即ち、MePoとは、超越的差異=虚数軸的差異であると同時に、現象的同一性=実数軸的同一性であるとということである。

そう、絶対矛盾的自己同一としてのMePoである。

即非的一としての、いわば、不思議があるのであり、それが、同一性論理、同一性意識を混乱させると言っていいだろう。

内的身体に特異性としてMePoは存しているのであるが、同一性意識である自我は、これを否定・無視して、同一性に連続化するのである。

そう、特異性と同一性とは矛盾するので、意識は分裂するのである。これは、人間意識の絶対的分裂性と言えるだろう。

この特異性と同一性の分裂であるが、両者は、相克の関係にあると考えられるのである。特異性は同一性を否定し、同一性は特異性を否定するのである。この両者の相克様態が意識内において存すると言えよう(とりわけ、男性の意識においてあると言えよう。女性は、思うに、特異性のエネルギーをもって、同一性を生成変化させるように思われる。)。

この相剋過程において、一般には、同一性が特異性を否定すると言えよう。

そして、これが、連続的同一性自我意識となるのであり、さらには、近代的自我となるのである。

ここで整理すると、MePoは、本来、即非的一の様相をもつのであるが、現象化において、特異性と同一性との相剋的分裂様態が発生すると考えられる。

さらに整理すると、MePoが特異性(特異点)であり、結局、MePoと同一性が相剋様態にあると言えよう。

言い換えると、即非的一と同一性との相剋様態が生起するということである。

思うに、哲学(洋の東西を問わず)は、この相剋様態の解決のために形成されたと考えていいだろう。ただし、東洋哲学は、大乗仏教等によって、即非的一を根本にして、同一性の理論を論破していたといえよう。

しかるに、西洋哲学は、同一性が中心となり、同一性によって、解決しようと努力したと言えよう。ヘーゲル哲学は、即非的一を同一性(=「理性」)に組み込む為に、弁証法を構築したのである。

西洋哲学のおいて、即非的一に近づいた、ないし、達した者は、シェリング、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他の少数者であり、彼らの創造性を、その後の者は、同一性への反動に陥り、理解できなかった。日本では、鈴木大拙を初め、西田幾多郎、九鬼周造、他によって、即非的一の哲学が構築されたのである。

さて、MePoの構成・構築・構造をここで整理すると、それは、端的に、超越性と現象性との即非的一の構成をもつということであり、現象化によって生起した同一性は、特異性=MePoとは、相剋様態にあるということである。

補足すると、同一性と特異性との相剋様態とは、主に男性意識において顕著であり、女性意識においては、本来、相生的であると考えられる。

つまり、女性意識の方が、両者が共生・共存的であると考えられる。

何故ならば、これまで、述べたように、男性は、同一性に傾斜しているのであり、女性は、そのような傾斜がなく、特異性(差異)と同一性の均衡性を本来もっていると考えられるからである。

つまり、男性意識は、i*-(-i)⇒-1となり、女性意識は、i*(-i)⇒+1となるということである。

-1とは原-他者-iの否定があるのであり、+1とは、原-他者の肯定があるのである。

つまり、

-1は、同一性⇒同一性⇒同一性⇒・・・

+1は、同一性⇒差異⇒同一性⇒差異⇒・・・

となると考えられる。

だから、MePoを起点として、男性は、実数軸の左辺(左脳:ヴィジョン的叡知)へ、女性は、実数軸の右辺(右脳:言語的同一性)へと分岐するのだろう。また、MePo自体は、脳梁として見ることができるだろう。

ということで、さらに、MePoの構成を整理すると、超越性(天上性)と現象性(地上性)の即非的一の様相をもち、それが、個における内的身体である特異性(霊性=大地性)を形成している。そして、同一性に傾斜すると、特異性と同一性の相剋様態が生起して、⇒-1となり、実数軸の左辺へと展開する。そして、特異性と同一性との均衡がある場合、特異性と同一性は相生的であり、⇒+1となり、実数軸の右辺へと展開する。前者が男性(左脳)であり、後者が女性(右脳)である。

とまれ、簡潔に言うと、MePoとは、虚数軸と実数軸の交差における即非的一の点、即非的ゼロ・ポイント、即非的原点、即非的核点と言えよう。

おそらく、アリステレスや古代ギリシア人の言ったアルケー(本体)とは、MePoのことを指していると思う。プラトンのイデアもほぼ、MePoと考えていいだろう。有名なコーラであるが、それは、MePoの即非的一性を、より実数軸性で考えた空間ではないだろうか。だから、形相に近いのであるが、形相のような形而下的なものに限定されない。

結局、メディア・ポイントMedia Point(MePo)とは、虚数軸・超越性・天上性と実数軸・現象性・地上性との即非的一性の構成をもち、個における内的身体(霊性=大地性)において特異性となる。現象化=同一性化において、同一性に傾斜する場合は、特異性=差異と同一性が相剋様態となり、⇒-1(連続的同一性)となり、実数軸上の左辺へと展開し、特異性と同一性が均衡する場合は、特異性=差異と同一性が相生様態となり、⇒+1(差異・特異性的同一性)となり、実数軸上の右辺へと展開する。前者が男性性(左脳:言語的同一性)であり、後者が女性性(右脳:ヴィジョン的叡知)である。また、MePoは、物質的には、脳梁であろう。


参考:
アルケー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

アルケー(ギリシア語 :αρχη arkhē)とは、「はじめ・原初・根源 」等のことであり、哲学 用語としては「万物の根源」また「根源的原理」を指す。宇宙 の神的・神話 的な起原である。

[編集 ] 概説

主にミレトス学派 の自然哲学 で議論された。古代ギリシア のアナクシマンドロス がはじめてアルケーの語を用いたとされる。またアリストテレス はその著書『形而上学 』において、哲学 の祖はミレトス のタレース であり、彼は、万物の根源(アルケー)を水 であるとしたと記している。

それ以外にも、ヘラクレイトス は火 を、ピュタゴラス は数 をアルケーとし、エンペドクレース は土 ・水 ・火 ・空気 の四大 からなるリゾーマタ、デモクリトス はアトモス (不可分体)こそがアルケーであるとした。アナクシマンドロスは、無限定者(アペイロン 、en:Apeiron )がアルケーであると考えた。

[編集 ] キリスト教でのアルケー

『新約聖書 』の『ヨハネによる福音書 』は、その冒頭に、コイネーギリシア語 で、「 Εν αρχηι ην ο λογοs (En arkhēi ēn ho logos、エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス)」と記されているが、代表的なラテン語 訳である『ウルガータ聖書 』では、この部分を、「 In principio erat verbum 」と訳している。「 principium 」(principio は、この語の与格 形)はラテン語では、「はじめ」という意味以外に、「原理」という意味があり、ここよりアルケーへの問いは、「世界 の根源 原理 」としての神 への問いとして中世のスコラ哲学 に引き継がれた。

なお、アルケーという言葉のギリシア語での対語は、「テロス」(τελος,telos)であり、テロスは「終わり・目標・完成」というような意味を持つ。『新約聖書・福音書』において、イエズス は、「わたしはアルパであり、オメガである」と述べたと記されているが、アルパ(Α)とオメガ(Ω)は、ギリシア語アルファベットでの最初と最後の字母である。

従って、イエズスは「わたしはアルケーでありテロスである」と述べたとも解釈される。イエズスはギリシア語で語ったのではなく、アラム語 かヘブライ語 で言葉を述べた筈で、ヘブライ文字 だと、最初と最後の字母は、アレプとタウとなり、これはギリシア語のアルケーとテロスの頭文字に対応する。
執筆の途中です この「アルケー」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています。(ウィキポータル 哲学 )
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%BC " より作成

カテゴリ : ギリシア哲学 | 形而上学 | 哲学関連のスタブ項目


テーマ:メディア・ポイントMedia Point
この問題は、最高の難問の一つであるし、また、プラトニック・シナジー理論PS理論における最核心の問題であり、最重要な問題であると言える。

先に、いろいろ思考実験したが、今一つ不明瞭であるから、さらにここで検討を続けたい。

虚数軸と実数軸との交点であるメディア・ポイントMedia Point(以下、MePo)性質については、ほぼ解明されたと言っていいが、残る問題は、Mepoの構成・構築・構造性の解明である。

超越的差異性と現象的同一性との交点の構成はいかなるものなのであろうか。

異質なもの、不連続なもの同士の交点ないし交叉(交差)とはどういうことなのか。

これまでの大半の哲学・理論の失敗は、両者を連続概念で結びつけてしまったことである。これについては、多く述べたのでここでは省略する。

ここでも直観で述べよう。

超越的差異i*(-i)は、MePoにおいて、現象化するが、現象化とは基本的には、同一性化である。だから、現象同一性化と言ってもいい。

そして、意識において、同一性が支配するが、内的身体において、いわば、潜在意識として、差異=特異性=差異共振性が存してる。これは、いわば、暗い意識である。dark consciousnessである。

意識は、外界の光に応じて、同一性認識を構築する。このとき、言語的認識が同一性認識の道具となる。

しかし、内的身体にある潜在意識は、まだ、不分明である。これは、内観によって、省察を受けないと暗いままで、いわば、分裂したままである(思うに、二重人格の隠れた人格は、この潜在意識と関係しているだろう。これについて説明すると長くなるので、簡単に言うと、これは、同一性意識とりわけ連続的同一性自我意識によって否定された差異意識であるが、否定されているので、反逆的になっていると思われる。

また、デカルトのコギトは、内観による認識、自己認識ではないだろうか。これを、連続的同一性自我認識とすると、近代的自我認識となってしまう。コギトは、複雑であり、本来、内観的自己認識と見るべきであろう。)

内的身体にある特異性が、個におけるMePoであると言っていいだろう。

では、どうして、現象的同一性の世界にあって、超越性と結びつくMePoが個内に存するのだろうか。

一般に、自我認識(連続的同一性自我認識)は、特異性を否定・排除・隠蔽して、忘却しているのである。とりわけ、男性の認識においてそうである。

先に、MePoの1/4回転(スピン)を考えたが、そう考えると、超越的MePoの存在の説明が難しくなるので、そう考えない方が、現象界における超越的MePoの存在は説明できると考えられる。

MePoは、虚数軸のゼロ・ポイントであるし、同時に、実数軸のゼロ・ポイントである。

だから、MePoにおいて、虚数的超越性と実数的同一性が即非的に共存・共立・並立していると考えられよう。

これが、先にも述べたが、最高の微妙さ、いわば、最奥義、最秘儀、最妙味である。奥の院である。

そう、即非的一(いつ)としてMePoを考えるべきだと思う。一如ではなくて、一と見るべきである。

即非的一ないし即非一としてのMePoである。

即ち、MePoとは、超越的差異=虚数軸的差異であると同時に、現象的同一性=実数軸的同一性であるとということである。

そう、絶対矛盾的自己同一としてのMePoである。

即非的一としての、いわば、不思議があるのであり、それが、同一性論理、同一性意識を混乱させると言っていいだろう。

内的身体に特異性としてMePoは存しているのであるが、同一性意識である自我は、これを否定・無視して、同一性に連続化するのである。

そう、特異性と同一性とは矛盾するので、意識は分裂するのである。これは、人間意識の絶対的分裂性と言えるだろう。

この特異性と同一性の分裂であるが、両者は、相克の関係にあると考えられるのである。特異性は同一性を否定し、同一性は特異性を否定するのである。この両者の相克様態が意識内において存すると言えよう(とりわけ、男性の意識においてあると言えよう。女性は、思うに、特異性のエネルギーをもって、同一性を生成変化させるように思われる。)。

この相剋過程において、一般には、同一性が特異性を否定すると言えよう。

そして、これが、連続的同一性自我意識となるのであり、さらには、近代的自我となるのである。

ここで整理すると、MePoは、本来、即非的一の様相をもつのであるが、現象化において、特異性と同一性との相剋的分裂様態が発生すると考えられる。

さらに整理すると、MePoが特異性(特異点)であり、結局、MePoと同一性が相剋様態にあると言えよう。

言い換えると、即非的一と同一性との相剋様態が生起するということである。

思うに、哲学(洋の東西を問わず)は、この相剋様態の解決のために形成されたと考えていいだろう。ただし、東洋哲学は、大乗仏教等によって、即非的一を根本にして、同一性の理論を論破していたといえよう。

しかるに、西洋哲学は、同一性が中心となり、同一性によって、解決しようと努力したと言えよう。ヘーゲル哲学は、即非的一を同一性(=「理性」)に組み込む為に、弁証法を構築したのである。

西洋哲学のおいて、即非的一に近づいた、ないし、達した者は、シェリング、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他の少数者であり、彼らの創造性を、その後の者は、同一性への反動に陥り、理解できなかった。日本では、鈴木大拙を初め、西田幾多郎、九鬼周造、他によって、即非的一の哲学が構築されたのである。

さて、MePoの構成・構築・構造をここで整理すると、それは、端的に、超越性と現象性との即非的一の構成をもつということであり、現象化によって生起した同一性は、特異性=MePoとは、相剋様態にあるということである。

補足すると、同一性と特異性との相剋様態とは、主に男性意識において顕著であり、女性意識においては、本来、相生的であると考えられる。

つまり、女性意識の方が、両者が共生・共存的であると考えられる。

何故ならば、これまで、述べたように、男性は、同一性に傾斜しているのであり、女性は、そのような傾斜がなく、特異性(差異)と同一性の均衡性を本来もっていると考えられるからである。

つまり、男性意識は、i*-(-i)⇒-1となり、女性意識は、i*(-i)⇒+1となるということである。

-1とは原-他者-iの否定があるのであり、+1とは、原-他者の肯定があるのである。

つまり、

-1は、同一性⇒同一性⇒同一性⇒・・・

+1は、同一性⇒差異⇒同一性⇒差異⇒・・・

となると考えられる。

だから、MePoを起点として、男性は、実数軸の左辺(左脳:ヴィジョン的叡知)へ、女性は、実数軸の右辺(右脳:言語的同一性)へと分岐するのだろう。また、MePo自体は、脳梁として見ることができるだろう。

ということで、さらに、MePoの構成を整理すると、超越性(天上性)と現象性(地上性)の即非的一の様相をもち、それが、個における内的身体である特異性(霊性=大地性)を形成している。そして、同一性に傾斜すると、特異性と同一性の相剋様態が生起して、⇒-1となり、実数軸の左辺へと展開する。そして、特異性と同一性との均衡がある場合、特異性と同一性は相生的であり、⇒+1となり、実数軸の右辺へと展開する。前者が男性(左脳)であり、後者が女性(右脳)である。

とまれ、簡潔に言うと、MePoとは、虚数軸と実数軸の交差における即非的一の点、即非的ゼロ・ポイント、即非的原点、即非的核点と言えよう。

おそらく、アリステレスや古代ギリシア人の言ったアルケー(本体)とは、MePoのことを指していると思う。プラトンのイデアもほぼ、MePoと考えていいだろう。有名なコーラであるが、それは、MePoの即非的一性を、より実数軸性で考えた空間ではないだろうか。だから、形相に近いのであるが、形相のような形而下的なものに限定されない。

結局、メディア・ポイントMedia Point(MePo)とは、虚数軸・超越性・天上性と実数軸・現象性・地上性との即非的一性の構成をもち、個における内的身体(霊性=大地性)において特異性となる。現象化=同一性化において、同一性に傾斜する場合は、特異性=差異と同一性が相剋様態となり、⇒-1(連続的同一性)となり、実数軸上の左辺へと展開し、特異性と同一性が均衡する場合は、特異性=差異と同一性が相生様態となり、⇒+1(差異・特異性的同一性)となり、実数軸上の右辺へと展開する。前者が男性性(左脳:言語的同一性)であり、後者が女性性(右脳:ヴィジョン的叡知)である。また、MePoは、物質的には、脳梁であろう。


参考:
アルケー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

アルケー(ギリシア語 :αρχη arkhē)とは、「はじめ・原初・根源 」等のことであり、哲学 用語としては「万物の根源」また「根源的原理」を指す。宇宙 の神的・神話 的な起原である。

[編集 ] 概説

主にミレトス学派 の自然哲学 で議論された。古代ギリシア のアナクシマンドロス がはじめてアルケーの語を用いたとされる。またアリストテレス はその著書『形而上学 』において、哲学 の祖はミレトス のタレース であり、彼は、万物の根源(アルケー)を水 であるとしたと記している。

それ以外にも、ヘラクレイトス は火 を、ピュタゴラス は数 をアルケーとし、エンペドクレース は土 ・水 ・火 ・空気 の四大 からなるリゾーマタ、デモクリトス はアトモス (不可分体)こそがアルケーであるとした。アナクシマンドロスは、無限定者(アペイロン 、en:Apeiron )がアルケーであると考えた。

[編集 ] キリスト教でのアルケー

『新約聖書 』の『ヨハネによる福音書 』は、その冒頭に、コイネーギリシア語 で、「 Εν αρχηι ην ο λογοs (En arkhēi ēn ho logos、エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス)」と記されているが、代表的なラテン語 訳である『ウルガータ聖書 』では、この部分を、「 In principio erat verbum 」と訳している。「 principium 」(principio は、この語の与格 形)はラテン語では、「はじめ」という意味以外に、「原理」という意味があり、ここよりアルケーへの問いは、「世界 の根源 原理 」としての神 への問いとして中世のスコラ哲学 に引き継がれた。

なお、アルケーという言葉のギリシア語での対語は、「テロス」(τελος,telos)であり、テロスは「終わり・目標・完成」というような意味を持つ。『新約聖書・福音書』において、イエズス は、「わたしはアルパであり、オメガである」と述べたと記されているが、アルパ(Α)とオメガ(Ω)は、ギリシア語アルファベットでの最初と最後の字母である。

従って、イエズスは「わたしはアルケーでありテロスである」と述べたとも解釈される。イエズスはギリシア語で語ったのではなく、アラム語 かヘブライ語 で言葉を述べた筈で、ヘブライ文字 だと、最初と最後の字母は、アレプとタウとなり、これはギリシア語のアルケーとテロスの頭文字に対応する。
執筆の途中です この「アルケー」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています。(ウィキポータル 哲学 )
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%BC " より作成

カテゴリ : ギリシア哲学 | 形而上学 | 哲学関連のスタブ項目

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2007年03月09日

近代主義の彼岸とイデア界:近代主義という大無明とトランス・モダンという新大妙光

近代主義の彼岸とイデア界:近代主義という大無明とトランス・モダンという新大妙光

テーマ:日本再生復興計画

九鬼周造の『偶然性の問題・文芸論』の「情緒の系図」にある和歌や九鬼の分析を読むと、現代の日本が何を喪失したのか、直観的にわかる。

先に、メディア・ポイントMPを近代主義は喪失したと述べたが、正に、そのことが直観されるのである。

「教養」の喪失と言ってもいいのだが。

教養とは、自我から自己・個への成就のための知であろう。

近代主義は、自我主義であり、自己・個を否定するのである。

現代日本の惨状の原因は、ここにあると言っても過言ではない。

PS理論的に言えば、メディア・ポイントの不連続性・超越性の様相、即ち、イデア界の否定が根因としてあるのである。

形而上学や宗教や芸術等は、このイデア様相を志向してきたのであるが、これが、戦後教育、唯物科学教育によって否定されてきたのである。

思えば、私も、完全に唯物科学教育を受けて、主観性の発展を自己否定してきたのである。

私は、ロマン主義と唯物科学の矛盾に、思えば、長い間、悩んできた。ロマン主義は、神秘主義やオカルティズムにも通じるものであるが、イギリス・ロマン主義は、啓蒙主義との関係が深いのである。

思えば、唯物科学の物質主義のフレームワークをどう突破するかが問題であったのである。近代合理主義は、物質的合理主義を前提としているから、それを超越する発想をあざ笑う(あざ笑った)のである。

そう、唯物科学の反動として、神秘主義やオカルティズムやニューエイジ・ニューサイエンスの動きがあったと言えよう。しかし、それらは、反動性を強くもっている。

ポスト・モダンは、確かに、近代を乗り越える処方箋をもたらすように見えた。しかしながら、それも、軽薄に終わった。

私は、三島由紀夫のファンではないが、彼の最高のものは、「文化防衛論」だと思っている。戦後日本への憂国の現われとして、「どこかで断絃の時があったのだ」という一言が鋭く私を刺し貫いた。

「断絃の時」なのである。これは、今や、メディア・ポイントの喪失ないし隠蔽として、理論化できるのである。

そして、本稿の冒頭にもなるのである。そして、この問題は、現代日本で先鋭化しているが、世界全体における問題でもあると言えよう。イデア界・叡知界の喪失なのである。

宗教的次元の喪失と言ってもいいのだが、宗教は、一般に非合理主義の態度を取るので、批判知性を喪失する傾向にあるので、強く主張はしない。宗教を哲学化するとイデア論になると思うのである。この宗教の知性・叡知・合理化が実に根本的に重要なのである。

PS理論は、これを為すものである。

九鬼周造の『偶然性の問題』は、形而上学と経験論とを併せ、重ねて、論じた卓抜した哲学書である。形而上学は、イデア論となるしかないと思うのである。

ここで、飛躍するが、思うに、問題は、ロゴス論にあったと思うのである。あるいは、理性論である。西洋哲学では、理性、知性、悟性、等の区別が実に曖昧である。

この混乱は、ロゴス論にあると思うのである。

ロゴスは、古代ギリシア哲学の用語である。それが、ヨハネの福音書の冒頭に使用されたのである。「初めに、ロゴスありき」である。これを、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と誤訳した。

確かに、ロゴスと言葉は、重なる側面もあるが、一致しない。

そう、ロゴスとは、大乗仏教の法(ダルマ)とほぼ等しいと思うのである。

西洋哲学は、理性を比率等として考えたのである。ratioである。

そう、理とは何か、である。

理はロゴスや法と等しいであろう。

そして、直観では、これは、叡知と等しいのである。

すべては、形而上学的智である。

これを、西洋哲学は、言語化していくのである。

ロゴス=言語の方法である。

ソクラテス/プラトンで言えば、対話術(これが、「弁証法」の原義である)である。ここに、西洋哲学、西洋叡知学のエッセンスがあると言えよう。

無知の知、あるいは、クザーヌスの「知性ある無知」である。

そう、プラトンとアリストテレスの分裂にすべての元凶があると言えよう。プラトンは、形而上学的現象学を説いたのであり、考えれば、現象学の始祖とも言えるのである。そして、アリストテレスは、近代科学の始祖とも言えよう。

この二元論に現代西洋文明の超危機の根因があると言えよう。

いったい何が問題なのか。

これは中世の普遍論争に見ることができるが、私見では、一般性と普遍性の鳥違いが問題なのである。

これは実に単純なことなので、これを錯誤した人類史とは何か、と思わざるを得ない。

即ち、一般性は言語形式であり、普遍性は言語形式を超えた形而上学的真理である。この両者を西洋哲学は、ロゴスや理性や知性や悟性と呼んできたのである。これが大混乱の起源であると思う。

近代主義、近代合理主義、近代的自我の「狂気」の根因がここにあるのである。

結局、個物・個体のhaecceity(個体原理)に普遍性があるのであり、それが、形而上学的普遍性に通じるのである。これは、一見逆説的であるが、そうなのである。

九鬼哲学では、偶然性である。

西洋哲学の観念論は、一般性=言語形式=観念=ロゴス=理性と捉えて、形而上学的叡知を完全に外したのである。カントの純粋理性批判は、この理性と形而上学的叡知との混濁である。

そして、この頂点的帰結がヘーゲル哲学である。

そして、これが、マルクス主義やファシズム=国家社会主義を生んだと言える。現代日本はこの最大・最悪の帰結である。

この一般性と普遍性との混同であるが、結局、個物・個体と一般性が結合(野合)してしまったのである。これが、近代合理主義を生んだのである。

そう、この原因は、アリストテレス哲学にあると言えよう。個物・個体の形相を、イデア界ではなくて、現象・物質的経験界に求めたからである。

個物・個体の形相は、イデア界にあると見るが正しいのである。そして、このイデア界的形相が普遍性なのである。

つまり、内在的超越的形相=イデアが普遍性なのであり、一般性は、単に言語形式に過ぎないのである。

ここで、東洋について言うと、大乗仏教という真に偉大な叡知・思想があったため、知性において形而上学性を保持したのである。大大乗仏教である。

つまり、西洋哲学的見地から言うと、東洋哲学は、イデア論を基礎的に保持しているのである。ということは、逆に言えば、プラトン哲学の東洋性なのである。プラトン哲学は東洋哲学と言うべきなのである。対話術も、東洋性ではないのか。

とまれ、大乗仏教哲学をもつ東洋思想は、初めから、形而上学的知性、叡知学であったのである。

そして、この帰結が鈴木大拙の即非の論理であり、九鬼周造の偶然性の論理であると言えるだろう。(西田哲学も、一つの帰結であるが、彼の言語表現に問題はあるだろう。思うに、どうも、連続性と不連続性との混乱があるように思えるのである。)

日本は、東洋哲学をもち、その上で、西洋哲学を移入し、その結晶が両者の思想・哲学であり、世界に誇るべき成果である。

しかし、日本は、西洋コンプレックスのために、正しい自己評価ができないできてしまったのである。

物質文明へのコンプレックスである。

確かに、世界は、地球は、西洋近代物質主義暴力・狂気文明に侵略されたのである。

そして、その惨状が今も続いているのである。人類終末期を迎えているのである。

さて、問題は、日本である。なぜ、自己を見失ったのか。持論では、排仏毀釈にある。国家神道にある。ここで、日本は、思想的バランスを喪失したのである。

国学は、キリスト教の影響を受けているのである。それは、一神教的志向をもっているのである。これが、他者を喪失させたと思われるのである。

では、なぜ、一神教は他者を喪失させるのか。

一神教は、結局、自我を肯定してしまうからである。自我と唯一神とを一体化させてしまうのである。確かに、本来、一神教の神は形而上学的次元、イデア界的次元に存している。そして、この次元は、自我からは超越した次元である。

しかし、いかに、自我から超越した次元とは言え、唯一神の同一性は、自我の同一性と連続化してしまうのである。凡人・愚者の有り様である。

結局、自我即唯一神となるのである。これが、狂気なのである。

これが、近代的自我である。

自我が普遍性となれば、当然、他者はなくなるのである。

これが、狂気・暴力を生むのである。

確かに、キリスト教等、一神教は、本来的には、優れた宗教であるが、しかし、自我と結びやすい宗教であることは否定できないだろう。

「主」という主語が、他者である述語を支配してしまうのである。

「主」という超越的同一性が、他者・差異を否定しまうのである。

PS理論は、「主」の超越的同一性を否定・無化するものである。

その代わりに、イデアである差異即非様相を置くものである。ここには、差異的同一性があるのであり、自己と他者との共振シナジー様相があるのである。

そう、一神教的「主」が、ここでは、解体して、他者との対話を永遠継続しているのである。

そうすると、一神教とは何か、ということになるだろう。

これまで私が述べてきたことは、それは、自我に傾斜しているということである。あるいは、父権主義であるということである。

「主」・唯一神の「我」とは何か。それは、自我であるのか。「復讐するは我にあり」。もし、イデアが神ならば、それは、「我」になるだろうか。

それは、元知と元身体との即非関係である。あるいは、元自己と元他者との即非関係である。そのイデア・叡知を「我」と言うのだろうか。それは、「我」、「自我」ではありえないだろう。それは、少なくとも、元個、元自己である。あるいは、元自他である。元・我ー汝である。根源的複数である。

だから、やはり、一神教は自我に傾斜している邪教ではないだろうか。
posted by ソフィオロジスト at 19:48| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月08日

形相の問題:イデア的形相、又は、内在的超越的形象:虚MP⇒実MPの形相変換力学構造について

形相の問題:イデア的形相、又は、内在的超越的形象:虚MP⇒実MPの形相変換力学構造について

テーマ:プラトニック・シナジー理論

イデアの結界―西欧的感性のかたち (単行本)
田淵 安一 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%B5%90%E7%95%8C%E2%80%95%E8%A5%BF%E6%AC%A7%E7%9A%84%E6%84%9F%E6%80%A7%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A1-%E7%94%B0%E6%B7%B5-%E5%AE%89%E4%B8%80/dp/4409040294
を拾い読みして、形相の問題も未解決であると思った。

著者は、プラトンのイデアとアリストテレスの形相に関連して、ネオプラトニストのプロチノスのイデア的形相のようなものを説いている。

これは、内在的超越形式というものではないだろうか。

簡単に言うと、超越論的(内在的超越的)形態・形象である。

この空間を求めたいのである。

プラトンのイデアは、一面として、この元形態・形象性をもっている。

先に、形態に関しては、対称性の破れで説明できると考えたが。

直観で言えば、メディア・ポイントがこの超越論的形態の空間であろう。

例えば、朝顔の元形態はここにあるということになる。

思うに、種子・種ないし卵、あるいは、遺伝子やゲノムという形態の起源は、メディア・ポイントMPではないだろうか。MPは、確かに、イデア界的即非様相が「縮限」される空間のように思えるのである。

元形態が、いわば、折り込まれる、折り畳まれるのがメディア・ポイントであり、その現象態が、種子、卵、遺伝子、等々ではないか。

i*(-i)⇒+1は、このことも表象しているのではないだろうか。iが元雄であり、-iが元雌であり、*がメディア・ポイントであり、受精・生殖等を意味するのではないか。

さて、問題は、元形態である。ここでは、限定して、簡単に考えたい。すなわち、たとえば、花の元形態、馬の元形態、木の元形態、等について解明したいのである。

これは、プラトンのイデアの一様相である。

ここで、上述した著書で引用されているヒルデガルド・フォン・ビンゲンの言葉を引用しよう。

《その形は、神の予定知が、時間が存在するより以前に非肉体性のうちに熟視されたものです。まことに、鏡のまえに置かれたすべての物がそこに自らを映すのとおなじく、神の創造物のすべては、聖なる神性のみ胸に、非時間性のなかにおいて姿を現わすものなのです。・・・光線が被造物の形を照らしだすとおなじく、神の純粋なる予定知は、被造物の形を肉体が包むそのまえに熟視されるのです。ということは、それぞれの物は神の御予定にしたがって、肉化に先立ち、予定知のただなかにおいて似像として燦然と輝いているのです。」pp. 96~97

「予定知」とは摂理providenceということであろう。

この箇所において、元形態の問題点は、神が熟視する元形態であるということである。当然、神と元形態はことなっているのであるが、神の内部に元形態があるのである。「被造物の形を肉体が包むそのまえ」という点について言うと、「肉体がつつむ」とは現象化である。だから、現象化あるいは物質化以前に、元形態があるということで、PS理論的には、元形態空間は、メディア・ポイントではないかと思われるのである。

しかしながら、問題は、メディア・ポイントから実数軸上への展開である現象化の構造である。

先に、+1ないし⇒+1がメディア界ではないか、また、-1ないし⇒-1が現象界ではないかと示唆した。

これらをどう整理するのかである。

端的に言えば、元形態空間は、メディア・ポイントなのか、+1なのか、それとも、メディア・ポイントから+1の過程、等にあるのかである。

思うに、実数軸は、これまで、現象界と考えたのだから、+1が元形態空間とするのは、明らかに、不合理である。

少し議論が外れるが、メディア・ポイントと+1について考察すると、不連続的差異論におけるメディア界に相当するのがメディア・ポイントであると言えよう。だから、先に、+1をメディア界と考えようとしたのは、誤りである。ただし、+1は、メディア・ポイントとの関係が、-1よりも強いと思われる。というか、メディア・ポイントは、エネルギー変換点である。ここで、イデア・エネルギー(元エネルギー)が、同一性エネルギーへと変換されるのである。ここに分極化があり、+1の同一性エネルギー(差異的同一性エネルギー)と-1の同一性エネルギー(連続的同一性エネルギー)へと分化(分相化)すると考えられるのである。

差異即非様相から同一性様相への変換点がメディア・ポイント(メディア界)であり、ここにおいて、既に、元形態が生成していると言えよう。

というか、実際は、精妙である。すなわち、メディア・ポイントの二相性に注意しないといけない。虚数軸上のメディア・ポイントと実数軸上のメディア・ポイントを理論的に区別する必要があると考えられる。

前者を、とりあえず、虚メディア・ポイント(虚MP)、後者を実メディア・ポイント(実MP)と呼び、区別したい(MP・0iとMP・0?)。

思うに、虚MPと実MPとの重なりの様相に重要な問題があると言えよう。また、それらと±1の関連の問題がある。

とまれ、虚MPは、イデア界にあり、思うに、これが、元形態空間ではないのか。ここに超越的形相(いわば、エイドスeidos)があるのではないのか。そう考えると、本件の問題が解明されることになるだろう。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの言葉にある「被造物の形」は、虚MPに存しているということになるだろうし、「神のみ胸」とは、イデア界で、虚数軸空間のことであると言えよう。確かに、虚数軸上に虚MPは存するのである。

すると、虚MPから実MPへの変換が《天地創造》ということになるだろう。「光あれ」である。(因みに、ハイドンのオラトリオ『天地創造』を聴いていたのである。偶然の一致であるが、思うに、天地創造のことが無意識にあったので、この曲を選択したのかもしれない。)

では、虚MPから実MPへの変換とは何か。それは、既述済であるが、同一性化である。現象化である。おそらく、単純に物質化とは言えないと思う。なぜなら、+1が精神ないし自己であり、-1が物質ないし自我であると考えられるからである。つまり、同一性化とは、+1の精神・自己化と-1の物質・自我化の両面・両義性があると考えられるのである。

いろいろ細かな問題があるが、それは置いて、ここでは、同一性化の力学構造を考えたい。虚MPから実MPへの変換力学構造を考えたいのである。

思うに、虚MPにおいて、元形態があるならば、それは、ここには、元1の形態があるということではないのか。つまり、元±1の形態ないし元形態があるということではないだろうか。

そうならば、元±1としての虚MPであろう。では、実MPとの関係はどうなのかである。思うに、実MPは、種子、卵、遺伝子等であろう。だから、元±1としての虚MPと見ていいだろう。(メルロ・ポンティは、身体的現象学において、虚MPと実MPを混合していると思うのである。)

問題は、やはり、虚MP(iMP)と実MP(rMP)との変換構造である。

この変換力学とは何か。

やはり、回転ではないだろうか。ベクトルiとベクトル-iとの1/4回転が発生して、±1が生起するのではないだろうか。

つまり、iMP⇒rMPの⇒とは1/4回転を意味するということになる。

つまり、イデア界的内在的エネルギーによって、iMP⇒rMPの変換が生起するということになる。この点は再考したい。

とまれ、以上から、元形態は、iMPにあることになった。ここが、イデア的形相(エイドス)の空間ということになった。(今、地震がある。14:06pm)

ついでに、プラトンのいうコーラのことを考えると、それは、いわば、形態発生空間であるから、端的に言えば、MPのことであり、より精緻に言えば、iMP⇒rMPのことであると言えよう。

さらに言えば、プラトンのいうイデアとは、以前述べたように、少なくとも二種類あるのである。それは、差異共振シナジーとしてのイデアである。それは、 i*(-i)としてのイデアである。もう一つは、ここで述べた元形態としてのイデア(エイドス)である。すなわち、iMPとしてのイデアである。

さらに展開して、アリストテレスの形相についていうと、それは、iMPを否定して、rMPだけを取りだしたものであろう。rMPは確かに、個物・個体内的元形態と考えられるのである。

PS理論は、フッサール現象学の意味において、超越論的理論であるから、内在的超越性としての「イデア」を現象における分有として見ている。それは、私の言葉では、特異性である。九鬼哲学の言葉では、偶然性である。ドゥンス・スコトゥスでは、存在の一義性である。スコラ哲学のhaecceityである。ライプニッツのモナドである。

内在的超越性において、内在性とはrMPであり、超越性がiMPであると言えよう。因みに、ポスト・モダンないしポスト構造主義の誤りは、両者を混同したことになる。典型がドゥルーズであり、フッサールの超越性を否定して、内在性に限定してしまったのである。また、デリダについて言うと、彼の誤りは、ドゥルーズの正反対で、超越性のみを肯定して内在性をロゴス中心主義として否定したことにあろうだろう。言い換えると、デリダ(初期デリダ)は、同一性をロゴス中心主義として否定して、超越性のみを肯定して、それを示唆・暗示するしかないという袋小路に陥ったのである。
 
即ち、デリダは、同一性には、連続的同一性と差異的同一性の二つがあることを知らずに、すべて同一性を否定したために、いわば、不可知論に陥ったのである。それで、あのようなエッセイ的な論述となったと言えよう。

ドゥルーズは、差異を内在性に見て、デリダは差異を超越性に見たのである。両者、正反対で、また、一面的であった。両者とも、フッサールを把捉できなかったと言えよう。やはり、繰り返すが、ハイデガーによるフッサール現象学破壊が要因だと思うのである。ハイデガーの理論は、超越性を否定した内在性の理論なのであるからである。

以上の解明を簡単にまとめると、PS理論において、メディア・ポイントMP空間に虚MP(iMP)から実MP(rMP)への変換力学構造を見て、元形態が虚MPにあり、それが、実MPへと変換されて、現象化が生起すると考えたのである。実MPは、具体的には、種子、卵、遺伝子等々である。言い換えると、プラトンのイデアがより明確化されたのである。差異共振シナジーとしてのイデアと元形態(エイドス)としてのイデアを分明できたのである。

ついでながら、PS理論は、西洋哲学における二元論的分裂、プラトン的観念論とアリストテレス的実在論を形態論的に統一したと言えよう。既に、この統一は、一般理論的には為されていたのではあるが。

最後に、敷延して言うと、素粒子や量子であるが、それは、ここでの形態論が適用できると思われるのである。即ち、元素粒子ないし元量子は、虚MP にあり、それが、観測においては、実MPに空間化されると思うのである。真空というは、実MPであろう。量子力学は、虚MPを見ていないと考えられるのである。唯物論なので、イデア界の虚MP空間に進展できないのである。それで、非局所性の問題等があると思うのである。有り体に言えば、元素粒子、元量子とは、虚MPにおける差異共振シナジー=イデアなのである。差異即非共振シナジー=イデアなのである。虚MPにおける元粒子・即非・元波動のイデアが元素粒子・元量子と考えられるのである。

これが、実MPにおいては、粒子と波動との相補性として理解されていると思うのである。つまり、物質論的に、「素粒子」と「量子」は、一方では、粒子であり、他方では、波動であるということである。

しかしながら、「素粒子」や「量子」の実体は、虚MPの差異即非イデアである。無時間的イデア界にある「素粒子」や「量子」、即ち、元素粒子、元量子を素粒子論や量子論は唯物論に囚われているので、認識理解できないと考えられるのである。

わかりやすく言うと、素粒子や量子は、虚MP⇒実MPの変換力学構造における、イデアの影像であると考えられる。
posted by ソフィオロジスト at 15:44| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月27日

メルロ=ポンティの身体論について:連続的身体と超越的身体

『メルロ=ポンティ 可逆性』を拾い読みしているが、ここで、乱暴だが、直観で、メルロ=ポンティの思想を考えてみたい。

 リヴァーシブルな「襞」や両義性という用語が、裏表紙に書かれている。これは、PS理論から見ると、実にわかりやすいことである。

 これは、i*(-i)の即非事相を、メディア・ポイントの連続面で捉えた観念用語であろう。

 メルロ=ポンティの身体とは、メディア・ポイントの連続的身体面であるように思える。ここでは、対立であり、且つ、一如(いちにょ)であるという事相が発生する。しかし、力点は、後者の一如・一体性にあるように思える。だから、メディア・ポイントの連続面の思考であると思えるのである。

 問題は、身体性である。なぜ、身体論なのか。それは、思うに、先に、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と言ったことと関係するように思えるのである。

 近代合理主義は、元知中心主義であり、個体において、元身体を排除しているのである。この排除は、単に、元身体の排除だけでなく、元知・即非・元身体という超越的差異共振性(霊性)を排除しているのである。そして、近代主義が飽和状態になると、否定された元身体が反動して発動するが、それと同時に、超越的差異共振性も発動するようになると考えられるのである。

 この観点から見ると、メルロ=ポンティの身体論は、身体的連続的同一性と超越的差異共振性との混淆であるように思えるのである。そう、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と同質であると思えるのである。

 ここには、身体的連続的同一性と超越的即非性との未分化的混淆があると考えられるのである。身体的連続性は感覚的であり、超越的即非性は思想・観念的である。思うに、前者が文学的レトリックとなり、後者が理論的考察となり、混淆して、あのような文体を生んでいるように思えるのである。

 だから、ポスト・モダン的なのである、メルロ=ポンティは。そう、作家に近い表現であると言えよう。

 私の言葉で言えば、内身体性や大地性なのである。ここに、超越性が内在(内蔵)するのである(参照:如来蔵)。思うに、メルロ=ポンティは、明確に、内身体性=大地性を捉えていない。外在的身体と未分化である。外在的身体は連続性を発生させるのである。内身体性と外在的身体性との未分化混淆様態において、メルロ=ポンティは、思考しているのである。

 内身体性は、不連続なのである。だから、思うに、メルロ=ポンティは、超越的即非性に達するまで、後一歩であったと思うのである。

 フッサールは大天才だから、初めから、超越性(イデア)に達していた。しかし、一般には、身体において、超越性は始動すると考えられるのである。そのとき、連続性と不連続性の混淆様態になるのである。この様態にメルロ=ポンティは留まったように思えるのである。

 思うに、身体とは何だろうか。大乗仏教、とりわけ、『大乗起信論』は鋭敏である。それは、阿頼耶識(あらやしき)と如来蔵(にょらいぞう)である。しかし、前者は連続態と不連続態の中間混淆態である。後者が、超越的身体であると思う。

 ついでながら、差異共振シナジー通貨制度としての銀本位制であるが、現代の通貨制度が完全に連続性であるのに対して、不連続性の通貨制度であると思うのである。なぜなら、銀という個物は、特異性であるからである。特異性は、不連続性であるからである。また、それは、超越的身体である。超越的身体の通貨制度としての銀本位制である。

参考:
モーリス・メルロー=ポンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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メルロー=ポンティ
メルロー=ポンティ

モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908年3月14日 - 1961年5月4日)は、フランスの哲学者。現象学を学び、その発展に尽くした。

彼の哲学は「両義性の哲学」「身体性の哲学」「知覚の優位性の哲学」と呼ばれ、従来対立するものと看做されてきた概念の<自己のの概念>と<対象の概念>を、知覚における認識の生成にまで掘り下げた指摘をしている。例えば、「枯れ木」があるとします。子供の頃(最初に見た時)は、「枯れ木」という存在を眼で見て、「枯れ木」は<名前のない現象として>知っていますが、「枯れ木」という言葉(記号)を知って初めて、恒常的に認識出来るのですね。そして、「枯れ木」という現象が「枯れ木」というものの(同一言語下で)共通した認識を得るのですね。

≪それは、「枯れ木」を含む場景を見て知っていたが、「枯れ木」という言葉を知らなかったので、「枯れ木」を知らなかった。≫という言葉に理解を求めたい。

また、精神と身体というデカルト以来の対立も、知覚の次元に掘り下げて指摘し、私の身体が<対象になるか><自己自身になるか>は、「どちらかであるとはいえない。つまり、両義的である。」とした。一つの対象認識に<精神の中のものであるか><対象の中のものであるか>という二極対立を超え、私の身体のリアリティは、<どちらともいえない>。しかし、それは無自覚な<曖昧性>のうちにあるのではなく、明確に表現された時に<両義性>を持つとした。そして、その状態が、<私という世界認識><根源的な世界認識>であるとした。そこには、既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察なのですね。それは、論理実証主義哲学、分析哲学、プラグマティズムなどの<言語が知られている次元>からの哲学に厳しい指摘をしたといえる。そこには多くの哲学の垣根を越える試みが見られ、また、異文化理解や芸術、看護学などに大きな影響を与えた。

また、そういう知覚の優位性からの、新しい存在論の試みが『見えるもの見えないもの』で見られる。しかし、彼の絶筆が『見えるもの見えないもの』であるので、志途中での彼の死は、惜しまれるものである。しかしながら、後世の哲学者による彼の思考の継承は、誤謬の修正から真理の起源まで幅広く影響を与えるものである。

[編集] 邦訳主要著作

・『知覚の現象学』 中島盛夫訳 (叢書ウニベルシタス) 法政大学出版局

・『意味と無意味』 永戸多喜雄訳 国文社

・『ヒューマニズムとテロル』改訂版 森本和夫訳 現代思潮社

・『知覚の本性初期論文集』 加賀野井秀一編訳 (叢書ウニベルシタス) 法政大学出版局

・『見えるものと見えざるもの』 クロード・ルフォール編/中島盛夫監訳(叢書ウニベルシタス)法政大学出版局

・『行動の構造』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1964)

・『眼と精神』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1966)

・『知覚の現象学1』 竹内芳郎・小木貞孝共訳 みすず書房 (1967)

・『知覚の現象学2』 竹内芳郎・木田元・宮本忠雄共訳 みすず書房 (1974)

・『シーニュ1』 竹内芳郎監訳 みすず書房 (1969)

・『シーニュ2』 竹内芳郎監訳 みすず書房 (1970)

・『弁証法の冒険』 滝浦静雄・木田元・田島節夫・市川浩共訳 みすず書房 (1972)

・『言語と自然』コレージュ・ド・フランス講義要録 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1979)

・『世界の散文』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1979)

・『見えるものと見えないもの』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1989)

・『メルローポンティの研究ノート』新しい存在論の輪郭 菊川忠夫編訳 御茶の水書房(1981)

[編集] 関連図書

・『現象学』 ジャン・フランソワ・リオタール著 高橋允昭訳 文庫クセジュ 白水社 (1965)

・『現代フランスの哲学』実存主義・現象学・構造主義 ピエール・トロティニョン著 田島節夫訳 文庫クセジュ 白水社 (1969) 

・『現象学』 木田元著 岩波新書 (1970)

・『現象学』 新田義弘著 岩波全書 (1978)

・『メルローポンティの哲学と現代社会』(上・下) L・スパーリング著 菊川忠夫訳 御茶の水書房 (1981-1982)

・『知の最前線』 現代フランスの哲学 ヴァンサン・デコンブ著 高橋允昭訳 TBSブリタニカ(1983)

・『メルローポンティの思想』 木田元著 岩波書店 (1984)

・『現象学の射程』 フッサールとメルローポンティー 水野和久著 勁草書房 (1992)

・『「自分」と「他人」をどうみるか』 滝浦静雄著 NHKブックス (1992)

・『メルローポンティ』 可逆性 鷲田清一著 講談社 (1997)

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3" より作成

カテゴリ: フランスの哲学者 | 現象学 | 身体論 | 1908年生 | 1961年没
posted by ソフィオロジスト at 03:07| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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